東京地方裁判所 昭和47年(刑わ)6856号 判決 1983年5月19日
本籍 《省略》
住居 《省略》
無職
爆発物取締罰則違反
殺人、殺人未遂、窃盗
増渕利行
昭和二〇年六月一三日生
<ほか八名>
右被告人らに対する各頭書被告事件について、当裁判所は、つぎのとおり判決する。
主文
被告人増渕利行を懲役一年に処する。
未決勾留日数中右刑期に満つるまでの日数を本刑に算入する。
この裁判が確定した日から二年間刑の執行を猶予する。
被告人増渕利行は、同被告人に対する昭和四八年二月一二日付、同年三月六日付、同年四月四日付及び同年五月五日付各起訴状記載の各公訴事実につきいずれも無罪。
被告人前林則子、同堀秀夫、同江口良子、同中村隆治、同松村弘一、同中村泰章、同村松ミネ子(旧姓金本)及び同榎下一雄は、いずれも無罪。
理由
凡例
第一略語、略称
この判決における略語ないし略称は、つぎのとおりである。
一、被告人の氏名
略称 被告人氏名
増渕 被告人増渕利行
前林 被告人前林則子
堀 被告人堀秀夫
江口 被告人江口良子
中村(隆) 被告人中村隆治
松村 被告人松村弘一
中村(泰) 被告人中村泰章
金本(旧姓) 被告人村松ミネ子
榎下 被告人榎下一雄
二、共犯者(検察官が共犯関係があると主張している者)の氏名
略称 氏名
佐古 佐古幸隆
村松 村松和行
前原 前原和夫
平野 平野博之
井上 井上清志
内藤 内藤貴夫
石井 石井ひろみ
国井 国井五郎
菊井 菊井良治
坂本 坂本勝治
松本 松本博
三、本件各事件の呼称
略称 説明箇所
ピース缶爆弾製造事件 第二部第一章一参照
第八、九機動隊事件、八・九機事件 第二部第一章二参照
アメリカ文化センター事件 第二部第一章三参照
ピース缶爆弾事件 同右
日石本館内郵便局事件、日石事件 第三部第一章一参照
土田邸事件 第三部第一章二参照
日石土田邸事件 同右
法大図書窃盗事件 第一部(被告人増渕の罪となるべき事実第一)参照
四、当裁判所(刑事第九部)の本件記録
(一) 公判調書関係綴(公判記録)
略称 説明
併合 第二六回公判における弁論併合決定(但し、被告人榎下については第四三回公判における弁論併合決定)による弁論の併合(被告人増渕及び同前林の事件にその余の被告人らの事件を併合したもの)をいう。
証人の供述、被告人の供述 第九三回公判(以後、判決関与裁判官が公判に列席)以後の公判期日における供述のほか、公判期日外の証人尋問調書中の供述記載、併合前の当部及び他の部の公判調書中の供述記載並びに他事件についての他の裁判所の公判調書中の供述記載を含む。
二〇〇回証人好永幾雄の供述(九七冊三六六八七丁) 第二〇〇回公判期日における証人好永幾雄の供述(公判記録第九七冊第三六六八七丁)
三五回中村(隆)の供述(一六冊五九〇九丁) 三五回公判調書中の被告人中村(隆)の供述記載(公判記録第一六冊第五九〇九丁)
前林二回証人本田哲郎の供述(前林一冊一四五丁) 併合前の被告人前林に対する第二回公判調書中の証人本田哲郎の供述記載(併合前の被告人前林の公判記録第一冊第一四五丁)
検証 検証調書
調書決定 凡例第二参照
(二) 書証関係綴(証拠記録)
略称 説明
証…冊…丁 証拠記録併第…冊第…丁
増渕証…冊… 被告人増渕関係の併合((一)参照)前の証拠記録第…冊第…丁
堀・江口・松村証…冊…丁 当時併合審理された被告人堀、同江口及び同松村関係の併合((一)参照)前の証拠記録第…冊第…丁
五、証拠書類及び証拠物
(一) 捜査機関作成の証拠書類関係(五十音順)
略語 説明
(員) 司法警察員作成
員面 司法警察員の面前における供述を録取した供述調書
(写) 写し
科検 警視庁科学検査所
回答 回答書
鑑嘱 鑑定嘱託書
鑑定 鑑定書
(検) 検察官作成
検証 検証調書
検面 検察官の面前における供述を録取した供述調書
現認 現認報告書
実見 実況見分調書
実査 実査結果報告書
写撮 写真撮影報告書
(巡) 司法巡査作成
(抄) 抄本
捜差 捜索差押調書
捜報 捜査報告書
(謄) 謄本
取報 (被疑者)取調状況報告書
任提 任意提出書
引当たり報 (被疑者)引き当たり状況報告書
メモ報 (被疑者)メモ作成状況報告書
領置 領置調書
(二) 当庁刑事第五部その他の部の公判調書関係
略称 説明
(刑事)五部…回証人(被告人)……の供述 当庁刑事第五部に係属中の被告人佐古幸隆ほか四名に対する爆発物取締罰則違反等被告事件の第…回公判調書中の証人(被告人)…の供述記載謄本(抄本、写しを含む。以下同じ。)
(刑事)八部…回公判調書 当庁刑事第八部に係属していた被告人内藤貴夫に対する爆発物取締罰則違反被告事件の第…回公判調書謄本
(刑事)二部…回公判調書 当庁刑事第二部に係属していた被告人石井ひろみに対する爆発物取締罰則違反被告事件の第…回公判調書謄本
(刑事)三部…回証人(被告人)…の供述 当庁刑事第三部に係属していた被告人坂本勝治に対する爆発物取締罰則違反幇助等被告事件の第…回公判調書中の証人(被告人)…の供述記載謄本
(刑事)六部…回証人…の供述 当庁刑事第六部に係属していた被告人松本博に対する爆発物取締罰則違反等被告事件第…回公判調書中の証人…の供述記載謄本
(謄)、(抄)、(写) (一)の説明参照
(三) 証拠書類の作成日付
略称 説明
48・4・15、4・15(年の表示略) 昭和四八年四月一五日作成
(四) 証拠物
当裁判所の押収にかかる証拠物中押収番号が昭和四八年押第一一七九号であるものについては、押収番号の表示を省略し、符号の数字のみを「証…号」として表示する。例、用務員当直日誌(証六五号)
六、場所(建物)、団体その他
略称 説明
第八、九機動隊、八・九機 前記「三、本件各事件の呼称」の説明箇所参照
アメリカ文化センター 同右
日石本館内郵便局、日石郵便局 同右
土田邸 同右
L研 法政大学レーニン研究会
東薬大 東京都新宿区柏木(現北新宿)所在の東京薬科大学
東薬大社研 東京薬科大学社会科学研究会
東薬大事件 昭和四四年一〇月二一日ごろ東京薬科大学で発生した毒物及び劇物取締法違反等被疑事件
四機 警視庁第四機動隊
河田町アジト 東京都新宿区河田町《番地省略》倉持賢一方の借間(四畳半と二畳)
若松町アジト 同区若松町《番地省略》アパート「宮里荘」の一室
住吉町アジト 同区住吉町《番地省略》アパート「風雅荘」の一室
早稲田アジト 同区西早稲田所在(早稲田大学正門付近)の某食堂二階の借間
ミナミ 同区若松町一二番地所在の喫茶店「ミナミ」
エイト 同区同町所在の喫茶店「エイト」
新宿ゲームセンター 同区角筈一丁目一番地(現新宿三丁目二九番)所在のパチンコ店「新宿ゲームセンター」
日大二高、二高 東京都杉並区天沼一丁目四五番三三号所在の学校法人日本第二学園(日本大学第二高等学校)
高橋荘 東京都世田谷区《番地省略》所在のアパート「高橋荘」
白山自動車 東京都杉並区《番地省略》所在の自動車修理業「白山自動車」
旭化成 旭化成工業株式会社
日石爆弾 日石事件に使用された爆弾をいう。
土田邸爆弾 土田邸事件に使用された爆弾をいう。
日石二高謀議 日大二高で日石事件の謀議をしたとの検察官主張事実をいう。
日石(リレー)搬送 日石爆弾を自動車で、途中運転者が交替して日石本館内郵便局付近まで運んだとの検察官主張事実をいう。
日石二高総括 日石事件後日大二高で同事件の「総括」をしたとの検察官主張事実をいう。
土田邸二高謀議 日大二高で土田邸事件の謀議をしたとの検察官主張事実をいう。
土田邸爆弾搬送 土田邸爆弾を自動車で南神保町郵便局付近まで運んだとの検察官主張事実をいう。
第二被告人ら及び共犯者らの供述調書等の採否決定並びに供述調書等の編綴記録
一、供述調書等の採否決定
(一) 略称の説明
略称 説明
…調書決定 検察官の、被告人(共犯者)…の供述調書(供述を記載した公判調書を含む。)及び供述書の取調請求に対する当裁判所の決定
(二) 各決定書の所在
増渕調書決定 一三三冊四六七四八丁
前林調書決定 同冊四六八〇六丁
堀調書決定 同冊四六八一二丁
江口調書決定 同冊四六八五三丁
佐古調書決定 一三六冊四七六九八丁
石井調書決定 同冊四七七六一丁
中村(隆)調書決定 一三九冊四八三五二丁
内藤調書決定 一四一冊四八九六〇丁
松村調書決定 一四二冊四九〇二八丁
中村(泰)調書決定 同冊四九〇七二丁
金本調書決定 同冊四九一一七丁
榎下調書決定 一四三冊四九三一二丁
松本調書決定 同冊四九三七一丁
村松調書決定 同冊四九四二九丁
前原調書決定 同冊四九四八三丁
坂本調書決定 一四四冊四九六四五丁
二、供述調書等の編綴記録
当裁判所は、検察官の取調請求のあった被告人ら及び共犯者らの供述調書(公判調書及び供述書を含むものとする。以下、本項において同じ。)を(検察官の取調請求を却下した供述調書又はその部分については、供述の経過を明らかにする趣旨で職権で)、すべて取り調べたが、証拠記録中のそれらの供述調書の所在は、つぎのとおりである(以下、本文においてそれらの供述調書を引用する場合には、原則として所在の表示を省略する)。
増渕の供述調書 証九二冊ないし証九四冊
前林の供述調書 証九五冊
堀の供述調書 証九五冊及び証九六冊
江口の供述調書 証九六冊
佐古の供述調書 証一〇〇冊ないし証一〇二冊
石井の供述調書 証一〇三冊及び証一〇四冊
中村(隆)の供述調書 証一〇五冊及び証一〇六冊
内藤の供述調書 証一〇七冊ないし証一〇九冊
松村の供述調書 証一一〇冊
中村(泰)の供述調書 証一一一冊及び証一一二冊
金本の供述調書 証一一二冊
榎下の供述調書 証一一八冊及び証一一九冊
松本の供述調書 証一二〇冊
村松の供述調書 証一二一冊及び証一二二冊
前原の供述調書 証一二三冊ないし証一二六冊
坂本の供述調書 証一二七冊及び証一二八冊
第三その他
(一) 捜査官の官職の表示は、当時のものである。
(二) 人の氏名については、冒頭の被告人の表示及び主文を除き、原則として当用漢字体を用いた。
(三) ある被告人の併合前の証拠で、併合後他の被告人について取り調べられたものも少なくない。その場合を含めて、証拠の取調関係及び編綴記録については、第二八七回公判調書添付の「証拠整理一覧表」(公判記録一五七冊)参照。
第一部被告人増渕に対する窃盗被告事件
一、罪となるべき事実
被告人増渕は、
第一 村松和行ほか数名と共謀のうえ、昭和四四年六月下旬ごろ、東京都千代田区富士見二丁目一七番一号所在学校法人法政大学の図書館において、同大学所有(当時の同大学総長中村哲管理)の図書レーニン全集など四三冊(価格合計三九、五八〇円相当)を窃取し、
第二 梅津民ほか数名と共謀のうえ、同年一二月九日ごろ、同都世田谷区桜上水一丁目一番東経堂団地内駐車場において、平田昇所有の普通乗用自動車(ブルーバードスリーS一、六〇〇CC)用ラジアルタイヤ四本(時価約四〇、〇〇〇円相当)を窃取したものである。
二、証拠の標目
右第一の事実は、
(一) 沓水勇の被害届四通(増渕証一五冊二七六七丁以下)
(二) 土居康弘の検面(謄)(同二七七六丁)
(三) (員)古上孝信の検証(同二七八七丁)
(四) (検)平保三の捜報(謄)(同二八三三丁)
(五) (員)多田俊夫の捜報(同二八三五丁)
(六) 柳原三枝子、楠本ヒデ子、増渕利一の各任提(謄)、これらの任意提出に対する(員)領置(謄)三通(同二八三八丁以下)
(七) (員)山内裕の写撮(同二八五〇丁)
(八) 佐古の検面三通(47・11・9、47・11・15及び47・11・17)(謄)(同二八五三丁以下)
(九) 村松の検面三通(47・11・6、47・11・16及び47・11・17)(謄)(同二八九四丁以下)
(一〇) 増渕の検面三通(47・11・13、47・11・17及び47・11・30((紙数九枚のもの)))
(証六〇冊一五〇六四丁以下)
(一一) 増渕一回増渕の供述(増渕一冊二四丁)によりこれを認め、
第二の事実は、
(一) 平田昇の被害届(増渕証一五冊二九三三丁)
(二) 平田美津子の員面(同二九三四丁)
(三) (員)千葉繁志の引当たり報(謄)(同二九四一丁)
(四) 鈴木真之の員面(同二九六四丁)
(五) 梅津民の検面(47・12・1。「昭和四四年一二月一日」とあるのは誤記と認める。)(謄)(同二九九二丁)
(六) 佐古の検面(47・11・30)(謄)(同三〇〇五丁)
(七) 村松の検面(47・12・1)(謄)(同三〇二三丁)
(八) 増渕の検面二通(47・11・30((本文紙数一五枚のもの))及び47・12・2)(証六〇冊一五一〇〇丁以下)
(九) 増渕一回増渕の供述(増渕一冊二四丁)によりこれを認める。
三、被告人増渕に対する確定裁判
被告人増渕は、昭和四七年一二月一八日東京地方裁判所において毒物及び劇物取締法違反罪により懲役一年、執行猶予三年に処せられ、同判決は、昭和四八年一月五日確定したものであって、この事実は、同被告人の前科調書(証一〇五冊二五七二八丁)により明らかである。
四、法令の適用
被告人増渕の判示第一及び第二の各所為は、いずれも刑法二三五条、六〇条に該当するところ、右裁判確定前に犯した罪であるから、同法四五条後段、五〇条によりさらに右両罪につき処断すべく、右両罪は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条三項により犯情の重い判示第二の罪の刑に加重をし、その刑期範囲内において同被告人を懲役一年に処し、同法二一条により未決勾留日数中刑期に満つるまでの日数を本刑に算入し、同法二五条一項によりこの裁判が確定した日から二年間刑の執行を猶予することにする。
第二部ピース缶爆弾事件
第一章公訴事実
一、ピース缶爆弾製造事件
被告人増渕、同堀及び同江口に対する各昭和四八年四月四日付起訴状記載の公訴事実第一、並びに同前林に対する同日付起訴状記載の公訴事実(昭和五三年九月五日付訴因変更請求書による変更((六四冊二四四四七丁・二四四四九丁・七五冊二八八八一丁参照))後のもの)は、いずれも、
「被告人は、ほか一〇数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月中旬ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方秋田修こと佐古幸隆の居室において、煙草ピース空缶にダイナマイト・パチンコ玉などを充填し、これに工業用雷管および導火線を結合し、もって、爆発物である手製爆弾一〇数個を製造したものである。」
というものである(「ピース缶爆弾製造事件」と略称する)。
なお、検察官は、冒頭陳述において、他の共犯者は村松、井上、前原、佐古、国井、菊井、平野、内藤、石井であると陳述し(増渕一冊三八丁、前林一冊二七丁、堀・江口一冊一二五丁参照)、また、右公訴事実中の「昭和四四年一〇月中旬ころ」の意味について「同年一〇月九日から一六日までの間」であると釈明している(六四冊二四五四九丁、七〇冊二六七八八丁、七五冊二八八八一丁、一五三冊五一九八九丁参照)。
二、第八、九機動隊事件
被告人増渕及び同堀に対する各昭和四八年三月六日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも、
「被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町九五番地警視庁第八機動隊・同第九機動隊正門前路上において、煙草ピース空缶にダイナマイトなどを充填し、これに工業用雷管および導火線を結合した手製爆弾一個を右導火線に点火して前記機動隊正門に向けて投てきし、もって、爆発物を使用したものである。」
というものである(「第八、九機動隊事件」又は「八・九機事件」と略称する)。
なお、検察官は、冒頭陳述において、他の共犯者は前原、井上、村松、内藤、堀、赤軍派の者二名(氏名不詳)であると陳述している(増渕一冊四一丁、堀・江口一冊一二七丁参照)。
三、アメリカ文化センター事件
被告人増渕に対する昭和四八年二月一二日付起訴状記載の公訴事実は、
「被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一一月一日午後一時ごろ、東京都千代田区永田町二丁目一四番二号山王グランドビル二階アメリカ大使館広報文化局アメリカ文化センター受付において、煙草ピース空缶にダイナマイトおよび塩素酸カリウムを充填し、これに電気雷管、タイマーおよび電池を結合した時限装置付手製爆弾を右受付カウンター上に装置し、もって、爆発物を使用したものである。」
というものである(以下、「アメリカ文化センター事件」と略称する。また、「ピース缶爆弾製造事件」及び「第八、九機動隊事件」と併せて「ピース缶爆弾事件」と略称する)。
なお、検察官は、冒頭陳述において、他の共犯者は村松、佐古、前原、氏名不詳者一名であると陳述している(増渕一冊四三丁参照)。
第二章事件の発生
第一節第八、九機動隊事件
一、事件の発生並びに犯人に対する目撃及び追跡状況
(員)蛭田昇伍44・11・4実見(増渕証一三冊二四五三丁)、(巡)河村周一44・10・25現認(謄)(証六一冊一五一二九丁)、河村周一48・2・18員面(謄)(証六一冊一五一三一丁)、河村周一48・2・21検面(謄)(増渕証一三冊二四六七丁)、五部三三回証人河村周一の供述(証一二冊五四七〇丁)、仁科正司48・2・20検面(謄)(増渕証一三冊二四七八丁。証一二冊五五六三丁)、(巡)仁科正司44・10・25遺留品発見報告書(増渕証一三冊二五一五丁。証一二冊五五七二丁)、五部三三回証人仁科正司の供述(証一二冊五五七七丁)、上原悦憲の48・2・20検面(謄)(増渕証一三冊二四八七丁。証一二冊五五二〇丁)、五部三三回証人上原悦憲の供述(証一二冊五五三二丁)、谷本勉48・2・16員面(謄)(証一二九冊三二三四六丁)、松浦英子48・2・21検面(謄)(増渕証一三冊二四九七丁)、松浦英子44・11・14員面(謄)(証六一冊一五一四七丁)、五部三三回証人松浦英子の供述(証一二冊五五四六丁)、高杉早苗44・10・24員面(謄)(証六一冊一五一四一丁)、高杉早苗48・2・27検面(謄)(増渕証一三冊二五〇六丁)、五部五三回証人高杉早苗の供述(証二二冊七六五七丁)、当裁判所54・9・18検証(八一冊三一二八四丁)を総合すれば、以下の事実が認められる。
1 昭和四四年一〇月二四日午後七時ごろ東京都新宿区若松町九五番地(現若松町一四番一号)所在の警視庁第八、九機動隊正門(以下、正門という。)において(正確には、外から正門に向かって、正門前右側において)第八機動隊員上原悦憲及び第九機動隊員仁科正司が立番勤務し、さらに第九機動隊員谷本勉(午後七時からの交替要員)も同所に居合わせたところ、正門前の幅員一三・五メートルの道路(「若松通り」と呼ばれる。当時都電が通っていた。)の向こう側の歩道上で、正門の中心点から見てやや右寄りに位置する寿司店「花寿司」の横角から一人の男がピース缶爆弾の導火線に点火したものを正門に向かって投擲し、正門前に落下させたが、導火線と工業用雷管の接続方法に欠陥があったため不発に終わった。
2 第八機動隊員河村周一(巡査)は、午後七時少し前ごろ立番勤務に従事するため隊舎内の警備休憩所から正門に向かい、正門手前約二メートルの地点に近づいた時、一人の犯人が左足を少し前に出し右手で爆弾を投擲したのを現認し、直ちに犯人を追跡すべく、若松通りを横断して「花寿司」横の路地に至ったが、すでに犯人の姿はなかった。同巡査は引き続き「花寿司」横路地を南方向へ約一〇〇メートル走ったが、その時出会った年令二〇歳ぐらいのワンピースの女性から「三人が急いで駈けて行きましたよ」と聞き、さらに走って探したが、犯人を発見するには至らなかった(前記(員)河村周一44・10・25現認(謄)参照。証人河村周一が五部三三回公判で爆弾投擲の際複数の犯人を現認した旨述べるところは措信できない)。
3 爆弾が投擲された際、偶然に第八、九機動隊舎正門付近を通りかかった松浦英子(大学生)は、一人の男が「花寿司」横の路地を南方向に逃走する後姿を目撃した。
4 高杉早苗は、前記「花寿司」横の路地を約二一・六メートル南方に進んで、余丁町方面へ向かって右折する最初の路地に面した自宅(同路地入口にある駐車場に隣接している。)前路上に立っていたが、午後七時少し過ぎごろ、一人の男(年令三〇歳ぐらい、身長一六〇センチぐらい、やせ型、髪はロングヘアーとまでは行かないが、ちょっと長目の、オールバックのような感じで、黒縁眼鏡をかけていた。)が高杉方前路地を余丁町方面に向かって大変な勢いで走って行くのを目撃し、その直後、同方向に機動隊員が走って行くのを目撃した。高杉早苗が目撃した男は犯人であると見られる。
5 本件爆弾を投擲した男のほかに、その傍らに居て投擲直前に周囲の様子を窺い、あるいは爆弾に点火するなど爆弾の投擲を直接補助した者がいたかどうかは必ずしも判然としない。しかし、具体的な役割は不明であるが(例えば、投擲者を直接補助する者の存在の可能性のほかに、投擲者の後方にいて見張りをする者などが存在した可能性も考慮に入れる必要がある)、複数の者が本件犯行(投擲)に関与した可能性が強い。すなわち、高杉早苗が犯人と見られる男一人を目撃しているほか、前記のとおり、河村巡査は犯人の追跡途中で通行人の女性から三人が急いで駈けて行った旨聞いているのであり、その状況に照らせば、右三人の者は本件犯行(投擲)に何らかの関与をした者であると見るのが自然である。ただ、右三人の者の中に投擲者又は投擲を直接補助した者が含まれるかどうか、あるいはこれらの者は投擲者の後方にいて投擲者のための見張りなどをしたにとどまるのかどうかは不明である。もっとも、右三人の者については河村巡査の伝聞であり、三人が駈けて行った状況についても具体的な説明が十分されているとは言い難い面もあるので、右三人の者が本件犯行に関係ない者である可能性を完全に否定し去ることまではできないし、投擲を現認した河村周一及び松浦英子はいずれも一人の男の姿を目撃したにとどまっており、松浦英子が目撃した男と高杉早苗が目撃した男とは、それぞれが述べる特徴にかなりの相違点があるので別人物である可能性はあるが、松浦英子が目撃した男は「花寿司」横の路地を南方向へ逃走し、かつ、高杉早苗方前路地へ逃走したとも見得ること(前記松浦英子の員面(員)添付図面参照)、松浦英子を目撃した男の特徴と高杉早苗が目撃した男の特徴には相違点もあるが共通点もあること、松浦英子は視力が劣っていたのに加え、二十数メートル離れた距離からすでに暗くなっていた午後七時過ぎに特別の照明もない路地を逃走する男の後姿を目撃したもので、同女が述べるその男の特徴の正確性については疑問もあり、高杉早苗が目撃した男の特徴との相違点を必ずしも強調できないことから考えると、松浦英子が目撃した男と高杉早苗が目撃した男とが同一人物である可能性もあるから、投擲に関与した犯人が一人である可能性も全く否定することはできない。結局本件投擲に関与した者は四名(又は一名)の可能性が高い。
二、爆弾の構造
(員)松村茂佐44・10・24鑑嘱(謄)(増渕証一三冊二五一七丁)、科検所長45・1・13鑑定結果回答(科検技術吏員徳永勲45・1・13鑑定添付。増渕一三冊二五一八丁)、五部一四回証人徳永勲の供述(証一三冊五七九七丁)、一六一回証人徳永勲の供述(七五冊二八八九八丁)、(員)村上健44・11・7鑑嘱(謄)二通(証一二冊五六四七丁、四四冊一二〇八〇丁)、五部一二回証人楠政幸の供述(証一二冊五六五〇丁)、科検所長44・12・5鑑定結果回答二通(日本化薬株式会社厚狭作業所試験研究課長横川六雄の鑑定及び同社折尾作業所工務課長福山仁作成の鑑定添付)各(謄)(増渕証一三冊二五二三丁及び二五三一丁)、五部一一回証人横川六雄の供述(証一二冊五五九七丁)、五部一二回証人福山仁の供述(証一三冊五七〇五丁)、(員)鈴木公一及び科検技術吏員徳永勲44・11・17捜報(旭化成火薬工場研究課長吉富宏彦及び旭化成雷管工場研究課長浜崎正文各作成の鑑定二通添付)(謄)(証四四冊一二〇八二丁)、五部九一回証人吉富宏彦の供述(証一三〇冊三二六九七丁)、(巡)大友宗弘44・10・25写撮(証四四冊一二〇七八丁)、ピース空缶一個(証九一号)、パチンコ玉八個(証九二号)及びガムテープ若干(証九三号)を総合すれば、右のように第八、九機動隊に向かって投擲された爆弾の構造は、缶入ピースの煙草の空缶(缶番号は9S171。帯状包装紙つき)にダイナマイト約一九七・〇グラム(旭化成製新桐ダイナマイトで、吸湿して若干水分含有量が増加している。)を充填し、右ダイナマイトのほぼ中央に、旭化成製六号工業用雷管に旭化成製第二種導火線(長さ約九・五センチメートル)を差し込み接着剤で接着し管口部付近に青色粘着テープの小片を巻きつけて固定したものを埋め込み、さらにその周囲のダイナマイト中にパチンコ玉八個(いずれも「SGC」の刻印のあるもの)を埋め込んだもので、ピースの缶の蓋(ピースの缶体と黄色様接着剤で接着してある。)のほぼ中心部にあけられた円形の穴(直径約八ミリメートル)から右導火線がピース缶の外に出ており(導火線のピース缶の外へ露出している部分の長さは約六・三センチメートルである)、ピース缶の蓋及び缶体の概ね全面に前記青色粘着テープ(幅約五・〇センチメートルの梱包用のガムテープ)を貼りつけたもの(なお、黄土色梱包用ガムテープの小片もいずれかの部分に貼りつけてあった。)であったことが認められる。
なお、右のように導火線に接着剤を塗布して雷管に差し込んだため、導火線に接着剤が浸透して硬化し、雷管を発火させることが不可能な状態になっていた。
また、朝比奈奎一57・10・2鑑定(証一三二冊三三〇八七丁)及び二八五回証人朝比奈奎一の供述(一五五冊五二六八五丁)によれば、右ピース缶の蓋にあけられた穴は、釘(あるいは折りたたみ式ナイフ)で小さな穴をあけ、ドライバーで拡大した後発生したバリ(めくれ)を金切りばさみ、ペンチ、ニッパーなどで切断するか、又はセンタポンチ、丸やすり、釘じめ、かすがい、くじり、シャーシリーマなどで穴をあけた後生じたバリを右と同様に切断するという方法によって、類似した形状のものを作ることができると認められる。ただ、他の方法の可能性も考えられ、右蓋の穴の形状からその穴のあけ方を特定することはできない。
また、科検所長44・11・18鑑定結果回答(科研技術吏員小林侑及び同藤田匡44・11・18鑑定添付)(謄)(増渕証一三冊二四四八丁)、高橋亀雄44・11・6任提(謄)(証一一冊五三五一丁)、(員)丹波守次44・11・6領置(謄)(証一一冊五三五二丁)、パチンコ玉一〇個(証九〇号)、(巡)仁科正司44・10・24領置(増渕証一三冊二五一六丁)、パチンコ玉八個(証九二号)、伊藤一男44・11・1任提(謄)(増渕証一四冊二六六七丁)、(員)伊東太郎44・11・1領置(謄)(増渕証一四冊二六六八丁)、パチンコ玉七個(証八二号)によれば、本件爆弾に充填されていたパチンコ玉八個は、いずれも「SGC」の刻印があり、これにより東京都新宿区角筈一丁目一番地(現新宿三丁目二九番)所在のパチンコ店「新宿ゲームセンター」のパチンコ玉であることが認められる。
第二節アメリカ文化センター事件
一、事件の発生
(員)小林由太郎44・11・5実見(謄)(増渕証一四冊二五九二丁)、(巡)小室欽二朗外二名44・11・4写撮(謄)(増渕証一四冊二六〇七丁)、伊藤一男48・1・17検面(謄)(増渕証一四冊二六四四丁)、矢部昭恭48・1・19検面(謄)(増渕証一四冊二六五九丁)によれば、昭和四四年一一月一日午後一時一〇分前後ごろから一五分ごろまでの間に、東京都千代田区永田町二丁目一四番二号所在の山王グランドビル二階米国大使館広報文化局アメリカ文化センター受付窓口のカウンター上に、何びとかによってダンボール箱入り時限式ピース缶爆弾が装置された(仕掛けられた)が、同センター清掃係員伊藤一男がこれを発見し、同ビルの機械電気関係担当係員矢部昭恭が同爆弾の電気回路を切断したこと(同爆弾は結局不発に終わったこと)が認められる。
二、爆弾の構造
前記(員)小林由太郎44・11・5実見(謄)、(巡)小室欽二朗外写撮(謄)二通(増渕証一四冊二六〇七丁、二六二六丁)(巡)的場順一外写撮(謄)(増渕証一四冊二六三三丁)、(員)鈴木荘吉44・11・2鑑嘱(謄)(増渕証一四冊二六六九丁)、科検所長48・1・8鑑定結果回答(科検主事徳永勲及び同飯田裕康48・1・8鑑定添付)(謄)(増渕証一四冊二六七一丁)、(員)横内基康48・1・5及び48・1・23各鑑嘱(謄)(証一三冊五九〇〇丁及び五九〇一丁)、科検所長48・1・8鑑定結果回答(科検主事飯田裕康48・1・8鑑定添付)(謄)(証五〇冊一三二三三丁)及び科検主事飯田裕康57・9・17鑑定(証一三二冊三三〇五五丁)、前記五部一四回証人徳永勲の供述、前記一六一回証人徳永勲の供述、五部一三回証人飯田裕康の供述(証一四冊五九三五丁)、一六二回及び二八一回証人飯田裕康の各供述(七六冊二九一八五丁及び一五三冊五二〇三四丁)、中村隆義52・6・10鑑定(謄)(証二一冊七五三三丁)前記(員)村上健44・11・7鑑嘱(謄)二通、前記五部一二回証人楠政幸の供述、前記科検所長44・12・5鑑定結果回答二通(謄)、前記五部一一回証人横川六雄の供述及び同一二回証人福山仁の供述、前記(員)鈴木公一及び徳永勲44・11・17捜報(謄)、科検所長45・7・20及び48・1・24各鑑定結果回答(科検技術吏員三宅勝二外一名45・7・20及び48・1・24各鑑定添付)(謄)(増渕証一四冊二六九三丁及び二七一五丁)、五部五九回及び六〇回証人三宅勝二の供述(証二三冊七八六九丁)、(検)57・6・4「鑑定書添付の写真の複製について」と題する書面(証一二九冊三二三七三丁)、高橋文男53・7・27鑑定(写)(証七一冊一七八二五丁)、五部七八回証人高橋文男の供述(証七一冊一七七三一丁)、二〇八回証人高橋文男の供述(一〇三冊三八五三七丁)、弁護士笠井治53・9・22写撮(証七一冊一七八四七丁)、拡大カラー写真二枚(証七一の二冊一七八五〇丁及び一七八五一丁)、財団法人日本規格協会作成の「日本工業規格、段ボール箱及びファイバー箱の形式」と題する書面(証一二九冊三二五二三丁)、前記科検所長作成44・11・18鑑定結果回答(科検技術吏員小林侑及び同藤田匡44・11・18鑑定添付)(謄)、コード付タイマー一個(証七八号)、乾電池ソニー(単二)二本(証七九号)、ピース空缶一個(証八〇号)、ピース缶の蓋一個(証八一号)、パチンコ玉七個(証八二号)、白色粉末若干(証八三号)、電気雷管の脚線若干(証八四号)、接着剤様のもの若干(証八五号)、テープ片若干(証八六号)、付着物若干(証八七号)、包装紙(証八八号)、段ボール箱(証八九号)を総合すると、右のようにアメリカ文化センターに仕掛けられた爆弾について、以下の事実が認められる。
Ⅰ 爆体
① 缶入ピースの煙草の空缶にダイナマイト約一九五グラム(旭化成製新桐ダイナマイト)を充填し、ダイナマイトの中心に、管体の周囲にニトロセルローズ系の接着剤を塗布した電気雷管一本(旭化成製遅発式電気雷管)を、その周囲のダイナマイト中にパチンコ玉七個(いずれも「SGC」の刻印のあるもの)を、それぞれ埋め込み、右ダイナマイトの上に、塩素酸カリウムと糖の混合物を入れたもので、ピース缶の蓋(缶体と黄色様接着剤で接着されている。)の中心部にあけられた円形の穴(直径約八ミリメートル)から電気雷管の赤色及び赤白色の脚線がピース缶の外に出ており、脚線の電気雷管の管口部付近からピース缶の蓋の穴に接触するあたりまでの部分にガムテープ(黄土色。黄土色を以下茶色ともいう)が巻きつけられ、かつ、右穴の周囲にはポリ酢酸ビニールを主成分とし、これに炭酸カルシウムと少量の酸化チタンなどを充填剤として加えた灰白色様の接着剤が塗布されており(その一部が穴の内側に流れ込んでいる。)、ピース缶の蓋全体を覆うようにしてガムテープ(黄土色)が貼りつけられている。
なお、右ピース缶の蓋にあけられた穴は、その形状から見て、前記第八、九機動隊事件の爆弾のピース缶の穴と同様の方法によってあけられたものと思われる。
② 右爆体は、以下の理由から、前認定の第八、九機動隊事件と同種の(手投げ式)爆弾の導火線付工業用雷管を電気雷管と交換することによって改造したものと推定される。
第八、九機動隊事件の爆弾と比較すると、雷管の種類及び塩素酸カリウムと糖の混合物の添加の有無を除き基本構造は同一であり、ダイナマイトの種類やパチンコ玉の刻印も同一である。
いずれの爆弾もピース缶の蓋と缶体とが接着してあったものであるが、両爆弾のピース缶の蓋の内側面には黄色様接着剤の硬化したものが付着しており、いずれの接着剤も同種類のものと認められる。
第八、九機動隊事件の爆弾の缶体には帯状包装紙が巻かれたままになっており、缶の蓋の内側面にはこの包装紙の破片が付着しているところ、アメリカ文化センター事件の爆弾の缶体には帯状包装紙が巻かれていないが、缶の蓋の内側面には第八、九機動隊事件と同様包装紙の破片が付着している。このことは、アメリカ文化センター事件の爆弾もピース缶の缶体に蓋を接着剤で接着した際には包装紙が巻かれていたため、缶の蓋の内側面に接触している包装紙の上端が蓋の内側面に塗布された接着剤に付着したものであること、第八、九機動隊事件の爆弾と同様、包装紙が巻かれたままの状態で缶体及び缶の蓋にガムテープが貼りつけられたが、その後改造のためこのガムテープを剥ぎ取る際に包装紙もともに剥ぎ取られたものであることを推定させるものである(缶の蓋を接着した後包装紙のみを取り去ったということも全く考えられないではないが、第八、九機動隊事件の爆弾以外に、基本的構造において全く同一である後記中野坂上で押収されたピース缶爆弾三個、福ちゃん荘で押収されたピース缶爆弾二個及び松戸で押収されたピース缶爆弾二個はいずれも包装紙が巻かれたままであること((包装紙が巻かれていないと認めることのできるものは発見されていない))、 並びに特に包装紙のみを取り去る必要はないことから考えて、その可能性は薄いものと認められる)。
本件電気雷管の管体にはニトロセルローズ系の接着剤が塗布されているが、これは工業用雷管を抜き取った跡に電気雷管を差し込んだ際固定を確実にしようとしたものであるとの可能性が高い。
アメリカ文化センター事件の爆弾の缶の蓋にあけられた穴も、第八、九機動隊事件の爆弾と同様、直径約八ミリメートルの大きさであり、かつ、この穴は電気雷管の脚線を通すためには大き過ぎる(缶の蓋の穴の局囲に塗布されたポリ酢酸ビニール系の接着剤は電気雷管の脚線((周囲にガムテープを巻きつけたもの))を穴の部分で固定するためのものであると考えられる。)
③ 改造の手順については、アメリカ文化センター事件の爆弾の発見押収当時の状況について証拠が十分ではなく必ずしも判然としない(前記ピース缶の缶体と蓋の接着状況からすると、缶の蓋をこじあけることなく、接着したままで蓋の穴から工業用雷管を抜き取り、その跡に電気雷管を差し込んだ可能性もあるが、右接着状況がゆるいものであったことも考えられ、その場合蓋をあけて改造した可能性もある)。
Ⅱ 時限装置
時限装置は、松下電工株式会社製ET―六三型ぜんまい式(一二時間型一二五V一二A)タイマーの外枠を外したものに工作を施したものであり、電気雷管を発火させる電源となる乾電池二個(ソニー製単二)が取り付けられている。
時限装置製作の手順は、以下のとおりであると推定される。
① タイマーを分解する。
② タイマーの蓋から可動端子をはずす(プラスチックの一部を破壊する)。
③ ピース缶の蓋にタイマーの本体を載せてはんだ付け(三箇所)により固定する。
④ 雷管のコードを赤・白とも約二五センチ切り、固定端子を割ばしと針金で作りこれに白のコードを結線し、はんだ付けする。
⑤ 可動端子の方に赤のコードをはんだ付けする。
⑥ 両端子の固定作業をする。
可動接点の固定のための割ばし等で作った押さえや端子がタイマー本体の方に移動しないためのガムテープ等による押さえを作る。
まず固定端子をボンドで接着し、ガムテープで動かなくする。
それに合わせて可動接点の端子の位置を決め、切込みを支持部分に入れて酢酸ビニール系接着剤(セメダインコンクリート様のもの)を厚く塗って固定し、ガムテープ、接点の間隔等を注意して見ながら位置を決めて固定する。
右固定にはガムテープを缶蓋の下にも貼りつけるようにして固定する。
⑦ 乾電池二個を互い違いに並べガムテープで巻き一方の+と-極をリード線ではんだ付けして結合(直列)する。
⑧ その後缶蓋に乾電池を接着し、さらにタイマー本体と一緒にガムテープを巻く。
⑨ その上で固定接点のリード線を乾電池の+極にはんだ付けする。
Ⅲ 時限式爆弾の組立、箱詰作業
以上のような爆体の電気雷管の脚線と時限装置とがはんだ付けによって接続され組み立てられた時限式爆弾が、既製のダンボール箱(日本工業規格B―1形((二片第四面継ぎ合せ差込式))で長さ約一六・五センチメートル、幅約一二センチメートル、深さ約一二センチメートルのもの)に納められているが、その組立及び箱詰作業の手順は、以下のとおりであると推定される。
① 箱を入手する。
② 時限装置、爆弾本体をそれぞれ中に入れて固定する位置を決める。
③ 紙テープを底の稜の部分の内側等に貼る。
④ 布製ガムテープで補強し、あるいは内側に最終結線のリード線の端を別々に埋めて固定するためのガムテープの貼付をする。
⑤ このあたりで、接点の具合がよいか通電するかどうかを最終的に確認するテストを行い(ランプを使用し点滅により確認する)、タイマーが確実に作動することを確かめた後、雷管の赤色コードの端を電池の-極にはんだ付けする。白色コードの端は絶縁する。また可動端子のリード線の端も同様にする。
⑥ その後に接着剤(酢酸ビニール系)を箱の内側に塗布し、本体と時限装置をそれぞれ固定する。
⑦ その後に割りばしを十字様にしてこれらを押さえるように固定する。その際接着剤を塗って固める。
⑧ 割りばしの固定のためにガムテープを貼る。
⑨ 最終結線部分を側面のガムテープに別々に固定し、両者が接触しないようにする。
⑩ 蓋をして保管する。
なお、検察官は、「本件ダンボール箱の構造は、既存(工場生産)のダンボール箱を利用し、その一側面を手作業により切り取り、他のダンボール箱を利用して同じ大きさのダンボール紙を作成し、切り取った場所にあて、テープで固定して箱としたものである」旨主張する(検察官の昭和五六年七月二日付意見書・一二四冊四四三七三丁、論告要旨一六一頁・一五六冊二五八七六丁参照)。
しかし、本件ダンボール箱は本件犯行直後ごろ警察官がその深さの方向の四側稜を切り開いたものであることが認められるところ、前掲各証拠中、押収してある本件ダンボール箱及び本件犯行直後ごろにおいて撮影された本件ダンボール箱の各写真により、四側稜のダンボール紙の切面及び輪郭線並びに補強のため貼りつけられたものと推認される紙テープ及びガムテープの輪郭線の状況を子細に検討すれば、検察官が後に継ぎ合わせたと主張する側面とこれに隣接する二側面との間の各ダンボールの切断面及び輪郭線は、いずれも相互に補完し合う形で概ね合致すると認められるばかりでなく、さらにその一つの側稜の上に貼り付けられた紙テープの切断部分の輪郭線の形状と二面のダンボールの切断部分のそれとがほとんど完全に対応し、平行している状況が認められるのであり、以上の事実は、右三つの面が連続したものであり、検察官の主張するように、後に一面を切り取ったうえ、これに代わるダンボール紙を継ぎ合わせたものでないことを裏付けるのに足りるものであって、すなわち検察官が主張するような事実はなかったものと認められる。
Ⅳ 爆弾装置前の作業
以上のようなダンボール箱入時限式爆弾を装置する(仕掛ける)前に、以下のような作業が行われたものと推定される。
① 時限装置のレバーを回して時間をセットする。
② それとともに、最終結線をし、その部分にガムテープを貼る。
③ 蓋をする。
④ 紙袋を切断し、それで素早く包装し、ガムテープを貼る。
第三節公訴事実外のピース缶爆弾事件
第八、九機動隊事件及びアメリカ文化センター事件と爆弾の基本的構造において共通の特徴を示す他の爆弾事件として、京都地方公安調査局事件、中野坂上の事件、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件、中央大学会館事件、松戸市岡崎アパートの事件があるが、これらの事件及びその際押収されたピース缶爆弾の概要は、つぎのとおりである。
一、京都地方公安調査局事件
(員)棚橋敏44・10・18領置(謄)(証六一冊一五一八二丁)、京都府警察本部刑事部鑑識課長44・11・26「鑑定結果について」と題する書面(技術吏員山本恵三44・11・25鑑定添付)(謄)(証六一冊一五一八三丁)京都府警察科学捜査研究所技術吏員岩田貞二52・3・3鑑定(謄)(証六一冊一五一五一丁)、生島精二の44・10・23員面(写)(証一一五冊二八六七六丁)、 (員)棚橋敏44・10・18写撮(写)(証一一五冊二八六九七丁)、(員)松本護44・11・5実見(写)(証一一五冊二八七一七丁)、京都地方裁判所第一刑事部被告人村橋稔に対する第三回公判調書中の証人松本護の供述記載(写)(証一一六冊二八八二三丁)、杉本嘉男の員面(謄)九通(証六一冊一五一八九丁以下)、杉本嘉男の検面(謄)三通(証六一冊一五三〇八丁以下、証六二冊一五三五四丁以下)、五部証人杉本嘉男尋問調書(謄)(証六二冊一五三六八丁)、村橋稔の員面(謄)七通(証六二冊一五四五二丁以下)、村橋稔の検面(謄)三通(証六二冊一五五一一丁以下)、五部証人村橋稔尋問調書(謄)(証六二冊一五五四一丁)、三潴末雄の員面(謄)六通(証六一冊一五五六〇丁)、三潴末雄の検面(謄)二通(証六一冊一五六〇二丁)、二七三回証人三潴末雄の供述(一五一冊五一五五九丁)を総合すれば、以下の事実が認められる。
1 昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ごろ、当時いわゆるアナーキストを志向していた大村寿雄及び村橋稔が、共謀のうえ、村橋において、京都市東山区馬町通大和大路東入下新シ町三三九番地所在の京都地方公安調査局の庁舎に向けピース缶爆弾を投擲し爆発させた。
2 右爆弾はピースの空缶(帯状包装紙が巻かれたままであった可能性が強い。)に爆薬を詰めたもので導火線に点火して投擲する方式の手投弾であること、爆発現場付近で前記第八、九機動隊事件及びアメリカ文化センター事件のピース缶爆弾に充填されていたものと同一種類のパチンコ玉(「SGC」の刻印のあるもの)一個が発見押収されており、右爆弾に充填されていたものと認められること、爆薬として塩素酸塩及びダイナマイトが使用された可能性があるとの鑑定結果が得られていることに照らせば、右爆弾は前記第八、九機動隊事件のピース缶爆弾と同一構造のものに塩素酸塩(例えば塩素酸カリウム)と糖の混合物が添加されたもの(この点は前記アメリカ文化センター事件の爆弾と共通する。)であると一応考えられるが、右混合物が必ず添加されていたとまで断ずることはできない。なお、導火線と工業用雷管、ピース缶の缶体と蓋が接着剤で接着されていたかどうか、爆弾に粘着テープが貼りつけられていたかどうか(村橋稔の供述によれば、ピース缶の蓋から外に出ている導火線の根元に薄茶色のテープが貼りつけられていたという。)の点は、必ずしも判然としない。
3 右爆弾は、同月一四日ごろから一六日までの間のある日の夕方、(午後五時か六時ごろ)杉本嘉男が京都市内の同人宅において大村から預かったピース缶爆弾数個(個数は明確でないが二個の可能性が強い。)のうちの一個である。
4 同月一七日夕刻大村が杉本宅で右爆弾の返却を受けた際杉本に爆弾一個を渡して引き続き保管する旨依頼したが、同年一一月中旬ごろ、牧田吉明の指示で、同人の友人である三潴末雄と杉本が、滋賀県大津市所在のホテル「紅葉」の一室で杉本の保管していた右爆弾一個を解体し、琵琶湖に投棄した。この爆弾の構造は、ピースの空缶(帯状包装紙が付いたままである可能性が強い。)にダイナマイト、パチンコ玉約五個ないし一〇個を充填し、導火線を接続した工業用雷管をダイナマイトに埋め込み、ピース缶の蓋にあけられた穴から導火線を外部に露出させたものであり(ダイナマイトの外に他の薬品、たとえば塩素酸カリウムと糖の混合物は添加されていない)、前記第八、九機動隊事件の爆弾と同一の構造であると認められる。しかし、導火線と工業用雷管とが接着剤により接着されていたかどうかは不明であり、また、ピース缶の缶体と蓋が接着されていたかどうかの点も判然としないが、杉本及び三潴の供述によれば接着されていなかったか、接着されていても十分でなかった可能性が強い。また、この爆弾に粘着テープが貼りつけられていたことは認められるが、杉本の供述によれば缶体と蓋とを固着させるために幅約一・五センチメートルのビニールテープのようなものが貼りつけてあったというのであり、三潴が述べるところによれば全体にガムテープが巻いてあったように思うというのであって、いずれが正しいのかは判然としない。
5 杉本は、当初大村からピース缶爆弾数個を預かった際、うち一個を見せられたが、それには導火線が装着されてなかった旨供述するところ、杉本の供述するとおりであった可能性を全く否定することはできないが、杉本が当初大村から預かった同爆弾は二個であった可能性が強いこと、村橋が大村から渡されたピース缶爆弾にはすでに導火線が装着してあったこと、大村が杉本からピース缶爆弾を受け取り村橋に渡すまでの間に導火線の装着作業がされた状況は全然窺われないこと、杉本が大村から引き続き保管を依頼され、後に解体投棄したピース缶爆弾には導火線が装着されていたこと、及び杉本も導火線装着の有無の点についてはピース缶爆弾を解体した時の光景と混同している可能性がある旨述べていることに照らせば、むしろ杉本は右解体の際の光景の記憶と混同している可能性が強い。
6 以上に述べた各ピース缶爆弾は、大村が牧田から入手して来たものである可能性が強い。
二、中野坂上の事件
(員)古賀靖朝44・10・24領置(謄)(証一一三冊二八三六一丁)、(員)野島潮44・10・24鑑嘱(謄)(証一一三冊二八三六四丁)、科検所長44・12・13鑑定結果回答(謄)(科検技術吏員徳永勲44・12・13鑑定添付)(証六〇冊一五〇〇二丁)、五部九〇回証人徳永勲の供述(証五八冊一四五四七丁)、一七四回証人徳永勲の供述(八三冊三一七六一丁)、前記(員)村上健44・11・7鑑嘱(謄)二通、前記五部一二回証人楠正幸の供述、前記科検所長44・12・5鑑定結果回答二通(謄)、前記五部一一回及び一二回証人横川六雄及び同福山仁の各供述、前記(員)鈴木公一及び科検技術吏員徳永勲44・11・17捜報(謄)、前記五部九一回証人吉富宏彦の供述、木村一夫44・11・16検面(謄)(証一一四冊二八四八八丁)、大桑隆45・3・2検面(謄)(証一一四冊二八五八四丁)、大川保夫44・12・26検面(謄)(証四五冊一二一四五丁)、五部八六回証人木村一夫の供述(証六三冊一五六三七丁)、五部九〇回証人大桑隆の供述(証六三冊一五六九九丁)を総合すれば、以下の事実が認められる。
1 昭和四四年一〇月二一日午後一〇時三〇分過ぎごろ、東京都新宿区柏木(現北新宿)所在の東京薬科大学付近において赤軍派の者十数名が火炎びん、ピース缶爆弾等を準備して小型トラックに乗り込み、警視庁新宿警察署(当時淀橋警察署)を襲撃する目的で同警察署に向かって出発し、同警察署前に至り、走行しながら同警察署に火災びんを投擲し、さらに走行して同区中野坂上交差点付近に至り、同所に前記トラックを停車させ、同所付近に停車中のパトカーに火災びん等を投擲した後、同所に前記トラックを放置して逃走したが、その際同所付近にピース缶爆弾合計三個を遺留した。
2 右ピース缶爆弾三個はいずれも前記第八、九機動隊事件のピース缶爆弾と基本構造が同一であり、また、ダイナマイト、工業用雷管、導火線の種類及び製造会社、パチンコ玉の刻印も同一である。その詳細は、つぎのとおりである。
(1) ピース缶番号9S171、カーキ色粘着テープ幅(約五センチメートルの梱包用のガムテープ)が貼りつけられているもの(帯状包装紙が巻かれたままのものである。)
ダイナマイトは約一九五・〇グラム、導火線の長さは約一二・五センチメートル(ピース缶の外に露出した部分の長さは約九・五センチメートル、工業用雷管に接続された状態での雷管の長さを含む全長は約一四・五センチメートル)、パチンコ玉(「SGC」の刻印がある。)の数は八個で、導火線と工業用雷管は接着剤で接着し、管口部付近にカーキ色粘着テープの小片を巻きつけて固定してあり、ピース缶の蓋と缶体は接着してある。
(2) ピース缶番号9T211、青色粘着テープ(幅約五センチメートルの梱包用のガムテープ)が貼りつけられているもの(帯状包装紙が巻かれたままのものである。)
ダイナマイトは約一九三・二グラム、導火線の長さは約一三センチメートル(ピース缶の外に露出した部分の長さは約八・五センチメートル、工業用雷管に接続された状態での雷管の長さを含む全長は約一五・〇センチメートル)、パチンコ玉(「SGC」の刻印がある。)の数は八個で、導火線と工業用雷管は接着剤で接着し、管口部付近に青色粘着テープの小片を巻きつけて固定してあり、ピース缶の蓋と缶体は接着してある。
(3) ピース缶番号9S171、青色粘着テープ(幅約五センチメートルの梱包用のガムテープ)が貼りつけられているもの(帯状包装紙が巻かれたままのものである。)
ダイナマイトは約一九三・六グラム、導火線の長さは約一二・五センチメートル(ピース缶の外に露出した部分の長さは約七・五センチメートル、工業用雷管に接続された状態での雷管の長さを含む全長は約一四・五センチメートル)、パチンコ玉(「SGC」の刻印がある。)の数は八個で、導火線と工業用雷管は接着剤で接着し、管口部付近に青色粘着テープの小片を巻きつけて固定してあり、ピース缶の蓋と缶体は接着してある。
(4) 以上三個の爆弾は、右に述べたように、いずれも導火線に接着剤を塗布して雷管に差し込んだため導火線に接着剤が浸透して硬化し、雷管を発火させることが不可能な状態になっていた。
(5) 以上三個のピース缶爆弾のピース缶の蓋にあけられた穴については、その形状は比較的真円に近い状態であることの外は証拠が十分でなく判然とせず、従って右各穴をあける方法についても不明である。
3 昭和四四年一〇月二一日午前中に東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の日本デザインスクール寮内の中條某居室に赤軍派の者数名が集まり、同派幹部松平直彦から当日の行動計画について指示を受けたが、その際集まった同派の若宮正則及び石田某がピース缶爆弾在中の菓子箱二個ぐらいを所持しており、これらのピース缶爆弾のうち少なくとも一箱が、当日前記小型トラックが前記東京薬科大学付近から出発する際に同トラックに持ち込まれた。
右ピース缶爆弾の個数は必ずしも判然としないが、木村一夫が述べるところによると一箱に約五個ぐらい入っていたものと思うというのである。
なお、大桑隆は同日トラックの荷台の上でピース缶爆弾の蓋をあけて内部を見たように思う旨述べており、必ずしも明確ではないが、ピース缶の蓋と缶体との接着が十分でなかったものが存在した可能性を窺わせるものである。
なお、五部四九回被告人佐古の供述(証二六冊八四九一丁)、六三回証人佐古の供述(二六冊九二五八丁)、二七六回証人佐古の供述(一五二冊五一六一二丁)、五部八五回被告人村松の供述(証四八冊一二九五一丁)、一六六回証人村松の供述(七九冊三〇四〇〇丁)、二六九回証人平野の供述(一四九冊五〇七九〇丁)、二七〇回証人井上の供述(一四九冊五〇八八四丁・五〇八九五丁)、一七八回証人菊井の供述(八五冊三二三七八丁)によれば、前記警視庁新宿署襲撃は赤軍派の主導のもとに実行されたものであるが(前記木村一夫、大桑隆、大川保夫の各検面(謄)参照)、前記小型トラックは村松、佐古、菊井らが昭和四四年一〇月二〇日深夜から翌二一日未明にかけて東京都日野市付近で盗んで来たものであること、同日前記東京薬科大学付近から出発する際には増渕の説得により佐古が右トラックを運転し、井上が右トラックの荷台に乗り込んだこと、東京薬科大学付近には村松、平野、堀らも居合わせたことが認められる。
三、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件
(員)玉井修治44・11・5捜差(謄)(証一一三冊二八三六六丁)、(員)長田春義44・11・7鑑嘱(謄)(証一一三冊二八三七九丁)、科学警察研究所長44・12・16「鑑定書の送付について」と題する書面(警察庁技官久保田光雅44・12・12鑑定添付)(謄)(証六〇冊一五〇二二丁)、五部九〇回及び九一回証人久保田光雅の供述(証五八冊一四五八六丁)、一七四回証人久保田光雅の供述(八三冊三一七九七丁)、鑑定メモ一綴(証九四号)、前記(員)鈴木公一及び科検技術吏員徳永勲44・11・17捜報、前記五部九一回証人吉富宏彦の供述、木村一夫44・11・17検面(謄)(証一一四冊二八五四一丁)、前記五部八六回証人木村一夫の供述、酒井隆樹44・11・26検面(謄)(証一一四冊二八六一七丁)、荒木久義44・11・14検面(謄)(証五一冊一三二七八丁)を総合すれば、以下の事実が認められる。
1 昭和四四年一一月五日山梨県塩山市大菩薩峠唐松尾分岐点所在の「福ちゃん荘」において、赤軍派の者四九名が兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕された際、ピース缶爆弾三個が押収された。
2 右ピース缶爆弾三個は、その基本構造、右爆弾のうちの一個に充填されていたダイナマイトの種類及び製造会社(他の二個に充填されていたダイナマイトについては組成について分析がされていないが、外観観察により同種のものと推定されている)、導火線の構成及び種類、六号工業用雷管が使用されている点、充填されているパチンコ玉の刻印、雷管と導火線及びピース缶の缶体と蓋がそれぞれ接着剤により接着されている点、雷管と導火線の境界部及びピース缶の外表面に粘着テープが巻きつけられている点において前記第八、九機動隊事件のピース缶爆弾と同一である。
なお、右各ピース缶のうち二個に茶色粘着テープ(幅約五センチメートルの梱包用のガムテープ)が巻きつけられ、その余の一個には青色粘着テープ(幅約五センチメートルの梱包用のガムテープ)が巻きつけられていること、茶色粘着テープが巻きつけられたピース缶の缶番号は9S171及び8W281で導火線の長さはそれぞれ約六センチメートル、約七・二センチメートル、青色粘着テープが巻きつけられたピース缶の缶番号は不明で、導火線の長さは約七・七センチメートルであること、右三個の爆弾に充填されたパチンコ玉の数はそれぞれ七個又は八個であること、缶の蓋にあけられた穴はいずれも直径約六ミリメートルの大きさであること、充填されたダイナマイトはいずれも約二〇〇グラムであること、右三個の爆弾のうち少なくとも一個について帯状包装紙が巻かれたままであったこと(他二個については証拠が不十分で判然としない。)が認められる。
3 右三個の爆弾は、前述のように、いずれも工業用雷管と導火線が接着剤により接着されていたものであるが、そのうちの一個については導火線に点火することによって雷管を爆発させる能力を有していたことが認められるものの、その余の二個については右能力を有していたかどうかは不明である。
4 右三個の爆弾のうちの一個についてはピース缶の蓋の穴のバリ(めくれ)が未処理の状態であることが認められ、穴をあける作業において前記第八、九機動隊事件及びアメリカ文化センター事件の爆弾と異なる点が窺われる。その余の二個についてはピース缶の穴の形状が判然としないので、この点については不明である。
5 右ピース缶爆弾三個は、昭和四四年一〇月二一日赤軍派の出口光一郎が前記新宿警察署襲撃後中野坂上交差点付近から逃走する際に持ち帰り、同派の木村一夫にその保管を依頼したもので、同年一一月三日木村が福ちゃん荘にこれらを持ち込んだものである。なお、同月一日木村は赤軍派の幹部の八木健彦の指示で右三個の爆弾の導火線をいずれも約五・五センチメートル切断して短くしている。
四、中央大学会館事件
(員)花牟礼光夫44・11・10領置(謄)(証六一冊一五一六四丁)、(員)内田文夫44・11・10鑑嘱(謄)(証六一冊一五一六五丁)、科検所長45・11・20鑑定結果回答(荻原嘉光及び飯田裕康45・11・20鑑定添付)(謄)(証六一冊一五一六七丁)、五部九一回証人飯田裕康の供述(証六一冊一五一七六丁)、五部一〇六回証人荻原嘉光の供述(証九七冊二四二三二丁)によれば、以下の事実が認められる。
1 昭和四四年一一月一〇日、東京都千代田区神田駿河台三丁目一一番地所在中央大学会館玄関口においてピース缶爆弾一個が爆発した。
2 右ピース缶爆弾は、前記第八、九機動隊事件のピース缶爆弾と同一構造のものと推定され、充填されていたパチンコ玉(三個が押収されている。)の刻印も同一であると認められる。ピース缶の缶番号は9T211であり、現場から塩素イオンは検出されていないので、塩素酸カリウムは添加されていなかった可能性が高い。
五、松戸市岡崎アパートの事件
(員)石井万吉44・11・12捜差(謄))証一一三冊二八三八〇丁)、松戸警察署長44・11・13鑑嘱(謄)(証一一三冊二八三八四丁)、科学警察研究所長44・12・26「鑑定書の送付について」と題する書面(警察庁技官久保田光雅44・12・23鑑定添付)(謄)(証六〇冊一五〇一一丁)、前記五部九〇回及び九一回証人久保田光雅の各供述、前記一七四回証人久保田光雅の供述によれば、以下の事実が認められる。
1 昭和四四年一一月一二日、松戸市大字松戸一七六四番地所在の岡崎直人所有のアパート一階の井田一夫方居室において、ピース缶爆弾二個が発見押収された。
2 右ピース缶爆弾二個は、基本構造、二個のうち一個に充填されていたダイナマイトの組成(他の一個に充填されていたダイナマイトの組成については分析されていない)、導火線の構成及び種類、充填されていたパチンコ玉の刻印、六号工業用雷管が使用されている点、工業用雷管と導火線及びピース缶の缶体と蓋がそれぞれ接着剤により接続(接着)されている点、帯状包装紙が巻かれたままである点、工業用雷管と導火線の境界部及びピース缶の外表面に粘着テープ(幅約五センチメートルの梱包用のガムテープ。右境界部にはその小片が巻かれている。)が巻きつけられている点において前記第八、九機動隊事件の爆弾と同一である。
また、右二個の爆弾のダイナマイトの重量はいずれも約二〇〇グラムであること、ピース缶の蓋にあけられた穴は直径約八ミリメートルの大きさであること、右のうち一個には青色粘着テープが、他の一個には茶色粘着テープが巻きつけられていること、パチンコ玉の数は七個と八個であること、導火線の長さは約七・一センチメートルと約九・八センチメートルであることが認められる。
3 右二個の爆弾は、右のようにいずれも工業用雷管と導火線が接着剤により接続されていたものであるが、そのうちの一個については導火線に点火することによって雷管を爆発させる能力を有していたことが認められるものの、その余の一個については右能力を有していたかどうかは不明である。
4 右二個の爆弾の蓋の穴の形状については、証拠の保全が十分でなく判然としないので、穴をあける方法についても不明といわざるを得ない。
六、要約
以上のとおり合計一一個のピース缶爆弾が存在したことが認められ、これら並びに前記第八、九機動隊事件のピース缶爆弾及び前記アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾(改造前のもの)の合計一三個の爆弾は、同一の構造と認められるか、又は同一の構造と推定されるものであって、かつ、共通の特徴を有するものであり(特に充填されていたパチンコ玉がいずれもSGCの刻印のあるもので、入手先が同一と認められる点に著しい共通性がある)、従ってこれらの爆弾は同一の者(ら)か、又は相互に密接な関係を有する者らの製造にかかるものと推認されるものである。
第三章被告人らと事件との結び付きに関する証拠
第一節概観
被告人らが本件各事件の犯人であるとの検察官の主張に沿う証拠としては、物的直接証拠はなく、つぎのような情況証拠及び自白等の供述証拠があるものである。
一、情況証拠
① 五部三四回証人増渕の供述(証五一冊一三三一九丁)、六〇回・六二回証人佐古の供述(二四冊八六九五丁・二五冊九〇〇六丁)、五部六〇回被告人前原の供述(証二三冊七九三七丁)、一六七回証人村松の供述(七八冊三〇三一四丁)、一七八回証人菊井の供述(八五冊三二三一四丁)、五部一一五回・一一六回証人前田祐一の供述(証八七冊二一五三三丁・二一六二九丁)、「戦線」(謄)(証六七冊一六六九八丁)を総合すると、少なくともつぎの事実が認められる。
すなわち、増渕及び村松は、ともに昭和四四年四月法政大学法学部通信教育課程に入学したが、増渕はもともと共産主義者同盟員、村松は社会主義学生同盟員であったところ、右入学後間もなく二人が中心となって社会主義学生同盟法大支部として法政大学レーニン研究会(L研)なる集団を作ったが、増渕は、L研の指導者として武装闘争、暴力革命の必要性を唱導していたものであり、その余の被告人ら及び共犯とされている者らは、いずれもかかるL研の構成員か、ないしはその主義に同調してL研に出入りしていたものであって、これらのL研構成員又は同調者は、昭和四四年九月三〇日の日大法、経済学部奪還闘争(神田戦争)、並びに同年一〇月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署に対する火炎びん攻撃計画の際の行動において、武装闘争による暴力革命を志向している共産主義者同盟赤軍派と行動を共にするに至った。
以上の事実が認められる。
② さらに、すでに述べたとおり、同月二一日L研は赤軍派と共闘し、新宿警察署を襲撃するなどしたが、その際赤軍派の者によりピース缶爆弾も武器として用意、使用された。
二、被告人ら及び共犯者とされる者らの捜査段階及び公判廷における自白等
① アメリカ文化センター事件
増渕の自白調書(員面及び検面)のほか、佐古、前原、村松の各自白調書(各検面)がある(刑訴法三二八条の証拠である員面調書を除くものとする。以下同じ)。
② 八・九機事件
増渕の自白調書(員面及び検面)、堀の不利益事実の承認を内容とする供述調書(員面及び検面)のほか、前原、村松及び内藤の各自白調書(各検面)並びに刑事八部一回及び三回各公判調書中の内藤の供述記載(自白)がある。
③ ピース缶爆弾製造事件
増渕の自白調書(員面及び検面)、江口の自白調書(検面)のほか、一七八回・一七九回・一八三回ないし一八六回各公判における証人菊井の供述、証人菊井に対する当裁判所の公判期日外の尋問調書、五部九四回ないし一〇一回各公判調書中の証人菊井の供述記載(以上いずれも自白)、前原、佐古、内藤及び石井の各自白調書(各検面)、刑事八部一回及び三回各公判調書中の内藤の供述記載(自白)、刑事二部七回公判調書中の石井の供述記載(自白)がある。
右のとおり、被告人を含む多数の者らが捜査段階において自白をしており、また、内藤は、当庁刑事第八部の同人に対する第八、九機動隊事件及びピース缶爆弾製造事件の審理に際しても、当初公判廷で自白していたものであり(後に否認に転じた)、石井は、当庁刑事第二部の同人に対するピース缶爆弾製造事件の審理に際しても公判廷で自白していたものである。
なお、内藤に対しては第八、九機動隊事件及びピース缶爆弾製造事件につき有罪の判決(懲役三年六月)が確定し(内藤に対する昭和五三年三月一七日付東京高裁判決(謄)及び同年一二月一二日付最高裁決定(謄)・証九一冊二二二六九丁以下参照)、石井に対してはピース缶爆弾製造事件につき有罪の判決(懲役三年、四年間執行猶予)が確定している(石井に対する昭和四九年三月一九日付東京地裁判決(謄)・証九一冊二二二三五丁、当庁刑事五部一七回証人石井の供述・証一五冊六一六三丁以下参照)。
第二節被告人ら及び共犯者とされる者らの捜査段階における供述の経過
被告人ら及び共犯者とされる者らの捜査段階における供述の経過を示すと、つぎのとおりである。
供述状況等
供述者の身柄関係等
47・12・11 佐古がアメリカ領事館(12・14でアメリカ文化センターと訂正)に爆弾を仕掛けに行った旨自白。
法大図書窃盗事件による起訴後勾留中(11・3逮捕)。
12・28 佐古がアメリカ文化センター事件の爆弾を入れるダンボール箱を製造した旨供述。
法大図書窃盗事件につき保釈釈放となる。
48・1・8 佐古がアメリカ文化センター事件につき否認に転ずる。
アメリカ文化センター事件により逮捕。
1・16 佐古が同事件につき再自白。
前原が、佐古が昭和四四年一〇月二二日未明河田町アジトにピース缶爆弾二個を持ち帰ったこと、アメリカ文化センター事件に関し乾電池及び電気雷管の脚線のはんだ付け、ダンボール箱製造をしたことを供述。
法大図書窃盗事件による勾留中(1・6逮捕)。
1・17 佐古が昭和四四年一〇月二二日未明河田町アジトにピース缶爆弾二個を持ち帰ったこと及び同月二九日に前原から八・九機事件の犯行を打ち明けられた旨供述。
前原が同月二六日ごろに井上と八・九機周辺を下見した旨供述。
法大図書窃盗事件につき釈放されるとともにアメリカ文化センター事件により逮捕。
1・20ごろ 前原が八・九機事件につき自白。
1・22 増渕、村松がアメリカ文化センター事件につき否認。
増渕、村松がアメリカ文化センター事件により、堀が火薬類取締法違反の罪により逮捕。
1・29
佐古がアメリカ文化センター事件につき起訴。
2・6 内藤が八・九機襲撃の話合いの場に居合わせたが爆弾の話は出なかった旨供述。
(任意捜査)
2・8
前原がアメリカ文化センター事件につき起訴。
2・11ごろ 増渕がアメリカ文化センター事件及び八・九機事件につき自白。
2・12 佐古がピース缶爆弾製造事件につき自白。
増渕がピース缶爆弾は村松が作った旨供述。
増渕及び村松がアメリカ文化センター事件につき起訴されるとともに八・九機事件により逮捕。
堀が火薬類取締法違反の罪につき釈放されるとともに八・九機事件により逮捕。
2・13 村松がアメリカ文化センター事件につき自白。
2・14 村松が八・九機事件につき自白。
2・17 内藤が八・九機事件に参加したかどうかはっきりしない旨供述。
八・九機事件により逮捕。
2・18 増渕がピース缶爆弾製造事件につき自白。また、村松から佐古か井上がピース缶爆弾を河田町アジトへ持ち帰ったとの報告を受けた旨供述。
2・20
江口がアメリカ文化センター事件に関連する罪により、前林が法大図書窃盗事件により逮捕。
2・22 村松が八・九機事件につき否認に転ずる。
3・2ごろ 村松が八・九機事件につき再自白。
堀が村松と八機前を歩いたことがある等と供述。
3・6ごろ 前原がピース缶爆弾製造事件につき自白。
3・6増渕、堀、村松が八・九機事件により起訴。
3・7 内藤が八・九機事件につき自白。
3・7ごろ 村松がピース缶爆弾製造事件につき自白。
3・10 内藤が同事件につき自白。
前原、内藤が八・九機事件につき起訴。
3・13
前林、堀、江口、石井がピース缶爆弾製造事件により逮捕。
3・14
増渕が同事件により逮捕。
なお、増渕、前林、堀、江口が日石土田邸事件により逮捕。
3・16 江口がピース缶爆弾製造事件につき自白。
3・20 石井が河田町アジト周辺におけるレポについて供述。
4・1 石井がピース缶爆弾製造事件につき自白。
4・3
石井がピース缶爆弾製造事件につき起訴。
4・4
増渕、前林、堀、江口が同事件につき起訴。
4・18
佐古、前原、内藤、村松が同事件につき起訴。
なお、井上が八・九機事件及びピース缶爆弾製造事件により、平野及び菊井がピース缶爆弾製造事件により、それぞれ逮捕、勾留されて取調を受けたが、いずれも被疑事実を否認した(但し、菊井については、ピース缶爆弾製造時における河田町アジト周辺のレポを窺わせないではない曖昧な供述も見られる)。
第三節自白ないし不利益供述の概要
被告人ら及び共犯者とされている者らの各自白ないし不利益供述の概要を順次に示すと、つぎのとおりである(それらの供述に変遷がある場合は、原則として最終段階の供述を示す。なお、刑訴法三二八条の証拠である員面調書を除く)。
一、佐古の自白の概要
① 昭和四四年一〇月一〇日より後で余り日が経過していないころ、若松町アジトに前原、菊井、井上、私らが集まった時、これからは他のセクトに武器の調達を頼っていないで自分らで武器を作ろうという話が出た。
② 同月一四日か一五日の午後八時ごろ、機動隊を攻撃するために私、村松、前原、菊井、国井、井上、平野が早稲田大学正門に集まり、赤軍派が火炎ビンを持って来るのを待ったが届かなかった。
③ 翌日の午前中若松町アジトに増渕、村松、前原、菊井、国井、井上、石井、私が集まり、ピース缶爆弾製造の話が出たが、具体的にどこまで話し合われたかはっきりしない。
④ 同日住吉町アジトで話し合われた内容と思うが、ピース缶爆弾を翌日河田町アジトで製造すること、今日中に材料を河田町アジトに運ぶこと、材料集めについての各自の任務分担が決められた。任務分担は、村松、菊井が早稲田アジトにダイナマイト、雷管、導火線を取りに行くこと、国井、井上が早稲田大学、立教大学方向にピース缶を集めに行くこと、私、前原が東薬大方向にピース缶を集めに行くことと決まった。ピース缶はすでに各アジトに若干集められていた。住吉町アジトにおいて、村松が爆弾の中にパチンコ玉を入れることを提案し、全員が賛成した。私と前原がパチンコ玉を調達することになったと思う。増渕が「爆弾の製造方法については江口に任せてあり、江口は明日来ることになっている。雷管が一〇本ぐらいしかないので雷管の数だけ爆弾を作る」と話し、ダイナマイト、導火線、雷管、薬品の性質について説明した。その後導火線の燃焼速度を計測した。マッチでは容易に点火できなかったのでガスコンロの火で点火した。増渕は何かの薬品と砂糖を混合して爆弾に詰めると爆破力が高まると話していた。製造の任務分担は、増渕、江口、堀が薬品の調合をすること、村松、菊井がダイナマイトなどをピース缶に詰め込む作業をすること、国井、井上、石井がレポをすること、私はレポの中継、部屋の管理、製造の簡単な作業をすることになった。レポの内容は、国井と井上が河田町アジトの外の通りを歩き、石井が同アジト前のパン屋の角に立つこと、一時間に一回くらい私がレポの中継をして部屋の中と情報交換をすること等であった。住吉町アジトでダイナマイト、導火線を見たかどうかは思い出せない。増渕は、堀を将来の爆弾製造に備えてこの際メンバーに加えると話していた。私は前原と東薬大へ行きピース空缶一、二個を入手して河田町アジトに運んだ。
⑤ 同月一六日か一七日ごろ、河田町アジトでピース缶爆弾を製造した。同日午前中前原と新宿のパチンコ店へ行きパチンコ玉を取って来た。同日午後一時ごろ私と前原が河田町アジトにいると井上と国井が来て、稲荷寿司を食べた後二人は喫茶店エイトにコーヒーを飲みに行った。しばらくして村松、石井、菊井が連れ立って来たが、村松は紙袋にダイナマイト(五、六〇本)、雷管(一〇本ぐらい)、導火線(長さ一〇センチメートルぐらいのもの一〇本以上)を入れて持って来た。その後増渕、江口、堀が一緒に来たが、前林も一緒に来たと思う。江口は薬品の調合に使用する容器等を持って来た。薬品類は四、五日前に村松がリュックサックに入れて持ち込んでいた。濃硫酸、塩素酸カリがあった。砂糖は河田町アジトに前からあったが、さらに製造途中に私が近くの店で買って来た。ピース缶は一五ないし二〇缶くらいが前日までに河田町アジトに運び込まれていた。ガムテープは河田町アジトに前からあった。最初増渕から爆弾の製造手順について、江口から薬品の調合について説明があり、そのころ私が石井を連れてエイトに行き、国井、井上、石井にレポを指示した。指示の内容は、国井は河田町の交差点から女子医大付近を往復して八・九機の動きを観察すること、井上はエイト付近に立って四・五機の動きを見ること、石井はパン屋の横近くにいて井上、国井から連絡を受け異常があったら報告し、一時間に一回ぐらい部屋の内外の状態を確認することであった。また、連絡方法については、異常がない場合は片手の親指と人差押で輪を作って合図し、緊急事態が発生した場合には片手をぐるぐる回して合図することになっていた。製造開始一時間ぐらい後にレポと打合せをするため外に出てパン屋の横あたりに行ったところ、平野が内藤を連れてやって来るのに出会った。二人が参加することは知らされていなかったが、平野が増渕の指示で来たと言うので増渕に報告するとすでに了解済みであるような返事だったので二人を部屋に入れた。各人の作業内容は、つぎのとおりである。
(ⅰ) 私 ピース缶の蓋に釘か折りたたみ式ナイフで小さな穴をあけ、庭の植木の根元あたりに蓋を置いて穴の部分にドライバーを突き差し金槌か石で叩いて穴をあけた。もう一名手伝ってくれた者がいたと思う。また、導火線の先をほぐしてボンドで雷管の先に接着させ、ガムテープを巻いて補強し、出来上ったピース缶爆弾の蓋と本体にガムテープを巻き、レポの者と連絡をとったり、砂糖を買いに行ったりした。
(ⅱ) 増渕 全員に対し指示をしたり、薬品と砂糖を混合したりした。
(ⅲ) 村松 ダイナマイトの油紙を剥いで四本ぐらいをピース缶に詰め込み、パチンコ玉を入れ、ダイナマイトの上に入れた薬品の中に鉛筆か何かで穴をあけて雷管を埋めたりした。また、ピース缶の本体に蓋をしてガムテープを巻いていた。
(ⅳ) 前原 雷管と導火線の接続、ピース缶にガムテープを巻きつける作業
(ⅴ) 江口 増渕、堀とともに薬品と砂糖を混合する作業
(ⅵ) 堀 右同
(ⅶ) 菊井、平野、内藤 ダイナマイトの油紙を剥いでピース缶に詰め、パチンコ玉を入れる作業
(ⅷ) 前林 ピース缶の指紋を拭く作業
午後五時ごろまでにピース缶爆弾一〇個ぐらいが完成したが、他に雷管を詰めていない物が一、二個あった。増渕は完成した爆弾を黒色ビニール製かばんに詰め、持って出て行った。残ったダイナマイト等の材料は紙袋三袋ぐらいに詰め、私、菊井、井上、国井が若松町アジトへ持って行ってダンボール箱に入れておいた。なお、増渕は、爆弾は同月二一日に使用するが、ある程度は赤軍派に渡すと話していた。
⑥ 同月一八日か一九日増渕の指示でレンタカーを借り、同人と一緒に東薬大に行き、石本、平野、内藤らから段ボール箱二個を受け取り杉並区方南町所在の堀の自宅に持ち込んだ(昭和四五年二月上旬ごろ増渕の指示で右段ボール箱の内容を調べ、二、三日後桜上水所在の梅津の家に持ち込んだ。黒色火薬、ダイナマイト等が入っていた)。
⑦ 昭和四四年一〇月二〇日花園、村松、菊井と立川方面でトラックを盗み、翌朝河田町アジトに戻ってから再び出かけ、同夜東薬大前まで右トラックを運び、増渕から無理矢理右トラックを運転させられ、ピース缶爆弾五、六個を助手席に積み込んで東薬大前から出発し、赤軍派の者とともに警視庁新宿警察署を襲撃後中野坂上交差点付近に至り、同所で赤軍派の者からピース缶爆弾二個を渡されたが、井上と一緒に一旦渋谷の喫茶店に逃げ、翌二二日午前一時三〇分過ぎごろ井上とともに右爆弾二個を持って河田町アジトに帰った。同アジトには前原がいた。他にもう一人国井か内藤がいたように思う。その際前原に爆弾を見せた。
⑧ 同二二日午前一〇時ごろ起床し、赤軍派と連絡をとって花園に会ったところ、爆弾の処理は増渕に相談して決めるようにと言われたのでその旨前原に伝え、レンタカーを返した後、その夜は豊島区高松町所在の兄の宅に泊まり、翌日大阪府下の親許に帰った(以下、「帰阪」という)。帰阪したのは新宿警察署襲撃のため無理矢理トラックを運転させられたことに対する不満と爆弾闘争に対する恐怖心からである。数日後革命のために爆弾闘争をやるべきである旨決意し、前原に宛てて再び上京して闘争に参加する旨の手紙を出した。
⑨ 同月二八日再び上京し、同夜前記兄の宅に泊まり、翌二九日河田町アジトに行った。同アジトには前原がいて、爆弾二個のうち一個を第八、九機動隊に投げたこと、残り一個は増渕が持ち帰っていること、村松と一緒に国会周辺から首相官邸付近を爆弾を仕掛けるための下見をして来たがアメリカ文化センターが自由に立入りできてやりやすいことを話してくれた。その後増渕が来たので二人で近くの喫茶店に行き、同人からもう一つの爆弾をアメリカ帝国主義の日本にある施設の攻撃に使用するから協力してほしい、自動車の運転をしてほしいと頼まれこれを承諾した。河田町アジトに戻り、増渕から爆弾を入れる箱を作るように指示され、近所のパン屋からダンボール箱二個を盗んで来た。増渕は一旦外出して布製の袋に爆弾と時計の機械のようなもの及び電池を入れて持って来て、これをアメリカ文化センターに仕掛けると言った。前原とともに右爆弾等の大きさを測り、ダンボール箱、ガムテープ、紙テープ、ボンド、大型ホチキス(銅色の針のもの)、日本ばさみ等を使用して手製のダンボール箱一個を作り、箱を補強するために割ばしを十文字に組んでガムデープで箱の底に貼りつけた。増渕ははんだごてを使って爆弾と時計の機械のようなものをいじっていた。前原と一緒に右爆弾等を右手製の箱に入れ接着剤で固定した。割ばしで組んだ枠内にうまく納ったので割ばしを補強のために貼りつけたが爆弾等の固定のためにも丁度良かったと思った。箱を、菓子を入れるような黄土色の紙袋に入れて押入れに保管した。三人とも指紋のことは意識せずに素手で作業をした。増渕は翌日下見に行くからレンタカーを借りておくようにと指示した。
⑩ 同月三〇日、前原はアルバイトに行くと言って河田町アジトを出たまま、以後同アジトに戻らなかった。私はレンタカーを借りて増渕とアメリカ文化センターの下見に行った。山王下交差点近くで車を停め、増渕が降りて赤坂見附方面へ歩いて行き一五分か二〇分くらいで戻って来た。約三時間ほどで下見を終え、午後三時ごろ河田町アジト付近に戻り、増渕が同アジトから紙袋に入った箱入爆弾を持ち出し、一緒に渋谷区本町所在の江口のアパートまで行って増渕と別れ、兄の宅に行って泊まった。
⑪ 翌三一日河田町アジトを引き払い、同夜増渕とともに江口のアパートに泊まった。同年一一月一日午前一一時三〇分ごろ藤田和雄から借りた自動車を運転し、増渕を助手席に乗せて江口のアパートを出発し、途中中野ブロードウェイ付近の路上で村松と名前の思い出せない男の二人を乗せた。爆弾(黄土色の紙できっちり包まれ、糊かテープでとめてあった。)は名前の思い出せない男が持ち込んだと思う(あるいは、増渕が江口のアパートから爆弾を持って車に乗り込んだ。なお、佐古の最終供述は、江口のアパートで増渕が時限装置をセットし、江口が爆弾入りの箱を包装したうえ、増渕がこれを持って佐古運転の自動車に乗り込み、江口のアパートを出発したというものである。佐古の48・2・26検面参照。なお、同検面は佐古の供述経過を明らかにするものとして取り調べたものである)。自動車の中で増渕が村松ともう一人の男に対し、爆弾の仕掛けを担当すること、三〇分待って戻らない時は先に出発するが、連絡場所は中野の喫茶店「クラシック」であること、爆弾のセット時刻は午後二時であること、及び仕掛ける場所について指示し、ちょうど正午ごろ、全員が時計を増渕の時計に合わせた。溜池交差点を右折して赤坂見附方向に走行し、午後零時三〇分ごろ山王下交差点手前で停車し、村松ともう一人の男が爆弾を持って降車し、赤坂見附方向に歩いて行き約二〇分後戻って来て、村松がやって来た旨報告した。二人を乗せて出発したが、増渕は結果の確認は付近に配置されている赤軍の幹部がすることになっていると言っていた。新宿駅東口付近で村松ともう一人の男を降ろし、江口のアパートに戻り、増渕と別れ、前記兄の宅に帰った。夕刻のテレビニュースで爆弾が爆発前に発見されたことを知った。同月五日ごろまで兄の宅にいて、同月六日ごろ増渕と会った際、同人は失敗は仕方ないが仕掛けることに意義があると話していた。
二、前原の自白の概要
① 昭和四四年八月L研が千葉県の興津海岸で合宿した際、増渕を中心として爆弾を使用した闘争の必要性について理論的な学習をした。同年九月上旬ごろ法大に増渕、江口、菊井、井上、佐古らといた時、増渕が江口に爆弾関係のパンフレットである「薔薇の詩」、「球根栽培法」などを渡し、研究するように指示していた。
② このころL研の学習会において非合法ゲリラ活動(火炎びん、爆弾を使用)のための拠点としてアジトを設定することが決められ、新宿区河田町(私と佐古が居住)、若松町(菊井が居住)、早稲田(国井が居住)の三か所にアジトを置いた。同区住吉町所在の村松及び石井が居住するアパートと渋谷区本町の江口及び前林が居住するアパートはアジトに準ずるものとして使用することになった。
③ L研は同年九月三〇日、一〇月一〇日など火炎びんを使用したゲリラ闘争の計画を立て、赤軍派から火炎びんを調達することにしたが入手できず失敗に終わった。九月三〇日には火炎びんで八・九機を攻撃しようという話があり、私や村松がその準備をしたこともあった。同年一〇月一三日か一四日ごろ、L研の者が集まった際、自分らで爆弾を作って武装闘争に入ろうという話が出た。
④ 同月一五日ごろ佐古か誰かの連絡で同日昼ごろ佐古、菊井と一緒に住吉町アジトに行った。同アジトには村松、石井が居て、井上も来た。増渕は、午後一時ごろ遅れて来た。増渕が爆弾を使用したゲリラ闘争の必要性を説き、今までは赤軍派に武器を頼って失敗したので、これからはL研で武器を製造する、材料も調達済みである旨述べ、村松が整理ダンスの抽出しから、茶色っぽい紙で包装されたダイナマイト一〇本ぐらい、雷管(片手に乗るぐらいの数)、直径二〇センチメートルぐらいの輪に巻いた導火線(長さ約二、三メートル)を出して見せた。村松はどこかで容易に盗んで来たような話をしていた。増渕がピース缶爆弾の製造方法を説明した。爆弾製造のための道具についてはハンマー、ドライバーなどは河田町アジトにあるものを使い、それ以外のものは爆弾製造技術を研究して製造に参加する江口が持参する予定であるとの説明があった。爆弾の材料のうち、塩素酸カリについては東薬大社研の者を介して入手し(あるいは入手済み)、パチンコ玉は私と佐古が分担して集め、ピースの空缶は皆で手分けして集めることになった。二日ぐらい後に河田町アジトで製造することに決まった。その後導火線が使用可能かどうかを見るため導火線燃焼実験をした。約一〇センチメートルぐらいの長さの導火線にマッチで点火しようとしたが点火できず、ガスコンロで点火した。午後四時ごろ打合せを終った。この日より前に増渕あたりから爆弾製造について話があったようにも思うが、具体的には思い出せない。
⑤ 右打合せの日かその翌日かはっきりしないが、佐古と新宿区(角筈)所在のパチンコ店新宿ゲームセンターに行き、一〇〇円ずつ(五〇個ずつ)玉を購入し、私は少しゲームをして一〇〇個ないし一五〇個ぐらいにふやした。その間佐古は落ちている玉を拾い集めていた。結局私が一〇〇個ないし一五〇個ぐらい、佐古が五〇個ぐらいのパチンコ玉をポケットに入れ河田町アジトに持ち帰って抽出しに保管した。ピースの空缶も探してみたが、一個も見つけられなかった。
⑥ 同月一六日か一七日ごろの昼ごろから午後五時ごろにかけ河田町アジトにおいて増渕、江口、前林、佐古、菊井、村松、石井、井上らとピース缶爆弾を製造した。平野が作業開始後間もなく塩素酸カリを持って来たように思う。内藤も来ていたように思う。皆が来る前にパチンコ玉をバケツに入れ、石鹸液で洗ったように思う。材料を誰が持って来たかはっきりしないが、砂糖は江口が持って来たと思う。ピースの空缶は一五個ぐらい集まったが、石井、佐古らが少しずつ持ち寄ったものと思う。乳鉢、乳棒、ゴム手袋は江口が持って来たと思うがはっきりしない。河田町アジトには以前から茶色のガムテープがあったが、そのほかに青色ガムテープも用意されていた。ダイナマイトは住吉町アジトで見た数よりも多くあった。最初増渕及び江口から製造手順等について説明があり、作業分担を決め、午後一時過ぎごろから製造を開始した。まず、ピース缶を布で拭いたが、前林、井上もその作業に参加していた。私は最初佐古、石井らと砂糖と塩素酸カリの混合作業をした。塩素酸カリ二(あるいは三)に対し砂糖一の割合で新聞紙の上で混合したうえ乳鉢に入れてすって混合する作業を繰り返した。江口が薬品関係の調合について説明したり指導したりした。増渕、江口、村松、菊井が中心になり、ダイナマイトの包装紙を剥がし、ナイフで切ってピース缶に詰め、さらにその中にパチンコ玉を詰めていた。部屋の真中にパンの木箱を裏返しにして置き、その周囲で作業をした。菊井が増渕の指示で導火線を一定の長さに切断し、江口と導火線と雷管の接続作業をしていた。私は薬品混合の作業後、佐古、石井と外に出てピース缶の蓋に穴をあける作業をした。最初五寸釘をハンマーで叩いて穴をあけたところ小さ過ぎたので、石井が住吉町アジトからプラスドライバーかポンチと思うが他の道具を取って来てそれで穴をあけた。その後部屋に戻り、もう一人の者と一緒にダイナマイト入りのピース缶に混合した薬品を入れた。全部のピース缶に入れたと思うが、量が不足して一部には入れられなかったかも知れない。ピース缶は一五個ぐらいあった。その後ほぼ全員で導火線付工業雷管をピース缶の中央部に埋め込み、蓋をし、蓋の穴から導火線を通して蓋を接着剤で固定する作業をした。さらにガムテープを巻きつけ蓋、導火線を固定したが、青色ガムテープが不足し、一部茶色ガムテープも使用した。井上が時々外へ出てレポをやっていたと思う。石井もレポをやっていたかも知れない。作業中大声で話し合ったり雑談したりすることはせず、また全員が軍手等の手袋を着用した。完成した爆弾は一二、三個ないし一五個あったと思うが、赤軍派と思われる者が来て増渕と一緒に爆弾のうち何個かを持って行ったように思う。残った爆弾はダンボール箱に入れ河田町アジトの押入れに保管した。
⑦ 同月二〇日は翌日の闘争のため赤軍派の者と連絡をとり、同夜は堀と河田町アジトに泊まった。翌朝起床したところ佐古もいたので佐古も同アジトに泊まったものと思う。
⑧ 翌二一日増渕の指示で爆弾一〇個ぐらいをバッグに詰め午前一〇時ごろ増渕及び堀と爆弾を持ってタクシーで大久保駅まで行った。増渕は、私に喫茶店「アルタミラ」で西田政雄に会って、濃硫酸を受け取り一緒に東薬大に行くようにと指示し、堀と爆弾を持って東薬大の方へ歩いて行ったが、おそらく平野のアパートか赤軍派のアジトへ持って行ったものと思う。当日は東薬大で火炎びんが製造されており、私は東薬大周辺で赤軍派とのレポ(連絡の意味)を担当した。当日は赤軍派の者らが火炎びん、爆弾等を使用して新宿周辺を騒乱状態に陥れる計画で、L研もこれと共闘する予定であった。午後四時過ぎごろ、東薬大で鉄パイプ爆弾を作っていたが発見され押さえられた旨聞いた。その後国井と新宿に行き周辺の状況を見たりした後、午後一〇時ごろ河田町アジトに帰ると菊井と内藤がいた。午後一二時ごろ菊井と国井が若松町アジトに行き、私と内藤が河田町アジトに泊まった。
⑨ 同月二二日午前二時ごろ佐古と井上がピース缶爆弾二個を持って河田町アジトに帰って来た。佐古は赤軍派の者に無理矢理トラックを運転させられ新宿から中野坂上まで行きパトカーを襲撃して逃げて来たが、赤軍派の幹部から佐古が二個、井上が一個爆弾を渡され、パトカー襲撃後残りを持ち帰ったと話していた。右ピース缶爆弾は自分らが作ったものに間違いない。同日佐古は一旦レンタカーを返しに行くと言って外出した後午後三時か四時ごろ戻り、大阪に帰ると言って止めるのも聞かず爆弾を置いたまま出て行った。佐古は精神的に相当疲労している様子であった。
⑩ 同月二三日内藤からの伝言で昼ごろ喫茶店(エイトと思う。)で増渕と会った。村松も同席していたような気がするし、菊井もいたかも知れない。増渕に佐古が爆弾二個を持ち帰ったこと及び佐古が帰阪すると言って出て行ったことを報告したところ、増渕は爆弾のことは任せておけと答えた。また、増渕は東薬大で製造されていた鉄パイプ爆弾に関して石本と平野の名前を大学側に知られてしまったのでその対策に忙しいと言っていた。その後、増渕の指示で、佐古の兄の宅へ佐古が帰阪したかどうか確認に行き、午後四時ごろ河田町アジトに戻ると井上がいた。しばらくして村松が来て内藤、菊井を集めておくように指示して再び出て行った。すると偶然内藤が来たのでしばらく雑談した後菊井への連絡を頼んだところ、内藤が連絡に行ったが一人で戻って来て菊井は行く必要がないと言って来なかった旨報告した。菊井はそのころ増渕の指導性につき批判的だった。その後近くの喫茶店で増渕から機動隊に対する爆弾攻撃の提案があったが、詳しい状況は思い出せない。同日午後八時ごろ河田町アジトに増渕、村松、井上、内藤、私が集まり機動隊攻撃の打合せをした。私が押入れから爆弾二個を取り出し全員に見せた。四機も攻撃対象に挙げられたが八・九機に決まり、村松が主となって八・九機付近の状況について説明した。増渕の指示で村松、井上が爆弾投擲班になり、村松の提案で堀も投擲班に加えることになった。増渕が内藤に対し町田を連れて来て一緒にレポをやるように指示した。私は爆弾投擲後の効果測定を担当することになったが、増渕からこの件については赤軍派も了解しているので赤軍派との連絡役も担当するように指示された。増渕は総指揮をし、効果測定も担当することになった。翌日昼ごろ河田町アジトに全員が集まり、同日夜爆弾を正門に投げ込むという方法で決行することになり、私が赤軍派に連絡しておくことになった。その後長さ約一二、三センチメートルの導火線(増渕が持って来たものと思う。)に村松がマッチ(と思う。)で点火し、私と井上が燃焼速度を測った。午後一一時ごろ解散し、私と井上が河田町アジトに泊まった。
⑪ 同月二四日昼近く中野駅近くの喫茶店で赤軍派の者(藤田と思う。)に会い前夜の打合せの結果を伝えると、赤軍派からも二名出すと言うので、河田町アジト近くの喫茶店に午後四時か五時(現在はっきりしない。)に来るように指定した。その後河田町アジトに戻ると井上、村松、堀が来ており、村松が増渕は用があって出て行ったと言っていた。三〇分ぐらい後に内藤が来て、町田を誘ったが断られたと報告した。午後三時ごろから井上と二人で下見に出かけ、八・九機の付近で村松と堀が一緒に歩いているところに出会った。河田町アジトに戻り八・九機の警備状況について村松に報告した。その後、赤軍派の者に指定した喫茶店に行くと、昼近くに会った者のほか二名が来ていたので一旦増渕のいる喫茶店に行って同人に報告した後その指示を受け右赤軍派の者二名を連れて河田町アジトに戻った。任務分担の再確認等をし、午後七時に投擲することになった。町田の代りに赤軍派の者一名が内藤と組んでレポをし、私は他の赤軍派の者一名と組んで効果測定をすることになった。打合せが終了したころ増渕が来たような記憶がある。増渕に打合せの結果を報告し八・九機攻撃後集まる喫茶店を決めた。その後増渕と赤軍派の者二名が河田町アジトを出、つぎに午後六時ごろ村松、井上、堀が出発した。村松あたりが爆弾を紙袋に入れて出発したような気がするがはっきりしない。その後内藤と一緒に河田町アジトを出て、河田町交差点近くの喫茶店に行き、増渕から午後七時前に河田町電停付近に待機して爆発が起きたら八・九機前へ行って爆発効果を見るようにとの指示を受けた。内藤に対する指示の内容はわからない。しばらくして増渕が右喫茶店を出て行った。内藤も右喫茶店にいた赤軍派の者一名と一緒に出て行った。私は午後六時四〇分ごろもう一名の赤軍派の者と右喫茶店を出、都電通りを少し八・九機方向に歩いて戻り河田町電停付近に立っていた。その間に内藤に出会った記憶があるが、出会った場所は思い出せない。一緒に組んだ赤軍派の者は少し八・九機に近いところまで進んでいた。午後七時一〇分ごろになっても特に変わった様子はなく、赤軍派の者から爆弾は投げ込まれたらしいが変化はないとの報告を受け、午後七時三〇分ごろ河田町から赤軍派の者と都電に乗り、八・九機前を通ると制服の警察官らが集まっておりフラッシュが焚かれていたので不発だったものと思った。東大久保で都電を降り、午後七時四〇分か五〇分ごろその付近にある約束の喫茶店に赤軍派の者と行った。井上が遅れて来て、自分が八・九機の反対側の路地から道路に出て様子を見て村松と堀に合図をし、二人が電柱の陰に行って爆弾を投げ込み、その後三人がばらばらになって駈けて逃げたと話していた。右喫茶店には内藤も来たが増渕が来ていたかどうかははっきりしない。その後井上と河田町アジトに戻った。午後九時三〇分か一〇時ごろ村松が河田町アジトに来て、堀が隠すように爆弾を持ち、自分が導火線に点火してから爆弾を受け取り前に駈け出して投げたが、投げた後追いかけられてまくのに苦労したので喫茶店には行けなかったと話していた。堀のことも話があったような気がするがはっきりしない。また菊井のことが話題になったか、菊井がその場にいたような気もするがはっきりしない。
⑫ 同月二五日河田町アジトに菊井が来て八・九機襲撃の新聞記事を見ていた。私は同夜は杉並区所在の私の下宿に泊まった。
⑬ 同月二六日午前一一時ごろ河田町アジトに戻ると一時間ぐらい後に村松が来た。村松に誘われ近くの喫茶店(エイト)に行き、村松から新しい感じの乾電池二個を見せられ、増渕の指示で爆弾の時限装置を作るから一緒にやってほしいと頼まれ承知した。その後河田町アジトに戻ると、午後二時ごろ増渕が来て紙に電気雷管と電池二本を連結した図面を書いて渡し、こういうものを作るようにと指示をした。電気雷管、導線、電気はんだごて、糸はんだは村松がショルダーバッグに入れて持って来ていた。単二の乾電池二個を横に並べて紙テープで固定し、赤色シールド線(比較的太いもの)で直列にはんだ付けしたうえ、この二個の乾電池のうちの一個の右シールド線が接続されていない極に電気雷管の二本の脚線のうちの一本(単線)はんだ付けして接続し、他方の乾電池の右シールド線が接続されていない極に別の細いシールド線をはんだ付けして接続し、電気雷管のもう一方の脚線にはセロテープを巻いて絶縁した。村松らと話しながら作業をしたため約一時間を要した。完成したので豆電球を使って通電を確認した後増渕に渡した。増渕はピース缶爆弾をいじっていたが、具体的な状況は記憶していない。村松は時計の機械のような時限装置のようなものをいじっており、その際釘か何かで毛沢東(万才)等と落書していた。増渕は米帝の出先機関を爆弾で襲撃すると言っていた。増渕は、爆弾と私が作ったものを持ち帰った。村松は、機械のようなものは未完成ということで、渡さなかったと思う。
⑭ 同月二七日、佐古から上京して闘争を継続したいとの内容の手紙を受け取った。
⑮ 同月二七日か二八日ごろ、午後二時ごろから五時ごろまで村松と時限式爆弾を仕掛ける場所の下見をした。村松の後について国会、首相官邸、アメリカ大使館、アメリカ文化センターのあるビル付近を見て回った。村松がそのビルの中に入って行って見て来て、自由に入れるし警戒もないと話していた。下見の結果は村松が増渕に報告しているはずだと思う。
⑯ 同月二八日菊井が河田町アジトに来て、赤軍派の者に自動車のエンジンを直結する方法を教えてやったが、赤軍派では車を盗むらしいと話していた。
⑰ 同月二九日昼ごろ佐古が河田町アジトに来たので、爆弾二個のうち一個を使って八・九機を襲撃したこと、残りの一個は増渕に預けてあること、増渕と村松が来て時限装置を作ったが自分も乾電池と電気雷管の接続をしたこと、アメリカ文化センターは自由に入ることができ攻撃しやすいことを話した。間もなく増渕が布の手提袋に新聞紙か何かで包んだ爆弾、乾電池と電気雷管を接続したもの、タイマーと思われるものを入れて持って来た。増渕から時限式爆弾を入れる箱を作るように指示され、佐古が外から持って来たダンボール箱二個を解体し、佐古と二人で時限式爆弾の大きさに合わせガムテープ、ボンド、ホチキス(銅色の針のもの)等を使用して手製の箱一個を作り、箱の補強と爆弾の振動を防ぐため割ばしを十文字にして底にボンドで貼りつけた。増渕は時限装置か何かにはんだ付けをしていたように思う。タイマーと電池の連結作業は自分がやったのかも知れないがはっきりしない。完成した箱に爆弾を入れ増渕が布袋に入れて持ち帰ったように思う。箱を作る際指紋が残ることについての配慮はしなかった。増渕から明日一緒にアメリカ文化センターへ行ってほしいと依頼されたが、村松に案内してもらうようにと答えて断った。増渕は、佐古に対しても明日アメリカ文化センターの下見に行くことを指示し佐古は承知したと思う。
⑱ 同月三〇日からアルバイトに出かけ、杉並区所在の私の下宿に泊まるようになった。アメリカ文化センターへの爆弾仕掛けには参加していない。増渕について行くのは嫌になっていた。
⑲ 同年一一月一日夜若松町アジトに行った。菊井はすでにそのころ増渕から離れており、自分と似た考えを持っていたので今後のことを相談するために行った。井上も国井もいた。一〇日間ぐらい若松町アジトに出入りしていたが、その後L研の者らとの交際をやめ、アルバイトをし、昭和四五年二月ごろ帰郷した。
三、内藤の自白の概要
(その一) 捜査段階における自白
① 昭和四四年六月ごろ社研のメンバーとして活動を始め、そのころL研のメンバーとも知り合うようになった。同年七月なかごろ日原で社研の合宿があり、L研の者数名も参加し、その後も社研はL研としばしば行動を共にした。
② 同年一〇月一〇日前後ごろ大久保駅付近の喫茶店「アルタミラ」に増渕、平野、石本、私ほか一名が集まった。平野の下宿探しの相談をしたが、その際増渕はピクリン酸、塩素酸カリ、硫酸、硝酸、塩酸などの薬品の名前を挙げてその化学作用について質問し、平野が答えていた。増渕はこれらの薬品を入手したがっている様子であったので、これからの闘争に使用する爆弾でも作るつもりだなと思った。
③ 同月一五日か一六日ごろの昼過ぎごろ、東薬大の校庭で偶然平野に出会い、平野から、同月二一日の闘争の件で増渕に呼ばれて佐古の下宿に行くからついて来るようにと言われた。平野はどこかへ行って黒ビニールかばんを持って来て、二人で大久保駅から国電に乗り新宿へ行った。その途中車内で平野から同月二一日に使う爆弾を作ると聞かされた。河田町アジトに入る路地で菊井と国井(と思う。)に会った。同アジトの玄関付近で佐古に会ったが、佐古は私達を見ると部屋に入って行き、間もなく増渕が窓から首を出し、入って来るように合図したので平野と二人で玄関から部屋に入った。部屋に入ると、増渕、堀、前林、村松、佐古、前原、井上がいた。江口、石井が後から来た。部屋の隅のテーブルの上にピース缶七個ぐらい、薬品びん二種類、天秤、乳鉢、乳棒、ガラス棒、ファーテル、ビーカー二個が雑然と置いてあった。平野が持って来たかばんの中から薬品びん二本を出してテーブルの上に置いたところ、増渕がそれを見てピクリン酸だと言った。堀はニトロ系の薬品(びん入り)を持って来ていた。増渕がピース缶爆弾の構造及び製造手順について説明し、江口が薬品を混合する場合の注意点を話した。全員で爆弾製造の作業に着手したが、誰か二人ぐらいがレポとして河田町アジトの外で見張りをした。私は増渕、江口の指示で村松と一緒に薬品の分量を計り二種類の薬品を混合する作業を四、五回繰り返した。平野は私たちの傍らで薬品の計量などをしていた。井上、前原も同様の作業をやっていたと思う。作業中テーブルの下に油紙に包んだ棒状のダイナマイト五、六本が置いてあるのを見た。増渕、堀、江口らがブヨブヨした糊様のものをピース空缶に詰めていたと思うが、これがダイナマイトかどうかわからない。増渕はダイナマイトを加えるようなことを話していたので、ダイナマイトをナイフで切って詰め込んだものと思う。また、ブヨブヨしたものの上にパチンコ玉一〇発ぐらいを分散して置いたように思う。江口は、乳鉢を使い、また、薬品混合上の注意をしていた。堀は、江口と乳棒を使い、液体を垂らしながら薬品の調合をしていた。佐古はテーブルの所で導火線と雷管の接続作業をしていた。石井は村松の後に付いており、部屋を出入りしていたので外のレポと連絡をとっていたものと思う。私達は混合した薬品を増渕に渡した。増渕はこれをピース缶に詰めたかも知れない。佐古あたりがピース缶の蓋をした上から茶色のガムテープを巻きつけていた。前林と誰かが完成したピース缶爆弾の指絞を布で拭き取っていたが、江口がアルコールで拭いたほうが良いと言っていた。富岡と元山がいたかどうかははっきりしない。爆弾は一個か二個ずつ完成させ、引き続きつぎの爆弾製造に移るという作業手順であった。作業中に誰かが買物に行ったような気がする。作業途中私は増渕か村松の指示で外へ出て約一時間見張りをしたが、その際河田町アジトに入る路地の角あたりに菊井と国井が立っているのを見た。二人は見張りをしていたものと思う。完成した爆弾は七、八個と思う。その後花園(と思う。)が来て、増渕が爆弾を黒色かばんに入れ二人で出て行ったように思う。増渕からこれらの爆弾はセクトの上部団体が同月二一日に使うと聞かされていた。
④ 同月一七日は体育の授業に出席し、同月一八日は平野の指示で東薬大自治会執行部室で薬品や実験器具類を段ボール箱に詰めて増渕に渡した。同月一九日は自分の下宿でブラブラしていた。
⑤ 同月二〇日東薬大に平野、石本、町田、高野といたところへ増渕ほかL研の者二名が来て火災びんの製造を指示した。増渕の指示で平野がガソリンを購入し、私がコーラやジュースの空びんを集めた。東薬大の一一番教室で増渕が中心となり火炎びんを製造した。
⑥ 同月二一日東薬大に行き、一一番教室で社研の者らが集まって簡単な集会をした後中庭で行われた自治会の集会に参加した。その後一一番教室に戻ると、教壇の所に見知らぬ男が二、三人いて薬品を調合しており、部屋の隅に石本、平野がいた。また、長さ二五センチぐらいの鉄パイプ一五、六本ぐらいがあった。一旦外に出てもう一度一一番教室に戻ろうとしたところ、大学職員に制止されたので食堂に行き、菊井か前原と一緒になり、さらに国井とも一緒になって大久保駅付近の喫茶店「二条」に行き、社研、L研の者らが集まった。そこで東薬大で爆弾を作っていたところ発見され押さえられた、火炎びんはピアノのある部屋に隠してあるという話を聞いた。増渕の指示で菊井と組み新宿周辺をレポした後、午後一一時過ぎごろ河田町アジトに行った。同アジトには前原と国井がいたと思うが二人は後から来たのかも知れない。その後村松か増渕が来て、東薬大で爆弾が発見された際平野と石本が顔を見られたので逮捕されるかも知れない等と話していた。翌二二日午前零時過ぎごろ菊井ほか一名と若松町のアパートに行き泊まった。
⑦ 同日は新宿区柏木町所在の平野の下宿に行き、平野、石本と相談して東薬大に隠した火炎びんを運び出そうということになった。翌二三日早朝石本と二人で旅行用バッグに火炎びん二〇本ぐらいを入れ東薬大から平野の下宿に運び込んだ。その後、増渕の指示(と思う。)で河田町アジトに連絡に行き、再び平野の下宿に戻り、さらに杉並区東高円寺所在の自分の下宿に戻った。
⑧ 同日自分の下宿にいたところ、増渕から電話で指示され、午後三時ごろ河田町アジトに行った。同アジトには井上と前原がいたが、前原はL研の者に呼ばれていると言って近くの喫茶店に行った。私は井上と東薬大で爆弾が発見されたことを話し合い、また井上から「同月二一日佐古がトラックを無理矢理運転させられ、自分もトラックに乗って東薬大前を出発し、新宿西口に向かった。爆弾を持って行ったが投げるところまで行かず失敗した。佐古は消耗して大阪に帰ったらしい」等と聞かされた。その後、井上と二人で近くの喫茶店に行くと、増渕、前原のほか赤軍派の初めて見た男二名がいた。村松はいなかったように思うがはっきりしない。増渕が同月二一日に残った爆弾を使いL研で機動隊を襲撃すると言い出し皆了承した。雑談的に八・九機を攻撃しようという話が出、その後井上、前原と河田町アジトに帰った。しばらくして村松が同アジトに来て機動隊攻撃の話合いがされ、最初四機を攻撃する話が出たがすぐ八・九機を攻撃することに決まり、村松が図面を書いて攻撃方法の説明をし、前原が熱心に質問し、結局八・九機の横から攻撃することに決まったと思う。正門に爆弾を投げることにいつ変更されたのかわからない。このような話合いがされた際増渕がいたかどうかはっきりしない。その後役割分担が決められたが、その際には増渕がいた。増渕の指示で井上、村松ほか一名が投擲班に決められた。その一名とは増渕であったと思うがはっきりしない。レポ役として私と町田が指名され、町田に連絡するように言われたが、私は町田は無理ではないかと答えた。ただし拒否はしなかった。連絡役として前原が指名されたがレポ役と投擲班との連絡をするのではないかと思った。菊井と堀も役割が予定されていたように思うが詳しいことは忘れた。その後翌二四日夜決行すること及び翌日午後一時か二時ごろに河田町アジトに集まることが決まった。さらに導火線の燃焼速度を計測するための燃焼実験をした。私が八・九機付近の地理状況がよくわからないと話すと増渕からよく下見しておくように言われた。その夜平野の下宿に帰った。
⑨ 同月二四日早朝石本と東薬大から火炎びんを運び出した。その後八・九機前の道路や正門付近の様子を下見した。午後零時三〇分ごろ東薬大に行き自治会委員の一人として学校職員から鉄パイプ爆弾を見せられ説明を受けた。午後三時ごろ河田町アジトに行くと、井上、前原、村松、堀(だったと思う。)が来ていた。赤軍派の男二名もすでに来ていたと思うが、遅れて来たのかも知れない。私は実際には町田を誘わなかったが、町田を誘ったけれど断られた旨報告した。その後二人くらいずつ組になって八・九機の下見に出かけたが私は行かなかった。その後増渕が来て、下見に出た者が戻ったところで任務分担の確認があった。私は町田の代りに赤軍派の者一人と組むことになった。午後六時ごろ二、三のグループに分かれて河田町アジトを出た。増渕が一番最初に出た。私は前原と一緒に出て河田町電停方面に向かい、途中で喫茶店に入った。同喫茶店に全員が集まり、午後七時に決行することが決まった。私は増渕から八・九機を中心にして河田町から東大久保の交差点までのレポをやり八・九機正門の警備状況と回りの警察の動きを見て途中で出会った者に状況を説明するように指示された。私は赤軍派の者一名(背の低い男)と喫茶店を出、河田町交差点付近から八・九機方面に向かい、八・九機の向かい側の道路端を歩いて行った。正門前の歩道上に三人ぐらいの制服の機動隊員が立っており、長い警棒を持っている者がいた。ジュラルミン製の大盾を持っている者もいたように思う。正門前を通り過ぎ、余丁町の電停付近で前原ほか一名に会ったので簡単に報告した。その後余丁町の電停付近でしばらく待機し、再び八・九機方向に引き返した。小さな路地の入口で路地の中に村松ほか一名が立っているのを見かけた。八・九機前を通り過ぎ、河田町電停付近に来た時反対側から来た井上に会ったので八・九機正門前の警備状況、余丁町方面からの人の流れ等を報告した。井上と別れ、時刻を確認したところ午後七時四、五分前であったのでブリジストンのアパートのある路地を入って行き、時間を調整して午後七時一分前ぐらいに路地から出て路地入口付近に立ち、交番と八・九機正門の様子を見ていた。赤軍派の者は井上と出会った時には近くにいたがこの時はどこにいたか記憶がない。午後七時を五分ぐらい過ぎても何の変化もないので一人で出発前に集まった喫茶店に戻った。喫茶店には菊井がいた。前原もいたが私より先に来ていたかどうかは断言できない。しばらくして井上が戻り、追われて逃げて来たと話していた。その後増渕が来て爆弾は不発で失敗だったと言った。午後八時ごろ菊井と一緒に喫茶店を出て近くの若松食堂に行き、テレビで邦画劇場を見ながら食事をし、その後菊井と別れて平野の下宿に帰った。
(その二) 刑事第八部第一回(昭和四八年五月一五日)公判調書中の供述記載
① 第八、九機動隊事件(昭和四八年三月一〇日付起訴事実)に対する認否
L研の連中に呼び出されて彼らに言われたままにやったことであり、起訴状記載のような目的は持っていなかった。事実については、共謀の点は認めるが、レポの役目をしていたので爆発物を見ていないし、投げたところも見ていない。
② ピース缶爆弾製造事件(同年四月一八日付起訴事実)に対する認否
事実は相違ないが日付が明確でない。作った爆弾は七個だったと思う。目的は否認する。
③ 証拠に対する弁解
第八、九機動隊事件のピース缶爆弾に関連して
これが出来上った一六日ごろに見た時には、こんなにテープが貼ってなく、缶の蓋のところに貼ってあっただけのように記憶している。ガムテープが青色となっているが、自分としては黄土色であったという記憶である。
内藤の自白調書の内容について
増渕と、薬品の種類を挙げて爆発の効果を話したのは調書に書いてあるように特定の場所ではなく、増渕と会えばいつもその話が出ていたのである。導火線の実験については記憶がはっきりしない。
(その三) 刑事第八部第三回(昭和四八年五月二五日)公判調書中の供述記載
① 昭和四四年四月二六日か二七日ごろ社研に入り、その後L研の者らとも知り合った。社研が日原で合宿をした時もL研の者が多数参加した。
② はっきりしないが、同年一〇月二〇日より前(同月一九日、二一日あたりではない。)に誰かに河田町アジトに連れて行かれたことがある。同アジトに行ったのは午後三時過ぎごろと思う。東薬大にいたとき平野に呼び出されて行ったように思うが、同月末に平野と一緒に河田町アジトに行ったことがあり、その時の記憶と混同しているかも知れない。平野に誘われて行った時は平野はかばんを持って行った。河田町アジトに行った時菊井と国井に会ったような気がするが、これはぼおっとした記憶である。河田町アジトには増渕、江口、村松、前原、井上、佐古がいたと思う。前林もいたような気がする。私が部屋に入ったところ、ピース缶、乳鉢、ビーカーなどが置いてあり、皆それぞれ坐っていた。増渕、江口、佐古らが机の近くにおり、机の上にあった薬包紙に乗せられた白い粉末(薬品びんが置いてあったので薬品だと思う。)を増渕の指示と思うが、受け取って村松に渡すという作業を四、五回くらい繰り返した。村松が混合をしたものをまた受け取って増渕に渡し、同人らがこれをこねていた。他の連中がまた別のものをこねていたように思う。佐古あたりが円筒形の金具のようなものと紐状のものとを接続したりしていた。私はやることがなくなって四畳半の間に坐っていたところ増渕か村松から外で見張りをするように言われ、外へ出て部屋の近くでぶらぶらしていた。雷管、ダイナマイトは警察の取調の際教えられた。机の下に新聞紙が置いてありその上に棒状のものがあったように思うがダイナマイトかどうかわからない。パチンコ玉も見たような気がするので使われたものと思う。後で赤軍派の者が同月二一日の闘争に使うために取りに来るというような話があり、見張りをさせられたり、出来上ったものの指紋を拭くようなことを話していたりしたので爆発物を作っているのではないかと思ったが爆弾という実感はなかった。同月二一日に東薬大で押収された鉄パイプ爆弾については記憶がはっきりしているが、河田町アジトでのことはぼおっとした記憶しかない。同月二一日より少し前に平野と国電に乗った時同月二一日には爆弾が出るのではないかと聞かされたことがあるが、これが河田町アジトに行った日のことかどうかはわからない。七、八個完成したがガムテープは缶全体ではなく缶体と蓋の境界に貼りつけてあったような気がする。完成後誰かが来て全部持ち帰ったと思う。その後同月二一日前に増渕が社研の者らを集めて同月二一日のことについて指示した際には爆弾の話は出なかった。
③ 同月二一日東薬大で鉄パイプ爆弾が押収された。同夜菊井に連れられて河田町アジトに行った。村松、国井らがいたが、河田町アジトで作ったものについての話はなかった。同月二三、二四、二五日の各早朝東薬大から平野の下宿へ火炎びんを運び出した。
④ 同月二三日午後三時前後ごろ増渕(と思う。)からの連絡で河田町アジトに行った。同アジトには前原、井上がいた。同月二一日の東薬大での出来事について話していると、村松が入って来てフジテレビの警戒が厳しいとか四機は駄目だという話をし、ワラ半紙か何かに八・九機の図面を二枚描いた。八・九機の表通りではなく横の路地の方のことについて話があったと思う。爆弾を投げ込むという話は出なかったが八・九機を攻撃するということは薄々感じた。その後増渕が来たような気がする。東薬大の鉄パイプ爆弾にL研も関係しているのではないかと思い、増渕に火炎びんを使うような時代は終わったのかと質問したところ、これからは武器をエスカレートして爆弾等を使うという答があったような気がする。帰り際増渕から明日の午後一時ごろ高野か町田を連れて来るように言われた。高野か町田には増渕の指示は伝えなかった。
⑤ 同月二四日、東薬大で学校職員から鉄パイプ爆弾を見せられ、平野に報告した後、増渕に相談するために午後三時過ぎごろ河田町アジトに行った。増渕、村松、前原がいた。東薬大のことを報告したところ、増渕は後から行くと答えた。増渕から高野や町田はどうしたと尋ねられたので、連絡できなかったと答えておいた。その際八・九機を爆弾で攻撃する話が出た。爆弾の種類は聞いていない。その後喫茶店に入ったような気がする。午後七時に八・九機の正門に爆弾を投げ込むから河田町付近の人の様子、八・九機正門の警備の様子、余丁町方面の人の様子を見て来るように言われ、午後六時少し過ぎごろ知らない男と一緒に喫茶店を出た。概ね警察官と行った実況見分の際に指示したとおりに歩いた。余丁町に行った時立ち止っただけで都電通を往復した。余丁町で前原に会い正門付近の様子等について話した。戻る時井上に会い話をした。河田町交差点近くの路地に入ってから抜け出し、河田町交差点の近くに立って午後七時ごろまで様子を見ていた。一緒に行った知らない男は井上と会った時は一緒にいたような気がするが、路地に入ったころにはいなかった。少し立って様子を見ていたが、変わった様子がなかったので若松町方向に出て帰った。
四、村松の自白の概要
① 昭和四四年九月五日から少し後のころ増渕の指示で菊井、井上、前原、佐古と早稲田大学に行き、同大学に二〇ないし二五名ぐらいの者が集まった。同所で交番や機動隊を火炎びんで攻撃するとの指示があり、四、五班に分けられ、私は前原らと八・九機を襲撃することになった。私は自転車に乗って八・九機を下見したが火炎びんが入手できず中止になった。その後もL研の者が集まった際何回か八・九機を襲撃しようということが話題に出、私は八・九機の付近を通って様子を見たりしていた。
② 同年一〇月一四日ごろの午後三時か四時ごろ増渕に呼び出され若松町所在の喫茶店ミナミに行くと、増渕、堀、井上、前原がいた。佐古もいたように思うがはっきりしない。増渕の指示で井上と早稲田アジトに行き花園から新聞紙に包んだもの(縦一〇センチメートルぐらい、横二〇センチメートルぐらい、厚さ四センチメートルぐらいの大きさのもの)をやばい物であると言われて受け取りミナミに戻って増渕に渡した。その後河田町アジトに増渕、堀、井上、前原、佐古、私が集まり、新聞紙の包みを開くとダイナマイト二〇ないし三〇本くらい、雷管何個か、長さ一メートル余の導火線が入っていた。増渕は同月二一日に赤軍派が武装蜂起をするがその際に使用するピース缶爆弾を赤軍派の指示で製造する、明日赤軍派の者が取りに来るから急ぐ必要があると話し、井上に対しパチンコ玉の購入を、前原に対しガムテープの購入を、私に対し紙火薬一箱の購入を指示した。佐古に対しても何かを購入するように指示がされていたが何であったか覚えていない。各人それぞれ指示されたことを実行するため河田町アジトを出、私は新宿三丁目付近の玩具屋で紙火薬一箱を購入した。河田町アジトに戻ると増渕、佐古、前原がいたので紙火薬を増渕に渡した。私が同月一二日に住吉町の風雅荘に引っ越していたのでそのことを話すと、皆で風雅荘に行こうということになった。午後七時ごろ増渕、佐古、前原、私が風雅荘に行くと石井がいた。同所で導火線の燃焼速度を計測した。増渕が持って来た導火線を約一〇センチメートルの長さに三本切り、マッチで点火しようとしたが点火できず、ガスコンロで点火した。午後八時ごろ増渕は明日河田町アジトへ来るようにと言い残して佐古、前原と帰って行った。
③ 同月一五日午後一時ごろ河田町アジトに行くと、増渕、堀、江口、前林、佐古、前原、内藤、井上が来ていた。増渕の指示で全員が作業に取りかかった。製造手順はピース空缶にダイナマイトを二つに切ったもの四つを入れてその上に白い粉を入れ、ピース缶の蓋に穴をあけて雷管に接続された導火線をその穴から出し、ピース缶内にパチンコ玉を入れて蓋をし、ガムテープを巻いて固定するというものであった。私は、パチンコ玉やピース空缶及び完成したピース缶爆弾をぼろ布で拭き、紙火薬をほぐしてダイナマイトや塩素酸カリの上からふりかける作業をした。増渕、江口、堀、佐古らはダイナマイトを果物ナイフで二つに切ってピース空缶に入れ、その上にパチンコ玉と白い粉を入れていた。前林、前原はパチンコ玉やピース缶を拭いていた。井上、内藤はどういう作業をしていたか覚えていない。菊井、平野、石井は部屋にいなかったように思うが、三人とも何らかの作業をしていたかレポをしていたことは間違いない。午後四時過ぎにピース缶爆弾一二、三個が完成した。午後五時ごろ花園がもう一名の男と来て増渕と話していたが、ピース缶爆弾を中央軍、関西軍など各地に分配するということが話し合われ、花園はピース缶爆弾全部が詰め込まれたかばんを受け取り、帰って行った。その後増渕の指示で残った材料のピース缶三、四個等をダンボール箱に入れた。
④ 同月一九日増渕から電話で指示を受け、翌二〇日中野のクラシックに行くと佐古、前原、国井、井上が来ていた。増渕の指示で目白のスナックに行き、その後佐古、菊井、花園と自動車の窃盗に行った。
⑤ 同月二一日佐古がトラックを運転し、赤軍派の者を乗せて東薬大前を出発した。その後東薬大の前で赤軍派の小西が洋菓子の箱のようなものを持っており、爆弾が入っていると話していた。同日午後一〇時ごろ風雅荘に帰った。同夜河田町アジトに寄ったかどうかはっきりしない。
⑥ 同月二二日夕刻河田町アジトに行き、同アジトにいた前原から佐古が爆弾を持ち込んだと聞いたが、爆弾は見せられていない。佐古は同月二一日夜赤軍派から爆弾二個を持ち帰り、うち一個が八・九機事件に、他一個がアメリカ文化センター事件に使用された。
⑦ 同月二三日午後二時ごろ増渕から電話があり、エイトに行くと前原、井上がおり、内藤もいたと思う。増渕が二階から降りて来て、赤軍派は今後中央軍、地方軍、ゲリラ隊として闘争するがL研はゲリラ隊に入って活動するという話があった。増渕は河田町アジトに爆弾が入ったからこれを使って八・九機を攻撃すると言い、増渕の指示で私が八・九機付近の地理を説明した。同日午後八時から九時ごろの間に河田町アジトへ行くと増渕、前原、井上、内藤が来ていた。八・九機の攻撃方法について話合いがされ、自転車を使用して爆弾を投げる方法、自動車を使用する方法、正面から投げる方法、裏へ回って投げる方法等の話が出た。増渕から翌日午後一時に河田町アジトに集まるように指示された。
⑧ 同月二四日午後一時ごろ河田町アジトに行った。増渕、前原、井上、内藤がいたと思う。増渕は何回か外出しては戻ることを繰り返していた。午後一時三〇分ごろ増渕の指示で国電の千駄ヶ谷駅(と思う。)に堀を迎えに行き、河田町アジトに連れ帰った。その後内藤が増渕の指示を受けて外出した。午後三時ごろ増渕の指示で堀と八・九機の警備状況を下見した。八・九機正門付近で前原と会った。堀と別々になって都電通りを八・九機の向かい側と八・九機側を歩いて往復した。午後三時三〇分ごろ、河田町アジトに戻り増渕に結果を報告した。堀、前原も私より遅れて戻り、増渕に結果を報告していた。午後四時ごろになり、今夜決行することに決まった。増渕が投擲班として私、井上、前原を指示し、他の者にはレポを指示したが、前原が拒否したので、投擲班として私、井上、堀が指示された。私が拒否すると、増渕が前原に指示し、前原が外出した。菊井を呼んで来るように指示したものと思う。前原は約三〇分後一人で戻って来た。増渕は一旦外出してすぐ戻り、私に対し木村コーヒー店へ行って連絡を受けるように指示したので午後六時ごろ出かけた。午後七時三〇分ごろまで河田町アジトから徒歩約五分のところにある木村コーヒー店にいたが、その間前原から一回電話があり、堀が一度店に顔を出した。その後風雅荘に帰り、石井と二人で八・九機事件のテレビニュースを見た。午後一〇時ごろ増渕が来て爆弾が不発だったと話していた。なお、同日の午後ピース缶爆弾一個を見たが、外形や茶色のガムテープが貼ってあることから自分達が作ったものであることがわかった。
⑨ 同月二五日か二六日夕刻近く河田町アジトに行くと増渕、前原がいた。井上もいたと思う。増渕から米帝出先機関を攻撃する、時限装置を研究するようにと言われタイマーを渡された。タイマーに千枚通しか何かで赤軍、毛沢東などと落書した。二、三日後増渕の指示で国会、山王ホテル等を下見したが、建物の中に入ったりアメリカ文化センターを下見したりしたことはない。同月三一日花園の指示で赤軍派の者らとダンプカーを盗んだ。
⑩ 同年一一月一日午前一一時ごろ井上が風雅荘に迎えに来たので二人で中野に行き中野駅付近で佐古が運転し、増渕が乗った藤田和夫の自動車に乗り込んだ。増渕が四角の箱形の物が入ったハトロン紙の紙袋でガムテープで口をとめた物を膝上に抱え、時間を気にしつつ、佐古に静かに運転するように指示していた。大きな鳥居のある付近に停車し、増渕と井上が降りて行き一〇分くらいで手ぶらで戻って来た。その後四谷三丁目で井上と一緒に降車し、井上と別れ午後二時過ぎ風雅荘に帰った。
五、石井の自白の概要
(その一) 捜査段階における自白
① 河田町アジトで爆弾作りをした日の前日、村松から「L研は、同月二一日にゲリラ戦をやるのでそのための強力な武器を作る。明日材料集めをやる。佐古の部屋にメンバーが集まるから行って佐古の指揮のもとにレポをやるように」と言われた。L研の闘争路線が爆弾闘争に変わりつつあったのを聞いていたので、強力な武器とは爆弾かも知れないという気もした。
② 河田町アジトに行った日より前のことであるが、村松らが風雅荘の部屋で何かを燃やす実験をしたと思われることがあった。その日はアルバイトを休み、千葉県の我孫子の実家に食料を取りに行き午後明るいうちか夕方ごろ部屋に戻った。部屋のドアをあけたところ村松が部屋の中にいて台所のガス栓のあたりをいじっていた。村松は今多数の者が集まり、ガス管を借りて来て部屋の真中にコンロを置きすきやきをして食べたところだと話していた。しかし、台所には料理した形跡等はなかった。部屋の真中に灰皿が置いてあり、その中にほとんど燃え尽くしたマッチ棒が何本もあったのに、煙草の吸殻は一つもなかった。傍らに新しいマッチの大箱が置いてあった。コンロは電池による点火式なのでマッチは不要と思って村松に質問したところ、電池がなくなったのでマッチを買って来たという返事であった。灰皿の中に歯車のような鉄板が置いてあった。
③ 同月一七日か一八日(一六日かも知れない)、村松が材料を集めに行くと言って風雅荘を出て行き、私は昼過ぎごろ河田町アジトに行った。佐古、前原、井上がおり、間もなく江口が来た。江口は買物袋のような手提かばんとパンを持って来たが、かばんの中に何が入っていたかはわからない。江口がエイトに国井が来ていると言ったので、井上と前原がコーヒーを飲むと言って出て行き、佐古も後を追うように出て行った。江口にあなたもレポをやるのかと尋ねたところ、私は別のことをやるという返事だった。間もなく佐古が戻って来たのでレポについて質問したところ、佐古は「材料集めの者が戻って来たらやる。富岡や元山も来ることになっているがまだ来ない」と答えた。しばらくして佐古からエイトへ行き井上、国井にレポを始めるから来るように伝えることを指示されエイトへ行ったところ、井上一人がいたので佐古の指示を伝え、河田町アジトに戻って来た。同アジト手前の路地で佐古に会ったのでレポの目的を聞いたところ、今日河田町アジトで爆弾を作るという返事であった。佐古から「レポをやってほしい。富岡、元山がまだ来ないので一人で路地入口のパン屋の所に立っていて、国井、井上から連絡があったら、すぐ部屋の方に知らせてほしい」と指示され、パン屋の角に立ってレポを始めた。国井と井上はすでにフジテレビ通りで先端レポをしていたと思う。私がレポに立って間もなくの午後一時過ぎごろ増渕が来た。その後午後一時半過ぎごろ平野と内藤が来て、さらにその後しばらくして富岡と元山が来た。富岡と元山に爆弾作りのことを話し、三人でパン屋の角に立っていた。間もなく佐古が部屋から出て来て、「三人一緒に立たないで間隔を置いて立つように。石井は四・五機の方を見て来てほしい」と指示した。佐古はレポの責任者だったと思う。私は佐古の指示に従い市ヶ谷自衛隊の方を歩き、約一時間三〇分後戻って来たところパン屋の角付近に富岡、元山が立っていたので、二人に機動隊の姿は見かけなかった旨話して部屋の方に行こうとしたら、二人のうち一人から窓を叩いてから部屋に入るように言われた。玄関の所で佐古に会い、異常がなかった旨報告したところ、佐古から富岡らとパン屋の付近に立ってパイプ管方式でレポをするように指示された。部屋の中からは物音は聞こえて来なかった。富岡らに尋ねたところ、「パン屋の角から部屋まで間隔を置いて立ちリレー方式で中継する。国井は女子医大方向に、井上は都営住宅方向に行っており、横断用の黄色の旗を持っていてその旗で合図することになっている。あなたはパン屋の角で立っていてほしい」と言われたので、パン屋の角に立っていた。私がパン屋の角に立っている時、河田町アジトの前の垣根のところに井上がいて何かをしているので、富岡らに質問したところ、井上は同アジトの裏の方から帰って来たという話であった。井上が一旦部屋の中に入ってすぐ出て来て垣根の向かい側の林の中でかがみ込んで何かをやっているので富岡らに質問したところ、缶に穴をあけているという返事であった。その間佐古も井上のところに行ったり来たりしていた。この日何度か買物を頼まれたことがあった。部屋の前で井上か佐古に缶の蓋に穴をあけるための五寸釘と怪我をした場合に備えるためのバンドエイドを買って来るように頼まれたが、ためらっていたところ井上が自分で釘を買いにいった。私は佐古(と思う。)から金をもらってバンドエイドを買いに行ったが薬局が見つからず購入できなかった。また、私がパン屋の角でレポをしていた時、井上から負傷してシャツで血を拭いてしまった者がいるので、赤っぽい格子縞のシャツを買って来てほしいと言われ買いに行ったが見つからず、購入できなかった。その後佐古から掃除をするので外で待つようにと言われ部屋の外に立っていたところ、井上が白い布包みを持って窓から飛び降りて来た。部屋の中に入ったところ、増渕、平野、富岡、元山らがおり、佐古、内藤、井上らが部屋に出入りして後片づけをしていた。江口と前原の姿が見えなかった。この日は河田町アジトで国井、村松、前林、堀とは会っていない。部屋の隅に段ボール箱が五、六個積んであり、その上に空缶のような缶が並べてあった。作った爆弾は段ボール箱に入れてあるものと思った。平野に蟹缶の中に白い粉末が詰まったものをいじりながら、爆弾が出来るかどうか試してみると話していた。そのうち富岡、元山も帰り、今日のレポはこれでいいと言われたので、午後五時半か六時ごろ一人で風雅荘に帰った。二日ぐらい後村松から平野が作ろうとした蟹缶の爆弾は未完成と聞いた。八・九機事件直後に村松から「八・九機に投げられた爆弾は河田町アジトで作ったピース缶爆弾で、花園がやった」と聞き、その時初めてピース缶爆弾を作ったことを知った。
④ 八・九機事件当日の夜(あまり遅くない時)村松がバタバタと階段を上って部屋に入って来た。村松は息を切らし、興奮している様子で、八機がやられたという意味のことを言った。村松に言われて風雅荘の部屋の窓から下の通りを見たところ、機動隊員が多数往き来して、何か探している様子であった。村松は様子を見て来ると言って外出し戻って来て、「犯人が逃げ込んだ。若い学生のような者が職務質問されている」と話していた。私が村松に活動家に見られやすいから注意したほうがいいと言うと、友達と会っていたのだから大丈夫だという返事であった。そのうちテレビで八・九機にピース缶爆弾が投げ込まれたが怪我人はなかったとのニュースが流れた。村松は二、三回様子を見に行くような感じで下に降りて行くことがあったので、このニュースを見たかどうかわからない。その後しばらくして前田が村松と一緒に部屋に入って来た。村松と前田はテレビで八・九機事件のニュースを見た後廊下に出てごそごそし、その後、村松は前田を送って行くと言って出て行った。また、夕刻過ぎごろ、村松が慌しく部屋の中に入って来て、職務質問を受けたと話していたことがあったが、これが八・九機事件当日のことであったかどうかはっきりしない。
(その二) 刑事第二部第七回(昭和四九年二月八日)公判調書中の供述記載
① 昭和四四年一〇月二〇日に近いころ(平日と思う)、前日村松からレポの話があるから行くようにと指示され、アルバイトを休み、午後一時ごろ佐古の部屋に行った。前原、井上、江口らがいたと思う。佐古は部屋を出入りしていた。佐古から立っててくれと言われ、午後一時半ごろからパン屋の角に立っていた。その後増渕が一人で来たようである。平野も後から来た。国井はそのうち来るという話であったが姿は見ていない。菊井は来ていなかった。村松から佐古がレポの責任者と聞いていた。パン屋の角に夕方ごろまで立っていた。その間に買物を頼まれ、数回買いに行ったことがあるが、買うことのできたものは寿司だけであった。ワイシャツ、バンドエイド、釘の購入も頼まれたがバンドエイドと釘は頼まれたもののすぐ買いに行かなくてもいいと言われ買いに行かなかった。パン屋の角に私が立ち、佐古の部屋に至る路地に等間隔に元山、富岡が立っていた。佐古の部屋の一番近いところには男の人(佐古ではない。)が立っていた。誰かが私に連絡することになっていて、私が連絡を受けた際には佐古の部屋に近いところに立っている人に報告することになっていたと思う。垣根のほうで缶に穴をあけているというような話を聞いたことがあった。夕暮れごろ部屋の中に入ると段ボール箱が何個か積み重ねてあり、リュックサックが二、三個置いてあった。外で見張りをしていて、その雰囲気から部屋の中で爆弾を作っているのではないかとの感じを多分に抱いた。私が佐古の部屋の中に入って作業をしたということは全くない。
② 風雅荘にL研の者らが集まって爆弾製造の相談をしたというような場面や導火線燃焼実験をしたというような場面に居合わせたりしたことはない。
六、被告人増渕の自白の概要
① 昭和四四年八月L研が興津で合宿をした際、爆弾を含むあらゆるものを利用して武装闘争を行うという方針を打ち出した。
② 同年九月下旬ごろか一〇月初めごろ早稲田大学に泊まり込んでいた時、村松から八機に火炎びんを仕掛けたいとの相談を持ちかけられ、前田に話したところ反対されたので中止させた。
③ 同月九月下旬か一〇日初めごろ、私はL研のメンバーである菊井、村松、国井、前原、佐古、井上を連れ、L研グループとして赤軍派に加盟した。前田が赤軍派に加盟する際の手土産の意味があった。
④ 同年一〇月中旬ごろ(同月二一日の一週間ぐらい前)、前田から青梅の方の火薬庫ヘダイナマイトを盗みに行くからL研から兵隊を出してほしいと依頼され、適当に人選して連れて行ってよいと答えておいた。その後同月一七日ごろ、前田からダイナマイトを入手したので村松に爆弾を作らせたいと言われ、その日かその翌日に村松に前田の話を伝えて爆弾製造を指示した。村松は爆弾製造の知識を有しており、資料を持っているということを聞いていた。私は村松に対し材料や知識の入手を担当する者として菊井、佐古、国井を、直接爆弾の製造を担当する者として村松、前原、井上を指名した。翌日ごろの同月一八日ごろ前田から同月二一日より前にL研が八機を爆弾で攻撃するようにと指示され、同日午後四時か五時ごろ八機前の通りにある喫茶店にL研メンバーを集めた。午後五時前後ごろ私、菊井、国井、佐古、井上が集まった。石井も来たように思うがはっきりしない。村松は来なかった。私は全員に八機攻撃を伝え、二人一組になって八機周辺を下見するように指示し、私も菊井と組んで八機の回りを下見した。下見終了後村松のアパートに集合し、八機の裏から塀越しに村松と菊井が爆弾一個を投げ込むこと、前原、佐古、国井、井上がレポをすること、私が総指揮をすること、同月二〇日実行すること、同日朝一〇時にクラシックに集まることを指示した。翌一九日村松から「ピース缶爆弾が完成した。河田町アジトにある」との連絡を受け、村松に、予定どおりに八機を攻撃することを伝えた。同日午後三時か四時ごろ池袋のスナックで花園と会い、花園から爆弾はどうなっているかと尋ねられたので、順調に行っていると答えておいた。花園は赤軍派の方でも製造が進行していると話していた。翌朝一〇時ごろクラシックに行った。井上、佐古、村松、国井が来たが、村松が赤軍派の指示でトラックを盗みに行くと言って佐古と出て行ってしまったので、八機攻撃を中止した。同月二一日菊井か前原に河田町アジトにある爆弾を赤軍派に渡すように指示した。
なお、ピース缶爆弾製造についての増渕の最終供述は、「一〇月一六日の午後四時ごろ、ミナミに、私、村松、井上が集まった時、村松から赤軍派から同月二一日に使用する爆弾を作るように依頼されたとの話があったので、爆弾を製造することを決め、村松、井上に早稲田アジトに行ってダイナマイト等の材料を持って来ること、同月一七日正午ごろ河田町アジトに集合することを指示した。私は堀、江口に電話をかけ、同月一七日正午ごろ河田町アジトに集合するように指示した。私はまた平野の下宿に行き、社研の者を連れて河田町アジトに来るように指示した。同月一七日正午ごろ河田町アジトに私、佐古、村松、井上、前原、国井、内藤、石井、堀、江口、前林が集まった。平野が参加したかどうかはっきりしない。私は見張役として石井、前林を指名し、ダイナマイトを缶に入れる作業を村松、前原に、パチンコ玉、塩素酸カリを缶に入れる作業を井上、前原、内藤、国井に、雷管と導火線の接続作業を堀、佐古に、塩素酸カリの計量作業を江口に指示した。正午過ぎごろから爆弾の製造を開始し、午後五時ごろまでにピース缶爆弾一二、三個が完成した。その間、石井と前林が河田町アジト周辺を見張っていた。工業用雷管、ダイナマイト、導火線は村松、井上が早稲田アジトから持って来たもの、パチンコ玉は前原が持って来たもの、塩素酸カリは村松が法政大学から盗んで保管していたもの、ピース缶は皆であちこちから集めたものである。皆軍手を着用して作業をし、完成した爆弾は布で指紋を拭き取った。私は午後五時半ごろ村松、前原に完成したピース缶爆弾と残材料を赤軍派に渡すように指示して帰った。同月二一日夏目(女性)から爆弾が赤軍派に渡っていないと聞かされたので、夏目に対しL研の者に河田町アジトにある爆弾を赤軍派に渡すように伝えることを指示した」というものである。増渕48・3・23検面及び同48・4・11検面参照(これらの検面は、増渕の供述経過を明らかにする証拠として取り調べたものである)。
⑤ 同月二二日平野の下宿付近の喫茶店で、同月二一日のことの総括及び今後の爆弾闘争について菊井と論争した。
⑥ 翌二三日の昼ごろ前日の論争を続行するため村松のアパートか河田町アジトで菊井と会った。菊井から同月二一日に井上がピース缶爆弾二個を持って来たので河田町アジトに保管しておいたとの報告を受け、爆弾闘争をやろうと考えて村松か前原に対し、ミナミにL研のメンバーを集めるように指示した。同日午後四時ごろミナミに私、菊井、前原、井上、国井が集まった。石井も来たような気がするがはっきりしない。村松は爆弾闘争について前田に連絡に行かせたため、ミナミには来なかった。私がピース缶爆弾を入手したので八機を攻撃すると提案したところ、全員が賛成した。八機の下見を指示し、私も八機の裏通りなどを通って下見をした。正門の機動隊員を狙うことを考えていたので皆にそのことを話したかも知れない。下見終了後全員が河田町アジトか村松のアパートに集まった。村松が後から来たかも知れない。石井がいたかどうかは思い出せない。私が全員に対し、明日の夕方(時刻も決めたと思う。)正門に向かい村松と菊井が投げること、その前方と後方で他の者がレポをすること、実行する前に河田町アジトに集合することを指示した。打合せ終了後平野の下宿に帰った。その後、内藤、堀に対し電話で「明日爆弾闘争をするからレポをやってほしい。お昼ごろ河田町アジトに集まるように」と指示をして了解を得た。町田にも同様の連絡をとろうとしたが、連絡がつかなかったように思う。
⑦ 同月二四日と思うが、昼間村松のアパートか河田町アジトで二、三人のメンバーで導火線の燃焼速度を計測する実験をした。
また、同月二四日、井上が持ち帰ったピース缶爆弾を見たようにも思うがよく思い出せない。
⑧ 同月二四日午後四時ごろ村松のアパートに行くと村松、石井がいた。前田も来たように思う。私は村松に菊井と一緒に八機の正門にピース缶爆弾を投げ込むように指示して了解を得た。私はさらに村松に対し午後七時ごろに投げ込むこと、午後六時か六時半ごろに皆を一旦ミナミに入れてそこから出発することを指示した。前田も一旦喫茶店に入ってそこから出発するのがよいと言っていた。村松は午後六時か六時半ごろ出発し、私は村松のアパートで待機していた。午後八時か九時ごろ菊井が一人で来て爆発せず失敗であったと報告した。その際には前田も居合せたと思う。村松も他の者も帰って来なかったと思う。その後菊井と二人で村松のアパートを出、外で飲酒した後江口のアパートへ行って泊まった。その際菊井から「導火線を使ったから失敗した。電気雷管を使ったらどうか」との提案がされたので賛成し、菊井に対し村松と相談して電気雷管を使って時限装置を作るように指示した。
⑨ その後私は河田町アジトに行き、工業用雷管が電気雷管に交換されたピース缶爆弾を渋谷区本町所在の江口のアパートに持ち込んだ。そのころ村松に時限装置の製作を、前原に爆弾を入れる容器の製作を指示した。コードを接続するだけにまで完成した箱入りの物を河田町アジトにあった紙袋に入れ、江口のアパートに持ち込んだ。電池は河田町アジトにあったソニー製トランジスタラジオのものを使ったのではないかと思う。同月三一日佐古にレンタカーを借りて来させ、その夜は江口のアパートに同人及び佐古と泊まった。アメリカ文化センターを攻撃すること、実行メンバーが私、佐古、村松及び井上であることはすでに決まっていた。翌一一月一日午前一〇時ごろ爆弾を紙袋に入れて佐古運転のレンタカーで出発し、中野の喫茶店クラシックかその付近で村松と井上を乗せた。正午過ぎごろアメリカ文化センターの近くまで行き、村松と井上に指示して爆弾を仕掛けさせた。時限装置のセットについては覚えていない。L研独自の闘争であり赤軍派は関係がない。
なお、増渕のこの点の最終供述は、「同年一〇月二五、二六日ごろ時限式爆弾の製造を計画し、村松に時限装置の製作を指示した。村松はトラベルウォッチを使ってみたがうまく出来ないのでタイマーを使うと言っていた。河田町アジトで前原、井上とピース缶爆弾の工業用雷管を電気雷管に取り換え、塩素酸カリウムを加えて改造し、江口のアパートに持ち込んだ。同月二八日ごろ前原らに爆弾を入れる箱を作らせた。その夜村松、国井、井上と江口のアパートに行き村松にピース缶爆弾に時限装置を取り付けさせ、同アパートに保管した。その際江口も同席していた。井上、前原、国井は攻撃目標を下見し、同月三〇日アメリカ文化センターを目標に決めた。同月三一日夜は国井、井上、佐古と江口のアパートに泊ったが、佐古にレンタカーを借りて来させた。翌一一月一日午前一〇時ごろ佐古運転の車に村松、井上とともに乗り込み江口のアパートを出発し、午後零時三〇分ごろアメリカ文化センターに到着し、井上と村松に爆弾の仕掛けを指示した。二人が時間内に戻らなかったので先に江口のアパートへ戻ったように思う。午後四時ごろ井上か村松から不発との報告を受けた」というものである。増渕の48・3・22員面参照(この員面は、増渕の供述経過を明らかにする証拠として取り調べたものである)。
七、被告人堀の供述の概要
① 昭和四四年五月以降L研に出入りするようになり、また、河田町アジトにも行ったことがある。
② ピース缶爆弾製造は否認。
なお、この点に関する供述は、「昭和四四年一〇月二一日より四、五日前、昼ごろ河田町アジトに行く途中江口に出会い、一緒に河田町アジトに行った。同アジトに増渕及び前林がおり、どちらかが近くのバス停まで新聞を買いに行った。その日河田町アジトに来ていたのは全部で八名くらいと思うが、他には井上の名前しか思い出せない。河田町アジトでどんなことをしたのかは思い出せない」というものである。堀の48・4・2検面参照(この検面は、堀の供述経過を明らかにする証拠として取り調べたものである)。
③ 昭和四四年一〇月二四日以前のある日の昼間、河田町アジト(と思うがはっきりしない。)から村松と一緒に村松のアパートに行きお茶を飲んだ。その後村松と一緒に村松のアパートを出、都電通りの八機前に出て右折し、都電通りを歩いたが、右折して約二〇メートルぐらい進んだところで電柱にぶつかりそうになった。八機方向を見ていたためと思う。
④ 日ははっきりしないが、河田町交差点付近の喫茶店に村松、L研の誰かといた時、L研に出入りしている男が入って来て村松らが話をしている間席をはずしたことがあった。その後午後七時ごろ右喫茶店を出てフジテレビ前通りを一人で歩いていたところ、増渕が自動車に乗っているのに出会い、そばに寄ろうとしたが、増渕から先へ行くように合図された。しばらく歩くと増渕が自動車から降りて追いつき、二人で歩いて河田町アジトに行き、増渕はフジテレビの喫茶店に行った。その後数人が走って来る足音がして窓の外から誰かが増渕の所在を尋ねたので教えてやった。その約一時間後増渕ら二、三人が河田町アジトに戻って来た。
八、被告人江口の自白の概要
昭和四四年一〇月二一日の直前ごろ五、六名の者が河田町アジトに集まり、ピース缶を利用した爆弾を作ったことがある。いずれもL研の者で前原がいたことを覚えている。私は途中から参加したような気がするがはっきりしない。私が参加したのは約一時間で夜間であったように思う。私が材料を持ち込んだことはない。私は何かの容器からさらさらした黄色粉末の薬品をピースの空缶に一杯に入れ手で押さえつけたことを覚えている。他の材料は思い出せない。完成したものは二、三個という記憶であるが、私が作業した数が二、三個であったためにそのように思い込んでいるのかもしれない。同月二一日に使用するために作った爆弾であるが、誰がどのように使うかについては聞かされていない。
九、菊井の証言
(1) 菊井に対する捜査及び証人尋問に至る経過
菊井良治に対するピース缶爆弾関係事件の捜査及び菊井の証人尋問が行われるに至った経過を摘記すると、つぎのとおりである。
46・11・16 朝霞事件について逮捕。
12・7 同事件により起訴。
47・11~12 昭和四四年当時の活動状況について参考人として取調を受ける(ピース缶爆弾事件については供述してしない)。
48・3・16 ピース缶爆弾製造事件について逮捕。レポについて曖昧な供述をしたこと、前原から八・九機事件の犯行を打ち明けられた旨供述したことを除き、ピース缶爆弾事件につき基本的には否認。ピース缶爆弾製造事件については後に不起訴となる。
50・1・29 朝霞事件一審判決(懲役一八年)。
52・6・30 朝霞事件控訴審判決(懲役一五年)。
8・20 右裁判確定、受刑開始(刑期終了は昭和六二年六月一三日)。
10・14 岡山刑務所収容。
54・5・24ごろ~5・30 岡山刑務所において参考人としてL研の活動状況につき検察官の取調を受ける。ピース缶爆弾に関する発問に対しては答えない。)
5・30 54・5・30検面一通作成(署名指印拒否)。
6・8ごろ~6・12ごろ 右同様の取調を受ける。ピース缶爆弾に関し曖昧な供述をする。54・6・10検面及び6・12検面作成(署名指印)。
6・13 中野刑務所に移監。以後7・31まで参考人として検察官の取調を受ける。ピース缶爆弾製造事件につき供述し、7・10検面一通が作成される。
10・23~55・3・24 刑事五部九四回ないし一〇一回公判及び当部一七八回、一七九回、一八二回ないし一八六回公判において証言(証六四冊一五九五六丁・証六五冊一六〇九五丁及び一六二〇七丁・証六六冊一六三六五丁及び一六四九七丁。八五冊三二三一四丁及び三二五三二丁・八七冊三三〇三九丁及び三三一六六丁・八八冊三三三一〇丁及び三三四八五丁・八九冊三三六八〇丁)。
57・9・2 当部の公判期日外証人尋問(岡山地方裁判所で行う。)において証言(一五四冊五二二三二丁)。
(2) 菊井の証言(自白)の概要
菊井の自白は、公判期日及び公判準備期日における証言であり、やや詳しく記すことにする。
① 自分は、高校在学中から共産主義者同盟(いわゆるブント)の一分派組織であるマルクス主義戦線(マル戦)の活動に参加し、高校卒業後、昭和四三、四四年ごろ、中央大学通信教育課程に在籍するほか、名古屋市内の中京法律学校に通い、日本社会主義学生同盟(社学同)に属し、同市内の予備校や各種学校の学生などを集めて浪人共闘(浪共闘)を結成して活動していた。昭和四四年の七月ごろ中央大学の夏期授業(スクーリング)のために上京し、当時全共闘によってバリケード封鎖されていた法政大学の構内において、社学同法大支部の組織であるレーニン研究会(L研)のリーダーをしていた増渕と会い、同人と討論した結果意見が一致し、L研に加入し、その後共産主義者同盟赤軍派のメンバーからオルグされて同年九月に赤軍派にも加入し、以後L研のメンバーとともに活動しながら赤軍派のメンバーとしても活動した。そして、その後L研と赤軍派とは共闘をしたが、その具体的な例は、同年九月三〇日のいわゆる神田戦争、一〇月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署に対する火炎びん攻撃計画の際の行動、同月二〇日のトラック窃盗(翌日の東京戦争の準備)、同月二一日の東京戦争当日における東薬大での火炎びん製造等、同月二四日の八・九機事件、同月三一日から一一月一日にかけてのダンプカー(首相官邸、警視庁突入用)の窃盗、一一月一日のアメリカ文化センター事件がある。L研の本拠は、自分が加入して以後、法政、早稲田、立教の各大学を転々として移動したが、同年秋の闘争に向けて拠点を整備する必要に迫られ、同年九月初旬から中旬にかけてメンバーの数名が東京都新宿区内の四か所に分散して居住し、いわゆるアジトを設定した。すなわち、河田町アジト(佐古及び前原が入居)、若松町アジト(自分が入居)、住吉町アジト(村松及び石井が入居)、早稲田アジト(国井が入居)である。
② ところで、自分たちL研の者らは、昭和四四年一〇月に、まず新宿区若松町一二番地所在の喫茶店ミナミで増渕からピース缶爆弾の製造についての指示を受け、これに賛成し、協力して同爆弾を製造することを決め(以下「ミナミ謀議」という)、その翌日か、そうでないとしてもあまり離れていない日に河田町アジトに集まって同爆弾十数個を製造したことがあり(以下、「爆弾製造」という)、その時自分は国井らと同アジト周辺のレポ(警戒)を担当した。
③ もともと自分は、昭和四六年八月に埼玉県和光市所在の自衛隊朝霞駐屯地の襲撃事件(いわゆる朝霞事件)を犯し、同年一一月逮捕され、一二月起訴され、以後裁判を受けることになったが(昭和五二年八月懲役一五年の刑が確定し、以後服役している)、その事件の未決勾留中の昭和四八年三月に本件ピース缶爆弾製造事件により逮捕され、翌四月にかけて勾留されて取調を受けたが、その時は、自分は取調に対しピース缶爆弾製造の事実については否認し通し、認めることをしなかった(もっとも、当時作成された司法警察員に対する同年四月二日付供述調書((証六九冊一七二一三丁))や検察官に対する同月五日付供述調書((同冊一七二二一丁))の中の自分の供述として、「昭和四四年一〇月ごろ、たしか国井と一緒でなかったかと思うが、河田町アジトの近くを二人でぶらぶら歩いたことがあったような気がするので、もしかするとその日が爆弾製造の当日であり、自分らのその行動が外周警戒の任務についていたということであったかも知れない」旨の記載があるのは、取調官から問い詰められ、言い逃れが苦しくなった結果述べてしまったことによるものである)。その自分が態度を変えてピース缶爆弾製造の事実を証言することを決意した動機は、以下のとおりである。すなわち、第一に、自分は昭和四八年に本件で逮捕、勾留された当時は被疑事実を認めず、最後まで頑張り抜いて結局不起訴になった。ところが、これに対して、本件裁判中の被告人諸君の中から菊井が起訴されないのはおかしいじゃないか、あいつは裏切者だとかスパイじゃないかというような根拠のない中傷を加えて自分を攻撃する者が現われた。さらに彼等の救援グループの発行した出版物などには自分の名前を呼捨てにされて随分ひどいことを書かれた。もし本件がでっち上げだというのならば、わたしの名前を出して自供した諸君はわたしに対して謝罪し、自分たちが自供したにもかかわらず菊井君は不起訴になってよかったねと喜んでくれるなら話はわかるが、それと逆に菊井は起訴されないじゃないかと、ある意味では菊井も起訴しろというようにも取れる発言をしてわたしの足を引っ張り、権力に売り渡そうとした。自分はこれに対し非常に憤慨したが、しかし、かつての同志であり友人であった諸君であるから、偽証することぐらいは覚悟で、なんとか助けてやりたいと考えていた。ところが、一方でそのような卑劣な中傷をわたしに加えながら、他方でそのような事実をわたしが知らないと思ったのか、沢山の手紙が来て公判協力をしてくれとか助けてくれということを言って来た。これではまるで二枚舌のペテン師ではないかと思ったが、じっとこらえて我慢していた。しかし、自分の朝霞事件の判決が確定して服役するしばらく前のことだが、江口良子がわたしに対し実に屈辱に堪えないひどい内容の手紙を寄こし、それを読んで、もう勘忍袋の緒が切れた、一切の公判協力はしない、絶交だと訣別の手紙を送った。このように捜査当局の取調に対し自供し、また私を裏切り、権力に売り渡そうとし、理由のない辱めを続けて来た諸君に対して、もはやわたしは義理立てをするいかなる理由も消滅した。第二に、もし本件被告人諸君らが本当の革命家であるのであれば、保釈で出たならば逃亡してでも地下に潜行して組織を再建し、武装闘争を継続発展させて行くことが共産主義者の任務ではないかと自分は考える。ところが、被告人諸君の多くは、獄中にいる時は保釈で出してくれとジタバタし、保釈で出たら今度は一八〇度転向して武装闘争をさっぱり清算し、市民社会に埋没して、あげくの果てに被告団の内部では自己保身と責任転嫁のみにくい争いを繰り返している。そして、御苦労にも毎回法廷に出て来てやっただの、やらないだのと言っている。つまり彼らは現存法秩序と裁判制度を肯定した上で、それを前提として法廷という土俵の枠内でやったかやらないかを争っているに過ぎない。闘いに対するこのような姿勢、公判に対する考え方というものは全く民青以下の小ブルジョワ民主主義でしかなく、もはや革命武装勢力とは無縁の存在であり、自分はこのような姿勢を認めるわけには行かない。第三に、彼らが本当の革命家であるのならば、もっと堂々と胸を張って行って欲しいと思う。自分たちはかくかくしかじかの信念に基づいてこの爆弾闘争を闘ったのであり、まさしく正義は我々の側にあり、裁くなら裁け、一〇年でも二〇年でも刑務所ぐらい行ってやるぞと、なぜそれくらいのことが言えないのか。わたしはまことに残念でならない。結局、保釈で出ているような諸君は、現在の自分自身の生活を失うことがこわいとか、長期間投獄されるのはいやだといったような下劣な理由から、やったの、やらないのと言って騒いでいるに過ぎない。このような態度を自分は絶対に認めることはできないと考える。第四に、本件一連の爆弾闘争は、当時のわたしをも含む社学同レーニン研究会グループ及び赤軍派によって遂行された最初の歴史的な爆弾闘争であり、これについて自己保身と責任転嫁という下劣な理由からやったことをやらないと言い、ジタバタしているのは何よりも男らしくないし、それにもまして当時このために自分たちの青春を賭けて闘い抜いた無名の戦士たちに対する限りない侮辱であるとともに、事件の真相を知らないで、彼らのやっただのやらないだのという嘘に踊らされている善意の人々や人民に対する犯罪的な裏切り行為であり、背信行為であると自分は思う。自分が罪を逃れて助かるためには人民に嘘をついてだましてもいいんだというような論理は絶対成り立たないと思うし、自分はこのような考え方を認めるわけには行かない。第五に、自分は、当時共産主義者として、人間として、未熟であり修行が足りなかった。このために自分は活動の過程で多くの誤りや失敗を犯したし、また極めて重大な思想的敗北を喫した。このことを自分は同志、友人諸君並びに人民に対し深く自己批判するとともに反省し、謝罪したい。そして、以上の結論として、わたしは一〇年前にみずからかかわり、闘い抜いた革命武装闘争の意義を人民に明らかにするとともに、自己の責任の所在を明らかにしたいと考える。自分の証言の動機は、大体以上のとおりである。
④ 自分は、今回の証言の前に、昭和五四年五月から七月にかけて東京地方検察庁長山四郎検事から昭和四四年当時のことについて事情を聴取された(同検事は、さきに朝霞事件による未決勾留中に自分を取り調べたことのあった人である)。その際に、同検事からピース缶爆弾製造の事実についても尋ねられ、初めの間は言いたくないと述べて認めることはしなかったが、同検事から、実際に爆弾事件をやったにもかかわらず、嘘をついて罪を逃れようとするのは人間的に見ても正しいことじゃないし、ありのままいうべきだという説得を受け、ついに事実を述べることを決意した。かつて一緒に闘争をした被告人らに不利な証言をすることは自分としても非常に苦痛であった。しかし、やったことはやったんだからそれぞれ皆責任をとるべきで、仕方のないことだと思う。かつての同志や友人のためであるからといって自分が偽証をして罪を逃れることがいいとは思わない。自分の気持がこのように変わったことについて考えると、やはり朝霞事件で逮捕され、以来一〇年近く拘置所、刑務所の生活を送っている間に、かつて自分がやって来たことに対して反省をするというか、思想的にも批判、検討を加えており、その中で、今自分は仏教の勉強をしているが、自分自身の内面的な変化というものがあったと思う。共産主義運動にかかわって来た者として真相を明らかにすることは、別に自分の主義、主張に反することでもないし、やったことはやったんだから、それは共産主義者であろうと保守反動であろうとやったことにきちんと責任をつけるということに別に変わりはないと思う。それを、嘘をついてごまかしたり、逃げたりするのは共産主義者であるとかないとかということの以前の問題であって間違いだと考える。自分が昭和四八年当時事件を否認していたのは、まだそこまで考えが至っていなかったということである。
⑤ 自分は、右に述べたとおり本件について昭和四八年に取調を受けたが、あとで自分の弁護人から本件は不起訴になったと聞かされた。今回長山検事に真実を供述するに際しては、あらためて本件について起訴され刑を受けることになるのではないかという不安はあったが、自分は起訴されるのだろうかどうだろうかというような質問は長山検事にしなかった。また、同検事から、君は不起訴になっているのだからどうぞ思い切ってしゃべりなさいというようなこともいわれなかった。自分としては、本当のことをしゃべることによって起訴されることになれば、その時は責任を取らなければ仕方がないという気持であった。
⑥ ところで、本件ミナミ謀議及び爆弾製造をしたのが何時であったかということであるが、その謀議及び製造は、ともに昭和四四年一〇月一一日から一八日までの間に行われたものであることははっきりしているが、それ以上その間の何日、あるいは何日ごろであったかについては記憶がない。すなわち、その間のある日に謀議があり、製造は、謀議の翌日であったかも知れないが、あるいは一日か二日か何日かずれていたかも知れない。ずれていても五日間も離れていたということはなく、わりに接近していたと思う。自分は、同月一〇日は羽田闘争記念のデモに参加しているが、その日以前に爆弾製造の話を聞いたことはなく、また、同月二〇日は前述のトラック窃盗に出かけているが、その前日に爆弾製造をしたという記憶はないので、その間の一一日から一八日までの間にミナミ謀議と爆弾製造が行われたと考えられる。さらに詳しくその間の何日であったか、一一日に近い日であったか一八日に近い日であったかなどについては記憶がない。それは、その間に、その点についての記憶を喚起できるような、発生時期のはっきりしている別の出来事の記憶が全くないからでもある。しかし、いずれにしても、その間にミナミ謀議と爆弾製造とが行われたことは間違いない。
⑦ 当時各アジト間の連絡は徒歩で行われていたが、ミナミ謀議の行われる日に、自分が若松町アジトの自室を不在にしている間に誰かが連絡に来たらしく、自室の中の黒板に「何々時にミナミに来い」旨及びその連絡に来た者の名前が書いてあったので、自分はそれを見て、その日の午後ミナミに出かけた。午後といっても薄暗くなるような遅い時刻でなく、まだ明るいうちで、午後一時か二時か、その頃であったと思う。
⑧ その日に喫茶店ミナミに集まった者は、自分のほか、増渕、村松、前原、佐古、江口、国井、井上であり、そのほか、内藤か平野かのどちらかがいたと思うが、内藤であった感じが強く、また、堀及び前林がいたのではないかと思うが、断言はできない。断言できないという意味は、自分が堀でなかったか、また前林でなかったかと思う人たちについて、それが堀でなかったか、また、前林でなかったかと訊かれたとすれば、そうであった可能性が高いが、ほかの人と同じように「いたぞ」というように断言するにはやはり自分として一〇〇パーセントの確信は持てないので、断言はできないと答えざるを得ないのである。
⑨ 自分たちが集まった場所が喫茶店ミナミであったことは、自分の記憶にはっきりしている。本件で起訴されている者らの捜査段階における供述の中で、謀議の場所をミナミでなく住吉町のアジトであった等と言っているとすれば、それは明らかに記憶違いである。もっとも、当時のL研の活動形態というのであろうか、増渕は、何をするにしても村松、佐古等の、周辺の特に仲の良い者らと個別に話をし、根回しをして当たりをつけておくというやり方もしていたので、住吉町アジトでそういう話が行われたとしてもおかしくはない。
⑩ L研の多数のメンバーが集まって話をする場所としてはむしろアジトの方が話しにくいという事情があった。自分のいた若松町アジトは、賄付きの学生下宿の一室であったから、メンバーが自分の部屋に集合しようとすると、どうしても玄関を入って大家さんの部屋の前を一度は通らなければならないので顔を見られる虞れがあるし、自分の部屋に行くまでの途中に洗面所とか便所とかがあるから他の入居者と顔を合わせてしまう危険があり、それに部屋の作りが割と安っぽくて隣の部屋に話声が聞こえたりすることもあり、雰囲気がおかしいということで不審がられる虞れがあるので、若松町アジトでは非常に話しにくいという事情があった。住吉町アジトの場合は、村松と石井のプライベートな部屋であるという性格があり、それに生活用具が沢山置いてあって実質的なスペースが非常に狭く、多人数が集まるには不向きだという事情があった。さらに河田町アジトは、もちろん話はできるが、しかし、皆でコーヒーを飲んだりして落着いて話をするには河田町アジトなんかよりも喫茶店の方がよかったんじゃないかと思う。早稲田アジトは、当時すでに赤軍派が専用に使っていたので、自分たちが行き来することはなかった。
⑪ 自分たちは、ミナミの入口を入ってすぐ左の窓側に、席を取った。ミナミは割合大きい喫茶店であり、自分たちが行った時間帯は客もまばらで、他に一人か二人ぐらいしかおらず、がらんとしていた。他の客も、自分たちの話に聞き耳を立てていたわけでなく、お互いに無関心であった。それに、自分たちが話をするといっても、顔をすり合わせてひそひそと怪しまれるようにやるのでなく、若い者が集まってわいわいやるような、何気ないふりを装って話をしたから別に怪しいとも何とも感づかれなかった。入口の横にレジがあるが、そこには店の人はおらず、かえって奥の方が調理場に近くて店の人がいるから話が聞こえやすいと思う。こういうわけで、喫茶店で爆弾製造の話をしたからといって別に他人に聞かれるような危険はなかった。自分も朝霞事件の時にもいろいろ喫茶店などを使ったことがあるが、あまり神経をぴりぴりさせることはなかった。
⑫ ミナミでの席上、増渕から爆弾製造についての指示があった。その概略は、L研として一〇・二一の東京戦争で赤軍派と共闘する際に使用する武器として爆弾を製造するということ、その製造に使用する材料は早稲田アジトに準備してあること、爆弾は煙草のピースの空缶を利用するから、何個かまとめて煙草屋で買うが、数を集めるために、各自心当たりがあったら空缶を持ち寄れということ、何日の何時に河田町アジトで製造をするから集まるようにということであり、そのほか、村松、前原ともう一名ぐらいに対し今から早稲田アジトに行って材料を取って来いということ(河田町アジトに運ぶこと)、佐古か前原にパチンコ玉をパチンコ屋から取って来いということ、その他製造に必要な材料、器具の手配等に関する細かいことの指示があったと思う。ピースの缶の中にダイナマイトやパチンコ玉を入れて作るという説明であった。缶の蓋に穴をあけて雷管のついた導火線を通すという話は、その時でなく、作った日に聞かされたという気がする。
⑬ 自分がミナミに行った時はまだメンバーが揃っていなかったので、飲み物を注文して皆が集まるのを待った。皆が集まってからも、すぐには本題に入らずに適当に雑談しながらわいわいやっていた。そうしたあとで、増渕から右に述べたような指示があったのである。増渕の指示に対しては異議を唱える者は一人もおらず、全員増渕の指示を了承した形であった。増渕の指示自体に要した時間は二〇分程度ではなかったかと思う。増渕から右のような指示を聞いたあと、同人はじめ何人かの者がミナミに残っていたが、自分はさきに帰った。自分が帰るのと同じ頃に帰った者もいたと思う。自分がミナミを出たのは午後三時か四時頃じゃなかったかと思う。
⑭ そうして、自分は、増渕の指示の中で言われた日の時刻に河田町アジトにひとりで行った。その日は、ミナミ謀議のその日ではなかったことは確かである。記憶では翌日でなかったかと思うが、前述のとおり、あるいは日が離れていたかもしれない。しかし、五日間も離れていたということはなかったと思う。行った時刻は、午後一時か二時ごろではなかったかと思う。
⑮ この爆弾製造の当日河田町アジトに集まった者として、自分のほか、増渕、江口、村松、井上、前原、佐古、国井、石井、内藤、平野がいたことは記憶にある。堀と前林については、考えてみたときに、あれが堀、前林だったかなと思う人がいるわけで、従って、いたとは思うが、万一それが違っていたら大変なことになってしまうから、いたと断言はできない。このことは、ミナミ謀議の際に両名がいたと断言できないのと同様である。そのほかに顔かたちのはっきりしない、名前の思い出せない者が二人か、多くても三人ぐらいいたと思う。それらの二、三人の者の中には男もいたし、女もいたと思う。それらの者の中に元山貴美子、富岡晴代がいた可能性もあるが、はっきりしない。自分が名前を挙げた人々は最初からいたと思うが、堀と前林ではないかと思われる人々が最初からいたか、途中から来たのかはわからない。その他の人々は途中から来た可能性が強い。
⑯ (石井ひろみは当日アリバイがあって、別の所で働いていたのではないかという質問に対し)それはおかしいと思う。どういうアリバイがあるのか知らないが、現に当日自分と一緒に河田町アジトを出て喫茶店エイトに行き、一緒にレポをした仲間であり、エイトでマッチ箱をもらって自分に渡してくれたのを覚えているから、石井がいたことは断言できる。
⑰ 河田町アジトに集まって爆弾を製造するについては、大家さんの倉持方に怪しまれないように配慮した。玄関は倉持さんと共通であるので、靴は玄関に脱がずに全部部屋の中に持って入った。また、レポのための電話も倉持方の電話を使わず、近所の喫茶店エイトの電話を使うことにし、また、作業はなるべく黙ってやれというように、それなりの配慮をしたのである。河田町アジトは四畳半と二畳の二間で、そこに一〇人以上の者が集まったのであるが、そのうち四人はレポをするため外に出たので、残った人数だと、狭いけれども、身動きもできないほど目一杯ぎっしり詰まったという感じではなかった。
⑱ 席上、増渕から、まずどういう爆弾を作るかという説明がされた。それは、煙草のピースの空缶を使ってそこに切断したダイナマイトを入れ、塩素酸カリと砂糖を混合した薬品を充填し、さらにパチンコ玉を中に入れる。缶の蓋に穴をあけ、その穴に雷管を接続した導火線を差し込んで、缶に蓋をする。そして周囲をガムテープでぐるぐる巻きにして出来上りだということであった。
⑲ 自分は、その部屋の中で爆弾製造の材料を見た。河田町アジトのすぐそばにパン屋があり、当時わたしたちはその店先からパンを入れる木製の箱一つを夜中に盗んで来て、それを裏返しにして飯台の代りに使っていたが、爆弾製造当日もこれが部屋の中に裏返しに置かれていて、以下に述べるようにその上にダイナマイト等の材料が置かれていた。
⑳ 自分が最初河田町アジトに行き、増渕から任務の指示がある前に見た材料としては、まずダイナマイト約三〇本がある。ダイナマイトは早稲田アジトから持って来られたものと思う。同アジトは当時赤軍派の専用になっていたが、何時どういう話合いに基づいて赤軍派が入居したのか、詳しいことは知らない。自分の見たダイナマイトは、円筒形で、切ったのもあったし、切ってない長いものもあった。その包み紙は全部むいてあった。紙をむかれたダイナマイトが右に述べたパンの箱の台の上に積まれていた。ダイナマイトとダイナマイトとがくっつかないように間に紙を敷いてあったかどうか、その辺の細かいところまではよく覚えていない。包装紙をむいてあったことは間違いない。ところで、長山検事作成の自分の昭和五四年七月一〇日付供述調書に自分の書いたダイナマイト等の図が添付されており(証一三一冊三二九九七丁参照)、これに「本体は紙で包装してあり商標が印刷してあったが、詳細は忘れました」との説明を自分は書いているが、この図は、七月一〇日に調書が完成される前の、同検事の取調の段階で書いたものである。すなわち、同検事から「ダイナマイトはどういう状況であったか、図面を書いてくれ」といわれ、記憶がまだ完全に呼び起こされていないままに書いたところ、同検事から「字が書いてなかったか」といわれて自分としてははっきりしなかったのだが、あったように思うというようなことを書いてしまった。その後調書が完成される段階ではダイナマイトは紙をむかれた裸のものであったという記憶が呼び起こされていたが、先に書いた図面を訂正することなくそのままそれに署名指印してしまい、それが調書に添付されてしまったものである。自分はそれ以前にはダイナマイトというものを見たことはなかったが、ダイナマイトが紙に包まれているということは昭和四八年に本件で警察の取調を受けた時に取調官から「ダイナマイトを見なかったか、ダイナマイトは紙がついた状態だったかどうか」という質問を受けてはじめて知ったのである。
最初見た材料として、つぎにパチンコ玉がある。その個数は確答はできないが、何百個もなく、何十個かであり、パンの箱の台の上に置かれていた。製造当日増渕の話が始まる前に、前原か佐古のどちらかが「増渕からパチンコの玉を取って来い、近くのパチンコ屋では足がつくから新宿方面かなるべく離れた店から取って来いと言われて、同方面のパチンコ店に行った。そのパチンコ屋でお金を出して買ったパチンコ玉をそのまま持って来ればよかったのだけれども、ついその玉を使ってパチンコでゲームをして遊んでしまった。その結果何百円もすってしまうような結果になって失敗した」と言うので、自分はパチンコの本場である名古屋の出身で、パチンコもわりとうまいほうなので「そんなことだったら最初からおれにやらせればよかったのに」ということを前原か佐古に言ったことがあった。彼らがそのパチンコ玉を取って来た日時については、製造当日われわれが集合する前に取って来たという話であったが、あるいは前日に取って来たのか、その点は断言できない。
最初に見たものとして、さらに煙草ピースの空缶が少なくとも一〇個はあったが、もう少し多かったような気がしており十数個だったと思う。そのうち何個かは、その日であるか前の日であるかは知らないが、誰かが河田町アジトの近くの煙草屋でまとめて買ったという話を聞いた。そして、中身の煙草を出して紙の上に置いてあった。煙草屋で買ったもの以外の缶を誰が持って来たのかは知らない。自分は缶を持って行かなかった。自分は、部屋に置かれていた煙草をもらって喫った記憶がある。喫ったのは、後述のレポの途中であった記憶はなく、製造が終ったあと、適当にもらって若松町アジトに帰ってから喫ったという記憶である。
最初に見た材料として、そのほか雷管とか導入線があった。それらははっきりしないが、ダイナマイトなどと一緒に赤軍派アジトから持ち込まれたものではないかと思う。導火線は切ってあったが、その長さは、全部が全部一定の、均一の長さに切り揃えてあったのではなく、長いものは目分量で三〇センチぐらいであったが、短いのはその半分ぐらいで一五センチぐらいであったかと思う。最初見た時は、導火線と雷管は接続されておらず、別々であったと思う。最初見た材料としては、以上の程度であった。
河田町アジトには、料理用に包丁が一本あったが、自分が後述のレポに出る前に、その包丁でダイナマイトを切って、そのあとまた料理用に使うのは気持が悪いので、ダイナマイトを切る専用に一本新しいのを買おうという話が出たことを憶えている。誰かが新しいものを買いに行ったのだと思う。
自分は、後述のようにレポに出かけ、その途中二回河田町アジトの部屋に立ち寄ったが、この立ち寄った時に見た材料ないし道具としては、乳鉢、乳棒、塩素酸カリの入った瓶、砂糖、スプーン、包丁、金槌、釘、セメダイン、ガムテープ、軍手がある。乳鉢と乳棒は、後述のように一回目に立ち寄った時に江口がそれらを使ってすり方を実演して見せた際に見たものである。塩素酸カリの瓶と砂糖もその時に見ている。ガムテープは、部屋の中で誰かにそれを「取ってくれ」といわれて、近くにあったのを手渡した時に見ている。そのガムテープは荷物の梱包用に使う幅の広いもので、黄土色であった。他の色のガムテープもあったのかどうかは見ていないのでわからない。セメダインは二回目に立ち寄った時に見たような気がする。釘と金槌は、おそらく一回目に立ち寄った時に見たと思う。釘は割と長く太いもので、長さは七、八センチぐらいであったと思うが、ビニールの袋に入っていた。金槌は木製の柄で、叩く部分の両面とも平らなもので、一本だけであり、軍手は自分の見たのは一足だけで、また、スプーンは家庭で使う大さじ一本であった。
爆弾を製造するについて増渕から各人の任務の分担を指示された。その内容は、ダイナマイトを切る者、薬品を混合する者、導火線と雷管を接着剤で接続する者、ピースの缶の蓋に穴をあける者、缶の中にダイナマイト、薬品、パチンコ玉を充填する者、テープを巻いて仕上げる者、アジト周辺のレポを担当する者といったようなものであった。自分は、後述のようにレポの担当であったが、室内でする仕事は、たとえばダイナマイトを切る人は、自分の仕事が終ったら外の仕事を手伝ってやるというふうに、お互いに共同しながら作業をしたという状況であったと思う。増渕から各仕事の担当者について指示があったが、具体的に誰がどの仕事を指定されたかについては思い出せない。また、増渕から、製造中に発覚して警察官に踏み込まれたような場合の逃げ方について話があった。河田町アジトの裏か横が神社か何かになっているので、塀を乗り越えてそこから逃げろというようなことを聞いた記憶がある。
自分は、増渕から、国井、井上、石井と一緒にレポ係をするように命ぜられた。すなわち、増渕から、製造中に発覚して警官隊に踏み込まれたりしたのでは大変であるから河田町アジトを中心とした周辺をレポする必要があるということを言われ、自分と国井で一組を作れ、そしてこの二人は、河田町アジトから東京女子医大を通り、若松町交差点から第八、九機動隊方面にわたる周辺をぐるっと歩きながらレポをしろということを言われたのである。井上に対しては、自分らとは丁度反対方向、つまり河田町アジトから第四、五機動隊方面を見張れということが言われていた。石井に対しては、河田町アジトのすぐ近くにある喫茶店エイトに常駐するように指示があった。すなわち、自分らや井上が河田町アジトから大分離れて周辺をレポしているわけであるから、定期的にエイトにいる石井に状況報告の電話を入れろ、さらに警官隊の動きがあるとかの異常事態が発生した場合には、直ちに緊急電話を石井に入れて、石井が河田町アジトに走って知らせるという手はずになっていた。河田町アジトの家主である倉持方には電話があるが、倉持方にあまり頻繁に電話して取り次いでもらうことにすると、倉持さんに不審がられるだろう、また、電話の呼出しの際に倉持さんが万一にも室内をのぞき見るようなことがあっては大変だということで、倉持方の電話を使わないようにしたのである。
自分と、国井、井上、石井は、揃って河田町アジトから出発した。まずエイトに行き、石井だけが店の中に入ってマッチ箱をもらって来て自分と井上に渡した。マッチ箱にはエイトの電話番号が書いてあるからである。エイトの前で、自分と国井は、井上と石井に別れた。それがその日に石井の顔を見た最後の機会であったと思う。その日に自分がその後レポの途中河田町アジトに立ち寄った時に石井の顔を見た記憶はない。
自分と国井は、まず東京女子医大の前を通り、若松町交差点に出て、そこから都電通りに沿って第八、九機動隊々舎の方に向かい、あとは周辺の路地裏等を適当に選んで歩きながらアジト周辺のレポをした。最初のうちは爆弾製造ということで、自分も国井も緊張してまじめにやっていたが、全然警官の動きもないし、室内でこそこそやっているんだから、まず誤爆でもして家ごと吹っ飛ぶようなことの起こらない限りまずばれることはないだろうというように考えられたので、腹も減っており、二人で若松町の交差点角の若松食堂に入って飯を食ったり、宮里荘の近くにあるスナックでコーヒーを飲んで時間をつぶしたり、そこら辺は適当にさぼりながらやった。
(第八、九機動隊方面をレポせよということだったというが、爆弾製造の摘発などは機動隊ではなく、普通の警察の仕事ではないかとの質問に対し)河田町アジトの付近に丁度八・九機とか四・五機とかがあり、それらも一種の警察のシステムであり、その辺をちょっと見ておけという感じで増渕から言われたというぐらいのものであって、当時その点は深くは考えなかった。(警察官が来るとしても、私服で来ると思うし、その車もパトカーで来るということはないと思うが、レポをしていて警察官かどうかわかるものなのかとの質問に対し)その辺は、増渕がどの程度緻密にレポを計画して自分らにやらせたのか、本人に聞いてみなければわかならない。
レポの途中で何回かエイトに電話したが、石井は、最初一回電話に出ただけで、あとは電話をかけても、エイトにはいないということで電話には出て来なかった。そこで、レポの途中、コースを回って河田町アジトの近くに来た時に、二度ほど国井とエイトをのぞいたことがあるが、石井はいなかった。やはりどこかで息抜きしていたのか、さぼっていたのか、その辺のことはよくわからない。石井が最初一回電話に出たという点であるが、一回出たのが記憶にあるということで、一番初めに電話をかけて呼出しをしたらいないということであったが、「おかしいな」ということですぐもう一度かけたら今度は出たということであったのかも知れない。
自分らは、さきに述べたコースを一周して出発点の河田町アジトの近くに戻って来た際に、やはり中でどんなことをやっているか興味もあったので、同アジトに立ち寄ってのぞいたことがある。二度部屋の中までのぞきに入った。現在でも印象に残っていることとして、さきにも述べたが、パンの箱を裏返して台代りにした上に紙を敷いて、その上に包装紙を取って切断したダイナマイトが何本か置かれていたり、パチンコ玉とか、導火線と雷管とが接続されたものが何本か置かれてあったり、とにかく何人かのメンバーがぎっしりと膝を突き合わすような形で車座になって、極めて緊張した表情で、私語も交わさず黙々と仕事に励んでいたという状況が非常に鮮明に印象に残っている。そのほか、自分が最初に河田町アジトに戻って来て中に入った時だと思うが、入口付近に立っていても仕様がないので、四畳半と二畳の丁度境のあたりに隙間が少しあったので、そこに入って腰をおろしたところ、丁度私の左側の、誰であったかよく思い出せないが、その人が乳鉢の中の薬品を乳棒でこね回しながら「大丈夫かなあ」というようなことを言いながらやっていたところ、これを江口が聞いて「あなたそのやり方じゃ駄目よ」と言ってその人から乳鉢乳棒を取り上げ、「こういうふうにやるのよ」と言って、自分の目の前ですり方を実演して見せたことを非常によく覚えている。また、誰かからガムテープをちょっと取ってくれと言われて渡してやったことがあった。さらに、出来上った爆弾に増渕がガムテープをぐるぐる巻いていて、その完成品を見たところ、テープがべたべたと張りつけてあって、汚らしい出来上りだなというふうに感じたのをよく覚えている。自分は二度部屋の中に入ったが、その際出来上った爆弾を何個か見ている。自分が爆弾製造を手伝ったのは、右に述べたようにちょっとテープを取ってくれと言われて渡してやったことだけであり、ダイナマイトを缶に詰めたりしたようなことはない。
レポの途中に人と会ったこととしては、河田町アジトに立ち寄った際に同アジトの玄関前のちょっと庭のようになった所で、内藤がピースの缶の蓋のようなものを手に持っていたように思う。自分は、そこで彼としばらく立話をした。それが河田町アジトに一回目に立ち寄った時か、二回目の時であったかは、はっきり憶えていない。ただ、前述の、江口が乳鉢と乳棒を持って薬品のすり方をして見せたのを見たのよりあとであったことは憶えている。だから二回目に立ち寄った時であった感じが強い。
自分は、河田町アジトで誰かがピースの缶の蓋に穴をあけている場面は見たことがない。しかし、誰かが蓋に穴をあけたのは間違いないと思う。それはどうしてかというと、製造にかかる前に増渕が皆にいちいち指示をしたが、その時に、分担者が誰であったか名前は忘れたが、「蓋に穴をあける」ということを言ったこと、アジトの部屋の中に金槌と釘があったこと、内藤が庭で蓋を持って立っていたこと全部を総合して考えると、誰かが釘と金槌でこんこん叩いて穴をあけたのだろうというふうに考えられるからである。
さきに述べた塩素酸カリと砂糖は、詳しいことはわからないが、製造を始める際に、爆発力を高めるために入れるのだという説明があったと思う。江口が乳鉢、乳棒を使って実演した時、乳鉢の中に白いものが入っていたが、それは塩素酸カリか、砂糖との混合物かなどについては聞かなかったし、わからない。自分は、河田町アジトに立ち寄った際、丁度、そういう薬品を爆弾の缶の中に入れたものを見たことがある。
以上のように、河田町アジトで製造状況を二度見たが、その時間はそれぞれ長くても五分程度である。
自分がレポを終わった時は、もう暗くなっており、四時か五時ごろではなかったかと思う。結局、製造に要した時間は、午後一時ないし二時から始めて四時ないし五時までかかったと思う。一番最後にレポから河田町アジトに戻って来た際に、窓をノックすると、窓があいて佐古からだったかも知れないが、もう少しで終わるといわれたので、自分と国井はもう一度周辺をぶらぶら歩きながら二〇分ぐらいして再びアジトに戻って来て部屋に入った。その時の状況として、みんな緊張した仕事をやり終えてぐったりしていたというか、ホッとしていたというか、やれやれという感じであったこと、使った道具や材料等が畳の上などにあちこち散乱していたこと、出来上ったピース缶爆弾が五、六個机の上に置いてあったこと、出来上った他のピース缶爆弾を段ボールの箱のようなものに入れて紙をかぶせて置いてあったことなどを見ている。そして、増渕からみんな御苦労さんというようなねぎらいの言葉があって、じゃ今日はこれで解散するということを言われたので、自分は、国井らと一緒にアジトを出て、若松町交差点で彼らと別れて若松町アジトに帰った。河田町アジトには何人か残った。あと片づけをする人で、自分の覚えている限りでは、増渕、村松、それから少なくとも同アジトの常駐者の佐古と前原が残ったと思う。
爆弾は、製造する前に一〇月二一日の東京戦争で使うために作るのだということを聞いていたが、製造を終えたあと、それをどこへ持って行ったということは、自分は見ていないし聞いてもおらず、知らない。その後一〇・二一のあと佐古、井上らがピース缶爆弾を二個ばかり持ち帰って来るまでは、同爆弾がどこでどのような経路で処理されたかについては知らない。当時のL研、あるいは赤軍は縦割の中央集権的な、非合法組織であったから、いちいちどこで誰が使うかという細かなことまでは大衆的に明らかにされることはなかった。その任務を担当する者及び最小限度の者しか詳しいことは知らなかったのである。
昭和四四年一〇月一七日に京都地方公安調査局にピース缶爆弾が投擲された事件を自分が当時知ったかどうか、あまり記憶がなく、仲間うちで特にその事件が話題になったという記憶もない。当時新聞は読んでいたが、それは東京都内で売られている新聞を読んでいたのであって、関西の新聞まで読んでいたのではない(東京都内の新聞では、右事件は扱いが非常に小さく、また、ピース缶爆弾というような言葉は一切使われていない事実からすれば、現在記憶になくても不思議ではないと言えるかとの質問に対し「はい」と答える)。
自分は、昭和四四年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争の日は東薬大に行き、被告人増渕、前原、国井、平野、内藤らとともに火炎びん数十本を作った。作っている途中で外の様子がおかしいというようなことが伝えられたので、作った火炎びんを天井裏に隠し、その後自分は私服警察官に踏み込まれたものと思って逃げ出し、内藤と一緒に校外に逃げた。
自分は、翌一〇月二二日河田町アジトに行き、佐古、井上、前原、国井が集まった席上、一〇・二一の東京戦争は完全に不発に終わった、増渕は一体この敗北をリーダーとしてどう総括するのかと、激しく非難した。そして、自分は、一〇・二一闘争失敗の原因と増渕の指導性とを批判する文書を作って、ガリ版刷りにし、前原を通じて増渕にも渡したところ、増渕から呼出しを受け、論争した結果、意見が対立し、関係が悪化して、以後ほとんど顔を合わせないまでになった。一〇月二四日の第八、九機動隊事件の翌日の夜であったと思うが、当時自分の最も親しい友人の一人であった前原が若松町アジトに来て、同事件はL研が赤軍派と共闘してしたものであるが、自分が計画から除外された旨を知らされ、自分と増渕との対立関係は決定的なものとなった。
もっとも、当時自分らの中には、銃や爆弾を使って武装蜂起をするのだということを大目標にしていて、内部的批判の問題は一時留保して、各人が主体的に闘争に取り組んで行かなければならないという考え方があり、自分も同じような考えから増渕と仲が悪くなったからすぐ組織を飛び出すということはせず、今は一番大事な闘いの時期であるからこれに主体的に取り組まなければならないと考えたのであった。自分は、増渕の指示により赤軍派の花園と会い、一〇月三一日から一一月一日にかけて花園の指示のもとでダンプカーの窃盗に参加したが、この行動は右のような考えによるものである。
自分は、新聞報道で、一一月一日にアメリカ文化センター事件が発生したことを知ったが、同月の二日か三日に前原が若松町アジトに自分を訪ねて来て、同事件が増渕の指示によって実行され、前原自身も時限装置の工作に関与したこと、また、河田町アジトから家財道具や生活用具もどこかに運び出されてしまっており、増渕、佐古らの行方も分らなくなったこと等を聞かされた。これらのことについては自分には何らの連絡もなかったわけであって、これを聞いて、自分は、もはやL研は組織として統制がばらばらであり事実上解体したのに等しいというように感じた。自分は、同年一一月末か一二月初め頃に若松町アジトを出たが、すでにそれ以前に一一月初め頃に増渕らが姿をくらませた時から事実上L研との縁は切れていたのである。その後自分は、東京都内や近県の友人、知人宅を転々としたりしながら勉強と活動を続け、日本大学に入学して学内活動等をし、結局、赤衛軍と称するグループを作って昭和四六年に朝霞事件を起こし逮捕されたものである。
第四章自白の信用性の検討
第一節自白の信用性の検討の必要とその方針
本件においては、被告人らと各犯行とを直接結びつけるような物的証拠はないものの、被告人らが本件各犯行の犯人であっても格別不思議ではないような前記L研の活動等の情況が認められること、増渕及び江口を含む多数の者が捜査段階において自白し、中には公判廷においても自白を維持した者があり、また、捜査段階においては自白しなかったが、後に証人として出廷して自白した菊井のような者があること、これらの自白は大筋においては一致し、またその多くは具体的かつ詳細な内容のものであること等から考えると、被告人らがそれぞれ本件各犯行の犯人であることは動かない事実であるかのように見えるのである。
しかし、本件にあっては、結局、被告人ら及び共犯者とされる者らの自白の信用性が決め手になるものであるところ、その内容を子細に検討してみると、これらの自白中には、事前に捜査官に判明しておらず、自白によって証拠物等の、動かし得ない事実を証明する証拠が発見される等、自白が他の確実な証拠によって裏付けられるに至ったというもの(いわゆる秘密の暴露)はなく、以下に述べるように重要な点において証拠物との不一致、内容の不自然さ、各供述相互の食い違い、供述の変遷等が少なからず見られるのであって、各自白の信用性を判断するには慎重な検討が必要であるといわなければならないのである。
もっとも、検察官は、佐古のダンボール箱の製造方法についての自白及び前原の村松がタイマーに落書をしたとの自白が秘密の暴露に当たる旨主張するが(論告要旨四三頁及び六四頁・一五六冊五二八一六丁・五二八二六丁参照)、後述のとおり、佐古の右自白は証拠物と一致せず、また、タイマーの落書は取調官においてあらかじめ知っていた事実であり(落書の文字についても取調官が知っていた疑いがある)、佐古及び前原の右各自白をもって秘密の暴露に当たるものとすることはできない。
そして、前記各自白の内容、自白の経緯、供述態度等(各調書決定参照)に徴すると、検察官が主張するように、佐古、前原、内藤の各自白及び菊井の証言(自白)のほうがその余の者の自白に比し信用性が高いように一応見られるのであって、以下右四名の自白及び証言を中心にして、各自白の信用性を検討することにする。
さらに、本件各犯行の捜査は、前記供述経過の概要から明らかなように、アメリカ文化センター事件、八・九機事件、ピース缶爆弾製造事件の順に進展して行ったものであるから、以下の検討は、この捜査進展の順序に従うことにする。
第二節アメリカ文化センター事件
アメリカ文化センター事件については、前記(第三章第三節)のとおり、増渕、佐古、前原、及び村松の各自白がある。
一、佐古及び前原の各自白の信用性を窺わせる諸点
そこでまず佐古及び前原の各自白について検討すると、佐古及び前原の各自白は概ね具体性に富みかつ詳細であることのほか、
佐古については、
留置場において座禅を組んだり頭を坊主刈にして爆弾闘争に対する反省の態度を示した後、昭和四七年一二月一一日他者に先がけてアメリカ領事館に爆弾を仕掛けに行った旨自白していること(佐古調書決定五五頁以下・一三六冊四七七二八丁以下参照)、
右昭和四七年一二月一一日の取調において、取調官が佐古に対し具体的な供述を押しつけるような状況はなかったこと(佐古調書決定四二頁以下・一三六冊四七七二一丁以下参照)、
佐古は、昭和四八年一月一六日ごろアメリカ文化センター事件について再び自白して以後捜査段階において一貫して自白を維持していること、
佐古が当裁判所公判及び刑事五部公判において自白をした理由について種々弁解するところには、不合理かつ不自然で措信し難いものがあること(佐古調書決定三九頁以下・一三六冊四七七二〇丁以下参照)が認められ、
前原については、
前原がアメリカ文化センター事件に関して具体的な取調を受けたのは昭和四八年一月一六日が最初であり、同日同事件に関し比較的短時間の取調において自白したものであること(前原調書決定二四頁以下・一四三冊四九四九六丁以下参照)、
前原は、昭和四八年六月三〇日に菊井に宛てた手紙の中で「ボクは、アメ文についてのごく一部、アメ文に使われたタイマーと乾電池を見たということを思い出した。これもマズかった」と述べており(証一一九号。二六九回公判における証人前原の供述・一四九冊五〇六五三丁以下参照)、これは、アメリカ文化センター事件に関して知識を有する者が取調においてそのことに関して供述してしまったことを反省する心理状態を表現するものと見るのが自然であること、
前原は、捜査段階において一貫して自白を維持していること、
前原は、アメリカ文化センター事件に比較すれば軽い罪である法大図書窃盗事件について否認しながら、アメリカ文化センター事件について自白していること、
前原は、昭和四八年一月一八日に昭和四四年当時同人が使用していたアドレスブックの所在を進んで明らかにする等捜査に協力的な態度をとっていたこと(前原調書決定四二頁以下・一四三冊四九五〇五丁以下参照)、
前原が乾電池と電気雷管の脚線のはんだ付けを自白した理由として当裁判所公判及び刑事五部公判において弁解するところは、不合理で措信し難いこと(前原調書決定三〇頁以下・一四三冊四九四九九丁以下参照)が認められる。
以上のとおりであり、また増渕、村松も基本的には事件への関与を認めており、佐古の自白とも大筋においては一致していると見てよいことにも徴すれば、佐古及び前原の各自白はこれを信用してよいようにも思われる。
二、佐古及び前原の各自白の信用性を疑わせる諸点
しかし、佐古及び前原の各自白の内容を詳細に検討すると、以下のような、重要な点における証拠物との不一致、供述内容の不自然さ、供述の変遷が見られるのである。
(1) 爆弾の製造状況その他爆弾自体に関する佐古及び前原の各自白の検討(証拠物との比較)
まず、各自白中、爆弾の製造状況その他爆弾自体に関する部分から検討する。これは、自白と証拠物との比較考察にほかならない。
(イ) ダンボール箱の製造状況
a 前記のように、佐古及び前原は、増渕の指示により時限式爆弾を収納するダンボール箱を製造した旨供述している。佐古は昭和四七年一二月二八日にダンボール箱の製造を供述し、昭和四八年一月一六日アメリカ文化センター事件について再自白した以後一貫して右供述を維持し、右製造の状況につき具体的かつ詳細な供述を繰り返したものであり、捜査官から証拠物のダンボール箱を示されてもなお自分らが作ったものである旨供述していた。前原は、同月一六日アメリカ文化センター事件につき初めて自白した際にダンボール箱の製造を供述して以後一貫して右供述を維持し、捜査官から証拠物のダンボール箱を示されてもなお自分らが作ったものである旨供述していたものである。なお、増渕も前原に指示してダンボール箱を製造させた旨供述している。
b そして、佐古及び前原のダンボール箱の製造についての自白は、具体的かつ詳細であって、近所のパン屋からダンボール箱二個を入手し、その大型ダンボール箱の一角を利用し、はさみ、ボンド、ガムテープ、紙テープ、真鍮色の針のホチキス等を使用して手製の蓋付きダンボール箱一個を製造し、割ばしを十字に組んだものを底に貼りつけて補強したというのであり、一見すると細部にわたりかつ極めて特徴的と見られる点まで証拠物と一致するように見受けられるのである。
c しかし、すでに(第二章第二節二)認定したように時限式爆弾が収納されていたダンボール箱は日本工業規格に準じて製造された工業製品であって、手製のものではない。すなわち、この点の佐古、前原及び増渕の各自白はいずれも虚偽であると指摘せざるを得ないものである(佐古及び前原が増渕の指示に従ってダンボール箱を製造し、これに爆弾を収納した後に、たとえば、増渕がその箱と似ている既製の箱と取り換えたものと推認することは、後述のとおり証拠上困難である)。
d 検察官は、本件ダンボール箱の構造は、既存のダンボール箱を利用し、その一側面を手作業により切り取り、他のダンボール箱を利用して同じ大きさのダンボール紙を作成し、切り取った場所に当て、テープで固定して箱としたものであるとの主張を前提にしつつ、佐古が「現物を見て思い出したが、文字のある部分を避けたため側面一枚分に文字があったのでその部分を切り落し、継ぎ足して作った」旨供述していること(48・1・24員面)を秘密の暴露に当たるとし、本件ダンボール箱には工場でステッチャーにより銅平線が打ち込まれており、佐古及び前原がホチキスを使用した旨供述しているところは事実と異なるが、佐古がホチキスの針は真鍮色と述べていること、前原が針は赤っぽい色で普通のものより一回り大きかった旨述べ、針が箱の深さの方向に平行に打ち込まれている略図を作成し、これに疑問を抱いた取調官から針の方向について念を押されたのに対しても供述を変更しようとしなかったことに照らせば、佐古及び前原が本件ダンボール箱に銅平線に打ち込まれている状況を見ていることは間違いないとし、要するに、佐古及び前原は何個か箱を製造し、あるいは製造しようとし、その際ホチキスを使用したこともあったため記憶の混同を生じ、本件のような証拠物と合致しない部分を含む供述をするに至った旨主張する(検察官の56・7・2意見書四八頁以下・一二四冊四四三七三丁以下、論告要旨一六〇頁以下・一五六冊五二九三三丁以下参照)。
しかし、本件ダンボール箱は、既製のままのものであり、一側面を切り取り継ぎ足すなどの加工がされていないことは前記認定のとおりであって、検察官の主張はその前提においてすでに採用できず、また佐古が一側面を継ぎ足した旨述べるところも、証拠物と一致せず、秘密の暴露とはいえないものである。さらに、佐古及び前原がみずからステッチャーを使用して銅平線を打ち込んだというのであるならばともかく、銅平線の打ち込まれた既製の箱を見たに過ぎないのであれば、少なくとも平線の方向というような細部の事項について記憶しているとは容易に考え難いし、記憶の混同があったにしても、真鍮色(赤っぽい色)の針を打ち込むホチキスという、存在しない道具(このようなホチキスは生産されていない。五部七八回証人高橋文男の供述・証七一冊一七七五〇丁参照)を使用したというような記憶の混同を生ずることも考え難く、かつ、佐古及び前原の二名が揃ってそのような記憶の混同に至るというのも甚だ不自然であるといわざるを得ない。しかも、佐古及び前原は手製のダンボール箱を製造したうえ時限式爆弾を箱内に接着剤で固定して収納した旨述べるのであり、手製の箱を製造したもののこれには爆弾を収納せず、あるいは一旦爆弾を収納(接着剤で固定)したもののこれを剥ぎ取り、結局別の既製の箱に爆弾を収納したというのであれば、これは何らかの理由があってのことであろうから印象に残り易い事柄と考えられ、この点についても記憶の混同を生ずるということは考え難いし、かつ、佐古及び前原の二名が揃ってそのような記憶の混同に至るというのも不自然である。その他、後記(ロ)のとおり爆弾をダンボール箱に収納した状況に関する佐古の供述にも疑問点があることに照らすと、結局検察官の主張を採用することができないのである。
e また、佐古及び前原が手製のダンボール箱を製造して爆弾を収納した後に、たとえば増渕において佐古らに内密に爆弾を剥ぎ取って別の既製の箱に移し換えたことの可能性の有無についても検討しなければならないが、そのような移し換えを直接窺わせる証拠はないところ、佐古及び前原の各自白には前述のホチキスに関する重要な虚偽供述及び後述の爆弾の収納状況に関する疑問供述が含まれていることのほかに、もしそのような移し換えが行われたとすると、佐古及び前原の各自白中の手製ダンボール箱の特徴がアメリカ文化センター事件に使用されたダンボール箱の特徴に細部に至るまで一致しているのは甚だ不自然であること、一旦接着剤により固定した爆弾を剥ぎ取り、しかも佐古らに内密にして別の箱へ移し換えなければならない理由も特に見当たらないこと、証拠物の爆弾を検討しても剥ぎ取られたような形跡は見出せないことを指摘できるのであって、要するに移し換えの可能性はほとんど考えられないのである。
f 手製ダンボール箱の製造を最初に自白したのは佐古であるが、佐古は、五部五八回公判(証三一冊九三八六丁以下参照)及び当裁判所二七六回公判(一五二冊五一六九五丁以下参照)において、昭和四七年一二月二八日原田祥二巡査からダンボール箱を製造したのではないかと追及され、形状についてヒントを与えられて供述を誘導された旨弁解する。
佐古が右に弁解するところをそっくりそのまま措信することはできないにしても、少なくとも取調官からダンボール箱を製造したことはないかとの追及を受け、佐古においてダンボール箱を製造した事実がないのに、取調官に対し迎合的な心理状態になったものか追及に根負けしたものかは不明であるが、取調官から与えられるヒントや場合によっては同月一四日に取調官から示されたアメリカ文化センター事件の新聞記事(写真を含む。佐古に新聞記事を示したことについては二〇〇回公判証人好永幾雄の供述・九七冊三六七三九丁以下参照)から得た知識を基にして取調官の有する証拠物についての知識に沿う供述をした疑いが強い。
なぜならば、被疑者が捜査攪乱を図る目的でことさら虚偽の供述を織り込むことは一般的にはあり得るが、佐古がこのような目的で、真実は既製のダンボール箱を使用したにもかかわらず手製のダンボール箱を使用したことにして供述しようとの着想に至るというようなことは考え難く(検察官もこのような主張はしていない)、また、アメリカ文化センター事件のダンボール箱は事件現場で警視庁鑑識課員によって深さの方向の四側稜を切断解体されており、その形状を見ると、ガムテープ及び紙テープがやや乱雑に貼りつけられ、各所に白い接着剤様のものが付着しているのであり、一見したところ手製のダンボール箱であるかのように見受けられるのであって、この解体されたダンボール箱を見た捜査官が手製のダンボール箱ではないかと思い込むほうがむしろ自然ともいえる(前掲ダンボール箱・証八九号、44・11・5(員)実見(謄)・増渕証一四冊二五九二丁以下、二六四回証人小林由太郎の供述・一四六冊四九九一九丁以下参照)からである。
g 前原及び増渕は、捜査官から佐古のダンボール箱製造の自白及びアメリカ文化センター事件の解体されたダンボール箱を見た捜査官の印象に基づいてダンボール箱を製造したのではないかとの追及を受け、これに合わせた供述をしたとの疑いが強い(前原に対し爆弾を入れる箱を作ったのではないかとの発問をしたことは、同人の取調官である高橋警部補も認めている。九〇回証人高橋正一の供述・一九〇冊三四六七七丁以下参照)。
(ロ) 爆弾をダンボール箱に収納した状況
a 佐古及び前原は、前記のとおり、時限式爆弾をダンボール箱に収納した旨供述し、佐古がその具体的状況について供述している(前原の供述は抽象的であって、収納の具体的状況が必ずしも明確ではない)。
b 佐古の述べるところによれば、ダンボール箱の底面に補強のため割ばしを十字に組んで貼りつけ、ピース缶爆弾を箱内に入れたところ、はしと箱の内壁との間にうまく納まったので爆弾を固定するためにも丁度よかったと思ったというのである。
c しかし、証拠物を観察すると、一見するだけでも、本件ダンボール箱の底面に割ばしが十字に組まれて貼りつけられているのは、補強の目的も全く否定することはできないかも知れないが、主たる目的は、本件ダンボール箱が本件時限式爆弾に比較しやや大きすぎること及び本件時限式爆弾が爆体と時限装置の二つに分離していて電気雷管の脚線で結ばれていることから振動や滑りを防いで固定を十分にすることにあること、すなわち、先に爆体及び時限装置を箱内に収納し、その後にこれらを固定するように割ばしを接着剤で貼りつけたものと認めるのが自然である。
のみならず、佐古の48・1・17員面によれば、ダンボール箱の底面に割ばしをボンド及びガムテープで固定した後に時限式爆弾を収納したというのであるが、証拠物をさらに詳しく観察すると、割ばしを固定しているガムテープの先端がピース缶爆弾の缶体側面に貼りつけられたことがわかる。佐古の供述に従えば、右ガムテープの先端はピース缶の缶体の下になり、その表面に右缶体の底に塗付された接着剤の付着した跡が残るはずで、また、右ガムテープの先端をはがした跡の箱底面には接着剤が付着しないはずであるが、右ガムテープ表面には接着剤が付着しておらず、かえって右ガムテープを剥がした跡であるべき箱底面部分に接着剤が付着しており、缶体が先に接着されたことが推認されるのである。要するに、佐古の供述は、この点においても証拠物に基づく推認の結果と一致しないものである。
なお、佐古は、当初はbのような供述をせず、48・1・17員面によれば爆弾が割ばしの上に乗っている略図を作成し、同月二四日アメリカ文化センター事件の証拠物を示されて取調を受けた際に思い出したこととしてbのような供述をするに至ったものであり、このような供述の変遷状況も不自然で、証拠物の状況に供述を合わせようとした疑いがあるといわざるを得ない。
(ハ) 時限装置の構造(ぜんまい動力か電気動力か)
時限装置の動力について述べるのは佐古のみである。
佐古の自白によれば、爆弾、乾電池及び時限装置をコードで接続したところ、時限装置がコチコチ音を立てて順調に動いたというのであり、時限装置が電気動力であるかのようなことを述べるのであるが(48・1・17、2・15各員面参照。2・17員面はやや明確さを欠くが同旨と見てよい。2・26検面は増渕が線をつないでセットしたとの簡単な供述を録取するにとどまるが、右各員面に録取された供述を撤回するとの記載もなく、増渕がぜんまいを巻いたとの供述を録取したものでもないから、佐古が右各員面に録取された供述を撤回したものとまで見ることはできない)、前述したように本件時限装置はぜんまい動力であり、時限装置の上部中心の軸にレバーをはめて回すことによってぜんまいが巻かれ、その力によって初めて時限装置が音を立てて動き出すものであって、佐古の右供述は、この点においても虚偽であるといわざるを得ないのである。
(ニ) 爆弾の形状
佐古は、時限式爆弾の形状につき図面を作成しながら具体的に供述するが、当初の供述は証拠物と大きく異なり、最終供述(証拠物を見せられた後の供述)に至って概ね証拠物に近い供述をしたものであって、その供述経過は、つぎのとおりである。
48・1・17員面 「時計の分解した機械のようなもの」が爆弾本体の左側に、「単一乾電池一個」が爆弾本体の右側に取り付けられた図面を作成添付。
1・20検面 時計の機械のようなものを取り付けた爆弾
1・24員面 乾電池を抱かせるようにしてピース缶の回りをガムテープでぐるぐる巻いてあった(証拠物を示される)。
1・25検面 割ばしを十字に組んで作った枠のうちの一つの枠内に爆弾が、その左隣りの枠内に「時計の機械のようなもの」(本件時限装置に比較すると横幅が非常に狭い。)が納められている図面を作成し、乾電池(単一のもの一個と思うがはっきりしないとする。)が爆弾本体のほうに付けてあったという漠然とした記憶がある旨供述。
以上のとおりであり、佐古は時限式爆弾をダンボール箱に収納する作業をしたというのであるから、慎重にかつ緊張感を持って作業をしたものと考えられ、時限式爆弾の形状についても概ねのところは記憶に残るのではないかと思われるのであり(かりにある程度の忘却があっても、前述のように昭和四七年一二月一四日に取調官からアメリカ文化センター事件の新聞記事を示され記事中の写真を見て、かなり記憶が喚起されるものと思われる。また、かりに佐古が本件時限式爆弾を見たことがなかったとすれば、右写真を見ても強い印象は持たないであろうし、ある程度の知識を得ても月日の経過に従って不正確になって行き易いであろう)、右のような証拠物と大きく相違する供述が忘却や記憶の不正確さ等に基因するものとはにわかに考え難い。
なお、前記のように佐古は証拠物を見せられた後にも本件時限式爆弾の形状と一致しない供述をしているところがあるが、それまでの供述経過や、また、佐古が証拠物を示された際には爆弾も時限装置もダンボール箱から剥ぎ取られ、時限装置は乾電池とタイマーとが分離された状態(タイマーを地表面に垂直に立てればその横幅は佐古が図面に描いたように狭くなる。)であったことが影響したものと考えることも可能である。
(ホ) 爆弾の組立て
a 前述のように、本件時限式爆弾は、まず手投げ式ピース缶爆弾の工業用雷管を電気雷管に交換して改造し、これと並行してタイマーに工作を加え、乾電池二個を直列にしたものをタイマーに取り付けて時限装置とし、その後に電気雷管の一方の脚線を乾電池に接続し、他方の脚線及びその脚線と最終的に(タイマーをセットした後に)接続されるべきタイマーから出ているリード線(右脚線の一部を切り取ったものを使用)の各先端部分に絶縁を施したうえダンボール箱に収納したと見るのが最も合理的であり自然である。
b ところが、前原は、前記のように、時限式爆弾を完成するより三日も前に、乾電池を直列にしたうえ、ピース缶爆弾に埋め込まれる前の電気雷管の一方の脚線をはんだ付けにより乾電池に接続して、増渕に渡した旨、右推定の結果と異なる供述をする。
c しかし、前原の右供述には、以下のような疑問がある。
最初から乾電池と電気雷管の脚線を接続する必要は特になく、かえって危険感を免れないと思われる。また、電気雷管をピース缶爆弾に埋め込む作業も、乾電池をタイマーに取り付ける作業も、電気雷管と乾電池が接続されていることによってやりにくさが加わるし、電気雷管の脚線は細い単線であって乾電池にはんだ付けされた部分が断線しやすく、右各作業に際しても余計な注意を払わなければならないのであり(前原は、警察の取調において電気雷管の脚線を乾電池の電極にはんだ付けする作業の実演をした際、はんだ付けをした部分が断線してしまい、作業をやり直した旨述べる。五部七〇回被告人前原の供述・証三八冊一〇九六二丁以下、二六九回証人前原の供述・一四九冊五〇七五四丁以下参照。なお、前原48・2・6員面に前原が証拠物を示されている間に乾電池と脚線のはんだ付け部分が断線した旨の記載がある。証一二三冊三一一丁参照)、不自然である。
また、前原の自白によれば、増渕が、乾電池と電気雷管の脚線を接続したもの及び爆弾等を新聞紙で包み、手提袋に入れて持ち運びしたというのであり、はんだ付けをした部分が断線する危険性が一層高いし、誤爆の虞れも大きいのではないかと思われ、不自然である。
前原の自白によると、使用した乾電池の数につき当初四本と述べ(48・1・17員面参照。なお、1・21員面によると乾電池は二本と思うが四本かも知れないと述べる)、その後二本に変更しているが(1・23検面参照)、四本の乾電池を使用する場合はシールド線で接続しない部分の乾電池の陽極及び陰極の接触に細心の注意を払う必要があり、前原が述べる方法(右48・1・17員面添付図面参照)では作業が容易でないことを考慮すると、右供述の変遷を記憶の不正確さに起因するものと断定することに疑問もある。
前記のように電気雷管の脚線の一部が切り取られ、切り取った部分はタイマーと乾電池の接続等に使用され、乾電池とはんだ付けがされているが、前原は、この状況を供述せず、かえってタイマーと乾電池の接続用には脚線とは異なる別の細いシールド線を乾電池にはんだ付けした旨供述し、証拠物を示されて初めて「もしかすると、私は、電気雷管の導線(脚線)が三〇~四〇センチぐらいあったと記憶しているので、その一部を切ってタイマーと接続するための導線として電気雷管の導線(脚線)を接続した方とは反対面にそれを接続したのかも知れません」と供述するに至っているが(48・2・6員面参照)、乾電池を直列に接続するために比較的太い赤色シールド線を用いながら、乾電池とタイマーの接続等にはことさら電気雷管の脚線の一部を切り取ってこれを用いているのであり、前原の右供述経過が記憶の混同に起因するものと断定することには疑問もある。
右及びはこれをそれぞれ独立に取り上げて見るならば比較的細部の事項とも見得るのであって、この点を重視し過ぎるのは適当ではないが、前原の前記bの自白と一体をなすものであり、少なくとも前原の自白についての疑問が右のような所にも現われていると見ることができよう。
(員)現場指紋等送付書(写)(証一二九冊三二三六八丁)によれば、乾電池一個から手袋の指痕が発見されており、犯人は乾電池の接続作業に際し手袋を着用したものと認められるが、前原はそのような供述をしていない(指紋に関しては、ピース缶爆弾製造作業の際全員が手袋を着用するなどして配慮した旨述べるが、アメリカ文化センター事件についてはダンボール箱製造に際し、指紋が残ることに注意を払わなかった旨述べるにとどまる)。
前原ははんだ付けの作業をした際増渕及び村松も別の作業をしていた旨述べるが、両名の作業内容についての供述が抽象的過ぎて不自然とも思われる。
なお、前原の右自白はアメリカ文化センター事件に関する最初の自白の主要な内容をなすものであって、前記ダンボール箱製造に関する虚偽自白と同一機会にされたものである。
d 以上の諸点を総合すると、前原の前記自白の信用性には疑問があると言わなければならない。
なお、乾電池を直列に接続するのに赤色シールド線が使用され、乾電池とタイマーとの接続に電気雷管の脚線の一部を切り取ったものが使用されていること及び前述した推定される時限式爆弾組立手順から考えると、乾電池を直列に接続する作業のみが先に行われ、これを前原が担当したという可能性はある。そのように考えた場合には前述した前原の前記自白についての疑問のかなりのものが解消されることになる。しかし、一方ではなぜ前原が乾電池の接続作業にとどまらず電気雷管の脚線と乾電池の接続作業まで供述したのか、しかも、右供述がアメリカ文化センター事件についての最初の自白の際にされた理由は何かという新たな疑問が生ずるのであり、これを解消するに足りる証拠はない。
(ヘ) ダンボール箱の包装状況
a 前記認定のように本件ダンボール箱は黄土色の紙袋(デパートなどで使用する買物用の手提紙袋の可能性が高い。)を利用し、一部を切断してきっちり包装したものであるが、佐古のこの点に関する供述は証拠物と一致せず、かつ、変遷しており、その信用性には疑問がある。
b 佐古の供述経過は、つぎのとおりである。
47・12・11員面 ダンボール箱は裸のまま。
12・14員面 裸のまま。いずれにせよ包装紙できちんと包まれていたという感じはしなかった。
48・1・16検面 裸のままであったように思う。
1・18員面 紙袋に入っていたとし、ダンボール箱を紙袋に入れて紙袋の口をねじったような図面を作成。
1・20検面 菓子を入れるような黄土色の紙袋に入れてあった。袋がとじてあったかどうか忘れた。
1・22員面 ダンボール箱を製造した際には薄茶色の箱より大きめの紙袋に入れておいた。仕掛けに行く際にはきっちり包み直されていた。
1・24検面 黄土色の紙できちっと包まれていた。糊かセロテープかとにかくそういう種類のものでとめてあったように思う。
2・15員面 江口が何も書いてない黄土色の包紙で包み、セロテープか紙テープでとめた。
以上(イ)ないし(ヘ)のとおり、佐古及び前原の自白中には、証拠物と比較検討することが可能な部分のほとんど全体にわたり、証拠物及び証拠物から推定される結果との、顕著な、あるいは理由の説明ができない相違を示す部分が多数あるのであって、自白の信用性を疑わせるのである。
なお、検察官は、前原の、村松がタイマーに「毛沢東万歳」との落書をした旨の自白及びダンボール箱に爆弾及び時限装置を収納した際導線が長すぎたがそのまま丸めて押し込んだ旨の自白につき、これらはいずれも証拠物と合致し(但し、落書の文字は「毛沢東」というのであって若干相違するがかえって右自白が自発的なものであることを窺わせる)、前原の取調官である高橋警部補は右落書の文言内容や導線の長さなどは知らなかったのであって、右自白は前原の自発的な供述であり信用性が高い旨主張する(論告要旨一五五頁以下・一五六冊二五八七三丁以下参照)。
しかし、タイマーに落書をしたとの点については、高橋警部補は上司からタイマーの落書について取調をするようにとの指示を受けて前原を取り調べたというのであるから(一九〇回公判証人高橋の供述・九一冊三四六九九丁以下)、同警部補が上司から指示を受けた際落書の文言内容を知らされなかったと見ることには疑問があり、また、捜査当局は昭和四七年一二月二〇日に村松に右落書の文言と同じ文字を書かせ筆跡を採取しているのであって(証一二五号)、村松がタイマーに落書をしたのではないかとの疑いを抱いていたものと思われるのであり(捜査当局は当時身柄拘束中であった佐古からは筆跡を採取していない)、ダンボール箱の製造に関する自白について述べたところにも徴するときは、高橋警部補が前原に対し村松がタイマーに落書をしたのではないかなどといった取調をし、その際落書の文言内容についても記憶喚起の手がかりを与えるというような形で若干のヒントが与えられ、前原がこれに迎合するなどして前記のような供述をするに至ったとの疑いを否定し去ることができない。
つぎに導線の長さについても、高橋警部補がこれを知らなかったとは断じ難く、右と同様の疑いを否定し去ることができない。
(2) 爆弾を仕掛けに行った状況に関する佐古の自白の検討
そこで進んで、アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けに行った状況に関する佐古の自白の内容を検討する。
(イ) 爆弾を仕掛けた建物
a 佐古は、最初アメリカ領事館であるとし、自動車を停めた場所もアメリカ大使館に近い虎ノ門交差点から赤坂見附方向に約二〇〇ないし三〇〇メートル進んだ地点である旨供述し(47・12・11員面)、その後アメリカ文化センター事件の新聞記事を示されて、アメリカ文化センターに仕掛けたことを思い出した旨供述するに至っている(47・12・14員面)。
なお、佐古は、一番最初は「アメ帝の建物」と供述したものと認められる(佐古47・12・11メモ・証二五三号、証八九冊二一九六九丁参照)。
b しかし、爆弾を仕掛けた犯人が、自分自身は目的地付近まで自動車を運転して行ったにとどまり他の者が爆弾の仕掛けを担当したというのであったとしても、爆弾を仕掛けた場所(建物)の名称及び所在地を知らないはずはなく、事前の入念な調査に基づく計画があったであろうし、事後にも事件についての報道に眼を光らせ、共犯者間でも話題にしたはずであろうから、事件後三年程度の月日が経過したからといって、爆弾を仕掛けた場所の名称及び所在地を忘却したり、あるいはその記憶が希薄化するようなことが果たしてあるだろうかとの基本的な疑問がある。
佐古も、前記のように、増渕から事前にアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けると聞かされた旨、前原から村松と一緒に国会周辺から首相官邸付近を下見して来たが、アメリカ文化センターが自由に立ち入れてやりやすいと聞かされた旨、増渕と自動車で下見に行き、山王下交差点近くで停車して増渕が徒歩で赤坂見附方面へ行った旨、事件当日夕刻のテレビニュースで爆弾が爆発前に発見されたことを知った旨、昭和四四年一一月六日ごろ増渕から失敗は仕方ないが仕掛けることに意義があると言われた旨、アメリカ文化センターという名称のものがあるということはすでに聞いて知っていた旨(48・1・20検面)、前原からアメリカ文化センターはビルで出入りが自由であり、図書館のようなところで受付があると聞かされた旨(48・1・29員面)、増渕と一緒に自動車で下見をし、虎ノ門交差点から赤坂見附交差点方向に進み、同交差点を左折するなどこの付近を三周した旨(48・1・18員面)、昭和四四年一一月二日の朝日新聞朝刊の事件に関する記事を読んだ旨(47・12・14員面)、昭和四五年四月か五月ごろ虎ノ門から赤坂見附に向かって自動車で走行中、山王下近くに来た時村松があそこもやったんだなと言った旨(48・1・18員面)、昭和四五年五月ごろアルバイトの用で山王ホテル前等を通った時、前にこの付近に来た場所を確認した旨(同員面)、それぞれ述べているところもあるのであり、そうだとすれば一層記憶に残りやすいはずである。
c 佐古が捜査官の対応を窺うためことさらアメリカ文化センターをアメリカ領事館に置き換えて供述したとの可能性も全く否定できないにしても、そのように推認するに足りる証拠はない。
(ロ) 停車して待機していた地点
a 48・1・18員面、1・20検面によれば、山王下の信号機のある横断歩道の三〇ないし四〇メートル手前の地点に停車し、待機したというのであり、1・22実見(謄)(増渕証一四冊二七四三丁)によれば山王下の横断歩道手前約六六メートル、エールフランスの建物の前(向かい側に山王ホテルがある。)というのであって、いずれにしてもアメリカ文化センターを見通すことのできない位置である。
b 右停車位置は、付近に山王ホテルがあり比較的記憶に残りやすいとも考えられ、またアメリカ文化センターを見通すことができない位置であるとの印象的な特徴もあるのに供述が大きく変遷するのであって不自然である。
供述の変遷状況はつぎのとおりである。
47・12・11員面 虎ノ門交差点から赤坂見附に向かって約二〇〇ないし三〇〇メートル進んだ地点(アメリカ文化センターははるかに遠方であり、むしろアメリカ大使館に近い位置である。なお、佐古は村松らは車を降りて左後方へ歩いて行った旨述べるのであるが、これはアメリカ大使館の方向である。)
12・14員面 赤坂見附交差点の一〇〇ないし二〇〇メートル手前の地点で少し先に地下鉄の入口があった(一二月一二日の引当たりの結果記憶を喚起した旨述べる。右位置はアメリカ文化センターのすぐ前といってもよいほどである。)
48・1・18員面 前記のとおり(山王下横断歩道手前)
1・20検面
1・22実見
(ハ) 爆弾を仕掛けに行った際の経路
a 佐古は、この点につき当初は江口のアパートを出発し、新宿、四ッ谷、半蔵門を経由して虎ノ門交差点を右折し赤坂見附方向に走行して山王下に至った旨供述し(48・1・18員面)、その後引当たり(実況見分)の際も若干の変更はあるものの大筋において右供述を維持していたが(48・1・22実見)、同月二四日の警察の取調において半蔵門から溜池交差点を右折して山王下に至った旨供述を変更する(48・1・24員面)。
b しかし、佐古は、昭和四七年一二月一一日に初めてアメリカ文化センター事件につき自白し、同日員面調書が作成されて以後一貫して虎ノ門交差点を基準にして走行経路を述べていたのであり、停車位置が虎ノ門交差点付近から赤坂見附方面に変更された際も、引当たり(実況見分)の際も、これを維持していたのに、特段の理由もなく(48・1・24員面によれば引当たりの結果をさらに自分で考え変更したというのであるが、引当たりの際どのような印象を受け、その後どのように考えたのか説明がない。48・2・3検面によれば、引当たりの際虎ノ門から溜池に出て来る道の状況が記憶に合わないので付近を見て回っているうちに記億を喚起したというのであるが、そうであるならばなぜ引当たりの際変更を申し立てなかったのか、疑問が残る)、これを変更するのは不自然である。
c 右供述変更の理由としては、つぎのような疑いを完全に否定することはできないであろう。
すなわち、佐古は、当初アメリカ領事館に爆弾を仕掛けに行った旨供述していたため、停車位置もアメリカ大使館に近い虎ノ門交差点から赤坂見附方向へ二〇〇ないし三〇〇メートルぐらい進んだ地点と供述していたのが(47・12・11員面)、その後停車位置をアメリカ文化センターの所在地に合わせ赤坂見附方向にずらして供述したものの、当初の供述の影響で虎ノ門交差点を右折して赤坂見附方向に走行し、山王下に至ったとの供述をしたところ(48・1・18員面等)、この供述に従うと山王下に至る走行経路が遠回りすぎて不自然ではないかとの疑問を抱いた捜査官から指摘を受け、右折する地点を山王下により近い溜池交差点に変更したとの疑いである。
佐古も、捜査官から尋ねられた最初のころから虎の門のほうへ回って赤坂見附に赴くという方向が大体決まっており、細かな部分は地図を見ながら決めて行った旨述べている(二七六回証人佐古の供述・一五二冊五一七一一丁)。
(ニ) その他の諸点
爆弾を仕掛けに行った状況に関する佐古の供述には、その他以下のような供述の変遷が見られる。
a 事件当日佐古運転の自動車に誰がどこから爆弾を持って乗り込んだかについて
供述経過
47・12・11員面 坂東。中野ブロードウェイ早稲田通り入口前路上
12・14員面 坂東と思われる男。中野ブロードウェイの喫茶店
48・1・16員面 名前の思い出せない男。中野ブロードウェイ路上
1・18員面 増渕。江口のアパート
1・20検面 同右
1・24検面 「増渕。江口のアパート」と述べたことがあるが、「名前の思い出せない男。中野」かも知れない。
1・25検面 「氏名を知らない男。中野」が正しいように思う。
1・27員面 「村松でないもう一人の男。中野」の記憶が強い。
1・29検面 村松でないもう一人の男。中野
2・15員面 増渕。江口のアパート
2・17員面 同右
2・26検面 同右
爆弾持込み場所について
検察官は、この点に関する佐古の供述の変遷は、当初佐古は江口を庇っていたがその後一切を述べて罪の清算をしようとの心境に至ったものであることによる旨主張する(論告要旨四四頁以下・一五六冊五二八一六丁以下参照)。
なるほど、佐古48・2・17員面には江口に対する好意や昭和四八年一月五日に同人から口止めをされたため隠していた旨の供述も録取されており、検察官の主張は首肯できそうにも思われる。
しかし、検察官の主張通りであれば、48・2・15員面以後に録取された供述の中で少なくとも江口に関する部分には虚偽が含まれないのが通常であると思われるが、前述のように2・15員面には江口が何も書いてない黄土色の包紙でダンボール箱を包装した旨明白な虚偽供述が録取されているのであり、不自然ではあるまいか。また、後述のとおり、佐古は同月一五日以後の取調において、同年一月五日に喫茶店プランタンで増渕及び江口と話し合った状況について供述した際、江口に対し昭和四七年の警察の取調で江口のアパートでアメリカ文化センター事件の爆弾を作ったと供述したと話したところ江口から「全く知らないことだ。しっかりしてほしい」と叱られた旨供述するなど、江口があたかもアメリカ文化センター事件には関与していないかのような状況を述べているのであって(48・2・18員面、3・4員面、3・5検面参照)、不自然であろう。
以上のとおりであり、前記供述の変遷の理由を検察官の主張のとおりに解することには疑問が残る。
なお、佐古は、爆弾持込み場所を中野ブロードウェイ路上から江口のアパートに変更したのは捜査官から「爆弾の包みを持って路上で待っているのは不自然だ。江口のアパートから増渕が乗り込んで来るなら江口のアパートに爆弾があっても不思議ではないし安全だ」と追及されたためであり(五部五八回佐古の供述・証三一冊九四四六丁以下)、また、江口のアパートから中野ブロードウェイに再び変更したのは、爆弾を仕掛けに行く前日に江口のアパートの押入れ(引戸で中が上下二段に分かれている。)の下段に爆弾が置いてあった旨供述していたところ、江口のアパートへ引当たりに行って押入れが観音開きの戸で状況が異なることを知り、捜査官からいい加減なことを言うなと言われることを恐れたためである旨述べるが(二七六回公判・一五二冊五一七〇三丁以下)、必ずしも不合理な弁解とは言い切れない。
中野から村松と一緒に乗り込んだ者について
佐古は、当初坂東国男と述べ、その後氏名不詳者等と変更するが、検察官は、この点につき佐古は村松と一緒に乗り込んだ者が坂東であることの確実な記憶があったわけではないから不自然ではない旨主張する(論告要旨四五頁・一五六冊五二八一七丁参照)。
なるほど、47・12・11佐古メモには「もう一人」と記載されており、佐古は当初から坂東の名前を供述していたわけではないから、検察官の主張も首肯できそうにも思われる。しかし、かりに村松と一緒に乗り込んだ者が佐古にとって名前の知らない男か名前の思い出せない男であるならば、そのように述べれば足り、ことさら坂東であると述べたりする(47・12・11員面によれば、坂東については事件当日は名前を聞かされなかったが昭和四五年一月ないし六月までに何回か会っているので間違いない旨述べているのである。)のも不自然であるし、かりに坂東であるとすれば、佐古と坂東との交際状況(佐古の右供述によれば事件当日会って後昭和四五年に入って何回か会うようになったということになる。)に照らすと記憶に残りやすいことと思われる。また、名前の思い出せない男と述べたり、氏名の知らない男と述べたりするのも不自然である(最後には「もう一人の男」ということになって佐古が知っている男かどうかも不明瞭になる)。佐古48・2・3検面によれば「坂東に似ていたように思ったので最初そのように述べたが、当時は坂東は知らなかった。坂東と顔を合わせたのをはっきり覚えているのは昭和四五年一月一八日の東大集会の前のころである」というのであるが、アメリカ文化センター事件という重大事件に関与した人物が、後にかなり深く交際するに至った坂東とかりにいかに似ていたからといって、坂東との交際の体験を通して同人がアメリカ文化センター事件に関与していないことは明確になっていたはずであり、それであるのに同事件に関与した人物を坂東であると供述するのはいかにも不自然である。
b なお、その他、爆弾を仕掛けに行く際に使用した自動車について、爆弾を仕掛けた時刻について、犯行後村松らを降車させた場所についてそれぞれ供述が変遷するが、これらについては、いずれも記憶の混同、不正確に基づくということでも説明が可能であり、疑問点として重視するのは相当でない。
以上(イ)ないし(ニ)のとおり、アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けに行った状況に関する佐古の自白についても、軽視できない疑問点があると言わざるを得ない。
三、佐古及び前原の各自白の関連供述の検討
(1) 昭和四八年一月四日及び五日の増渕、江口との会談に関する佐古の供述
a さらに、佐古が昭和四八年一月四日及び五日増渕及び江口と会って話をした際にアメリカ文化センター事件について話し合った状況に関する佐古の供述は、「同月四日夜シャンネルという喫茶店で増渕と会った。私が俺達爆弾事件にどの程度関係しているんだろうかと話を持ち出したところ、増渕は全く知らんと無視するような態度であった。そこで私が、でも俺は何か変なことをしゃべったみたいだ、四四年にアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことがあるのかと尋ねたところ、増渕はアメリカ文化センターか、そんなものは俺は全く知らん、お前何をしゃべったんだと聞いて来た。増渕は別に驚いた様子はなく平然とした態度であった。私が、村松がそのことを話しているので自分はよくわからないが認めてしまったと嘘をつくと、増渕は、そんなことを認めて馬鹿だな、そんなことをしたらお前は爆取にひっかかるかも知れんぞと言い、さらに、アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたのは村松と西宮だと聞いている、俺達は一〇・二一以後赤軍とは連絡をとっていなかったんだ、ひっくり返せと言った。私はこの話を聞いて半信半疑であった。私自身記憶がはっきりしないこともあったので、増渕が言うのが本当だとすると自分が断片的に記憶していることがどうなるのかなという複雑な気持であった。しかし、私が警察で増渕が事件のリーダーである旨供述したことまでは増渕に話さなかったので増渕は平気な顔をしていたのだと思う。翌五日午後一時半過ぎごろシャンネルで再び増渕と会い、アメリカ文化センター事件で増渕がリーダーになっている、俺がやったんならお前がリーダーということになるのではないかと話すと、増渕は、何をしゃべったんだ、変なことしゃべるなよ、俺は知らんぞ、俺はそのころ赤軍とはつながりがなかったんだ、変なことをしゃべると爆取にひっかかるかも知れんぞ、ひっくり返せと言っていた。同日午後七時過ぎごろからプランタンという喫茶店で増渕及び江口と話し合っているうちに、江口が私たちの爆弾関係はどうなっているのかと切り出し、増渕が、佐古が変なことをしゃべっているみたいだ、アメリカ文化センターの爆弾について俺がリーダーになっているらしい、俺はそれは村松と西宮がやったと聞いている、俺達は何も関係ないはずだと説明した。江口は、じゃ村松も何か聞かれるかも知れない、どんな調書をとられたのか話してほしいと聞いて来たので、私がよく覚えていない、何か江口さんのところで爆弾を作ったような話をしていると答えた。すると、江口が急に怒り出したような態度で、なんですって、私はそんなの知らない、私はそんなもの見たこともないしそんな爆弾は何も関係していない、変なことしゃべらないでよと強い口調で怒った。その後江口は六月爆弾や日石土田邸事件について話した」というのである(48・3・3、3・5各検面。なお、佐古48・2・27メモ・証八九冊二二〇〇八丁以下参照)。
なお、佐古は、公判廷においても概ね同趣旨の供述をしている(六〇回証人佐古の供述・二四冊八七二一丁以下、六三回同証人の供述・二六冊九二四五丁以下、二七六回同証人の供述・一五二冊五一七三一丁以下、五部四六回被告人佐古の供述・証二四冊八〇〇丁以下、同五八回被告人佐古の供述・証三一冊九四三四丁以下)。
b しかし、もし佐古、増渕及び江口がアメリカ文化センター事件の共犯者であるとすれば、右のような会話の状況は不自然であろう。まず、佐古がアメリカ文化センター事件の犯人だとすれば、すでに述べたような自白の状況からして自分が事件に関与しているのかどうかはっきりしないというようなことは考え難く、増渕に対し自分らがアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことがあるのかなどと質問するようなことは不自然であろう。つぎに、増渕の態度も別にあわてる様子もなく平然と他の者が犯人だとして村松らの名前をあげるなどアメリカ文化センター事件の犯人だとすれば不自然といわざるを得ない。いわゆるとぼけるということもあり得ないではないが、それにも限度があろう。また、江口の態度もアメリカ文化センター事件には全く関係がないというのであり、同事件の犯人の態度としては不自然であろう。
検察官は、佐古が増渕に「アメ文のことは関係あるのか」と尋ねたのは、佐古において記憶の明確でない箇所を確認しておきたかったのと、増渕を裏切って自供してしまったことに対する負い目から婉曲な話し方しか出来なかったためであり不自然ではない旨主張しており(検察官の56・9・1意見書二八頁以下・一二七冊四四九七八丁以下)、この主張に沿う佐古の供述を録取した員面もある(48・1・19員面参照)。たしかに、佐古が増渕に対しアメリカ文化センター事件を自白したことを打ち明けにくい心理状態にあったであろうことは窺われ、婉曲な言い回しになることもあり得ることであるが、それにしても共犯者間において事件に関係しているかという切り出し方をするというのは不自然さが残るし、検察官の主張どおりだとすると、佐古が増渕から事件に無関係だと言われ、半信半疑の気持になる(前記48・3・3検面)というのも不自然である。
c 佐古は、増渕及び江口を庇うために事実に反してことさらに前記のような供述をしたとの可能性について検討すると、佐古は前記のような供述をした時期(最初の供述調書は48・2・18員面)にはすでに増渕が事件のリーダーで、江口も関与した旨述べて、アメリカ文化センター事件につき詳細に自白していたのであり、また、増渕及び江口が日石土田邸事件の犯人であることを窺わせる供述すらしていたのであるから、今さらアメリカ文化センター事件につき増渕及び江口を庇う態度をとるとは考え難い。また、その他佐古の前記供述を虚偽と断ずることのできる理由は見当たらない。
d そうだとすると、佐古は一方では自分を含め増渕及び江口がアメリカ文化センター事件に関与した旨供述しつつ、同時にこれと内容的に矛盾すると見られる前記増渕及び江口とのアメリカ文化センター事件に関する会話の状況について供述していることになるのであって、果たしていずれが正しいのか決し難く、すなわち、佐古のアメリカ文化センター事件についての自白自体にも疑問を抱かざるを得ないのである。
e なお、佐古がアメリカ文化センター事件の真犯人ではないとすると、なぜ増渕に対しアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことがあるのかと質問したのか疑問があるが、この点については、佐古は、増渕及び村松がアメリカ文化センター事件に関与しているのではないかとの疑いを持っていたため、探りを入れたのではないかと考えることも可能である。
(2) 昭和四四年一〇月二一日(二二日未明)河田町アジトにピース缶爆弾二個を持ち帰った旨の佐古の供述
検察官は、佐古が昭和四七年一一月一七日に小林正宏巡査部長に対し、昭和四四年一〇月二一日中野坂上付近でピース缶爆弾二個を受け取り間もなく捨てた旨供述したが、佐古がこの供述をするに至った経過及び同供述をしたことに対する佐古の弁解の措信し難いこと等に照らし佐古が同日中野坂上付近でピース缶爆弾を受け取ったとの供述は十分に信用でき、佐古がその後河田町アジトにそのピース缶爆弾二個を持ち帰った旨供述を変更したことも合理的であり、八・九機事件及びアメリカ文化センター事件はその後の自然な展開と見ることができる旨主張し(検察官の56・9・1意見書八頁・一二七冊四四九六八丁以下、論告要旨三二頁・一五六冊五二八一〇丁)、かつ、前原は昭和四八年一月一六日他の者に先がけて佐古の爆弾持帰りの事実を供述したもので、取調官には知り得ない事実であった旨主張する(論告要旨五一頁・一五六冊五二八二〇丁)。
なるほど、前記認定のように中野坂上付近にピース缶爆弾が持ち込まれ、佐古がこれを入手し得る状況にあったこと、昭和四七年一一月一七日爆弾事件関係につき厳しい取調がされたとは認められないこと及び佐古が同日の供述過程について弁解するところがいかにも不自然で措信し難いこと(佐古調書決定二七頁以下・一三六冊四七七一四丁以下参照)から考えると、佐古が昭和四四年一〇月二一日中野坂上付近で赤軍派の者からピース缶爆弾二個を受け取ったことはあったと認められる。しかし、佐古がピース缶爆弾を河田町アジトに持ち帰ったとの佐古及び前原の自白には、必ずしも重大とはいえないまでも、以下のような疑問点があること、また、前原が他の者に先がけて右の点につき供述したということについても、佐古の47・11・17員面の内容及び佐古がアメリカ文化センター事件につき自白したこと等を資料として、捜査官において、佐古が中野坂上からピース缶爆弾を持ち帰り、それが八・九機事件及びアメリカ文化センター事件に使用されたのではないかとの疑いを抱き、前原を追及することも十分あり得ることであり、かつ、前原の右自白は、前述したダンボール箱製造の虚偽自白などと同一の機会にされていることから考えると、前原及び佐古の爆弾持帰りに関する自白をもって、これを他の自白と切り離し、確実に信用できるものとするまでには至らないのである。
佐古及び前原の爆弾持帰りに関する自白の疑問点は、つぎのとおりである。
a 佐古は持ち帰った爆弾は二個とも黄土色のガムテープで包まれていた旨述べるが(48・1・17員面)、前記認定のように八・九機事件に使用された爆弾は青色のガムテープが貼りつけられたものであって異なっている。
b 前原も当初佐古が持ち帰った爆弾は茶色の布が貼りつけてあるものと述べる(48・1・22検面)。後に爆弾の上部に青っぽい色の布がかぶせてあった旨述べるに至るが(48・2・1員面)、供述を変更したことにつき納得の行く理由は付されていない。
c 佐古は当初井上と二人で河田町アジトに戻った旨述べるが(48・1・17員面)、その後渋谷で井上と別れ一人で河田町アジトに戻った旨供述を変更し(48・1・20検面)、さらに再び井上と二人で河田町アジトに戻った旨供述を変更する(48・1・22員面)。右供述の変遷の理由につき佐古は言い間違いであると述べるが(48・1・24検面)、十分納得させるものとは言い難い。
d 佐古は爆弾をポケットに入れて持ち帰った旨述べるが(48・1・17員面、1・24、検面)、前原は佐古が爆弾を紙袋に入れて持ち帰ったかのごとき供述をするのであって(48・1・17員面、1・25員面)必ずしも一致しない。
以上のとおりであって、佐古及び前原の爆弾持帰りの自白の信用性は、結局は自白全体の総合評価にかかるものというべきであり、前述した佐古及び前原の自白の疑問点を解消するほどの信用性を認めることはできないのである。
なお、検察官は、佐古が、公判廷で、中野坂上で爆弾を受け取ったことはない旨の弁解に終始し、爆弾を受け取ったが捨てたと述べないことを根拠に、佐古の右弁解が排斥され爆弾を所持したとの自供が信用できるとすれば、必然的に爆弾持ち帰りの自白の信用性も高くなる旨主張する(検察官の56・9・1意見書九頁以下・一二七冊四四九六九丁以下)。佐古が中野坂上で爆弾を受け取ったことを認めることができれば、爆弾持帰りの自白の信用性が高まることも検察官指摘のとおりであるが、佐古が前記のような弁解に終始しているのは、爆弾を受け取ったことを認めれば、捨てたと述べても信用されず爆弾を持ち帰ったと疑われることを恐れているためではないかと見る余地もある。
(3) 前原から増渕への伝言を頼まれた旨の檜谷の供述
検察官は、前原は昭和四八年二月二八日東京地方検察庁地下同行室において、檜谷啓二に対し、「窃盗は処分保留になったがアメ文で再逮捕された。アメ文と八・九機についてはある程度供述してしまったが、爆弾製造の件についてはまだ供述していない。佐古は自分をきれいにするつもりで完全に供述していると考えられる。堀からはあまり供述が出ていないと考えられる」などと話して、増渕への伝言を依頼したのであり、前原は右各事件につき自分らが犯人であることを前提にして自己及び共犯者の供述態度について述べているのであって、前原が真犯人でないとすれば自己が受けている不条理な処遇について全く語ることなく右のような連絡をすることはおよそ考えられない旨主張する(論告要旨五六頁以下・一五六冊五二八二二丁以下)。
そこで検討すると、檜谷48・3・12検面(証二冊三五三三丁)によれば「昭和四八年二月二八日東京地方検察庁の同行室で前原と連絡をとった際、前原から、『(一)一〇月から実質的活動をしていないからそれ以後のことは知らない。(二)佐古、菊井の方から話が出ていると思って間違いない。特に菊井は本件に直接関係ないからべらべらしゃべっていると思って間違いない。佐古も自分をきれいにするつもりで完全に出ていると思っていい。(三)自分も調べ官に乗せられてある程度話した。(四)爆弾製造のことについてはまだ話をしていない。(五)一度釈放されて出た時に口裏を合わせていたがそれもばれてしまった。赤軍の方からもかなり出ている。(六)堀からはあまり話が出ていないようだ。(七)窃盗の件についても話が出ている。(八)自分は覚悟したが「増」は二つかかえているので大変だから頑張れ』との言づてを託された」旨の記載があり(檜谷は六〇回公判においては前原との会話の内容は記憶がない旨述べている。六〇回公判証人檜谷の供述・二四冊八六七三丁以下参照)、前原は、檜谷に「アメリカ文化センター事件及び八・九機事件は認めたが、どうも内容がおかしい。ピース缶爆弾の製造は否認した。頑張ってほしい。外に出たらまた活動をする」旨の増渕への伝言を頼んだと述べる(五部七五回被告人前原の供述・証四二冊一一六五九丁以下、一五三回証人前原の供述・七〇冊二七〇六六丁以下)。
しかし、檜谷の右検面の内容については、菊井から話が出ているとの点(菊井がピース缶爆弾事件で逮捕されたのは昭和四八年三月一六日である)、一度釈放されて出た時に口裏を合わせたことがばれたとの点(前原は同年一月六日に初めて逮捕されて以後一度も釈放されていない。右は佐古と増渕及び江口が同月四日及び五日に話し合ったことを佐古が供述してしまったことを指しているようにも思われないではないが、はっきりしない)、赤軍の方からもかなり供述が出ているとの点(赤軍派の者から供述が得られたとの証拠はない。)に疑問もあること、檜谷と前原の会話は看守者の目を盗んで交わされたもので、どの程度正確に趣旨が伝えられたかについて疑問もあること及び前原が真犯人だとしても初めて会ったばかりの檜谷に対し自分が真犯人である態度を示しつつ伝言を依頼することには疑問もあること(前原は当時ピース缶爆弾の製造について追及を受けていたが否認していた。)に照らすと、右検面の内容は檜谷において脚色を加えている可能性もないではなく、必ずしもこれを全面的に信用することはできない。
もっとも、前原が自分の供述状況を檜谷を介して増渕に伝えようとしたことは認められ、また、その際前原が佐古らの供述状況についても触れたことは十分あり得ることであり、前原が真犯人でないとしたならば、檜谷に対し、自分が受けている不条理な処遇について全く語ることなく自分の供述状況等について伝言を依頼するというのは不自然とも見られよう。ただ、看守者の眼を盗みながらの会話でもあり、真犯人ではなくとも、さしあたり自己の供述状況等についての情報を伝えようとすることも全くあり得ないとまですることはできない。
すなわち、前原の右のような行動は前原がピース缶爆弾事件の犯人であることを疑わせる一つの情況ではあるが、これと断ずるまでには至らないものであり、前述した前原の自白の疑問点を解消するに十分なものとまではいえないのである。
(4) 犯行前後の状況に関する前原の供述
検察官は、前原の供述(員面)中には、菊井が増渕を批判してL研から離れて行った状況、八・九機事件の翌日菊井と東薬大鉄パイプ爆弾事件の新聞記事及び八・九機事件について話したこと、菊井にアメリカ文化センター事件について話したことなどL研内部の事情や犯行後の事情についての詳しい供述があり、それが菊井の証言によって裏付けられ、相互にその信用性を高めている旨主張する(論告要旨六二頁以下・一五六冊五二八二五丁以下)。
たしかに、検察官が指摘するように前原の供述と菊井の証言には右のような一致する部分があり、このことが前原の供述及び菊井の証言全体の信用性を検討する上で、信用性を肯定する方向に働く一資料となることは検察官が主張するとおりであるが、右事項はいわば周辺的事情に関するものであり、これを特に重視することは相当ではない。
四、佐古及び前原が自白するに至った理由
佐古が自白するに至った理由
前述したように、佐古は取調官からアメリカ文化センター事件の犯人であると断定され自白を迫られた状況は窺い得ず、佐古が自白した理由について弁解するところも不合理かつ不自然なものがあって、佐古が右事件に関与していないとすればなぜ自白するに至ったのか疑問の大きいところであるが、佐古の弁解中、佐古が取調官との協調関係を維持したいと考えた旨弁解するところに佐古の真意があるように思われるのであり、佐古は取調官の意を迎えるため自白するに至ったものと考えることも全く不合理とはいえないように思われる。
すなわち、(a) 佐古は昭和四四年から四五年秋ごろにかけL研あるいは赤軍派に参加し、爆弾闘争を志向して活動を継続していたものの、同年秋ごろ帰阪し、以後同活動からはいわゆる足を洗った状態にあったこと、(b) 佐古は帰阪後の生活や連合赤軍事件等を契機とし、過去の爆弾闘争志向に対し反省する気持になっていたこと、(c) 佐古は昭和四七年一一月三日法大図書窃盗事件で逮捕されて以後同事件及び余罪の窃盗事件について全面的に自白したばかりか、昭和四四年及び四五年当時の活動状況についても詳細にメモを作成し、その中には村松からピース缶爆弾を製造したことを聞いたことや、昭和四四年一〇月二一日警視庁新宿警察署を襲撃した際にピース缶爆弾を受け取ったが捨てた旨のピース缶爆弾に関する供述も含まれていること、(d) 佐古が右のような供述態度をとっていたため佐古と取調官とはいわば良好な関係にあったこと、(e) 佐古はその行動状況や供述状況等に照らし自主性に乏しい迎合的性格の持主であることが窺われ、四〇日以上にわたる身柄拘束と連日の取調によってその迎合的性格が一層助長されていたように思われること、(f) 佐古は村松らから聞いた話等から村松らがピース缶爆弾事件の犯人ではないかとの疑いを持っていたのではないかと考えられることを考慮すると、佐古は、取調官からアメリカ文化センター事件等について重要な知識を有しているのではないか、佐古自身同事件に関与しているのではないかといった取調を受け(取調官が同事件について十分な知識を有していなかったことは佐古調書決定において認定したとおりである。佐古調書決定四二頁以下・一三六冊四七七二一丁以下参照)、自分は過去に爆弾闘争を志向し爆弾に関連する行動を含めいろいろな活動に参加して来たものであり(あるいは佐古は全く別の何らかの事件に関与しており、これについては述べていないというようなこともあるかも知れない)、これらに対し相当程度の責任を負わざるを得ないので、アメリカ文化センター事件を認め、同事件によって処罰を受けることになっても結果において必ずしも不本意ではないと考え、また、佐古は村松らが同事件の犯人ではないかと疑っていたため村松らを犯人として述べても村松らに罪を着せることにはならないし、同事件がL研の活動の延長上にあるならば、L研の一員であった自分にも責任の一端がないわけでもないと考えたうえ(佐古が爆弾事件をやっていないがやったと同じに考えた旨弁解するところは佐古調書決定において述べたように不合理であるが、その真意は右に述べたところにあると見れば全く理解できないものでもない)、その迎合的な性格から従前の取調官との良好な関係を維持するためには虚偽の自白をしても良いと考えるに至り、取調官の意を迎えるために自白するに至ったものと見ることも、全く不可能ともいえないように思われるのである。
前原が自白するに至った理由
前原については、比較的短時間の取調で自白するに至ったものではあるが、佐古の自白に基づく厳しい追及がされた可能性はあり、前原がこれに根負けし、又は迎合して虚偽の自白するに至った疑いが残る。
五、佐古及び前原の各自白の信用性の検討の結論
以上詳しく検討したとおり、佐古及び前原の各自白には多くの疑問点があり、後述の村松及び増渕の各自白によってもこれらの疑問点を解消することはできず、他にこれを解消するに足りる証拠はなく、結局、佐古及び前原の各自白の信用性には疑問が残るものである。
六、村松の自白の信用性
村松は昭和四八年一月二二日アメリカ文化センター事件により逮捕されて以後同事件につき否認を続け、同年二月一二日同事件につき起訴されたが、翌日以後進んで自白したものである(村松調書決定五五頁以下・一四三冊四九四五八丁以下参照)。
村松の自白は、佐古及び前原の自白に現われた以上の内容はなく、かつ、佐古及び前原の自白よりも内容が瞹昧である。また、タイマーに落書したことは認めるものの時限装置の製造自体は認めていないようにも思われ(少なくとも製造状況についての具体的な供述はない)、アメリカ文化センターへ爆弾を仕掛けに行ったのも事前の連絡がなく、井上が迎えに来たので同行したに過ぎない旨を述べ、直接爆弾を仕掛けたのも増渕と井上である旨述べるなど、自己の関与の度合をできる限り弱いものにしようとの態度が窺われる。
なお、その他実行メンバーとして、井上の名前を挙げている点及び自動車を停めた位置について佐古の自白と異なる。
以上述べた点を考慮すると、村松は、佐古、前原及び増渕が自白し、その内容が村松が時限装置を作ったり、直接爆弾を仕掛けたりするなど積極的な役割を果たしたというものであったため(増渕の自白は村松が自白した時点では村松に実行を指示したとの内容であった)、このまま否認を続けることは自分に不利になると考え、事件の関与を認めつつ自分は従属的地位にとどまるものであることを主張しようとして自白するに至ったものと認められる(村松調書決定六一頁・一四三冊四九四六一丁参照)。
右のような自白の動機は、村松が犯人ではないかと疑わせる情況と見てよいと思われるが、真犯人でない者でも右のような動機から自白することはあり得ることであって、右自白の動機から村松を犯人と断ずることまではできない。そして、村松が真犯人であるかどうかは別論として、いずれにしても、右のような自白の動機及び内容に照らすときは、村松の自白には佐古、前原(及び増渕)の自白を補強するに十分なものは認め難いのである(かりに村松が真犯人だとしても、佐古らの虚偽の自白に便乗して佐古らを引き込んだ自白をすることも全くあり得ないではない)。すなわち、村松の自白は、佐古及び前原の自白についての前記の疑問を十分解消するに足りるものではなく、佐古及び前原の自白の信用性に疑問が残る以上、村松の自白の信用性にも疑問が残るのである。
七、被告人増渕の自白の信用性
増渕は昭和四八年一月二二日にアメリカ文化センター事件により逮捕されたが否認を続け、その後L研のリーダーとしての責任をとるように追及されて事件の実行を指示した旨認め、さらにその後自分も実行行為に参加したことなど具体的な供述をするに至ったものである(増渕調書決定二五頁以下及び三九頁以下・一三三冊四六七六三丁以下及び四六七七〇丁以下参照)。
しかし、増渕の自白には、以下の疑問点がある。
a ダンボール箱の製造
増渕は前原に爆弾を入れる箱の製造を指示した旨供述するが、前述したように虚偽であり、前原らの自白に合わせた疑いがある。
b ピース缶爆弾の改造
当初は菊井にピース缶爆弾の改造(工業用雷管と電気雷管の交換)を指示した旨述べるが、48・3・22員面では前原らとピース缶爆弾を改造したとの供述に変更される。
当初の自白は菊井の証言と異なるし、後の自白も前原の自白と異なる。なお、まず工業用雷管と電気雷管を交換してピース缶爆弾を改造した旨述べるところは前原が乾電池と電気雷管をはんだ付けした旨述べるところより合理的であるとも思われるが、ピース缶の蓋が接着されていたこと、電気雷管の先端に接着剤を塗布したこと、ピース缶の蓋を取り外さないままで改造したのかどうか及び電気雷管の入手先などの点について供述されていてもよいと思われるのに、これらの点について具体的に述べられていないのはその信用性に疑問を抱かせる一事情となるということもできよう。
c 時限式爆弾の組立
当初は改造されたピース缶爆弾を江口のアパートに持ち込み、村松に時限装置の製造を、前原に爆弾を入れる容器の製造を指示し、コードを接続するだけまでに完成した箱入りの物を河田町にあった紙袋に入れ、江口のアパートに持ち込んだ旨述べるが、48・3・22員面では江口のアパートで村松にピース缶爆弾に時限装置を取り付けさせたとの供述に変更される。
当初の自白は誰がいつどこで時限式爆弾を組立てたものか述べられておらず、後の自白は佐古、前原及び村松の自白と異なる。また、時限式爆弾組立の具体的状況(はんだ付け、電気雷管の脚線を切り取った上での配線)について全く述べられていない。
d アメリカ文化センターの下見
当初は下見をしたことは述べないが、48・3・22員面では井上、前原、国井が攻撃目標を下見した旨述べる。
しかし、いずれにしても佐古及び前原の自白と異なる。
また、自分が下見をした旨述べないところは佐古の自白と異なる。
e ダンボール箱の包装
事件当日爆弾を紙袋に入れて出発した旨述べるが、紙袋を利用してダンボール箱を包装したことについては述べられていない。
f 事件当日レンタカーを使用した旨述べていること、及び実行メンバーとして井上の名前をあげていることが佐古の自白と異なる。
g 事件当日の停車位置
当初はアメリカ文化センターの近くまで行った旨述べ、48・3・22員面では赤坂見附付近に停車させたが具体的にはわからないと述べるのであり、停車位置については具体的に述べられておらず、また、佐古及び村松の自白と異なるようにも見られる。
h 48・3・22員面によれば、アメリカ文化センターに到着し、村松と井上に爆弾を仕掛けに行かせたが、時間内に二人が戻らなかったので、先に江口のアパートへ帰ったように思うというのであるが、佐古及び村松の自白と異なる。
以上のように増渕の自白には重要な点において虚偽、他の者の供述との相違、供述の変遷が認められ、佐古、前原(及び村松)の各自白の疑問点を解消し、これを補強するに足りるものはない。
増渕が捜査を攪乱し、将来争う余地を残すことを目的にことさら虚偽や他の者の供述と相違する供述を織り込んで自白したとの可能性はあるが、特にこれを推認させる証拠はない。
前記三(1)で述べたように、昭和四八年一月四日及び五日に佐古及び江口とアメリカ文化センター事件について話し合った際に増渕がとった態度には同事件の真犯人としては不自然なものがある。
以上のとおりであって結局、増渕の自白の信用性には疑問が残るのである。
八、信用性判断についての付言
佐古、前原、村松及び増渕の各自白を総合しても、時限装置の具体的な製造状況、乾電池を時限装置に取り付ける際に使用されたピース缶の蓋、乾電池を直列に接続するために使用された赤色シールド線、電気雷管及びダンボール箱の入手先、事件当日アメリカ文化センター内で爆弾を仕掛けた際の具体的状況並びに犯行日時を決定した理由(土曜日の午後一時過ぎを選んだ理由)について供述がなく未解明の点があるのであり、増渕らにおいて隠している疑いはあるが、そのように断ずるまでには至らないのであって、このことは右各自白に十分の信を措き難い一理由となるものである。
九、村松のアリバイの検討
弁護人は、村松は昭和四四年一一月一日の事件犯行時のアリバイがある旨主張する(弁論要旨・一五六冊五三二九六丁)。
五部七九回及び八〇回被告人村松の供述(証四六冊一二二九七丁以下及び一二四〇〇丁以下)並びに一六八回証人村松の供述(七九冊三〇四〇九丁以下)によれば、村松は、昭和四四年一〇月三一日夜仲間の者らとともに闘争に使うためのダンプカーの窃盗に出かけ、水戸街道を流山方面に向かい、翌一一月一日早朝ダンプカー一台を窃取し、これを松戸近辺の江戸川の川原まで運転して来て置いて、若松町アジトの菊井の部屋まで戻り、そこで午後一時か二時ごろまで雑魚寝をしていたというのである。右ダンプカーの窃盗の事実自体は検察官も認めるところであって(論告要旨一六四頁・一五六冊五二八七七丁)、問題はその後における村松の行動であるところ、この点については村松の右供述は何らの裏付けその他真実性を窺わせる証拠のないものであり、アリバイがあるということはできない。
一〇、結論
以上詳述したように、村松のアリバイは認められないが、佐古、前原、村松及び増渕のアメリカ文化センター事件に関する各自白の信用性には結局疑問が残り、増渕が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずることはできず、犯罪の証明がないものである。
第三節第八、九機動隊事件
八・九機事件については、前記(第三章第三節)のとおり、増渕、前原、内藤、及び村松の各自白並びに堀の不利益事実の承認を内容とする供述があるが、前記(本章第一節)のとおり前原及び内藤の各自白を中心に検討する。
一、前原及び内藤の各自白の信用性を窺わせる諸点
前原及び内藤の各自白は、概ね具体性に富み、かつ詳細であることのほか、
前原については、
前原が八・九機事件に関して具体的な取調を受けたのは昭和四八年一月一七日が最初であり、同日同事件に関し比較的短時間の取調において八・九機を下見したことを供述し、その後順次具体的かつ詳細に自白するに至ったこと(前原調書決定二四頁以下及び四七頁以下・一四三冊四九四九六丁以下及び四九五〇八丁以下参照)、
前原は捜査段階において一貫して自白を維持していること、
前原は捜査に協力的な態度をとっていたこと(本章第二節一参照)、
前原は取調中に八・九機前を都電で通った時にその正門付近に機動隊員が二〇人ぐらいいてフラッシュがかなり焚かれていた情景が浮かんだ旨供述しており(二六九回証人前原の供述・一四九冊五〇七〇四丁以下)、これは前原が八・九機事件直後都電で八・九機正門前を通ったという体験を有していたことを窺わせるものと見るのが自然であること、
が認められ、
内藤については、
内藤は任意出頭による取調中の昭和四八年二月六日及び八日に、昭和四四年一〇月二三日の出来事として河田町アジトにおいて八・九機襲撃の話があったことなどを供述し、昭和四八年二月一七日に八・九機事件により逮捕された際も同事件に参加したこともあるかも知れないなどと供述し、その後順次具体的に自白するに至ったこと(内藤調書決定一九頁以下・一四一冊四八九七一丁以下参照)、
内藤は当公判廷においても「昭和四四年一〇月二一日以降のある日河田町アジトに行った時同アジトに村松、前原、井上らが集まり、雑談的に四機が強いとか八機とかという話が出て村松が紙に何か書いたという断片的な記憶がある」旨述べていること(一六一回証人内藤の供述・七五冊二八九九九丁)、
内藤は捜査段階において一貫して自白を維持し、公判段階に至っても当初自白を維持していたものであること、
が認められる。
以上のとおりであり、また、増渕及び村松も基本的には事件への関与を認めていることをも考慮すると、前原及び内藤の各自白はこれを信用してもよいようにも思われる。
二、前原及び内藤の各自白の信用性を疑わせる諸点
(1) 各自白の信用性の検討の必要
しかし、前原の自白について見ると、前述したように前原のアメリカ文化センター事件に関する自白の信用性には疑問が残ること、前原は昭和四八年一月一六日アメリカ文化センター事件につき初めて自白し、その翌日八・九機事件についても初めて供述して同日両事件につき員面が作成されたこと、同員面には八・九機を下見したとの供述のほかアメリカ文化センター事件のダンボール箱を製造した旨の虚偽の自白が併せて録取されていること、右員面に録取されている八・九機を下見したとの供述内容もアメリカ文化センター事件の乾電池と電気雷管のはんだ付けをした後の昭和四四年一〇月二六日ごろ八・九機の下見をしたという不自然な内容のものであること、前原は昭和四八年一月一七日佐古が前原から八・九機事件の犯行を打ち明けられた旨供述したことから同日同事件について追及を受けるに至ったものであるが(前原調書決定一六頁以下・一四三冊四九四九二丁以下参照)、佐古の自白内容は前記アメリカ文化センター事件について検討したように信用性に疑問があり、佐古の右供述内容も前原が花園、井上と爆弾を八・九機に投げ込んだと聞いたというもので疑問があることに照らすと、前原の八・九機事件に関する自白の信用性にも疑問を生じ兼ねないのであり、一層慎重な検討が必要である。
(2) 自白以外の証拠から認められる犯行状況との関係
まず、被告人及び共犯者とされる者らの自白以外の証拠から認定することができる前記客観的な犯行状況(第二章第一節)と前原及び内藤の各自白とが一致するかどうかを検討する。
前記のように本件爆弾投擲に直接関与した者(投擲者及び投擲者の傍ら又は後方にいて見張りを担当した者を含む。)は、高杉早苗が目撃した男一名と河村周一が通行人の女性から聞いた三人の者の合計四名である可能性が強い。もっとも、高杉早苗が目撃した男一名だけである可能性を完全に否定し去ることはできない。
供述者自身が本件爆弾の投擲に直接関与した旨の供述は、被告人及び共犯者とされる者らからは全く得られていない。
前原の自白によれば、村松、井上及び堀が投擲班で、犯行後井上から「自分が八・九機の反対側の路地から道路に出て様子を見て村松と堀に合図をし、二人が電柱の陰に行って爆弾を投げ込み、その後、三人がばらばらになって駈けて逃げた」と聞き、村松から「堀が隠すように爆弾を持ち、自分が導火線に点火してから爆弾を受け取り、前に駈け出して投げたが、投げた後追いかけられてまくのに苦労した」と聞いたというのである。右のように前原は本件爆弾投擲に直接関与した者は三名と述べるのであり(他に後方にいて見張りをした者の存在については述べない)、自白外の証拠から可能性が高いと認められる人数と相違する。
内藤も爆弾投擲班は三名であった旨述べるのであり、前原の自白と同様の疑問がある。また、この点につき当初は全く述べられず、供述した後も供述内容がつぎのとおり変遷する。
48・3・7員面 村松、井上、町田(結局町田には連絡しなかった旨述べる。)
3・8検面 村松、井上、ほか一名(増渕と思うがはっきりしない。)
3・22員面 堀を付け加える。
4・2員面 同右
右のとおりであり、堀については隠していたわけではなくようやく思い出したというのであるが、この段階になって堀について思い出すような特別の契機については何ら述べられておらず、思い出したというのは疑問である。
また、内藤は刑事八部三回公判では誰が爆弾を投げるかわからなかった旨述べるが、レポをしてその結果を投擲者(班)に伝達しなければならないはずの内藤が、投擲者(班)を知らないことは、考え難いことである。
事件翌日には犯人は三人であるとの新聞報道がされており、捜査当局がそのように考えていたことが窺われる。新聞報道の内容は、つぎのとおりである(いずれも昭和四四年一〇月二五日朝刊、証九七冊二四二九一丁以下)。
(ⅰ) 朝日新聞 河田町方向から来た三人連れの男がいきなり爆発物らしいものを投げつけて逃げた。三人のうち一人は三〇歳ぐらい、やせ型でグレーの作業衣を着ていた。
(ⅱ) 読売新聞 三人連れの男が都電通りをはさんだ反対側の歩道から爆発物を投げ、余丁町方向に逃げた。投げた男は三〇歳前後、一メートル六〇ぐらい、髪はオールバック、グレーの作業衣に黒のズボン姿で黒ぶちメガネをかけていた。
(ⅲ) 毎日新聞 都電通りの反対側を歩いていた三人連れの男の一人が正門めがけて導火線に火のついた小さな爆発物を投げた。三人は抜弁天方向に逃げた。三人連れの一人は三〇歳ぐらい、身長約一六〇センチ、グレーの上着を着て髪はオールバック、黒ぶちのメガネをかけていたが、ほかの二人の人相や服装は不明。
なお、右各新聞記事中には一人の男の人相風体についての記述があるが、これは高杉早苗が目撃したところによるものと思われる。
前原の取調官である高橋警部補は、「昭和四八年一月二〇日か二一日に前原に八・九機事件の新聞記事(縮刷版)を見せたので、実行行為者が三名という数字を知った。前原が投擲班が村松、井上及び堀の三名である旨述べたのは前原に右新聞記事を見せるより前のことだと思うが、記憶があるというわけではなく、そうだと思うという程度である」旨証言するが(一九一回証人高橋の供述・九二冊三四九二四丁以下)、いずれにしても、前原の右供述が員面に録取されたのは、前原に新聞記事が示された日より後の同月二二日のことである。
内藤の取調官である田村巡査部長は、「昭和四八年三月三日に内藤に対し八・九機事件の新聞記事(朝日、読売、毎日各紙の縮刷版コピー)を見せた」旨証言しているが(一九五回証人田村の供述・九四冊三五六七一丁以下)、また同証人は「(右コピーを作ったのは)三月…二月九日か一〇日ぐらい、大体そのへんだと思います」と証言するのであって(一九五回証人田村の供述・九四冊三五六七四丁)、田村巡査部長は早くから右新聞のコピーを準備していること、高橋警部補は比較的早い段階で新聞記事を前原に示していること及び後記内藤の弁解するところから考えると、田村巡査部長が内藤に右新聞のコピーを示したのは同人が証言するよりも前のことではないかとの疑いがないではない。しかし、いずれにしても、内藤が投擲班を三名と述べた48・3・7員面が作成されたのは内藤が右新聞のコピーを見せられた後のことである。
なお、田村巡査部長は、同年四月二日内藤から堀が投擲班の一員であることを思い出した旨の供述を録取しているが、「この時点に至って取調をしたのは管理官からの指示によるものである」旨証言している(一九七回証人田村の供述・九五冊三六〇一六丁以下)。
以上に述べたところを総合すると、捜査官が(巡)河村周一44・10・25現認の記載から爆弾投擲犯人は三名であると思い込み、あるいは新聞記事の内容を鵜呑みにして、その旨前原に申し向け、前原がこれに合わせた供述をした疑いを否定し去ることはできず、内藤はこの前原の自白をも基に追及を受け、最終的には右追及に合わせる供述をした疑いを否定し得ない。
すなわち、前原は「高橋警部補らから投げた者は三人だ、村松が投げたのはわかっている、あと二人は誰か言って見ろと追及され一人一人名前を挙げられたので想像で答えた」旨弁解する(五部七三回被告人前原の供述・証四一冊一一三五九丁以下)。村松が投げたと極めつけられた旨述べる点や井上及び堀を投擲班として述べるに至った経緯など前原の右弁解には直ちに措信し難い面もあるが、高橋警部補らから投げた者は三人だと追及され、これに合わせた供述をした旨の弁解は排斥し難い。
また、内藤は「捜査官から投げる役は三人であるとの前提で誰かと追及されていたが、想像できずわからないと答えていた。そのうち捜査官から他の役割の者を除けば残っているのは村松とか井上しかいないと言われその旨認めた。取調の中ごろから堀がいたのではないかと追及され面識があまりない者であったのでわからないと答えていたが最後にはいたかも知れませんと認めた」旨(五部二六回証人内藤の供述・証一八冊六九四一丁以下)、「任意出頭の段階で捜査官から新聞記事を見せられ、それを読んで三人組が爆弾を投げたということを知った。捜査官からお前がレポ役で前原が連絡役なら残りは井上、村松、増渕及び堀だと言われ、井上と村松を認め、もう一人を増渕だと述べた。捜査官は増渕について疑問だと言い、堀じゃないのかと追及して来たが、堀については非常に印象が薄く認める気にならなかった。その後ピース缶爆弾製造事件を自白した後に再び堀が投擲グループの一員ではないかと追及されて認めてしまった」旨(一六四回証人内藤の供述・七七冊二九五六五丁以下)弁解するのであり、右弁解のうち少なくとも捜査官から投擲グループが三人であるとの前提で追及を受けてこれに合わせる供述をしたとの部分は排斥し難い。
なお、前述のように、佐古も花園、前原、井上の三人で八・九機に爆弾を投げ込んだ旨聞いたと述べているのであり、佐古も捜査官から投擲者は三人ではないかとの追及を受けたことを疑わせるものである。
(3) 犯行時の具体的行動
犯行時の具体的行動は爆弾投擲事件という性質上大変な緊張感のもとにされたものと考えられ、比較的よく記憶されているものと思われるので、この点についての前原及び内藤の各自白を検討する。
前原は爆発の様子を見る目的で河田町電停付近の歩道上に立った旨、内藤は八・九機の警備状況を見る目的で八・九機前を往復した旨それぞれ供述するが、両供述間には重要な相違点及び不自然な点が見られる。
(ⅰ) 前原は右の際内藤に会ったと述べ、内藤も前原に会ったと述べて一致しているように見えるが、出会った場所についての供述が全く異なる。
a 前原は内藤と会った場所を覚えていないと述べるが、河田町交差点から八・九機方向へ少し行って戻り河田町電停付近の歩道上で立っていたというのであるから前原が内藤に出会った場所は右の間のどこかのはずである。ところが、内藤は河田町交差点から八・九機方向に進み、八・九機正門前を通り過ぎて余丁町電停付近の歩道上で前原外一名に出会い、簡単に報告したというのであって、両者が述べる位置は八・九機正門を中心にして正反対であり、かなり距離もある。この相違を記憶の混同と見るのは困難であろう。
b 内藤は当初前原に会ったことは述べず、48・3・7員面及び3・8検面において前記のとおり前原に会った旨述べるに至り、前原も当初内藤に会ったことを述べず、3・9検面において初めて内藤に会った記憶がある旨述べるに至ったものである。内藤が昭和四八年三月七日に至って突如前原に出会ったことを思い出すというのも不自然で(48・3・7員面にも十分納得させる理由は付されていない)、レポの結果を誰かに連絡すべきではないかとの捜査官の追及に合わせた供述をした(出会った位置については適当に述べた)疑いがあり、前原は捜査官の内藤の供述を基にした追及に合わせた供述をした(出会った位置が内藤の供述と合わないので出会った場所は覚えていない旨述べた)疑いがある。
すなわち、内藤は「捜査官から都電通りを歩いていた時東大久保交差点付近で誰かと会ったことはないか、内藤に会ったと言っている者がいる、今までの供述では歩いている間に何も連絡していないではないかと追及された。連絡役は前原、花園かも知れないと供述していたため、右追及を受け前原、花園に会ったかも知れないと認めた」旨弁解するのであり(五部二八回証人内藤の供述・証二〇冊七一六五丁以下)、これを全面的に排斥することはできない(48・3・7員面には前原と花園に会った旨の供述が録取されている)。
なお、前原は右の点につき直接の弁解はしていない。
(ⅱ) 前原は河田町電停付近の歩道上に立っていた旨述べ、内藤はブリジストンのアパートへ行く路地の入口付近に立っていた旨述べるところ、両者の位置関係はかなり接近しており、商店街の前の歩道上であって店の燈火もあるから、午後七時ごろの時刻だとしてもお互いに気づかないはずはないのであるが、前原も内藤もこのことを述べないのは疑問である(48・2・20実見(謄)・増渕証一三冊二五四〇丁以下、特に二五五九丁、48・3・12実見(謄)・増渕証一三冊二五六六丁以下、特に二五八三丁によれば、前原と内藤の立っていた位置の間には商店二軒((酒店と煙草店))があるだけである)。
(ⅲ) 前原及び内藤の各自白に従うと、河田町電停付近から八・九機方向に三人ないし四人が立って八・九機正門方面等の様子を窺っていたことになるが、不自然と思われる(右斜め向かい側には警視庁牛込警察署若松町派出所もある)。
(ⅳ) かりに前原と内藤が立っていた際お互いに気づかないようなことがあったとしても、内藤は午後七時五分過ぎごろ現場を離れて喫茶店に戻った旨述べるのであり、前原は午後七時三〇分ごろまで河田町電停付近の歩道上に立っていたというのであるから、内藤が喫茶店に戻る途中で前原に出会うはずであるのに前原も内藤もこのことを述べないのは疑問である。
前原は、午後七時一〇分ごろになっても変わった様子はなく、赤軍派の者から爆弾が投げ込まれたらしいが変化はないとの報告を受け、午後七時三〇分ごろ河田町電停から都電に乗り、八・九機前の様子を見たというのであるが、決行予定時刻から三〇分、赤軍派の者の報告を受けてから二〇分もの長時間状況がはっきりしないのに現場付近に立っているのは、不自然であるまいか。
なお、前原が「都電に乗り八・九機正門の様子を見た。警察官らが集まりフラッシュが焚かれていた」旨述べるところは、体験した者でなければ述べ難いように思われるいわば生々しい供述であり、前原の自白中に右供述が含まれていることは前原の自白の信用性を肯定する方向に働く有力な情況と見られるが、このことから直ちに前原の自白を信用できるものと断ずるのは危険であろう。たしかに、前原は右供述について、取調中にそのような情景が思い浮かんだ旨述べ、捜査官から誘導されたわけではない旨述べるのであり、体験していない者に右のような情景が思い浮かぶというのもいささか不自然と見られるが、前原が八・九機事件の現場写真が掲載されている新聞の縮刷版を見せられ、それが印象されて、捜査官の八・九機について何か思い出せとの追及に対し必死に思い出そうとして考えているうちに右写真の印象が無意識のうちにあたかも自分の記憶のように思い浮かんだというようなこと(二六九回証人前原の供述・一四九冊五〇七〇四丁以下参照)、夜間都電の中から何かの事故現場を見たというような類似の記憶が混同されて思い浮かんだというようなこと、また、捜査官の追及を受け、いろいろ空想をめぐらしているうちに自分の記憶のような情景として思い浮かんだというようなことも、可能性として完全に否定し去ることはできないと思われるからである。
前原は当初赤軍派の者と同行した旨を述べず、48・1・31員面に至って初めてこれを述べるが、自分一人であったか同行者がいたかについて記憶が混同するというのも考え難く、また、赤軍派の者を隠す理由も特に見当たらないのであって、右供述の変遷には不自然さが残る。前原はすでに48・1・22員面において犯行当日赤軍派の者と会った旨述べているのであって、その者から派遣された赤軍派の者と行動を共にしたのであればそのことを述べるはずであろう。
内藤は八・九機を中心にして河田町交差点から東大久保交差点までのレポをして、八・九機正門の警備状況と回りの警察の動きを見て途中で出会った者に説明するようにとの指示を受け、赤軍派の者とともに八・九機前を往復し、途中で出会った前原や井上に正門前の警備状況や人の流れについて報告し、井上とは投擲予定時刻である午後七時の四、五分前に別れたというのである。
(ⅰ) しかし、爆弾投擲の直前に投擲者の後方に見張役を置き、警察官や通行人に発見される危険の有無を確かめ、又は逃走経路の安全を確保するということならば重要であるが、内藤が果たした役割は本件犯行にとっては余り必要とは思われず、レポの結果の伝達方法も場当たり的で(投擲担当者に伝達しなければ意味がないので伝達の相手、場所、時刻などがあらかじめ決められているのが自然である)、二人連れで八・九機正門前を往復するなど不自然な面がある。
(ⅱ) 内藤は、前述のように、余丁町電停付近から八・九機正門前に至る途中にある小さな路地の中に村松ほか一名が立っているのを見た旨述べているが、48・3・9員面では右路地は八・九機正門前から逆に約八〇メートルぐらい河田町方向に進んだところにある路地である旨変更になる。右員面によると大通りと直角に交わる感じの路地ではないと思っていたが、実況見分の際現場を歩いてみてそのような路地は八・九機正門前から約八〇メートルぐらい河田町方向に進んだところにある路地しかなかったので供述を変更した旨の記載がある。そして、内藤の右の点に関する弁解も「捜査官から東大久保の電停付近から戻るあたりでL研の者に会ったことはないか、内藤から見られてしまったと述べている者がいると言われ、見られてしまったというのであるならどこか曲がったような見えにくい路地にでもいたのだろうと考え、捜査官から見せられた地図を参考に適当に述べておいた。その後実況見分のため現場へ行って見たところ、前に述べた路地が見通しが良過ぎ、捜査官からも見られてしまったという感じとは異なると言われ、現場付近を歩き少し曲がった路地があったところ捜査官から供述調書で述べている感じと似ていると言われ供述を変更した」というのである(一六五回証人内藤の供述・七七冊二九七七三丁以下)。しかし、48・3・7員面及び48・3・8検面には八・九機付近の比較的正確な略図が添付されており、都電通りと直角に交わる路地三本、斜めに交わる路地一本を記載したうえ、村松らが立っているのを見た路地として都電通りと直角に交わる路地を特定しているのであり、見えにくい路地であることを窺わせる状況は全く述べられていないのであって、供述が変更された理由には若干の疑問もあり、変更された供述に従えば村松らを見た直後に井上に出会うことになるはずであって、「八機正門の状況を横眼で見て様子をさぐりながら歩いており、ふと前を見ると井上が一〇メートルぐらい前方からこちらに歩いて来ました」(48・3・7員面)との従前の供述内容とも異なることになり、疑問がある。
また、48・3・7員面では、路地の中に村松と増渕らしい男が立っていたのを見た旨述べ、48・3・8検面では、路地の中に村松外一名が立っていたのを見た旨変更になるが、これも村松が投擲班であること及び他の者から増渕が現場付近に赴いたとの供述が得られていないことを考慮した捜査官が、内藤が述べる増渕らしい男とは堀のことではないかと見込んで内藤を追及したことによるのではないかとも見られないではない。
(ⅲ) レポの同行者についての内藤の供述は変遷が著しく不自然である。
48・2・22員面 村松、前原、菊井のうちの誰か(但し、二三日のことか二四日のことかはっきりしないとする。)
2・28員面 前原と思うがはっきりしない。
3・1検面 自分よりかなり背の低い男(井上、国井、村松、増渕ではない。)
3・3員面 レポは一人でしたか二人でしたかはっきりしない。二人でしたとすればもう一人は村松、菊井、前原及び堀のうちの一人であるような気がする。
3・7員面 梅内
3・8検面 赤軍派の者(比較的背の低い男)
3・12実見 梅内(3・9施行)
4・2員面 花園
刑事八部三回公判 知らない男
右のとおりであり、レポの同行者は記憶に残りやすい事項であり、少なくとも知っている男かどうかの記憶は残るはずであること、同行者を特に隠さなければならない理由は見当たらないこと、内藤は公判段階に至っても事件の関与を認めているのであり、捜査段階においてことさら虚偽を織り込み将来争う余地を残したものとは考え難いことから考えると、右のような供述の変遷は不自然である。内藤は捜査官のその時々の追及を基に自分の想像を織り混ぜて供述した旨弁解するが(一六五回証人内藤の供述・七七冊二九七一七丁以下)、この弁解を排斥し難い。
(ⅳ) 内藤の供述は当初曖昧な供述に終始し、次第に具体的、詳細になって行くという特徴があり、その過程を示すと次のとおりである。
48・2・6員面 昭和四四年一〇月二二日から同月二四日のある日八機前路地で村松と袋小路を歩いたことがある。
2・8員面 日ははっきりしないが、八機前路地に一人で入ったことがある。この時のことかはわからないが同じ場所を単調に歩くなと言われた。
2・17員面 八機周辺を歩いたことがある。
2・18員面 午後八時ごろ八機正門あたりの小さな路地に入った。単調に歩くとまずいと思ったためと思う。
2・19検面 二四日夜一人の者と八機近くをうろついた記憶がある。
2・21員面 二三日から一〇月末の間の夜八機前都電通りで誰かと会った。レポに関して話したと思う。
2・22員面 二三日か二四日かはっきりしないが、夜、村松、前原、菊井のうちの誰かと組んで八機をぐるぐる回り河田町に帰った。いずれの日かはっきりしないが、八機正門を様子を見る感じでチラッと見た。
2・26検面 二四日は連絡役か見張役だったと思う。
2・28員面 二四日夕方もう一人の者(前原と思うがはっきりしない。)と八機前を歩き井上と会ったと思う。
3・1検面 二四日自分よりかなり背の低い男と八機前を河田町方向に歩き井上外一名に会った。真暗になっていた。ブリジストンアパートの方の路地に入る。
3・3員面 誰かと組んで八機前を二回ぐらい通った。河田町方向に向かって正門を通り過ぎてから井上に会った。その後河田町交差点少し前の路地に入った。
3・7員面 前述したとおりの供述をするに至る。
3・8検面 同右
右のとおりであるが、犯行時の行動の概要は少なくとも記憶に残っているはずであるので右供述経過を次第に記憶が喚起されて行く過程と見るのは相当ではない。また、右供述経過につき内藤は当初事件への関与を全面的に否認するという態度はとらないまでも曖昧な態度に終始して責任を免かれようとしたが、捜査官の追及に隠し切れず真実を述べるに至ったものと見ることは可能である。しかし、前述したように内藤が真実を述べるに至ったはずの供述内容には前原の供述内容との大きな相違点や不自然な点、不自然な供述の変遷が見られるのであり、前述のように内藤がことさら虚偽を織り込んだものとは考え難いことにも照らすと、右のように断ずることにも疑問が残るのである。
(4) 犯行の直前及び直後の行動
犯行直前及び直後の行動も犯行時の行動と一連のもので比較的記憶に残りやすいと考えられるので、この点についての前原及び内藤の各自白を検討する。
前原は「夕刻内藤と一緒に河田町アジトを出て河田町交差点近くの喫茶店に行き、同所で増渕の指示を受けた。増渕、内藤らが出て行った午後六時四〇分ごろ赤軍派の者一名と右喫茶店を出発した。都電に乗ってレポをした後東大久保で都電を降り、午後七時四〇分か五〇分ごろその付近にある約束の喫茶店へ行った。井上、内藤が来たが、増渕が来たかどうかはっきりしない」と述べ、内藤は「前原と一緒に河田町アジトを出て河田町電停方面へ向かい、途中で喫茶店に入った。同所に全員が集まった。増渕の指示を受け赤軍派の者と出発した。午後七時を五分ぐらい過ぎても何の変化もないので一人で右喫茶店に戻った。同所には菊井がいた。前原もいたが、自分より先に戻っていたかどうか断言できない。その後井上、増渕が来た」と述べる。
前原と内藤の自白相互間において、つぎのような相違点がある。
(ⅰ) 犯行直前及び直後に集まった喫茶店につき、内藤は同一の喫茶店に集まった旨述べ、前原は各別の喫茶店に集まった旨述べており、前原が犯行直後に集まったと述べる喫茶店の所在地は、犯行直前に集まったという喫茶店の所在地と全く異なる。
(ⅱ) 犯行直前に喫茶店に集まった者につき、内藤は全員が集まった旨述べるが、前原は投擲班である村松、井上、堀は来なかった旨述べる。
(ⅲ) 犯行直後喫茶店に来た者につき、内藤は菊井がいた旨述べるが、前原は菊井がいたとは述べない。
なお、内藤は48・3・7員面では喫茶店に前原が先に戻っていた旨述べながら3・8検面ではこれを断言できないとしているが、前原の自白に従えば内藤が喫茶店に戻った時刻には前原は河田町電停付近の歩道上に立っていたことになり矛盾するので、検察官から問いただされて変更されたものと思われる。
前原及び内藤の自白は、犯行の直前及び直後に喫茶店に入った旨述べる点において一致している。
(ⅰ) しかし、前原も内藤も当初は全く右のような供述はせず、後になって右の点に触れる供述をするに至ったものであり、その供述経過は次のとおりである。
48・3・1検面(内藤) どこかの喫茶店に集まり、終了後またその喫茶店に集まるよう指示があったように思うが、他のことと混同しているかも知れない。
3・2検面(前原) 東大久保電停から明治通り方向へ向かう坂を下る途中にある喫茶店を使ったような気もするが、はっきりしない。
3・3員面(内藤) どこかの喫茶店に一旦集合してからレポに出たような気がする。日ははっきりしないが、喫茶店で増渕から指示を受けたように思うがはっきりしない。レポ後喫茶店か河田町アジトに戻った。
3・7員面(内藤) 前述したとおりの供述をするに至る。
3・8検面(内藤) 同右。
3・9検面(前原) 同右。
3・9員面(内藤) 引当たりに行ったところ喫茶店が見当たらない旨述べる。
(ⅱ) 増渕は、48・2・18員面において八機前通りにある喫茶店を出発拠点とするように指示した旨供述している。
前原及び内藤は、喫茶店に行く前に河田町アジトで任務分担の確認を済ませているというのであるから、犯行直前に再び喫茶店に集まる必要はないし、犯行直前に現場付近の喫茶店に集まって順次出発して行くというのも(内藤の自白によれば犯行直後に再び同じ喫茶店に順次集まったというのである)、遅くとも事件報道後喫茶店の従業員らに怪しまれる形跡を残すことにもなり、いささか不自然である。
犯行の直前及び直後に喫茶店に集まったかどうかの点は、ことさら隠す必要のあるような事項とは思われない。
以上の諸点を総合すると、捜査官は前記昭和四八年二月一八日に増渕がした供述を基に順次内藤及び前原に対し「犯行当日喫茶店に集まったことはないか」などと追及し、前原及び内藤が右追及に根負けし、あるいは迎合してこれに合わせる供述をした疑いを否定し去ることはできない。
すなわち、内藤は「二月末ごろ捜査官から佐古の下宿からぞろぞろ出て行くのはおかしい。どこか別のところへ行ったのではないか。喫茶店に入っているのではないかとずいぶん追及され認めた」旨弁解するが(一六五回証人内藤の供述・七七冊二九七八一丁以下)、この弁解を排斥することは難しい。
また、前原は「浜田検事から内藤が増渕が喫茶店にいて指示していた旨述べていると言われ、結局その喫茶店に寄ったことを認めた」旨弁解するが(五部七四回被告人前原の供述・証四一冊一一四九〇丁以下、一一五四四丁)、右弁解も直ちには排斥し難い。
なお、内藤は、刑事八部三回公判において「河田町交差点近くに立って様子を見た後若松町の方へ抜けた。喫茶店に戻って話した記憶はない」旨供述を一部変更している。
検察官も論告要旨において犯行の直前に喫茶店に集合した旨の主張はしていない(論告要旨一八頁・一五六冊五二八〇三丁参照)。検察官は前原及び内藤の右のような供述は余分なもの(述べ過ぎたもの)と見ているのかも知れない。しかし、検察官のこのような見方を直接裏付ける立証がされているわけではないので、直ちに右のような見方が正しいとすることはできない。
前述したように前原及び内藤が捜査官の追及に根負けし、あるいは迎合したものとすれば、右両名の自白の他の部分も同様にしてされたものかも知れないからである。
(5) 導火線の燃焼実験
前原及び内藤は八・九機事件の前日河田町アジトで導火線の燃焼速度を測る実験をした旨述べるが、これは特異な体験であって比較的記憶に残りやすい事柄と考えられるので、この点につき検討する。
前原、佐古及び村松は、ピース缶爆弾の製造の際導火線燃焼実験をした旨述べている。そうだとすると、前原らは重ねて導火線燃焼実験をしたことになり、いささか不自然である。
検察官は、「被告人らがピース缶爆弾を製造したときは、直接被告人らが自らこれに点火・使用するかどうか決めていなかったので、導火線の燃焼実験も、一般的に導火線をどの程度の長さにすれば良いかという観点で行い、その結果に従って製造したものと認められる。ところが、その後右爆弾を被告人らみずから点火・投擲することに決したところから、導火線の燃焼速度を的確に把握することが、犯行の成否にとどまらず自分らの安全にかかわる切実な問題となったのであるから、再度念を入れて実験するのは誠に自然な心理であり、かつ当然の行動というべきである」旨主張するが(論告要旨一三四頁・一五六冊五二八六一丁参照)、必ずしも納得させられる説明ではない。ピース缶爆弾は直ちに使用できる完成品として製造され赤軍派の者に交付されたというのであり(昭和四四年一〇月二一日の新宿警察署襲撃の際にも武器として準備され、現場で赤軍派の者ら((佐古らも参加している))。に実際に配付されている)、製造の際に導火線の燃焼速度を入念に計測したうえ(計測は容易である。)導火線の長さを決定したはずであるからである。にもかかわらず、前原は一回目は導火線が使用可能かどうかを知るため、二回目は燃焼速度を計測するため実験をした旨不自然な説明をする(48・4・6検面)のであって疑問である。
内藤は、当初導火線燃焼実験については否認し、48・2・24員面に至ってようやく認めたものであるが、刑事八部一回公判において記憶がはっきりしないと述べている。
前原は「高橋警部補から導火線を燃して見たのではないか、そうでないと危くて投げられないのではないかと追及され、燃焼速度も教えられたし、マッチでは簡単に点火できず、コツがあると言われ、何度も追及されて認めた。導火線の入手先について増渕が持って来たのか、爆弾二個のうち一個から引き抜いたのかと追及され、爆弾二個のうち一個は電気雷管に交換されアメリカ文化センター事件に使用されたことになっていたので、爆弾二個のうちの一個から引き抜いたとしても支障がないし、増渕が持って来た旨答えてもどこから持って来たのか答えられないということもあり、爆弾二個のうち一個から引き抜いた旨答えた。捜査官は増渕が持って来たのではないかと言っていた。その後ピース缶爆弾製造の際にも導火線燃焼実験をやったと追及され、二度も同じ実験をするのはおかしいと考えて否定したが、何人もが認めているから絶対間違いないと言われた」旨弁解するが(刑事五部七四回被告人前原の供述・証四一冊一一四五三丁以下、同七五回被告人前原の供述・証四二冊一一六四七丁以下)、直ちには排斥し難いものである。
また、内藤は導火線燃焼実験については厳しい追及を受けた旨弁解するが(一六三回証人内藤の供述・七六冊二九四五五丁以下)、直ちには排斥し難い。
(6) 謀議の内容
謀議内容の詳細については、記憶が希薄化することは十分考えられるが、大筋については記憶に残っているものと考えられるので、この点について検討する。
この点に関する前原の自白は比較的安定している。しかし、前原は投擲班として三名が指名された旨述べるが、三名という人数につき前述した疑問がある。
内藤の自白には重要な疑問がある。
(ⅰ) 内藤は投擲班として三名が指名された旨述べるが、三名という人数につき前述した疑問がある。
(ⅱ) 攻撃方法について内藤は前述したように八・九機横の路地から攻撃することに決まったと思うが、その後正門に爆弾を投げる方法に変更になったのがどの段階であったかについて記憶がない旨供述する。しかし、どの段階で変更になったのかについて記憶がないというようなことは考え難いし、前原の自白と相違する。
また、この点に関する内藤の自白は微妙に変遷しつつも、横からの攻撃に固執する様子が見られるのであり、その供述経過はつぎのとおりである。
48・2・6員面 正門の所に何か投げ込み注意を引きつけ横から侵入する。
2・18員面 正門に物を投げ込み横から侵入する。
2・28員面 同右
3・1検面 前の方に引きつけておいて側面の路地から入る。
3・7員面 正門に何かを投げ込み注意を引きつけ横から侵入する。
横からの侵入については勘違いかも知れない
3・8検面 前述した供述をするに至る。
刑事八部三回公判 横の路地のことを話したと思う。
右のとおりであり、横から侵入するということはやや非現実的な感がないではないうえ、攻撃方法について記憶が混同することは考え難く、また、ことさら隠す必要もないことである。
内藤は、「村松が描いたものに対し前原が横の方に隙があると質問していたという記憶があったので、横から侵入するということを述べたところ警察官から勘違いではないかと追及された。浜田検事もおかしいと言っていたが、その後似たような話が他からも出ていると言った。さらにその後攻撃方法の変更があったのではないかと再々追及され、結局これを認めた」旨弁解するが(一六四回証人内藤の供述・七七冊二九五四五丁以下、一六六回同証人の供述・七八冊二九九二四丁以下)、直ちには排斥し難い。
このように見て来ると、内藤は、何らかの別の記憶を基に供述しているのではないかとの疑問を否定し切れない。
(7) 爆弾の入手経路
内藤は当初火炎びんを使用するものと思った旨述べ、48・2・24員面において増渕がこれからは爆弾闘争だと言ったと思う旨述べ、48・3・1検面において八機に爆弾を投げ込むことははっきり理解していた旨述べ、48・3・7員面において「一〇・二一闘争では赤軍派が増渕を通してL研と東薬大で一緒に爆弾を作ったが失敗した。その時の爆弾をL研に持って来て明日使うとの話があった」旨述べ、48・3・8検面に至って「増渕が一〇・二一に残った爆弾を使うと言った」旨述べるに至る。
東薬大でピース缶爆弾が作られたとの証拠は全くなく、右48・3・7員面に述べられた爆弾は鉄パイプ爆弾を窺わせるもので不自然である。右48・3・8検面に述べられている爆弾はピース缶爆弾であるかのようにも見えるが、同検面の記載を見ると、「喫茶店で増渕が中心になって一〇・二一では赤軍派が増渕を媒介にして東薬大に入って来て爆弾を作ったとか、これには梅内が関係していて梅内が東薬大から爆弾を持ち出したとか、一〇・二一で東薬大から新宿に向かった時爆弾を持って行って使用する計画であったが途中で警備に会って使えなかったとの話があった」と述べられているので、むしろ鉄パイプ爆弾を窺わせるものと見られるのであり、48・3・7員面と同様不自然である。
内藤が当初爆弾について供述せず、またその後も曖昧な供述に終始していたのは、内藤が爆弾について供述することにより自己の刑事責任が重くなり、かつ明確になることを恐れたためであると見ることが可能である。しかし、48・3・7員面において爆弾を使用することが提案されたことまで認めながら、なお爆弾の入手経路を隠し、あるいは爆弾の入手経路についてことさら虚偽を述べるというのは考え難い。
また、爆弾の入手経路は、八・九機攻撃の直接の契機とも密接に結びつく事項であり、この点について記憶が混同することは考え難い。かりに内藤がピース缶爆弾の製造に関与していたとするならばなおさらである。
なお、内藤48・4・2員面によれば、「八機襲撃前喫茶店に集まった際井上がピース缶を包んだくらいの大きさで普通の包装紙のようなものできちんと包んだ紙包みを持っていた。増渕が河田町アジトを出る時これだからなと言って手渡していた」というのである。
しかし、包装紙のようなものできちんと包んであったと述べるところに不自然な感がないではないし、右段階で記憶が喚起された理由も付されておらず、疑問である。前原が「村松あたりが爆弾を紙袋に入れて河田町アジトを出発したような気がするがはっきりしない」旨述べているところとも矛盾する。
また、前原は押入れから爆弾二個を出して全員に見せた旨述べるのであって、内藤の前記自白と矛盾する。
内藤は「八・九機事件に使用された爆弾の入手経路について追及されたがわからなかった。捜査官から一〇・二一に新宿で使われた残りの爆弾を河田町アジトに持ち帰ったと言われたと思う。石本が東薬大鉄パイプ爆弾事件で逮捕された時警察官から梅内が東薬大から爆弾を持ち出したらしいということを聞いたとの話が記憶にあった」旨弁解するが(一六三回証人内藤の供述・七六冊二九四四四丁以下)、全面的には排斥し難い。
(8) 事件前日の謀議場所
検察官は、論告要旨において、事件前日の午後まず喫茶店エイトにおいて八・九機事件の謀議をし、ついで同夜河田町アジトにおいて再び謀議をした旨主張する(論告要旨一五六頁以下・一五六冊五二八〇二丁以下参照)。
内藤は概ね右主張に沿う自白をし、前原も喫茶店における謀議の内容については曖昧な供述をするものの大筋において検察官の右主張に沿う自白をしているものと見てよい。
喫茶店において爆弾事件の謀議をするということはいささか不自然な感もないではなく、しかも喫茶店エイトのすぐ近くには河田町アジトがあるのであるからことさら喫茶店で謀議をする必要もないであろう。しかし、内藤が述べる喫茶店における謀議は予備的あるいは連絡的なもので簡単な話合いがされたにとどまるものと解することもできるので、喫茶店において右のような謀議がされることもあり得ないではない。
内藤は当初喫茶店における謀議については全く述べず、48・3・7員面に至ってようやく供述したものである。この点についての供述経過を示すと、つぎのとおりであって、かなりの変遷が見られるのであるが、その変遷の理由は必ずしも明らかではない。
48・2・6員面 河田町アジトに村松、前原、井上らと集まった。四機の話が出た。村松が機動隊を襲撃しようと発言し、八機について話し、図面を書いた。増渕はいなかったと思う。明日高野か町田を連れて来るように言われたが断った。
2・8員面 増渕はいなかったと思う。
2・19検面 増渕がいたかどうかはっきりしない。村松が中心となり機動隊攻撃の話をした。
2・20検面 増渕もいたように思うがはっきりしない。
2・24員面 村松が八機襲撃の説明をした。増渕がいたかどうかはっきりしないが、これからは爆弾、銃使用の闘争だと言った者がおり、それが増渕であったと思う。
2・26検面
2・28員面
3・1検面
3・7員面 喫茶店で増渕が八機襲撃を提案。河田町アジトで村松が八機襲撃計画を説明。増渕が少し遅れて来て任務分担を指示。
3・8検面
刑事八部三回公判 河田町アジトで村松が八機について話した。その後増渕が来て爆弾闘争の話をした。
内藤は喫茶店において増渕が機動隊を爆弾により攻撃することを提案し、出席者全員がこれに同意したと述べるのであり、内藤にとっては初めて爆弾を使おうというのであるから緊張感があったであろうし、周囲に注意を払いながらの話合いであろうから印象的で記憶に残りやすい状況と思われる。後の河田町アジトでの謀議と混同するということも謀議の内容や参加者に相違があり、やや考え難い。かりに河田町アジトでの謀議と混同し、喫茶店で謀議をしたことを忘れるようなことがあったとしても、喫茶店での謀議の内容までも忘れることは考え難く、喫茶店での謀議内容と河田町アジトでの謀議内容を混然一体として述べるのが通常であろう。ところが、に述べたように内藤は48・3・7員面より前においては喫茶店における謀議内容、すなわち増渕が機動隊攻撃を提案したことを全く述べず、村松が謀議を主導した旨述べていたのであり不自然である。に述べた供述経過を内藤が記憶を喚起して行く過程と見ることには疑問がある。
内藤が喫茶店における謀議を隠さなければならない理由は、特に見当たらない。
前原も当初喫茶店における謀議については全く述べず、48・3・9検面に至ってようやく「夕方近くの喫茶店で増渕から機動隊に対し爆弾攻撃を加えようとの話があったが詳しい状況は思い出せない」と述べるに至ったものである。
喫茶店における謀議に関する村松及び増渕の供述経過は、つぎのとおりである。
48・2・22検面(村松) 喫茶店(エイトと思う。)で増渕と会った。八機の話が出たかも知れない。
3・1員面(増渕) 喫茶店ミナミに前原、井上、菊井、国井らが集まった。八機攻撃を決定した。
3・3員面(村松) エイトで増渕が八機攻撃を提案し、自分が八機付近の地理を説明した。
以上を総合すると、捜査官は増渕及び村松の自白を基に内藤及び前原に対し喫茶店で八・九機事件の謀議をしたのではないかといった追及をし、内藤及び前原がこれに合わせた供述をした疑いがある。
すなわち、内藤は捜査官から喫茶店に集合したのではないか、他の者が述べていると追及され、認めた旨弁解するが(一六四回証人内藤の供述・七七冊二九五五一丁以下)、これを排斥し難い。
(9) 事件前日の謀議に被告人増渕が参加したことの有無
前原は八・九機の爆弾攻撃を提案したのは増渕である旨述べ、内藤も最終的には(48・3・7員面、3・8検面)同様の供述をする。
ところが、内藤は、前記(8)のに述べたように当初は村松が八・九機の攻撃を提案したもので増渕はいなかったと思う旨述べ、その後も増渕がいたのかどうかはっきりしない旨述べていたものである。増渕はL研のリーダーであり、同人が八・九機攻撃を提案したのであるならば内藤がそのことを忘れるということは考え難い。また、内藤が増渕を庇わなければならない理由も特に見当たらない。右の点に関する内藤の供述の変遷は不自然である。
内藤は「捜査官から増渕がいないのはおかしい、他の者も述べていると追及され、そのうち自分でも増渕がいなければどうもおかしいと思うようになり認めた」旨弁解するが(一六三回証人内藤の供述・七六冊二九二八五丁以下及び二九三八七丁以下)、これを直ちに排斥し難い。
(10) 事件当日被告人増渕が最終的な打合せに参加し指示をしたことの有無
内藤は比較的早い段階から河田町アジトで増渕が最終的な任務分担を決めた旨述べるが、前原は48・3・9検面作成前においては事件当日は増渕に会っていない旨述べていたのであり、同検面においても河田町アジトでの打合せ終了後増渕が来たと思う等と述べるのであって、内藤の自白内容と異なる。事件当日増渕と会っているかどうかは、同人がL研のリーダーで事件の主導者であるというのであるから、記憶に残りやすい事柄と思われるし、前原がこれを隠さなければならないような理由は特に見当たらないのであって、前原の右のような供述経過は不自然である。
なお、前原の弁解については前記(4)参照。
(11) 犯行に参加したメンバー
梅内及び花園の参加について
内藤がレポの同行者として梅内、花園の名前を供述した経過についてはすでに検討したが、事件前日の喫茶店における謀議(及び犯行当日のレポ)に梅内及び花園が参加したことについての供述経過を検討すると、内藤は48・3・7員面で初めて梅内、花園の名前を挙げ、以下のように供述が変遷する。
48・3・7員面 梅内、花園が参加(梅内と八・九機前をレポし、途中で前原、花園と出会った)。
3・8検面 初めて見た名前の知らない赤軍派の男二名が参加(右のうち一名とレポをし、途中で前原及び赤軍派のその余の一名と出会った)。
3・12実見(3・9施行) 3・7員面に同じ。
3・10検面 3・8検面に同じ。
4・2員面 花園とレポをした。
内藤は赤軍派の者二名が参加したとし、警察官に対しては梅内及び花園である旨述べ、検察官に対しては名前の知らない男である旨述べているのである。内藤が48・3・7員面に至って初めて赤軍派の参加について供述することに不自然さが残るし、内藤が捜査官の追及態度が相違するのに応じて安易に供述内容を変える態度が窺われる。
また、赤軍派の者二名が事件前日の喫茶店での謀議に参加したと述べるところは、前原の自白と相違する。前原の自白によれば赤軍派の者二名が参加したのは犯行当日のことだからである。
なお、内藤の右各員面によれば、赤軍派の幹部である梅内及び花園が増渕の指揮下にレポ等をするというのであって、いささか不自然ではないかとも思われ、内藤の取調検察官も同様の印象を持ったものと思われる。
内藤は「捜査官から赤軍派の者がいたのではないか。赤軍派で知っている者の名前を挙げて見ろと追及され、名前を聞いたことがある花園及び前田と手配写真で見たことのある梅内の名前を挙げた。捜査官から梅内は喫茶店にいたのではないかとか梅内が現場にいたと述べている者もいるとか追及され認めた。浜田検事からはそんなに有名な者を知っているのはおかしい、当てにならないから赤軍派の某ということにしておくと言われた」旨弁解するところ(刑事五部二六回証人内藤の供述・証一八冊六九〇一丁以下、当部一六三回同証人の供述・七六冊二九四二二丁以下)、参加した赤軍派の者が梅内と花園であると特定するに至った経緯について述べるところは措信し難い面もあるが、その余は全面的には排斥し難い。
菊井の参加について
(ⅰ) 内藤は菊井の参加の有無について当初はっきりしない等の曖昧な供述をしていたが、その後犯行当日菊井がいたように思う旨述べ(48・3・3員面)、ついで犯行当日菊井がいた旨述べるに至っている(48・3・7員面)。
(ⅱ) 右は前原の自白とも異なり、菊井証言とも異なるのであって信用性に疑問がある(今日では、検察官も、菊井の証言に従い、菊井の参加を否定する)。
(ⅲ) 内藤は当初から曖昧な供述をしていたこと及び菊井の参加を認めた後も菊井の具体的任務については全く供述するところがないことに照らし、菊井と若松食堂で食事をしたことがある等の断片的な記憶から混同したものと見ることも可能であるが、爆弾投擲事件という重大な事件について記憶が混乱して参加していない者が参加したように思い込むということには疑問もある。この点からも、内藤が取調官の厳しい追及に根負けし、又は迎合していたのではないかとの危惧を否定し去ることはできない。
(ⅳ) 前原は、菊井が参加しなかった旨述べる点では一貫しているが、不参加の経緯について供述が変遷する。
a 供述経過
48・2・10員面 菊井は一〇・二一後増渕に対し批判的となり、赤軍派と一緒に活動すると広言していたためはずされた。
2・16検面 事件前日村松が河田町アジトに来て内藤、井上、菊井を集めておくようにと言った。菊井に連絡したかどうかはっきりしない。
2・26検面 事件前日内藤から菊井のところに行ったが、自分は行く必要はないと断られた旨聞いた。皆で菊井はなぜ来なかったのだろうと理由を話し合った。菊井は当時増渕の指導性に批判的であった。
3・9検面 事件前日村松が河田町アジトに来て内藤、菊井を集めるように指示した。しばらくして偶然内藤が来たので菊井への連絡を頼むと、出て行った。再び内藤が戻り、菊井は行く必要がないと言って来ないと報告した。井上と二人でなぜ菊井が来ないのか不思議に思い菊井のうわさ話をした。
b 右のとおり、菊井に参加を誘いかけたのかどうかの点につき供述が変遷する。
c 内藤は菊井に連絡をとった旨の供述はせず、菊井も連絡を受けなかった(はずされた)旨の証言をするのであって、前原の最終供述とは異なる。
三、前原及び内藤の各自白の信用性の検討の結論
以上の諸点を総合し、前原及び内藤の自白の信用性について検討する。
(1) 内藤の自白
まず内藤の自白について検討する。
(ⅰ) 内藤は、捜査段階において必ずしも事件への関与を全面的に否定するという態度をとらず、当初は曖昧な供述内容に終始し、その後徐々に具体的な供述をするに至ったものであるが、内藤の具体的供述、特に48・3・7員面以降の供述には、すでに検討して来たように疑問点が多い。
(ⅱ) 刑事八部三回公判における内藤の自白の内容は、捜査段階における自白の内容のうちのいくつかを撤回、変更するところもあるが、基本的には捜査段階における自白の延長上にあり、疑問点が多い。
(ⅲ) 内藤は、刑事八部三回公判において基本的に起訴事実を認めながらも、捜査段階における供述経過について「調べの一〇日間ぐらいは自分の記憶をたどりながら供述していたが、その後捜査官からこれでは反省したことにならないと言われヒントを貰って供述した」旨述べている。
(ⅳ) 48・3・7員面より前の内藤の供述内容を見ると、つぎのような特徴がある。
a 任意出頭の段階では河田町アジトでの八・九機攻撃の話合いについてかなり具体的に述べるが、八・九機周辺における行動についてはこの話合いと直接結びつけることなく八・九機前の路地を村松と歩いたことがある旨極めて簡単に述べるにとどまる。
b その後河田町アジトでの話合いの翌日八・九機周辺を歩いた旨両者を結びつける供述をし、徐々に具体的な供述になって行くが、河田町アジトでの話合いの状況については増渕の参加、導火線燃焼実験等を付加する以外にはあまり変更はなく、八・九機周辺の行動についてはなお相当に曖昧な供述内容であって、行動の目的もレポである旨述べるものの必ずしも明確ではない。
c 河田町アジトにおける話合いについては、村松が主導したこと、四・五機の話が出た後八・九機の話が出たこと、正門に何かを投げ込み注意を引きつけて横から侵入するという計画が話し合われたこと、爆弾を投げるという話は出ていないことを一貫して供述している。
(ⅴ) 昭和四四年一〇月ごろL研の者らが集まって機動隊や交番を攻撃するようなことを話し合うということはしばしばあったのではないかと思われ、八・九機を攻撃目標にした話合いもされた可能性がある(二六九回証人前原の供述・一四九冊五〇七〇一丁以下、二六九回証人村松の供述・一四九冊五〇八二六丁以下、二七〇回証人井上の供述・一四九冊五〇八九〇丁以下、二七六回証人佐古の供述・一五二冊五一六三三丁以下、村松48・2・22検面、増渕48・2・18員面、石井48・3・16員面、3・17検面参照)。
(ⅵ) 内藤は、昭和四四年当時若松町にある大学の友人の下宿に遊びに行くような機会に八・九機付近を歩いたことがある(一六四回証人内藤の供述・七七冊二九五七三丁以下)。
(ⅶ) 内藤は、任意出頭して取調を受けている間、八・九機付近に赴いて周辺を歩き、翌日警察官に自分が入ったことのある路地を特定して供述するという態度を示している(48・2・8員面、一六二回証人内藤の供述・七六冊二九二五一丁以下、一九五回証人田村卓省の供述・九四冊三五六二二丁以下)。
真犯人であっても捜査に協力的な態度を示して逮捕を免かれようとの意図のもとに右のような行動に出るということもあり得るが、断片的な記憶しかない者が記憶の喚起を図ろうとしたものと見る余地もある。
以上の諸点を総合すると、昭和四四年一〇月ごろのある日、村松、前原らが河田町アジトか、あるいは他の場所に集まった際に内藤も同席し、村松が八・九機を火炎ビン等で攻撃する計画を提案したものの横から侵入するといった実現可能性の薄いものでともかく実行には至らなかったというようなことがあって、内藤がこの話合いについて断片的に記憶していたこと、及び内藤が河田町アジトか八・九機付近にある大学の友人の下宿へ遊びに行くような機会に八・九機付近を歩き、その時の状況を断片的に記憶していたことがあり、捜査官から「増渕、村松、前原らが八・九機事件の犯人で認めている。お前の名前も出ている。何か八・九機について思い出すことはないか」との追及を受けて、増渕らが八・九機事件の犯人である旨思い込み、右断片的記憶に基づき供述したが、その後逮捕され取調が続くうちに捜査官の追及に根負けしたものか迎合したものかは不明であるが、追及に合わせた供述をしたとの疑いを否定し去ることはできないように思われる。
そして、刑事八部の公判においても、内藤は、内藤の事件への関与を認める前原の供述調書が多数作成されているため争っても無駄ではないかと考え、優柔不断なその性格もあって、むしろ反省の態度を示して執行猶予の判決を得た方が得策であるとの考えのもとに起訴事実を認める態度に出たものとの疑いを完全に否定し去ることはできない。すなわち、内藤は「自分の気持と捜査段階で作られて行った記憶とがごっちゃになってそれを区別することができないような状態だった。ひょっとしたら知らないうちに事件に加担したのかも知れないと思って行った。公判が始まる前に他の者の調書を見せられ、知らない間に自分も加担したものと思い込んだ。捜査段階で自白調書に署名押印していたのでどうしようもないという気持もあった。公判で否認したら裁判所に悪い印象を与えて下手をすると極刑になるという恐れを抱いた」旨(刑事五部二三回証人内藤の供述・証一七冊六六二七丁以下)、「当時いろいろな気持があった。実際の自分の記憶と取調中に取調官にいろいろ言われてそのように思い込んで行った記憶とが混乱していた。あきらめの気持もあった」旨(一六一回証人内藤の供述・七五冊二九〇五二丁以下)、「公判段階では一方では自分が事件に参加したことになっているのはおかしいという気持があったが、他方では知らないうちに巻き込まれてしまったのではないかとの気持もあった。他の者が自分の参加を認めているし、自分も自白調書を作成されているからもうどうにもならないという気持もあった。また捜査官から否認したら一生助からないと言われていた」旨(一六七回証人内藤の供述・七八冊三〇三〇六丁以下)弁解する。内藤が知らないうちに加担したと思い込んだ旨述べるところは不自然かつ不合理である。内藤が、前述のようにL研の者らの火炎びん等による八・九機攻撃の話合いの場に同席していてその話合いの内容を断片的に記憶していたということがあって、捜査官から「L研の者らが八・九機事件の犯人で自白しており内藤の名前も挙げている。内藤が断片的に記憶しているところは八・九機事件の謀議に相違ない」旨申し向けられ、自分は爆弾を投げる話は聞かされていないが自分が断片的に記憶しているのは八・九機事件の謀議であったのかも知れないと思い込むということはあり得るであろう。しかし、さらに進んで爆弾攻撃であることを認識していたかどうか、八・九機前の都電通りを歩いて八・九機の警備状況など様子を窺いレポをしたことがあるかどうかについては、本件のような重大な爆弾事件にあっては記憶ははっきりしているはずであって、捜査官から厳しい追及を受ける等のことがあったとしても、そのようなことがあったかも知れない旨思い込むということは通常はあり得ないことである。従って、内藤が知らないうちに加担したのかも知れないと思い込んだ旨弁解するところは容易に措信できないのであり、内藤の弁解の重要な部分に右のような不合理な点があることは内藤の弁解の他の部分にも疑いの眼を向けさせることになるのであって、内藤は真実八・九機事件に関与しているため刑事八部公判においても当初起訴事実を認めるという態度をとったものとの疑いが強い。しかし、前述のとおり、内藤は自分は知らなかったが結果的に八・九機事件の謀議の場に居合わせたということがあったのかも知れない旨思い込んだというようなことがあり、そのことが自白して行く契機となったためこれを強調しようとするあまり不合理と見られる弁解をするに至ったということも全く考えられないではなく、前記の刑事八部公判において起訴事実を認める態度に出た理由として他に弁解するところは必ずしも不合理ではないことを考えるときは、内藤の前記弁解を全面的に排斥することはできないのである。
結局、内藤の捜査段階における自白及び刑事八部公判における自白は、いずれも信用性に疑問が残るのであり、後記のとおり前原、村松及び増渕の各自白も内藤の自白の信用性を補強するのに十分なものではない。
なお、前述のように、内藤に対しては八・九機事件につき有罪の判決が確定しているが、証拠関係が必ずしも同一ではなく異なる結論となることもやむを得ないものである(内藤に対する確定した有罪判決においては菊井も共犯者と認定されているが、検察官は、本件審理においては、菊井は八・九機事件に関与していない旨主張しているのであって、検察官の主張にも相違がある)。
(2) 前原の自白
つぎに前原の自白について検討する。
前原の自白は、早い段階から具体的で、内藤の自白に比較すれば安定している。また内藤の自白内容との比較検討を度外視すれば比較的疑問点も少ない。しかし、前原はほとんど当初の段階から八・九機事件に内藤が関与した旨を述べ、以後も一貫しているのであって、内藤の自白内容との比較検討を無視することはできない。そうだとすれば、以上に述べて来たような多くの疑問点が生ずることは避けられない。そして前記二(1)に述べたように前原の自白の信用性には一層慎重な検討が必要であることをも考慮するときは、結局前原の八・九機事件に関する自白の信用性にも疑問が残ると言わざるを得ないのである。そして、前原は、取調官の厳しい追及に根負けし、又は迎合して虚偽の自白をするに至った疑いが残る。
なお、前原と檜谷とが連絡をとり合ったこと、前原の供述と菊井の証言がL研内部の事情等について一致していることについては、本章第二節三(3)、(4)参照。
四、村松の自白の信用性
村松の自白は前原及び内藤の自白と重要な相違点がある。
(ⅰ) 謀議について
a 事件前日の喫茶店における謀議は内藤の自白に一致するようであるが、内藤が村松の自白を基にした捜査官の追及に合わせた供述をした疑いがあることは前述したとおりであるし、参加メンバーや謀議内容については内藤の自白と相違する点もある。
b 河田町アジトでの謀議内容は前原及び内藤の自白とかなり相違する(導火線燃焼実験についても供述しない)。
(ⅱ) 犯行時の行動について
村松は、当初は見張役を担当した旨述べるが、一旦否認し、その後は連絡を受けるため木村コーヒー店で待機した旨供述を変更するが、いずれにしても前原及び内藤の自白と大きく相違する。赤軍派二名の参加について述べないところも前原及び内藤の自白と異なる。
村松の八・九機事件に関する自白は、アメリカ文化センター事件に関する自白と同様否認をすることは自分に不利になると考え、事件への関与を認めつつ自分は従属的地位にとどまるものであることを主張しようとの動機からされたものと認められる(村松調書決定六一頁・一四三冊四九四六一丁参照)。
以上に述べたところから考えると、村松の自白は、アメリカ文化センター事件に関する自白について検討したところと同様、前原及び内藤の自白についての前記の疑問を十分解消するに足りるものではなく、前原及び内藤の自白の信用性に疑問が残る以上、村松の自白の信用性にも疑問が残るのである。
五、被告人増渕の自白の信用性
増渕の自白の内容は、前原、内藤、村松らの各自白や菊井の証言及び石井の供述と重要かつ多くの点において相違する。
(ⅰ) 事件前日の謀議(喫茶店)
a 謀議の場所
喫茶店ミナミと述べるが、内藤及び村松の自白(エイトとする。)と異なる。前原の自白(近くの喫茶店とする。)とは異なるかどうかはっきりしない。
b メンバー
菊井、国井が参加した旨述べるが、内藤及び村松の自白並びに菊井の証言と異なる。内藤及び赤軍派の者が参加したと述べていない点が内藤の自白と異なり、村松が参加していないと述べている点が村松の自白と異なる。前原はメンバーについては述べていないので前原の自白と異なるかどうかはわからない。
(ⅱ) 事件前日の下見
ミナミでの謀議終了後下見を指示し自分も下見をした旨述べるが、前原、内藤及び村松は事件の当日下見をした旨述べるのであって異なる。
(ⅲ) 事件前日の謀議(アジト)
a 謀議の場所
河田町アジトか村松のアパートである旨述べるもので、曖昧である。
b メンバー
村松は後から来たかも知れないと述べる点、内藤が参加したと述べていない点及び菊井の参加を述べる点が前原、内藤、村松の自白と異なる。菊井の参加については菊井の証言とも異なる。
c 任務分担
村松と菊井が投擲役と述べるが前原、内藤、村松の自白及び菊井の証言と異なる。
前方と後方で他の者がレポをすると述べるが、他に同旨の供述はない。
赤軍派との連絡について話合いをしたと述べていない点が前原の自白と異なる。
(ⅳ) 事件当日の行動
a 村松のアパートにいて村松に実行を指示した旨述べるが、前原、内藤及び村松の自白と全く相違する。石井も事件当日増渕が村松のアパートにいたとは述べない。
b 昼間村松のアパートか河田町アジトで導火線燃焼実験をしたというのであるが、前原及び内藤は事件前日の夜河田町アジトで導火線燃焼実験をしたというのであって相違する。
c 事件後村松のアパートで菊井から失敗であったとの報告を受けた旨述べるが、菊井の証言、石井の供述と異なる。
d 事件当日井上が持ち帰ったピース缶爆弾を見たようにも思うがよく思い出せないと述べるが、思い出せないはずはないし、前原は事件前日河田町アジトで爆弾を見せたと述べるのであって相違する。
増渕の自白内容自体にも不自然なところがある。
a 八・九機の裏を回って下見をした旨述べ経路について略図を作成しているが、八・九機の裏側は通り抜けることができず増渕が述べるような経路で下見をすることは不可能である(当裁判所の検証調書・八一冊三一二八四丁参照)。
b 投擲役を二名と述べているが、前原の供述についてと同様の疑問がある(前記二(2)参照)。
c 導火線燃焼実験については、前原及び内藤の自白について検討したのと同様不自然な面がある。
増渕は、当初八・九機事件への関与を否認し、その後自白したが、菊井か村松に八・九機に爆弾を投げることを指示し、事件当日の夜菊井から失敗したとの報告を受けたという内容であり(48・2・11員面)、さらにその後昭和四四年一〇月一八日ごろ八・九機の爆弾攻撃を計画したが中止したことがあり、同月二三日右計画を再確認し、同月二四日実行した旨供述し(48・2・18員面)、48・3・1員面において前述の自白をするに至るという供述経過をたどっている。
右供述経過中に現われた供述内容と同旨の供述を他の者に見出すことはできない。なお、同月一八日ごろの八・九機攻撃計画についての供述は、八・九機の裏からの攻撃である旨述べる点において内藤の供述に近いところがある。
以上のとおりであり、増渕の自白につき他の者の自白との相違及び内容の不自然さを記憶の混同によるものと見ることや、右のような供述経過を記憶喚起の過程と見ることは困難である。
検察官が論告において主張するように、増渕は自白した後も種々供述内容を変遷させ、最終的な自白においても虚偽の事実を混入させ自己の責任の軽減を図ろうとした(論告要旨二五頁以下・一五六冊五二八〇七丁)との疑いが強いのであるし、また、将来公判段階で争う余地を残すためことさら虚偽を混入させ、かつ、他の者の供述との食い違いを狙ったとの疑いもあり、実際にも増渕のこのような供述態度に惑わされた捜査官が前原や内藤らに誤った追及をして前原らから誤った供述を引き出し、その結果前原らの自白内容に不合理なものが加わることになったのかも知れないのである。
しかし、増渕の自白の内容及び経過が前述のようなものであってみれば、検察官も認めるようにその信用性は十分とはいえないのであり(論告要旨二五頁・一五六冊五二八〇七丁参照)、前原、内藤及び村松の各自白の信用性を補強するに足りるものではなく、右に述べたように増渕が捜査攪乱を図った疑いはあるもののこれと断ずるまでには至らず、結局前原らの自白の信用性に疑問が残る以上、増渕の自白の信用性についても疑問が残るのである。
六、被告人堀の供述及び石井の供述その他
堀の八・九機付近の行動についての供述及び石井の八・九機事件当日の村松の様子についての供述は、それぞれ堀及び村松が八・九機事件に何らかの関係があるのではないかと疑わせる状況と見ることはできるが、かなり間接的なものであってこれを重視することはできない。
佐古及び井上が河田町アジトにピース缶爆弾二個を持ち帰ったかどうかについては本章第二節三(2)参照。
七、被告人増渕、内藤、及び平野のアリバイの検討
弁護人は、増渕、内藤及び平野は、昭和四四年一〇月二四日の夕方から夜にかけて、同月二〇日東薬大において東薬大社研メンバーらが製造し、同月二三日、二四日の早朝に平野の下宿に運び込んであった火炎びんを、町田敏之らとともに、同下宿から渋谷区本町の江口及び前林が借りていたアパートに運んでいる事実があり、すなわち、八・九機事件についてアリバイがある旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三二六六丁)。
そこで検討すると、一八八回増渕の供述(九〇冊三四〇五七丁)、五部三五回・三七回・四三回証人増渕の供述(証五二冊一三三九九丁・五三冊一三五四〇丁・五五冊一三九八三丁)、一六六回・一六七回証人内藤の供述(七八冊二九九二三丁・三〇一八二丁)、二四一回・二六九回証人平野の供述(一三〇冊四五八三三丁・一四九冊五〇七八三丁)によれば、「増渕らが昭和四四年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争の際に東薬大構内で製造し、隠して置いた火炎びん数十本をその後間もなく新宿区柏木所在の平野の下宿(アパート)に運んで置いたところ、さらにこれを同月二四日の夕方から夜にかけて増渕、内藤、平野らにおいて二回に分けて渋谷区本町所在の江口の下宿(アパート)に運んだ」というのである。そして、右各供述証拠に徴すると、増渕らが同月下旬ごろ火炎びん数十本を平野の下宿から江口の下宿に運んで所在を移動させたことは、一応これを認めることができる。
しかし、右各供述証拠中の、平野の下宿から江口の下宿へ火炎びんを運んだのが一〇月二四日の夕方から夜にかけてであったとの点は、いずれも確かな記憶に基づくものとは認め難い。
のみならず、右各供述者の別の箇所における供述について見ると、まず、内藤は、参考人として事情を聴取された段階において「一〇月二二日に平野の下宿で平野、石本武司、町田、高野一夫(いずれも東薬大社研のメンバー)と東薬大に置いてある火炎びんの処置について相談し、その結果一〇月二三日、二四日、二五日の三日間にわたりいずれも早朝に火炎びんを東薬大から平野の下宿に搬出した」旨明確に供述し(内藤48・1・12員面(謄)・証一〇七冊二六五三〇丁、同48・2・6員面(謄)・証一〇七冊二六五四四丁)、その後被疑者として取調を受けた時もこの供述を維持し(内藤48・2・18員面(謄)・証一〇七冊二六五七一丁)、刑事八部公判でもその旨供述し(証一〇九冊二七〇二一丁)、また、当公判廷で「昭和四八年二月六日の段階の供述で火炎びんを東薬大から平野方に運び出した関係についてことさら事実を曲げて供述をした覚えはない」旨供述しており(一六七回証人内藤の供述・七八冊三〇一九四丁)、さらに内藤は、捜査時の取調の際「平野の下宿から江口の下宿に火炎びんを運んだのは一〇月二七日、二八日の両日である」旨明確に供述していたものである(48・4・5員面・証一〇八冊二六七五六丁)。
つぎに、刑事八部九回公判調書(昭和四八年一〇月三日開廷)中の証人平野博之の供述(証一一三冊二八三八五丁)によれば、同証人は、弁護人の問に対し「東薬大から自分(平野)の下宿の部屋に火炎びんを運んだのは昭和四四年一〇月二四、二五両日であり、そして自分の部屋に一日ぐらい置いて、一、二日あとに江口の下宿に運んだ」と明瞭に供述しつつ、その後「証人によっては学校から運び出した日に江口方に運んだという人もいるので記憶を明確にして欲しいのだが、江口方に運んだのはいつか」との問に対し「大学から持って来て一旦自分の下宿に置き、二四日の夜に江口のところに持って行ったような気もする。明確な記憶ではないが、時間的にはそのくらいかなと思っている」旨言葉を濁していることが窺われる。
また、増渕は48・1・26員面(証九二冊二二四二九丁)において「一〇月二一日から一一月四日までの間に私がやったことと言えば、一〇月二四日ごろ東薬大から平野のアパートに運び込まれてあった火炎びん五〇本ぐらいを江口のアパートに運んだことぐらいである」旨供述しているが、48・1・30検面(証九二冊二二五四八丁)では、「一〇・二一の翌日の一〇月二二日に東薬大に置いてある火炎びんを外に運び出すべきかどうかを平野と話し合ったことを覚えている。そして、その翌日ごろの二三日ごろに東薬大から火炎びんを平野の下宿に運び、その日にさらにこれを江口のアパートに運び込んだ」旨供述しており、右48・1・26員面にいう「一〇月二四日ごろ」を火炎びんを東薬大から平野方へ運んだ日ではなく、平野方から江口方に運んだ日と解するとしても、一〇月二一日の行動を基準としてより明確に記憶を喚起したはずの右1・30検面ではその運搬の日が異なっているのである。
以上のように、増渕、内藤及び平野の当部及び刑事第五部における前記供述証拠中火炎びんを平野の下宿から江口の下宿へ運んだ日が一〇月二四日であったとする点は、それぞれの他の機会の供述と対比して検討した結果から考えても、いずれもにわかに措信し難いものである。
さらに、内藤に対する爆発物取締罰則違反被告事件についての東京高等裁判所第一一刑事部受命裁判官の証人長谷川幸子尋問調書(謄)(証八八冊二一八七六丁)によれば、長谷川幸子は、当時白百合女子学園の学生であったが、昭和四四年一〇月二四日の夕方に上級生の前林と同道して、前林が当時同宿していた江口の前記下宿先に赴き、約五〇分ないし一時間ほど前林と歓談し、その際かねて顔を知っていた増渕が見知らぬ四、五名の男とともにその江口の居室に訪れて来たのを目撃したことがあったが、その日が昭和四四年一〇月二四日であったことは、当時長谷川がつけていた日記によって記憶を喚起したというのである。
しかし、長谷川が供述する右のような事実があったとしても、長谷川が増渕らの男が江口の居室を訪れたのを目撃したのが増渕らにおいて火炎びんを運んで来た時のことであったとまではたやすく認めることはできない。
すなわち、右証人尋問調書によると、長谷川は、江口の下宿の六畳間で、訪れて来た増渕ほか四、五名の男と終始同席していたが、その男らの中で鞄を持っていた者があったとの記憶はあるが、それは小さな鞄であり、男らは約三〇分ぐらいその部屋にいて長谷川が帰るのと前後して帰ったが、長谷川は、その間に男らが鞄の中から火炎びんを取り出したのを見たことはなく、そのほか同日江口の下宿内で火炎びんを見たこともないというのであって、この目撃状況は、「当日火炎びん合計五、六〇本を三、四名の者で二回に分けて鞄等に入れて江口の下宿に運び、同下宿の部屋で鞄等の中から火炎びんを取り出して押入れに隠した」旨の増渕、内藤及び平野の前記供述証拠と重要な食い違いを示しており、特に多数の火炎びんが運び込まれて来たというようなことは事柄の性質上強く記憶に残るのが当然であるのに長谷川がこのような状況を目撃したことはないと供述している点は、記憶違いとしてたやすく看過することはできないのである。むしろ、長谷川の前記尋問調書からも窺われるように、増渕は、当時前林と恋人同士であり、また、江口とは友人関係にあったのであるから両名の下宿を訪問する機会もおのずから多かったであろうと推測されることを考え合わせると、長谷川が目撃したのは増渕らが同下宿に火炎びんを運び込んだのとは別の機会であったと認められるのである。
なお、二六九回前林供述(一四九冊五〇七七六丁)によると、「自分は、昭和四四年一〇月二四日のことであったという記憶はないが、その頃、大学の帰りに長谷川幸子と一緒に渋谷区本町のアパート(江口の下宿)に帰った。大学を出たのは午後三時か午後四時ぐらいだったのではないかと思うが、はっきりしない。本町のアパートに着いた頃はまだ日が完全に落ちて暗くなっているという状況ではなかったと思う。自分らがアパートに着いてから三〇分以内であったと思うが、増渕と東薬大社研のメンバーがドヤドヤと火炎びんらしき物を持って入って来て、流しのところで一本をあけて出そうとして、ガソリンの臭いがした。沢山の火炎びんが鞄の中に入っており、それを出して押入れの中に隠そうとしているところに江口が帰って来て、こんな物を勝手に運び込まれては困ると増渕に怒った。その後長谷川は帰った」というのであるが、長谷川の供述している前記目撃状況と著しく食い違っており、これまたたやすく措信することができない。
結局、弁護人の主張するアリバイの事実は、認めることができないものである。
八、結論
八・九機事件の自白状況について概観すると、最も重要と思われる爆弾投擲の状況(及びその前後の状況)について直接の供述が得られていないこと、比較的信用できそうに思われる自白はレポ、効果測定等といった従属的な役割を果たしたことになっている者二名の自白のみであることを指摘できるのであり、このことも増渕らが八・九機事件の犯人であると認めることに慎重にならざるを得ない一理由である。
以上に詳述したとおり、増渕らのアリバイは認められないが、前原、内藤、村松及び増渕の八・九機事件に関する各自白の信用性には結局疑問が残り、増渕及び堀が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずるには至らず、犯罪の証明がないものである。
第四節ピース缶爆弾製造事件
一、各自白の信用性の検討方針
前記(第三章第三節)のとおり、ピース缶爆弾製造事件については増渕、江口、佐古、前原、内藤、石井及び村松の各自白並びに菊井の証言(自白)がある。菊井は公判廷において自分を含む被告人らにおいて本件各ピース缶爆弾を製造した旨証言しているものであり、証言内容は具体的かつ詳細であって、証言態度も迫真力に富むようにも見え、その信用性には疑いがないように見える。また、佐古、前原及び内藤の各自白も具体的かつ詳細であり、佐古及び内藤についてはピース缶爆弾製造事件の取調を受けて間もなく(内藤については初めて同事件について取調を受けた当日)自白し、佐古及び前原は同事件について自白して以後捜査段階において一貫して自白を維持し、内藤も、一旦否認に転じたものの再自白した後は一貫して自白を維持し、公判段階に至っても当初自白を維持していたものであって、佐古、前原及び内藤の各自白はこれを信用してもよいようにも思われる。さらに、石井は公判段階においても自白を維持して有罪判決が確定し、増渕及び村松も基本的には事件への関与を認めていること、江口も極めて具体性に乏しいものの自白していることをも考慮すると、被告人らが本件ピース缶爆弾を製造したことはほとんど間違いないようにも思われるのである。ところが、すでに検討したように、アメリカ文化センター事件に関する佐古及び前原の各自白、八・九機事件に関する前原及び内藤の各自白の信用性には疑問があり、これら両事件に関する各自白はピース缶爆弾製造事件に関する各自白に先行するものであるから、同事件に関する佐古、前原及び内藤の各自白の信用性にも疑問を生じさせ兼ねないのである。そこで、佐古、前原及び内藤の同事件に関する自白にこれらの者のアメリカ文化センター事件、あるいは八・九機事件に関する自白と区別できるだけの高度の信用性が認められるかどうか、菊井の証言の信用性はどうであるか、また石井らの自白の信用性はどうかなどの点につき、慎重に検討する必要があるといわなければならない。ところで、菊井は証人として公判廷において証言しているものであって、反対尋問による信用性の吟味の機会も与えられており、ことさら虚偽を混入させる理由も一応考え難いものであるから、他の者の自白と比較すれば最も信用性が高いはずのものである。そこで、以下菊井の証言を中心にして同証言及び前記各自白の信用性を検討する。
なお、菊井の証言中にも、他の自白と同様、いわゆる秘密の暴露に当たるものはない。
二、謀議及び製造の各日時
(1) 各供述の概観
(ⅰ) 菊井は、謀議及び製造は昭和四四年一〇月一一日から一八日の間で、謀議の日と製造の日は接近していた旨証言する。また、謀議及び製造が同月一一日に近いのか一八日に近いのかもわからないとする。
(ⅱ) 他の者の自白は、いずれも謀議及び製造の日についてより具体的である。
村松 同月一四日ごろ謀議をし、翌日製造するとの指示があり同月一五日製造した。
内藤 謀議には不参加。同月一五日か一六日ごろ製造。
佐古 同月一五日か一六日ごろ謀議をし、翌日製造するとの指示があり同月一六日か一七日ごろ製造した。
前原 同月一五日ごろ謀議をし、同月一六日か一七日ごろ製造した。
石井 謀議には不参加。製造は同月一七日か一八日と思うが一六日かも知れない。
増渕 同月一六日謀議をし、翌日製造する旨の指示をした。同月一七日製造した(48・3・23、4・14検面)。
江口 謀議については述べない。同月二一日の直前ごろ製造した。
以上のとおり、いずれも製造日は同月一五日以降というのであり、前原を除き謀議と製造は連続した日であるとする。前原の自白は謀議の翌日ごろ製造したというのであるが、翌日か翌々日かについて動揺が見られる。これらの自白はいずれも昭和四八年二月から四月にかけてされたものである。
(2) 菊井供述の不自然な点
ピース缶爆弾の製造は、菊井を含む以上の者らにとって初めての重大な体験であるはずのものであり、いわゆる一〇・二一闘争という記憶の柱になるものがあるのであるから、概ねのところは記憶に残るのではないかと思われる。ただ、菊井以外の者の自白は事件後三年余を経てされたものであるのに対し、菊井の証言は事件後約一〇年を経てされたものであるから、約一〇年を経て急に証言をする立場に立たされたとすれば、記憶も希薄化し、謀議及び製造の日時についてもある程度の幅をもって証言されるのがむしろ自然であり、そのような観点から見るならば菊井の前記証言も必ずしも不自然とはいえないようにも思われないではない。しかし、以下に述べるような事情に照らすときは、菊井の前記証言には不自然な面がある。
a 菊井も昭和四七年一一月あるいは一二月ごろに昭和四四年一〇月ごろの行動状況について取調を受け、昭和四八年三月一六日ピース缶爆弾製造事件について逮捕勾留され取調を受けたのであるから、真実同事件に関与しているならばその当時においては被告人らと同程度の記憶喚起はできていたのではないかと思われる。菊井はその当時も製造日については十分記憶喚起ができていなかった旨証言するが(一八四回証人菊井の供述・八八冊三三三二八丁以下)、菊井一人のみが他の者より記憶が曖昧というのも不自然な感があるし、取調官から製造日についての他の者の自白内容を告げられることもあったであろうから(菊井48・4・22員面、48・4・5検面参照。証六九冊一七二一七丁、一七二二二丁)、それらを手がかりにして記憶の喚起ができるのではないかと思われ、また、十分な記憶喚起ができなくても前記証言内容よりは具体的な記憶を呼び戻すことができたのではないかと思われる。すなわち、菊井は、同月一〇日は明治公園で開かれた羽田闘争二周年の集会に参加しデモ行進をした旨、同月二〇日は翌日の闘争に使用するためのトラックを盗みに行った旨述べるのであり、爆弾の製造が同月一〇日に近い日か、又は同月二〇日に近い日かという程度のことは記憶を喚起できるのではないかと思われる。また、爆弾は同月二一日の闘争に使用するための武器として製造されたというのであるから、同月二一日の闘争が間近に迫っていた時期であるのか、まだ若干間があった時期であるのかという程度のことも記憶喚起できるのではないかと思われる。そして、その後前原らとの文通、いわゆる救対からパンフレットの差入れを受けたこと、ピース缶爆弾事件の検察官冒頭陳述書抜書き等の入手(菊井の公判期日外尋問調書・一五九冊五二四五九丁以下参照)、被告人らの弁護人との面会、昭和四八年一〇月二〇日付で山中幸男宛に、昭和五二年八月二二日付で仙谷由人弁護士宛に、自分が昭和四八年三月一六日ピース缶爆弾製造事件で逮捕され取調を受けた際の状況について詳細に書き送っていることなどを通じ、ピース缶爆弾製造の日についても記憶の喚起が繰り返されるようなことがあるのではないかと思われる。もっとも、菊井は、朝霞事件という重大事件により起訴されたものであり、ピース缶爆弾事件については起訴されていないのであるから、年月の経過とともに同事件の詳細については記憶が希薄化して行くのは当然であろう。そして爆弾製造の日についても記憶が希薄化することもあり得る。しかし、菊井が昭和五四年六月一四日以降長山検事からピース缶爆弾製造事件について取調を受けた際菊井が爆弾製造の日について前述した程度の特定しかできないと申し立てれば、記憶喚起の手がかりとして他の者の自白の内容が当然告げられたであろうから、それを手がかりとして記憶喚起ができるように思われるのである。
b 菊井は、爆弾製造の謀議及び製造以外の出来事については細かく日を特定して具体的に証言する。これらについて記憶喚起の手がかりになるものがあるということは一応いえるにしても、菊井は相当詳細に記憶の喚起ができているように見られるのであり、爆弾製造の謀議及び製造という他の出来事に比較すれば最も重大な体験について羽田闘争二周年の集会とトラック窃盗との間約一週間のうちのある日であるという程度の記憶喚起しかできないというのは不自然な感がある。
(3) 京都地方公安調査局事件等との関係
(ⅰ) 前述したように、昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ごろ京都地方公安調査局事件が発生しているが、同事件に使用されたピース缶爆弾にはSGCマークのパチンコ玉が充填されていたのであるから、前原及び佐古がSGCマークのパチンコ玉を入手して被告人らとともに右パチンコ玉を充填したピース缶爆弾を製造したというのであるならば、京都地方公安調査局事件に使用されたピース缶爆弾も被告人らが同一機会に製造したものの一個であると見るべきである。そして京都地方公安調査局事件に使用された爆弾は前述したように同月一四日から同月一六日までの間のある日の夕方に杉本が京都市所在の同人宅において大村から預かったピース缶爆弾数個のうちの一個である。そこで杉本が大村から爆弾を預かったのを最も遅い同月一六日夕方として見ても、被告人らが爆弾を製造したのは、午後から夕刻にかけてであるというのであるから、同月一五日以前ということになる。被告人らが爆弾を製造したのが同月一五日とすると、大村が同日夜から翌日夕刻までに右爆弾を京都市内において所持するに至ったことになるが、被告人らと大村とは面識もなく、大村はいわゆるアナーキストであって赤軍派との直接の結びつきもないのであるから、大村が爆弾を入手するのがいわば手回しが良すぎる感があって不自然である。かりに被告人らが製造した爆弾が村松を通じて同人と面識のある牧田に渡り、牧田からさらに同人と面識のある大村に渡ったとしても、これらの行為がいわば一晩程度のうちに行われるというのもやはり手回しが良すぎる感がある(もっとも、村松が爆弾を持ち出し牧田に渡したと述べる者はない)。そうだとすれば、被告人らが爆弾を製造したのであるならば、それは同月一五日より前のことと見るのが自然であろう。杉本が大村から爆弾を預かったのが同月一四日、あるいは一五日のことであるならば、被告人らが爆弾を製造したのはさらに前ということになる。検察官も右のような事情を考慮して当初ピース缶爆弾製造日を同月一六日ごろと主張していたが後に訴因を変更し製造日を同月中旬ごろ(同月一七日以降を含まない。)と主張するに至ったものと思われる。ところが、被告人らの自白は前記のように製造日を一〇月一五日以降としているのであって右に述べた事情と合致しないのである。検察官が論告においてその自白が信用性に富むと述べる佐古、前原、内藤を含む合計七名の者がいずれも記憶の混同を来たしたり、京都地方公安調査局事件との矛盾を狙ってことさら虚偽を述べたということもいささか考え難い)被告人らの者の中で京都地方公安調査局事件との関係について述べる者は誰もいない。なお、この点に関しては後にも検討する)。そして、菊井の前記証言内容についても、製造日を同月一五日以降と見れば被告人らの自白と一致するが、右に述べた京都地方公安調査局事件との関係で不自然であるし、製造日を同月一一日から同月一四日の間と見ると、京都地方公安調査局事件との関係での不自然さは緩和されるが被告人らの自白と相違することになり新たな疑問が生ずるのである。
なお、被告人らが製造する前に赤軍派等の他の者がピース缶爆弾を製造し、それが大村の手に渡ったと考えれば京都地方公安調査局事件との関係での不自然さは解消されるが、そうだとすると前原及び佐古が偶然同じパチンコ店へ行ってパチンコ玉を入手したことになりいかにも不自然である。また、右赤軍派等の他の者がピース缶爆弾を製造した後、パチンコ玉を含めて爆弾材料を被告人らに引き渡したとすれば前原及び佐古がパチンコ玉を入手したとの前原らの自白は虚偽ということになり、菊井の証言も検討を要することになる。いずれにしても、別個の新たな疑問が生ずるし、また、被告人らが製造し、かつ、被告人らが製造する前に他の者が全く同様のピース缶爆弾を製造したということを直接裏付ける証拠もない。
(ⅱ) 弁護人は、石井について同月一三日から一八日までアリバイが成立する旨主張している。右アリバイの成否については後に検討するが、検察官の前記訴因変更は、弁護人の右主張に対する配慮も含まれているとも見られるのである。
(ⅲ) このように考えると、菊井の前記証言は検察官の訴因変更と奇妙に符合するとの弁護人の主張(弁論要旨・一六〇冊五三六九五丁参照)も全く理由がないものとまではいえないようにも思われる。すなわち、菊井は京都地方公安調査局事件及び弁護人の石井についてのアリバイ主張等に配慮して、製造日についての証言に幅を持たせたとの疑いがあると見る余地を否定することはできないのではなかろうか。
(4) 菊井供述の変化
爆弾製造日については細かい特定ができないにしても、謀議の翌日に製造をしたのであれば、そのことは比較的記憶に残りやすいのではないかと思われる。なぜならば、被告人らにとってピース缶爆弾の製造は初めてのかつ重大な体験であるというのであり、謀議の際に翌日製造する旨の指示を受けて翌日製造したとすれば連続した出来事として記憶に残りやすいと思われるからである。
a 菊井も、当初謀議の翌日に製造した旨繰り返し証言していたものであり、その証言内容を示すとつぎのとおりである。
刑事五部九四回(54・10・23) ミナミで話をした当日でないことは確かである。それから二日も三日もたってから作ったということもない。翌日だと思う(証六四冊一六〇七二丁)。
当部一七八回(54・11・8) 謀議の当日ではない。その翌日だったと記憶している(八五冊三二四一七丁)。
一八四回(55・1・29) 謀議と製造は連続した日(八八冊三三三二七丁)。謀議の翌日(同三三三六一丁、三三三九八丁)。
刑事五部九九回(55・1・30) 謀議の翌日(証七〇冊一七三六七丁)。
b ところが菊井の右証言は、途中から動揺し、最終的にはかなりの変わり方を示すのであって、その状況はつぎのとおりである。
当部一八五回(55・2・14) 今まで謀議の翌日と述べたのは謀議の日からすぐだったような気がするからである。あるいは一日、二日ずれるかも知れない(八八冊三三五三丁)。
刑事五部一〇〇回(55・3・6) 謀議の翌日ごろだったように思う(証七〇冊一七四六六丁)。
謀議に非常に近かった気がするので翌日ごろと思うが、間違いないかと念を押されると断言できない(同一七四七二丁以下)。
当部公判期日外尋問(57・9・2) 証言を訂正することになるかも知れないが、翌日かどうかわからない。一日か二日か何日かずれていたかも知れない。五日も離れていたということはないと思う。わりと接近していたと思う。翌日という可能性もある(一五四冊五二二七一丁以下)。
c 右のような証言の変化は、菊井は当初から謀議の翌日に製造したかどうかについての明確な記憶がなかったのに軽率に翌日であると断定するかのような証言をしてしまい、後にこれを訂正したことによるものと見ることは可能である。なぜならば、記憶に残りやすい事項であるが若干曖昧になることはあり得るし、菊井の右証言に先立って作成された同人の54・7・10検面には「製造は謀議の翌日かそれ以降の日と思う」との供述が録取されているのであって(証一三一冊三二八八五丁)、右検面調書作成当時において菊井は謀議の翌日に製造したかどうかについて明確な記憶がなかったものと見ることが可能だからである。
d しかし、菊井は、製造メンバーに関する証言に見られるように、一般に言葉を選んで記憶の度合を表現するという非常に慎重な態度で証言に臨んでおり、製造日について最初に証言した際にも慎重な態度が窺われるのであって(前記刑事五部九四回公判における証言)、右証言を軽率にしたものと見ることには疑問もある。
e 菊井の証言に動揺が生じ始めたのは、謀議をしたのは平日である旨証言してその理由まで述べながらすぐ失言であるとして右証言を撤回したことがあったこと(刑事五部九六回証言・証六五冊一六二八〇丁以下)より後のことであり、弁護人から喫茶店ミナミ及びエイトの休業日が日曜、祭日であるとの趣旨を含む質問を受けたこと(刑事五部一〇〇回証言・証七〇冊一七四六三丁以下)より後の当裁判所の公判期日外尋問においては菊井の証言の動揺が大きくなっている。
f このように見て来ると、弁護人が菊井の右証言の動揺は菊井が謀議及び製造が平日にされたのかどうかという点を含んで「自らの証言内容が妥当する範囲をできるかぎり広く、他の客観的事実と符合する可能性をできるだけ大きくしておこう」としたためである旨主張するところは(弁論要旨・一六〇冊五三六九六丁参照)、全く理由がないとまでいえないようにも思われる。
g また、前記菊井の54・7・10検面は検察官が当初弁護人に開示しなかったが、その後裁判所の勧告に応じて開示するに至ったものであり(昭和五四年一二月二五日の準備手続期日において開示した)、菊井の証言の動揺はこの開示後二回の公判を経た後に生じたものであることから考えると、菊井は公判期日の合間に在監中の中野刑務所へ面会に来た検察官に右検面調書の記載と証言との相違を指摘されて相違に気づき、右検面調書の記載に沿う方向に証言を修正しようとしたとの可能性も全くないわけではない。
三、謀議
(1) 謀議の場所
(ⅰ) 菊井は、謀議の場所は喫茶店ミナミで、出席メンバーは十数名であり、増渕、村松、前原、佐古、井上、国井、江口、自分、内藤か平野のうちどちらかでおそらく内藤、そのほか堀と思われるが断言できない男及び前林と思われるが断言できない女が出席し、石井が出席したかどうかははっきりしない旨証言する。
(ⅱ) 菊井以外の者で謀議の場所をミナミである旨述べるのは増渕のみである。但し、増渕はミナミに村松、井上、自分が集まったと述べるのであって、出席メンバーについて菊井の証言と大きく相違するし、謀議内容も菊井の証言と大きく相違する(増渕48・3・23検面参照)。
(ⅲ) 佐古は若松町アジト及び住吉町アジトにおいて、前原は住吉町アジトにおいて、村松は河田町アジトにおいて謀議をした旨述べるのであり、いずれも菊井の証言と異なる。前原は喫茶店及び若松町アジトで謀議をしたことはない旨述べ(48・4・1検面)、佐古もミナミで謀議をしたという記憶はない旨述べる(48・4・2検面)。前原及び佐古のこの供述は捜査官から増渕らの自白との相違について確認を求められた上でのものであると認められる。
(ⅳ) 以上のとおり、謀議場所についての菊井の証言は検察官が論告において信用性が低いと述べる増渕の自白と一致し、信用性に富むと述べる前原及び佐古の自白と相違するという結果になっている。
a 被告人らにとって初めての重大な体験であるはずのピース缶爆弾製造の謀議場所は極めて印象深い事項であり、記憶の混同を来たすということは通常考えられない。
b ところで、検察官は論告において被告人らはミナミ、河田町アジト等において数回にわたり謀議をし、住吉町アジトにおいて導火線燃焼実験をした旨主張し(論告要旨一二頁以下・一五六冊五二八〇〇丁以下参照)、また、「本件は、平素から親交のあったメンバーが集まった機会に爆弾闘争を謀議し、爆弾製造の準備を進め、製造に及んだもので、メンバーの集合という事象自体は、ごく日常的なこととして当時しばしば行われていたことであるから、集合の都度の参加者や集合の日時等については、いかに真実を供述しようと努めても容易に記憶がよみがえらず、あるいは混同を生じるといった事態も生じやすいのである。」旨(論告要旨二八頁・一五六冊五二八〇八丁)、「被告人らは場所をかえて何回も謀議を行っているのであるから、この点について菊井証言と佐古らの自白に相違が存しても、それぞれの供述の信用性を損うものではない。」旨(論告要旨七六頁・一五六冊五二八三二丁)主張する。
しかし、検察官の主張にはつぎのような疑問があり、納得し難いのである。
(a) 菊井が証言するミナミにおける謀議も、村松が述べる河田町アジトにおける謀議も、また前原が述べる住吉町アジトにおける謀議も、佐古が述べる若松町アジト又は住吉町アジトにおける謀議も、いずれも増渕がピース缶爆弾の製造を提案し、材料入手についての任務分担を指示したというのであり、同じような内容の謀議を何回も場所を変えて行うというのは必要もなく、不自然である。
(b) 菊井が推測として証言するようにミナミで基本的な謀議が行われたがその前後に一部のメンバーによって根回し的な謀議や確認的な謀議が行われたということであれば、数回にわたり場所を変えて謀議をするということも必ずしも不自然ではない。しかし、そうだとすると、製造メンバーの大多数が出席して行われたというミナミにおける基本的謀議が最も記憶に残りやすいはずである。しかも、ミナミは喫茶店であるから周囲に気を配りながら謀議をしたものと思われ、印象深いものと思われる。また、菊井の証言によれば、ミナミでの謀議後村松、前原ほか一名ぐらいがダイナマイト等を早稲田アジトに取りに行ったというのであり、そうだとすれば村松、前原にとってはミナミでの謀議は一層印象に残りやすいものと思われる。村松は「河田町アジトでの謀議に先立ちミナミに呼び出され増渕の指示で井上と早稲田アジトに行き花園から新聞紙で包んだ物を受け取りミナミに戻って増渕に渡した。その後河田町アジトへ行って包みをあけたところダイナマイト等が入っていた」と述べ、菊井の証言に近いところもあるが、ミナミに集まったメンバーの点においても、ミナミで謀議はしていないという点においても菊井の証言とは大きく相違する。かりにミナミにおける基本的な謀議を忘れ、事前あるいは事後の一部メンバーによる謀議のみが記憶に残るようなことがあったとしても、捜査官からミナミで謀議をした旨述べている者がいるがどうかといった質問を受け、容易にミナミにおける謀議について記憶喚起ができるのではないかと思われる。前原や佐古のように捜査官から右のような質問を受け、喫茶店で謀議をしたことはないとかミナミで謀議をした記憶はないとかいったように明確に否定するのは、真実ミナミで基本的な謀議が行われていたとするならば説明が困難ではなかろうか。
(c) 佐古、前原が述べる住吉町アジトでの謀議は導火線燃焼実験という特異な体験を伴うものであるから記憶に残りやすいものといえる。場合によっては右実験の印象が強く、ミナミでの謀議と混同するというようなことも、考え難いにしても、あり得るかも知れない。しかし、佐古は若松町アジトで謀議をした後同日住吉町アジトで謀議及び導火線燃焼実験をしたというのであり、ミナミでの謀議と混同している形跡は窺われない。前原は、住吉町アジトでの謀議の際村松が整理ダンスの抽出からダイナマイト、雷管、導火線を出して見せ、どこかで容易に盗んで来たような話をしていた旨述べるのであるが、菊井の証言によれば、ミナミでの謀議の際村松、前原ほか一名ぐらいに対し早稲田アジトに行ってダイナマイト等の材料を持って来るようにとの指示が示され、謀議後村松及び前原らが右材料を早稲田アジトに取りに行ったというのであって、相違する。前原が村松らとともに材料を取りに行ったとすれば、その点について記憶の混同を来たし、村松がどこかから盗んで来たかのように述べるということは考え難い。また、前原自身は材料を取りに行ったのではなくても、ミナミで村松らに対し材料を早稲田アジトに取りに行く旨の指示がされて村松らが取りに行ったということは記憶に残るであろう。いずれにしても謀議の際の状況から見ると、前原がミナミでの謀議と混同している形跡は窺われない。
(d) 佐古、前原及び村松がミナミにおける謀議を隠しているとの可能性については、数回行われた謀議のうちの一つを隠す理由が特に見当たらず、考え難い。
c ところで、佐古及び前原が謀議の場所をすり替えてことさら虚偽を述べている可能性も全く否定することはできない。しかし、佐古も前原も住吉町アジトで謀議をしたとの点については一致しており、しかも、それぞれの自白の経過を見ると、佐古は当初若松町アジトで主たる謀議がされた旨述べていたもののその後「若松町アジトではどこまで具体的な話が出たかわからない。住吉町アジトで具体的な話合いがされた」旨述べて前原の自白に接近し、前原も後には住吉町アジトで謀議をした日より前に増渕から爆弾製造の話があったように思うがはっきりしない旨述べて佐古の自白に接近する態度が認められるのであり、謀議の場所についてことさら虚偽を述べても、その述べるところが他の者の自白と一致するということでは、住吉町アジトでの謀議は不可能との客観的な資料を隠し持っているような場合ならともかく、後に公判において争う余地を残そうとの目的にそぐわないように思われる。しかも、供述態度及び供述内容について佐古及び前原と増渕及び村松とを比較するときは、検察官も一般的に主張するように、佐古及び前原の自白のほうが増渕及び村松の自白より信用性に勝るように思われるのであって、佐古及び前原が謀議の場所についてことさら虚偽を述べている可能性は、これを全く否定することはできないにしても、低いものと思われる。また、佐古及び前原が謀議の場所についてことさら虚偽を述べ、供述に虚偽を混入させている疑いのある増渕が、他の者が虚偽を述べているのを知りつつ一人謀議の場所について真実を述べるという奇妙なことにもなる(なお、増渕の謀議に関する自白の内容は、出席メンバー及び謀議の内容につき菊井の証言及び前原らの自白と大きく相違するのであり、自白の経過に照らしても信用性に富むものとはいい難い)。なお、村松については謀議の場所をすり替えてことさら虚偽を述べている可能性はあるが、そうだとすれば集合場所としてであってもミナミの名前を挙げるのはやや一貫しないようにも思われる。
(ⅴ) そこで菊井の証言内容をもう一度検討してみると、以下に述べるように不自然な面が全くないとはいえない。
a 喫茶店という周囲に話が聞こえる危険性のある場所で十数名の者が集まり、爆弾製造の提案、材料入手についての任務分担の指示等約二〇分間(雑談等を含めると約一、二時間)にわたり爆弾製造の謀議をするというのはやや不自然である。
なお、菊井は、当初朝霞事件においてもすべて喫茶店で謀議をしており、喫茶店で爆弾製造の謀議をすることは不自然ではない旨証言していたが(刑事五部九四回証言・証六四冊一六〇七〇丁以下。なお、菊井54・7・10検面によれば、朝霞事件の際は新宿の盛り場の喫茶店でも謀議をしたというのである。証一三一冊三二八八七丁)、弁護人の反対尋問において朝霞事件の公判では謀議のような場合は喫茶店は一度も使っていないと述べたのではないかとの質問を受け、「朝霞事件では重要な話合いはホテルや公園等でした。喫茶店では簡単な指示をした。土曜の新宿の盛り場の喫茶店と平日の河田町の客もいないような喫茶店では条件が違う(なお、平日と述べた点はすぐ撤回する)」旨証言を変更している(刑事五部九六回証言・証六五冊一六二五八丁以下)。菊井はミナミという喫茶店で爆弾製造の謀議をしたことが不自然ではないことを強調するために、朝霞事件の際喫茶店で簡単な指示をしたにとどまるのにこれを誇張して朝霞事件の際も謀議は一切喫茶店を使用した旨述べたものと思われるが、このようなことは基本的に真実を述べる者でもあり勝ちなことであって、疑問点として重視するのは適当ではないであろう。しかし、このような証言態度が菊井証言の信用性を検討する上で消極的な方向に働くことは否めない。
b 菊井がミナミでの座席の状況について証言するところには不自然な面がないではない。
(a) 員48・1・25検証(謄)(増渕証一三冊二三九五丁以下)及び刑事五部証人南君枝に対する尋問調書(写)(証一二九冊三二五五六丁以下)を総合すると、昭和四四年当時の喫茶店ミナミの座席の状況は左図のとおりである。
(b) 菊井は座席の状況について左記のような図面を作成している(刑事五部一〇〇回証言・証七〇冊一七五八二丁、当部一八五回証言・八八冊三三六四七丁)。
菊井は、「四人掛用の席に行って坐った記憶がある。隣にも四人掛用の席があったように思う。足りない分はよその席から椅子を持って来てくっつけた。使ったテーブルは一つか二つ。要するに隣合せの席をとり、足りない分は近くのところから椅子を持って来て坐った。二つのテーブルの間は少し離れていた」旨(一八五回証言・八八冊三三五二三丁以下)、「四人掛けの机が一つあり、そこにもう一つ机をくっつけたが、それが二人掛けか四人掛けかはっきりしない。そばにあったのを持って来たという記憶しかない」旨(一八六回証言・八九冊三三七五八丁以下)、「東側の壁と机との間に坐ったメンバーがいたかどうかはっきりしない」旨(刑事五部一〇〇回証言・証七〇冊一七四六二丁以下)供述する。
(c) 菊井が最初に証言するように隣合せの席を取ったということであれば、四人掛けのテーブルと二人掛けのテーブルを使ったことになるが、菊井は一一人以上のメンバーが出席したというのであるから五脚以上の椅子を回りから持って来て席を作らなければならないし、四人掛けのテーブルを二つ隣合せにして席を作ったということであれば、奥から四人掛けのテーブルを移動させて二つ並べたうえ、さらに三脚以上の椅子を回りから持って来て席を作らなければならない。果たしてこのようにして席を作る空間があるのかどうか疑問が残るし(さらに他のテーブル等を移動させる必要が出るようにも思われる)、少なくとも右のようにして席を作り一一名以上の者が集まれば人目を引くはずであり、爆弾製造の謀議をする場としては不自然なようにも思われる。
(d) なお、座席の状況についての菊井の証言も右に見たように動揺が見られる。
c 以上のとおりであり、後述するように謀議の出席メンバーや謀議内容に関する菊井証言の変遷にも疑問がないではないことをも考慮すると、菊井の証言自体についても疑問を否定し去ることはできないように思われるのである。
なお、検察官は冒頭陳述においてミナミ及び河田町アジト等で謀議をした旨主張しているが(冒頭陳述書一四頁・増渕一冊三八丁参照)、前述したように菊井は右冒頭陳述書の抜書等を入手するなどの手段により、本証言に先立って検察官の主張を知っていた可能性がある。
(2) 早稲田大学正門前集合に関する佐古の供述
a 前記佐古の自白によれば、「昭和四四年一〇月一四日か一五日の午後八時ごろ機動隊を攻撃するために佐古、村松、前原、菊井、国井、井上、平野が早稲田大学正門に集まり、赤軍派が火炎びんを持って来るのを待ったが届かなかったことがあった。その翌日午後住吉町アジトでピース缶爆弾製造に関する具体的な謀議をした」というのである。
なお、後述するように佐古の右の点に関連する自白には不自然な変遷が見られるが、早稲田大学正門前に集合した翌日にピース缶爆弾製造の具体的な謀議をしたとの点は基本的に変動していないように思われる。
b ところが村松、前原の自白には右早稲田大学正門前の集合については全く述べられるところがなく、菊井も佐古の自白のような証言はしない。その他佐古の自白に沿う趣旨の供述はない。
c 右に述べたように佐古の自白によれば、早稲田大学正門前の集合とピース缶爆弾製造の謀議とは密接なつながりがあるのであるから、この点につき記憶の混同を生ずるとか忘却するとかということはいささか考え難いように思われる。
d 佐古がことさら虚偽を混入させている可能性は全く否定することはできないが、佐古は公判廷においても前記早稲田大学正門前に集合したことを述べていること(二七六回証言・一五二冊五一六三二丁以下)から考えると、佐古がことさら虚偽を述べたということもやや考え難いようにも思われる。
e 菊井が早稲田大学正門前集合の事実を隠さなければならない理由はない。村松が右事実を隠すということは考えられるが、前原についてはその可能性はあまり高くないであろう。いずれにしても村松及び前原が右事実を隠していると断ずることはできない。
f 結局早稲田大学正門前集合の有無に関する前記各供述の相違には疑問が残り、この集合とピース缶爆弾製造の謀議とを密接なものとして述べている佐古の自白の信用性に疑問を抱かせる一事情といえる。
(3) その他謀議に関する菊井、佐古、前原、村松及び被告人増渕の各自白相互の食い違い及び供述の変遷
(ⅰ) 出席メンバーについて
a 住吉町アジトにおける謀議(及び導火線燃焼実験)を基準にすれば、前原が菊井及び井上の名前を余計に挙げている点を除き、佐古、前原及び村松の自白は一致する(前原の自白によれば七名、佐古及び村松の自白によれば五名が出席したことになる)。前原の自白と佐古及び村松の自白との相違は記憶の希薄化によるものとの説明が可能であるから重視するのは適当でない。なお、村松が住吉町アジトでは導火線燃焼実験をしたのみで謀議はしなかった旨述べる点及び増渕が住吉町アジトにおける謀議及び導火線燃焼実験について述べないのは大きな相違点である。
b ミナミにおける謀議(村松の自白によればミナミでの待合せ)を基準にすると、増渕の自白によれば増渕、村松、井上が集まったというのであり、村松の自白によればこの三名に前原と堀を加えていることが認められる。増渕の自白によれば三名、村松の自白によれば五名であり、また、村松の自白によれば堀の名前が挙げられているので、この相違を記憶の希薄化に基づくものと見るのはやや疑問がある。また右両名の自白と菊井の証言(十数名)とは大きく相違するし、両名とも菊井の出席は述べない。
c 菊井の証言については、謀議の出席メンバーのうち、江口、堀、平野、内藤について変遷が見られる。
(a) 江口について
菊井は、当初江口が出席したかどうかは思い出せない旨述べていたが(刑事五部九四回証言・証六四冊一六〇六五丁。なお、菊井54・7・10検面も同旨。証一三一冊三二八八二丁)、当部一七八回公判において江口が出席していたと思う旨証言を変更し(八五冊三二四〇七丁)、以後一貫して江口の出席を述べ、一八五回公判においては江口はミナミの増渕の向かい側の席に坐っていた旨述べる(八八冊三三五二六丁)。
しかし、右証言の変更についてはつぎの理由から疑問が残る。
菊井が一七八回公判においてミナミの謀議に出席したメンバーの名前を証言した際は、「増渕、村松、前原、わたし、佐古」と述べた後証言に詰まり、何度も質問をされた後にようやく江口がいたと思う旨述べるという不自然な状況が見られる(八五冊三二四〇六丁以下)。
菊井は、証言に詰まった理由として、ミナミでの着席順序を考えて記憶を喚起して行ったためである旨述べるが(一七八回証言・八五冊三二四一一丁。また、一八六回証言・八九冊三三七八二丁以下。)菊井が述べる着席順序(一八五回証言・八八冊三三五二四丁以下)も菊井が出席メンバーの名前を挙げた順序に一致しない。この不一致を問われ、菊井は着席順といっても厳密ではない旨述べる。そもそも、いかに印象深い爆弾製造の謀議といってもミナミでの各メンバーの着席位置という細部の事項について約一〇年を経過した後においてどれほどの記憶が残っているのか疑問であり、着席順序を考えながら出席メンバーについて証言するとしても大雑把なことであろうから、証言に詰まるほどのことはないはずであろう。かりに菊井が述べるように江口の着席位置(増渕の向かい側)について記憶喚起ができていたとするならばなおさら証言に詰まることはないように思われる。
菊井は、また一八四回公判においては前記証言に詰まった理由としてまず体調が悪く吐きそうであったことを挙げるが(八八冊三三三八〇丁)、そうであるならば、一七八回公判において証言に詰まった直後にその理由を問われた際その旨述べるのが自然と思われるのに、そのことは全く述べなかったのであって疑問である。
菊井は、ミナミの謀議に江口が出席した旨供述を変更した理由につき、「江口については次第に記憶が鮮明化して来たということであって、記憶喚起のきっかけになるような出来事は別にない」旨述べるが(一八四回証言・八八冊三三三七八丁以下)、約一〇年を経過して後に手がかりもなく右のような記憶の喚起ができるというのには疑問がないではない(ことに菊井の証言によれば、菊井は江口からの手紙でスパイ呼ばわりされたと感じ、反感を持ち、それが証言を決意する動機の一つにもなったというのであって、謀議出席メンバーの中で江口のことはもっと早く記憶が戻ってよいはずである)。しかも、最初の証言の段階から謀議に出席した者として名前を挙げている前原、佐古、国井、井上らについてはミナミでの着席位置を思い出せないのに江口について着席位置を覚えているというのも奇妙である。
(b) 堀について
菊井は、最初謀議に堀が出席した旨証言するが(刑事五部九四回証言・証六四冊一六〇六五丁)、その後堀がいたかどうかは断言できないと変更し(一七八回証言・八五冊三二四一〇丁)、一八四回公判において製造当日堀がいたと証言したことがあるが言い間違いである旨述べ(八八冊三三三七三丁以下)、一八六回公判において一八四回公判で証言の訂正について述べたが右は謀議に堀が出席したとの証言を訂正しようとしたのを言い誤ったものである旨述べる(八九冊三三七三〇丁)。
菊井54・7・10検面によれば堀が謀議に出席したかどうか断言できないとの供述が録取されており(証一三一冊三二八八二丁)、刑事五部九四回公判においてもミナミに堀がいたと証言したけれども、製造の際堀がいたかどうか断言できない旨証言しているのであるから(証六四冊一六〇七三丁以下)、菊井が述べるように謀議に堀が出席したとの証言は言い間違いである可能性が高い。ただ、菊井は前述したように慎重な態度で証言に臨んでおり、刑事五部九四回公判においても堀がいた旨述べつつこれと区別して前林、江口についてははっきりしない旨述べているのであり、全く疑問がないとはいえない。
(c) 平野及び内藤について
菊井は、最初平野か内藤のどちらかが出席した旨証言するが(刑事五部九四回証言・証六四冊一六〇六五丁)、当部一七八回公判において「内藤がいたと思う。平野がいたと思うが、これはちょっと断言できない」旨述べ(八五冊三二四一二丁)、一八四回公判において「内藤か平野かどちらかがいた。私の感じとしては内藤であった方が強い」旨述べて(八八冊三三三五八丁)、最初の証言に戻っている。すなわち、平野か内藤の二者択一の参加であったのが、両名とも参加の可能性があると変更になり、また二者択一の参加に戻っている。これも前記堀の参加と同様言い間違いかも知れないが、出席メンバーという同一の事項について言い間違いも二つ重なると必ずしも無視し去ることができないのではなかろうか。
(ⅱ) 謀議をするに至る経過についての佐古の自白について
前記(2)に述べたことに密接に関連するが、この点に関する佐古の自白には変遷や曖昧な点が見られる。
48・2・13員面 前記早稲田大学正門前集合の失敗を契機としてL研独自の爆弾闘争を考え、当日か翌日午前中にピース缶爆弾製造の謀議をした。
2・15員面 右に加え、さらに製造前日夜住吉町アジトで謀議をした。
3・9員面
3・26検面 早稲田大学正門前集合当日の夜若松町アジトで謀議をし、翌日午前中再び若松町アジトで謀議をし、さらに同日午後住吉町アジトで謀議をした。
4・2検面 右二回目の若松町アジトでの謀議は河田町アジトであった可能性もある。
4・17検面 一〇・一〇闘争後余り日が経過していないころ若松町アジトでL研独自の武器製造(ピース缶爆弾製造)の話が出た。前に述べた若松町アジトでの謀議は右と混同しているのかも知れない。
右のような供述の変遷や曖昧さを佐古の記憶の希薄化に基づくものと見ることには疑問もある。
(ⅲ) 謀議内容(爆弾製造の目的)について
a 菊井の証言によれば、赤軍派との共闘のための爆弾製造で、爆弾は赤軍派が使用するものでL研が使用するのではないというのであり、増渕及び村松の自白によれば赤軍派の指示による爆弾製造というのであって、概ね一致すると見られる。ところが、佐古及び前原の自白によれば他のセクトからの武器に頼らずL研で爆弾を作るという、L研独自の爆弾闘争であるというのであり、大きく相違する。
b 佐古の右に関する自白には動揺がある(製造当日に出た話も含む)。
48・2・13員面 L研独自の爆弾闘争
2・15員面 L研独自の爆弾闘争であるが、爆弾が出来上ったら一応赤軍派に渡しておく。
3・9員面(本文一九丁のもの) L研独自の爆弾闘争である。今後は製造する者と使用する者を分けて行く必要がある。東薬大の連中に製造させ、我々が使用しようという話が出る。
3・9員面(本文一一丁のもの) 完成した爆弾は赤軍派に渡すという話が出ていた。
3・26検面 L研独自の爆弾闘争であるが、増渕が新宿署を襲撃する赤軍派の兵士に渡すと言って持って行く。
3・30検面 一〇・二一に赤軍派が新宿署を襲撃する際爆弾を使うのでその爆弾を作る。L研は赤軍派と共闘する。
4・12員面 L研独自の爆弾闘争
4・17検面 L研独自の爆弾闘争である。爆弾製造作業がほぼ終わったころ増渕が一〇・二一東京戦争に向けて使うがある程度は赤軍派に手渡して赤軍派が使うと発言した。赤軍派が使うという話を事前に聞いていたかどうかは忘れた。
c 前原は、爆弾をいつどのように使用するかとの話合いがあったとは述べず、昭和四四年一〇月二一日増渕が河田町アジトに来て今日爆弾を使用すると言った旨述べるにとどまるのである。
d 爆弾製造の謀議の際や製造当日に爆弾製造の意義目的等につきいろいろな話が出て、佐古らの記憶に混乱が生じたため、右のような供述の相違や変遷が生じたと見ることも不可能ではないであろうが、重大な事項であるから記憶の混乱ということも疑問がある。
(ⅳ) 菊井の謀議の内容に関する証言は、次第に詳しくなる傾向が見られるが、パチンコ玉入手の指示についての証言にこれがよく現われている。
刑事五部九四回公判においては、ダイナマイト、ピース空缶の入手についての指示があったことは覚えているが、その他の材料等の入手については具体的にはっきり述べられない旨証言するが(証六四冊一六〇六六丁以下。なお、菊井54・7・10検面も概ね同旨である。証一三一冊三二八八三丁・三二八九三丁・三二八九六丁以下・三二八九九丁)、当部一七八回公判においては佐古か前原に対しパチンコ玉を取って来るようにとの指示があった旨付け加え(八五冊三二四一三丁以下)、公判期日外尋問においては「佐古と前原の二人に対しどこか離れたところへパチンコ玉を取りに行くようにとの指示があった。どの方面のパチンコ店ということについても話があったかも知れない。新宿の方で取って来いとの指示があった記憶がある」旨証言する(一五四冊五二二八五丁以下・五二二九五丁・五二三四五丁以下)。
右のとおりであるが、約一〇年を経た段階で謀議の際の他の者に対するパチンコ玉入手の指示の有無及び内容という細部とはいえないにしても印象深い事項ともいえない事柄につき次第に記憶が詳細に喚起されて行くということは不自然である。菊井が製造当日等に聞いた話と謀議の内容とを混同するということもあり得るが、最初は区別して証言していたのであり、途中から混同を生ずるというのもやや不自然な感がないではなく、疑問が残る。
なお、ミナミに出席しない者に対する連絡の指示があったことやピースを煙草屋でまとめて購入するという話があったことが後の証言で付加されたり、ピース購入の話があったとの点及びピース空缶入手の指示が誰に対してされたかとの点について供述が動揺するところもある。
(4) 結論
このように見て来ると、結局、謀議に関する菊井の証言に信用性を認めるとすれば、捜査段階における佐古、前原、村松及び増渕らの各自白中にはこれと両立し得ない部分が少なからず含まれる結果になるのであり、ことに前原、佐古らがなぜ菊井と大幅に異なる供述をすることになるのかについては理解し難いものといわざるを得ない。謀議についての各人の供述があまりにもまちまちであることは、謀議の存在自体に対する疑問を抱かせるものである。
四、爆弾材料の入手
(1) ダイナマイト、工業用雷管及び導火線
a 菊井の証言によれば、「村松、前原ほか一名ぐらいがダイナマイト(約三〇本)を早稲田アジトから持って来たと思う。雷管や導火線についてははっきりしないがダイナマイトと一緒に早稲田アジトから持って来たものと思う」というのである。
b 村松の自白によれば、「井上と一緒に早稲田アジトに行き花園からダイナマイト(二〇ないし三〇本ぐらい)、雷管何個か及び導火線(長さ一メートル余)の入った新聞紙包みを受け取って来た」というのであり、増渕の自白によれば、「村松と井上が早稲田アジトからダイナマイト、雷管及び導火線を持って来た」というのであって村松の自白に一致し、佐古の自白によれば、「村松と菊井に早稲田アジトにダイナマイトを取りに行くことの指示がされ、製造当日村松、菊井、石井が一緒に河田町アジトに来た際村松が紙袋にダイナマイト(五、六〇本)、雷管(一〇個ぐらい)及び導火線(長さ約一〇センチメートルのもの一〇本以上)を入れて持って来た」というのである。
c 右のとおり、菊井証言並びに村松、増渕及び佐古の自白は村松が早稲田アジトからダイナマイト等を持って来たとの点で一致しているが、前原の自白は住吉町アジトでの謀議の際村松が整理ダンスの抽出しからダイナマイト(一〇本ぐらい)、雷管(片手に乗るくらい)、導火線(直径二〇センチメートルぐらいの輪に巻いたもので長さ約二、三メートル)を出して見せ、どこかで容易に盗んで来たようなことを話していたというのであり、大きく相違する。
d 右相違を前原の記憶違いによるものと見ることはできない。前原がことさら事実を隠し虚偽を述べている可能性はどうか。前原が村松と一緒に早稲田アジトからダイナマイトを持って来たのであれば、自己の責任の軽減を図ろうとしてこれを隠すということはあり得ないではない。しかし、前原は爆弾製造を認めているのであり、増渕の指示で村松と一緒にダイナマイト等を取りに行ったという程度のことを隠しても責任にはほとんど影響がないと思われるし、前原は佐古と一緒にパチンコ玉を調達に行った旨自白しているのであるから、ダイナマイト等を取りに行ったことだけを隠そうとするのは不自然なようにも思われる(また、ダイナマイト等を一緒に取りに行った者について一番記憶が残りやすいと思われる村松は井上と一緒に行った旨述べ、増渕の自白もこれに一致しているのであって、村松の自白を直ちに信用できるかどうかは別論としても、果たして前原が村松と一緒にダイナマイト等を取りに行ったのかどうかも定かではない)。前原が他の者の自白との食い違いを狙い将来公判において争う余地を残そうとしたとの可能性はこれを全く否定することはできないが、そのように断ずることはできないし、検察官も主張するように供述態度等に照らしその供述が信用性に富むように見える前原がこの点についてことさら虚偽を述べ、逆にその供述に虚偽を混入させている疑いのある村松及び増渕が真実を述べているという奇妙な結果にもなる。結局前原の自白と菊井証言及び村松らの自白との前記相違には疑問が残る。
e そこで菊井証言及び村松らの自白について検討すると、つぎのような疑問点がある。
(a) 村松と一緒にダイナマイト等を取りに行った者について、菊井証言及び村松らの自白は相互に食い違う。村松にとってはこの点は比較的記憶に残りやすい事項と思われ、記憶違いをするということはやや考え難い。菊井は村松らが実際にダイナマイト等を持って来たところを見ている旨証言しているものではないから菊井の証言に記憶違いがある可能性はある。佐古は村松が製造当日河田町アジトにダイナマイト等を持って菊井、石井と一緒に来たことなど具体的に述べており、佐古の自白に記憶違いがある可能性は否定できないが、そのように見ることには疑問がないではない。いずれにしても虚偽を混入させている疑いのある村松及び増渕の自白のみが一致し、菊井証言と佐古の自白がそれぞれ食い違うというところには疑問がないではない。
(b) 村松の自白は、製造前日河田町アジトにおいて新聞紙包みを開いてダイナマイト等を見たがその場には増渕、前原、佐古(なお、堀及び井上)も同席したというのである。しかし、これは、増渕、前原及び佐古の自白と相違する。増渕及び佐古は製造日より前にダイナマイト等を見たことを述べないし、前原の自白は前述したように住吉町アジトでダイナマイト等を見たというのであってその状況も異なるのであり、この相違を記憶の混同によるものと見ることはできない。村松の右自白の信用性には疑問が残るといわざるを得ないであろう。そうだとすると、村松が早稲田アジトからダイナマイト等を受け取って来たことと河田町アジトでダイナマイト等を見たこととは一連の供述であるから、後者について信用性に疑問が残るが前者は信用できるとすることは慎重でなければならない。
f なお、前原の自白によれば住吉町アジトで見たダイナマイトの数は約一〇本であるが製造当日には数が増えていたというのであり、他の者の自白と相違する。また、佐古の自白によれば村松が持って来たダイナマイトの数は約五、六〇本あったというのであり、菊井及び村松が述べるところの約二倍である。ダイナマイトの数についてはピース缶一個につき二本のダイナマイトを充填していることから記憶喚起の手がかりがあるといえる。以上のような相違も記憶の混同では説明し難い面がある。
g かりに、菊井証言並びに村松、増渕及び佐古の自白が一致する範囲で村松ほか一名ぐらいが早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行ったものとしてみても、これらのダイナマイト等が早稲田アジトに保管される前にそもそもどこから入手されたものかについての確実な証拠はない。
(a) 増渕の自白によれば、「前田から青梅方面の火薬庫からダイナマイトを盗むのでL研から兵隊を出してほしいとの依頼を受け了承した。その後前田からダイナマイトを入手した旨聞いた」というのであるが、具体性に欠け、裏付けもない。
(b) 佐古の自白は増渕の自白に近いところがあり、「昭和四四年一〇月中旬ごろ増渕、前田、花園と一緒にレンタカーで青梅方面へ行き増渕ら三名がダイナマイト等を盗み出して来た」というのである(佐古48・1・20員面)。しかし、これは刑訴法三二八条の証拠として取り調べられた員面中の供述にとどまるし、内容も具体性に欠ける面もあり、引当たり捜査も十分に成功したものとはいえず(二〇二回証人好永幾雄の供述・九八冊三七一七〇丁以下)、裏付けもない。また、増渕がダイナマイトの盗み出しに参加している旨述べる点で増渕の自白とも相違する。
(c) かりに増渕及び佐古の自白のようにダイナマイトの窃取にL研の者が関与しているならば、爆弾製造の謀議の際や製造当日にこのことが話題として出るのが通常であろう。しかし、前原が村松がどこかで容易に盗んで来たようなことを話していた旨述べるほかは、菊井も村松もこの点について全く述べないのは疑問である。前原の右自白も具体性に乏しい。
(2) ピース缶
a 菊井の証言によれば、「ピース缶十数個のうち何個かは製造当日か前日かは知らないが誰かが河田町アジトの近くの煙草屋でまとめて買ったという話を聞いた。中身の煙草(せいぜい二〇〇本か一五〇本)を出して紙の上に置いてあった。他のメンバーが持って来た缶もあったと思う」というのであるが、佐古らの自白はピース空缶を持ち寄ったというのである。
b ところで前記(第二章)のように、八・九機事件及びアメリカ文化センター事件の各ピース缶爆弾、中野坂上事件のピース缶爆弾三個のうちの二個、大菩薩峠事件のピース缶爆弾三個のうちの一個に使用されたピース缶の缶番号(製造番号)はいずれも9S171で合計五個が同一番号であり、中野坂上事件のピース缶爆弾のうちのその余の一個及び中央大学会館事件のピース缶爆弾に使用されたピース缶の缶番号が9T211で同一である。そして、以上五個及び二個のピース缶はそれぞれ同一の日に製造されたもので、缶番号自体から9S171の缶番号のものが9T211の缶番号のものより先に製造されたことが推定できる(検察官の昭和五七年六月二三日付釈明書によれば、9S171は一九六九年((昭和四四年))七月一七日製造を示し、9T211は同年八月二一日製造を示すという。一四七冊五〇一八二丁以下参照)。また、大菩薩峠事件のピース缶爆弾のうち一個のピース缶の缶番号は8W281で他のものとは別の日に製造されたものであることが認められる(検察官の右釈明書によれば8W281は一九六八年((昭和四三年))一一月二八日製造を示すという)。その他のピース缶爆弾のピース缶の缶番号は不明である。
右に述べたこと及びピースの空缶を十数個も集めてくることは困難ではないかと思われることに照らすと、菊井の証言の方が客観的事実に合致する可能性が高い。
c しかし、前記各ピース缶爆弾事件に使用されたピース缶は何個かまとめて購入されたものではないかということは、菊井の証言によって初めて明らかになったというものではなく、ピース缶の缶番号の検討やピース空缶を集めることの困難さを考慮することによって気づき得ることであり、菊井証言に先立つ刑事五部七七回公判における前原に対する被告人質問の際にも、弁護人がこのことを念頭に置いた質問をしていることが窺われるのである(証四三冊一一八五四丁以下)。なお、弁護人は、ピース缶は被告人らの自白にあるように、近辺から拾い集められたのではなく、その缶番号の持つ意味から新たに購入されたものではないかとの疑問を呈していたのは弁護人らだけなのである旨主張し、刑事五部昭和五一年四月二八日ないし九月二日付更新意見書を引用している(弁論要旨・一六〇冊五三六九二丁参照)。
d ところで、菊井の証言によれば爆弾製造当日河田町アジトの部屋の中でピース煙草一五〇本くらいが紙の上に置いてあったというのであるから、製造当日誰かがピース缶から煙草を取り出す作業をしたものと思われ、かつ、菊井の証言によれば購入して来た缶入ピースの個数は明確ではないが十数個のうちの大部分は購入したものとの趣旨に理解できるから(なお、菊井54・7・10検面によれば一〇個ぐらいを購入したというのである)、五〇〇本ぐらいの多数の煙草を取り出す作業をしたものと思われ、このような作業は印象深いものと考えられる。また、菊井の証言によれば爆弾製造の際製造材料と一緒にピース煙草一五〇本ぐらいが置いてあったというのであるから、このような光景も比較的記憶に残りやすいものと考えられる。しかし、右のような作業や光景について述べるものは他には誰もいない。製造当日河田町アジトの部屋の中に入った旨自白している者は前原、佐古、内藤、村松、増渕(及び江口)であるが、これらの者が全員前記のような作業や光景を忘れたり、あるいは隠したりするということはやや考え難い。
e また、河田町アジトの近所の煙草屋で缶入ピース煙草をまとめて購入したことについて裏付けがあるものでもない。
f そこで、さらに菊井の証言を子細に検討してみると、以下のような疑問がある。
(a) 菊井は、缶入ピース煙草を購入したことに関連し、「製造の際河田町アジト内に中身のピース煙草が置いてあった。積んであったのを取って喫ったことがある」旨証言していたが(刑事五部九四回及び九五回証言・証六四冊一六〇八〇丁、証六五冊一六一〇八丁以下、当部一七八回証言・八五冊三二四二三丁)、当裁判所の公判期日外尋問においては、「製造の際ピース煙草が積んであったが製造当日に皆で煙草を分けたことはない。少なくとも自分はもらっていない。他の日かも知れないが河田町アジトに煙草がたくさんあったので何本かもらって喫った。製造当日に部屋の中で煙草を喫ったことはない」旨述べて供述を変更し(一五四冊五二三五四丁以下)、さらに「河田町アジトにあったピース煙草をもらって喫ったのは製造当日か後日かよく覚えていないが製造中ではない」(同五二四三六丁)、「製造したあと、ばらで残っている煙草を適当にもらって若松町アジトへ帰って喫ったという記憶である」(同五二四六〇丁)と供述が動揺する。右のような供述の変遷及び動揺の理由については疑問があり、菊井が爆弾材料の置いてある室内で煙草を喫うのは危険であることに気づいたことによるのではないかと疑う余地がある。
なお、菊井は、右公判期日外尋問において供述を変更したものではない旨述べるが、前記各証言内容に照らすと、当初は爆弾製造の最中に室内で煙草を喫ったのかどうかはともかく少なくとも製造当日室内で煙草を喫った旨証言したものと見るのが自然であり、菊井54・7・10検面にも製造の前後ごろ河田町アジトにピース煙草が何十本かばらのまま紙か何かに包まれて置いてあったのでその中から何本か喫ったとの供述が録取されている(証一三一冊三二八九四丁)。
(b) 菊井は、置いてあった煙草の本数につき、当初は何十本かである旨証言したが(刑事五部九四回証言・証六四冊一六〇八〇丁。なお、菊井54・7・10検面も同旨である。証一三一冊三二八九四丁)、その後「五〇本入りだから一〇個あったとして五〇〇本になるが、全部が中身の入ったものではなかったから、少なくともそれぐらいだから、新聞紙か何かの上にばらで出して積んであった」旨、また、「両手で下向きのお椀を作ったぐらいよりもう少しあったかなという程度である」旨述べて証言を変更し(以上一七八回証言・八五冊三二四二三丁)、さらにその後「煙草の本数はせいぜい二〇〇本あるかないか、まあ一五〇本ぐらいかなという感じである」旨述べる(八九冊三三七六三丁)。右のような供述の変遷も無視し難く疑問が残る。また、両手で下向きのお椀を作った状態より少し多めという量では一五〇本もあるとは思えないし、かりに一五〇本ぐらいあるとしても一五〇本ではピース缶三個分にしか相当せず、その余の数百本の煙草がどこに置かれていたのかも不明である。
g また、佐古の自白は、「住吉町アジトでの謀議の時点ではピース缶はすでに各アジトに若干集められていた。右謀議の後前原と東薬大に行きピース空缶一、二個を入手して河田町アジトへ運んだ」というのであるが、前原の自白は「住吉町アジトでの謀議後ピース空缶も探してみたが一個も見つけられなかった。製造当日ピース空缶は一五個ぐらい集まったが石井、佐古らが少しずつ持ち寄ったものと思う」というのであって相違点が見られ、これを記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。
(3) パチンコ玉
a 菊井の証言によれば「製造当日増渕の話が始まる前に前原か佐古から『増渕の指示で二人で新宿方面のパチンコ店に行きパチンコ玉を買ったがゲームをして遊んでしまい、何百円も損をした』という話を聞いた。パチンコ玉を取って来たのが製造当日のことか前日のことかは断言できない」というのであり、前原及び佐古の自白も前原及び佐古の二人で新宿のパチンコ店へ行きパチンコ玉を入手して来たというのであって、基本的には一致する。
b 前記(第二章)のように各ピース缶爆弾に使用されたパチンコ玉は東京都新宿区所在の新宿ゲームセンターから入手されたものであり、右前原及び佐古の自白中の入手先は客観的事実と合致する。もっとも、本件パチンコ玉の入手先は、前原及び佐古の自白より前に捜査によって判明していたものである。
c しかし、菊井の証言並びに前原及び佐古の自白を具体的に検討すると、以下のような疑問点がある。
(a) 菊井の証言によれば、前述のようにゲームをして何百円も損をしてしまったというのであるが、前原の自白は「佐古とそれぞれ一〇〇円ずつ(五〇個ずつ)玉を買った。私はゲームをして一〇〇ないし一五〇個に増やし、佐古はゲームをしないで落ちている玉を拾っていた」というのであり(前原48・3・29員面)、佐古の自白は「前原とそれぞれ一〇〇円ずつ玉を買い持ち帰った。前原は少しはじいたのかも知れない」というのであって(佐古48・4・1員面)、菊井の証言と相違する。菊井の証言は、ゲームをして損をしたという話を聞いたので自分はパチンコの本場の名古屋の出身であるので自分に取りに行かせればよかったのにと言ってやった旨述べるなど具体的であり、前原及び佐古についても爆弾に使用するパチンコ玉を取りに行った際ゲームをして損をしたかどうかは印象に残りやすいことと思われるので、いずれについても記憶違いがあると見ることには疑問がある。
なお、菊井の右証言は具体的で体験者でなければ述べ得ないように見えるが、名古屋がパチンコの本場であることは広く知られている事実であり、名古屋出身者がパチンコの腕前を自慢することもあり得ることで、菊井が体験していないのに右証言内容のような話を思いつくことも必ずしも困難なことではない。
(b) パチンコ玉を入手した日時について佐古の自白は製造日の午前中というのであり、前原の自白は導火線燃焼実験の当日か翌日の夜(49・3・29員面)というのであって、大きく相違する。この相違を記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。なお、前原は導火線燃焼実験をした日は爆弾製造の前日ごろと述べるがこの点は供述に動揺があり明確ではない。
(c) 佐古の自白は、パチンコ玉を入手した者、入手した日、入手したパチンコ店につき変遷が著しい。
48・2・13員面 製造当日の午前中急に思いつき、村松か前原が河田町アジトの近所のパチンコ店で入手した。
3・9員面 製造前日村松の提案により、村松と一緒に住吉町アジトから徒歩二〇分ぐらいで明治通りと大久保通りの交差点の角にある店に行き、二〇〇円で玉を買い、二人で分けて持ち帰った。村松は少しはじいたかも知れない。一〇〇個くらい持ち帰った。
3・26検面 製造前日村松の提案により、村松と一緒に河田町アジトから徒歩二〇分ぐらいのところにあるパチンコ屋に行き、村松が玉を一〇〇個ぐらい買って二人で半分ずつ分けて持ち帰った。
4・2引当たり報 前原と新宿ゲームセンターに行きパチンコ玉を入手した(3・31引当たり実施)。
4・1員面 製造日の午前中、河田町アジトから前原と新宿三越裏の新宿ゲームセンターにバスで行き、一〇〇円ずつ玉を買い、持ち帰った。前原は少しはじいたのかも知れない。
4・2検面 製造前日村松と一緒にパチンコ玉を買いに行き、さらに製造当日の午前中前原と新宿のパチンコ店に行ってパチンコ玉を買って来たように思うが、村松と一緒にパチンコ玉を買いに行ったことは記憶違いかも知れない。
4・17検面 パチンコ玉は前原と買いに行ったというのが正しい。
右のとおりであり、引当たり前の供述内容はパチンコ玉を入手したパチンコ店につき客観的事実と大きく相違する。爆弾に使用するためのパチンコ玉を入手した場所であり、かつ、新宿ゲームセンターは新宿三越の裏通りという特徴のある場所に位置していることから考えると、比較的記憶に残りやすく、店名や店の正確な位置について記憶が希薄化することはあり得るが、おおよその所在位置については記憶が残るのではないかと思われる。右のような供述の変遷を佐古が次第に記憶を喚起して行く過程と見ることには疑問がある。また、佐古がパチンコ玉を入手した店を隠さなければならない理由も特に見当たらない。佐古がことさら虚偽を述べたとの可能性についても、パチンコ玉の出所は刻み込まれたマークを手がかりにした捜査により判明しているであろうことは佐古にも容易に知り得ることと思われるので、ことさら虚偽を述べても捜査攪乱の実効性に乏しく、かりに当初捜査官の反応を見るためことさら虚偽を述べるようなことがあっても、ピース缶爆弾製造事件を認め、詳細な供述をしている佐古が約五〇日後に行われた引当たり捜査に至るまで言い逃れを続けるというのもやや考え難い。従って、佐古がことさら虚偽を述べている可能性を全く否定することはできないにしてもその可能性は低いと考えられる。
つぎに、パチンコ玉を入手する際誰と一緒にパチンコ店に行ったのかということも比較的記憶に残りやすい事項と思われる。佐古は当初村松と一緒に行った旨述べ、その後曖昧ながら村松と行き、さらに前原とも行った旨供述を変更し、最終的に前原と行ったとの供述に落ち着くのであるが、これを佐古の記憶が喚起されて行く過程と見ることには疑問がある。佐古48・4・17検面によれば村松とパチンコをしに行ったことがあったので勘違いをしたというのであるが、佐古は製造前日村松の提案により村松とパチンコ玉を買いに行った旨述べていたのであって、勘違いと見ることには疑問がある(なお、前記48・4・2引当たり報(謄)には、佐古が好永巡査部長から新宿ゲームセンターには遊びに来たのか爆弾のパチンコ玉を買いに来たのかとの質問を受けたのに対し、私はパチンコはやらないし、前原と来たのはピース缶爆弾の時に玉を買いに来たという以外にはパチンコ店に来ていないと答えた旨の記載があること((増渕証一三冊二四四五丁))に照らしても、佐古の右勘違いには疑問がある)。
(d) 前原も、当初パチンコ玉を入手したパチンコ店についてこれを特定する供述をしなかった。前原は、当初千駄ヶ谷にあるパチンコ店と供述し(刑事五部七六回供述・証四三冊一一八一一丁以下)、あるいは新宿か四谷か千駄ヶ谷にあるパチンコ店と供述し(一九二回及び一九三回証人千葉繁志の供述・九三冊三五〇八三丁以下及び三五二八八丁以下)、48・3・11員面では「どこのパチンコ店か思い出せないが、河田町アジトからそんなに遠いところとは思えない」と述べ、3・16検面では「新宿駅近くのパチンコ店のように思うがはっきりしない」と述べ、3・28検面では新宿のパチンコ店である旨述べて所在位置について略地図を作成するが、新宿通りを挾み新宿ゲームセンターとは反対側の位置を図示し、3・29員面では「新宿駅近くのパチンコ店で入口が二か所ある店」と述べ、翌日の引当たりにおいて新宿ゲームセンターである旨特定するに至ったものである(4・2引当たり報(謄)・増渕証一三冊二四三一丁以下)。
佐古について述べたのと同様、右のような供述の変遷を前原が次第に記憶を喚起して行く過程と見ることには疑問がある。また、右引当たり捜査についても、前原はアメリカ文化センター事件の取調を通じて本件パチンコ玉の出所が新宿ゲームセンターであることを知りながら引当たりに臨んでおり(前記引当たり報によれば引当たり捜査実施担当者の若松巡査部長が前原に対し「君は前に文化センターの事件で使われたピース缶爆弾の証拠品を見せられた際に、パチンコ店の名前を知ったようだけど、名前を気にしないで君が本当にパチンコ玉を集めた店を思い出した時は正直に話してもらいたい」旨申し向けたとの記載がある)、右引当たり捜査の結果を高く評価することはできない。
前原は、当初千駄ヶ谷にあるパチンコ店と述べた理由につき、捜査官からアメリカ文化センター事件の証拠物を見せられた時に証拠物の一覧表があって、そこに「新宿ゲームセンターの支配人、渋谷区千駄ヶ谷云々」との記載があるのを見ていたので、新宿ゲームセンターが千駄ヶ谷にあるものと勘違いして述べたものである旨弁解するところ(刑事五部七六回供述・証四三冊一一八一〇丁以下)、新宿ゲームセンターの支配人がSGCマークのパチンコ玉を警察に任意提出しており、同人の住所が(東京都)渋谷区千駄ヶ谷五―一五―一四であることが認められること(同人作成の44・11・6任提(謄)・証一一冊五三五一丁参照)に照らせば、前原の右弁解は直ちに排斥し難いところがある。
d なお、村松の自白によれば、井上に対しパチンコ玉の購入の指示がされたというのであり、菊井の証言並びに佐古及び前原の自白と相違する。増渕の自白によれば、パチンコ玉は前原が持って来たというのであり、佐古の名前を挙げていない点に相違がある。
(4) 塩素酸カリウム及び砂糖
a 弁護人は、導火線付工業用雷管が使用されているピース缶爆弾でダイナマイトの上に塩素酸カリウムと砂糖の混合物を加えてあるものは一個もなく、アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾については工業用雷管を電気雷管に取り換え改造した際に右混合物が新たに加えられたものと推論するのが素直である旨主張する(弁論要旨・一六〇冊五三六七九丁参照)。
しかし、前記(第二章第三節一)のように京都地方公安調査局事件のピース缶爆弾には塩素酸塩が混入されていた可能性もあること及びアメリカ文化センター事件のピース缶爆弾も改造前に塩素酸カリウムと砂糖の混合物が充填されていた可能性があることに照らせば、弁護人の主張を直ちに採用することはできない。もっとも、製造の際に塩素酸カリウムと砂糖の混合物が加えられた可能性のあるピース缶爆弾は右の二個しか発見されておらず、佐古らの自白に比較し少なすぎるという不自然な面はあるが、この点は後に検討する。
b 菊井の証言においても、塩素酸カリウム及び砂糖の入手先については具体的な供述はない(塩素酸カリウムについては東薬大の者が持って来たのかも知れないと供述するが、明確ではない)。
c 佐古の自白によれば、塩素酸カリウムは製造日の四、五日前に村松がリュックサックに入れて河田町アジトに持ち込んだもので、砂糖は前から河田町アジトにあったがさらに製造途中に自分が近くの店で買ったというのであり、前原の自白によれば、「塩素酸カリウムは製造作業開始後間もなく平野が持って来たように思う。砂糖は江口が持って来たように思う」というのであり、また、増渕自白によれば堪素酸カリウムは村松が法政大学から盗んで保管していたものであるというのである。なお、内藤の自白によれば製造当日平野が薬品びん二本を持って行ったが増渕がそれを見てピクリン酸だと言ったというのである。
右のとおりであり、増渕の自白が佐古の自白に一致すると見ることができるほかは大きく相違する。砂糖についてはともかく、劇薬である塩素酸カリウムの調達につき右のように自白が相違することには疑問がないではない。もっとも被告人らは昭和四四年一〇月当時塩素酸カリウムを使用した触発性火炎びんを製造することもあったのであるから、塩素酸カリウムの調達についてもあまり印象に残らず記憶が希薄化していたところ、捜査官から具体的に供述するように求められて推測を交えて適当に供述したため前記のような相違が生じたということもあるかも知れない。
d 砂糖についてはともかく、塩素酸カリウムの入手先についても、たとえば東薬大から盗み出されたということについて裏付けはない。
(5) ガムテープ
(a) 前記(第二章)のように各ピース缶爆弾には茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されているが、二種類のガムテープを使用した旨述べるのは前原のみである。青色ガムテープは比較的見かけないもののように思われ、記憶に残りやすいようにも思われるので、青色ガムテープを使用した旨述べるのが前原一人であることには疑問がないではない。
(b) 佐古の自白によればガムテープは前から河田町アジトにあったというのであり、前原の自白によれば河田町アジトに以前から茶色のガムテープがあったがそのほかに青色ガムテープも用意されていたというのである。茶色ガムテープの準備については佐古及び前原の自白は一致する。しかし、青色ガムテープの入手について述べる者はいない。また、村松の自白は、謀議の際前原に対しガムテープの購入が指示されたというのであるが、前原及び佐古の自白と相違する。なお、増渕の自白は、ビニールテープを使用したというのであり、客観的事実に合致しない。
(6) 要約
以上のとおりであるが、主要な点を要約して付加して述べると、つぎのとおりである。
(a) 爆弾製造材料の入手先について裏付けが得られているのは、佐古及び前原の自白より前にすでに捜査により入手先が判明していたパチンコ玉についてだけである。しかも、パチンコ玉の入手に関する前原及び佐古の自白には、前述したように疑問がある。
(b) 最も信用性の高い供述をなし得る立場にあるはずの菊井は、爆弾製造材料の入手に一切関与していないというのであり(菊井は製造の際使用された道具の入手にも一切関与していない旨証言する)、この点に関する証言は内容に乏しく、その信用性を十分に検討できるだけのものがないのであるが、ピース缶の入手に関してのみ、缶入ピース煙草をまとめて購入した旨被告人らの自白に比し際立った特徴のある証言をし、煙草ピースが置いてあった光景など具体的な内容が証言に含まれる。しかし、他に同旨の自白がないのは不自然であるし、菊井の証言にも大きな動揺を示す部分がある。
(c) ダイナマイト等を早稲田アジトへ取りに行ったことについては、菊井の証言並びに村松、佐古(及び増渕)の自白が大筋において一致しているので、これを信用してよいようにも思われるが、菊井の証言をひとまず考慮の外に置いて見ると、検察官も主張するように一応信用性に富むように見える佐古の自白と前原の自白との対立が浮び上がる。いずれか一方を信用できるだけの決め手はない。検察官も主張するように、ことさら虚偽を混入させている疑いのある村松(及び増渕)の自白が、佐古の自白に大筋において一致したからといって、佐古の自白を信用できるとまではいえない。菊井の証言も内容に乏しく、菊井の証言並びに村松、佐古(及び増渕)の自白相互には前述した相違点や疑問点もあるから、さらに菊井の証言が大筋において佐古の自白に一致したことをもって佐古の自白を信用できると断定することには疑問が残る。
(d) 検察官の冒頭陳述によれば、「増渕は、村松、井上の両名に対し新宿区戸塚一丁目所在の赤軍派アジトに行って爆弾製造に必要なダイナマイト、工業用雷管、導火線を受け取って河田町アジトまで運搬するよう指示し、佐古、前原に対してパチンコ玉を調達するよう指示するとともに全員で手分けしてたばこピース空缶、塩素酸カリなどを集めるよう指示した」との記載があり(増渕一冊三八丁以下)、前述したように菊井は証言に先立ち検察官の冒頭陳述書抜書等を入手するなどの手段によって、右の記載についても少なくともその概要を知っていた疑いがある。
五、製造時の状況
(1) 関与したメンバー
(ⅰ) 菊井の証言によれば、「自分のほか、増渕、江口、村松、井上、前原、佐古、国井、石井、内藤、平野がいたことは記憶にある。堀と思われる男及び前林と思われる女がいたが、それぞれ堀、あるいは前林であると断言することはできない。そのほか名前の思い出せない男女が二人か多くても三人ぐらいいたと思う。それらの者の中に元山、富岡がいた可能性もあるがはっきりしない」というのであって、製造に関与したメンバーは約一五、六名というのである。
(ⅱ) 佐古の自白によれば、堀、前林を製造メンバーとして断言するほか、菊井が記憶にあるとして名前を挙げた者を製造メンバーとするものであって、合計一三名というのである。前原の自白は、国井の名前を挙げない点を除き、曖昧なところもあるが佐古の自白に一致する。また、内藤の自白は、佐古の自白に一致するが、元山、富岡がいたかどうかはっきりしない旨述べる。
前原が国井の名前を挙げないのは、菊井の証言によれば国井は菊井と一緒にレポを担当したというのであるから、前原の国井に対する印象が薄く、記憶が希薄化したためと見ることも可能である。しかし、菊井が名前の思い出せない二、三名の男女がいた旨述べるところは内藤の自白と一致する可能性はあるが、前原及び佐古の自白と相違するのであり、菊井は、公判期日外尋問において初めて右のような証言をするに至ったものであることにも照らすと、疑問がないではない。
(ⅲ) 石井、増渕の自白によれば、製造メンバーとして一二名の者の名前を挙げるが、いずれも菊井の名前を挙げない。菊井の証言によれば石井らとレポを担当したというのであるから、増渕が菊井が参加したことを忘れるようなことはあっても、石井がこれを忘れるということは考え難い。石井が菊井を庇う理由も特に考えられないところであり、石井は公判で概ね起訴事実を認める態度をとったのであるから、菊井についてことさら虚偽を述べ捜査を攪乱しようとしたものと見ることもできない。
石井は元山及び富岡とレポをした旨述べるが、他には前述したように菊井及び内藤の瞹昧な供述以外に同旨の供述はない。石井の右供述は、後述のようにレポの状況についての自白に不合理かつ不自然なところがあることに照らすと疑問がある。
なお、石井は堀、前林及び村松の名前を挙げないが、堀及び前林については記憶の希薄化によるもの、村松についてはかつて同棲していたことから庇ったものと見ることも可能である。
(ⅳ) 爆弾製造に関与したメンバーとして、少ない者で一一名、菊井に至っては一五、六名もの人数を挙げる。しかし、本件爆弾製造に右のように多数の者が参加することは不必要であるし、秘密保持の面からも不自然ではないかとの疑問がある。
また、爆弾製造場所とされている河田町アジトは四畳半と二畳の続き間であり、長机、本棚、テレビが置かれていたというのであって、必ずしも広いとはいえず((員)48・1・23検証(謄)・増渕証一三冊二三四八丁)、そのような場所に、レポ担当者を除いた約一〇名の者が履物を持って入り、その間にパンの木箱を裏返しにして置いたり、新聞紙等を敷いたりしてダイナマイト、パチンコ玉、ピース缶等の爆弾材料や道具を置いて爆弾製造作業をするというのは、不可能ではないにしても窮屈で不自然ではないかとの疑問がある。
なお、河田町アジトはいわゆる間借りであって玄関は家主と共通で、かつ、家主が使用する部屋との仕切りが襖の部分もあるというのであり(前記(員)48・1・23検証(謄)参照)、そのような場所に十数名の者が次々に集まり、またしばしば出入りするというのは少なくとも家主の注意を惹く虞れのある行動と見ることができ、爆弾製造をしている状況としては不自然な面がないとはいえない。
(ⅴ) 佐古らの自白は、変遷が著しい。
a 佐古の自白によれば、当初製造メンバーとして五名ないし七名の者の名前を挙げていたにとどまるのに、自白の経過に従って次第に人数が増え、最終的には一三名にも達するのである。自白の経過を示すと、つぎのとおりである。
48・2・13員面 増渕、村松、前原、佐古、堀(井上、国井ははっきりしない)(計五名ないし七名)。
2・15員面 石井を加える。井上、国井については述べない(計六名)。
3・9員面 井上、国井、江口及び菊井を加える。堀については、いたような気がすると変更する(計九名あるいは一〇名)。
3・26検面 堀について、いた旨断言する。前林は思い出せないとする(計一〇名)。
3・30検面 平野、内藤及び前林を加える(計一三名)。
4・1員面 右同
(a) 爆弾製造という重大事件に参加したメンバーについては比較的記憶に残りやすいと思われるが、年月の経過に従って記憶が希薄化することもあり得るであろう。しかし、主要メンバーや概ねの参加人数については記憶に混乱は生じないであろう。佐古の自白は右に述べたように当初の自白に比較すると六名ないし八名も増え、約二倍に達しているのであり、右のような自白の経過を佐古が次第に記憶を喚起して行く過程と見ることには疑問がある。井上、国井、菊井、平野及び内藤について佐古が庇わなければならない理由は見当たらない。石井、江口及び前林については、女性であることを理由に庇うということもあり得るが、石井の名前はほぼ当初の段階で挙げているし、江口の名前を挙げた時点でなお前林のみを庇う理由も必ずしも十分ではない。佐古の自白によれば前林の名前を挙げなかったのは、(一)前林が来た時の状況がはっきりしなかった。(二)女の名前はあまり挙げたくなかった。(三)少し惚れていて庇ったためであるというのである。しかし、佐古の自白によれば爆弾製造の際の前林の行動や発言について具体的に述べられており状況がはっきりしなかったとは思われないこと、すでに石井及び江口の名前を挙げていること、佐古はアメリカ文化センター事件の取調において江口に個人的好意を持っていたので江口のアパートでタイマーをセットしたことを隠した旨似たような自白をしたことがあり、かつ、前述したように右タイマーのセットについての佐古の自白の信用性には疑問があることに照らすと、前林の名前を挙げなかった理由についての佐古の右供述は十分納得できるものとはいえない。
(b) 佐古の当初の自白によれば、東薬大社研のメンバーは爆弾闘争に対する意識が低いので製造メンバーに加えなかったというのであるが、後には同社研メンバーである平野及び内藤が参加した旨に変更される。佐古の自白は、「製造作業開始後一時間ぐらい後にレポと打合せをするため外に出てパン屋の横あたりに行ったところ平野が内藤を連れてやって来るのに出会った。二人が参加することは知らされていなかったが、平野が増渕の指示で来たというので増渕に報告すると了解済みであるような返事であったので、二人を部屋に入れた」というのであって具体的であり、佐古の記憶に混乱があったと見ることには疑問がある。
(c) 堀が製造メンバーとして参加した理由について、佐古は当初「堀の薬品についての知識を利用するため堀をメンバーに加えた。東薬大社研のメンバーは爆弾闘争に対する意識が低く利用できない」(48・2・13員面)、「雷管の数が足りないので火薬や薬品で雷管の代替ができないかを堀に相談しようと考えた」(48・2・15員面)などと述べ、堀が爆弾製造の重要なメンバーであるとしていたが、後には、右のような薬品に関する重要な役割は江口の担当であるとし、堀については薬品の扱い方も知っており意識も高いので将来の爆弾製造に備え今回もメンバーに加えておくことになった旨供述を変更し(48・3・9員面。本文一九丁のもの)、あるいは堀については、いたような気がする旨述べて参加したこと自体が曖昧になる(48・3・9員面。本文一一丁のもの)。なお、48・3・26検面は右48・3・9員面(本文一九丁のもの)と同旨である。右のような供述の変遷を記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。佐古は当初江口を庇っていたものと見ることは可能であるが、そのような供述はなく、疑問が残る。
b 前原も、当初前林、堀、平野及び内藤の名前を挙げず、井上についてははっきりしないと述べていたものであり、前原が最終的に述べる製造メンバー(一一名)の半数に近い者につき記憶の希薄化が生ずるというのもやや疑問である。
c 内藤は、当初堀、前林、元山及び富岡の名前を挙げず、また、石井、菊井、国井、元山及び富岡について供述が動揺する。内藤は、石井については当初いたことははっきりしていると述べており(48・3・10員面、3・19検面等)、元山及び富岡についても48・3・23検面において両名が完成した爆弾を部屋の隅に運んでいた旨述べて断定していたが、48・4・7員面において「石井、元山及び富岡はいたと思うが確信が持てない。三名についてこれまで述べたことは、余りはっきりした記憶ではない。元山か富岡のどちらかがピース缶爆弾を部屋の隅に運んでいることははっきり覚えている」旨述べて供述が動揺し、48・4・8検面においては元山及び富岡は来ていなかったかも知れない旨述べて供述の動揺が大きくなる。
(ⅵ) 菊井の証言も平野が参加したかどうかについて動揺する。
54・7・10検面 平野がいた(証一三一冊三二九〇〇丁)。
刑事五部九四回 平野が参加(証六四冊一五九六二丁)。
平野がいたか、どうかちょっとはっきりしない(同一六〇七三丁)。
当部一七八回 参加メンバーとして平野の名前を挙げない(八五冊三二三二一丁)。
平野がいたように思う(同三二四一九丁)。
刑事五部九五回 平野はいたと思うがはっきり断定できない(証六五冊一六一〇三丁)。
当部一八四回 平野がいたことははっきりしている。断定できる。公判の過程で記憶を喚起したものである。刑事九部の法廷ですでに証言したはずである(八八冊三三三五九丁以下、三三三六二丁以下)。
(ⅶ) 製造当日平野及び内藤が河田町アジトに来た状況について各供述が相違する。
a 佐古の自白によれば、製造開始一時間ぐらい後に外に出たところ、パン屋の横あたりで平野が内藤を連れて来るのに出会ったというのであるが、内藤の自白によれば「平野と一緒に河田町アジトに行ったところ同アジトに入る路地(佐古が述べるパン屋の横あたりと概ね同じ場所である。)で菊井らに会い、同アジトの玄関付近で佐古に会った。部屋に入ってから増渕の説明があり、製造作業に着手した」というのであり、佐古と内藤が出会ったことについては一致しているが、出会った時期及び場所について相違する。佐古及び内藤の各自白は具体的であり、記憶の混同によるものと見ることには疑問がないではない。
b 菊井の証言によれば、「河田町アジトで製造作業に着手する前に増渕から説明を受けた時に平野及び内藤もいたと思う。その後、レポに出た」というのであり、パン屋の角で平野及び内藤に会ったとは述べず、佐古の自白とも内藤の自白とも相違する。菊井はレポの途中で河田町アジトに戻った時内藤が同アジトの玄関前でピース缶の蓋のようなものを手に持って立っていたのを見た旨証言するが、前記内藤の自白とは全く状況が異なる。
c 石井の自白によると、佐古の指示でパン屋の角に立ってレポを始め、間もなく午後一時過ぎごろ増渕が来て、午後一時半過ぎごろ平野及び内藤が来たというのであり、佐古の自白とも内藤の自白とも相違する。内藤の自白によれば、平野と河田町アジトに行った後江口及び石井が後から来たというのである。
d 以上のとおり、供述者ごとに供述内容は大きく異なるのであり、記憶の希薄化、あるいは混同によるものと見ることには疑問がある。
(ⅷ) 検察官の冒頭陳述によれば、爆弾製造に関与したメンバーとして増渕、江口、村松、井上、前原、佐古、国井、石井、内藤、平野、堀、前林及び菊井を挙げているが(増渕一冊三八丁以下)、菊井の証言(公判期日外尋問における証言を除く。)は、堀及び前林について若干曖昧なところもあるが、右冒頭陳述の内容にほぼ一致している。菊井が証言に先立って右冒頭陳述の内容を知っていた疑いがあることは、すでに述べたとおりである。
(2) 製造行為
(イ) ダイナマイトを切断してピース缶に充填する作業
a 菊井の証言によれば、「自分が右作業をしたことはない。レポに出る前やレポ途中に河田町アジトに戻った時に裸のダイナマイトが置いてあった状況やピース缶にダイナマイト及びパチンコ玉が充填されているものを見たことはある」というのである。
b 佐古らは、ダイナマイトをピース缶に充填する作業について自白しているが、検察官が信用性に富むと主張する内藤について見ると、内藤の右に関する自白は特異な供述内容となっている。
(a) 内藤の自白によれば、褐色のブヨブヨした糊様のものをピース缶に詰めているところを見たというのであるが、ダイナマイトはごく薄黄色で糊よりもずっと固くいわば羊羮のようなものというのであって(五部九一回証人吉富宏彦の供述・証一三〇冊三二七〇九丁以下)、色、形状とも異なるし、内藤48・3・25員面によれば、糊状のものとは何かの薬品に液体の薬品を加えて作り上げた褐色のようなもので、江口及び堀が乳鉢で作っていたような感じであるというのである。
(b) 内藤の右の点に関する自白は変遷が著しい。内藤は当初ダイナマイトがあったとは述べず、「ピース缶に混合薬品を注入した」(48・3・10員面)、「褐色のブヨブヨした糊様のもの及び混合薬品を入れた」(48・3・19検面。添付図面には流状のものとの記載がある)、「茶褐色の粘土状のもの及び混合薬品を入れた」(48・3・20員面。添付図面には糊様のものとの記載がある。)と述べていたが、48・3・21員面において「河田町アジトに行ったところピース缶七、八個が置いてあり、そのうち一、二個はすでに缶の中にダイナマイトが詰めてあった。テーブルの下に茶褐色の包装紙にくるまれた円筒形のダイナマイト五、六本が油紙のような紙に包んで置いてあった」と述べ、48・3・22員面において「ピース缶に褐色の糊状のものを半分ぐらいまで入れ、ダイナマイトを切ってその中に埋め込み、混合薬品を入れた」旨述べるに至る。その後、「ブヨブヨした糊状のものがダイナマイトかどうかはわからない」(48・3・23検面)、「ダイナマイトは包装紙を取ってピース缶に入れたように思う。糊様のものは何かの薬品に液体の薬品を加えて作り上げたもの」(48・3・25員面)と述べる。
(c) 本件爆弾製造現場に居合わせた者が、爆薬としてダイナマイトを充填したのかどうかについて記憶が不正確であるとか記憶が希薄化するということは考え難い。また、内藤は公判において起訴事実を概ね認みる態度(ダイナマイトについては認識がなく取調の時に知った旨述べる。)をとっていること及び本件ピース缶爆弾の爆薬がダイナマイトであることは証拠物から明らかな事実であることに照らし、内藤がことさら虚偽を述べて捜査を攪乱しようとしたものと見ることにも疑問がある。
c 佐古らの自白によると、前記作業の担当者について供述がかなり食い違うが、他の者の作業内容については記憶の希薄化や混同が生じ得るところであろう。たとえば、佐古及び前原の自白によれば前記作業の担当者の一人として菊井の名前を挙げ、菊井の証言と相違するが、菊井の証言によればレポの途中二回河田町アジトに戻り部屋の中に入ったというのであるから、佐古及び前原が記憶違いをするということもあり得よう。しかし、ダイナマイトを切断しピース缶に詰める作業をした者にとっては、自分が右作業をしたかどうかは記憶に残りやすいものと思われる。ところが、佐古らの自白を検討すると、それぞれ右作業を担当した者として複数の者の名前を互いに挙げ合うが、自分が右作業を担当した旨述べる者は一人もいないのであって、それぞれに自己の責任を重くしないように秘匿していると見られないではないが、不自然さは否定できないであろう。
d 佐古の自白によると、ダイナマイトの油紙を剥がし、四本ぐらいがピース缶に詰め込まれたというのであり、ダイナマイトを切断した状況について述べないのであるが、本件各ピース缶爆弾は一本のダイナマイト(一〇〇グラム)を約半分に切断した(あるいはちぎった)もの計四本(ダイナマイト二本分二〇〇グラム)をピース缶に詰め込んだもので((員)44・11・10写撮(謄)・増渕証一四冊二六三三丁参照)、佐古の自白は、客観的事実と相違する。爆弾製造の現場に居合わせた者であれば、ダイナマイトは長さ(菊井の証言及び佐古の自白によれば約一三センチメートル、前原の自白によれば約二五センチメートルというのである。なお、代表的なものの長さは約一七、八センチメートルである。五部九一回証人吉富宏彦の供述・証一三〇冊三二七一六丁)とピース缶の深さ(約八センチメートル。科検所長44・12・13回答(謄)・証六〇冊一五〇〇三丁)との相互関係は記憶に残りやすいと思われる。
e 菊井の証言は前述のとおりであるが、これを子細に検討するとつぎのような疑問がある。
(a) 菊井の証言によれば、「河田町アジトで増渕の指示がある前に裸のダイナマイトが約三〇本置いてあるのを見た。切ってあったものもあった。包装してあるものは見ていない」というのであるが、佐古及び前原の自白によれば増渕の指示があった後ダイナマイトの包装紙を剥がすなどしてピース缶に充填する作業が行われたというのであって相違する。菊井は見た光景としてパンの木箱を裏返しにした上に三十数本の裸のダイナマイトが積まれている様子を図面に作成しているが(一八四回証言・八八冊三三四六九丁)、これは印象深く、比較的記憶に残りやすい光景と思われ、佐古及び前原に記憶の混同があると見ることには疑問がないではない。そして、約三〇本ものダイナマイトをあらかじめ包装紙を剥がして積んでおくというような手順よりも、製造作業に着手後一本ずつ包装紙を剥がし切断してピース缶に詰めるという手順のほうが通常のようにも思われるのであり、どちらかといえば佐古及び前原の自白内容のほうが自然である。かりに、菊井が述べるとおりだとすると、本件ダイナマイトは裸にするとナフタリンの匂いがし、手で直接触れるとニトログリセリンの作用で頭が痛くなる可能性があるというのであるから(五部九一回証人吉富宏彦の供述・証一三〇冊三二七一九丁以下)、狭い部屋で窓を閉め切り、約三〇本のダイナマイトを裸にして置いて数時間にわたり、約一〇名の者が作業をしていれば、ダイナマイトの匂いを感じたり、場合によっては頭痛を覚えたりする者も出るのではないかとも思われる。しかし、菊井はダイナマイトの匂いに記憶はない旨証言するのであり(五部一〇〇回証言・証七〇冊一七四七八丁)、その他この点について供述する者は誰もいない。
(b) 菊井は、右にも述べたように包装されたダイナマイトは見ていない旨述べる。ところが、菊井54・7・10検面には、菊井が爆弾製造の際に見たダイナマイトであるとして作成した図面が添付されており、同図面には「本体は紙で包装してあり、商標が印刷してあったが、詳細は忘れました」との注記がある(証一三一冊三二九九七丁)。この相違につき菊井は、右図面は記憶が十分喚起されていない段階で作成したもので、その後ダイナマイトは裸であったという記憶が喚起されたものの右図面を訂正し忘れたものである旨証言するが(公判期日外尋問・証一五四冊五二三〇〇丁以下)、菊井はおよそダイナマイトを見たのは本件ピース缶爆弾製造の時だけであってその時以外にはないと述べるのであり(公判期日外尋問・証一五四冊五二四一三丁)、かつ、その供述によれば包装されたものは見たことがないというのであるから、菊井が昭和四八年に警察の取調を受けてダイナマイトが包装されているものであることの知識を得ていたとしても(公判期日外尋問・証一五四冊五二三〇一丁)、爆弾製造現場で約三〇本もの裸のダイナマイトを見たというのであるならば、印象に残る光景と思われ、記憶が希薄化し、自分が見たダイナマイトは包装されており、かつ、包装紙には商標が印刷してあったという光景が思い浮ぶということも不自然であるし、菊井は前記検面が完成した日に前記図面に作成日付を記入し、署名指印をしたものと認められ(前記図面参照)、菊井が同図面の誤りに気づかなかったということも疑問がある。さらに検討してみると、菊井は前記検面を作成する段階で記憶が喚起されたので、検察官にダイナマイトに包装紙はついていなかった旨はっきり述べたと証言するが(五部一〇一回証言・証七一冊一七六二〇丁以下)、前記検面本文には河田町アジトに準備した材料につき「ダイナマイト(多数あったが正確な本数は判りませんが約三〇本と思う)」との記載(証一三一冊三二八九二丁)とレポの途中に河田町アジトに戻った時見た光景につき「包装紙を外し、半分位に切ったダイナマイトが置いてあった」との記載(証一三一冊三二九一三丁)があるにとどまり、包装されたダイナマイトを見ていないとの記載はない。菊井が検察官に対し供述を訂正した旨述べるところが右切断したダイナマイトの形状に関する供述を指すというのであるならば、菊井が作成した前記図面にも半分に切断されたダイナマイトが図示されるのではないかと思われる。むしろ、右検面の各記述及び添付された前記図面を併わせて見てもその間に特に矛盾はなく、菊井は検察官に対し、「最初河田町アジトに準備されていたダイナマイト多数(三〇本ぐらい)を見た時、これらは、包装されていた。その後レポの途中で河田町アジトをのぞいた時に包装紙を外して半分くらいに切断したダイナマイトが置かれていたのを見た」との趣旨を述べていたものと見る方が自然なようにも思われるのであり、また、菊井は前記図面と証言との相違の理由について、当初五部一〇一回公判において証言した際、「事情聴取の段階で長山検事の求めでダイナマイトの図面を書いたところ、同検事から包装紙があったかどうか、包装紙があったとすればマークとかいったものが入っていたか覚えているかと聞かれた。その段階ではそこまでよく記憶が喚起できていなかったのではっきりわからないと答え、図面にも包装紙があったかも知れないが、字とか商標とかはわからないと記入した」旨(証七一冊一七六二〇丁以下)、前記図面に注記された内容と相違することを述べるようなところもあるのであって、菊井が前記図面は訂正のし忘れである旨述べるところにも疑問がないではない。
(c) 製造現場で見たダイナマイトの長さ(切断の有無)及び置かれていた場所について、菊井の供述に変遷がある。
菊井54・7・10検面には、ダイナマイトは約三〇本あったとの供述が録取されているが、レポに出る前に見た状況については述べられていない(証一三一冊三二八九二丁)。レポの途中で河田町アジトをのぞいた際メンバーの間に新聞紙か何かの紙を敷いたり、パンの木箱を裏返したりして、それらの上に包装紙を外し、半分ぐらいに切ったダイナマイトその他のものが置いてあるのを見たと述べられているが、ダイナマイトが右のいずれの上に置かれていたのかは判然としない表現になっている(証一三一冊三二九一二丁以下)。五部九四回公判における証言によれば、レポの途中に見た状況として新聞紙か何かの紙の上に包装紙を剥がして切断したダイナマイトが置いてあったのを見たというのである(証六四冊一六〇七七丁以下)。当部一七八回公判においてもダイナマイトが三〇本くらいあった旨証言するが、レポに出る前に見た状況については述べない(八五冊三二四二二丁)。ところが、レポの途中に見たダイナマイトについては、パンの箱を裏返して紙を敷いた上に置いてあった旨供述を変更する(八五冊三二四三七丁)。一八四回公判では、レポに出る前パンの箱を裏返して上に紙を敷いて三〇本ぐらいの裸のダイナマイトが置いてあった旨述べて図面を作成し、かつ、全部同じ長さ(切断前)のものである(約一三センチメートル)旨述べるに至る(八八冊三三四〇五丁以下、三三四六九丁)。ところがレポの途中に見たダイナマイトはメンバーの間に敷いてある新聞紙のような紙の上に置いてあったもので、パンの木箱の上に置いてあったかどうかははっきりしない旨述べて(八八冊三三四五四丁以下)、再び供述が動揺する。五部九九回公判においてはレポに出る前に見た時はっきりしないが切ったダイナマイトもあったような気がすると述べ(証七〇冊一七三九七丁以下)、最初に見たダイナマイトの長さについても供述の動揺が生ずる。公判期日外尋問においては「レポに出る前に見た時はダイナマイトは切ったものもあったし、長いものもあった。全部切ってあったのではない」と述べて(一五四冊五二二九八丁・五二三五八丁)、結局最初に見たダイナマイトの長さについて供述を変更する。以上のとおりであり、レポの途中で河田町アジトをのぞいた時ダイナマイトがどこに置かれていたかということは比較的細部の状況であって、もともと菊井は記憶がはっきりしていないために証言に動揺が生じているものと見ることも可能であるが、ダイナマイトの長さについての供述の変更については疑問が残る。すなわち、菊井の証言によれば、「製造作業に着手するに先立って増渕が役割分担を指示した際ダイナマイトの切断についても指示があった」(一七八回証言・八五冊三二四三〇丁)、「河田町アジトにあった炊事用の庖丁をダイナマイトの切断に使用して再び炊事用に使うというのは気持が悪いので、新しい包丁を買おうという意見が出た。レポの途中で一度目に河田町アジトに戻った時に新しい包丁を見た」(一七八回証言・八五冊三二四二八丁以下、一八四回証言・八八冊三三四三四丁)というのであり、これらは最初レポに出る前にはダイナマイトの切断作業はまだ行われていなかったということに結びつく状況であるし、菊井が最初に見たダイナマイトの状況として作成した前記図面を見ても約三〇本あったというダイナマイト全部の包装紙を剥がしてパンの木箱の上に積み上げ、切断作業に着手する前の準備を整えた様子を窺わせるのであり、前記供述の変更を菊井の記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。菊井は右変更後の供述と包丁を購入したことの矛盾を問われ、「誰かが河田町アジトにあった包丁を使ってダイナマイトを切断したために、誰かが異議を唱えて新しいのを買って来ようということを言ったのかも知れない」と包丁を購入した経過についても供述を変更する(公判期日外尋問・一五四冊五二三六一丁以下)。しかし、河田町アジトにあった包丁を一旦ダイナマイトの切断に使用したのならば、その包丁をダイナマイトの切断専用にして、炊事用には新しい包丁を別途購入するのが通常であろうし、そうであるなら製造作業に着手後急いで新しい包丁を購入して来る必要もないであろう。また、新しい包丁を購入した旨述べる者は他に誰もいないし、前原の自白によればナイフを、村松の自白によれば果物ナイフをダイナマイトの切断に使用したというのであって菊井の証言と相違する。
なお、弁護人は本件ダイナマイトは包丁で切られたものではない旨主張するが(弁論要旨・一六〇冊五三六八七丁)、弁護人指摘の証拠を検討しても、それだけでは本件ダイナマイトが包丁で切られたものでないと認めるまでには至らない。
(d) ダイナマイト、パチンコ玉及び薬品をピース缶に充填した状況についての菊井証言を(パチンコ玉及び薬品の充填状況についても一連の供述であるので一括して)検討する。
菊井の証言によれば「レポの途中でピース缶にダイナマイト及びパチンコ玉が充填された状態のもの一個及び白い薬品が充填された状態のもの一個(計二個)を見た。それ以外には見ていない。この各充填作業自体は目撃していない」というのである。
ところで、菊井の右証言は、細部の状況にわたり実に詳細であって、一〇年も前の光景で、かつ、レポ途中二回(合計約一〇分間ぐらい)河田町アジト内をのぞいた際に見ただけであることからすると、菊井がそのように詳細に記憶を喚起できるということはいささか不自然であろう。また、菊井54・7・10検面には「当時、私達が製造したピース缶爆弾の完成品やダイナマイトを缶に詰めた図面等を書きましたので提出します」との記載があって、ピース缶にダイナマイトだけが詰められた状態を図示した図面が添付されており(証一三一冊三二九二七丁・三二九九七丁)、ピース缶にパチンコ玉が充填されている状況を見たとの供述は録取されていないところ、菊井は、右図面は記憶が不十分なままに作成したもので、証言に際しダイナマイト中にパチンコ玉が埋めてあったことを思い出した旨証言するが(刑事五部一〇一回公判・証七一冊一七六二六丁以下)、検察官の取調の際にダイナマイト中にパチンコ玉が充填された状態を見たかどうかが思い出せなかったのに、それから数か月後の証言の段階で右のような細部の事項について記憶を喚起できるというのも不自然さが残る。なお、菊井が薬品等をピース缶に充填する作業自体を目撃したかどうかについて証言するところにも変遷があるように見られるし、ダイナマイト及びパチンコ玉がピース缶に充填された状況について述べるところも必ずしも証拠物と合致しないように思われる。
(ロ) パチンコ玉
a パチンコ玉をピース缶に充填する作業についての菊井証言の疑問点は、右に述べたとおりである。
b 菊井はレポに出る前にパチンコ玉がパンの木箱の上に置かれていた旨証言し、図面を作成しているが(一八四回証言・八八冊三三四六九丁)、同図面によれば、パチンコ玉が積み上げられた様子が描かれている。しかし、木箱の上にパチンコ玉を単に置いただけならば崩れて右図面のような形状にはなり得ない。菊井が右図面を作成するに際し、厳密さを欠いたというようなことがあっても、おおよそ体験した光景に近い形状を図示するのが通常と思われ、菊井が図示した状況は合理的に推認される状況とかけ離れており、不自然である。菊井はこの疑問を問われて「パチンコ玉が周囲のものにつかえて重なった」旨証言するが(五部一〇一回証言・証七一冊一七六九四丁)、そうだとしても、菊井の供述によると、パチンコ玉の数は一〇〇ないし二〇〇個であったというのであり(五部九九回証言・証七〇冊一七四二六丁以下。但し、菊井は前記図面を作成した際にはパチンコ玉は何十個かである旨述べた。一七八回証言・八五冊三二四二六丁)、パンの木箱の大きさは縦約七〇センチメートル、横約四五センチメートルというのであって(五部一〇一回証言・証七一冊一七六九三丁以下)、右木箱の一角に比較的狭い空間を作ってそこにパチンコ玉を詰めるというようなことでもしないかぎり、菊井が図示するものに近い形状にはならないと思われ、やはり疑問が残る。菊井は、後には、「木箱の上のダイナマイト等が堤防になってパチンコ玉がバラバラと崩れ落ちるということはなかった。二段程度に積まれていただけであり、以前作成した図は書き方がまずかった」旨証言するが(公判期日外尋問・一五四冊五二二九六丁以下)、菊井が当初に図示した状況と相違が著しく、疑問が残る。
c 前述したように、菊井は当初右木箱の上に置いてあったパチンコ玉は確かではないが何百もなく何十個かである旨述べていたが(一七八回証言・八五冊三二四二六丁)、その後一〇〇ないし二〇〇個であると供述を変更する。供述を変更したことについて特に理由が述べられているものでもない。
d パチンコ玉を充填する作業の担当者は、佐古の自白によれば村松、菊井、平野及び内藤、前原の自白によれば増渕、江口、村松及び菊井、村松の自白によれば増渕、江口、堀及び佐古、増渕の自白によれば村松及び前原であったというのである。しかし、自分が右作業を担当した旨自白する者は一人もいない。村松の名前を挙げる者が多いことから考えると、村松が隠していることも考えられるが、右作業を全部村松一人が担当したものとは考え難く、一人も右作業を担当した旨述べる者がいないということは、それぞれに自己の責任を重くしないように秘匿していると見られないではないが、不自然さは否定できないであろう。
(ハ) 導火線及び工業用雷管
a 菊井の証言によれば、「レポに出る前に見た導火線は切ってあったが長いものは三〇センチメートルぐらいで、短いものは一五センチメートルぐらいであった」というのである(公判期日外尋問・一五四冊五二四一一丁以下)。
(a) しかし、三〇センチメートルという長さを述べているところは必ずしも証拠物と合致しない。
(b) 菊井の供述には変遷がある。
菊井54・7・10検面には、「(河田町アジトに準備した材料として)導火線、短く切ったもの一〇数本」、「私が河田町アジトで見た導火線はすでに短く切ってありました。導火線の燃焼時間の実験に私は立ち会っていないので、誰がいつ導火線を切ったのか知りません」「(各自の任務分担として導火線を切断する者についての記載はなく)導火線と雷管を接着剤で接着する者があった」との供述が見られ(証一三一冊三二八九二丁、三二八九七丁、三二九〇三丁)、菊井も当初「短く切った導火線が何本かあった」(五部九四回証言・証六四冊一六〇七七丁)、「導火線は短く切ってあった」(当部一八四回証言・八八冊三三四一八丁)、「導火線の長さは一〇センチ程度ではなかったかと思います」(同三三四七一丁)と証言していたのに、公判期日外尋問において「導火線はぐるぐる巻きではない。ある程度長いものである。雑然と切ってあって、長いのも短いのもあったという感じ。均一に切ってあったという記憶はない」(一五四冊五二三六〇丁)、「長いのは三〇センチメートルぐらいで短いのは一五センチメートルぐらいである」(同五二四一二丁)と供述を変更し、変更の理由を問われ「これまでも長いものと短いものがあったと述べていた。長いのは三〇センチメートルぐらいで短いのは一五センチメートルぐらいと述べている」、「(今までそのようなことは述べていないのではないかと問われ)今の記憶としてはそうである。今裁判官から質問されて思い出したということである」と述べるが(同五二四三五丁以下)このような証言の変化には疑問がある。
b 菊井の証言によれば、「レポの途中で河田町アジトをのぞいた時、メンバーの間に新聞紙が敷いてあり、導火線と雷管の接続したものが何本か置いてあった。増渕が導火線と雷管の接続されたものを持ってピース缶の蓋の穴に通しているところを見た。導火線と雷管の接続作業自体は、見ていない」というのである。しかし、菊井の供述には変遷がある。菊井54・7・10検面には「レポ途中に河田町アジトをのぞいた時メンバーの間に新聞紙か何かの紙を敷いたり、パンの木箱の上に、雷管に接続した導火線(接続していないものもあった。)が置かれていたのを見た」との記憶があり(証一三一冊三二九一二丁以下)、増渕がピース缶にガムテープを巻いていたとの供述は録取されているが(同三二九一四丁以下)、増渕が導火線と雷管の接続されたものを手に持ってピース缶の蓋の穴に通しているところを見たとの供述は録取されていない。菊井は一七八回公判において「レポの途中で河田町アジトをのぞいた時、パンの木箱を裏返しにして紙を敷いた上に導火線と雷管が接続されたものが何本か置いてあった。増渕が出来上った爆弾にガムテープをぐるぐる巻いていた」旨右検面と概ね同旨の証言をしていたのに(八五冊三二四三七丁以下)、その後「レポの途中で見た時メンパーの間に新聞紙のような紙を敷いた上に雷管、導火線が置いてあったのを見た。増渕が雷管と導火線の接続したものを手に持って蓋の穴に差し込もうとしているのを見た。ちょっと目をそらし、つぎに見た時には増渕は蓋を閉めガムテープを巻いていた」(一八四回公判の供述・八八冊三三四三四丁・三三四三六丁以下)と、従前述べていない新しい状況を述べるに至っている。菊井は、検察官の取調を受けている段階でも、当初の証言の段階でも、増渕が導火線と雷管の接続したものをピース缶の蓋の穴に通す作業を目撃したとは述べないのであり、一〇年前の光景が証言の途中で新たに想起されるということには疑問が残る。
c 菊井は雷管と導火線の接続作業自体は目撃していない旨述べるので、この点につき佐古らの自白を見る。
右接続作業の担当者は、佐古の自白によれば自分と前原、前原の自白によれば菊井と江口、内藤の自白によれば佐古、増渕の自白によれば佐古と堀であるというのである。佐古が右接着作業を担当したということはみずから述べるところであり、内藤及び増渕の自白もこれに一致する。ところが佐古の自白にはつぎのような疑問がある。
佐古の自白によれば、導火線の先をほぐし、その中に雷管の先を押込んでボンドで接着し、ガムテープを巻いて補強したというのである。しかし、すでに記したように、雷管と導火線との接続状況は雷管の管口部に導火線が差し込まれているのであり、佐古の自白はこれと正反対であって、客観的事実と相違する。これは接続作業の最も基本的な部分であり、この相違を佐古の記憶の混同によるものと見ることはできない。また、佐古は、すでに記したように本件雷管と導火線の接続に際し接着剤が使用され、かつ、ガムテープが巻かれているという、異例な方法がとられていることまで述べているのであるから、佐古がそのような特徴的な状況まで述べながらなお基本的な部分についてことさら虚偽を述べたものと見ることにも疑問がある。かりに雷管と導火線の接続作業をした経験がある者がことさら虚偽を述べようとした場合でも、佐古の自白のような雷管と導火線の接続手順を思い浮かべるということもやや困難なようにも思われる。佐古が雷管についての十分な知識がなく、かつ、捜査官から本件証拠物の導火線と雷管は接着剤で接続されガムテープが巻かれていることを断片的に聞き知った場合、前記自白のような接続手順が比較的自然に思い浮かぶのではないかとも思われるのである(二七六回証人佐古の供述・一五二冊五一七二六丁以下参照)。なお、佐古の最初の自白によれば、「ダイナマイトの上に火薬を入れ、火薬に火がつくように導火線を取り付けた。ピース缶の蓋と導火線をブラブラしないようにボンドで固定した」というのであって工業用雷管について述べないのであるが(佐古48・2・13員面)、雷管だけを隠す必要は見当たらず、疑問が残る。佐古はアメリカ文化センター事件の取調の際証拠物を見せられているが、同事件の爆弾には工業用雷管は使用されておらず、雷管は見せられなかったもので、そのことが佐古の最初の自白内容に影響しているのかも知れない(なお、二七六回証人佐古の供述・一五二冊五一七一六丁参照)。
(ニ) 塩素酸カリ及び砂糖の混合物の充填
a すでに記したように一三個のピース缶爆弾のうち、塩素酸カリ及び砂糖の混合物の充填が確認又は推認されるものは多くとも二個である。
(a) ところが、佐古らの自白は製造した十数個のピース缶爆弾の少なくとも大多数にこの混合物を充填した旨述べていると見ることができるのであり、客観的事実と相違する。検察官は、「被告人、共犯者らの自白は製造されたピース缶爆弾中の何個かにはダイナマイト以外に塩素酸カリウム、砂糖の混合物を充填したという趣旨であることは明らかである」と主張するが(論告要旨九一頁・一五六冊五二八四〇丁)、首肯し得ない。もしそうであれば、この点はピース缶爆弾の基本構造にかかわることであるからその趣旨を明確にした供述が録取されるはずであるが、そのような供述が録取されたものはないし、製造したピース缶爆弾中に前記混合物を充填しなかったものもあるということすら明確に述べる者は、村松48・3・15員面のほかは一人もいないのである。前原の自白によれば、「もう一人の者と一緒に混合した薬品をスプーン二杯ぐらいずつピース缶に入れた。全部のピース缶に入れたと思うが、量が不足して一部には入れられなかったかも知れない」というのであり、佐古の自白によれば、砂糖は河田町アジトにあったが、途中でさらに買いに行ったというのであるし(佐古48・3・9員面((本文一一丁のもの))によれば砂糖一袋ぐらいを使用したというのである)、また、内藤の自白は爆薬はダイナマイトよりも混合薬品を主体とするものであるかのような内容であって、これらの自白の内容を検察官が主張する趣旨に解することはできない。そして、これは爆弾の基本構造にかかわる事項であること及び右前原らの自白の内容が具体的であることから考えると、前原らに記憶の混同があると見ることは疑問である。
(b) 菊井の証言は、薬品を充填したもの一個を見たが他は全部見たわけではないのでわからないというのであって、何個のピース缶に薬品を入れたのか判然としない内容である。
b 塩素酸カリと砂糖の混合作業について
(a) この作業の担当者について、菊井は具体的な名前を挙げず、佐古の自白によれば増渕、江口及び堀、前原の自白によれば自分、佐古及び石井、内藤の自白によれば自分、村松、井上及び前原というのであって相違する。ただ、他の者の作業分担については記憶の混同が生じ得るところであろう。
(b) 自分が作業を担当したと述べる前原及び内藤の自白の内容について検討する。
前原の自白によれば、塩素酸カリ二(あるいは三)に対し砂糖一の割合で新聞紙の上で混合したうえ乳鉢に入れてすって混合する作業を繰り返したというのであるが、このような方法は危険であり、不自然である(なお、検察官57・7・23釈明書・一五〇冊五〇九五一丁参照)。
内藤の自白によれば、薬品を計量し、二種類の薬品を混合する作業を四、五回繰り返したというのであって、砂糖について述べないが、菊井の証言によれば市販の砂糖の袋が置いてあったというのであるから、混合作業を担当した者が砂糖と薬品とを混同することは考え難く不自然である。
c ところで、菊井の証言によれば、レポ途中二回五分間ぐらいずつ計一〇分間ぐらい河田町アジトをのぞいたというのであり、一回目にのぞいた時に江口が乳鉢と乳棒を使用して混合作業の手本を見せたところを目撃し、二回目にのぞいた時に白い薬品が詰められたピース缶を見たというのであるが、塩素酸カリと砂糖の混合物が充填されたピース缶爆弾は製造した爆弾十数個のうちのわずかであることから考えると、菊井がごく短時間製造現場に居合わせたに過ぎないのに右のような状況を目撃するというのはやや偶然に過ぎる感もある。
(ホ) ピース缶の蓋の穴あけ作業
a 菊井の証言によれば、「ピース缶の蓋に穴をあける作業は目撃していない。金槌と釘(長さ七、八センチメートルくらい)があったのでそれであけたのではないかと思う」というのである。すでに記したように金槌と釘だけでは本件各ピース缶の蓋の穴をあけることはできないが、菊井はこの作業を目撃したというのではなく推測を述べているに過ぎないから、これを相違点として重視するのは相当ではない。
b 右作業の担当者については、佐古の自白によれば自分ともう一人、前原の自白によれば自分、佐古及び石井、石井の自白によれば佐古及び井上であったというのであるが、佐古及び前原の自白はそれぞれ自分が右作業を担当した旨述べるものであり、かつ、両者の自白は概ね一致するものと見ることができるので、まず両名の自白の内容を検討する。
(a) 佐古の自白によれば、「玄関前の庭で作業をした。ピース缶の蓋に釘か折りたたみ式ナイフで小さな穴をあけ、庭の植木の根元あたりに蓋を置いて穴の部分にドライバーを突き差し、金槌か石で叩いて穴をあけた」というのであり、前原の自白によれば、「外で作業をした。最初五寸釘をハンマーで叩いて穴をあけたところ小さ過ぎたので、石井が住吉町アジトからプラスドライバーかポンチと思うが他の道具を取って来て、それで穴をあけた」というのである。
(b) 右に述べたように、佐古及び前原の自白はピース缶の蓋に穴をあける方法について大きな相違があるとは見られない(但し、使用道具については後述する)。ところで、右のような方法による場合は、すでに記したように、大菩薩峠事件のピース缶爆弾三個のうちの一個のピース缶の蓋の穴と同様の穴をあけることは可能であるが、アメリカ文化センター事件及び八・九機事件のピース缶爆弾のピース缶の蓋の穴と同様の穴をあけるには、さらに生じたバリをペンチなどで切断する必要がある。本件各ピース缶爆弾のうちピース缶の蓋の穴のバリの有無が確認できるものは右の三個だけであり、そのうちの二個についてバリの切断が行われているのである。しかし、佐古及び前原はいずれもバリの切断について述べないのであり、疑問が残る。右は細部の事項であって記憶の希薄化が生じ得るところであるとの見方もあろうが、佐古は捜査段階においてアメリカ文化センター事件の証拠物を、前原もアメリカ文化センター事件及び八・九機事件の証拠物を示されているのであるから、ピース缶の蓋の穴の形状を見て、穴をあける作業方法についても記憶の喚起ができるのではないかと思われる。
(c) 佐古らの自白によれば、河田町アジトの玄関前の庭で右作業をしたというのであるが、右作業は金槌を使用する際に相当大きな音を伴うものであることは容易に推測がつくのであり、家主や隣人の注意を惹く危険があって不自然ではなかろうか(右庭は路地を入って行くと路地から見通すことができる。(員)48・1・23検証(謄)・増渕証一三冊二三六九丁・二三七七丁。二三七八丁参照)。
(d) 穴あけに使用した道具について、前原の自白には変遷があり、最後まで確実に特定するには至らないのであるが、自分が使用した道具について特定できず、供述に変遷があるというのは疑問である。供述の変遷状況はつぎのとおりである。
48・3・11員面 鉄棒様のものと述べ、左のような図を描く。
3・16検面 何か思い出せない。
3・28検面 プラスドライバーかポンチ
右のような供述経過から見ると、穴あけに使用した道具についての前原の自白はポンチようのものであったとの意味合いが強いように思われ、佐古の自白との相違を念頭に置いた検察官の取調においてプラスドライバーかも知れないとの供述が加えられたものと見る余地があり、佐古の自白と前原の自白とはむしろ相違すると見る方が適当であろう。
(e) 石井の自白(48・4・4員面)によれば、「河田町アジトの部屋の中の入口付近で佐古と井上が缶の蓋の穴あけ作業をやっていた。ヤスリで穴をあけているようだった。井上が外へ出て来てヤスリでは穴があかないので五寸釘を買って来てくれと言われたが店がわからないというと、バンドエイドを買って来てくれと言われ、井上は釘を買うということで二人で出かけた」というのであるが、石井は当初井上が外でドリルで缶に穴をあけていたとか元山らからそのような話を聞いたなどと述べており(48・3・30員面、3・31検面、4・1員面)、48・4・3検面でもドリルを使用したということを除き概ね同旨の供述を維持していたのに、48・4・4員面においてこれを変更し、前述のような自白をするに至ったものであり、右いずれの自白の内容も佐古及び前原の自白と相違する。検察官は石井の自白は他の共犯者の自白に比して重要性が低いと主張するが(論告要旨二七頁・一五六冊二五八〇八丁)、なるほど石井の右の点に関する自白もその内容及び変遷状況に照らすと信用性に疑問がある。しかし、石井に記憶の混乱があると見ることには疑問があるし、石井が捜査の攪乱を狙ったと見ることも、石井が公判段階で基本的に起訴事実を認める態度をとったことに照らすと疑問があろう。
(f) 菊井の証言によれば、「レポ途中に河田町アジトに立ち寄った際玄関前の庭のような所で内藤がピース缶の蓋のようなものを手に持って立っていた。しばらく立話をした」というのであり、内藤がピース缶の蓋の穴あけ作業に関与したことを窺わせるような内容である。しかし、内藤は右作業に関与したとは述べない。ところで、内藤の自白によれば、「製造作業の途中増渕か村松の指示で外に出て約一時間見張りをしたが、その際河田町アジトに入る路地の角あたりに菊井と国井が立っているのを見た。二人は見張りをしていたものと思う」というのであり、製造作業の途中で菊井と内藤が互いに姿を見かけたとの点では一致している。しかし、その具体的状況は大きく相違し、右相違を菊井、あるいは内藤の記憶の混乱によるものと見ることには疑問がないではない。また、内藤は当初製造作業中に河田町アジトの外に出た旨述べず、48・3・22員面においてその旨述べるに至ったものであり、外へ出た目的も喫煙の目的(同員面、48・3・23検面)から見張りの目的(48・4・7員面、4・8検面)に変更されるなど安定しておらず、見張りの状況も、部屋の北側の物干場をしばらくぶらぶらし、その後路地入口付近とアジト間を何回かぶらぶら往復して約一時間外に出ていたというのであって、かえって人目を惹くような状況で不自然さが残る。なお、内藤が菊井と出会った状況について捜査を攪乱するためことさら虚偽を述べたものと見ることは、供述事項及び内藤が公判段階で基本的に起訴事実を認める態度をとったことに照らし疑問がある。
(g) 菊井は釘があった旨証言するが、この点に関する菊井の供述には変遷がある。菊井54・7・10検面によれば、「ピース缶の蓋に穴をあけるために使う釘やドライバーがあったかどうかは良く覚えておりません」との供述が録取されており(証一三一冊三二八九二丁)、菊井は五部九四回公判においても釘があった旨証言していなかったが、当部一七八回公判において釘か金槌のようなものがあったと思う旨証言し(八五冊三二四二二丁)、一八四回公判において「木工に使う長さ約八センチメートルの釘が袋に入っていて、袋が破れているのを見た。レポ途中に河田町アジトに立ち寄った時に見た」旨証言するに至ったものである(八八冊三三四二四丁以下、三三四三三丁以下)。以上のようないわば細部に属する事項について、検察官の取調においても当初の証言に際しても想起できなかったのに、後の証言において詳細に想起できるということには疑問がある。前記検面の記載によれば、検察官が菊井に対し釘やドライバーを使用してピース缶の蓋に穴をあけた旨自白している者がいるがその点について記憶はないかとの質問をしたことを窺わせないではなく、菊井が後に証言するに際して右のような他の者の自白に合わせようとしたがドライバーについては忘れてしまったとの疑いも全く否定し去ることはできないようにも思われる。
(ヘ) ガムテープの色
(a) すでに記したように、本件ピース缶爆弾の外表面及び導火線と雷管の境界部にガムテープが巻きつけられており、そのガムテープには青色と茶色の二種類のものがある。そこで、さらに検討してみると、中野坂上事件のピース缶爆弾三個のうち外表面に茶色のガムテープが貼りつけられているもの一個の導火線と雷管の境界に巻きつけられているガムテープの色もまた茶色であること、中野坂上事件のその余の二個及び八・九機事件のピース缶爆弾一個の外表面にはいずれも青色のガムテープが貼りつけられているが、これらの爆弾の導火線と雷管の境界部に巻きつけられているガムテープもまたいずれも青色であることが認められる(なお、八・九機事件のピース缶爆弾には茶色ガムテープの小片もいずれかの部分((おそらく外表面))に貼りつけられていた。また、外表面に貼りつけられたガムテープの色が確認できた五個の他のピース缶爆弾((茶色のもの三個、青色のもの二個))については、証拠が十分保全されていないために導火線と雷管の境界部に巻かれているガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に貼りつけられているガムテープの色と同一かどうかは不明である)。前原の自白によれば、「ダイナマイト及びパチンコ玉を充填したピース缶一五個ぐらいに塩素酸カリと砂糖の混合物を入れ(一部不足して入れなかったのもあるかも知れない)、その後ほぼ全員で導火線付工業用雷管をピース缶の中央部に埋め込み蓋をし、ガムテープを巻きつけた。ピース缶の外表面にガムテープを巻いた際青色ガムテープが不足したので、一部につき茶色ガムテープも使用した」というのであり、そうだとすると、外表面に貼りつけられたガムテープの色が確認できたピース缶爆弾九個のうち、その中に埋められた雷管と導火線の境界部に巻かれているガムテープの色が確認できた四個全都について、右境界部に巻かれたガムテープの色がいずれも当該ピース缶の外表面に貼りつけられたガムテープの色と一致するというのはいささか偶然に過ぎて不自然さが残る。
(ト) その他の事項
a 菊井は昭和四六年に京浜安保共闘の関係者として週刊朝日及び朝日ジャーナルの記者の取材を受け、その内容が週刊朝日同年三月五日号及び朝日ジャーナル同年五月二一日号に記事として掲載されたが、週刊朝日の記事には武器奪取に続いて、つぎに来るものはとの記者の質問に答え、「実行だ。すでにわれわれの手にある武器は、ダイナマイト、散弾銃、ニップル爆弾(鉄パイプの中に黒色火薬を詰めたもの)、キューリー弾(火炎びんの一種)、モロトフカクテル、ピースカン(中にクギ、パチンコ玉、黒色火薬をつめたもの)、日本刀などだ」と答えた旨の記載がある(証六九冊一七二九一丁以下・一七二九九丁以下。五部九九回証人菊井の供述・証七〇冊一七三二二丁以下参照)。右記事中の「ピースカン」の構造は本件ピース缶爆弾とは異なるものであるが、菊井が右記事のようなピース缶爆弾を知っているというのであるならばともかく、そうではないというのであるから、菊井が本件ピース缶爆弾の製造に関与しているならば、右インタビューの際にも本件ピース缶爆弾の構造を説明するのではないかとも思われる。また、菊井は右インタビューの際ピース缶爆弾の構造として右記事のような説明をしたことについて「覚えていない」(五部九九回証言・証七〇冊一七三二八丁)、「よく覚えていない。言ったかも知れないし、言わなかったかも知れない。どの部分が記者によって水増しされているか、今よく判断がつかない」(当部一八六回証言・八九冊三三七六五丁以下)と証言するのであって、右記事のような説明をしたことを明確に否定しているものではない。以上に述べたところに照らすと、菊井は右インタビューの際には本件ピース缶爆弾の構造を知らなかったのではないかとの疑いが全く生じないというものでもないように思われる。もっとも、右記事に右インタビューの結果が正確に表現されているかどうかにも疑問がないではないし、菊井が右インタビューに際してはピース缶爆弾の構造についてことさら事実と異なる適当なことを答えたとの可能性もないではない。
b 本件ピース缶爆弾製造に無関係と思われる薬品等に関する供述
(a) 佐古の自白によれば、ピース缶爆弾に黒色火薬も入れたように思うというのであるが(48・3・9員面。なお48・3・26検面によれば単に火薬とされている)、客観的事実と相違する。これは、佐古が当初爆弾の構造につき雷管の代りに火薬が使用されている旨を述べていたこと(48・2・13員面)の影響による可能性がある。また、佐古47・11・20ないし12・14メモによれば「昭和四四年一〇月中旬ごろ村松が時限式ピース缶爆弾を作ろうとしていて、火薬は紙火薬を使えばいいと言っていた」旨の記載があり(証八九冊二一九五五丁)、佐古は「このようなことがあったと思う。紙火薬をつぶして火薬を作るという話は聞いた」旨証言するのであって(二七六回証言・一五二冊五一七〇六丁以下)、紙火薬は黒色火薬であるから、この点も、あるいは佐古の前記自白に影響を及ぼしているのかも知れない。
(b) 村松の自白によれば、ピース缶爆弾に紙火薬をほぐして入れたというのであるが、この点も佐古が右二七六回公判で証言するようなことがあって、そのことが影響しているのかも知れない。また、石井は、村松が紙火薬かやすりを持って行った旨述べることもあるが(48・3・31検面)、後の供述調書には右のような供述は録取されておらず、その信用性には疑問が残る。
(c) 内藤の自白によれば、「平野がピクリン酸を持って来た。堀がニトロ系の薬品を持って来た」というのであるが、本件ピース缶爆弾には無関係であり、他に同旨の供述もなく、信用性には疑問が残る。また、内藤の自白によれば、フラスコ、ビーカー、試験管等の化学実験器具があった旨述べるが、本件ピース缶爆弾の製造には必ずしも必要なものとは思われないし、他に同旨の供述もなく、信用性には疑問が残る。右実験器具類については、内藤は刑事八部三回公判において東薬大での実験と記憶を混同しているかも知れない旨述べる(証一〇九冊二六九九一丁)。しかし、右のような各供述を記憶の混同によるものと見ることには疑問があり、内藤はピース缶爆弾の爆薬の主体を混合薬品であると述べていたことに基づき、東薬大で学んだことや実習の経験から想像して述べたのではないかとの疑いを否定し去ることはできないように思われる。
(d) 佐古の自白によれば濃硫酸があったというのであるが、本件ピース缶爆弾製造には不必要なものであり、内藤の曖昧な供述(48・3・27員面)以外には他に同旨の供述はない。佐古が右のような供述をした理由は判然としない。
c 爆弾製造作業中買物に出かけたとの自白について
(a) 包丁の購入に関する菊井の証言、砂糖の購入に関する佐古の自白及び釘の購入に関する石井の自白についてはすでに述べた。
(b) 石井の自白によれば、バンドエイドと、作業中に負傷した者がシャツで血を拭いたということでシャツの購入を頼まれ、それぞれ買いに出かけたが購入できなかったというのである。シャツの購入の依頼を受けたことについては、体験した者でなければ述べ難いような供述のように見える。しかし、作業中負傷した者がいるというようなことを述べる者は他に誰もいないのであって、右供述は信用性が十分であるとはいえない。バンドエイドの購入の依頼についても他に同旨の供述はない。
(チ) 要約
a 本件ピース缶爆弾の製造工程は複雑ではなく、製造作業に携わったものでなければ製造工程を述べ得ないというものではない。ところで、製造作業の役割分担について各自白にはかなりの相違が見られるが、他人の作業分担については記憶の混同も生じ得るところであろう。しかし、ダイナマイトを切断してピース缶に充填する作業及びパチンコ玉をダイナマイト中に埋め込む作業については、互いに担当者の名前を挙げるが、結局自分が右作業を担当した旨述べる者は一人もいない結果になっていて不自然であり、従って、その作業の具体的状況についても詳細な供述は得られていない。また、自分が作業を担当した旨述べる者があって、作業の具体的状況について供述が得られているもののうち、導火線と工業用雷管の接続作業(佐古の自白)、塩素酸カリと砂糖の混合作業及びピース缶への充填作業(前原の自白)については各自白の内容に重大な疑問があり、ピース缶の蓋の穴あけ作業(佐古及び前原の自白)については証拠物から認められる事実(バリの処理)について自白中に説明がなく、かつ、自白の内容にも不自然さがある。その他の作業(導火線付工業用雷管をダイナマイト中に埋め込む作業、ピース缶の蓋をし、蓋と缶体とを接着する作業((前原だけが供述する))、ピース缶の外表面にガムテープを巻く作業)については作業内容自体も単純であり、簡単な供述が録取されているにとどまる。佐古及び前原はピース缶爆弾製造事件の取調に先立つアメリカ文化センター事件、あるいは八・九機事件の取調においてこれらの事件の証拠物を見せられ、また、これらの事件の取調等を通じ、本件ピース缶爆弾の構造については知識を得ることのできる状況にあったものであるが、前記の佐古及び前原の自白の疑問点は証拠物を見せられたことによって考えつくことが可能ではないと思われる部分に生じていることが指摘できる。
b 本件ピース缶爆弾の特徴として、塩素酸カリと砂糖の混合物が充填されているものがあるがそれは例外的で少数であること、及びガムテープは青色と茶色のものが使用されており証拠上判明したものについてはすべて導火線と工業用雷管の境界部に巻かれたガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に巻かれたガムテープの色に一致することを指摘できる。ところが前者については各自白は正反対であって、塩素酸カリと砂糖の混合物が充填されているのが原則であるかのような内容であり、後者についてはこれを説明するものは誰もおらず、二種類のガムテープを使用した旨述べる前原も導火線と工業用雷管の境界部にガムテープを巻いたことを述べないし、その自白の内容も必ずしも前記特徴に沿うものとはいえない。
c 内藤は公判段階に至っても当初起訴事実を概ね認める態度をとったものであり、内藤の自白については検察官も信用性が高いものと評価しているが(論告要旨二七頁以下及び七八頁以下・一五六冊五二八〇八丁以下及び五二八三三丁以下)、右自白は本件ピース缶爆弾の構造の基本にかかる爆薬及びこれに関連する事項について客観的事実と相違し、あるいは他の者の自白には見られない特異な内容のものとなっている。
d 虚偽を混入させる理由のないはずの菊井の証言については、つぎのような疑問がある。
(a) 菊井はレポに出る前とレポの途中二回(合計約一〇分間ぐらい)河田町アジト内をのぞいただけであり、かつ、約一〇年も前の出来事であるのに、製造材料及び道具並びに製造作業を目撃した状況につき供述するところが具体的かつ詳細に過ぎるように思われ、不自然さが残る。
(b) 菊井は、ピース缶にダイナマイトが充填された状態、ダイナマイトにパチンコ玉が埋め込まれた状態、ピース缶に充填された塩素酸カリと砂糖の混合物の形状、ピース缶の蓋にあけられた穴の形状などについて具体的に供述するが、右(a)でも述べたようにこのような細部の事項について記憶し、かつ、想起できるということには疑問があり、また菊井の右供述はいずれも客観的事実と相違するように思われる。
(c) 菊井の証言中には検察官の取調(後にも述べるが、54・7・10検面が作成されるまでに一か月足らずの期間を要したものと認められる。)において供述しなかったのに、証言の段階または証言の途中の段階で供述するに至った内容のものが多数ある。すなわち、右(b)に述べたもののうちピース缶にダイナマイトが充填された状態を除く他の供述、レポに出る前裸のダイナマイトが約三〇本パンの木箱を裏返しにしたものの上に積んであったのを見たとの供述、その中には切ったものもあったとの供述、レポに出る前切った導火線を見たがその長さは長いもので約三〇センチメートル、短いもので約一五センチメートルであるとの供述、レポ途中に河田町アジトに立ち寄った際に増渕が導火線と工業用雷管の接続されたものを手に持ってピース缶の蓋の穴に通しているところを目撃したとの供述、レポ途中河田町アジトに立ち寄った際にビニール袋に入った釘があり、袋が破れているのを見たとの供述がこれに当たる。一〇年も前の出来事であり、かつ、右のような多くの事項につき、検察官の取調において想起できなかったのに、その数か月後(導火線の長さについては約三年後)の証言の段階で想起できるということには疑問がある。
(d) 菊井の供述には軽視できない変遷がある。すなわち、菊井の供述は、包装されたダイナマイトを見たことの有無、レポに出る前に見たダイナマイトが切断してあったことの有無、導火線の長さ、パチンコ玉の数、パチンコ玉がパンの木箱の上に置かれていた状態、新しい包丁を購入した理由の点において供述が変遷する。右のうち一部については 右(c)に述べたとおりであり、その他の事項についても、菊井の記憶の不正確さ又は記憶の混同、あるいは菊井の言い間違いによるものと見ることには疑問が残る。
(e) 菊井の供述内容には、爆弾製造作業に着手する前で増渕から製造手順についての指示がある前に約三〇本のダイナマイト全部が包装紙を外して積まれてあった旨述べる点、ダイナマイトを切断するために、河田町アジトに古い包丁があるのに、あえて新しい包丁を購入してこれを使用したと述べる点(あるいは、古い包丁をダイナマイトの切断に使用したので製造作業中すぐ新しい包丁を購入したと述べる点。この点については供述が動揺している。)に不自然さが見られる。
(f) 菊井の証言は、争点である塩素酸カリと砂糖の混合物が充填されたピース缶爆弾の個数については解釈の余地を残した内容となっており、また、菊井は、各自白が相違している製造作業の役割分担については覚えていない旨述べるのであり、レポ途中に河田町アジトに立ち寄った際に目撃した光景としても、増渕及び江口の作業状況(増渕の作業は爆弾を完成させる段階のもので、同人がリーダーであることから推測したと見ることも全くできないこともないものであり、江口の作業は薬品混合の手本を示すことで、同人が東薬大の出身者で薬品に関する知識を有していることから推測したとも見得るものである。)について述べるのみで、他の者の作業状況については全く述べない。
(3) いわゆるレポ(外周警戒)
(ⅰ) レポの担当者について菊井の証言及び佐古らの自白を見ると、菊井の証言によれば自分と国井、井上及び石井、佐古の自白によれば自分が責任者で担当者は石井、国井及び井上、前原の自白によれば「井上が時々外へ出てレポをやっていたと思う。石井もレポをやっていたかも知れない」、内藤の自白によれば菊井及び国井、村松の自白によれば「菊井、平野及び石井は部屋にいなかったが何らかの作業かレポをしていた」、石井の自白によれば石井、国井、井上、富岡及び元山、増渕の自白によれば石井及び前林であったというのである。内藤を除く全員が石井の名前を挙げており、内藤も石井がレポを担当したことを積極的に否定しているものではないから、石井がレポを担当したということについてはほぼ供述が一致していると見てよい。そこで、自分がレポを担当した旨述べる菊井及び石井の供述内容を中心にして具体的な検討を加える。
(ⅱ) 菊井の証言によると、「石井、国井及び井上と一緒にレポを担当した。石井をエイトに待機させ、自分と国井が八・九機方面を歩き、井上が四・五機方面を歩き、石井を中継にしてレポの結果を報告するということであった。エイトにいる石井に電話したところ一度は出たがその後は出なかった。エイトを二度ほどのぞいた時も石井はいなかった。石井がどこでどうしていたのかはわからない。最初レポを始めた時エイト前で石井と別れてから当日石井には会っていない。レポ途中河田町アジト内を二度ほどのぞいた」というのであり、石井の自白によれば「佐古の指示で河田町アジトに入る路地入口のパン屋の角に立ち、国井と井上がフジテレビ通りで先端レポをして、その結果を中継するという方法でレポをした。その後富岡と元山が来たのでパン屋の角からアジトまで三人で等間隔に立ち、レポをした。途中で四・五機方面を見に出かけたり、買物に行ったりした」というのであって、両者の供述内容は大きく相違する。
a 右相違を菊井の記憶の混同によるものと見ることはできない。
b 石井に記憶の混同の可能性があるだろうか。考えられるのは、石井は当初菊井が述べるようにエイトで待機していたものの、途中で同店を抜け出し、佐古の指示でパン屋の角に立ってレポをしたということがあったが、石井にとって後のレポの印象のみが強く残り、記憶が一部欠落したという可能性の有無であろう。しかし、エイトで待機して菊井からの電話を受けるということは増渕から指示されたレポの重要な役割であること及び菊井の証言によれば石井はエイトで一回菊井からの電話を受けていることから考えると、右のような記憶の欠落が生ずることには疑問が残る。かりに右のような記憶の欠落が生じ得るとしても、菊井はレポの途中二回河田町アジトに立ち寄り、三回目に同アジトに戻った時にもうすぐ済むからと言われ、周辺をぶらぶら歩いて二〇分ぐらいして再び同アジトに戻ったというのであり、石井は四・五機方面を見に行ったり、買物に出たりすることがあったものの右アジトに入る路地入口のパン屋の角に立っており、少なくとも製造作業終了時ごろには同アジトの外に立って待っていたというのであるから、菊井も一度ぐらいは石井に出会うことがあるものと思われるのに、石井も菊井もそのようなことがあった旨述べないし、石井がエイトを出てパン屋の角に立つということは、レポの方法についての重要な変更であるから、菊井がレポの途中に河田町アジトに立ち寄った際増渕らから右変更について何らかの指示があるはずなのに、菊井は全くそのようなことを述べないのであって、やはり疑問が残る。なお、菊井の証言によれば菊井はエイトにいる石井に電話を入れ、あるいはレポ途中に河田町アジトに立ち寄った際も国井を外に待たせて一人で中に入るようなこともあったというのであって、菊井がレポにおいて主導的であったことが窺われ、石井が菊井の関与について記憶の混同を生じたと見る(石井は菊井の関与をはっきり否定する。)のは疑問がある(なお、石井48・3・20員面によると、レポをした日菊井はおらず、増渕から「トラックを探しに行った」と聞いた旨の供述が録取されているが、なぜそのような供述をしたのか明らかではない)。
c 結局、菊井の証言と石井の自白との前記相違を菊井又は石井の記憶の混同によるものと見て、両供述を両立するものとすることには疑問が残るといわざるをえない。
(ⅲ) そこで、菊井の証言及び石井の自白につき、その具体的内容を検討しなければならない。検察官は、石井の自白は重要性が低い旨主張するが(論告要旨二七頁・一五六冊五二八〇丁)、石井は公判段階においても起訴事実を概ね認め、有罪判決が確定しており、前述のように多くの者がレポ担当者として石井の名前を挙げているのであるから、石井の自白内容の検討は重要であり、まず石井の自白について検討する。
a 本件ピース缶爆弾製造に際してのレポというのは、被告人らの河田町アジトにおける行動に不審を抱いた家主や近隣の者らの警察への通報、あるいは情を知る者の密告、尾行警察官による探知等により、警察官が同アジトに急行してアジト周辺に張り込むなどの場合に備えるものであろう。従って、レポも逆に家主や近隣の者らの不審を抱くことのないように配慮してする必要がある。また、警察官が急行するとしてもパトカーでサイレンを鳴らしながら急行するようなことはあり得ず、犯人らに気づかれないように私服の者が張り込むということになると思われるので、レポもこの点に配慮してする必要があろう。
b ところが、石井はパン屋の角に立ち、フジテレビ通りでレポをしている国井と井上の連絡を受けるという方法をとった旨述べ、短時間ならばともかく、昼過ぎごろから夕刻まで、石井自身はその間四・五機方面を見に行ったり、二回買物に出かけたりすることにかなりの時間を割いたにしても(その間は元山及び富岡が立っていたという)、長時間にわたりパン屋の角に立っていたというのであるから、かえって店の人などの人目を惹きやすいのではないかと思われるし、また、パン屋の角から河田町アジトまでのわずか約一八メートルの間((員)48・1・23検証(謄)・増渕証一三冊二三六九丁)に元山と富岡の三人で等間隔に立ってレポしたというのも、そのような必要性が特にあるとも思われず、むしろかえって人目を惹きやすい行動とも思われるのであって、レポの方法として合理性に乏しく、不自然に思われる。
c 石井の自白(48・4・3検面)によれば、先端レポの国井及び井上との連絡方法は、国井及び井上が横断用の旗を持っていて、その旗で合図することになっていたというのであるが、レポの方法としていささか不合理かつ不自然な印象を免れない。また、レポに出ていたはずの井上がいつの間にかピース缶の蓋に穴をあけていたというのもレポを受ける立場の石井の供述としては不自然な印象を与える。
d 石井は元山及び富岡が参加した旨述べるが、菊井及び内藤の曖昧な供述があるほかには同旨の供述はない。
e 石井は逮捕、勾留後二週間以上を経て漸く詳細な自白をするに至ったものである。
f 以上の諸点に照らすと、石井のレポの方法に関する自白は、検察官も石井の自白に余り重きを置いていないように、信用性に疑問がある。
g 佐古はレポの具体的方法について石井と同旨の自白をしており、佐古の自白の方が石井の自白に先行するものである(佐古48・3・9員面二通、石井48・3・20員面参照)。佐古の自白によれば「石井がパン屋の角に立ち、国井がフジテレビ前通りの東京女子医大手前に、井上が都営アパート前に立ってそれぞれその通りを歩き、石井が国井及び井上の合図を受けて河田町アジトに連絡する。一時間に一回ぐらいはレポと連絡をとり合う」(48・3・9員面二通、3・26検面)、「石井と国井らの連絡方法は異状のない場合は指で輪を作って見せ、異状が発生した場合は片腕をぐるぐる回すことになっていた」(48・3・30検面。なお、48・4・1員面では合図の方法ははっきり覚えていない旨述べる。)というのであり、長時間(数時間)にわたり右のような行動をとることは人目を惹きやすく不自然さが残る。また、佐古が当初から石井が当日参加したことやレポを担当した者がいたことを述べていればともかく、当初はそのようなことは述べていなかったものである(佐古48・2・13員面参照)。従って、佐古の自白は石井の自白の信用性を補強するのに十分なものとはいえない。
h すなわち、石井は真実はレポに関与していないのか、それともレポに関与しているのにことさら事実を曲げて虚偽を述べたのか、いずれかの疑いがある。
(ⅳ) そこで、石井がことさら虚偽を述べたものと見ることができるかどうかを検討する。
a レポの方法に関する石井の自白の内容と菊井の証言の内容とを対比して見ても、特に石井の自白の内容の方が石井にとって情状面で有利であるとはいえないから、石井が自己の責任の軽減を図るためにことさら虚偽を述べたものと見ることはできない。また、石井が菊井を庇わなければならないような事情も特に見当たらない。
b そうだとすると、石井がことさら虚偽を述べたとすると、石井は捜査の攪乱を図ったものか、あるいは取調に対して適当なことを述べたものと見るほかはない。しかし、以下に述べる諸点に照らし、このように見ることには疑問が残る。
(a) 石井は、公判段階(刑事二部)において起訴事実を基本的に認める態度をとり(アリバイを主張することもなかった)、有罪の判決(執行猶予)が確定している。
(b) 石井は刑事五部一五回公判に証人として出廷し、検察官の主尋問に対し、右(a)と同様の態度をとった。
(c) 石井は、刑事五部一七回公判に証人として出廷し、弁護人の反対尋問を受け、弁護人から日本プラスチック玩具工業協同組合の伝票類を示されレポをしたと述べる日にはアルバイトをしていたとのアリバイがあるのではないかと問われた後においても、アルバイトをしている間かアルバイトをやめた後かわからないがレポをしたことは間違いない旨供述を維持し、その後当部一八〇回公判に証人として出廷し、検察官の主尋問を受けた際も、アルバイトをやめた後のことのように思うが、レポの目的もわからないが、河田町アジト付近に立ってレポをしたことはある旨供述している。
(d) 石井は本件事件当時村松と同棲関係にあったため、その行動も村松にいわば引きずられるような形でL研の活動に関与した程度であり、村松と別れてからは両親宅に帰り、従前の活動に復帰した形跡はないものであって、増渕及び村松らに比較しても、取調に対する抵抗力が強いとは見られない。
c 右のとおりであり、結局石井は真実は爆弾製造のレポに関与していないのではないかとの疑いが残りそうであるが、そうだとすると、今度は石井はなぜ右b(a)ないし(c)に述べたような態度をとったか疑問が生ずる。この点については、つぎのように説明することも不可能とまではいえないであろう。
(a) 一八〇回公判における石井の供述によれば、「昭和四四年一〇月二一日前ごろ河田町アジトに行ったところレポをやってくれと頼まれ、付近で数分間(長時間という記憶もない。)立っていた。その際、佐古、富岡らに会った。レポの目的を訊いたがわからなかった」というのであるが(八六冊三二六九九丁・三二七〇五丁以下)、L研のメンバーが同月二一日の闘争に向けて河田町アジトで打合せをしたりするようなこともあったかも知れず、その際、石井が依頼を受け短時間河田町アジト付近に立ってレポをするようなこともあり得ないことではないし、また、短時間であれば、石井が右に述べているようなレポの方法も不自然とはいえない。
(b) 石井は捜査段階でレポについて供述して以後一八〇回及び一八一回公判に至るまで、河田町アジト付近(パン屋の角)に立ってレポをしたこと、富岡らが一緒であったこと(富岡らに会ったこと)、菊井には会っていないことを一貫して供述しており、また、石井の捜査段階における自白に見られる不合理な部分は刑事二部における被告人としての供述、五部並びに当部一八〇回及び一八一回各公判における証人としての供述の中で漸次的に消えて行き、石井が爆弾を製造していたことを知っていたかどうかについては、公判段階において次第に供述が曖昧になり、一八〇回公判に至って知らなかった旨述べるに至っている。
(c) 右に述べたところから考えると、石井には、昭和四四年一〇月二一日前ごろ、目的ははっきり覚えていないが富岡らと河田町アジト付近に立ってレポをしたことがある(菊井には会っていない)という断片的な記憶があったものと見る余地がある。
(d) 以上に述べたところを前提にし、石井は、ピース缶爆弾製造事件で逮捕、勾留され、同事件に関与しているのではないか、増渕、佐古らも自白していて石井がレポをやった旨述べているなどと追及を受け(石井調書決定二六頁以下・一三六冊四七七七五丁以下参照)、右のような断片的記憶があったため、増渕らが自分には知らせないで爆弾を製造し、自分にレポをさせたのかも知れないなどと思い、また、被疑事実を認めて執行猶予の判決をもらってこのような事件とのかかわりを断ちたいなどと考えて自白したが、レポの方法等については佐古の自白(48・3・9員面)及び石井の前記断片的な記憶を基に想像を織り混ぜて自白をするに至ったもので、以後刑事二部、刑事五部一五回公判まで概ね同様の態度をとったが、刑事五部一七回公判において弁護人からアリバイがあるのではないかと問われて動揺を生じ、その後は自分の断片的な記憶に基づき供述をしたものと見ることも不可能とまではいえないであろう。
(ⅴ) 結局、石井は真実は爆弾製造のレポに関与していないのではないかとの疑いが残りそうであるが、菊井の証言が十分に信用できるものであれば石井は何らかの理由で虚偽を述べたか、通常は考え難いような記憶の混同を来たしたことになり、かつ、そのようなことも全くあり得ないとまではいえないのであるから、つぎに菊井の証言の内容について検討を加える。
a 本件レポについて考えられるその目的は前記(ⅲ)aに述べたとおりであるが、菊井が証言するような方法ではほとんど有効とは思われない。かりに家主等から警察に通報があったとしても、機動隊が出動するとは思われないので、機動隊の様子を窺うというのは意味があることとは思われないし、アジトから離れて路地などの道路を歩きながらレポをしても警察官がアジトに向けて急行中であることを現認することは困難であるし、長時間かけて菊井が述べるような広範囲に及ぶコースを一周してみてもいかなる意味があるのか判然としない。菊井が述べるレポの方法は合理的ではなく、不自然さが残る。
b 菊井の述べるところによれば石井との連絡は最初の一回しかとれなかったことになる。石井との連絡がとれなければ菊井らがレポをしていて異常事態が発生しても伝達できないことになってしまうから、石井の役割は菊井が述べるようなレポの方法(有効性は別論とする。)においては重要である。そうだとすれば、菊井らは石井と連絡がとれなかった段階で直ちにエイトに赴き、また河田町アジトに戻って増渕らに何らかの処置を求めるのが自然であろう。菊井は右のような行動をとった旨明確に述べないばかりか、レポ途中に河田町アジトに戻った際にも石井の行方に注意を払う様子もあまりなく、石井を中継者とすることができるのかどうか確認することもないままに、再び同じようなレポに出かけて行ったというのであって不自然である。
c 菊井はレポに出た当初は緊張感もあったがその後緊張感も薄れ、河田町アジトに一回目に戻る前から食堂で食事をしたりスナックでお茶を飲んだりしてさぼって適当にやっていたというのであるが(公判期日外尋問・一五四冊五二三六五丁以下)、河田町アジトでの爆弾製造が家主らの不審を招いて発覚する虞れはあるし、現に爆弾を製造中で共犯者の立場にありレポを担当している者としてはいささか緊張感に欠け、不自然さがないではない。しかし、人により、また、その場の雰囲気により、右のようなこともあり得るかも知れない。ただ、それにしても、緊張感の欠けたレポを約四時間も継続するというのは(公判期日外尋問・一五四冊五二三二三丁以下)、疑問がある。
d レポの途中で石井に連絡した状況に関する菊井の供述には変遷がある。菊井54・7・10検面によれば「石井さんはエイトで私達の電話を受ける役目であったのですが、私や国井君が何回か電話したうち、彼女が電話口に出て来ないことが一、二度あったし、私達が若松町周辺のレポを終えて再び河田町アジトに戻ってエイトをのぞいた時に彼女が店内にいなかったこともあったので、おそらく彼女もコーヒー等を注文しただけでは一人で長時間店内にいづらくなり、適当に店を出て息抜きしたり、河田町アジト周辺にいたり、アジトをのぞいていたりしたものと思います」、「石井らも時々は店から外へ出て息抜きをしていたようである」との記載があり(証一三一冊三二九一〇丁以下・三二九〇七丁・三二九二五丁)、菊井も「当初エイトに何回か電話したうち何回か石井が出ないこともあった」(五部九四回証言・証六四冊一六〇八四丁)、「電話をかけても出なかったことがあったので何をやっているのかと思い国井と二人で河田町アジトに戻って来た時にエイトをのぞいたところ石井はいなかった。どこかで息抜きしていたかどうかはわからない」(一七八回証言・八五冊三二四四〇丁)、「増渕から定期的にエイトにいる石井に電話を入れるように指示されていた。何回かエイトに電話したうちその中で石井が出ないことがあったので、どうしたのかと思い河田町アジトに戻って来た際にエイトの中をのぞいたが石井はいなかった」(五部九五回証言・証六五冊一六一一四丁)、「一定の時間ごとに電話を入れることになっており、何回か入れたが二度ほど出ない時があった。それは何度目に電話した時のことか覚えていない。エイトを二度ほどのぞいた時は石井はいなかった。息抜きに出かけたのかどうかはっきりわからない。石井が電話に出ないのでエイトに行ったこともあるし、何分かたって再び電話をかけたら石井が出たので異常なしと報告したこともあった」(一八五回証言・八八冊三三五一五丁以下)と証言し、石井との連絡も不十分ではあるがとれていた(少なくともほとんど連絡がとれないような状態ではなかった)旨を述べていたものである。ところが公判期日外尋問においては、「石井がエイトで電話に出たのはせいぜい一回ぐらいである。電話に出たのは早い段階である。まず一番最初の電話を入れた時石井がいたが、そのあとは石井は出なかった。電話をしたのは全部で三、四回ぐらい。一時間に一周するぐらいのペースで歩いたが、一周に一度ぐらいの割で電話を入れた」(一五四冊五二二八八丁・五二三六四丁以下)、「(前に石井が電話に出なかったので再び電話したところ出たと述べたことがあるのではないかと問われ)石井が一回電話に出たという記憶がある。最初呼び出したところいなくて、おかしいということですぐ電話をかけてすぐ出たということだったかも知れない」(同五二四一四丁以下)と証言し、石井と連絡が取れたのは最初の一回だけであとは連絡が取れなかった旨述べて供述を変更するに至ったものである。右供述の変更に伴い、レポ途中河田町アジトに立ち寄った理由についても、54・7・10検面には「周囲のレポを行っていたが、ぐるりと回って再び河田町に戻って来た時は、やはりどのような爆弾が出来上るのか、アジト室内での作業の進行状況が気がかりであったのでアジト室内に入り、レポの結果報告も兼ねて製造作業中の室内の状況を見た。」との記載があり(証一三一冊三二九〇七丁・三二九一二丁)、菊井も当初「再び出発点の河田町アジトに戻って来た際には中でどんなことをやっているのか興味もあったのでのぞいたこともある」(一七八回証言・八五冊三二四三六丁)、「レポ係なので部屋の中で何十分もおしゃべりしたりするわけではなく異常なしと報告してそのついでにのぞいた」(五部九五回証言・証六五冊一六一一七丁)旨証言し、レポ途中に河田町アジトに立ち寄ったことと石井に連絡できないことがあったこととを結びつけて述べてはいなかったのに、公判期日外尋問においては「石井に電話しても出ないから仕方がないから河田町アジトまで行った」旨証言している(一五四冊五二三六三丁)。右変更を菊井の記憶の混乱や、供述する際の表現の不正確さによるものと見ることには疑問がある。
なお、菊井は、エイトに電話をして石井を呼び出す方法につき、当初石井について適当な名前を決めて呼び出したと思う旨証言していたが(一八五回証言・八八冊三三五一五丁)、公判期日外尋問においては「記憶にないが石井さんという名前で呼んだように思う」(一五四冊五二四五二丁)、「(偽名を決めたのではないかとの問に対し)呼出し名を決めたかも知れないけれど、今はよく覚えていない」(同五二四六〇丁)と証言して供述が動揺している。
e 前述したように、菊井がレポを担当した旨明確に述べるのは、菊井自身のほかには内藤だけである。ところが、内藤の自白によれば「製造作業の途中外へ出て一時間ぐらい見張りをしたが、その際河田町アジトに入る路地の角あたりに菊井と国井が立っているのを見た。二人は見張りをしていたものと思う」というのであり、レポの状況は菊井の証言と相違する。また、内藤の右自白に関しては、前記(2)(ホ)b(f)に述べた疑問もある。従って、内藤の右自白は菊井の証言の信用性を補強するに十分なものではない。
f 検察官は、菊井48・4・2員面にはたしか国井と一緒に河田町アジト付近をぶらぶらしたことがあったような気がする旨の供述が録取されているが、これは菊井が当時否認の態度をとりつつも、みずから事件に加功していたため完全には否定し切れなくなったものと認められる旨主張する(論告要旨六九頁以下・一五六冊五二八二九丁以下参照)。そこで検討すると、右員面には「たしか国井君と一緒ではなかったと思いますが河田町アジト近くのフジテレビ裏の方を二人で何かブラブラ歩いたりしたことがあったような気がしますので、もしかするとその日が爆弾製造の当日であり、その私達の行動がいまお尋ねの外周警戒の任務に着いていたということであったかも知れません」との供述が録取されているのであって(証六九冊一七二一八丁以下)、その内容はほとんど内藤の自白と一致し、また、菊井は右員面作成当時捜査官から内藤の自白をもとに追及を受けたことが窺われる。そして、菊井は、この点について、「取調官から問い詰められ、一生懸命嘘を言ってごまかして鉾先をかわそうとしていたが、追い詰められ、言逃れが苦しくなった。しかし、素直に認めてしまっては元も子もないので、できるだけごまかそうとしてそのような供述になった」旨証言している(一五四冊五二二三六丁以下)。しかし、右のような供述が録取されたのは、菊井の証言するような理由からであると考えることもできるが、前述したように内藤の自白自体必ずしも信用性が十分であるとは見られないこと、菊井はピース缶爆弾事件につき否認の態度をとっていたものであり、その中で捜査官が具体的に追及する一部の事実につき認めるかのような曖昧な供述をしても、目的についての認識を認めたわけではなく、結局二人で歩いたことが記憶にあるというのとほとんど変わらないといってもよいものであること、及びレポ役は事件において比較的軽い役割と見られることから考えると、菊井はピース缶爆弾製造事件で逮捕、勾留されて取調を受け、否認していたが、厳しい追及を受けるうちに、国井と歩いたことはあるから、それをレポといわれれば、あるいはそういうこともないとは断言できないと述べて追及をかわそうとしたものと見る余地もある。
(ⅳ) 以上に述べたように、石井の自白と菊井の証言との相違から生ずる疑問点を解消することはできない。
(ⅶ) なお、検察官の冒頭陳述書には「石井、国井、井上らが周辺の見張りを担当した」との記載があるにとどまる(増渕一冊四〇丁)。
(4) 完成した爆弾の処分
(ⅰ) 菊井の証言によれば、「完成した爆弾をどこへ持って行ったか知らない。ピース缶爆弾を製造した後昭和四四年一〇月二一日までの間に河田町アジトに行ったことがあるが、爆弾は同アジトには保管されていなかった」というのである。
(ⅱ) 佐古の自白によれば、「製造後増渕が完成した爆弾を持ち帰った」、内藤の自白によれば「花園と思われる男が来て増渕と一緒に爆弾を持って行ったように思う」、村松の自白によれば「花園が来て爆弾を持ち帰った」というのであり、製造当日河田町アジトから爆弾が全部搬出されたとの点において、佐古、内藤及び村松の自白は一致している。また、菊井の証言も同趣旨に解することができよう。ところが、前原の自白によれば、「製造当日赤軍派と思われる男が来て増渕と一緒に完成した爆弾のうち何個かを持って行ったように思う。残った爆弾はダンボール箱に入れ、河田町アジトに保管し、昭和四四年一〇月二一日午前一〇時ごろ保管していた爆弾一〇個ぐらいをバッグに詰め、増渕及び堀とこれを持って大久保駅まで行き、自分はそこで別れた。増渕と堀は爆弾を持って東薬大の方へ歩いて行った」というのであり、佐古らの自白と大きく相違する。また、増渕の自白によれば、「製造当日村松らに爆弾と残材料を赤軍派の者に渡すように指示して自分は帰った。同月二一日夏目から爆弾が赤軍派に渡っていないと聞かされたので、夏目に対しL研の者に河田町アジトにある爆弾を赤軍派に渡すように伝えることを指示した」というのであり、河田町アジトに爆弾が保管されたとの点においては前原の自白と一致する。製造した爆弾の全部又は大部分を河田町アジトに保管したかどうかの点についての右のような供述の相違を、記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。
(ⅲ) すでに記したように同月二一日午前中赤軍派の若宮らが東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の東京デザインスクール内で数個以上(ピース缶爆弾入菓子箱二個ぐらい)のピース缶爆弾を所持していて、その後東薬大に運んだものであり、前原及び増渕の自白は右と相違する可能性が強い。そこで、前原及び増渕がことさら虚偽を述べたとの可能性について検討する。まず、前原については、当初製造した爆弾全部を河田町アジトに保管した旨述べていたが、これは前原が爆弾製造はL研独自の爆弾闘争である旨述べていたことに結びつく供述であるように思われること、右のような供述は赤軍派の指示で爆弾を製造し即日赤軍派に引渡したということに比較すれば情状面で不利であり、特に前原は河田町アジトに居住していたのであるから爆弾を保管することも前原の情状としては不利になること、前原はその後「製造作業の途中に赤軍派の者が来たかも知れない」と述べ(48・3・22員面)、48・3・26検面において前記のような自白をするに至ったものであり、部分的にではあるが内藤らの自白に合わせようとしたものとも見られないではないことから考えると、前原がことさら虚偽を述べたものとの可能性を全く否定することはできないにしても、そのように見ることには疑問が残る。つぎに増渕の自白については他の者の自白が概ね出揃った時点での自白であり、ことさら虚偽を述べた疑いは否定できない。
(ⅳ) 佐古らの自白に従えば、同月二一日午前中東京デザインスクール内で赤軍派の者がピース缶爆弾を所持していたとの前記事実との間に矛盾はない。ただ、L研の者らがピース缶爆弾を製造した後同月二一日までの間のピース缶爆弾の保管状況について誰からも供述が得られておらず、また、製造当日赤軍派の者が河田町アジトに来たかどうかについても各自白に相違があり、佐古らの前記自白をそれだけで直ちに信用性が十分なものと見ることはできない。
六、その他の供述
(ⅰ) 佐古が村松からピース缶爆弾を製造したことを聞いた旨述べる点について検討する。
佐古47・11・18メモによれば、「月日不明、村松が、四四年九月以降住んでいたフジテレビ裏のアパートで、①ピース缶にダイナマイトの火薬をつめ込み、作ったことを話してくれたように思います。②ダイナマイトの火薬を岐阜から持ってきたようなことを話して、そして、以前、L研の合宿で行った興津海岸付近で実験をして、花火がシュシュと出たようなことを話してたことを覚えております」との記載があり(証八九冊二一九三〇丁)、佐古も二七六回公判において「右は事実である。フジテレビ裏のアパートでピース缶爆弾を作ったという話を村松から別の場所で聞いたという意味である。右①については昭和四五年に入ったころ聞き、右②については同年六月ごろ聞いた」旨証言する(一五二冊五一七一三丁以下)。また、佐古48・1・20員面によれば「村松が、前田が盗って来たダイナマイトを使ってピース缶爆弾を作り、缶の中にダイナマイト四本ぐらい入れ、上に火薬を入れて作ったことがあると話してくれた」との記載があり、佐古48・1・24員面によれば「村松から前田がパチンコ玉を持って来て入れたと聞いた」との記載があるが、佐古も二七六回公判において「村松からピース缶の中にダイナマイト四本ぐらいが入るという話を聞いたのは事実だが、火薬については、爆弾は火薬が入っていないと爆発しないと思っていたので自分で考え出したことである。前田がダイナマイトを盗って来たという話を昭和四五年の半ばごろ聞いたことがあるが、ピース缶にダイナマイト四本ぐらいが入るという話を聞いたのと同じ時のことであったかどうかはわからない。前田がパチンコ玉をとって来たという話を聞いたのは事実である」旨証言する(一五二冊五一七一四丁以下)。
ところで、佐古の前記メモの記載は、昭和四七年一一月のまだ爆弾事件についての取調が本格的にはされていない段階のものであって、ピース缶爆弾製造事件について具体的な追及はされてなかったと認められるのであり、佐古が真実村松らとピース缶爆弾を製造したのであれば、このような時点で、前記のような、捜査官に佐古自身がピース缶爆弾について深い知識を持っているのではないか、場合によっては佐古もピース缶爆弾の製造に関与しているのではないかとの疑いを抱かせ兼ねず、かつ、村松に対する捜査の端緒を与えるような(村松に対する捜査の結果が佐古自身にはね返ってくる可能性がある)記載をするのは不自然なように思われる。また、佐古はすでに昭和四七年一一月の取調において前記メモを作成し、昭和四八年一月の取調においても同様の趣旨を述べ、しかも当公判廷においても自分が想像した部分や記憶が曖昧な部分を区別して指摘しつつこれを認める供述をしているのであり、佐古が村松に対し特別の恨みを抱いているような事情は窺われないことに徴すると、佐古の右供述の信用性にはかなりのものがあるのではないかと思われないではない。そして佐古の右供述内容は、村松に対し不利に働くばかりでなく、ピース缶爆弾製造事件につき村松と共犯関係にあるとして訴追されている佐古自身に対しても不利に働く可能性があることに徴すると、もし佐古がピース缶爆弾製造事件の真犯人でかつ村松と共犯関係にあり、にもかかわらず自己の責任を免がれようとして争っているのであれば、前記メモの記載等についてもむしろこれを否定する態度に出るのが自然ではないかと考えられるのに、右メモの記載内容が事実である旨佐古が認めるのは、かえって、一面において、本件起訴にかかるピース缶爆弾製造の事実がなかったのではないかとの疑いを強めさせる事情の一つとなるものとも考えられないではない。
なお、増渕も捜査段階において当初ピース缶爆弾は村松が製造した旨述べていたものであり(48・2・12検面、2・13員面)、佐古の右供述に沿うものとも見られる。
(ⅱ) 内藤48・4・3員面には、「昭和四四年一〇月二七日ごろから同年一一月中旬ごろまでの間に平野の下宿から江口のアパートに、ピース缶爆弾その他一〇個ぐらいと薬品を運び込んだことがある」との記載があり、48・4・5員面によれば「同年一〇月二九日増渕の指示でピース缶爆弾三、四個、ピース缶爆弾と思うが導火線は付いておらず、ガムテープが巻いてあるもの一、二個、ひと回り大きい缶一、二個が入った黒手提カバンを江口のアパートへ運んだ」との記載があるが、他にこれと同旨の供述や右のようなことがあったことを窺わせる供述はなく、なぜ右のような供述がされたのか判然としない。
(ⅲ) 石井48・4・4員面には、「村松から『佐古の部屋では精巧なものは作れない。東薬大でもう一度作り直す。作ったピース缶爆弾を中大へ持って行き、実験したら威力があった』と聞いた」との記載があるが、河田町アジトでの爆弾製造は不完全であったことを窺わせる内容である点において他の者の自白と相違し、また、他に同旨の供述もなく、なぜ右のような供述がされたのか判然としない。
七、疑問点の要約
以上に検討したところを要約しつつさらに述べると、つぎのとおりである。
まず、検察官が信用性に富むと主張する佐古、前原及び内藤の自白について見る。
(ⅰ) 証拠物との不一致及び証拠物から判明した事実の説明がない点
a 本件各ピース缶爆弾の構造は複雑ではなく、製造手順も比較的容易に想像し得るものであり、佐古はすでにアメリカ文化センター事件の取調の際に同事件の証拠物(ピース空缶、ピース缶の蓋、ダイナマイト、パチンコ玉七個、白色粉末、ガムテープ片等)を見せられ、前原はすでにアメリカ文化センター事件及び八・九機事件の取調において両事件の証拠物(アメリカ文化センター事件については佐古に同じ。八・九機事件についてはピース缶、ダイナマイト、パチンコ玉八個、ガムテープ五枚)を見せられて、証拠物について知識を得ていた。従って、ピース缶爆弾の構造及び作業手順の大筋において、佐古及び前原の自白が証拠物と一致するのは当然である。ところが佐古及び前原の自白は、右のように証拠物を見ただけでは直ちに知り得ない事項で、かつ、実際に作業を担当した者であれば誤るはずのない事項につき、客観的事実と相違する。導火線と工業用雷管の接続作業に関する佐古の自白、塩素酸カリと砂糖の混合作業に関する前原の自白、塩素酸カリと砂糖の混合物を充填した爆弾の個数に関する両名の自白がそうである。また、ピース缶の調達方法に関する両名の自白も客観的事実と相違する可能性が高い。ピース缶の蓋の穴のあけ方については前記証拠物を見ればドライバーのような鉄棒様のものを打ち込むなどして穴をあけたのではないかとの推測が可能である。前原の自白にこのことが端的に現われている。ところが、鉄棒様のものをピース缶の蓋の穴に打ち込んだ場合どの程度のバリが発生するかは実際に作業をした者でないと容易には推測できない。本件各ピース缶爆弾のピース缶の蓋にあけられた穴には、バリを切断するなどして処理したものと未処理のものとがあるが、右穴あけ作業を担当した旨述べる佐古及び前原は右のような点について全く説明していない。
b 佐古の当初の自白では雷管を使用したことを述べないが、佐古がアメリカ文化センター事件の証拠物を見せられた際に雷管を見せられなかったことも影響しているのかも知れない(なお、同事件の爆弾には工業用雷管は使用されていない)。
c アメリカ文化センター事件に使用されたガムテープは茶色であり、八・九機事件に使用されたガムテープは青色である。佐古の自白によれば製造の際に使用したガムテープは茶色で、前原の自白によれば茶色と青色の二種類であるというのであるが、佐古はアメリカ文化センター事件の証拠物のみを見せられ、前原は両事件の証拠物を見せられたことが影響しているのかも知れない。また、本件各ピース缶爆弾の特徴として導火線と工業用雷管の境界部に巻かれたガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に巻かれたガムテープの色に一致する点を指摘できるが、佐古も前原もこの点について全く説明していない。
d 内藤の自白は本件ピース缶爆弾の構造の基本である爆薬について証拠物と相違する。また、製造した爆弾の個数について述べるところが客観的に存在が確認された個数の半数余りにとどまる。
(ⅱ) 京都地方公安調査局事件との関係
佐古らの自白によれば、京都地方公安調査局事件に使用されたピース缶爆弾も佐古らが同一機会に製造したものの一個ということになる。そうだとすると、佐古、前原及び内藤のピース缶爆弾を製造した日に関する自白は右事件の発生日時との関係で矛盾する可能性が強い。また、佐古らは右事件との関係について全く述べるところがない。
(ⅲ) 自白に不自然な内容がある。
a 佐古、前原及び内藤の自白によれば、間借りで狭い(四畳半と二畳の二間)河田町アジトに十数名の者が次々に集まり、約一〇名の者が部屋の中で製造作業をし、他の者はレポをするなどし、また製造作業中にも同アジトにしばしば出入りがあったということになるが、参加者の数が本件爆弾製造作業に必要とは思われないほど多数であり、アジト内で製造作業をするのが窮屈すぎるばかりでなく、家主らの不審も招きやすく、また参加者の一部の口から犯行が洩れる虞れもあり、不自然さが残る。
b 佐古が述べるレポの方法、佐古及び前原が述べるピース缶の蓋の穴あけ作業の状況は、人目を惹きやすく不自然さが残る。
(ⅳ) 各自白に記憶の混同では説明し難い相違がある。
a 佐古の自白と前原の自白を比較してみると、謀議の場所、犯行に至る経緯(早稲田大学正門前集合の有無)、ダイナマイト等が河田町アジトに搬入された経緯(住吉町アジトに搬入されたことの有無)、ピース空缶入手の有無、パチンコ玉入手の日時、塩素酸カリ及び砂糖が河田町アジトに搬入された経緯、製造の際使用したガムテープの種類、完成した爆弾の処分について記憶の混同では説明し難い相違が見られる(その他製造の際の各参加者の役割や謀議及び製造の際の参加者の一部についても相違が見られるが、これらの点については記憶の混同で説明することが可能である)。
b 内藤は製造作業当日に現場に居合わせて作業をしただけである旨述べるが、前述したように爆薬について客観的事実と相違する自白をしており、これに伴い作業状況についても佐古及び前原の自白と大きな相違が見られる。また、製造当日河田町アジトに行った際の状況について佐古の自白と相違する(なお、製造の際の各参加者の役割について佐古及び前原の自白と相違するが、この点は右aに述べたのと同様のことがいえる)。
(ⅴ) 各自白は重要な事項について変遷又は動揺する。
a 佐古の自白は、爆弾製造を決意するに至る経緯、爆弾製造の目的、謀議場所、パチンコ玉の入手、製造に参加した者及び人数、自分の担当した役割、爆弾の構造について変遷又は動揺するが、いずれも記憶の不正確さや記憶の混同では説明し難いものである。
b 前原の自白は、パチンコ玉の入手、製造に参加した者及び人数、ピース缶の蓋の穴あけに使用した道具、完成した爆弾の処分について供述が変遷するが、記憶の不正確さや記憶の混同では説明し難いものである。
c 内藤の自白は、製造に参加した者及び人数、爆弾の構造について変遷するが、記憶の不正確さや記憶の混同では説明し難いものである。
(ⅵ) 以上のとおり、佐古、前原及び内藤の自白は多くの疑問点があり、その信用性に疑問が生ずるものであるが、ここで視点を変え、検察官が最も信用性に富むと主張する佐古及び前原の自白(論告要旨七三頁・一五六冊二五八三一丁)について、両名の自白がピース缶爆弾製造事件の大筋においてどの程度一致しているかを見てみると、両名の自白は、「昭和四四年一〇月一五、一六日ごろ住吉町アジトでL研独自の爆弾闘争としてピース缶爆弾を製造することが話し合われ、同所で導火線燃焼実験をし、そのころ両名で新宿ゲームセンターからパチンコ玉を入手し、翌日ごろ河田町アジトにL研の者ら十数名の者が集まり、各自任務を分担してピース缶爆弾十数個を製造した」との大筋において一致する。しかし、右の程度の大筋において供述が一致したからといって、犯行に至る経緯(早稲田大学正門前集合の有無)、最も重要な材料であるダイナマイト、導火線及び雷管の調達の経緯、完成した爆弾の処分など大筋においても重要であると見られる点において供述が相違することに照らせば、直ちに佐古及び前原の自白を信用できるものとすることにはなお躊躇されるし、右一致すると見られる大筋の部分についても、パチンコ玉入手の経緯、製造参加者及び参加人数に関する佐古及び前原の自白並びに謀議の場所に関する佐古の自白は変遷が著しく、変遷を重ねた挙句ようやく概ねの一致を見たものであり(謀議の場所、パチンコ玉入手の日時についてはなお供述の相違があり、その他についても細部の供述の相違は残存している)、製造日時については京都地方公安調査局事件の発生日時と矛盾する可能性が強く、河田町アジトにおける多人数による製造作業の状況にも不自然さが残るのであり、また、製造作業手順及び爆弾の構造の概要については自白に先立ち証拠物を見せられていて供述が一致するのも当然であるといえるから、結局右のような大筋において佐古及び前原の自白が一致するからといって、直ちに両名の自白を信用できるものとすることは難しい。
(ⅶ) その他の検察官の主張について付言する。
a 検察官は、佐古がピース缶爆弾製造を自白した際にそれまで受け入れて来た救対からの差入れを断ったこと、及び右自白の二日後にいわゆる「プランタン会談」という重大な事実を暴露する供述をしていることを挙げて、佐古の自白の信用性を肯定する情況である旨主張するが(論告要旨四一頁・一五六冊二五八一五丁)直ちにこれを重視することはできない。
b 検察官は、前原の自白の信用性を肯定する情況として前原と檜谷とが連絡をとり合ったこと及び前原の供述と菊井の証言がL研内部の事情等について一致していることを挙げるところ、これらの情況は前原の自白の信用性を肯定する方向に働くものと見ることはできるが、前述した前原の自白の信用性に残る疑問を解消するに足るだけの有力な情況ということはできない(本章第二節三(3)、(4)参照)。
(ⅷ) 以上のとおりであり、また、佐古については、村松からピース缶爆弾を製造したことを聞いたのは事実である旨公判廷で述べるなど真犯人としては不自然と思われる言動が見られること、アメリカ文化センター事件あるいは、八・九機事件に関する佐古、前原及び内藤の自白の信用性に疑問が残ることをも併せ考慮するときは、他にこれらの疑問を解消し、あるいはこれを超える有力な証拠がない以上、佐古、前原及び内藤のピース缶爆弾製造事件に関する自白の信用性にも疑問が残るといわざるを得ないのである。
ところで、内藤は公判段階(刑事八部)において当初起訴事実を基本的に認める態度をとったものであるが、刑事八部三回公判における内藤の自白の内容は、捜査段階における自白の内容のうちのいくつかを撤回、変更し、全体に曖昧なものとなっているものの、基本的には捜査段階における自白の延長上にあって疑問点が多いのであり、また、内藤が右のような態度をとったことについて以下に述べるようなことも全く考えられないとまではいえないことに照らすときは、内藤が右のような態度をとったことは、内藤が真実ピース缶爆弾製造事件に関与していたのではないかとの疑いを強く抱かせるものの、なおこれをもって前述した佐古、前原及び内藤の自白の疑問点を解消するに足るものとするまでには至らないのである。
内藤は取調官の追及を受け爆弾製造に参加したのかも知れないと思い自白したとし(一六一回証人内藤の供述・七五冊二八九五四丁以下)、公判段階で当初認める態度をとった理由につき八・九機事件とピース缶爆弾製造事件を区別することなく、前述したように、「自分の気持と捜査段階で作られた記憶が混乱して区別できなかった。他の者の自白調書もあるし、自分も自白調書に署名していたのでどうしようもないというあきらめの気持もあった。公判で否認したら裁判所に悪い印象を与え、下手をすると極刑になるという虞れを抱いた」などと述べる(本章第三節三(1)参照)。内藤が、ピース缶爆弾の製造に関与していないのに取調官の追及により関与したのかも知れないと思い込んだ旨述べるところは不自然かつ不合理である。しかし、内藤が八・九機事件につき同旨の弁解をした理由についてはすでに検討したとおりであり(本章第三節三(1)参照)、内藤は八・九機事件につき右のような弁解をした以上ピース缶爆弾製造事件について異なる弁解をすることは不自然と考え、両事件を区別することなく同旨の弁解をしたものと見ることが可能であろう。結局、内藤はピース缶爆弾製造事件についても八・九機事件と同様、内藤の自白調書のほかに内藤の事件への関与を認める前原らの供述調書が多数作成されているため争っても無駄ではないかと考え、むしろ反省の態度を示して執行猶予の判決を得た方が得策であるとの考えのもとに起訴事実を認める態度に出たものとの疑いを完全に否定し去ることはできない。
さらに、検察官が信用性が十分である、あるいは重要であるとはいえないと主張する増渕、村松、江口及び石井の自白について見る。
(ⅰ) 増渕及び村松の自白は具体性において十分ではなく、塩素酸カリと砂糖の混合物を充填した爆弾の個数についても客観的事実と相違する可能性が強く、佐古らが説明していない前記特徴(本項(ⅰ)a、c)についてもまた説明するところがない。また、江口の自白は極めて具体性に乏しい。
(ⅱ) 増渕、村松及び石井の自白についても本項(ⅱ)(ⅲ)aに述べたところがそのままあてはまる。
(ⅲ) 石井の自白の中心はレポであるが、レポの方法に人目を惹きやすく、不合理かつ不自然な点が見られる。しかも石井が事件に関与しながらことさら虚偽を述べたものとは見難い事情がある。
(ⅳ) 増渕の自白は、犯行に至る経緯、謀議場所、導火線燃焼実験の有無、完成した爆弾の処分について佐古、前原及び村松の自白と相違するし、完成した爆弾の処分については内藤の自白とも相違する。村松の自白は謀議の場所、導火線燃焼実験の時刻、パチンコ玉の調達担当者、完成した爆弾の処分について佐古及び前原の自白と相違する。
(ⅴ) 石井が公判段階で起訴事実を認める態度をとったことについては前述したとおりである。
(ⅵ) 以上のとおりであり、増渕、村松、江口及び石井の自白は検察官も重視していないのであるが、前述した佐古、前原及び内藤の自白の疑問点を解消するに十分ではなく、信用性に疑問が残る。
八、菊井証言の信用性
証人菊井良治の供述の信用性については以上の検討に当たり随所で触れて来たところであるが、同証人は、公判廷において、被告人らの面前で、弁護人らの強力な反対尋問のもとで、本件ピース缶爆弾製造の犯罪事実及び関連事項を証言している唯一の証人であって、検察官の立証上の証拠としての重要性にかんがみ、ここで包括的に供述の信用性をさらに検討することにする。
(1) 菊井証言の内容上の疑問点
菊井は公判廷に証人として出廷し、自分を含めた被告人らにおいて本件ピース缶爆弾を製造した旨証言し、証言内容は具体的かつ詳細であって、証言態度も迫真力に富むようにも見え、その信用性には疑いがないように見えるのであるが、以下に述べる諸点に照らすと、結局菊井の証言にも疑問が残り、前述した佐古らの自白の疑問点を解消し、あるいはこれを超えることができるものというを得ないのである。
a 被告人らの自白において説明されていないか、説明が十分でない事項について、菊井も証言において説明していない。
菊井は、証言において京都地方公安調査局事件と本件ピース缶爆弾製造との関係、本件ダイナマイト、導火線及び雷管の入手先(早稲田アジトに保管される前の入手先)について述べられず、また、菊井自身爆弾製造作業は直接担当しなかったということでピース缶の蓋の穴のあけ方、導火線と雷管の境界部に巻かれたガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に巻かれたガムテープの色に一致することについて述べられていない。
b 被告人らの自白中客観的事実と相違する可能性の強い部分については、菊井の証言は客観的事実に沿う内容となっているものの、なお、被告人らの自白との矛盾を避ける解釈の余地を残したものとなっている。
(a) 謀議及び製造の日について、菊井の証言は昭和四四年一〇月一一日から一八日までの間であるとして幅のある内容になっており、解釈次第で京都地方公安調査局事件の発生日時と矛盾せず、又は被告人らの自白と矛盾しないことになる。菊井が右のような幅のある記憶しか喚起できないということに疑問が残ることは前述したとおりである。また、謀議と製造が連続した日にされたかどうかについても菊井の証言は不自然な変遷をする。
(b) 塩素酸カリと砂糖の混合物を充填した爆弾の個数について、菊井の証言は「そのような爆弾を一個見た。他の爆弾には入れたかどうかわからない」という解釈の余地を残した内容になっている。また、菊井が右混合物を充填した爆弾一個を見た旨述べるところはやや偶然すぎる感のあることについては前述したとおりである。
(c) しかし、ピース缶の調達方法については、菊井の証言によれば「近くの煙草屋でまとめて買った。一部持ち寄ったものもあるかも知れない」というのであり、客観的事実と一致する可能性が高く、被告人らの自白とは相違する。しかし、このようなピース缶の調達方法はすでに弁護人も主張していたところで菊井の証言によってはじめて明らかになったものではないこと、近くの煙草屋から購入したことについて裏付けはないこと、製造作業の際河田町アジト内に積んであった煙草を喫ったことの有無及び積んであった煙草の本数に関する菊井の証言に不自然な変遷があることについては、前述したとおりである。
c 被告人らの自白が相互に食い違う部分については、概ね検察官の冒頭陳述書に沿う内容の証言をするか、あるいはわからない旨述べる。
(a) 謀議の場所については、菊井の証言によれば「ミナミである。他の場所で自分が参加しない謀議が行われた可能性もある」というのであり、右冒頭陳述書の「増渕がミナミ及び河田町アジト等において村松、井上、前原、佐古、国井、菊井らに爆弾製造の決意を打ち明け、居合わせた全員の賛成を得た」旨の記載に沿う。しかし、謀議の場所としてミナミを述べるのは検察官もその自白を重視していない増渕のみであり、疑問がある。喫茶店で謀議をすることの不自然さ及びミナミの座席の状況に関する菊井の証言に不自然さが残ることを指摘でき、これらの点については前述したとおりである。
(b) 早稲田大学正門前集合の有無については、検察官の冒頭陳述書には記載がなく、菊井もそのようなことがあったとは述べない。検察官が右の事実を主張しなかったのは(検察官は論告においても右事実を主張していない)、右の事実を述べるのは佐古一人であったためかも知れない。しかし、佐古は二七六回公判においても右の事実があった旨述べるのであり、佐古が虚偽の事実を創作していると見難いところがあることは、前述したとおりである。
(c) 爆弾の製造目的については菊井の証言によれば「L研として一〇・二一の東京戦争で赤軍派と共闘する際に使用する武器として爆弾を製造する」というのであって、検察官の冒頭陳述書の「増渕は、一〇・二一闘争に際して、赤軍派が武装蜂起して火炎びん・爆弾などで新宿警察署等を襲撃し、機動隊をせん滅することを計画していることから、L研においても同派と共闘するについて、これに使用する爆弾をL研の構成員で製造しようと決意した」との記載(右冒頭陳述書一三頁以下・一五六冊二五八〇一丁)に一致する。ところで検察官は一〇・二一において誰が爆弾を使用するのかとの弁護人の求釈明の要望に応じていないので、検察官の右の点に関する主張は必ずしも判然としない(なお、検察官の論告によれば、増渕が我々でピースの空缶を利用した爆弾を製造し、一〇・二一闘争の際、赤軍派とともに武装蜂起するための武器としようなどと提唱したというのであって、L研も爆弾を使用することを目的としていたとの主張のようにも受け取られる。論告要旨一二頁・一五六冊二五八〇〇丁参照)。増渕及び村松の自白によれば爆弾は赤軍派が使用するというのであり、佐古及び前原の自白によればL研独自の爆弾闘争というのであって(佐古の自白によれば一部は赤軍派が使用するというのである)、対立しており、検察官はいずれの自白に拠るべきか判断に迷い冒頭陳述においては必ずしも判然としない表現をとったのではないかとも思われる。なお、菊井は反対尋問において右の点を問われ、爆弾は赤軍派中央軍が使用し、L研が使用するのではないと述べるのであり、増渕及び村松の自白に概ね一致するが、佐古及び前原の自白とは相違するもののように思われる。
(d) ダイナマイト、導火線及び雷管が河田町アジトに搬入された経緯(これらが住吉町アジトに準備されていたことの有無)について、菊井の証言は検察官の冒頭陳述に概ね一致する。しかし、この点については検察官が最も信用性に富むと主張する前原の自白と佐古の自白とが対立するところであり、検察官は、佐古、増渕及び村松の自白が大筋において一致することを理由に前原の自白を排斥し、かつ、基本的に村松の自白に拠りつつ冒頭陳述を構成したものと思われるが必ずしも十分な根拠があるとはいえない。
(e) パチンコ玉の入手担当者について、菊井の証言は検察官の冒頭陳述に一致する。検察官は、佐古及び前原の自白に拠ったものと認められる。しかし、佐古及び前原のこの点に関する自白は変転著しく、変転の理由について前原が弁解するところには一応の根拠があるように見え、排斥し難いものであり、佐古及び前原の自白には疑問が大きい。また、前述したように、佐古は二七六回公判において村松からピース缶爆弾を作ったこと、その爆弾に入れるパチンコ玉は前田が取って来たことを聞いた旨証言している。なお、菊井は佐古らからパチンコ玉を入手してきたことを聞いた際の状況として生々しく言葉のやりとりまで証言するのであり、菊井に記憶の混同があるものとは見られない。
(f) 塩素酸カリ及び砂糖の調達経緯については検察官の冒頭陳述書には具体的な記載がなく、菊井も具体的に述べない。検察官は、この点に関しいずれの自白に拠るべきか判断に迷ったため冒頭陳述において述べなかったのではないかとも思われる。
(g) 爆弾製造前の導火線燃焼実験については、検察官の冒頭陳述書には記載がなく(但し、八・九機事件の際に導火線燃焼実験をしたとの記載はある)、菊井も他の者がしたのかも知れないが自分は知らない旨証言する。佐古、前原及び村松の自白によれば導火線燃焼実験をしたことについては一致するが、実験をした時刻、実験をするに至る経緯、実験の際のダイナマイト等が河田町アジトに準備されていたかどうかについて佐古らの自白は相互に食い違うのであり、検察官はいずれの自白に拠るべきか判断に迷ったため冒頭陳述書に記載しなかったのではないかとも思われる。なお、検察官は、論告においては爆弾製造前に導火線燃焼実験をした旨主張している(論告要旨九二頁・一五六冊二五八四〇丁)。
(h) 製造作業の役割りにつき誰がどの作業を担当したかについては、検察官の冒頭陳述書には前林を除き他は包括的に記載されており、菊井もわからない旨証言する。右の点に関する被告人らの自白は相互に食い違い、検察官は右の点につき冒頭陳述で具体的な主張をするのに慎重な態度をとったのかも知れない。菊井は江口及び増渕の作業について述べるところがあるが、推測して述べることが可能とも見られるものであることは前述したとおりである。
(ⅰ) 完成した爆弾の処分については、菊井は「製造作業後増渕らと別れて帰ったので知らない。昭和四四年一〇月二一日に赤軍派が使用するという話は聞いていたが、製造後どこへ持って行ったかということは自分は見ていないし、聞いていない」というのであり、検察官の冒頭陳述書にも製造された爆弾は赤軍派に渡されたとの記載があるにとどまる。しかし、被告人らは製造後爆弾を増渕が持って行ったとか花園が取りに来たとか述べるのであり、自分が製造に関与した爆弾の行方については関心があるはずだから、菊井が被告人らが述べる程度のことも知らないというのはやや不自然である。
(j) 以上のとおりであるが、菊井の証言が検察官の冒頭陳述に沿うのは菊井が真実を述べているからであると見ることも可能である。しかし、前述したように検察官の冒頭陳述の内容を証拠に照らして検討すると、検察官は被告人らの相違する自白を取捨選択するなどして冒頭陳述を組み立てているが、右取捨選択は必ずしも具体的な根拠があるものばかりではないこと、また、冒頭陳述において述べられていない事項の中には検察官がいずれの自白に拠るべきか判断に迷うなどして具体的な主張をするのに慎重な態度をとったものと思われるものもあるのであり、菊井の証言は右のような検察官の判断の結果にあまりに符合し過ぎるのであって不自然である。菊井が証言に先立ち検察官の冒頭陳述の抜書等を入手するなどの手段によって検察官の冒頭陳述の内容を知っていた疑いがあることはすでに述べたとおりである。
d 被告人らの自白の中の不自然と思われる内容が菊井の証言にも受け継がれている。
(a) 河田町アジトに多数の者が集まって爆弾製造作業をすることの不自然さについてはすでに述べたとおりであるが、菊井の証言も被告人らの自白と同様であり(被告人らの自白よりも多数の者の参加を述べる)、不自然である。菊井は不必要と思われる多数の者が参加した理由について述べるところがない。菊井が製造参加者として具体的な名前をあげるところは検察官の冒頭陳述にほぼ一致する。
(b) ピース缶の蓋の穴あけ作業を河田町アジトの玄関先でしたとの佐古らの自白に不自然さが残ることについてはすでに述べたとおりであるが、菊井も穴あけ作業を目撃していない旨述べながら、内藤がピース缶の蓋のようなものを持って玄関に立っていたから外で右作業をしたのかも知れないなどとその点において佐古らの自白に沿う旨を述べている。
e 菊井の証言は細部の事項につき詳細に過ぎ、不自然さが残る。菊井は、謀議の際の喫茶店ミナミにおける増渕、村松、江口及び自分の着席位置、製造作業の際に目撃した導火線の長さ(長いもので約三〇センチメートル、短いもので約一五センチメートル)、レポに出る前に見たパンの木箱の上に積んであった約三〇本の裸のダイナマイト中に切断したものもあったこと、釘がビニール袋に入っていてその袋が破れていたこと、セメダインのような接着剤一個及び大さじ一本があったこと、ピース缶内に充填されたダイナマイトの状態、パチンコ玉がダイナマイト中に一部頭を出すようにして埋め込まれていたこと、ピース缶に充填された塩素酸カリと砂糖の混合物の形状、完成した爆弾が河田町アジト内に置かれていた状況について具体的詳細に証言するが、いかに爆弾製造という重大な体験であるといっても約一〇年も前の出来事で、菊井は製造作業自体を担当したものではなくレポの途中に二回約五分間づつ計約一〇分間河田町アジト内をのぞいていたにとどまるというのに、右のような細部の事項について詳細に記憶を喚起できるというのは不自然であり、また導火線の長さ、ピース缶に充填されたダイナマイトの状態、パチンコ玉がダイナマイトに埋め込まれた状態、ピース缶に充填された塩素酸カリと砂糖の混合物の形状については必ずしも客観的事実と合致しないように思われる。
f 菊井の証言自体にも、客観的事実と合致しないか、不自然さが残るものが少なからずある。
(a) 謀議の際のミナミにおける座席の設定状況に関する菊井の証言は、客観的事実と必ずしも合致しない。
(b) 菊井は、製造作業を担当した旨述べるものではなく、河田町アジトに置いてあった材料や道具の形状、未完成の爆弾二個の形状、江口及び増渕の作業状況、完成した爆弾の形状について述べるにとどまるのであり、証言に先立ち検察官の冒頭陳述の抜書等の入手や昭和四八年に取調を受けた経験から本件ピース缶爆弾の構造の概要については知識を得ており、また、昭和五四年六月以降の検察官の取調においても本件ピース缶爆弾の証拠写真を示されているのであるから、菊井の証言が客観的事実と相違する余地はあまりないようにも思われる。ところが菊井の証言は、パンの木箱の上に置かれたパチンコ玉の状態、約三〇本のダイナマイトが包装紙を外してパンの木箱の上に置かれていたこと、ダイナマイトを切断するには古い包丁で十分なのに特に新しい包丁を購入して使用したこと(あるいは、古い包丁を使用したが、製造作業中に急いで炊事用に新しい包丁を購入したこと。菊井の証言が動揺していることは前述したとおりである。)の点において、客観的事実と相違するか不自然さが残るのである。
g 菊井の証言(54・7・10検面の記載を含む。)には軽視できない変遷が少なからずある。
謀議と製造が連続した日かどうか、謀議には江口、堀、平野、内藤が参加したことの有無、製造当日河田町アジトに煙草ピースが置いてあったことの有無、当日その煙草を喫ったことの有無、置いてあった煙草の本数、製造に平野が参加したことの有無、包装されたダイナマイトを見たことの有無、レポに出る前に切断したダイナマイトを見たことの有無、包丁を購入した理由、パチンコ玉がパンの木箱の上に置かれていた状態、そのパチンコ玉の数、レポに出る前に見た導火線の長さについて変遷が見られる。
h 菊井が担当した旨述べるレポについても、その方法及び状況に不自然さが見られること、石井に電話連絡した状況について、不自然な供述の変遷が見られることは前述したとおりである。そして、菊井のレポの状況に関する証言内容は、石井の自白と大きく相違する。検察官の冒頭陳述書には石井、国井、井上らが周辺の見張りを担当した旨記載されているにとどまり、この具体的なレポの状況の記載はない。そこで、菊井としては、昭和四八年の取調において河田町アジト周辺を国井と歩いたことがあり、あるいはそれがレポになるのかも知れない旨述べたことがあるので、それをもとに検察官の冒頭陳述と矛盾しない形でレポについてのストーリーを考え出して証言するに至ったのではないかと見る余地がある。
i 以上に述べたとおり、菊井の証言内容にも多くの疑問があり、高度の信用性を具有するものとは認められないのである。なお、検察官は弁護人の菊井証人に対する反対尋問の期日の合間に頻繁に同証人に面会しているのであり、これは菊井証人の証言に変遷が生ずるのを防ごうとするためではないかとも思われるのであるが、かえって必ずしも菊井証言の評価にプラスの効果を生むものではなかったと考えられる。
(2) 菊井証言に至る経緯及び証言の動機
さらに、菊井が昭和五四年五月以降検察官の取調を受け、ピース缶爆弾の製造を認める等の供述をし、さらに法廷において証言をするに至るまでの経緯及びその動機について考察しなければならない。
(イ) 菊井自身の供述の要旨
菊井自身がその証言中でこの点について述べるところは、すでに摘記したとおりであり(第三章第三節九(2)参照)、ここには繰り返さない。
なお、菊井の証言中から補足すれば、「昭和五四年六月岡山刑務所から中野刑務所に移監された最初のうち何日かは迷う気持もあり検察官の説得を受け、供述することを決意するに至った。移監後検面調書完成までに時間がかかったのは検察官が自分の記憶の喚起に慎重だったためではないかと思う。中野刑務所に移監になる前の時点では事実の概略につき記憶があり、移監後細部について記憶を喚起して記憶を整理した。謀議の場所については、喫茶店という記憶があり、検察官の質問を受けてミナミであることを思い出した。製造の状況についても当初の段階である程度覚えていた。たとえば、ダイナマイト、江口の作業などである。取調の過程でいろいろ質問をされたりしながら、ゆっくり時間をかけて記憶を呼び戻した。検察官とのいろいろなやり取りはあった。検察官も他の者の供述を事前に見ていただろうから、自分が記憶がないと言ったときには、それらの者の供述に基づく質問がされたということはあったかも知れない。検察官の質問によって思い出したこともたくさんある。54・7・10検面の完成でピース缶爆弾の取調は一応終わり、以後同年七月末までは主として他の未解決の爆弾事件等について取調を受けた」というのである。
(ロ) 菊井を取り調べた検察官の証言の要旨
この種の事件の共犯者が捜査段階において否認供述をし、不起訴とされたのにかかわらず、その後他の共犯被告人の公判中、さきの供述を翻し、犯行を証言(自白)するということは、例の乏しいことであり、ここで、念のために、当裁判所が職権で取り調べた、菊井の取調担当検察官証人長山四郎の証言(二八四回公判・一五五冊五二四七九丁)の要旨を摘記すると、つぎのとおりである。
「自分は、昭和五四年五月ごろ東京地方検察庁検事で、同庁公安部所属であったが、同月下旬ごろ、上司から、本件ピース缶爆弾事件の補充捜査として、当時岡山刑務所で服役中の菊井を取り調べるように指示された。その頃は若宮正則が自己が八・九機事件の真犯人であると名乗り出た頃であって、そのようなことから右指示があったものと思う。自分は、浦和地検の検事をしていた頃、昭和四七年一月末ごろから約二か月ほど当時いわゆる朝霞事件で未決勾留中の菊井を自衛官殺害事件以外の余罪関係で取り調べたことがあり、そのようなこともあって自分に対し右指示がされたものと思われる。なお、菊井は、昭和四七年の取調当時、被疑事実のうち認めるものは認めるが、否認するものは最後まで否認するという態度であった。また、自分は、昭和五四年に右指示により菊井を取り調べることになった以前にピース缶爆弾事件の捜査に関係したことは全くない。
「自分は、右のように指示を受けたので、まず、昭和五四年五月二五、六日ごろから一週間ぐらい岡山刑務所で菊井を参考人として取り調べた。被疑者としてでなく参考人として取り調べたのは、上司から、前述の補充捜査として、L研の実態、L研と赤軍との協力関係を主として取り調べることを指示されたことによるわけで、当時菊井が果たして取調に応じてくれるかどうかさえ明らかでなく、最初からピース缶爆弾製造事件について取り調べるという前提を置いて取り調べたものではなかったのである。自分は、七年ぶりに菊井と会ったわけであるが、菊井は一体自分が何をしに来たのかという疑問を一両日は強く持っていたと思う。自分は、菊井に対し、実は昭和四四年当時のL研の人々のことやL研と赤軍との関係について、もし知っていることを聞かせてもらえるのならば、参考人として事情を聞きたいのだというようなことから、重い刑で服役している菊井の気持というものをできるだけ尊重して、ゆっくり焦らないで慎重に、取調に入って行った。菊井は徐々に話し出してくれた。この一回目の取調の最後近くにそれまでに述べたことを調書にしてもよいかと訊くといいですと答えたので、調書を作成したが、最後の段階で、菊井は、調書に嘘は書いてないけれども、まだ今の段階では署名はできないと言って署名を拒否した。その調書が昭和五四年五月三〇日付のもの(証一三〇冊三二七四三丁参照)である。自分は、その時の取調の最後に、菊井があるいは何か言うかなと思って、ピース缶爆弾製造事件に関与したことはないか、また、同爆弾について何か知っていないかと質問したが、菊井は、大分とまどっているような印象であり、黙秘、否認といった態度はとらず、答えたくないということであった(そのとおり右調書に記載してある)。なお、菊井は、後述の二回目及び三回目の取調をも通じて、ピース缶爆弾製造事件に関与したことはないと明確に否定したことは一度もない。
「自分は、菊井はL研と赤軍との関係についてはもう少し詳しく話してくれると感じたので、東京に帰ってそのことを上司に報告すると、もう一度菊井を取り調べてくれと言われて、一週間ぐらいの余裕を置いて、同年六月の第二週からの五、六日再び岡山刑務所で菊井を前回同様参考人として取り調べた。その結果、六月一〇日付調書と同月一二日付調書とを作成し、菊井も署名してくれた(証一三〇冊三二七四五丁・三二七七一丁参照)。菊井は、この二回目の取調の時は、L研の状況や赤軍との関係について一回目の取調の時よりも大部具体的に話してくれたが、爆弾についてはまだふん切れないような様子であった。右二通の調書に「現段階では何とも申し上げられない。もう少し記憶を整理し良く考えてから話すかどうか決めたい」等と記載されているとおりである。自分は、菊井の気持が一回目の取調の時より変わったと思った。それで、自分は、菊井はピース缶爆弾事件に関与しているかどうかはともかく、相当の知識を持っているとの心証を得たが、いつまでも岡山刑務所で取調をするわけにも行かないので、二回目の取調の終りに関係当局に菊井を東京の中野刑務所に移監することを申請し、六月一三、四日ごろに移監が行われた。自分は、菊井に対する取調に当たって、後述の移監後の取調の時をも通じてであるが、情理を尽くして『増渕たちは現在フレームアップだとか何とか言っているけれども、やったかやらないかという真実はやはり君たちが一番よく知っているんじゃないか。また、それを述べることは正しいことじゃないか。君が関与しているのであれば、それを聞かしてもらいたい。しかし、あくまで参考人として聞くのだから話すかどうかは自分で決めてもらいたい』という趣旨のことを話して真実を述べてくれと説得した。また、刑務所には色々な規則や行事等があるが、それらについては菊井の立場を尊重し、それらによる制約の範囲内で取調をしたもので、平均すれば一日のうち午前が一時間半ぐらい、午後が三時間ぐらい、夜は取調をしたとしても三〇分か一時間ぐらいであった。
「自分は、移監の翌日から中野刑務所で菊井の取調をした。岡山での取調から引き続いて、L研、赤軍との関係、菊井の経歴、活動歴、そういうことをまず主体として参考人として調べて行った。その間にピース缶爆弾事件について、もしそれが事実であるならば、ありのまま述べることが正しいことでないのかと情理を尽くして説得した。菊井は、自分の説得をじっと聞いていたが、はじめは『ともかく爆弾のことはあとにして下さい。あとから考えますから。L研と赤軍の実態、当時の東京戦争で自分たちが何をやったのかをまず話します』という言い方をしていた。『今日はふん切りがついたか』、『いや今日はまだです』、『じゃあ、またL研のことを聞こう』というような状況を繰り返した中で、菊井は、ふと決断して『じゃ私も話しますよ。爆弾を含めて話しますけれども、それはあとで聞いて下さい。とにかく経歴、活動歴、当時のL研の実態等についてまずお話ししましょう』ということで、そのような自然の流れの中で供述して行くということになった。このようにして菊井がピース缶爆弾製造について供述し始めたのは六月下旬ごろであった。
「菊井がこのようにピース缶爆弾製造を供述するようになったことについては、昭和四四年以来の時の流れがあり、また、彼は服役中に仏教を勉強し、共産主義革命というものがやはり間違っていたんじゃないかと自己批判したいというように心境の変化を来たしつつあって、そこに自分が説得をしたことから決断したのではないかと推測する。
「菊井は、法廷における証言の際、証言するに至った動機として、被告人らが公判協力を要求しつつ、かげで菊井をスパイ呼ばわりしていること等数点を挙げたが、これは、菊井が自己の証言の意義づけをしたものと思う。つまり証言の根底には菊井の良心があると思うが、良心だけで供述したということでは菊井自身恰好悪いんじゃないかということで、意義づけをしたのだと思う。もっとも、これは自分の意見であるが。
「自分は、菊井の取調に当たりあらかじめピース缶爆弾事件関係の若干の資料を読んでおり、また、菊井の供述をメモに取り、それを東京地検に持ち帰って他の証拠資料とつき合わせて検討し、あるいは取調途中に同地検に電話をかけて検討したこともあり、その結果さらに菊井に訊き質したこともあったが、いずれにしても、菊井は、関与していないものは関与していない、記憶しているものは記憶している、断定できないものは断定できないというようにみずからセレクトして述べていた。菊井は、こちらから押しつけたり、こうだろうと言ってそれに応じるような相手ではない。また、取調中菊井の方から共犯者の名前を挙げて『誰々はその点どう言っているか』という尋ね方をしたことはない。さらに、菊井は最初から順序立てて供述したのではない。あっちこっち飛んだりして供述した。最初の段階で全体の概略ぐらいは話したと思う。供述経過の詳しいことは覚えていない。
「菊井は、当時、ピース缶爆弾製造の謀議及び製造の日を昭和五四年一〇月一一日から一九日までの間であるというように述べるので、自分は、菊井に当時の新聞の縮刷版を示して、日をもう少し特定できるきっかけとなるような事件その他の記憶喚起に努めてもらったが、結局日を特定することができるようなものがなかった。
「自分は、このようにして菊井を取り調べ、同人の供述をメモに取って行ったが、ピース缶爆弾事件に関する供述を一応聞き終わったところで、その結果を菊井の前で検察事務官に口授して供述の作成に取り掛り、七月一〇日付供述調書一通を作成した(証一三一冊三二七七六丁参照)。同調書は本文二〇七頁の大部のものであるが、菊井から供述が出た都度調書に取らなかったのは、その必要性がなかったことと、供述が真実かどうか裏づけを取らなければならないような調書をその都度作ったところで、菊井を取り調べる意味があまりないからであり、また、一通の調書の方が全体を通じて読みやすいと考えたからである。
「自分は、菊井がピース缶爆弾の製造につき供述するようになった後も同人を参考人として取り調べたものであり、また、七月一〇日付の調書は参考人調書として作成し、菊井もそのことを理解して署名したものである。被疑者として取り調べなかった理由は、上司から参考人として取り調べよ、不起訴を維持するとか起訴するとか等には一切触れるな、という指示を受けていたからである。もとより途中で再立件して被疑者として取り調べるということになると、あらためて『今まで言ったことは本当か。何か弁解することはないか』と質問し被疑者調書を作ることになるが、そういう段階には至らなかったということである。
「菊井は、昭和四八年当時はピース缶爆弾製造事件について否認したが、共犯者の供述により嫌疑は認められた。ただ、菊井の任務分担はレポ程度であり、一方菊井は朝霞事件という無期懲役が求刑されるような重大事件で起訴されているので、ピース缶爆弾製造事件で起訴し朝霞事件との併合審理を求める必要はないということで起訴猶予になったものと思う。今度昭和五四年になって菊井はピース缶爆弾製造事件について自己の関与を認めるに至ったが、しかし、今度の菊井に対する取調の結果によっても、菊井の関与の程度はやはりレポを担当したという域を出ないものであって、製造を指導したとか、みずからも製造したとかという証拠が出て来たものではない。すなわち、さきの起訴猶予処分の前提となった事実認定は変らなかったものである。これが、菊井につき再立件されず、不起訴が維持された理由であると思う。
「自分は、菊井を取り調べる際、『昭和四八年に取調を受けたピース缶爆弾製造事件についてはすでに不起訴になっていることは知っているね。しかし、参考人としてもう一度事情を聞きます。赤軍、L研関係から話してくれますか』という前提で取調をしたが、菊井に対し『参考人の取調であるから本当のことを述べても起訴するようなことはしない』とか、『本当のことを話してくれたら服役上利益になるように取り計らってやる』などと約束ないし取引などしたことは全くない。また、取調中菊井の方から『自分はこの事件で起訴されることになるのだろうか』という質問を受けたことは全然ない。おそらく彼はプライドの高い男で、自分の不安とか弱気を見せたくなかったからだと思う。
「菊井が果たして検察に協力する人間になっているのか、まだ革命思想なのか、いつどこでどうひっくり返る人間なのか、人の腹まではわからないわけであり、そういう菊井に対し取引、誘導、利害打算に関するような言葉を出すこと自体が問題になる。『君がともかく知っていることを話してくれ。それによってどうこうするということは現在全く何も考えてない。自分の知っていることだけ、自分で良心に、胸に手を当てて言ってくれ』という趣旨の話をしたものである。それは、菊井が詳しく製造状況を述べ出した段階になってからも同じである。
「検察に協力するということは、菊井が自分の取調の時に述べたことを法廷でも証言するということである。だから、自分個人の考えであるが、前述のとおり自分は菊井の二〇〇枚ばかりの供述調書を作ったが、これはいわば内部の報告文書のようなもので、菊井が法廷で違うことをしゃべった場合に、これを刑訴法三二一条により使うということなど考えてはいなかった。結局菊井が法廷で本当のことを言うかどうかというのが、最後まで私たち検察官の関心事であった。
「七月一〇日付の供述調書に添付されている図面、地図の記入、写真の説明などは、それまでの取調の途中逐次作って行ったものであり、それを調書完成の日に日付を入れさせ、署名押印させたものである。菊井は、河田町アジトで見たダイナマイトが紙に包まれていたか、裸であったか、最初の頃は迷っていたが、最終的には裸のものを見た記憶だと述べていた。右調書添付のダイナマイトの図の説明文は、この供述と違っているが、自分も気づかず訂正させることをしなかった。自分の点検ミスである。
「七月一〇日の調書作成後も同月末ごろまで取調をした。ピース缶爆弾製造関係についても新しく供述したことがあったが、大筋についてすでに調書があり、法廷での尋問の際に大筋に付随して供述することでよいと考えて、供述調書は作成しなかった。
「菊井は、取調終了後岡山刑務所に戻ったが、証人召喚が決った後、昭和五四年一〇月に再び中野刑務所に移監された。移監後自分は菊井に会い、若宮正則の法廷証言のことを話して菊井の意思を確かめたところ、菊井は『若宮証言は嘘である。自分は前原からこう聞いている。自分は証言する』旨を述べたということもあった。」
長山証人の証言の要旨は、以上のとおりである。
(ハ) 検察官に対して犯行を認める供述をした状況
まず、菊井が、長山検事に対し初めてピース缶爆弾の製造について具体的な供述をした際の菊井の態度及び供述内容、54・7・10検面に録取された供述がされるに至る経過(どのような事項について供述の追加、撤回又は変更がされたのかなど、次第に供述が固まって行く過程)は、長山証言及び菊井証言によっても十分に明らかにされているはいえない。また、中野刑務所で取調が始められてから何日目ぐらいに菊井がピース缶爆弾の製造について具体的な供述をしたのかについても不明確である。長山証言によれば菊井に迷いがあり、菊井が具体的な供述を開始するまでにかなりの日数を要したかのようであり、その間はL研の実態等について事情を聴取していたというのであるが、菊井が具体的な供述を開始し、その後に供述調書の口授が開始されるまでの間の日数について長山証人は三、四日と述べることもあるが、要するにはっきりしない旨述べているものであること、L研の実態等に関する菊井の供述はすでに中野刑務所に移管される前の岡山刑務所における取調において概ね出ており、さらに右の点に関し供述する内容はあまりないように思われること、菊井証言によれば中野刑務所に移監になって最初の何日かは長山検事の説得があり供述することを決意したというのであり、また、記憶の喚起には時間を要し、検察官も慎重に取調をしたというのであって、菊井は中野刑務所に移監後早い段階でピース缶爆弾の製造について具体的供述を始めた旨証言していると見られることに照らすと、前記長山証言には疑問もないではなく、菊井は中野刑務所に移監後早い段階でピース缶爆弾の製造について具体的な供述を始め、同事件に関する供述が固まるまでに相当の日数を要したとも見られないではない。しかし、結局、菊井の検察官に対する供述経過について長山証言及び菊井自身の証言から窺われるところは、特に積極的に菊井の供述の信用性判断に資するものではないと考えられるのである。なお、菊井54・7・10検面に包装されたダイナマイトの図が添付された経緯に関する長山証言は、本節五(2)(イ)に述べたところに照らし疑問がある。
(ニ) 証言の動機の検討
菊井が五部及び当部でした証言の内容は、とりもなおさずかつて同志である五部及び当部の被告人らをまさに罪するものであり、しかも無実を主張して争っている被告人らの意図を挫き兼ねないものであって、さらに、それらの被告人らの中には菊井が自己に屈辱に堪えない手紙を寄越したとする江口のような者にとどまらず、L研時代特に親しい友人であったという前原らも含まれているのである。菊井が証言の中で述べるように、菊井の考えが変化した結果かつての同志、友人に不利益な証言をするのは辛いことであるが、事実を事実として述べることは正しいことであるとの心境に達したのであればともかく、虚構の犯罪事実を供述してまでかつての同志、友人を罪することを決意した動機というものが菊井にはあるのであろうか。その点を考えなければならない。
a そこで、まず、菊井が証言するに至った動機として挙げるところを見てみる。
菊井が第一に挙げるのは、被告人らは昭和四八年当時捜査官の取調に対し自供して自分を裏切り権力に売り渡そうとしたものであり、そのような被告人らがその後自分に対し公判協力を求めつつ陰でスパイ呼ばわりしていることに腹が立っていたものの我慢していたが、江口から屈辱に満ちた手紙を受け取り勘忍袋の緒が切れたということである。これは被告人らに対する反感であり恨みであるが、菊井が程度の差こそあれ被告人らに対しこのような感情を抱いていたということは認められる。しかしこのような動機から被告人らに不利な供述をし、証言をする場合、真実を暴露する場合もあろうし、虚偽を述べて報復する場合もあると思われる。なお、菊井は江口から右のような手紙を受け取った後も江口以外の者に対しては公判協力をするという気持があったというのであり(もっとも、江口に対しては協力せず、他の者に対しては協力するということが、いかなる方法によって可能なのかについては判然としないのであるが)、しばらくの間は仙谷弁護士に対し公判協力をする態度を示していたことも窺われるが、右のような江口の手紙が契機となって菊井の心の中に江口を含む被告人らに対する反感がその後次第に高まって行き、報復手段として、虚偽の供述をすることをあえて選ぶに至るということもあり得ることである。結局、右のような菊井の被告人らに対する反感が、直ちに、法廷で真実を暴露する供述をしていることを意味するものということはできないのである。
菊井が第二に挙げるのは、被告人らの本件公判過程における態度に対する批判である。しかし、菊井が述べるところはそのまま菊井が真実を暴露する供述をする動機となるものとは思われない。ただ、菊井が右の点を本件供述の動機として挙げた背景には、朝霞事件により長期の刑を言い渡され受刑中である菊井の、菊井の表現を借りれば朝霞事件と比較にならない小さなピース缶爆弾事件で保釈を許され市民生活に埋没している被告人ら(主として刑事五部の被告人ら)に対する反感があると見ることもできよう。
菊井が第三に挙げるのは過去の行動に対する反省である。菊井が武装闘争などの過去の行動が反社会的行為であったと心底から反省し、ピース缶爆弾事件も反社会的行為であって許されないものであり、自分の過去の過ちを償うためには検察に協力してピース缶爆弾事件についても真実を明らかにすべきであると考えたというのであるならば、菊井の証言が信用できるものであることを裏付ける動機といえる。しかし、この点に関する菊井の証言は歯切れが悪い。菊井は保釈後逃亡してでも武装闘争を継続するのが真の共産主義者の任務であるとか、ピース缶爆弾事件はL研及び赤軍派の最初の歴史的爆弾闘争であり、一〇年前みずからかかわり闘い抜いた革命武装闘争の意義を人民に明らかにするなどとも述べるのであって、ピース缶爆弾事件などの武装闘争を過ちと見ているのかどうかはっきりしない。菊井は転向したのかどうかと問われても答えないし、思想的な立場についても徐々に変化し来ていると述べ、あるいは公判期日外尋問において共産主義であることには変わりない旨述べるなど一貫性があるのかどうかはっきりしない。また、菊井が公判期日外尋問において過去の行動を反省するという心境の変化を来たした理由の一つとして述べる仏教の影響ということも、刑事五部及び当裁判所各公判における証言の際には述べられなかったことである。菊井が心底から反省したというのであれば率直にその心情を余すところなく述べ、ピース缶爆弾事件は反社会的行為であり、被告人らが同事件の責任をとって処罰を受けるのが正義であると断言できるのではなかろうか。菊井が過去の行動を誤りと認め反省するに至ったものかどうかについては、なお疑問が残らざるを得ないのである。
なお、菊井が検察官に対しピース缶爆弾の製造を認める決意した理由についてどのように述べていたのかについては、長山証言によれば54・7・10検面に録取した程度のことを聞いただけで詳しいことは上申書で出すということであったというのであり、54・7・10検面によっても右決意した理由に関して過去の行動に対する反省(前記菊井証言要旨の証言動機第五点)についての簡単な供述が録取されており、一口では述べられないので後に上申書を提出するとされている。しかし、菊井は迷った挙句についに決断するに至ったというのであり、いろいろ考え気持を整理したのであろうから、右検面作成の段階でもなおその心情を十分に述べようとしないというような菊井の態度には疑問が残るのである。
もとより菊井証人の立場に立ってみれば、証言を決意し、公判廷で、しかもかつての同志である被告人らの前で証言をしようとする以上、色々な気負いというものがあろうし(長山証人は菊井が公判廷で証言の動機として述べる諸点は自己の証言の「意義づけ」をしたものと見ている)、また、心情の深奥部に触れる問題を衆人環視の法廷の中で述べるということも仲々難しいことであろうし(菊井は、共産主義であることと自己の非を非として率直に認めることとは矛盾しないということを述べてこの点の答としている)、それに、菊井が自己の事件で「法廷」慣れしているところはあるとしても、法廷での証人尋問という場面では、思っていること全部を、あるいは後に考えれば述べれば良かったと思われることを余すところなく述べるということも仲々難しいことであろう(菊井が受刑中の仏教の勉強による心境の変化ということを公判廷の証言の際には述べず、その後の公判期日外尋問で述べたことも、このような理由によるものと見ることもできる)。以上のようなことは、証言の動機に関する菊井の供述を考察するに当たって考えなければならないことである。しかし、右ないしに述べたところに照らすと、少なくとも菊井は程度の差こそあれ自分をスパイ呼ばわりする被告人らに対し反感を持つに至っていたことは認められるし、また、菊井が過去の行動に対し反省しているのかどうか及び反省の程度について疑問がないとまですることはできない。むしろ、被告人に対する菊井の反感の激しさは、かえって報復として虚偽の供述をする動機ともなり得ると考えられ、また、被告人らの中には菊井をピース缶爆弾事件の共犯者として捜査段階で供述している者が少なくないところ、それが虚偽であるとしても一旦は菊井を巻添えにした自白をして菊井自身に対する刑事責任の追及の危険を生じさせたのであるから、菊井が本件公判で虚偽の証言をするについての心理的な抵抗感を少なからしめたという事情も存するものと解することもできよう。
b 菊井は朝霞事件により懲役一五年(未決通算一八九五日)という長期間の刑を宣告されて受刑中の者であり、受刑生活の苦痛からの早期の解放を強く希望するあまり、検察に協力することによって行刑上何らかの有利な取扱いを受けられるのではないかとの期待感も加わって、あえて事実に反する証言をすることもあり得ることと考えられる。
c さらに、菊井の性格等について見ると、菊井証言から認められる菊井の過去の言動(朝霞事件などの捜査段階での菊井の供述内容、菊井が週刊誌の記者のインタビューに応じていることなど)及び法廷での供述態度から見ると菊井はいわゆる自己顕示性の強い性格であることが窺われ、さらに、長山証言によれば菊井に転向したのかと尋ねると強く反発して来る態度を示したというのであること、法廷での供述態度、菊井は武装闘争を肯定して朝霞事件を引き起こすという活動歴を有していること等から見ると、菊井は激しい性格と考え方の持主であることが窺われるのであって、このような性格、考え方を持つことが窺われる者の証言の一般的な信頼性には疑問の存するところといわざるを得ない。菊井には被告人らに対する激しい反感が認められ、また、右のような行刑上の期待感も否定し難いことをも考え合わせると、あえて虚偽の証言をする動機が存在する可能性についてはこれを否定し去ることはできないのである。
d 菊井がピース缶爆弾の製造を認める供述をすることは自分自身にとっても不利益が及ぶ虞れのあることである。自己に不利益な事実を述べる場合は、一般的にはその供述の信用性は高いものということができよう。ところで、菊井も前述のようにピース缶爆弾の製造について認める供述をすれば起訴されるのではないかとの不安があったが、起訴されれば責任をとらなければ仕方がないという気持であった旨証言する(公判期日外尋問・一五四冊五二二五二丁以下)。しかし、菊井は昭和四八年当時の取調の結果同事件について不起訴となったことを知っていたこと、長山検事が昭和五四年五月以降に菊井を取り調べた際も菊井が同事件につき不起訴となっていることを告げて参考人として取り調べていること、菊井54・7・10検面も参考人供述調書であること、菊井は当初「本件についてはけりがついている。参考人として取り調べられたのであり、被疑者ではないのは当然である」旨証言していたこと(五部九六回公判・証六五冊一六三四一丁)から考えると、菊井は本件ピース缶爆弾の製造を認める供述をする際には供述の結果自分が起訴されることはまずないことであろうと考えていたものと認められる。すなわち、右公判期日外の証言は、言葉どおりには信用し難いものである。また、右に述べたように、この点に関し、菊井が証言を変更したのは、五部及び当部各公判における証言の過程で弁護人等の質問を受け、起訴されないと思っていたということでは自分の供述の信用性を判断される際に不利な材料になる虞れがあると思い至ったためではないかと疑われるところである。
e 以上に述べたところからすれば、菊井が事実に反する証言をするに至る動機が十分に存するということはいえないにしても、そのような動機がないとすることもまたできないであろう。
(3) 結論
以上に検討して来たところを総合すると、菊井は被告人らに対する反感や、検察に協力することによって行刑上何らかの有利な取扱いを受けられるのではないかとの期待を持ち、自己に不利益が及ぶことがないとの安心感もあったため、昭和四八年にピース缶爆弾製造事件について取調を受けた経験や検察官の冒頭陳述書の抜書等の入手によって得た知識、その他被告人らとの文通、パンフレット、昭和五四年五月以降長山検事の取調を受けた際の同検事とのやり取り等を通じて得た知識を基に自己の想像も交えて、虚偽の供述をするに至ったとの疑いを完全に否定し去ることはできないのである。
九、石井、被告人江口及び平野のアリバイの検討
(1) 石井のアリバイ
Ⅰ 弁護人は、石井は昭和四四年一〇月九日は午前九時から午後五時まで、又は午後一時ごろから午後五時まで、同月一一日は午前九時から一二時まで、同月一三日、一四日、一五日、一六日はそれぞれ午前九時から午後五時まで、国電浅草橋駅近くにある日本プラスチック玩具工業協同組合(以下、「協同組合」という。)にアルバイトとして勤務していた旨主張し(弁論要旨・一五八冊五三一九九丁以下)、検察官はこの主張は理由がないと反論している(論告要旨一〇〇頁以下・一五六冊五二八四四丁以下)。そこで、検討すると、以下に述べるとおり、弁護人の右主張は成立する余地がある。
(ⅰ) 協同組合の同年九月及び一〇月の伝票、領収書等綴二冊(証一六一号及び一六二号)によれば、石井のアルバイト料に関する伝票及び領収書各七枚の存在が認められる。
a その記載内容は、左の表のとおりである。
石井ひろみのアルバイト料関係の出金伝票及び領収書一覧表
番号
出金伝票
領収書
日付
金額(円)
明細
日付
金額(円)
明細
1
44・9/6
二、四〇〇
アルバイト料9/5、6分
@一、二〇〇
44・9/6
二、四〇〇
アルバイト料
2
44・9/16
七、二〇〇
9/8~9/13アルバイト料
44・9/18
七、二〇〇
9/8~9/13アルバイト料
3
44・9/20
六、〇〇〇
アルバイト料9/16~20
@一、二〇〇
44・9/20
六、〇〇〇
アルバイト料
9/16~20
4
44・9/29
三、六〇〇
アルバイト料9/21~9/27
@一、二〇〇 三日間
44・9/27
三、六〇〇
アルバイト料9/21~9/27
5
44・10/4
四、二〇〇
アルバイト料@一、二〇〇×三・五
44・10/4
四、二〇〇
アルバイト料9/27~10/4
6
44・10/11
六、九一〇
アルバイト料四・五×@一、二〇〇(五、四〇〇)
〃 残業一八八×八(一、五一〇)
44・10/11
六、九一〇
アルバイト料
7
44・10/18
七、二〇〇
アルバイト料10/11~18
44・10/18
七、二〇〇
アルバイト料10/11~10/18
備考 @は「単価」の意。
b 右伝票及び領収書については証人藤川高(二六五回・一四六冊五〇〇七八丁)、同牧野伸一(刑事五部一一一回・証八一冊二〇一五五丁)、同深江玲子(二二六回・一一七冊四二三五一丁)が昭和四四年九月及び一〇月当時の協同組合の業務の通常の過程で作成されたものであることを認め、右各伝票及び領収書に押捺されている証人藤川の印影(決済印)について同証人は同印鑑は常に自分が所持し他の者に保管させ、押捺させたことはない旨証言しており(二六五回・一四六冊五〇一〇一丁以下)、右領収書中には石井の印がないもの等があること、証人牧野が右伝票等綴を発見するに至った経緯につきやや不明確な点があるなど若干の疑問もないではないが、右伝票及び領収書が偽造されたものではないかとの疑いを抱かせるに足りる証拠はない。また、右伝票及び領収書の記載は協同組合の昭和四四年度の元帳及び金銭出納帳(証一六三号及び一六四号)の記載に一致し、右元帳及び金銭出納帳についても証人藤川(二六五回・一四六冊五〇〇八七丁以下及び五〇〇八九丁以下)、同牧野(刑事五部一一一回・証八一冊二〇一四八丁以下)及び同深江(二二六回・一一七冊四二三六四丁以下)が昭和四四年当時の協同組合の業務の通常の過程で作成されたものであることを認め、右元帳及び金銭出納帳に押捺されている証人藤川の印影について同証人は前記伝票及び領収書に押捺されている印影についてと同旨の証言をしており(二六五回・一四六冊五〇一〇一丁以下)、右元帳及び金銭出納帳の記帳の外観等に若干の疑問もないではないが、これらが偽造されたものではないかとの疑いを抱かせるに足りる証拠はない。
(ⅱ) 前記伝票及び領収書の記載中アルバイト料の計算として〇・五日分の記載の意味については、証人牧野は「午前中休み午後から出勤したような場合である。早退は許さない」旨証言しており(五部一一一回証八一冊二〇一六八丁以下)、同証言を排斥しなければならない理由はないが、ただ、同証人も確実な記憶があるわけではないであろうから、場合によっては早退した場合に右のようなアルバイト料の計算がされたということもあるかも知れない。証人石井は土曜日に正午まで働いた場合に〇・五日分として計算された旨証言するが(一八〇回・八六冊三二六九三丁)、石井は約一〇年前に約二か月足らず協同組合でアルバイトをしただけであること並びに証人牧野の右証言に照らし信用できない。
(ⅲ) 勤務時間については、証人藤川(二六五回・一四六冊五〇〇五八丁以下)、同牧野(五部一一一回・証八一冊二〇一一七丁)、同仁瓶(二六五回・一四六冊四九九九二丁以下)、同深江(二二六回・一一七冊四二三四四丁以下)及び同石井(一八〇回・八六冊三二六九二丁以下)の各証言により、平日は午前九時から午後五時まで、証人牧野、同仁瓶及び同深江の右各証言により土曜日は午前九時から午前一二時までと認められる。土曜日の勤務時間に関する証人藤川の証言は右認定に反するが実質的には異ならないと見ることができ、石井の右認定に反する証言は証人牧野らの証言に照らし信用できない。
(ⅳ) 日曜、祭日の出勤の有無については、証人牧野の証言(五部一一一回・証八一冊二〇一二五丁)によれば休日にアルバイトが出勤することはないというのであり、証人石井も日曜、祭日は出勤しなかったように思う旨証言する(一八〇回・八六冊三二七七七丁)。証人牧野の右証言によれば休日出勤は五割増の計算で手当てを支給するというのであり、前記伝票及び領収書には休日出勤手当てが支給された記載はない。なお、協同組合の残業許可簿(証一六六号)にも昭和四四年九月及び一〇月に休日出勤があったとの記載はなく、その他の年度分を含めた記載全体を見ても休日出勤の記載はごくわずかである。右残業許可簿については記載状況が雑で、牧野がこれを発見するに至った経緯についても疑問がないではないが、証人藤川(二六五回・一四六冊五〇〇七三丁以下)、同牧野(五部一一一回・証八一冊二〇一五四丁以下)及び同仁瓶(二六五回・一四六冊五〇〇〇〇丁以下)が協同組合の業務の通常の過程で作成されたものであることを認め、右許可簿に押捺されている証人藤川の印影については同証人は前記伝票等に押捺されている印影についてと同旨の証言をしているのであり、少なくとも右藤川の印影のある記載部分についてはこれが偽造又は変造されたものではないかとの疑いを抱かせるに足りる証拠はない。以上に述べたところに照らせば、石井が休日に出勤した可能性はほとんどないものと見てよい。
(ⅴ) 前記昭和四四年一〇月一一日付出金伝票中の「アルバイト料残業一八八×八(一、五一〇)」との記載については、前記残業許可簿の「石井が同年九月一一日午後五時から六時まで、同月一二日午後五時から八時まで、同年一〇月七日午後五時から八時三〇分まで合計七時間三〇分残業した」旨の記載(端数切上げで八時間とする。)に符合する。
(ⅵ) 石井が勤務時間中協同組合の職員に気づかれることなくほぼ午後一杯抜け出すということは、協同組合の事務室の状況及び石井の仕事内容(五部一一一回証人牧野の供述・証八一冊二〇一一六丁以下)に照らし、考え難い。
(ⅶ) 石井48・1・29員面には「昭和四四年九月初めから一か月くらいアルバイトをした」、48・3・14員面には「協同組合のアルバイトが忙しくL研メンバーとの交際は薄れた」、48・3・18員面には「同年一〇月下旬ごろまで一日一二〇〇円のアルバイト料で協同組合でアルバイトをした」旨の供述が録取されており、石井は捜査段階から協同組合でアルバイトをした旨述べていたものである。
(ⅷ) 昭和四四年一〇月一四日付、一六日付及び一七日付平和相互銀行普通預金払戻請求書(証一〇四号ないし一〇六号。石井は自分が作成したものである旨証言し((一八一回・八六冊三二八二七丁以下))、他に反対証拠はない。)によれば、石井は同月一四日に平和相互銀行浅草橋支店から金二、〇〇〇円、同月一六日に同銀行八重洲口支店から金三、〇〇〇円、同月一七日に同銀行浅草橋支店から金一、五〇〇円を引き出していることが認められる。同銀行浅草橋支店は協同組合の近くにあり、同銀行八重洲口支店は協同組合の展示会が開かれた東京都大手町所在の産業会館(二六五回証人仁瓶の供述・一四六冊五〇〇一八丁)の近くにあるから、石井は同月一四日、一六日及び一七日に協同組合のアルバイトをしたことに沿うものである。
以上に述べたところを総合すると、前記弁護人の主張は成立する余地がある。但し、昭和四四年一〇月九日については石井が早退したとの可能性は若干残る。そこで、爆弾製造日と石井のアルバイトが矛盾しないのは同月一〇日、一一日午後及び一二日であり、矛盾しない可能性が残るのが同月九日ということになる。しかし、同月九日、一〇日及び一一日午後については菊井の証言と相違するし、被告人らの自白との相違も大きい。同月一二日については被告人らの自白との相違が大きい。
Ⅱ 爆弾製造日に関する菊井の証言を基準にして石井のアルバイト状況を検討すると、菊井の証言によれば爆弾の製造日は昭和四四年一〇月一二日から一八日までの間ということになるが、前記Ⅰで見たように石井は同月一三日から一八日まで協同組合でアルバイトをしていたと見る余地があり、菊井の証言と石井のアルバイトが矛盾しないのは同月一二日と同月一八日の午後だけである。同月一八日とすると京都地方公安調査局事件の発生日時との関係で矛盾が生ずるし、同月一二日とした場合の疑問点は右に述べたとおりである。
Ⅲ かりに、石井が休日(同月一二日)に出勤した可能性があるものとして検討して見た場合、石井が平和相互銀行浅草橋支店から預金を引き出した同月一四日、一六日及び一七日を除くと、爆弾製造日が石井のアルバイト及び京都地方公安調査局事件の発生日時と矛盾しないのは同月一三日及び一五日であるが、同月一五日については京都地方公安調査局事件との関係で同事件発生日時とは矛盾しないまでも不自然さが残り、同月一三日は被告人らの自白との相違が大きい。また、同月一五日については、つぎに述べるように江口が国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室において少なくとも同日午後一杯実験作業に従事していたものと見る余地があり、江口についてアリバイが成立する余地があって、疑問が残る。
Ⅳ このように石井についてアリバイ成立の余地を認めることについては、石井が刑事二部七回公判、刑事五部及び当裁判所各公判を通じ、自己のアリバイを主張することもなく、レポの目的はともかくとして、レポをしたこと自体は一貫して認めていることをどのように考えるかという問題があるが、この点についてはすでに述べたとおりである(本節五(3)(ⅳ)bc参照)。
(2) 被告人江口のアリバイ
弁護人は、江口は昭和四四年一〇月九日及び一五日の両日はそのころ通勤していた国立ガンセンター化学療法部の研究室においてほぼ終日実験作業に従事していた旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三二二一丁以下)。そこで検討すると、大学ノート(表紙に「4NAQ及び4HAQOのEhrlich cell殺cell効果江口良子」との記載があるもの。証二八二号)には江口が同月九日及び一五日に実験作業に従事したものと読み取ることのできる記載があり、証人川添豊の証言(二八三回・一五四冊五二一三一丁以下)によれば、右ノートは右研究室の室長であった同証人が昭和四五年二月ごろに江口が右研究室を退職する際に江口から預かり、以後昭和五七年二月ごろまで保管していたものであることが認められ、その他同証人が述べる昭和四四年当時の江口の勤務状況を併せて考慮するときは、弁護人の右主張は成立する余地がある。
(3) 平野のアリバイ
弁護人は、平野博之の証言を援用し、同人には昭和四四年一〇月一四日から同月一八日までの間につきアリバイがある旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三二二三丁以下)。
二四一回証人平野の供述(一三〇冊四五八三三丁)によれば、「自分は、昭和四四年一〇月一四日は杉並区荻窪の下宿先から新宿区柏木のアパート糟信荘に引越しをし、終日荷物の整理をしていたものであり、同月一五日は午前中東薬大の授業に出席し、午後は東薬大社研の者らを糟信荘の自室に呼んでおり、また、同月一五日から一八日までは連日、同月二一日の国際反戦デーのために立看板やビラを作っていたと思う」というのである。しかし、この供述は確かな裏づけを欠くものであって、にわかに信用し難く、結局平野のアリバイを認めることができない。
一〇、結論
以上に詳述したように、被告人らのピース缶爆弾製造事件に関する各自白及び菊井の証言の信用性には結局疑問が残り、増渕、前林、堀及び江口が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずることはできず、犯罪の証明がないものである。
第五章自称真犯人の証言の検討
最後に、本件公判において、自分が真犯人であると名乗り出た者らの証言について、ここでまとめて当裁判所の検討の結果を明らかにしておくことにする。
第一節牧田証言の信用性の検討
弁護人は、証人牧田吉明が証言するとおり、ピース缶爆弾は牧田らが製造したものであって、被告人らが製造したものではない旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三一六八丁以下)。そこで、以下、同証人の供述(「牧田証言」という。)の信用性について検討する。
一、牧田証言の要旨
二六六回・二六七回・二七一回・二七二回証人牧田吉明の供述(一四七冊五〇一九六丁・一四八冊五〇三八二丁・一五〇冊五〇九六七丁・同冊五一一七二丁)の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四〇年成蹊大学文学部に入学し、昭和四二年五月退学処分を受けて退学したが、在学中及び退学後も学生運動(闘争)に関係して来た。
「自分は、昭和四四年の夏ごろから爆弾を作ることを考え始めた。それは同年の秋季決戦、権力の部隊との闘争に使うためである。そして、友人の三潴末雄(以下『三潴』という。)に相談した。同人はその成城大学在学当時からの友人で、同様に闘争に関係して来た者である。三潴は一緒にやろうということであった。自分と三潴の間の話として、自分らが作った爆弾は、大雑把にいえば、赤軍派、アナーキスト、ブンド(共産主義者同盟)系の党派というような、爆弾でも何でも使って徹底的に闘いそうな方面に渡そうということが決まっていた。もちろん情勢次第によっては自分らが使うこともあり得ると考えていた。その段階では、自分らの作る爆弾をピース缶爆弾にしようということまでは決まっていなかった。爆弾製造をするメンバーには、三潴が、やる気もあるし、口も堅い、適当な者がいるといって手引きをして、東京農工大学の学生桂木行人(以下、『桂木』という。)ほか二名が参加することになった。その二名の氏名は明らかにしたくない(以下、本節において『A』及び『B』と呼ぶ)。自分は桂木とは前から知り合っていたが、A及びBの名前と人物を意識して両名と会ったのは、今の記憶では、後述の昭和四四年九月に奥多摩方面へダイナマイト入手の下見に行った時が最初でなかったかと思う。自分、三潴、桂木、A及びBの五人が揃って爆弾製造について打合せをしたということはなかったんじゃないかと思うが、自分、三潴及び桂木の三名で打合せをしたことは何回かあった。その打合せで、材料入手の問題を話し合ったほか、製造場所として多摩地区にアジトを設定すること、作る爆弾は手りゅう弾型とすることなどを了解し合った。自分は、その当時、アルバート・バーヨの『ゲリラ戦教程』とか、日本共産党の極左時代の教科書の『栄養分析表』の復刻とかを読んでいて爆弾について多少の知識は持っていた。三潴と桂木も少なくとも自分と同程度の知識は持っていたと思う。爆弾の材料としては、工業用のダイナマイト、雷管等が安定性があって良いと思っており、このことは三潴、桂木に話したことがあると思う。そういう材料は、山の林道工事現場などが一番入手しやすい場所だと思っていた。自分は、中学生当時から山登りをやっており、何回もそういう林道工事現場には行っており、山登りの途中に発破音を聞いたこともあり、小さい火薬庫だとか、発破注意の標識も何度か見たことがあったからである。そこで、自分は、山の林道工事現場や採石場等から材料を入手しようと考えたのである。このことを、他の人々と相談したこともあったと思うが、いつどこでしたのか、記憶に残っていない。
「そういうことで、自分たちは、まず、東京都奥多摩の日原川上流方面に偵察に行った。自分は、中学、高校の頃から山登りをやっており、その方面で林道工事が行われることがあるのは知っており、登山の雑誌を見れば情報が出ているから、当時この雑誌によって工事をやっていることは当然知っていたものである。偵察に行った時期は、後述の材料窃取の日(昭和四四年九月一五日か二三日)より一週間以内前のある日であったと思う。偵察に行った者は、自分、三潴、桂木、その時乗って行った自動車(日野コンテッサだったと思う。)の所有者(自分の学校の後輩である。)のほかに、A又はBのどちらかだったと思うが、AもBも参加していなかった可能性もあり、はっきり記憶にない。自分たちは、まず五日市周辺の採石場の近くに行き、つぎに氷川のあたりから日原川沿いの林道に入り、日原の部落を過ぎた先で日原川は小川谷という支流と分かれるが、その支流の方には行かないで、本流に沿って未舗装の道路を自動車で三〇分ぐらい進んだが、そこが大体林道工事現場の先端であった。そこに着いた時刻は午後でまだ明るかった。そこで自動車を降りぶらぶらしながら一応偵察はした。火薬類等の所在は確認しなかったが、その付近にあるのではないかという感触は得た。火薬類の在り処を探してみることをしなかったのは、その日は事情を知らない人(自動車の所有者)もいるから、あまり露骨にやると話が洩れる虞れがあったからである。そして、小川谷との出合いまで戻り、小川谷に沿った道にもちょっと入ってみたが、奥の方の林道工事の先端部までは行かないで、時刻も遅くなったので帰った。
「その後、日原川本流の林道工事現場に火薬類を盗みに行った。その日は、昭和四四年九月の連休又は飛び石連休のどちらかのあとの方の休日であった。暦によると、同年九月一四日が日曜日、一五日が敬老の日であり、二一日が日曜日、二三日が秋分の日であるから、自分らが盗みに行った日は九月一五日か二三日のいずれかであったと思う。このような連休のあとの休日を狙ったのには二つの理由がある。一つは、休日には人々が山の中に大勢入っているから逆に怪しまれないだろうし、また、あとの休日の決行時には人々は下山してしまっているから人目につきにくくなるからである。他の一つは、休日には林道工事現場も休みとなり、しかもその休日の前に休日明けの作業に使うために火薬類を火薬庫の中に入れて置くことがよくあるからである。自分の見聞では、林道工事は天気が悪い時に休むもので、天気が良ければ休日でも休まないものだとは思わない。突貫工事ででもない限り、休日には休むものと思う。自分たちが火薬類を盗みに行ったのは、このような理由で連休又は飛び石連休のあとの方の休日(すなわち、九月一五日又は二三日)を選んで行ったのであって、そのどちらかの日であったことはほとんど断言してもよいと思う。
「火薬類の盗みの際に乗って行った自動車は、偵察の時と同じ自動車で、自分が所有者から借りたのである。盗みに行った者は、自分、三潴、桂木のほかに、A及びB両名とも参加していた記憶が強いが、そのうち一人(後述のように自分と一緒に火薬類窃取の行為をした者をAとするが、同人でないB)は参加していなかったかも知れない。
「このようにして自分たち五名又は四名は、偵察の時に行った日原川林道を、小川谷との出合い地点を過ぎて本流に沿って進み、天祖山登山口の所で自分及びAが下車した。しかし、この時も、偵察の時に行った、工事の行われている林道の先端部まで自動車で一度行き、引き返して来たんじゃないかとも思うが、あるいはこの時は先端部までは行っていないかも知れない。いずれにしても、自分とAは天祖山登山口で下車し、そこから林道を通らずに徒歩で登山道を通って林道を迂回して林道の先端部方面に向かった。残りの三潴ら三名又は二名は自動車で引き返し、小川谷方面へ向かった。自分とAが天祖山登山口を出発した時は、まだ明るさは残っていたが夕刻に近い時刻であった。登山者が帰ってしまう時刻を選んだわけである。その時の自分の履物は登山靴か、ハイキングシューズみたいな軽登山靴かであり、Aのそれは登山靴か運動靴かでなかったかと思う。自分の仲間の中に地下足袋を履いていた者はいなかったと思う。ヘッドランプ、針金類切断用の番線切り、雨具などは、持って行って使ったという記憶はないが、当然持って行ったであろうと思う。
「このようにして自分とAは、天祖山登山口から右に折れて登山道を登って行ったが、その登山道は山の中腹において左下の林道と平行に、いわば等高線を通っているもので、自分らはそれを歩いて行った。林道を歩くのを避けたのは、人と会うのを避けようとしたからである。その登山道を一時間以上一時間半ぐらい歩いた後、左へ折れて林道へ下りる道があり、それを下りて林道に出た。その下り道を歩いた時間は五分ないし一〇分ぐらいであったと思う。その林道に出た地点は、林道の先端部、すなわち林道工事現場から一〇〇メートルないし三〇〇メートルぐらい手前であった。登山道から林道へのこの下り道のあることは偵察の時にわかっていた。五万分の一の地図に出ていた道であり、偵察の時に登山道のどの辺にあるのか、大体測定していた。そして、実際その下り道を下りて来ると、工事現場の近くに出たのである。その時は真暗になる直前の明るさであった。下り道を下って林道に出てから、林道を日原川の下流の方向に(すなわち工事現場とは反対方向に)数十メートル(ないし一〇〇メートルから二〇〇メートルぐらい)歩くと、右側に谷川の方に向かう右斜めの下り道があり、その下り道を何十メートルも行かない所に一つの火薬庫があった。自分は、もともと工事現場の近くの地形上、その付近の下りになっている場所に前線火薬庫があると考えていた。これはいわば勘と確信からそう思っていたものである。登山道から下り道を下って林道に出た地点から林道を上流方向に歩かないで下流方向に歩き、右斜めへの下り道を下りたものであるが、この下り道はその時に初めて見つけたのか、あるいはこの下り道があるということ、ないし上流方向には下り道はないということを、偵察の時、あるいは窃取の当日自動車で一度工事現場付近まで行ったとしたならばその時、調査して知っていたのかどうかは、確かな記憶はない。いずれにしても右のように林道を下流方向に歩いて最初に見た下り道を右のように下ると火薬庫があったのである。
「火薬庫への下り道は斜面にあったが、火薬庫のある所だけは平坦になっていた。火薬庫は、横幅一メートルないしそれ以下、高さ一メートル数十センチ、奥行一メートル数十センチぐらいで、両勾配の屋根があり、犬小屋のような形であって、木製であるが、周囲を薄い鉄板様のもので覆ってあった。火薬庫の周囲には鉄条網などの柵はなかったと思う。それがあったという記憶はない。持って行った切断機で鉄条網や番線を切ったという記憶はなく、むしろはっきりなかったといえる。火薬庫には鍵がかかっていたが、自分とAが火薬庫を持ち上げると、その下に鍵が隠されているのが見つかった。自分はそこに鍵が隠されていたのを知っていたわけではないが、人間はよくそんな所に物を隠すものであるから、その時も火薬庫を持ち上げて探してみたわけである。
「その鍵で火薬庫の錠前をあけた。シリンダー錠か、南京錠かそういった類の錠前であった。自分らが火薬庫を発見した時の時刻は真暗になる直前であった。その時ヘッドランプはつけていなかったと思う。火薬庫の中を見る際もヘッドランプをつけた記憶はない。つけたかも知れないが、つけると人に見られるかも知れないので、つけなかったという気もする。一応物のシルエットはまだ見えるぐらいの明るさはあったと思うので明りをつけなかったような気もするのである。火薬庫の中は棚とか仕切りとかはなかったと思う。自分とAは、火薬庫の中からダイナマイト、工業用雷管、電気雷管及び導火線を盗んだ。
「ダイナマイトは、二二・五キログラム入りのダンボール箱一箱を盗んだ。新品で、一本も使われていなかった。このことは、その時でなく、多分あとになってと思うが、確認している。ダンボール箱の大きさは縦横高さそれぞれ四〇センチメートル、三〇センチメートル、二〇センチメートルぐらいではなかったかと思う。工業用雷管はボール紙の小さな箱に入っていた。その雷管が何個あったのかはわからないが、沢山あったといえる。電気雷管は、透明のポリ袋の中に十数個ないし二〇個ぐらいばらばらに入れてあったと思う。導火線は、一巻の輪で、ロープを輪にするように、芯などはなく、直径四、五〇センチで、五ないし一〇巻きの輪に巻かれており、入れ物には入っておらず裸のままであったような気がする。
「自分たちは、桂木の所有物であったと思うが、登山用のキスリングザックを用意して来ており、その中にダイナマイトの入ったダンボール箱を入れた。導火線も入れたと思う。雷管は同ザックの横についているタッシェ(小物入れ)に入れたと思う。そのザックはAが背負った。自分もサブザックを背負ったかも知れないが記憶はない。そして、来た時と同じように、林道に出て、もう一度登山道を登り直して、それを通って天祖山登山口に出た。登山道を通る時はもう真暗であったが、ヘッドランプを使って歩いたという記憶はなく、月が出ていたという記憶もはっきりはない。しかし、ヘッドランプを使ったかも知れない。登山口に出て、そこで三潴、桂木らと落ち合ったが、そこには同人らが先に着いたという記憶である。三潴らは火薬類を盗んで来ていなかったが、これは多分時間の関係で小川谷林道の先端部まで行けず、見つけられなかったのだと思う。
「自分ら五名又は四名は、自動車に乗って帰ったが、自分は、途中どこかで下車して別れた。盗んで来たダイナマイト等は、三潴が所沢アジトに運んだと思う。所沢のアジトというのは、埼玉県所沢市にある在日米軍所沢兵站センターの東側にある『こぶし団地』(この名称は最近同アジトの所在場所を探しに行った時に知った。)の中の一軒(二階建)であり、当時は三潴のシンパであった人の所有で空き家になっていたと思う。自分は火薬類窃取の数日後に三潴に案内されてそのアジトに行き(同アジトに行ったのはその時が初めてである)、自分らが盗んで来たダイナマイト等が置かれているのを見た。当然ダイナマイトの箱を開いて中を見たと思う。ダイナマイト一本が確か一〇〇グラムであったことを何となく覚えている。総量で二二・五キログラムだから、二二五本になるわけである。ダイナマイトはいくつかに分包されていたという記憶である。ダイナマイトの表示として『桐』という字がどこかに書いてあったと覚えている。工業用雷管の箱も、はっきり記憶にないが当然そこにあったはずである。工業用雷管は、その後爆弾製造の過程で見ているが、ボールペンよりも一まわり細い円筒形で、長さは大体二・五センチ、銅の地金色をしていた。同様に電気雷管も見ているが、工業用雷管よりもやや長く、先端に細いコードが二本付いており、色は同じ銅の地金色である。ダイナマイトは六本ないし八本ぐらいごとに分包され、一本のダイナマイトは白っぽい油紙で包装されており、その油紙に『桐』という字があったのだけは覚えている。
「その後ダイナマイト等は東小金井のアジトに移されたが、それは所沢アジトに運び込まれてから一週間以内に三潴が移したものと思う。移したことに自分が関与した記憶はない。東小金井のアジトというのは、国鉄中央線の東小金井駅の南口周辺にあった古い木造平屋一戸建の、都営住宅のような建物(玄関につながった部屋のほかに少なくとも和室がもう一つぐらいあった。)であり、爆弾の製造場所として設定したものであるが、三潴が誰かシンパの名義を使って不動産屋を介して借りたものであって、借りた時期はダイナマイト等の窃盗よりも後であったと思う。自分は、東小金井のアジトについての記憶ははっきりしていない。同アジトの家を借りた日というか、家具類などの荷物を運び入れた日に行ったほか二回ぐらいは行ったと思うが、具体的にどうだった、こうだったということは思い出せない。その行った時に爆弾材料や作った爆弾を見ているかどうか、はっきり記憶はない。行った以上は見ているだろうということである。
「ところで、製造する爆弾の缶体を何にするかということは、自分らの間で話をして、煙草のピースの缶にしようということが決まった。その話が出たのはダイナマイト等を盗んで来たのより後である。ピースの缶にしようと言ったのは桂木じゃなかったかと思う。自分の提案ではない。ピースの缶にすることには特に反対の意見はなかったが、問題点として蓋をどのようにして固定するかという点があり、ビニールやガムテープで縛るとか接着剤を使うという話が出たと思う。缶の中にはダイナマイトを入れるわけであるが、パチンコ玉を入れようということになった。それを言い出したのは自分だと思う。ベトナム戦争における米軍のボール爆弾に対するパロディーとして考えたものであるが、破壊力を高めるためということも当然あったと思う。ピースの空缶、パチンコ玉の入手ははっきり覚えていないが、基本的には、技術の方を担当した桂木、A及びBの三名(技術グループ)がやることになったと思う。自分もピースの缶を集めたことがあっても不思議ではないが、はっきり覚えていない。またグループの中の何人かで新宿の三越の近所のパチンコ屋で一斉にパチンコをした記憶があるので、自分の玉も混ぜてその時のものが使われたんじゃないかなと思うが、ひょっとして別の機会のものかも知れない。そのパチンコ屋の名前が『新宿ゲームセンター』であるということは、あとでおそらく自分の京都地裁でのピース缶爆弾関係事件の時の調書か何かを読んで知ったんじゃないかと思う。自分は、東小金井アジトでの爆弾製造の現場は見ていない。自分は(直接製造するグループではないので)同アジトにはあまり立ち寄らないという暗黙の了解があったのである。桂木らから爆弾が出来たという報告は受けている。爆弾製造時の状況については、はっきり思い出せないが、ある程度は聞いていると思う。桂木からのその時の話だったか、あとから聞いた話であったかはっきりしないが、ダイナマイトはやわらかく加工しやすいもので、甘い味がするという話は何となく覚えている。自分らの間で爆弾のことを『まんじゅう』とか『アンパン』、ダイナマイトを『あんこ』、雷管を『へそ』、導火線を『ひも』といった隠語で呼んでいた。
「製造された爆弾の個数は五〇個以上一〇〇個以下である。自分は数を数えたことはない。五〇個以上一〇〇個以下ということは、製造後に材料が三分の一ないし半分ぐらい残ったことから類推するのと、後述の配付した爆弾の数の合計が大体そのぐらいになるんじゃないかという記憶があるからである。自分は、おそらく東小金井のアジトで製造された爆弾を見ていると思うが、使う寸前の状態のものはおそらく見ていないと思う。大体、自分たちは、雷管と導火線を缶の中に挿入しないで、それらを別々にしたまま配付先に渡すことを前提にして製造したからである。すなわち、ピース缶の本体に火薬(後述の塩素酸カリなど)、ダイナマイト、パチンコ玉を詰め、缶の蓋に穴をあけ蓋をし、蓋がとばないようにビニールテープやガムテープでとめておくまでが自分たちの仕事で、雷管と導火線は装填せず、配付する時に別に渡すわけである。装填しなかったのは暴発等の危険性を考えたためである。
「爆弾は、あらかじめ注文を受けるということなく見込み生産で製造したが、注文があって作り足したということもあるかと思う。すなわち、自分らの方でいずれ他に配付しようという意図で製造し始めたものである。爆弾の材料には、盗んで来たもの以外に塩素酸カリとか砂糖とかの増量剤を使った可能性が全くないとは思われない。桂木は当時東京農工大の学生であり、実験室あたりから塩素酸カリを取って来ることができるという感じがあるからである。自分らの中でそういった増量剤を使うことに関する話はどこかでしていると思うが、それは実際に増量剤を使おうという話ではなく、その話をしたという記憶はない。ダイナマイト、雷管及び導火線については、自分らが盗んで来たもの以外のものを使ったということはない。自分が塩素酸カリを手に入れて来たということはない。
「爆弾と残りの材料は、約三週間か一か月ぐらいの間に下北沢(世田谷区内)のアジトに移した。その輸送には自分は立ち会っていないと思う。そういう実務的な関係は、三潴が取り仕切っていた。下北沢のアジトは、自分も何回か行ったが、一階が事務所で二階がアパートという建物(部屋は六畳と台所ぐらい)であった。三潴が多分シンパの人を使って借りたものと思う。なお、東小金井アジトで爆弾製造をした後は、もう爆弾製造はしていない可能性の方が強いと考えている。下北沢のアジトに爆弾等を搬入したのは一〇月中旬ぐらいだったと思う。
「爆弾製造等に関する費用、たとえば、アジトの借り賃、タクシー代や後述の京都に行った時の新幹線の料金等の交通費、グループ内の者らの打合せや後述の爆弾の渡し先との打合せの費用、アジトの家具を買ったりする費用、メンバーの色々な活動費などは、自分が負担した。
「後述する大村寿雄に爆弾を渡した時点で、ダイナマイトとパチンコ玉を入れた缶体が何個ぐらい出来上っていたかはわからない。また、後述する田辺繁治に爆弾が要るかと打診した時点、これに対し田辺から爆弾が欲しいという返事があった時点、さらに田辺から爆弾を沢山欲しいという連絡があった時点でそれぞれ右缶体が何個ぐらい出来上っていたかもはっきりわからない。田辺からの右連絡により赤軍派に第二回目に渡す前に爆弾を作り足していることは、あり得るかも知れないが、詳しいことはもうはっきりわからない。
「ところで、自分らは、製造した爆弾を、まず京都の大村寿雄(以下、『大村』という。)らのアナーキスト・グループに渡したことがある。大村は京都の人で関西のアナーキストのグループと一緒に活動しており、自分は同人と昭和四三年秋かもう少しあとに京都で知り合った。桂木は大村と昭和四四年の夏に知り合ったと思うが、その前に知り合っていたかも知れない。その大村が昭和四四年の九月末か一〇月上旬に東京の自分の所に訪ねて来て、『爆弾はないか』と尋ねた。その場所は当時自分が借りていた目黒区大橋のアパートであったと思うが、あるいはどこかのホテルであったかも知れぬ。その時は大村一人で来たのかも知れないが、大村は他の者と複数で来ることが多かった。自分は昭和四四年の早い時期から大村と色々な局面で一緒に闘争をやっており、一般的な問題として秋の闘争を武装闘争としてやろうというお互いの確認はついていたので、大村は、自分の所に爆弾があるということは知ってはいなかったが、勘というか、その読みはあったんだろうと思う。大村に渡すことについては三潴が『やばいのではないか』と反対したが、結局大村個人にではなく関西のアナーキスト・グループに渡すことに決め、同年の一〇月上旬に渡した。直接手から手へ渡す方法は取っておらず、多分コインロッカーを使ったんじゃないかと思う。新宿駅のコインロッカーだったと思う。コインロッカーまで爆弾本体(缶体)を持って行ったのは桂木じゃなかったかと思う。コインロッカーの鍵は自分が渡したと思う。その時に、大村には、爆弾は自分らが作ったものだということを言っておらず、赤軍派から来たものだと言ってある。それは、三潴の反対もあったことであるし、念のためにそういう話にしておこう、予防線を張っておこうとしたわけである。渡した爆弾の個数は四個とか五個とかその程度のものだったと思う。直接手渡さずにコインロッカーを使うというような面倒くさいことをしたのは、われわれが製造したのではなく、赤軍派から来たということを特徴づけるためである。
「大村に爆弾本体を渡した一日ないし三日後に、自分と桂木が導火線と雷管を持って新幹線で京都に行ってこれらを渡した。導火線は一本であったが、何メートルであったかちょっと覚えていない。そんなに長くはなかったと思う。雷管は工業用雷管だったと思う。それを何個持って行ったかはっきり記憶はないが、爆弾の数に見合った数だったと思う。以上の爆弾本体、導火線、雷管はいずれも当時まだ東小金井アジトに置いてあったもので、そこから持ち出したものである。導火線と雷管を渡した場所は、京都の東山にドライブウェイがあるが、その頂上の駐車場から若干下った山の斜面である。渡した相手は大村一人だったかどうか、記憶がはっきりしない。誰かほかに一人、二人いたんじゃないかという記憶なんだが、はっきりしない。あるいはそれは別の機会のことかも知れない。なぜそんな所で渡したかというと、人気のない場所で導火線の燃焼実験をしてみるためであり、実際そこで導火線を切って実験をしてみた。燃える速度は、はっきりした記憶はないが、秒速何センチ程度であったと思う。その時に、缶体と導火線雷管とをどういうふうに接続するかは当然教えたと思う。導火線と雷管との接続は、導火線の先端部を雷管の上部に突込んでその雷管の末端をペンチなり口で噛んで締めるということである。缶体と導火線、雷管とを別々に渡したのは、もし東京で一緒に渡すと大村が勝手に使う可能性があるので、大村のグループの人で大村を監視する人たちの手に届くようにして渡そうとしたためである。導火線と雷管を渡した時は、大村のほかに一人か二人はいたと思う。そのうち一人は大体はわかっているが、その人に大村の監視役を期待したのである。その人の名前は明らかにしたくない。京都地方公安調査局でピース缶爆弾が爆発したのが一〇月一七日であるが、渡してから爆発までは一週間から十日近い日にちがあったような気がする。
「自分らが大村らに渡したピース缶爆弾は、右のとおり四、五個である。大村からその中の一個を京都地方公安調査局で投げた(爆発させた)ということを聞いている。残りの爆弾についてであるが、三潴から(琵琶湖で)解体したことの報告を聞いているけれども、解体した個数は一個でなく複数であったという話を聞いており、また、そのほか外に流出した爆弾がある可能性もあるのではないかと思っている(京都のある場所で一個爆発したが、それは表に出ていないという噂がその当時からある)。
「自分らは、つぎに、ピース缶爆弾を田辺繁治(以下『田辺』という。)を介して赤軍の中央軍に渡している。田辺は、当時京都大学文学部の学生で、赤軍派の非公然メンバーであり、同派の国際部に属していた。自分が田辺と初めて会ったのは多分昭和四二年ごろだったと思うが、付き合うようになったのは昭和四三年一〇月に自分が京都に行ってからである。赤軍の中央軍に爆弾を渡すことは、爆弾を作る前から考えており、これについては仲間の者らにも反対はなかった。赤軍の方へは自分の方から話を持って行った。すなわち、自分は、昭和四四年一〇月上旬に、当時田辺の母親が住んでいた東京都渋谷区南平台にある渋谷アジアマンションで田辺に対し『赤軍派には武器はあるのか。自分の方には爆弾があるが、要らないか』旨を話したところ、その後田辺はおそらく赤軍の最高幹部と話をしたのであろうが、爆弾を欲しいという返事をして来た。そこで、自分は、まず、一〇月中旬の前半であったと思うが、右マンションか、あるいは渋谷のある駐車場ビルかで(前者の可能性が強い)、多分三潴も一緒でなかったかと思うが、田辺に、サンプル的に、ピース缶爆弾の缶体四、五個か五、六個と導火線と雷管とを渡した。渡す時かその前後かはっきりしないが、それらのセットの仕方を田辺に説明したことはある。導火線と雷管の接続方法については、大村に渡した時と同様に導火線を雷管の先に突込んでそこを締めること、それだけで心配だったらテープを巻くなり接着剤をつけるなりしたらいいんじゃないかということを話したと思う。接着剤をつけるということは、特にどうしろと言ったのでなくて、軽い気持で接着剤ぐらい付けておいたらというようなことを言ったという記憶である。その時渡した雷管の中に電気雷管が入っていたかどうかはわからない。渡した当時、すでに製造した爆弾を東小金井アジトから下北沢アジトに移していたかどうかははっきりしないが、田辺に渡す爆弾を持って来たのは多分三潴だったと思う。
「その後田辺から爆弾をもっと欲しいという要求が来た。その時何個ぐらい欲しいという個数の指定があったかどうかは、もうはっきり覚えていないが、沢山欲しい、かなりの量が欲しいということだったと思う。そして、この二回目の要求の時も現実に爆弾を渡している。渡すについての相談に関与したのは、自分らの方は自分と三潴、ひょっとしたら桂木も入っていたかも知れない。赤軍の方は田辺だけである。この相談は何回かにわたり直接田辺と会ってしたほかに電話ででもした。渡した時期は、昭和四四年一〇月中旬の後半であり、同月二一日の国際反戦デーの前である。爆弾受渡しの方法は、自分と田辺が受渡しの現場の近くの喫茶店で待機し、その喫茶店を連絡場所にし、赤軍の方で受取部隊を編成し、われわれの方は三潴が荷物(爆弾、導火線、雷管の入っているもの)を作ってシンパの人たちを若干使って自動車で指定された場所まで持って行き、そこに向こう側の受取部隊が自動車で待っており、路上で車と車との間で受渡しをしたというものである。受渡しの場所は、自分は現認していないが、都内の南青山周辺であり、その場所には歩道橋と公衆電話があり、その公衆電話から喫茶店にいる自分らに連絡をとったと聞いている。自分らが待機した喫茶店は、渋谷と六本木の間にあったという以上のはっきりした記憶はない。割合広い道路に面していたが、その道路は、高速道路の下の六車線もあるような広い通りではなかった。喫茶店の名前の記憶はない。店の内装が白っぽかったというぐらいの記憶しかもうない。同店にはその時一度行っただけである。自分と田辺がその喫茶店にいると、三潴と赤軍との双方から、出発したとか手配を完了したとかの電話連絡があり、自分らはそれを中継したわけである。受渡しの時刻は昼間である。昼間に町の真中でやる方が、車と車との間で普通の荷物を渡すようにやるわけであるから、かえって不審がられないだろう、警戒態勢さえとればよいという判断であったと思う。受渡し終了後に三潴がその喫茶店に来たので、自分らも受渡しの終了を知った。
「その、赤軍派に二回目に渡した爆弾の個数であるが、当時ははっきりと覚えていたと思うが、数十個ということであって、正確に何個であったという記憶はもうない。確かダンボール箱二つぐらいにはなったんじゃないかというようなことを三潴から聞いたと思う。箱の大きさまでは聞いていない。数十個であったというのは、まあ五、六〇個と言ったらちょっと多いんじゃないか、二、三〇個と思えばそれよりは多いというぐらいの数十個というあたりではないかという気がする。爆弾を荷作りし運び出すという作業は三潴がした。その時は爆弾はもう下北沢アジトに移してあり、そこから運び出したと思う。爆弾は、缶体と導火線と雷管とを別にした状態で渡した。それらをどういうふうに梱包したか、詳しいことは当時も聞いていないと思う。さきの第一回目及びこの第二回目の各受渡しを通じて、渡した雷管の中に電気雷管も四、五個ぐらいは入っていたと思う。田辺には電気雷管の起爆装置について一応の簡単な説明はしたものと思う。電気雷管というものは時限装置で電気を使ってやるんだというような話は、出たものと思う。もっとも、現在そういう記憶があるわけではない。
「第二回目の受渡しに関与したメンバーであるが、自分らの方は、自分、三潴のほかに、三潴がシンパの人を使ったと思う。桂木についてはちょっとわからない。AとBは受渡しに行っていないはずである。この受渡し当日爆弾をアジトから運び出すについては、自分は多分直接手を出していないと思う。三潴の指導下に行われたということである。使った車の所有者はもう覚えていない。赤軍派の方は、田辺のほか、京大全共闘の議長の小俣某が受取り側のキャップであったということを多分その日のうちに三潴から聞いている。小俣の名は思い出せない。小俣は、当時赤軍派の国際部長か何かの責任者であったと思う。その爆弾受渡しの時の赤軍派のメンバーの中にレポ役として重信房子、遠山美枝子がいたということを、何年か後になって三潴から聞いた。このメンバーの中に小俣、重信、遠山がいたということは、昭和五六年に自分がロンドンで田辺と会った時に田辺からも聞いたことである。
「赤軍派にこの二回目に爆弾を渡した後に、赤軍の方から爆弾をもっと欲しいという話があったが断った。それは、三潴のルートからブンド関係に配るという話もあり、また、その秋どういう情勢になるかわからないので自分たちも爆弾を持っていたいということがあったからである。また、田辺の方から爆弾の材料を欲しいという注文も来たが、それも断った。
「さらに、三潴がブンド(共産主義者同盟)のある派にピース缶爆弾を渡している。渡したというより、三潴自身がその派の武器調達機関であり、そういう三潴が私と一緒に連合して爆弾を作ったと解釈するとすっきりすると思う。共産同の幹部もピース缶爆弾製造計画を知っていて、三潴もそれなりの了解を得てやったのではないかと思う。その点は、自分が三潴から以心伝心的に感じてそう推測しているということである。ひょっとしてそれ以上の具体的なことを聞いたかも知れないが、今はもうすっかり覚えていない。三潴がその頃のある時期に下北沢のアジトから共産同某派の軍事機関に渡したということは、自分も聞いている。渡した個数はわからないが、赤軍派に渡したものとあまり違わない数が多分行っていると思う。電気雷管が渡っているかどうか、その辺の具体的なことはもうわからない。共産同某派に渡った爆弾がさらにいろいろなところに流れたという話だけは三潴から聞いているが、それが使用されたかどうか等の具体的なことはあまり聞いていないし、よく覚えていない。
「以上に述べた三つのルート以外にピース缶爆弾を渡した先はない。
「ピース缶爆弾を作った後、ダイナマイトが三分の一ないし半分ぐらい残った。雷管と導火線もそのぐらい残ったと思う。自分は、それらの残った材料を下北沢のアジトで見たことがある。ダイナマイトが三分の一ないし半分残ったということは桂木が確かそう言ったのであって、何本残っているかという勘定は当時していないと思う。聞いたり、あるいは見た記憶の断片を総合して大体そのくらいだと自分も思うということである。それらの残った材料は、その後、大型のショルダーバック二つに入れて、当時自分の借りていた目黒区大橋の『佐藤フラット』というマンション(アパート)に運び込まれた。それは、昭和四四年の一一月中旬ないし下旬ごろである。佐藤フラットに置いてあった期間はせいぜい二、三週間で、その後桂木が管理することになり、自分は残ったそれらの材料を桂木に渡した。桂木から、残ったダイナマイト類は、翌昭和四五年の春ごろまでに多摩川かどこかに流したと聞いている。場所はたしか多摩川と聞いたと思う。大雨の時に流したと聞いている。
「昭和四四年一〇月中旬以降は、新たにピース缶爆弾を製造していないと思う。同年秋は、赤軍派やブンド系の一部がどこまでラジカルに軍事路線をやり切るかということで情勢が決まると判断していたが、赤軍派は大菩薩峠で主力部隊の全員が壊滅したので、われわれも、もう峠を越した、おしまいだと判断して、それ以降はもうやめようということであった。
「ところで、第八、九機動隊事件とアメリカ文化センター事件は赤軍関係者がやったということを田辺から聞いている。その話を聞いたのは、昭和四四年のうちには聞いていると思う。あるいはその事件のちょっとあとぐらいに聞いているんじゃないかと思う。赤軍関係者がやったというのは、田辺の言葉そのままではなく、そういう意味のことを聞いたということである。その時の田辺の具体的な言葉は再現できない。この二つの事件のことは、特別に田辺とそのことだけの話をして、その際に聞いたわけでなく、色々な話の中で出て来た発言だったと思う。今では、その時どういう話をしたかは覚えてなくて、そういう趣旨のことはすでに昭和四四年中に知っていたと記憶しているので、右のように言っているのであり、具体的にいつどこでどうしたということはもう記憶にない。二つの事件を赤軍関係者がやったということは、田辺から別々の機会に聞いたのではなく、同時に聞いていると思う。どういう機会、どういう場所で聞いたかも、もう記憶にない。聞いたのは、昭和四四年中というぐらいの時期であったと思う。昭和四四年の秋季決戦の山を越えた段階であり、両事件に近接してすぐという話ではなかった。どういう話の脈絡の中で出て来たのか、もうちょっと覚えていない。秋季決戦の問題をめぐって赤軍派がどうした、何派がどうした、そういう話の中で出て来たと思う。推測である。
「アメリカ文化センター事件のピース缶爆弾の起爆装置が電気雷管と時限装置であることは、現在知っている。「その電気雷管は自分らが赤軍派に渡したものが使われたのだろうと思っている。
「第八、九機動隊事件、アメリカ文化センター事件の各爆弾のほか、昭和四四年一〇月二一日に東京都内の中野坂上でピース缶爆弾三個が発見され、同年一一月一〇日に中央大学で同爆弾が爆発し、同月一二日に千葉県松戸市で同爆弾二個が発見されたことは知っている。それらの爆弾の構造は、詳しく資料を調べてみたことはないが、きっと同一のものではなかろうか。
「これまでに押収されたり、爆発が確認されているピース缶爆弾の個数は、合計十数個に過ぎないということであり、自分らが製造したピース缶爆弾の数と大分隔たりがある。しかし、残りのピース缶爆弾がどうなっているのかについての知識は全くない。ただ、こういうことはあるのではないか。たとえば、警察が表に出していないという噂もある。また、ある場所で爆発したが、そこの人たちが伏せていることもあるらしい。さらに、投げるはずのものを捨ててしまった、使い切れなかったというのも随分あるように聞いている。また、京都に行った爆弾については後始末をしたが、赤軍派、あるいは共産同に流れた爆弾についてそのような処置をとっていないし、とろうともしていないということは、そのようにする理由がないからである。」
以上のとおりである。
二、他の証拠上認められる事実
そこで、以上のような牧田証言の信用性を検討するための過程として、他の証拠上認められる事実を明らかにすると、つぎのとおりである。
(1) 島崎建設工業株式会社の林道日原線工事現場におけるダイナマイト等の盗難等の事実
二七四回・二七五回証人島崎恒利の供述(一五一冊五一三四一丁・五一四四八丁)、二七五回証人大浜信行の供述(一五一冊五一四九四丁)、(員)末次久弥の57・7・22資料入手報告書(謄)(証一三〇冊三二六二四丁)、(謄)飼手義彦の57・7・6実見(謄)(同冊三二六三八丁)、(検)杉本重一の57・6・29領置(謄)(同冊三二六六九丁)、(検)杉本一重の57・6・17捜報(謄)(同冊三二六七四丁)、東京都水道局水源林事務所の「昭和四四年日原線開設工事関係綴」一冊(証二五八号)、東京都環境保全局の「昭和四四年火薬類譲受許可台帳」一冊(証二六五号)、島崎建設工業株式会社の昭和四四年八月分出金伝票綴(証二六四号中の一冊)、有限会社和井田商会の火薬類取引明細簿五冊(証二五九号ないし二六三号)、有刺鉄線若干(証二五四号)を総合すれば、つぎの事実が認められる。
すなわち、東京都西多摩郡奥多摩町留浦所在の島崎建設工業株式会社(以下、「島崎建設」という。)は、昭和四二年ないし同四四年の三年度にわたり東京都から林道日原線の建設工事(発注者東京都水道局長、監督機関東京都水道局水源林事務所)を請け負ってこれを施行した。同工事は、奥多摩町日原字孫惣谷地内における日原川に沿った林道の開設であり、昭和四四年度の工事は同年八月二〇日ごろに着手し、一二月八日ごろに竣工したものであり、同地内名栗沢橋より先約四〇〇メートル余の地点(昭和四三年度工事の終点)からさらに約五〇〇メートル同林道を延長する工事であった。当時島崎建設の代表取締役は島崎利八であったが、同人の息子島崎恒利が実務上工事全般にわたって指揮監督等に当たっていた。これら三年度の工事にはダイナマイトを使用したが、昭和四四年度の工事に当たっては、島崎恒利は、同年八月二〇日ごろ東京都首都整備局産業保安課火薬係に赴いて火薬類譲受許可の申請をし、同月二二日付で、林道工事上必要な岩石爆破のため、火薬類は五〇〇キログラムまで、導火線は六〇〇メートルまで、電気雷管又は工業用雷管は一、二〇〇個までの範囲内で同日から同年一二月三〇日までの間にこれらのものを火薬商から譲り受けることについての許可(許可番号同年第四八九〇号)を受けるとともに、工事現場近くに火薬類を一時的に貯蔵するため、同年八月二五日、同年度工事の始点により約一〇〇メートルぐらい手前の林道上の地点から川の方に下る斜面を約一〇メートル下った所を平坦にならして庫外貯蔵庫と呼ぶ小さな貯蔵庫を設置した。その庫外貯蔵庫は、あらかじめ大工に作らせたもので、犬小屋の形をし、屋根の最高部までの高さは約一メートルないし一・二〇メートルぐらい、幅八〇センチメートルぐらい、奥行き一メートルないし一・一〇メートルぐらいの木製のものであり、内部に高さ七、八〇センチぐらいの天井があり、屋根と周囲をトタン張りとし、正面の扉に鉄板を張り、さらに内部はダイナマイトと雷管とを分けて入れるため天井の高さまでの間仕切りをつけ、扉には鍵で開閉するシリンダー錠をつけた。また、地面の上に二本の枕木を置き、その上に貯蔵庫を置いた。道路から貯蔵庫までは垂直でなくやや斜め七、八〇度の角度で一人がやっと歩けるぐらいの細い道をつけた。そして、貯蔵庫の周囲には丸太の杭を打ち込み、その杭や立木を利用して有刺鉄線を三段以上張りめぐらし、その一箇所に扉と錠前をつけた。
島崎恒利は、昭和四四年度の工事に必要な火薬類を、前二年度と同様であるが、奥多摩町氷川所在の火薬商有限会社和井田商会(以下、「和井田商会」という。)から購入することにした。そして、島崎恒利は、前記許可に基づいて、同商会から、まず同年八月二五日に三号桐ダイナマイト二二・五キログラム(一箱)、導火線(第二種)一〇〇メートル及び工業用雷管一〇〇個(一箱)を購入しこれを庫外貯蔵庫に収納し、ここから工事に必要な分をその都度取り出して使用したが、これを補充するため、同年九月九日に三号桐(の可能性が高い)ダイナマイト二二・五キログラム(一箱)、導火線(第二種)五〇メートル及び工業用雷管一〇〇個(一箱)を購入し、同日これを庫外貯蔵庫に収納し、翌日以後の工事に備えた。なお、当時和井田商会の販売するこれらの火薬類は、すべて旭化成の製品であった。島崎恒利は、右収納後貯蔵庫の鍵を貯蔵庫の床の下面と枕木との間の隙間に隠し(当時同人は鍵をこのように置いておくのが習慣的であった)、また、周囲の鉄条網の扉の鍵はかけておかなかった。
ところが、島崎恒利が翌九月一〇日午前八時三〇分ごろないし午前九時ごろに庫外貯蔵庫に行ってみると、鍵が近くの地面に放り出されており、同貯蔵庫の中を調べると、前日収納した新品の三号桐(の可能性が高い)ダイナマイト二二・五キログラム(一箱)及び工業用雷管一〇〇個(一箱)がそれぞれ箱ごと、また、導火線一〇メートル一巻(渦巻状に隙間なく巻かれた、直径二五センチメートルぐらいの平らな円盤状のものでビニール袋入り。この一巻が前日購入分の中の一巻か八月二五日購入分の残部かは不明。一五一冊五一四二〇丁参照。)が盗まれてなくなっていることがわかった。島崎恒利は、同貯蔵庫の近くの地面に、自己の靴跡とは違った、二種類(大きさの違った二人)の地下足袋の新しい足跡があり、その足跡は夜露が降りた後についたものと認められたことから、窃盗は前夜の降露時すなわち午後七時か八時以後早朝までの間に行われたものと考えた。また、庫外貯蔵庫の床面はベニヤ板であるところ、島崎は、犯人は同貯蔵庫を下の面から破壊しようと持ち上げてみて、たまたま鍵があるのを発見し、これで扉を開いたものと推測した。
なお、右盗難後、当時同庫外貯蔵庫の中には、導火線四巻(一巻一〇メートル)と若干(四、五メートルぐらい)、ダイナマイト一ボール(二五本入りビニール袋一つ)及び若干本、工業用雷管三、四〇個、電気雷管四、五〇個が盗まれずに残っていた。電気雷管は瞬発式のもので、五個をビニールテープで一巻にしたものが八か一〇ぐらいあり、電気雷管用の箱(一箱)に入れられていた。この電気雷管は、島崎恒利が山梨県北都留郡の建設業者興建社の社長青柳初夫から昭和四四年度の日原林道線工事着手と同時ごろに譲り受けたもので(もっとも、このような譲り受けは、正規のものではなく、本来許されないものである)、その一部をすでに同工事に使用したことのあったものである。
ところで、島崎恒利は、右のように火薬類盗難の事実を発見した時、日原川上流で山葵田を作っている地元民が転石を細かく割るために工事現場から火薬類を分けてもらうという話をかねて聞いており、しかも盗難現場に地下足袋の足跡があり、また、電気雷管が盗まれていないことから、火薬類を盗んだ者はこのような地元民ではないかと思いながら(地元民は、電気雷管の点火に必要な発破機を持っていないから、電気雷管は盗まなかったのだろうと思った)、早速山を下り、父親の島崎利八と処置を相談したが、もし盗難の事実を警察に届けたならば、林道工事が一時ストップを免れないことや、また、地元民に嫌疑がかかると色々難しい問題が起こることが懸念されたので、警察には届けないことにした。そして、島崎恒利は、その日(九月一〇日)のうちに和井田商会から新桐ダイナマイト二二・五キログラムを購入し、これを庫外貯蔵庫に収納し、盗難ダイナマイトの分を補充した。
以上の事実が認められる。
弁護人は、(員)末次久弥の57・7・22資料入手報告書(証一三〇冊三二六二四丁)添付の東京都水道局水源林事務所日原出張所の観測にかかる雨量計自記記録紙(昭和四四年九月二日ないし一〇月一日分)(写)によれば、昭和四四年九月一〇日、日原地区では午前七時四〇分より小雨が降り始めているから、午前八時三〇分ないし午前九時ごろは地面の足跡が降露後につけられたかどうかを識別し得る天候ではなかった旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三一八二丁)。
しかし、右雨量計自記記録紙(写)によれば同月一〇日午前七時四〇分から午前九時までの間に〇・二ミリメートルの降雨量が記録されたというに過ぎず、極めて微量であり、また、右日原出張所における観測記録であって前記庫外貯蔵庫の所在場所の記録ではなく、これをもって当日午前八時三〇分ないし午前九時ごろは右識別をし得た状態であったことの反証とするには足りないものである。
また、弁護人は、和井田商会の、昭和四四年度における新桐ダイナマイトの譲渡を記録した火薬類取引明細簿(証二六〇号)の二七頁に「(月日)九・二一、(譲渡数量)二二・五(キログラム)、(譲渡先)東京都西多摩郡奥多摩町島崎建設株式会社、(資格)四四・四八九〇」、「(月日)九・二二、(譲渡数量)二二・五(キログラム)、(譲渡先)東京都西多摩郡奥多摩町折谷建設株式会社、(資格)四四、四八九〇」の記載があり、右「資格」欄の記載は譲渡先が東京都から受けた工事許可の番号であるところ、島崎建設の許可番号は昭和四四年第四八九〇号であり、折谷建設のそれは昭和四四年第五一〇七号であるから、右九月二二日の取引の記載は譲渡先と許可番号とが一致していない。そこで、九月二二日の他の品目についての記載を見ると、昭和四四年度における導火線の譲渡を記録した火薬類取引明細簿(証二六二号)の二六頁に「(月日)九・二二、(数量)三〇(メートル)、(譲渡先)折谷建設株式会社、(資格)四八九〇」、同年度における工業用雷管の譲渡を記録した同明細簿(証二六二号)の八頁に「(月日)九・二二、(数量)三〇(個)(譲渡先)折谷建設株式会社、(資格)四四・五一〇七」の各記載があり(譲渡先の所在地は引用省略)、工業用雷管については譲渡先と許可番号とが一致しているが、導火線については一致していない。もともと和井田商会の火薬類取引明細簿を調べると記載の不正確、不可解な箇所が多く存在することが認められ、また、許可番号も譲渡先等の特定に重要なものであり、これらのことを考慮すると、右昭和四四年九月二二日の新桐ダイナマイト及び導火線の譲渡先は許可番号のとおり島崎建設であるのに、これを誤って折谷建設と記載した可能性がある。もしそうだとすると、島崎建設が同月中に二日連続してダイナマイトを購入したことが同月九日及び一〇日のほかに同月二一日及び二二日にもあったことになる。ところで、島崎恒利の証言によれば、ダイナマイトを購入した日の翌朝盗難に気がついてその日又は翌日にダイナマイトを再購入して補充したというのであるから、九月二一日に盗難があり、翌二二日に再購入した可能性があり、そうだとすれば、九月二一日に購入した新桐ダイナマイトが同日盗まれた可能性があることになる。「従って、島崎建設がダイナマイトを盗まれたのはいつで、その種類は何かを特定するには、和井田の明細簿のみからは不可能であり、証人島崎恒利の証言および証人牧田吉明の証言等を総合的に判断して考察せざるを得ないのである」と主張している(弁論要旨・一五八冊五三一九一丁以下)。
たしかに、和井田商会の火薬類取引明細簿(証二六〇号及び証二六二号)上、昭和四四年九月二二日の新桐ダイナマイト及び導火線の各譲渡先の会社名が折谷建設となっているのに島崎建設の許可番号が記載されており、その間に不一致のあることが認められる。
しかし、
(一) 右各明細簿の記載状況を見ると、会社名よりも許可番号のほうが書き誤りやすいと認められる(証二六二号八頁の昭和四四年九月二二日に折谷建設に工業用雷管三〇個を譲渡した旨の記載について、その許可番号を「四四・四」と書き始めて誤りに気づいたものと見え、訂正している跡がある)。
(二) 証人島崎恒利は、盗難発見の日か翌日に補充したのは「多分ダイナマイト二二・五キロ一箱だけであったと思う」旨供述している(一五一冊五一三九五丁)。ところが、右九月二二日の取引の記載上の譲渡先会社名と許可番号の不一致は会社名の書誤りで島崎建設が正しいとすると、島崎恒利は新桐ダイナマイト二二・五キログラムのほかに導火線三〇メートルをも買って補充したことになり、右証言に合わない。
(三) 右明細簿(証二六二号)二六頁及び二七頁によれば、九月二二日の記載を除くと、導火線の購入数量は、島崎建設は一回五〇メートル又は一〇〇メートルであるのに対し(五〇メートル未満はない)、折谷建設は一回四〇メートル、五〇メートル、三〇メートル又は二〇メートルであって、この点からも、九月二二日の三〇メートルは折谷建設が買ったものと見るのが自然である。
(四) 折谷建設が九月二二日に工業用雷管を買っていることは明らかであるから、新桐ダイナマイト及び導火線の買主も同会社と見るのが、これらの三品をまとめて買ったものと見ることができて、自然である。
(五) 右明細簿には証二六〇号八四頁の「現在数量」欄の書誤り等一部に不正確な点があるが、だからといってその記載すべてが一般的に不正確だと認められるには至らない。
以上の諸点を総合すると、九月二二日の新桐ダイナマイト及び導火線の各譲渡先は折谷建設であり、許可番号の記載は誤記である可能性が強いと考えるのが相当である。
さらに、証人牧田は、前記証言要旨に摘記したとおり、「ダイナマイト等を盗んだ日は九月の連休(一四日、一五日)又は飛び石連休(二一日、二三日)のあとの方の休日(一五日又は二三日)のどちらかである」として詳しく理由をも述べ、「それらのあとの休日のどちらかであったことはほとんど断言してもよいと思う」とまで言っているのであって(一四八冊五〇四三五丁)、弁護人の意見のように九月二一日に窃盗が行われたとすると、この牧田証言と合致しないことになるものである。
(2) ピース缶爆弾に用いられたダイナマイトの種類
すでに証拠により認定したように(第二章第一節二、第二節二、第三節二、三、五参照)、八・九機事件、アメリカ文化センター事件及び中野坂上の事件につきそれぞれ押収された各ピース缶爆弾に充填されていたダイナマイト、並びに大菩薩峠(福ちゃん荘)事件及び松戸市の岡崎アパート事件につきそれぞれ押収されたピース缶爆弾のうち成分分析が行われたもののダイナマイトは、いずれも旭化成製の新桐ダイナマイトであった。
三、牧田証言と他の証拠上認められる事実との矛盾点
証拠上以上の事実が認められるところ、牧田証人の供述するダイナマイト等の窃盗の事実は、時期的及び場所的に考えて、島崎建設のダイナマイト等の盗難事件に該当するものと考えられる。しかし、すでに摘記した牧田証言と証拠上認められる右盗難等の事実とを対照すれば明らかなとおり、牧田証言には、つぎのような右事実との矛盾点があるものである。
牧田証言によれば、ダイナマイト等を窃取したのは、昭和四四年九月の連休又は飛び石連休のあとの方の休日すなわち同月一五日又は二三日であり、それはほとんど断言してよいというのであるが、島崎建設の盗難の日時は、同月九日から一〇日にかけての夜間ないし早朝である。
牧田証言によれば、登山道から下りて林道に出た地点は、林道工事現場から一〇〇メートルないし三〇〇メートルぐらい手前であり、ダイナマイト等を窃取した後、荷を背負って林道から同じ道を登山道の方に上ったというのである。しかし、二七四回証人島崎恒利の供述(一五一冊五一四三三丁以下)及び(検)57・7・6実見(謄)添付写真44ないし47(証一三〇冊三二六六六丁)によれば、牧田証言にいう右地点のあたりは、すでに昭和四三年の林道工事により林道山側の斜面は、ほぼ垂直に通常人の背丈よりも高くコンクリートブロックが積まれ、牧田証言のいうように容易に、しかも重い荷を背負って軽々と上り下りできる状態ではなかったものと認められる。
牧田証言によれば、火薬庫の周囲には鉄条網などの柵はなかったというのであるが、島崎建設の庫外貯蔵庫には鉄条網の柵があった。
牧田証言によれば、自分とAはどちらも靴を履いていたというのであるが、島崎建設の盗難現場に残された犯人のものと考えられる二人の足跡はいずれも地下足袋であった。
牧田証言によれば、火薬庫の中には仕切りはなかったと思うというのであるが、島崎建設の庫外貯蔵庫の中には天井がつけられ、天井の高さまで、ダイナマイトと雷管とを分けて入れるように仕切りがあった。
牧田証言によれば、透明のポリ袋の中に十数個ないし二〇個ぐらいばらばらに入れられてあった電気雷管をも盗んだというのであるが、島崎建設の庫外貯蔵庫の中には、電気雷管は、五個をビニールテープで一巻にしたものが八か一〇ぐらい箱に入れて収納されていたが、これは盗まれず、残っていた。
牧田証言によれば、盗んだ導火線は、ロープを輪にするような形で、直径四、五〇センチメートルの、五ないし一〇巻きの輪一つで、包装されてなく裸であったと思うというのであるが、島崎建設の盗まれた導火線は、渦巻状に隙間なく巻かれた、直径二五センチメートルぐらいの平らな円盤状のもの(導火線の長さ一〇メートル)一巻きで、ビニール袋に入れられていた(なお、証人島崎恒利は、導火線を裸のままで庫外貯蔵庫に入れて置くと確実に湿気ると供述している。一五一冊五一四八四丁)。
牧田証言によれば、牧田らが製造し、赤軍派等に配付したというピース缶爆弾は、いずれも林道日原線の工事現場の火薬庫から盗んで来たダイナマイトを材料にしたものであって、それ以外のダイナマイトを使っていないというのであるところ、牧田が赤軍派が行ったと聞いているという八・九機事件及びアメリカ文化センター事件、並びに赤軍派の関係する中野坂上の事件及び大菩薩峠(福ちゃん荘)事件で押収されたピース缶爆弾(但し、大菩薩峠事件については成分分析の行われたもの)のダイナマイトは、すべて旭化成製の新桐ダイナマイトであるが、島崎建設の庫外貯蔵庫から盗まれたダイナマイトは成分の異なる三号桐ダイナマイトであった可能性が強い(両者の成分が同一でないことについては、旭化成化学事業部長代理森田亨の57・8・9回答(謄)・一三二冊三三〇三八丁以下参照)。
牧田証言によれば、赤軍派中央軍には、自分らがダイナマイトと一緒に盗んで来た電気雷管四、五個を渡しているというのであるところ、アメリカ文化センター事件の爆弾には電気雷管が用いられているが、前記のとおり、島崎建設の庫外貯蔵庫からは電気雷管は盗まれていない。
以上のような矛盾が認められるのである。
四、牧田証言自体の中の不合理な点
つぎに、牧田証言には、全般的に曖昧な箇所が少なくないのであるが、その中には、以下に示すとおり、真実その供述にあるような体験をしたのであれば、当然、より明瞭に、ないしはより詳細に記憶しているはずの事項についての供述が甚だ曖昧であるか、ないしは甚だ大雑把であり、あるいはまた、その供述する状況の中ではその供述するような行動はせず別の行動をしていたであろうと考えられるなどの不合理な諸点が認められるのである。
牧田証人の供述するダイナマイト等の窃盗は、同人自身山の中にダイナマイトを盗みに行ったというようなことは、この一回だけであると述べているように、同人にとって甚だ特異な体験であり、その後一三年に近い年月が経過しているとはいえ、同証人が相当詳しく窃盗のための偵察及び窃盗に関する諸状況を供述していることから考えると、偵察及び窃盗の各参加者が誰々であったかは、特に印象に深く残って、相当明瞭に記憶にあるはずであると考えられるが、牧田証言によれば、偵察の時は、牧田、三潴、桂木、自動車の所有者(運転者)のほかに「A又はBのどっちかが一緒に行ったと思うが、AもBも参加していなかった可能性もある」というのであり、窃盗の実行の時は、牧田、三潴、桂木のほかに「A及びB両名とも参加していた記憶が強いが、Bは参加していなかったかも知れない」というのであって、甚だ曖昧である。
証人島崎恒利の供述する火薬類の庫外貯蔵庫の位置から考えれば、ほとんど日の暮れかかった時刻に、しかも灯火もなしに、ほとんど探索らしい探索もしないで同貯蔵庫に到達するには、人から聞いてその所在位置を正確に知っているのでなければ、あらかじめ日中にその付近を探索してその所在位置を確かめておくか、少なくともほとんど間違いないとの見当をつけておくことがほとんど絶対的に必要であり、そして、もし事前にこのような探索をして火薬庫の所在位置を確かめ、又は見当をつけておいたとしたならば、そのことは特に印象の深い行為として行為者の記憶の中に明瞭に残るはずである。ところが牧田証言によれば、林道から庫外貯蔵庫に下りる道を窃取の時に初めて見つけたのか、あるいは偵察の時、又は窃取の当日自動車で一度工事現場付近まで行ったとすればその時に、調査をして知っていたのか、確かな記憶はないというのであり、事前に庫外貯蔵庫の所在を探索したものとは思われず、同証人の供述する庫外貯蔵庫を発見し得た状況は、あまりにも偶発的であり、真実体験したことであるとは思われないのである。
また、牧田証言によれば、人目を避けるために、林道を通らずに天祖山登山口から登山道を一時間ないし一時間半ぐらい歩いた後左へ折れて林道へ下る道を五分ないし一〇分ぐらい歩いて、丁度林道工事現場から一〇〇メートルないし三〇〇メートルぐらい手前の林道上の地点に出たというのである。しかし、踏査をしたこともない山の中の細い登山道を一時間以上も歩いて特に迷うこともなく林道工事現場近くに到着できると予測すること自体、容易に首肯し難いことである(もし牧田証言にあるように当日林道工事現場付近まで自動車で行く機会があったのであれば、そこまで自動車で行き、降車し、火薬類の貯蔵庫を探し当てておいて、付近の林の中に身を潜めるなどして日没を待つことにするのが自然であろう)。しかも、牧田証言にあるような登山道から丁度良い具合に林道工事現場付近に下る道というものがかりにあったとしても、途中迷うこともなくその道を通って林道工事現場付近に下りて来られたこと自体(しかも、途中ヘッドランプを使った記憶もないというのである)、あまりにも偶然的であって首肯し難いのである。
さらに、牧田証言によれば、庫外貯蔵庫の中から火薬類を盗む際にもヘッドランプを使った記憶はないというのであり、この点にも疑問があるが、その点は別としても、窃取後二二・五キログラムものダイナマイト及びその他の物を入れたサックを背負ったAとともに再び登山道を通って帰ったというのである。重い荷物を背負いながらわざわざ険阻な登山道を通って帰ったというのは(しかも、ヘッドランプをつけた明確な記憶もないというのである)、首肯し難いところである。
さらに、牧田証言によれば、牧田らが製造したピース缶爆弾(ダイナマイト、パチンコ玉等を入れた缶体)は五〇個以上一〇〇個以下であり、その中から大村寿雄に渡したものは四個とか五個とかその程度であったというのであり、田辺繁治に最初に渡したものは四、五個か五、六個であり、その後田辺を介して赤軍派の中央軍に渡したものは五、六〇個といえばちょっと多いが二、三〇個と思えばそれよりは多いというぐらいの意味で数十個であり、三潴が共産同某派に渡した個数もわからないが、赤軍派中央軍に渡した数とあまり違わない数が多分行っていると思うというのである。また、牧田証言によれば、ピース缶爆弾を作った後ダイナマイトが三分の一ないし半分ぐらい、雷管と導火線もそのぐらい残ったと思うが、数の勘定はしておらず、さらに、それらの材料は、最後は桂木が管理したが、その後桂木から昭和四五年の春ごろまでに多摩川かどこかに流して処分したと聞いているというのである。しかし、牧田は、その証言によれば、ピース缶爆弾の製造行為自体は担当しなかったとはいえ、牧田を含む製造グループ五名の中では三潴とともに最高責任者の立場にあったというものであり、もし発覚すれば当然極めて重い刑を受けることを覚悟しなければならないような行為をするものであるから、窃取したダイナマイト等の保管にも十分に注意するとともに、製造を担当した桂木らがそれを用いて爆弾を何個作り、その中から自分や三潴が各配付先にそれぞれ何個渡し、そして材料がどれだけ残り、どのように処分したかについては、当然重大な関心を持つのが普通であり、それらの点の記憶も相当明確であるはずのものである。ところが、これらの点に関する牧田証言は、右のとおり、甚だ大雑把であり、ないしは漠然としたものである。なお、証拠によれば、昭和四四年一〇月以後現に押収され、又は爆発が確認されたピース缶爆弾は合計十数個に過ぎないことが認められ、もし牧田証言のように当時五〇個ないし一〇〇個もの同爆弾が製造され、同証言のような配付が行われたとしたならば、さらに多くの爆弾ないしその爆発が確認された可能性が高いであろう。以上のように考えると、牧田証言中ピース缶爆弾の製造及び配付に関する部分も、にわかに首肯することができないのである。
五、京都地方公安調査局事件との関係その他
(1) 京都地方公安調査局事件との関係
弁護人は、前記(第二章第三節一をいう。以下本項(1)において同じ。)京都地方公安調査局事件関係の証拠上認められる以下の諸点、すなわち、同事件の一日ないし三日前に大村寿雄が杉本嘉男に保管を依頼したピース缶爆弾は弾体と導火線とが分離されたものであったこと、同爆弾は牧田から入手されたものと認められること、右事件において爆発した爆弾に入れられていたパチンコ玉のマーク等から、同爆弾は、八・九機事件等で使用された爆弾とともに同一人又は同一グループによって製造されたことを示していること、牧田は三潴を派遣し杉本の保管していた同爆弾一個を琵琶湖畔で解体処理させていること等は、牧田らが同爆弾を製造し、大村に配付したとの牧田証言の真実性を裏づけるものである旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三一七一丁以下)。
しかし、前記のとおり、杉本の、当初大村から預かったピース缶爆弾の中の一個は弾体と導火線が分離されていた旨の供述は、同爆弾解体時の光景の記憶と混同した可能性が強いものであり、直ちにそのとおり信用することはできない。
また、京都地方公安調査局事件で使用された同爆弾及び琵琶湖畔で解体処理された同爆弾が大村において牧田から入手したものである可能性が強いことは前記のとおりであるが、それ以上に、京都地方公安調査局事件関係の証拠から牧田証言にかかる同爆弾の製造、赤軍派に対する配付の事実が裏づけられるものではない。
(2) その他の関連供述の信用性
さらに、弁護人は、二三二回証人前田祐一の供述(一二三冊四三九〇七丁)、及び五部一一五回・一一六回証人前田祐一の供述(証八七冊二一五三〇丁・二一六二六丁)中の、「昭和四四年一〇月の赤軍派幹部の出席した会議の席上、爆弾の製造を京都方面のグループに頼んで調達することになった。その後同年一〇月二一日の事件の新聞報道によって京都方面において製造された爆弾がピース缶爆弾であることを知った」旨の供述を挙げ、これは、牧田証言に出て来る、赤軍派が当時京都大学学生であった同派幹部田辺繁治、同小俣昌道を通じて牧田らからピース缶爆弾を入手したことと符合するものである旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三一八五丁以下)。しかし、前田証人のこの点に関する供述は甚だ曖昧であり、また、単なる推測を含むものであって、到底牧田証言の信用性を補強するというものではない。
また、弁護人は、一七七回証人古川経生の供述(八四冊三二一二七丁)、及び五部九二回・九三回証人古川経生の供述(証五九冊一四八六二丁・一四七二八丁)中の、「自分は、赤軍派の平田安豊から昭和四六年夏ごろ『東京の大森駅近くのアパートで自分ほか三名でピース缶爆弾を作った』旨を聞いた。なお、平田はその後昭和四八年六月ごろ死亡した」旨の供述を挙げ、これは、牧田らによって製造されて赤軍派に配付されたピース缶爆弾の缶体に赤軍派の手によって点火装置(雷管付導火線の捜入)が施されたことの一つの可能性を示唆するものである旨主張する(弁論要旨・一五八冊五三一八六丁)。しかし、古川の右供述は、具体性の乏しい単なる伝聞供述であり、これを裏づけるような証拠もなく、容易に信用し得ないものであり、かつ、牧田証言とも合致しないものであって、到底牧田証言の信用性を補強するというものではない。
なお、二七二回証人牧田の供述(一五〇冊五一一七二丁)によれば、同証人は、弁護人から古川証人の右供述を聞かされ、「自分は、赤軍派にピース缶爆弾の缶体と導火線及び雷管とを別々に渡したが、それらを組み立てて爆弾を完成させる作業を誰がしたのか聞いていない。ただ、もし古川証人の供述が事実だとすると、平田安豊のした作業は右のような組立作業であったのではないかというふうに感ずる」旨供述しているが、これは自己の証言内容を前提とした独自の推測に過ぎないものである。
六、結論
以上詳しく検討したように、牧田証言の中には、ダイナマイト等の窃取の点、あるいは窃取の際に庫外貯蔵庫の下から鍵を見つけた点等において島崎恒利の供述するダイナマイト等の盗難の事実(但し、日時、被害品目等の一部を除く。)や同貯蔵庫の鍵を隠した位置等と符合する箇所があることは認められる。しかし、牧田証言には、反面、それ以上に、信用し得る他の証拠から認められる事実と矛盾する点や、証言自体不合理と認められる点が少なからず存在するのであって、そうである以上牧田証言の信用性には疑問を免れず(牧田証人は、島崎建設の庫外貯蔵庫からのダイナマイト等の窃取の事実を誰かから聞いて、これをみずから行ったものとして供述している疑いがある)、牧田証言をもって、直ちに、弁護人の主張するように、ピース缶爆弾製造事件の真犯人の証言にほかならず、被告人の無罪を示す証拠であると認めることはできないものである。
第二節若宮、古川及び荒木各証言の信用性の検討
弁護人は、証人若宮正則及び同古川経生が証言するとおり、八・九機事件の犯人は若宮正則であって、増渕及び堀らではなく、また、証人荒木久義の証言もこのことを裏づけるものである旨主張する(弁論要旨一五八冊・五三二二九丁以下)。そこで、以下、これら三名の供述の信用性について検討する。
一、各証言の要旨
(1) 若宮証言の要旨
一六五回・一六九回・一七一回証人若宮正則の供述(七七冊二九八〇六丁・七九冊三〇六一五丁・八一冊三一一二三丁。「若宮証言」という。)の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四四年八、九月ごろから同年一一月三日ごろまで、国電大森駅から徒歩約三分ぐらいのところにある東京都大森北《地番省略》所在のアパートの一室(三畳間、押入れと台所付き)(以下、「大森のアパート」という。)を偽名で借りて住んでいたが、同年一〇月二一日の昼ごろ、たしか二人でなく一人であったと思うが、一人の者(その氏名はいえない。)(以下かりに「甲」という。)がピース缶爆弾(ピースの空缶に爆薬の入ったものを本体とし、蓋から導火線が出ており、蓋がとれないようにガムテープが巻かれているもの)一二個(菓子箱二つにそれぞれ六個ずつ入っているもの)を持って来た。甲は自分に『この爆弾は一〇・二一の闘争用のものであるが、これをある所に運んでくれ』と言うので、自分は、その日に、その爆弾一二個をある所(その場所の名前はいえない。)に運んだ(甲と一緒に運んだかどうかは記憶がない)。爆弾の中にダイナマイトとパチンコ玉が入っているということは、後に大菩薩峠事件の裁判中に初めて知った(甲から説明を受けなかった)。自分は、ある所に運んだピース缶爆弾一二個のうち三個を翌二二日に大森のアパートに持ち帰って来た。三個はビニール袋に入れ(乾燥剤は入れなかったと思う)、押入れの中に入れておいた。そして、自分は、三個のうち一個を後述の投擲に使ったが、残りの二個は右押入れに入れたまま大菩薩峠に出かけたので、その後どうなったか知らない(誰かが他所に移した可能性はある)。
「自分は、昭和四四年一〇月二四日にピース缶爆弾一個を第八、九機動隊正門に向けて投擲したが、この第八、九機動隊を攻撃することは自分一人で考えたことであり、誰からも指示を受けておらず、また、一〇月二四日その日に決めたのである。もっとも、ピース缶爆弾でどこかを攻撃したいという願望は一〇月二二日、二三日から持っていた。これは、一〇・二一闘争が失敗したこと、また、当面は武装闘争はゲリラ闘争として取り組むのが正しいと考えたことが理由である。ところで、大森のアパートには一〇月二一日ごろから二人の赤軍派の者が泊まっていた。二人をかりにA及びBと呼ぶが、自分は二三日ごろから大森のアパートでA及びBと闘争の方法等について議論をした。一〇月二二日ごろ誰かが中核派の機関紙「前進」一部(第四五五号。一九六九年一〇月一三日付。証五一冊一三三一〇丁参照)を持ち込んだが、その一面に新宿周辺の地図が出ており、その地図の中に第八、九機動隊の所在が記載されていた。自分は、その地図を見て、機動隊(一般)が政治的な反革命的軍隊としての性格が一番強いと判断し、第八、九機動隊を攻撃しようと考えた。この攻撃は、一〇月二四日大森のアパートで午後三時か四時ごろからA及びBと右地図を見ながら話し合った時に自分が言い出し一緒にやろうと提案したが、Aは返事をせず、Bは一緒にやることを承諾した。
「そこで、自分は、同機動隊に対する攻撃を実行するために、一〇月二四日午後四時半前後ごろBとともに大森のアパートを出発した。Aは同アパートに残った。
「自分は、当時弱い近視であった。夜間は見えにくいので眼鏡をかけたが、昼間はかけなかった。眼鏡の枠は、茶色か黒か、そういうものであった。髪の毛は当時大体スポーツ刈りであったから、そんなに長くなかったと思う。その時着ていた上衣は、作業衣のようなぴらぴらした、よれよれしたような服であった(はっきりした記憶はない)。色は記憶にないが、明るい色ではなく、茶色か青か、そんな地味な色であった。ズボンは何色であったかわからない。靴はズック靴であった。
「自分は、ピース缶爆弾三個と右『前進』の地図とマッチ一箱(小型)を、自分所有のナイロン製のチャックのついた手提袋に入れて持って行った。国電大森駅から京浜東北線に乗り、品川で山手線に乗り換え、五反田回りで新大久保駅で降りた。そして、駅前の道をずっとまっすぐに歩いていったが、この道は電車の進行方向に向かって左側の方向に行ったような気がする。その道を四分か五分ぐらい歩いたところの右側に小さな路地があり、その路地へ右に曲がって、路地を抜けて通って行ったところに信号機のある変則(変形)交差点(以下、『変則交差点』又は『抜弁天交差点』という。同交差点は、当裁判所の検証調書((八一冊三一二八四丁))添付『検証見取図第一図』記載の『I』地点に当たる。以下、『検証調書何々地点』というときは、同見取図記載の地点を指す。)があり、そこ(検証調書『若松通り』がこれに当たる。以下、『都電通り』ともいう。)を左へ曲がって行くと、左側に第八、九機動隊の正門(以下『正門』というときは、この正門を指す。)があった。駅から正門前に至る道筋は自分もBも初めて通る道であり、地図を見ながら行ったので、駅から正門前まで一五分か二〇分ぐらいかかったと思う。自分とBは正門のすぐ前の歩道を通り過ぎた。二、三人の機動隊員が正門の近くで警備をしていた。そして、右側の最初の路地を右に曲がった。正門前の道路はたしか都電が走っており、その道路を横断して(横断歩道でないところを横断したと思う)、その路地に入ったのであった。その路地を少しまっすぐ行き、また最初の路地を右に曲がった。その路地は上りの階段があったりし、平坦でなかった。そしてまた、最初の路地を右に曲がった。その路地は正門前に通ずる道(検証調書『U』地点から『V』地点を経て若松通りに通ずる道がこれに当たる。以下、『正門前の路地』という。同路地が若松通りに出る地点の右側に寿司店『花寿司』があり、同地点を『花寿司の角』ということがある。)であった。丁度コの字型に回ったわけである。しかし、正門前の路地を進んで正門前の都電通りまでは行かないで、手前の路地(検証調書『V』地点から『W』地点、すなわち余丁町通りに通ずる道がこれに当たる。以下『余丁町通りに通ずる路地』という。)を左に曲がり、その路地をまっすぐ行くと前記の変則交差点の近くの通りに出た。正門前を通過してからこの交差点までの徒歩時間は五、六分じゃなかったかと思う。このように正門の前の一画を歩いてみたのは、攻撃後に逃げる道を探すという目的もあったが、周囲の道をよく知っておく必要があったからである。そして、変則交差点に戻ってから新大久保駅までもと来た道を引き返した。同駅まで戻ったのは、道を確認するのと時間がどれぐらいかかるかを調べるためであった。駅では逃げて帰る時のために大森までの切府二枚を買い一枚をBに渡した。それから、最初歩いたのと同じ道を通って正門前まで歩いた。今度は駅から第八、九機動隊まで大体一〇分ぐらいであった。正門の前を過ぎて、最初歩いたのと同じように都電通りを横断し、同じ路地を歩いてまた前記変則交差点に出た。それから第八、九機動隊に忍び込めるような場所はないかと、正門に向かって左側の道(検証調書『K』地点から北に通ずる道がこれに当たる。)を歩いて調査したが、第八、九機動隊の塀が高く、また、道と塀との間に人家があって、塀をよじ上るような適当なところがなかった。正門に向かって右側方面には道はなかったように思う。自分は気づかなかった。右側はすぐガソリンスタンドに接しており、その間に道路はなかったと思う。だから右側は調査しなかった。左側を調査して忍び込むのが困難だと思った時点で正面攻撃しかないという判断をし、Bにもその場でこのことを話したが、Bは黙認した形ではなかったかと思う。自分はピース缶爆弾三個の入った手提袋を持っていたが、その場ではなく、前記変則交差点から新大久保駅方面に通ずる、来た時に通った路地の途中まで戻り、そこで、自分もBも手袋をはめて、自分はピース缶爆弾一個をBに渡し、二個をポケットに入れた。それから、すでに二回通った同じ道を歩いて、丁度正門前の路地まで来た。ところが、Bは、路地から都電通りに出る地点(花寿司の角)の少し手前まで来た時に、攻撃実行の中止を主張した。突然の主張であるので、自分も二、三抗議したが、長々と討論する場所でも時でもないので、自分一人で実行することにし、そこからBを帰らせた。その時自分はピース缶爆弾二個を持っていたが、そのうち一個をBに渡し、Bは結局自己の持っていたのと併せて二個持ち帰った。Bは余丁町通りに通ずる路地を通って帰って行った。自分は正門前の路地を少し戻った(検証調書『V』地点から『U』方向に行くことがこれに当たる)。そうすると、右側に石段があり、それを五、六メートル上った所で休んだ。そこは子供の遊び場のような所であった。煙草一本吸って、五分ぐらい休んだと思う。それからその遊び場を通り抜けて再び正門前の路地に戻って、花寿司の角の方向に歩いて行った。そうすると、花寿司の角の手前の、余丁町通りに通ずる路地を二、三メートル入ったところに犬(スピッツ)を連れて散歩している中学生ぐらいの女の子がおり、自分に気がついたなと思ったがもう暗くて顔もよくわからないし、女の子のことであるから無視して決行しようと決めた。
「そこで、自分は、花寿司の角の、都電通りに出る丁度一メートルか二メートルぐらいのところでピース缶爆弾を取り出し、それを路上に置き右手で導火線の切り口とマッチの軸の薬のついた部分を密着させて持ち、左手でマッチの箱を持って、マッチをやすりでこするように発火させ、つぎに導火線に燃え移らせて着火するという方法で火をつけたが、一回でついた。自分は左利きであり、導火線に火のついたその爆弾を左手に持って都電通りを隔てた第八、九機動隊の正門に向けてこれを投げた。その時、正門前右側の地点に五、六人の機動隊がかたまっていた。その中の一人が投げられて来る爆弾に気がついて、『おっ、おっ」と声をあげた。自分はすぐに正門前の路地を引き返して逃げ出し、余丁町通りに通ずる路地の角で前述の犬を連れた女の子とぶつかりそうになったが、その角を右に曲がって同路地を走って逃げた。機動隊員がすぐに追っかけて来た気配はなかった。そして、前述の変則交差点に通ずる道路(余丁町通りがこれに当たる。)に出た所で普通の歩き方に戻り、もと来た道を歩いて新大久保駅に出て国電で大森のアパートに帰った。
「大森のアパートに帰り着いたのは午後八時過ぎじゃなかったかと思う。同アパートにはAがいて、ラジオのニュースが爆弾が不発であったと報じていた旨を知らされた(機動隊員が靴で導火線の火を踏み消したことは、翌日の新聞で知った)。Aには自分が一人で実行したことを話した。自分が帰って二〇分ぐらいしてBがピース缶爆弾二個を持って帰って来た。自分は、Bに途中で実行を中止しようとしたことを少しは詰問したと思う。Bがどうして遅れて帰って来たかの理由は尋ねたと思うが、その答は記憶していない。自分は、昭和四四年一一月三日大菩薩峠に出かけたが、同所で他の赤軍の者から第八、九機動隊事件のことについて尋ねられたり、あるいは報告を求められたり、話題にされたということはなかった。
「自分がピース缶爆弾を投擲する前に、犬を連れた女の子と会った時から投擲後逃げる際にその女の子とぶつかりそうになった時まで約一〇秒近くあったと思うが、前述のとおりその女の子はその間に三メートルほどしか移動してなかったものである。
「新大久保駅前の通りを進んで、路地を右折した時から抜弁天交差点に出た時まで、歩いて二、三分で、一〇〇メートルか一五〇メートルぐらいであり、五、六分ないしそれ以上もかかるということはなかった。
「新大久保駅から第八、九機動隊まで二回目に歩いた時は、通勤客ぐらいの速さでさっさと歩いたが一〇分近くかかった。一〇分以内の感じである。
「第八、九機動隊の右側に道があることは、そこを三回通ったわけだが気がつかなかった。正面攻撃の場所があったから、ほかの場所を探すことはしなかった。
「第八、九機動隊の正門前の歩道は、歩いて三回通ったことになる。最初は正門のすぐ前(都電通りの北側)を通ったが、あとの二回はおそらく都電通りを隔てたところ(都電通りの南側)を通ったんじゃないかと思う(一七一回公判証言)。」
以上のとおりである。
(2) 古川証言の要旨
五部九二回・九三回証人古川経生の供述(証五九冊一四七二八丁以下)及び一七七回証人古川経生の供述(八四冊三二一二七丁)(併せて「古川証言」という。)の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四四年一〇月当時共産主義者同盟赤軍派に属し、組織名を遠藤といい、同月一五日ごろから一週間ないし一〇日間東京の国電大森駅近くのアパートで(前記大森のアパート)で若宮正則らと一緒に起居していた。同アパートは当時若宮が借りていたものである。
「自分は、組織の指令に基づいて、同月二一日の一、二日前に、他の一人の者と一緒に、大森駅近くの飲食店で組織の者からピース缶爆弾一一個か一二個を受け取って大森のアパートに運び込んだ。同爆弾は六個入りの紙箱二つに分けて入れられており、自分らはその箱を一つずつ紙袋に入れて運んだ。それは一〇・二一闘争に使用するためのものだったと思う。運び込んだ時に、同アパートには若宮正則、荒木久義がいたと思う。同爆弾は、紙袋のまま押入れか棚かどこかにしまったと思う。そして一〇月二一日に誰かがどこかに運ぶために持ち出した。自分は同日夕方新宿方面での闘争のため他の者らとともに東京薬科大学付近に集まったが、その際誰かからピース缶爆弾一個を手渡された。他の者らにも配られていたように思う。自分は同爆弾をズボンのポケットに入れて持ち歩いたが、結局これを使用しないでその夜大森のアパートに持ち帰った。持ち帰ったことは、若宮や荒木に話したと思う。大森のアパートにピース缶爆弾を持ち帰った者は自分のほかにもいたように思う。一〇月二四日に大森のアパートにあったピース缶爆弾は、はっきりわからないが全部で二、三個であったと思う(その保管について乾燥剤を使用したと思う)。
「その後一〇月二四日までの間に大森のアパートにいた若宮や自分らの間でピース缶爆弾をどこかへ使おうという話が出て、二四日かその前日若宮が『前進』の地図を見ながら第八、九機動隊を攻撃することを提案し、自分も賛成し、それが決まった。その時に荒木もいたが、同人は参加しないと言った。もう一人いたと思うが、名前ははっきりしない。
「第八、九機動隊を攻撃することは、赤軍派組織の中央の指令によるものではなく、また、攻撃決定後これを組織に連絡したこともない。若宮と自分の単独行動である。自分らは組織の中央の方針による行動を九月から一〇月二一日までずっと行って来たが、全部不発に終ったので、組織的というよりも単発的にだれがやったかわからんという形で少人数でやった方が成功する確率が高いんじゃないかというふうに考えたのである。荒木が反対した理由はわからない。
「自分は、若宮と一緒に一〇月二四日の午後まだ陽のあるうちに大森のアパートを出発した。爆弾と手袋とマッチを紙袋に入れて持って行った。地図を持って行ったかどうかは覚えていない。爆弾は二個あったことははっきりしているが、三個あったかも知れない。二、三個という以上にはっきりといえない。紙袋には手提げはついておらず、袋の口を折って抱えて持っていった。若宮が持ったか自分が持ったかもはっきり記憶がない。
「若宮は当時普段は眼鏡をかけていなかったが、たまにはかけたりして変装することもあった。どういう眼鏡であったか、そこまで覚えていない。一〇月二四日に出かけた時に若宮が眼鏡をかけていたかどうか、はっきり覚えていない。その時の若宮の服装は、はっきり覚えていない。若宮は当時作業衣のようなものを持っていたように思う。その色であるが、赤色のものを持っているみたいだったし、グレーみたいなものも持っていたみたいである。ナイロン製の薄いペラペラしたものではなく、ブレザーコートみたいなやつであったと思う。若宮の髪の毛は、中ぐらいというか、オールバックみたいな感じであったと思う。耳は出ていた。
「自分は、第八、九機動隊の周辺に行くのはその時が初めてであった。若宮がどうであったかはわからない。電車に大森駅で乗ったのか、どこの駅で降りたのか覚えていない。どこかの駅で降りて大分歩いて上り坂みたいな細い道を歩いたような記憶があるが、あまり詳しくは覚えていない。本年(昭和五四年)の六月末か七月末かに検察官に連れられて現場引当たりに行ったことがあるが、その時は、大久保駅か新大久保駅からずっと広い道を通って行き、途中から左か右に折れて細いような上り道というか、そういう感じの道を行った。細いといっても自分のイメージとちょっと違っていたが、上り坂であった。その引当たりの時に一番よく覚えているのは第八、九機動隊の向かいの道(「正門前の路地」)をちょっと入ったところの三叉路(前記検証調書『V』地点がこれに当たる。以下、『三叉路』という。)である。また、正門前の路地の奥に公園があり、その横に短い急な坂道があるが、その下の道路も歩いた記憶があった。
「若宮と一緒に駅から第八、九機動隊に行った時、途中グルグル回ったような気もするが、そんなに迷った感じもなかった。若宮が地図のようなものを見ながら行ったのかどうかはっきり覚えていない。若宮は自分より道を知っているような感じで、自分は若宮のあとをついて行ったという感じである。
「若宮と第八、九機動隊の近くの下見をした。その時若宮と歩いたのは、正門前の路地、余丁町通りに通ずる路地、正門前の路地の東方にある道など、機動隊の位置からすれば都電通りを隔てた反対側にある道路ばかりであって、同機動隊の正門の直前の歩道、同機動隊の横の道など、同機動隊側の道は歩いていない。同機動隊の東側のガソリンスタンドには気づいていない。同機動隊の向かい側の歩道を二、三回ウロウロしたが、正門の所に機動隊員四名か六名の姿が見えたので、自分はこれじゃヤバいからやめておこうと若宮に申し出た。若宮は『おれ一人でもやる』と言っていた。『ここでやめるのはけしからん』というようなことは言わなかった。三叉路の所で、自分は、若宮に爆弾一個とマッチかライターと手袋を渡し、残りの爆弾と手袋は自分が持って帰った。持ち帰った爆弾は、紙袋に入れてバランスがよくとれていたから二個であったような気がするが、一個であったような気もするし、はっきりしない。三叉路の所で若宮と別れたが、その時刻は、薄暗くなるちょっと前の五時か六時ごろであったと思う。若宮と一緒に駅で電車を降り第八、九機動隊の近くに着いてから同人と別れるまでの間に、一度駅へ引き返したという記憶は全然ない。駅を降りた時に帰りの切符を買ったような気がする。
「若宮と別れて、三叉路から路地(余丁町通りに通ずる路地)を歩いて広い道に出て、タクシーで近くの国電の駅か何かの駅に行った。大森のアパートにはかなり遅く帰り着いたが、丁度靴を脱いだ頃に若宮が帰って来た。荒木は、『機動隊を二人組か三人組が攻撃したというふうなニュースが流れた』と言ったが、自分はやったのは一人だけであるから、おかしいなと思った。若宮は『投げたけれど、音はしなかった。やっぱり爆発しなかったか』というようなことを言っていたと思う。自分が持ち帰った爆弾は押入れか棚かどこかに置いたと思う。持ち帰ったことは若宮もわかっていると思う。自分はその翌日大森のアパートを出たが、それ以後同アパートには行っていない。」
以上のとおりである。
(3) 荒木証言の要旨
五部八七回証人荒木久義の供述(証四五冊一二一六四丁)及び一六四回証人荒木久義の供述(七七冊二九六〇六丁)(併せて「荒木証言」という。)の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、赤軍派に属していたが、昭和四四年一〇月二四日午後大森のアパートに若宮正則と二人でいた時、若宮は、中核派の機関紙『前進』の地図を見ながら第八、九機動隊を攻撃しようじゃないか旨言い出した。しかし、自分は、組織の指令によらない行動であるから同調しなかった。しばらくして、外出していた遠藤が帰って来た。若宮は遠藤をつかまえて二人で何か話をしていたが、間もなく若宮と遠藤は大森のアパートを出て行った。
「若宮が遠藤と出て行った時の若宮の服装は覚えていない。若宮はちょっと近眼であるが、眼鏡はあの当時はかけていなかったと思う。当時若宮はジャンバーと背広を持っていたが(青系統の色だったと思うがはっきりわかり兼ねる)、一〇月二四日出かける際にどちらを着ていたのか、記憶にない。若宮の身長は一六五センチ程度だと思う(以上五部八七回の供述による)。服装については記憶がないが、若宮は、当時眼鏡をかけたりはずしたりしていた。その当時若宮は黒系統の背広を着ていたので、それじゃないかと思うが、はっきりしたことはいえない。髪の毛は短く刈り上げていたと思う(以上、当部一六四回の供述による)。
「自分は、若宮と遠藤が大森のアパートから出かけて行った後、同アパートに残ってラジオをかけ放しにしておいたところ、何時ごろであったか、臨時ニュースで、爆弾が第八、九機動隊に投げ込まれたが、立番中の機動隊員が踏み消し、学生風の男三人が現場から逃げて行った旨が放送された。三人ということであるので、自分はおかしいなと思った。若宮が大森アパートに帰って来たのは午後一〇時ごろじゃなかったかと思うが、ニュースを聞いたのは若宮が帰って来る前である。
「若宮は一人で帰って来た。帰って来た時酒臭かった。一緒に出かけた遠藤は途中で日和って帰ってしまったので自分一人でやったと言っていた。ラジオのニュースの点について若宮から説明を聞いたことはない。遠藤が大森のアパートに帰って来たかどうかについては、帰って来たような気もするが、はっきりしない。」
以上のとりである。
二、若宮証言の信用性
そこで、これらの証言について、若宮証言から順次その信用性を検討する。
(1) 証言内容自体の疑問点
若宮証言には、まず、その証言内容自体につぎのような疑問点がある。
① 若宮は、共産主義者同盟赤軍派に属していたものであるが、第八、九機動隊に対しピース缶爆弾を投げるという相当重大な闘争行為が赤軍派上層部の指令ないしそれとの連絡もなく、若宮一人の判断で「前進」の地図を見ただけで決定、実行されるということは、容易に理解し得ないことである(若宮が自己一人の判断で決行したことの理由として述べるところは納得し得ない)。さらに、残りのピース缶爆弾二個を大森のアパートに放置したまま大菩薩峠に出かけ、同所で赤軍派の上層部の者らと顔を合わせた際に第八、九機動隊事件について報告を求められることもなかったという点も、同様に理解し得ないことである。
なお、大菩薩峠事件で押収されたピース缶爆弾三個の導火線は、中野坂上事件で遺留された同爆弾三個に比して約五センチメートル短いが(徳永勲44・12・13鑑定(謄)・証六〇冊一五〇〇三丁、久保田光雅44・12・12鑑定(謄)・証六〇冊一五〇二三丁参照)、これは、赤軍派幹部が、大菩薩峠集結に際し同派構成員に導火線を切り詰めるように指示し、その理由として「導火線が長過ぎたので投げた時踏み消されて失敗したからだ」旨説明していることから窺い得るように(木村一夫44・11・17検面(謄)・証一一四冊二八五四一丁、酒井隆樹44・11・26検面(謄)・証一一四冊二八六一七丁参照)、赤軍派上層部が第八、九機動隊事件の報告を受けて対策を講じたことを示すものである。
② 若宮は、一〇月二四日当日、第八、九機動隊をピース缶爆弾で攻撃することは決めていたが、その具体的攻撃方法は現場に着いてから調査して決めることとして同機動隊に赴いたのであるが、このような場合は、当然、まず現場付近の状況を調べて適当と認められる攻撃地点及び攻撃方法等を決め、その後に攻撃後の逃走の方向や方法を調査するものと考えられる。ところが、若宮は、第八、九機動隊前に到着するや、攻撃地点について調査することもなく、同機動隊正門向かい側にある路地(この路地は爆弾投擲後の逃走路となったというものである。)を歩いてみただけで、逃走路を確認し、途中の時間を調べるために一旦新大久保駅まで引き返したというのであって、このようなことも容易に理解し難いことである。
③ 逃走路を調べるにしても、第八、九機動隊付近の道路を調べる必要はあろうが、わざわざ遠方の新大久保駅まで戻ってみる理由はない(なお、若宮が同駅に降りて歩いたという道路、すなわち大久保通りは一直線でわかりやすいし、また、駅であらかじめ切符を買っておくということも追跡を受けた場合逃走上ほとんど役立たないことである)。のみならず、後述のように新大久保駅と機動隊正門との間の徒歩時間は二十数分を要すると認められ、機動隊付近の調査をして具体的な攻撃方法を決定するまでの貴重な時間を往復一時間に近い距離を歩いて費やすことなど、ほとんど考えられないことである。古川証人は、新大久保駅まで一度引き返したことなど全然記憶にない旨供述している。
④ 若宮がこれから攻撃しようとしている第八、九機動隊の警備の隊員の立っている正門直前の歩道を、古川とともに短時間に三回も通るということは、あまりに無警戒過ぎることであって、不自然である(もっとも、若宮は一六九回公判でこの通行のことを明瞭に証言しながら、一七一回公判では三回のうちあと二回は向かい側の歩道を歩いたように思う旨証言を変えたが、このことも、かえって疑問を強めるものである)。なお、古川証人は、都電通りの同機動隊側にある道は歩かなかったと供述している。
⑤ 若宮が古川にピース缶爆弾一個を手渡すについて、第八、九機動隊西側の道路からわざわざ前記変則交差点より西方の路地にまで移動して手渡したということも理解し得ない。ピース缶爆弾一個を人目を避けて手渡すことぐらいは、機動隊西側の道ででも十分にできたはずである(しかも、当時は日没後で相当暗くなっていた時刻である)。なお、古川は、攻撃参加断念後に自分の方から若宮に爆弾を渡したと供述している。
⑥ なお、若宮は、「品川方面から山手線の電車に乗って来て新大久保駅で降り、駅前の通りを乗って来た電車の進行方向に向かって左側に歩いて行った記憶がする」旨供述するが、初めての場所であるにしても、「前進」の地図上も第八、九機動隊が電車の進行方向に向かって右側の方向にあることは明らかなところであり、また、若宮の供述によれば一度同駅まで戻ったというのであるから、右供述は必ずしも単なる錯覚とは見難いところである。
(2) 当裁判所の検証調書との相違点
つぎに、若宮証言には、国電新大久保駅から第八、機動隊まで及び同機動隊周辺の道路状況等に関する当裁判所の検証調書(八一冊三一二八四丁)と明らかに相違する点が少なくないが、その主なものを挙げると、つぎのとおりである。
① 大久保通りを右折する地点(検証調書「D」、「E」地点)は、右側のフェンス、眺望、大久保通りに沿った下り坂、細い道路(同「E」地点から「F」地点に通ずる道など)等特色のあるものであり、もし地図を見ながら初めて通行するのであれば慎重に地図と照合しつつ右折する必要があると思われ、記憶に残ってよいと考えられるが、若宮は同所を二回も往復したというのに、大久保通りからの右折に関するその供述にはこのような特色ある道路状況の記憶を窺わせるものを認めることはできない。
② 若宮は、新大久保駅から第八、九機動隊の正門前までの所要時間について、「第一回目は地図を見ながら歩いたので一五分か二〇分ぐらいかかったと思う」旨を述べ、「第二回目はさっさと歩いて一〇分近くかかった。一〇分以内という感じである」旨を述べている。しかし、検証の結果によれば、普通人の足の速度で歩いて約二五分程度はかかることは明らかであり、まして初めての者が地図を見ながら行けば三〇分前後はかかると認められ、さらに二回目に歩くにせよ、約「一〇分」、あるいは「一〇分以内」で行くことは到底不可能と認められる。
この疑問点と関連することであるが、若宮が「新大久保駅前の通りを右折してから抜弁天交差点まで歩いて二、三分で、一〇〇メートルか一五〇メートルぐらいであり、五、六分ないしそれ以上もかかるということはなかった」旨供述する点も、明らかに道路の状況と相違するところである(同所は優に徒歩五、六分以上を要する)。
③ 第八、九機動隊の東側は草の生えた土手の上に比較的簡易な塀があり、これに接して幅員約四・五メートルの道路があって、攻撃しやすい状況にみる。もし若宮が同機動隊正門直前の歩道を三度も通ったのであれば当然この状況に気がつくはずであり、この方面からの攻撃の可否を考えたはずである。ところが、若宮は、三度も通りながら東側の道路に気がつかなかったということであり、このようなことは理解し得ないことである。
④ その他、若宮の供述中の以下の諸点、すなわち(一)第八、九機動隊のすぐ東隣りにガソリンスタンドがあったとの点、(二)都電通りを横断したとの地点(検証調書「R」地点がこれに当たる。)がガソリンスタンドよりも河田町(東方)寄りであるとの点、(三)その歩行したという路地の中で検証調書「R」に当たる地点と「S」に当たる地点との距離が同「S」に当たる地点と「U」に当たる地点との距離よりもはるかに短い点、(四)正門前の路地からその東方の道路(検証調書「R」から「T」へ通ずる道路)に下りる道が検証調書「U」地点より「S」地点へ通ずる道以外にもあるとする点、(五)機動隊攻撃の少し前に石段で休んだという「子供の遊び場」の有無(当時子供の遊び場はなかったと認められる。検証調書中の検証立会人増田陽子の供述記載・八〇冊三一三八六丁参照。なお、一七一回公判並びに公判準備調書・八一冊三一〇四三丁参照)等も、それぞれ当裁判所の検証調書と相違するものである。
(3) 古川証言及び荒木証言との相違点
さらに、若宮証言には、古川証言と対比すると、さきに摘記したように、第八、九機動隊攻撃前に機動隊正門の都電通りの向かい側ばかりでなく機動隊側の道路状況をも調査したかどうか、また、道路状況の調査中に一度新大久保駅まで引き返したことがあったかどうかという重要点での相違があるばかりでなく、第八、九機動隊攻撃決定に至るまでの大森のアパート内での謀議の状況、攻撃の日に若宮と古川が同アパートを出発した時及び同アパートに帰着した時の各状況、また、大森のアパートから機動隊までのピース缶爆弾、マッチ、手袋の携行状況等においても明らかな相違が見られるのであり、さらに、荒木証言と対比すると、機動隊攻撃当日の大森のアパートからの若宮及び古川の出発時並びに帰着時の各状況等において明らかな相違が見られるのである。
(4) 事件発生当時の状況との相違点
(爆弾投擲時の警備状況及び爆弾投擲時刻の決定)
前記(第二章第一節一をいう。以下本項において同じ。)のとおり、昭和四四年一〇月二四日に正門に向けてピース缶爆弾一個が投擲された時刻は丁度午後七時ごろであり、あたかも正門前で警備に当たる機動隊員の交替時期であったのであって、このことは、犯人が事前の調査により同時刻が警備員の交替時期で、監視の目がゆるむことなどを見図らって犯行に出たことを示すものと考えられるが、若宮証言によれば、この点の事前の調査もなく、爆弾を投擲したのが偶然午後七時になったことにならざるを得ないのであって、この点のみをもってしても若宮証言の信憑性に重大な疑問を抱かせるに十分なものということができる。
(犯人の爆弾投擲状況)
前記のとおり、機動隊員河村周一巡査は、犯人は右足を少し前に出して右手で爆弾を投げたとの状況を目撃している(同巡査は、同巡査の前記員面調書、検面調書及び五部公判調書において一貫してこの旨を供述している)。
ところが、若宮は、「自分は左利きであり、左手で投げた」旨明瞭に供述しているのであって、右目撃状況と明らかに相違するものである。
(犯人の数)
前記のとおり、高杉早苗の供述及び河村巡査が犯人追跡中通行人の女性から聞いたことを併せると、爆弾投擲には、投擲者一人のほかに三人の者が何らかの関与(投擲の補助、後方の見張り等)をしていた可能性が高いと推認される(前記のとおり、河村巡査が通行人の女性から聞いたという三人の者が事件と関係のないことの可能性を全く否定し去ることはできないが、何らかの関与をしている可能性がより大きい)。
これは、犯人は若宮一人であるとの若宮証言と相違するものである。
(犯人の頭髪)
前記のとおり、高杉早苗が目撃した犯人の容貌の中でその頭髪はロングヘアーとまで行かないが、ちょっと長めの、オールバックのような感じであったというのである。
ところが、若宮は、頭髪について「当時は大体スポーツ刈りであったから、そんなに長くなかったと思う」と供述しており(なお、証人荒木も同旨の供述をしている)、高杉の供述する犯人の頭髪(容貌のその他の点はさておく。)と相違するものである。
三、古川証言の信用性
古川証言についても、第八、九機動隊攻撃を決定したことの唐突さ(前記若宮証言の疑問点(1)①。この点についての古川の供述も容易に理解し得ない)、古川が攻撃直前になって中止を主張し離脱したことの唐突さ(この点についての古川の供述も十分納得し難い)等の重要な疑問点があるばかりでなく、古川の供述によると、機動隊攻撃の日に大森のアパートから持って行ったピース缶爆弾が二個であったか三個であったか、自己が持ち帰った同爆弾が一個であったか二個であったかについてはっきりした記憶がないというのであるが、このようなことは当然記憶にあってよいと思われる事柄の一つであって、この供述も容易に理解し得ないところである。
さらに、古川証言には、若宮証言と明らかな相違点のあることは前記のとおりであり、また、大森アパート出発時及び帰着時の状況等において荒木証言とも相違する点があるものである。
なお、古川証言には、当裁判所の検証調書と直截、明瞭に相違する点はないが、この点については、同人は昭和五四年に検察官によるいわゆる現場引当りを受けていることが考慮されるべきであろう。
四、荒木証言の信用性
荒木証言についても、若宮が「前進」の地図を見ただけで突然に第八、九機動隊に対する攻撃を言い出し、古川を誘って攻撃に出て行ったことの唐突さ等において、若宮及び古川両証言についてと同様に、にわかに首肯し得ないところがあり、また、当日大森のアパートに帰って来た若宮から「自分一人でやった」旨を聞いたとの供述も、若宮及び古川各証言について右のような多くの疑問点がある以上、にわかに信用し得ないものである。
五、結論
若宮及び古川の各証言には、第八、九機動隊付近の状況その他について大まかに見ると客観的状況と合致する点も認められ、従って、両名が同機動隊付近を歩いた経験(古川については前記現場引当たり以外のもの)があるのではなかろうかと考えられ、さらには、両名又はその一人があるいは第八、九機動隊事件に何らかの形で関係していたのではないかとの推測(単なる推測である。)もなし得ないではない。
しかしながら、証人若宮は、検察官の反対尋問に対して一切供述を拒否したものであり(裁判所の尋問に対しては供述をした)、その点においてもともと信憑力に欠けるものがあるといわざるを得ないのであるが、その点を度外視しても、若宮、古川及び及び荒木の各証言を詳しく検討すれば、以上のとおり、多数の疑問点のあることを免れないのであって、これらの各証言をもって、直ちに、弁護人の主張するように、第八、九機動隊事件は若宮の単独犯行であって、被告人らの犯行でないことを示す証拠であると認めることはできないものである。
第六章結語
本件証拠調の結果によれば、増渕、前林、堀、江口がそれぞれ起訴されたピース缶爆弾関係事件の犯行に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずるまでには至らず、従って、これらの被告人四名に対しては、刑訴法三三六条によりピース缶爆弾事件の当該公訴事実につきいずれも無罪の言渡をすべきものである。
思うに、本件捜査を見るのに、捜査官の証拠物や関連事件との関係についての検討の不十分さ、各自白内容の吟味の不十分さ、被告人らの本件当時の行動状況(アリバイ関係)の調査の不十分さが目立つのであり、もし慎重な捜査がされていたならば事件の真相を解明することができたのではないかとも思われるのである。
第三部日石本館内郵便局事件及び土田邸事件
第一章公訴事実
一、日石本館内郵便局事件
被告人増渕、同前林、同堀、同江口、同中村(隆)、同榎下に対する各昭和四八年五月五日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも、
「被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警察庁長官後藤田正晴、新東京国際空港公団総裁今井栄文等他人を殺害する目的をもって、弁当箱に、塩素酸ナトリウム・クロム酸ナトリウム・砂糖などを充填し、これに手製雷管・乾電池・手製スイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納した箱の包装を解くことなどにより爆発する装置を施した爆発物二個を、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分すぎころ、東京都港区西新橋一丁目三番一二号日石本館内郵便局において前記後藤田正晴、同今井栄文各宛小包郵便物として受け付けさせ、同郵便局員星野栄(当二六年)らにおいてこれらを取扱中同日午前一〇時四〇分ころ爆発するにいたらしめ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により右星野栄に対し加療約四〇日を要する顔面・右耳介部第一度熱傷、右上肢・胸部第二度熱傷を負わせたが、同人を殺害するにいたらなかったものである。」
というものである(「日石本館内郵便局事件」又は「日石事件」という)。
なお、検察官は、冒頭陳述において、共犯者(幇助犯を除く。)は増渕、前林、堀、江口、中村(隆)、榎下であると陳述している(増渕一冊五〇丁、前林一冊三三丁、堀・江口一冊一三二丁、中村(隆)一冊五〇丁、榎下一冊四三丁参照)。
二、土田邸事件
(一) 被告人増渕、同前林、同堀、同江口、同中村(隆)、同榎下に対する公訴事実
被告人増渕、同江口、同堀に対する各昭和四八年四月四日付起訴状記載の公訴事実第二、同前林、同榎下に対する各同年五月二日付起訴状記載の公訴事実、同中村(隆)に対する同年四月三〇日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも、
「被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警視庁警務部長土田国保及びその家族らを殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を、昭和四六年一二月一七日東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局に小包郵便物として差し出し、同都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号前記土田国保宛郵送し、翌一八日午前一一時二四分ころ右土田方においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により同人の妻土田民子(当四七年)を即時爆死させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎(当一三年)に対しては加療約一か月を要する顔面・両手第二度熱傷などの傷害を負わせたにとどまり同人殺害の目的を遂げなかったものである。」
というものである(「土田邸事件」という。また、日石事件と併せて「日石土田邸事件」という)。
なお、検察官は、冒頭陳述において、共犯者(幇助犯を除く。)は増渕、前林、堀、江口、中村(隆)、榎下、松本であると陳述している(増渕一冊六二丁、前林一冊四五丁、堀・江口一冊一四四丁、中村(隆)一冊六五丁、榎下一冊五二丁参照)。
(二) 被告人松村に対する公訴事実
被告人松村に対する起訴状記載の公訴事実は、
「被告人は、増渕利行らが、治安を妨げ、かつ、警視庁警務部長土田国保及びその家族らを殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を、昭和四六年一二月一七日東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局に小包郵便物として差し出し、同都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号前記土田国保宛郵送し、翌一八日午前一一時二四分ころ右土田方においてこれを爆発させて爆発物を使用するとともに、右爆発により、同人の妻土田民子を即時爆発させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎に対しては加療約一か月を要する顔面・両手第二度熱傷などの傷害を負わせたにとどまり同人殺害の目的を遂げなかった際、右増渕らが前記各犯行を行なうものであることの情を知りながら、同年一〇月二三日ころから同年一一月中旬ころまでの間数回にわたり、自己の勤務先である同都杉並区天沼一丁目四五番三三号学校法人日本第二学園の職員室等を右増渕らの前記各犯行を行うための連絡・謀議の場所として提供し、もって、右増渕らの前記各犯行を容易ならしめてこれを幇助したものである。」
というものである。
(三) 被告人中村(泰)に対する公訴事実
被告人中村(泰)に対する起訴状記載の公訴事実は、
「被告人は、昭和四六年一二月一一日ころ、東京都八王子市東町五番一三号東京都八王子保健所において、増渕利行らが治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって使用するものであることを知りながら、同人らの依頼により、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなど用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を預り、前同日より同月一五日ころまでの間、同所においてこれを保管し、もって、爆発物の寄蔵をなしたものである。」
というものである。
なお、検察官は、冒頭陳述において、被告人中村(泰)が寄蔵した爆発物一個はその後土田邸事件に使用されたものである旨陳述している(中村(泰)一冊二八丁参照)。
(四) 被告人金本こと村松に対する公訴事実
被告人金本こと村松に対する起訴状記載の公訴事実(昭和五五年一二月一六日付訴因変更請求書による変更((一〇七冊三九八六八丁、一一六冊四二〇一七丁参照))後のもの)は、
「被告人は、増渕利行らが、治安を妨げ、かつ、警視庁警務部長土田国保及びその家族らを殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を、昭和四六年一二月一七日東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局に小包郵便物として差し出し、同都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号前記土田国保宛郵送し、翌一八日午前一一時二四分ころ右土田方においてこれを爆発させて爆発物を使用するとともに、右爆発により同人の妻土田民子を即時爆死させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎に対しては加療約一か月を要する顔面・両手第二度熱傷などの傷害を負わせたにとどまり同人殺害の目的を遂げなかった際、右増渕らが前記各犯行を行なうものであることの情を知りながら、同年一二月初旬ころ同都世田谷区給田四丁目一九番一一号高橋荘内右増渕居室において、前記爆発物一個を小包郵便物として郵送するため、右爆発物を包装紙・ガムテープなどを用いて包装し、もって、右増渕らの前記各犯行を容易ならしめてこれを幇助したものである。」
というものである。
第二章事件の発生
証拠により認められる日石本館内郵便局事件及び土田邸事件の発生状況は、つぎのとおりである。
第一節日石本館内郵便局事件
一、日石本館内郵便局における郵便小包の爆発
(員)北田稔の46・10・30実見(謄)(増渕証一冊及び二冊、前林証一冊、堀・江口証二冊及び三冊、中村(隆)証一冊及び二冊、榎下証一冊ないし三冊)、前林二回証人星野栄の供述(前林一冊一〇六丁)、堀・江口六回証人星野栄の供述(堀・江口二冊三五五丁)、榎下六回証人星野栄の供述(榎下二冊一九五丁)、前林二回証人本田哲郎の供述(前林一冊一四五丁)、堀・江口六回及び七回証人本田哲郎の供述(堀・江口二冊四二七丁及び四八八丁)、榎下五回証人本田哲郎の供述(榎下一冊一一一丁)、安達義彦の48・5・17検面(謄)、田口富子の48・5・8検面(謄)、嶋田美枝子の48・4・29検面(謄)、池沢ミイの48・4・19検面(謄)、船越昭の48・4・18員面(謄)、川瀬貞臣作成の診断書(謄)、市来隼人の48・4・28員面(謄)(以上、増渕証三冊、前林証二冊、中村(隆)証三冊、榎下証一冊中に編綴)を総合すれば、つぎの事実が認められる。
すなわち、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分過ぎごろ、東京都西新橋一丁目三番一二号日本石油株式会社本館地下一階にある日石本館内郵便局に女性一名(以下、甲女という。)が訪れ、当時郵便小包の受付け及び差立て事務に当たっていた同郵便局員本田哲郎に二個の小包を差し出した。甲女は、年令二〇歳ないし二四歳ぐらい、身長一五五センチぐらい、やせ型、やや面長、毛髪は長目(肩あたりまで)で、眼鏡をかけ、濃紺色の長袖の事務服を着ていた。二個の小包はいずれも市販の赤茶色の包装紙で包まれ、麻紐で十文字に縛られ、荷札が付いていたが、本田哲郎の感じでは、一つの小包は幅及び長さ各二五センチぐらい、厚さ五、六センチぐらいの大きさであり(以下、A小包という)、他の小包は、幅二五センチ、長さ三〇センチぐらい、厚さ五、六センチぐらいの大きさであって(以下B小包という)、かつ、同人が受付時に計量したところによると、いずれも重量は一キログラムから二キログラムまでの間のものであった。
そして、甲女は、本田哲郎に料金合計四三〇円を支払い、A、B両小包を受け付けさせて立ち去ったが、甲女が同郵便局に来てから立ち去るまでの時間は二分ぐらいであった。本田は、A、B両小包を持って、傍らに口を開いて立ててある普通小包郵袋(高さ約八〇センチメートル)に手を差し入れ、途中から落下させるというやり方で両小包を右郵袋に入れた。甲女は、立ち去ってから二、三分ぐらいして再び同郵便局に現われ、丁度本田とともに郵便小包の受付け及び差立て事務に当たっていた同郵便局員星野栄(昭和一九年一〇月三一日生)に対し「先程の小包の住所がちょっと違っていたようですから見て下さい」旨言い、傍らでこれを聞いた本田が「ああ、さっきの小包ですね」と言って郵袋の中からA、B両小包を取り出してカウンターの上に置いたところ、甲女は「番地が間違っているようだから持って帰ります」旨言うので、星野が「一旦受け付けた物は簡単には返せないんです。違っているならここで訂正していいですよ」旨言うと、甲女は「じゃ会社に帰って調べて来ます」旨言って立ち去ったが、甲女が再び現われてから立ち去るまでの時間は一分ぐらいであった。星野はA、B両小包をカウンターの上に置いたままにしておいたが、それから一、二分ぐらいして別の女性一名(以下、乙女という。)が同郵便局に現われた。乙女は、年令二〇歳ないし二五歳ぐらい、身長は甲女よりやや低く、丸顔で頬骨が出た感じで、毛髪は短く、眼鏡をかけず、甲女と同様の濃紺色の長袖の事務服を着ていた。乙女は星野栄に対し「先程うちの社員が来て住所が違っていると言っていましたので来ました。(自分の会社は)警備保障です」旨言い、星野は小包の差出人の記載を見て「中央警備保障さんですね」旨念を押すと、乙女は「はい」と返事をしたので、星野はA、B両小包をカウンター上に並べて乙女に見せたところ、乙女はA小包の受取人の住所の記載の上を右手の指で差しながら確認するような動作をし「合っています。間違いありません。お願いします」旨言って立ち去った。
星野は、右手でB小包の十文字の紐を持ち、左手でA小包の十文字の紐を持って、後方に振り向き、半歩ほど踏み出して、前記普通小包郵袋にまず右手を入れ、ついで左手を入れ、右手を放してB小包を下に落とし、つぎに左手を放してA小包を下に落とし、郵袋から左手を抜き、右手もほぼ抜いたが、まだ右手が郵袋上の位置にあった瞬間A小包がピカッと光ると同時にドカンという音がして熱いものが星野の右腕、脇下、顔面に吹き上げて来た。星野は、他の一つの小包も爆発すると思って一、二歩郵袋から離れて逃げ出そうとしたところ(第一回の爆発から一、二秒後)、ドカンと大きな爆発音が起こるとともに、硝子の割れる音がし、蛍光灯の覆いが割れて落ちて来て、白煙が立ちこめる状況となった。乙女が同郵便局の出入口を出てから第一回の爆発が起こるまでは星野の感じでは二〇秒ぐらいであり、爆発の起こったのは同日午前一〇時四〇分ごろであった。
星野栄は、右爆発により顔面右耳介第一度熱傷、右上肢胸部第二度熱傷を負い、昭和四六年一一月二六日まで通院治療を受けた。
以上の事実が認められる。
二、爆発物の構造及び包装等
前掲(員)北田稔実見(謄)のほか、(員)北田稔46・10・20捜差(謄)、(員)高木男誠46・10・20鑑嘱(謄)、科検主事金木吉次の47・7・7鑑定(謄)、同宮野豊の48・4・28鑑定(謄)、同所副参事荻原嘉光の48・4・28鑑定(謄)(以上、増渕証四冊、前林証二冊、堀・江口証四冊及び五冊、中村(隆)証二冊及び三冊、榎下証三冊及び五冊に編綴)、堀・江口五回証人北田稔、金木吉次、宮野豊の各供述(堀・江口一冊二四三丁、二八五丁、三〇三丁)、堀・江口九回証人荻原嘉光の供述(堀・江口二冊六七五丁)、榎下六回証人宮野豊の供述(榎下二冊二四一丁)、榎下七回証人荻原嘉光の供述(榎下二冊三〇六丁)、(員)古賀照章の48・5・10爆弾の構造等に関する捜報(謄)(以下本項で、「古賀・捜報」という。中村(隆)証一七冊二四七三丁。なお、中村(隆)を除く日石事件被告人ら関係の立証趣旨につき二七〇回公判調書・一四九冊五〇八六三丁参照)、堀・江口一四回及び一五回証人古賀照章の供述(堀・江口四冊一三六六丁、一三九八丁)、押収にかかる証拠物(現場残存物件。証一号ないし三〇号及び一二七号)を総合すれば、つぎの事実が認められる。
すなわち、まず、現場に残存したA小包の包装紙には荷札二枚が貼付されており、その中の一枚(証一六号)は「〔荷受人〕新宿区下落合一の四一八 目白パークマンション 後藤田正晴〔様〕」(〔 〕括弧内は印刷不動文字。以下同じ。)と、他の一枚(証二〇号)には「〔荷送り人〕港区新橋2―9―1 青葉ビル 中央警備保障業務部〔出〕」との記載があり、A小包に結び付けられていたと認められる荷札一枚(証二一号)の一面(表)には「〔荷受人〕新宿区下落合一―四一八 目白パークマンション 後藤田正晴〔様〕」、他の一面(裏)には「〔荷送り人〕港区新橋2―9―1 青葉ビル中央警備保障K・K(業務部)〔出〕」との記載がある。また、B小包に結び付けられていたと認められる荷札一枚(証二二号)の一面(表)には「神奈川県横浜市美ヶ丘3の8の10 今井栄文〔様〕」、他の一面(裏)には「港区新橋 新幸ビル 東京貿易K・K〔出〕」との記載があり(〔様〕と〔出〕以外の不動文字の部分は破損欠如)、B小包の包装紙に貼付されていた荷札の断片を復元したもの(証一二七号)には今井栄文の住所及び宛名の文字(但し、全部かつ完全ではない。)の記載がある。そして、以上の各荷札(包装紙に貼付されたものを含む。)に記載されている文字は、証一二七号の文字を除いて、黒色又は青色のインクペン又はポールペンで下書がされ、かつ、その上になぞり書きがされており、ただ証一二七号の文字にはなぞり書きがされていない(なお、以上の文字中には一部変形文字があるが、その指摘は省略する)。
つぎにA小包及びB小包は、それぞれ爆発物を包蔵していたものであり(以下、A小包内の爆発物を爆発物A、B小包内の爆発物を爆発物Bという)、爆発物Aは弱い爆発(爆燃状態)を起こしたに止まったが、同Bは強い爆発を起こしたものである。そして、爆発物Aは、縦約二〇・五センチ、横約一三・六センチ、高さ約三・一センチ、肉厚約〇・七八ミリのアルマイト製と思われる弁当箱に直径約一・六ミリの針金を巻き(約二〇巻き)、さらに幅一七ミリのビニールテープ(残存幅であり、規格幅一九ミリのものを使用したものと思われる。)及び幅約五〇ミリのガムテープを巻き、これが爆発物本体であり、これにソケット付ガスヒーター、乾電池(ナショナルハイトップ単三型)、長さ各約一〇センチ、幅約二・六センチ又は二・四センチ、肉厚各約〇・八ミリのアルミ板(大部分にビニールテープを巻き、一端を露出させてあるもの)二枚を重ね合わせ、一端に黄色厚布片を絶縁体として挿入した手製スイッチ等を装置し、本体容器に塩素酸ナトリウムを主成分とし、これにクロム酸ソーダ、糖類(砂糖が考えられる。)を配合した混合爆薬を充填し、右絶縁体を抜くことによって通電する電気回路を形成し(右ガスヒーターを右爆薬内に埋め込んだもの)、これらを「ユーハイム」の表示のある空缶に収容し、この外箱(菓子缶)の蓋に穴をあけ、そこから右絶縁体を外に出し、さらに前記包装紙を折りたたみ、折りたたまれた部分(外から見えない部分)に右絶縁体の端をガムテープで接着し、このようにして包装を解くことにより、絶縁体が前記スイッチから抜けて通電し、爆発する仕掛けのものであった。
また、爆発物Bは、縦約二一センチ、横約一四センチ、高さ約二・九五センチで、かつ、少なくとも総重量約一四二・二五グラム以上の、アルマイト製と思われる弁当箱(重量は残存破片を計測したものである。)に、塩素酸ナトリウムを主成分とし、これにクロム酸ナトリウムを配合した混合爆薬を充填し(爆発物Aと同様砂糖の類をも混合したのと推定される)、これに前記爆発物Aと同様のガスヒーター、乾電池、アルミ板のスイッチを装置し、これらを、黒色ビニールテープを巻いたアルマイト製菜入箱(縦約一二センチ、幅約六センチ、厚さ約三センチ)ともに木製の箱に収容し、前記爆発物Aと同様に包装を解くことにより爆発する仕掛け(但し、スイッチの絶縁体は縫製用布製メジャー片であった。)のものであった。
そして、右爆発物A及びBの爆力は、それぞれ、その爆発により人を爆死させるのに十分な威力のあるものであった。
爆発物Aと同Bとを対比すると、つぎのとおりである。
爆発物
A
B
宛先
後藤田正晴
今井栄文
荷送人
中央警備保障KK.
東京貿易KK.
外箱
材質
ユーハイム缶(クッキー缶)
文明堂カステラ箱
寸法(センチ)
23.8×23.8×5.5
28.9×17.3×7.8(木材の厚さ0.5)
包装紙
赤茶色小包包装紙
同上
紐
麻紐十字しばり
同上
弁当箱
メーカー
テイネン印
富士印(「理研」のローマ字あり)
寸法(センチ)
20.5×13.6×3.1
21×14×2.95
菜入
メーカー
ハナヒサゴ印
寸法(センチ)
12×6×3
スイッチ
材料
アルミ板二枚
同上
寸法(センチ)
2.6×10.0×0.08、2.4×10.0×0.08
いずれも1.45×10.0×0.08
スイッチの絶縁体
黄色厚布片
布製メジャー片
緊縛針金
直径一・六ミリ
直径一・〇ミリ
接着テープ
黄茶色幅五〇ミリ
同上
〃 幅一三ミリ
赤茶色〔包装紙と同色のもの。
宛名貼付荷札の下に包装紙に
貼付使用されている。〕
ビニールテープ
黒 幅一九ミリ
同上
起爆装置
ガスヒーター(2.5ボルト)、豆ソケット、乾電池(ナショナルハイトップ単三)二本、バッテリーホルダー一個
同上
荷札
貼付されたもの二枚(「様」、「出」の字体は赤色ゴチック体)
結びつけられたもの一枚(「様」、「出」の字体は赤色明朝体)
貼付されたもの一枚又は一枚(宛先のみのものを押収。「様」、「出」の字体は同上、なお、差出人の貼付荷札も存在することが、前記古賀捜報別表から窺われる。)
結びつけられたもの一枚(同上)
右の表のとおり、爆発物Aと爆発物Bとでは、スイッチの寸法と絶縁体の素材及び弁当箱に巻かれた針金の太さが異なっているのであって、この点はスイッチが同時に作成されなかったのではないか、また弁当箱に爆薬を詰める作業も別々に行われたのではないか、ひいては爆弾の製造が別の機会に行われたのではないかとの推定の余地がある。
爆発物A及びBの構造上重要な点は、いずれも包装を解くことにより包装紙に貼り付けられた絶縁体がアルミ板二枚を合わせて作った間から抜けて通電する仕組みになっている点であるが、この点についての古賀・捜報の記載は必ずしも正確でないと認められるので、以下、両爆弾の包装の仕方及びスイッチ絶縁体の包装紙への固定方法について述べることにする。
麻紐付紙片(証一六号)につき検討すると、これは爆発物Aのものであることが明らかであるが、これを展開すると、おおよそ第一図のようになる。これを直線で山折り二つ折りにし、さらに左端を直線に沿って背後に山折りにすると第二図のようになる。さらに直線及びで山折りにすると第三図のようになる。これを裏返しに見ると第四図のようになる。
爆発物Aの包装の仕方は、右麻紐付紙片からユーハイム缶の蓋の稜に沿ってあけられた細長い穴の位置等から考察すると、第三図、第四図のように折り曲げられていた可能性が最も高い。すなわち、第一図の左端の切断線はゆるい曲線になっているが、これは直線で二つ折りに折り重ねた状態ではさみで切断したことを示すもので、線を中心に曲線を状況を見るとほぼ左右対照をなし、で折合わせるとほぼ一致することからそのように推定される。
右のような折り方がされていることにより、第一図直線の右端に付着している細長いガムテープの意味が明らかになる。すなわち、同図左側の二枚のガムテープの小片を剥がし、包装紙を右上方向に開くとき、絶縁体を貼付、固定した包装紙(下面の包装紙)が下に残ることなく上面の包装紙と一緒に上に引き上げられるように上面の包装紙に下面のそれを固定するために、右細長いガムテープが使用されているのである。それにより、スイッチの絶縁部分が滑らかに上に引っぱられ、スイッチが入り易くなる構造になっていると解される。この点において古賀・捜報添付のA爆弾の図面の包装の状況は正しくないと認めることができよう。
つぎに、麻紐付紙片(テープ付。証一九号の一部)につき検討すると、これは爆発物Bのものであることが明らかであり、これもスイッチの間に挾まれた絶縁体である布製メジャーを包装紙に固定した部分の破片である。このガムテープ及びメジャー付の包装紙の断片を、それに残されている折線、ガムテープの位置等を現場写真(前記(員)北田稔46・10・30実見(謄)及び古賀・捜報各添付)と対照しながら検討すると、第五図ないし第七図のようになる。すなわち、爆発物Bも包装紙を折り曲げて、その外から見えない内側の面にほぼ正方形のガムテープで絶縁体を接着、固定していることが認められる。ただ絶縁体のメジャーが外箱のどの位置からその中に入っているかは、証拠によっては特定し難いが、右メジャー付紙片と同一の押符号で押収してある、別の折り返しが複雑にされている紙片によれば、第八図及び第九図のようであって、これによれば、小包の上面(前面)の下端付近が四枚重なる形で折り合わされていること及びその外側部分の左端にガムテープで斜めに留め、これをはずして開く構造になっていると推定することができるので、包装についても爆発物Aの構造に近いものと推定できよう(ただ、ガムテープに接して包装紙を上から下まで貫いてあけられている切り込みが何のためにつけられたのかは明らかではない)。しかし、第五図の左上の赤茶色の表面の部分が小包の上面に来ているものと解するのが最も合理的であり、かつ、第八図の折り返し状況や、第八図の包装紙部分の位置等を考え合わせると、第五図の包装紙の部分は、右上角付近に来るものとほぼ推定してよいのではなかろうか。いずれにしても、折り返しをつけて、絶縁体である布片やメジャー片が外から見えないような構造になっていたものと考えられる(この点は、爆発物Bにつき、第五図で、もし手前でなく向こう側が上面に来るとすると、メジャー片を通す穴が必要になるが、そのような穴が包装紙片上にあけられた形跡がない。あけられているとすれば、ガムテープの下か、その端でなければメジャー片が外から見えてしまい、怪しまれることになる。しかし、第五図でガムテープの下に当たる包装紙にはメジャー片を通すような切り込みはない。爆発物Aについても同様のことがいえる。なお、付言すると、包装紙は、右の各証拠物から明らかなとおり、表は赤茶色の紙、裏は黄土色の紙から成り、その間に糸がトランプのダイヤ型の目を作るように張りめぐらされており、表の紙と裏の紙とは剥がそうとすれば二枚に分かれる程度に貼り合わされているに過ぎない。従って、絶縁体の端が薄い赤茶色の紙の上にガムテープで貼りつけられた状態になっているため、絶縁体を貼付、固定したガムテープの接着部分が包装紙から剥がれる時は、黄土色の裏の部分を残して、接着テープ部分に付着している赤茶色の表の部分のみが一緒に剥がれる結果になる)。
ところで、右二個の小包内の爆発物A及びBの各手製スイッチは、その構造及び固定方法が極めて簡単なものであるため、右小包を取り扱う者により落下等の衝撃が加えられるときは、絶縁体がスイッチのアルミニウム片からはずれ、あるいはスイッチ自体が移動することなどにより通電して爆発する危険性の極めて大きいものであり、前記爆発の原因もここにあったと推定されるものである。
以上の事実が認められる。
第二節土田邸事件
一、土田邸における郵便小包の爆発
(員)藤田博46・12・31検証(謄)(増渕証五冊ないし八冊、前林証三冊ないし六冊、堀・江口・松村証五冊ないし一〇冊、中村(隆)証四冊ないし九冊、金本証一冊ないし六冊に編綴。中村(泰)五冊一二三六丁、榎下証五冊七一一丁参照)、(員)後藤軍吉46・12・20検視調書(謄)、斎藤銀次郎47・2・18鑑定(謄)、東京消防庁指令室長宮崎清47・1・28捜査関係事項について(回答)(謄)、土田恭四郎46・12・30員面(謄)、吉田重徳46・12・18及び同月27各員面(謄)、岩下守46・12・30員面(謄)、川内拓郎46・12・18診断書(謄)、川内拓郎46・12・30員面(謄)、上野冬生46・12・30診断書(謄)、当山護47・1・17員面(謄)、佐藤恒正47・1・17員面(謄)(以上増渕証九冊、前林証七冊、堀・江口証一冊、中村(隆)証一〇冊及び一一冊、榎下証三冊及び四冊に編綴。松村につき一部松村証二冊一三一丁以下。堀・江口・松村四冊一四七八丁、中村(泰)五冊一二三六丁、金本四冊一〇六七丁参照)によれば、つぎの事実が認められる。
すなわち、昭和四六年一二月一八日午前一一時ごろ、一個の普通郵便小包が東京都雑司が谷一丁目五〇番一八号土田国保方に配達された。土田国保は、当時、警視庁警務部長であった。右小包は、同人の妻土田民子(当時四七歳)によって受領された。そして、土田民子が同日午前一一時二四分ごろ階下居間において同小包の包装を解いていた時、同小包内に包蔵されていた爆発物が轟音とともに爆発し、その爆発により同女はその場で爆死し、同室に居合せた土田国保の四男恭四郎(当時一三歳)も、同爆発により加療約一か月を要した顔面、左手背・指、右手背・手掌・指各第二度熱傷、両側鼓膜穿孔、左大腿、右大腿、両上腕、腹部各挫創の傷害(左耳はその後も軽度の聴力障害が残る。)を負ったが、死亡するに至らなかった。
以上の事実が認められる。
二、爆発物の構造及び包装等
つぎの各証拠、すなわち、
① 爆発物の破片等の押収に関する(員)藤田博46・12・18、同月19、同月20、同月21及び同月22各領置(謄)(増渕証一一冊一九七一丁以下、前林証八冊一五九四丁以下、堀・江口証一一冊一四〇六丁以下、中村(隆)証一二冊一六四五丁以下、松村証六冊七三二丁以下。中村(泰)五冊一二三七丁、金本四冊一〇六八丁、榎下証五冊八二七丁以下参照)、土田国保46・12・21任提(謄)、(員)稲垣三郎46・12・24領置(謄)(以上、増渕証一一冊二〇五五丁以下、前林証八冊一六七八丁以下、堀・江口証一冊一四九丁以下、中村(隆)証一二冊一七二八丁以下。中村(泰)五冊一二三七丁、金本四冊一〇六八丁、榎下につき三五冊一二六三八丁及び一二六八二丁参照)、(員)後藤軍吉46・12・19領置(謄)(中村(隆)証一〇冊一三八四丁、松村証二冊二一二丁。増渕・前林一一冊四一一五丁及び四一二五丁、堀・江口四冊一四六六丁、中村(泰)五冊一二三六丁、金本四冊一〇六七丁、榎下につき三五冊一二六三八丁及び一二六八二丁参照)、
② 爆発物の点火装置に関する(員)松下一永47・2・7鑑嘱(白捜(鑑)第五五号)(謄)(増渕証一一冊二〇五七丁、前林証九冊一七三〇丁、中村(隆)証一三冊一七三二丁。
堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三七丁、金本四冊一〇六八丁、榎下証四冊六七六丁参照)、科検主事滝沢寛治47・10・2鑑定(謄)(増渕証一一冊二〇六五丁、前林証九冊一七一〇丁、堀・江口証一二冊一五六四丁、中村(隆)証一三冊一七四〇丁、松村証六冊八三二丁、中村(泰)証二冊一六一丁。金本四冊一〇六八丁、榎下証五冊八三三丁参照)、
③ 爆発物の組成物等に関する(員)松下一永47・2・7鑑嘱(白捜(鑑)第五四号)(謄)(増渕証一一冊二〇五八丁、前林証九冊一八一一丁、中村(隆)一三冊一七六〇丁、松村証七冊一〇〇五丁。堀・江口四冊一四六六丁、中村(泰)につき三五冊一二六三八丁及び一二六八二丁、金本四冊一〇六九丁、榎下証四冊六七七丁参照)、科検主事飯田裕康ほか四名48・3・31鑑定(謄)(増渕証一一冊二一〇四丁、前林証九冊一七三七丁、堀・江口証一二冊一五八四丁、中村(隆)証一三冊一七七六丁、松村証七冊九八〇丁、中村(泰)証二冊一三五丁。金本四冊一〇六九丁、榎下証五冊八三四丁参照)、科研技術吏員下瀬文雄47・3・14鑑定(謄)(松村証七冊一〇三七丁、中村(泰)証二冊一九八丁。増渕・前林・中村(隆)・榎下につき七八冊二九九〇九丁及び二九九二二丁、堀・江口四冊一四六六丁、金本につき七八冊三〇一六五丁参照)、(員)北村幸男47・2・28捜報(謄)(増渕証一一冊二一七二丁、前林九冊一八〇四丁、中村(隆)証一三冊一八四一丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇七〇丁、榎下証四冊七一〇丁参照)、
④ 爆発現場に残存した郵便シール及び荷札の破片に関する(員)松下一永47・2・27鑑嘱(白捜(鑑)第五三号)(謄)(増渕証一一冊二一二九丁、前林証九冊一七六二丁、中村(隆)証一三冊一八〇一丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇六九丁、榎下につき三五冊一二六三九丁及び一二六八二丁参照)、科検主事小林侑48・3・29鑑定(謄)(増渕証一一冊二一三八丁、前林証九冊一七七一丁、堀・江口・松村証一二冊一六一一丁、中村(隆)証一三冊一八一〇丁、中村(泰)証一冊一〇丁。金本四冊一〇六九丁、榎下証五冊八六〇丁参照)、科研主事小林侑49・4・22「鑑定経過補充説明書の作成依頼の回答について」(謄)(但し、榎下については原本。堀・江口・松村証一二冊一六三〇丁。増渕・前林一一冊四一一五丁及び四一二五丁、中村(隆)八冊一九二八丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇六九丁、榎下証六冊九九四丁参照)、(員)塚本孝昭48・6・30郵便シールの収集状況報告書(謄)(但し、榎下については原本。堀・江口・松村証一一冊一四九〇丁。増渕・前林一一冊四一一五丁及び四一二五丁、中村(隆)八冊一九二八丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇六九丁、榎下証六冊九九〇丁参照)、(員)羽島輝年49・4・15写撮二通(謄)、(員)大島豊49・4・15写撮(謄)(但し、榎下についてはいずれも原本。以上、堀・江口・松村証一一冊一五一八丁以下。増渕・前林一一冊四一一五丁及び四一二五丁、中村(隆)八冊一九二八丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇六九丁、榎下証六冊九九一丁・九九二丁・九九三丁参照)
⑤ 爆発現場に残存した金属片とその打刻印に関する(員)神尾正男47・2・18捜報(謄)(増渕証一一冊二一五六丁、前林証九冊一七八九丁、中村(隆)証一三冊一八二五丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇六九丁、榎下証五冊七一二丁参照)、(員)松下一永46・12・28鑑嘱(白捜(鑑)第四六一号)(謄)(増渕証一一冊二一六一丁、前林証九冊一七九三丁、中村(隆)証一三冊一八三〇丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇七〇丁、榎下証五冊七一三丁参照)、科検主事小林侑47・7・12鑑定(謄)(増渕証一一冊二一六四丁、前林証九冊一七九六丁、堀・江口証一二冊一六七五丁、中村(隆)証一三冊一八三四丁、松村証六冊八二三丁、中村(泰)証二冊一八二丁。金本四冊一〇七〇丁、榎下証五冊七一四丁参照)、一五六回証人青田実の供述(七二冊二七六九九丁)、(員)桜井隆司ほか一名46・12・20捜報、桜井隆司46・12・19任提(謄)、(員)稲垣三郎46・12・19領置(謄)、青田三郎46・12・21任提、(員)高橋広志46・12・21領置、高橋広志47・7・13任提(謄)、(員)塚本孝昭47・7・13領置(謄)、(員)松下一永47・3・13鑑嘱(自白鑑第九六号)(以上、証二冊三三六三丁以下)、山下雄三47・4・3鑑定(証四九冊一二九九五丁)、阿部隆ほか四名47・4・3アルミニウム製弁当箱破片に関する調査報告書(写)(証四九冊一二九九八丁)、
⑥ 郵便小包(爆発物)の包装に関する科検技術吏員菊地幸江ほか一名47・3・11鑑定(謄)(松村証六冊八一六丁、中村(泰)証二冊一九一丁。増渕・前林・中村(隆)・金本・榎下につき四〇冊一四九〇六丁、堀・江口四冊一四六六丁参照)、金本五回証人川崎勝美の供述(金本一冊二三七丁。増渕・前林一一冊四一二二丁及び四一三〇丁、堀・江口・松村四冊一四七三丁及び一四八四丁、中村(隆)八冊一九三五丁、中村(泰)五冊一二四四丁、榎下につき榎下二二冊四二三三丁及び((併合後の))二一冊七四九九丁参照)、
⑦ 爆発物の包装形態・構造・薬品・威力等に関する(員)松下一永47・2・7鑑嘱(白捜(鑑)第五六号)(謄)(増渕証一一冊二一七九丁、前林証九冊一六八〇丁、中村(隆)証一三冊一八四八丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁、中村(泰)五冊一二三八丁、金本四冊一〇七〇丁、榎下証四冊七〇九丁参照)、科検副参事荻原嘉光48・3・31鑑定(謄)(増渕証一一冊二二〇九丁、前林証九冊一八二九丁、堀・江口証一二冊一六八四丁、中村(隆)証一三冊一八七八丁、松村証二冊二一八丁、中村(泰)二冊一二四丁、金本証六冊七三一丁。榎下証六冊八七四丁参照)、証人荻原嘉光の各供述(堀・江口・松村一三回・四冊一一七五丁、中村(泰)三回・一冊四二丁、金本五回・一冊二二二丁、榎下一六回六冊一三六六丁)、証人古賀照章の各供述(堀・江口・松村一四回及び一五回・四冊一三六六丁及び一三九八丁、中村(泰)三回・一冊七六丁、金本四回・一冊一六七丁、榎下九回及び一〇回・三冊五〇八丁及び六二八丁並びに二三九回・一二八冊四五二三九丁)、
⑧ 爆発実験に関する(員)松岡忠雄47・2・23爆発物実験結果見分捜査報告書(謄)(但し、前林、中村(泰)及び金本については一部を除く。増渕証一二冊二二七七丁、中村(隆)証一四冊一九五〇丁、松村証七冊九四四丁。堀・江口四冊一四六六丁、前林・中村(泰)につき七八冊二九九一〇丁及び二九九二二丁、金本につき七八冊三〇一六六丁参照。榎下証六冊九八九丁参照)、(員)関春雄47・5・9第二回爆発物実験結果見分報告書(謄)(但し、増渕、前林、中村(隆)及び金本については一部を除く。松村証六冊八五一丁、中村(泰)二冊二〇五丁、榎下証七冊八九六丁。増渕・前林・中村(隆)につき七八冊二九九一〇丁及び二九九二二丁参照。堀・江口四冊一四六六丁、金本につき七八冊三〇一六六丁参照)、
⑨ マイクロスイッチの破断片等の赤色付着物に関する斎藤治一54・6・14鑑定(証五八冊一四六六一丁)、樋田道芳54・6・21鑑定(証五八冊一四六八八丁)、
⑩ 押収にかかる証拠物(現場残存物件。証三一号ないし五五号、六〇号ないし六二号、二三八号ないし二四二号、二七九号及び二八〇号)によれば、つぎの事実が認められる。
(一) 郵便小包に付けられていたと認められる荷札一枚(証五二号)には、いずれも墨筆で、一面(表)に「都内豊島区雑司ヶ谷一ノ五十 土田国保様」、他の一面(裏)に「千代田区九段南一ノ一久保卓也」と書かれ、また、同小包の包装紙の一部を復元したもの(証六〇号及び証六一号)には墨筆による土田国保及び久保卓也の各住所及び氏名中の数文字の各部分が残っていること(以上の文字中の変形文字の指摘は省略する)。
(二) 小包に貼付されていたと認められる郵便シール(郵便料金別納計器証紙)の破片(一部)を集めてその一部を復元すると、そこに印出されている残存印影は、東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号所在の神田南神保町郵便局の印影と極めて類似しており、同小包は同郵便局に差し出され、受け付けられたものと推定されること、
(三) 爆発現場に残存したアルミニウム破片に打刻されている文字と模様の一部から、同破片は、東京都墨田区東向島二丁目一九番一七号株式会社青田製作所で製造した深大角弁当箱(〇・八ミリのアルミ板を用い、アルマイトメッキ加工をしたもの)の破片と認められること、
(四) 爆発現場の物件から塩素酸イオン、ナトリウムイオン及び糖が検出されたことから、爆発物の主体であった爆薬は、塩素酸塩及び糖を含む、塩素酸塩系爆薬が含まれていたものと推定されるが、それ以外に、成分は検出されていないが、爆発の状況から、右爆薬よりも爆速の速い何らかの高性能爆薬が含まれていたものと推定されること、
(五) 爆発現場の残存物(破片)等から、爆薬は、前記アルマイト製弁当箱(内容積約一リットル)に充填され、弁当箱は、ビニールテープ等で厚く巻きつけられ、さらに、この弁当箱は、杉属樹種から成る木箱と推定される容器に収容されていたと推定されること、
(六) 爆発現場に残存した物件(破片)の中に積層乾電池(ナショナルハイトップ〇〇六P―D)一個、ガスヒーター(電圧階級一・三ボルト)と同用ソケット(E一〇)各一個、マイクロスイッチ(株式会社サン電業社製MULON・MLV―2型)とバッテリスナップ一個、ビニール絶縁線の破片と認められるものが存在することから、右弁当箱及び木箱内には、右マイクロスイッチ、積層乾電池、ガスヒーター及びソケット等で構成される無時限式点火装置が取り付けられ、爆薬を点火又は起爆させる構造であったと推定されること、
(七) 爆発現場に残存した赤茶色の紙片から、爆発物を収容した右木箱は、赤茶色の包装紙や封緘シール等から成る小包セット(当時市販されていた渦巻印の小包セット)を用いて包装されていたものと推定され、かつ、その包装紙は、この種包装紙を生産しているカクケイ工業株式会社製の包装紙と推定されること、
(八) 爆発現場に残存した右赤茶色の紙片の一部にガムテープが付着しているところ、その付着状況は、その包装紙の一部を右木箱の縦の長さの幅で帯状に切断し、まずその帯状の紙の上に右箱を紙の幅に合わせて置き、これで右箱の上面及び側面(二面)を巻くように包装し、その端が右箱の底面の稜の位置に来るようにし、その部分にガムテープを貼って固定させる方法で包装することによって生じたものと推定され、その上で全体をさらに包装紙の残りの部分を用いて包装したものであること(二重の包装となる。)を示していること(詳細は第六章第三節二参照)、
(九) 爆発現場に残存した前記マイクロスイッチの破断片のうち、(1)ワイヤーレバー(作動線。証四五号)の表面、(2)固定端子(証四六号の一部)の結線孔の内面と付近表面、(3)共通端子(証四八号)の結線孔の付近表面、(4)シャフト(証四九号)のワイヤーレバーを挿入するシャフト孔付近表面、並びに(5)同様残存したアルミ金属片(証四六号の一部)の一部表面に、それぞれ赤色塗料様の付着が認められること、
(一〇) 右五か所の赤色塗料様の付着物は、外観観察(光を投入して色調、厚さによる色むら、流れ、ひろがりを含む付着の状態、生地金属の隠蔽性を観察する。)による検査、及び赤外分光分析による検査の結果、いずれもラッカーであると判断されること、
以上の事実が認められる。
三、郵便小包(爆発物)の配送経路
(員)講武総明48・5・4検証(謄)(増渕証一〇冊一八六八丁、前林証八冊一四八五丁、中村(隆)証一二冊一五四二丁、榎下証四冊六八六丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三七丁、金本四冊一〇六八丁参照)、内藤則嘉47・2・29員面(謄)(増渕証一〇冊一八九一丁、前林証八冊一五〇八丁、中村(隆)証一二冊一五六五丁。堀・江口・松村四冊一四六八丁及び一四八〇丁、中村(泰)五冊一二三七丁、金本四冊一〇六八丁、榎下につき四〇冊一四九〇七丁参照)、堀・江口・松村一〇回証人内堀節郎及び証人黒沢光男の各供述並びに同一一回証人吉本雄一郎及び証人片岡計雄の各供述(以上、堀・江口・松村三冊七五五丁・七九一丁・八五二丁・八六六丁・九一八丁。増渕・前林一一冊四一二〇丁及び四一二九丁、中村(隆)八冊一九三三丁、中村(泰)五冊一二四四丁、金本四冊一〇七四丁及び一〇七五丁、榎下につき榎下二二冊四二三二丁及び((併合後の))二一冊七四九九丁参照)、東京南部小包集中局長48・5・17回答(謄)(榎下証五冊三七〇丁。その余の被告人らにつき四〇冊一四九〇七丁参照)によれば、つぎの事実が認められる。
すなわち、昭和四六年一二月一七日当時、一般に、前記神田南神保町郵便局で受け付けられた東京都豊島区内の受取人宛の普通郵便小包は、定期的に巡回して来る逓送車(「取集便」と呼ばれる。)により東京都中央区銀座東八丁目二〇番二六号所在の東京南部小包集中局に送られ、ここで仕分けされたうえ、定期的に逓送車(「下り便」と呼ばれる。)により東京都豊島区池袋一丁目三九七番地所在の豊島郵便局池袋分室に送られ、ここから各戸に配達されるものであったところ、昭和四六年一二月一七日及び一八日の記録によれば、同月一七日に神田南神保町郵便局で受け付けられた東京南部小包集中局扱いの普通郵便小包は、取集便によりすべてその日の中に同集中局に引き渡され、かつ、同集中局では、これらの小包を遅くとも同月一八日午前一時までには仕分けして郵袋に入れる等、翌日の下り便による発送準備を完了し、そして、豊島郵便局宛の小包郵袋は、下り便(一号便)により午前八時一〇分ごろ豊島郵便局池袋分室に到着し、同郵袋在中の各小包は午前九時三〇分ごろから各戸に配達され始めたが、本件土田国保宛の郵便小包は、豊島郵便局員片岡計男によって午前一一時ごろ土田方に配達された。
以上の事実が認められる。
第三章被告人らと事件との結び付きに関する証拠
第一節概観
ところで、以上のような日石事件及び土田邸事件の各犯行が前記公訴事実において述べられているように被告人らによって行われたとの点、すなわち、被告人らと各事件との結び付きに関する検察官の主張に沿う証拠は、つぎのとおりである。
(一) 物的証拠
まず、物的証拠として、本件各爆弾小包の荷札及び包装紙の宛名書の筆跡があり、これに関する鑑定として黒田正典の鑑定書がある。
なお、日石事件については、犯人の女性二名のモンタージュ写真二枚(昭和四八年押第一九三六号の一及び二)があるが、その面貌を検すると、これをもって、あるいはこれと後記その余の証拠とを併せて、同事件の犯人の女性二名が前林及び江口であると認めることはできない(検察官も、物的証拠として特にこれを主張していない)。
(二) 情況証拠
つぎに、情況証拠として、いわゆる六月爆弾事件に関する佐古幸隆らの各供述証拠、並びに日石土田邸事件の前後における増渕の言動に関する、当時増渕と交際関係のあった石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び長倉悟の各供述証拠がある。
(三) 自白ないし不利益事実の供述
さらに、被告人らの自白ないし不利益事実の承認を含む供述(「不利益事実の供述」という。)として、
① 中村(隆)の供述調書及び公判調書中の供述記載
② 中村(泰)の供述調書
③ 金本の供述調書
④ 坂本の供述調書及び公判調書中の供述記載
⑤ 松村の公判調書中の供述記載
⑥ 前林の日誌様のノートの記載
がある。
(四) その他の供述証拠
また、その他の供述証拠として、佐古幸隆(後記「プランタン会談」等に関するもの)、檜谷啓二、石田茂及び鈴木茂の各供述がある。
第二節被告人らに対する捜査の経過及び公判における供述調書採否決定
そこで、次章以下において右各証拠の信用性について検討することにするが、その検討に先立ち、ここで被告人らに対する日石土田邸事件の捜査の経過を摘記するとともに、本件公判における主要な手続であった被告人らに対する供述調書の採否決定について説明しておくことにする。
一、被告人らに対する捜査の経過
日石土田邸事件の被告人ら及び共犯者とされている者らに対する捜査の経過は、検察官の第二冒頭陳述書(二二冊七七八八丁以下)に述べられているが、証拠により要点を摘記するとつぎのとおりである。
48・2・14 佐古幸隆が、司法警察員に対し、「昭和四八年一月五日東京都内渋谷の喫茶店『プランタン』で増渕及び江口と会った際、江口が増渕に対し、増渕が昭和四七年一一月ごろ窃盗事件で逮捕、勾留されていた間に昭和四五年六月の爆弾製造について取調を受けたかどうかを尋ね、『これが警察にわかれば日石事件が発覚し、日石事件が発覚すれば土田事件が発覚してしまう』旨発言した」等のことを供述した。
3・2~3・5 佐古は、検察官の取調に対し右供述を維持した。
3・7 司法警察員は、増渕(当時、アメリカ文化センター事件及び八・九機事件の各起訴後勾留中であった。)に対し日石土田邸事件の取調を開始し、連日追及した。
3・11 檜谷啓二(麹町警察署における増渕の同房者)が、司法警察員に対し、「増渕から『土田事件のことは言うな、死活問題だ』と口止めをされた」旨供述した。
3・13 増渕は、検察官に対し、日石土田邸事件を自白し、ついで司法警察員に対しても自白し、その際堀、江口、前林が共犯者である旨供述した。捜査当局は、この自白に基づいて増渕、堀、江口、前林につき日石土田邸事件の逮捕状を得た(なお、当時、堀は八・九事件の起訴後勾留中、江口はアメリカ文化センター事件に関連する罪により、前林は法大図書窃盗事件によりそれぞれ勾留中であったが、三名とも同3・13ピース缶爆弾製造事件により逮捕された)。
3・14 増渕、堀、江口、前林を日石土田邸事件により逮捕し(増渕はピース缶爆弾製造事件についても逮捕された)、3・16以後勾留した。
3・15~24 金本を犯人隠避事件につき在宅で取り調べた。
なお、犯人隠避事件とは、昭和四四年一〇月東京薬科大学で発生した毒物及び劇物取締法違反等事件の犯人増渕の逃走に便宜を与えて検挙を妨げたというもので、増渕は、右事件につき昭和四七年一二月懲役一年、執行猶予三年の判決を受け、確定していた(以下同じ)。
3・16~28 中村(泰)を犯人隠避事件につき在宅で取り調べた。
3・19 榎下、松本をそれぞれ犯人隠避事件により逮捕し、3・22以後勾留した(松本については、逮捕時に自宅で発覚した銃砲刀剣類所持等取締法違反((模造拳銃の所持))を被疑事実に加えた)。
3・26~4・8 中村(隆)を参考人として取り調べた。
3・26~4・13 坂本勝治を参考人として取り調べた。
3・29 金本、中村(泰)をそれぞれ犯人隠避事件により逮捕したが、いずれも3・31勾留請求が却下され、金本を4・1~13の間、中村(泰)を4・1~9の間いずれも在宅で取り調べた。
3・30 松村を参考人取調後、犯人隠避事件により逮捕し、4・2以後勾留した。
4・4 増渕、堀、江口を土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件により、前林をピース缶爆弾製造事件によりそれぞれ起訴した。
4・9 中村(隆)を土田邸事件につき爆発物取締罰則一条の罪(幇助)により逮捕し、4・12以後勾留した。
中村(泰)を土田邸事件に関連する同罰則五条の罪により逮捕し、4・12以後勾留した。
4・10 榎下を土田邸事件につき右罰則一条の罪(幇助)により逮捕した。
松本を土田邸事件により逮捕し、4・13以後勾留した。
4・12 榎下を日石事件により逮捕し、4・14以後日石事件及び土田邸事件(正犯)により勾留した。
4・13 坂本を日石事件により逮捕し、4・16以後勾留した。
4・15 中村(隆)を日石事件により逮捕し、4・18以後勾留した。
4・16 松村を日石土田邸事件により逮捕し、4・18以後勾留した。
4・19 金本を土田邸事件により逮捕し、4・21以後勾留した。
4・30 中村(隆)を土田邸事件(正犯)により起訴し、中村(泰)を同事件に関連する前記罰則五条の罪で起訴した。
5・2 前林・榎下・松本を土田邸事件により起訴した。
5・5 増渕、堀、江口、前林、榎下、中村(隆)を日石事件により起訴し、松村を土田邸事件(幇助)により起訴し、坂本を日石事件(幇助)により起訴した。
5・10 金本を土田邸事件(幇助)により起訴した。
被告人ら並びに松本及び坂本は、右のような逮捕及び勾留中取調を受け、江口及び前林を除いて、それぞれ日石土田邸事件に関して自白をし、多数の員面調書及び検面調書が作成された。
なお、ここで付言すれば、被告人ら並びに松本及び坂本は、公判廷においてはいずれも起訴事実を否認し、無罪を主張して争う態度をとったものであるが、ただ、公判(併合前)の当初の段階において、中村(隆)は、日石事件への関与は否認したが土田邸事件については関与を認め、他の被告人の公判においてもその旨の証言をし、松村は、土田邸事件幇助の事実中一部を除いて自己に不利益な事実を認め、また、坂本は、日石事件幇助の事実を認めたものである。
そして、以上のような各被告人ら並びに松本及び坂本に対する取調及び供述の経過は、それらの者の供述の記載のある員面、検面及び公判調書並びに供述書についての検察官の取調請求に対する各採否決定(調書決定)において判示したとおりである。
二、公判における供述調書採否決定
検察官は、本件公判において、日石土田邸事件立証上の重要な証拠として、以上のような被告人ら並びに坂本及び松本の自白ないし不利益事実の供述の記載のある員面、検面及び公判調書並びに供述書(以下、本項において、「供述調書」と総称する。)の取調を請求した。
ところで、本件公判においては、このような供述調書の採否が当事者間の重要な争点となったが、それは、とりもなおさず、各供述調書の証拠能力の有無を判断するについての前提となる事実関係の認定が争いの対象となったことを意味し、かつ、実際、その事実関係も他の事件に類例の乏しいような複雑多岐のものであって、当裁判所も、それについて、多数回の公判における証拠調の実施を余儀なくされたのである。すなわち、本件にあっては右事実関係の確定は、終局判決に至る間の避けて通ることのできない過程であって(それゆえ、検察官及び弁護人は、それぞれ詳細な意見書を提出して、当裁判所の判断を求めた)、当裁判所は、このような立場から、供述調書の取調請求に対し、各供述者(被告人ら並びに松本及び坂本)ごとにまとめて、第二四六回公判から第二六二回公判までの間において、それぞれ決定をもって詳しく事実関係を認定し、その上に立って、必要に応じ当裁判所が正当と考える法律解釈をも示して、採否の判断を下したものである(なお、以上の手続きは、ピース缶爆弾事件の供述調書の取調請求についても全く同じであった)。
そして、右各採否決定において、増渕、堀、松村、榎下、松本、坂本の各供述調書の大部分について検察官の取調請求を却下したものであって、従って、以下における信用性の検討は、これ以外の、取調請求を認容した供述調書について行うものである。
第四章筆跡鑑定
検察官は、日石土田邸事件と被告人らとを結び付ける重要な証拠として黒田正典による筆跡鑑定を挙げるので(論告要旨二三〇頁・一五六冊五二九一〇丁)、以下これについて検討するが、末尾に、これと結論を同じくしない鳩山茂による筆跡鑑定の要旨を掲げることにする。
第一節黒田鑑定の経過
黒田正典の55・10・13鑑定報告書(鑑定嘱託書写し及び鑑定説明書添付。証九八冊二四三九二丁。以下、「第一次鑑定書」という。)並びに56・5・27鑑定補充説明書(証九八冊二四四九〇丁)、二二七回・二三三回・二三四回・二三六回・二三七回証人黒田正典の供述(一一八冊四二七八八丁、一二三冊四四〇〇六丁・四四一八六丁、一二五冊四四五二八丁、一二六冊四四七二八丁。以下、「第一次証言」という。)によれば、黒田正典(当時岩手大学教授)は、昭和五五年六月一三日、東京地方検察庁検察官から本件筆跡鑑定(鑑定事項後記)の嘱託を受け、鑑定を行い(「第一次鑑定という」)、同年一〇月一三日付の鑑定報告書(第一次鑑定書)を提出し、当裁判所第二二七回公判(昭和五六年四月二一日)において証人として尋問を受けた後に昭和五六年五月二七日付の鑑定補充説明書を作成して検察官に提出したことが認められる。
さらに、黒田正典の57・4・5筆跡鑑定書(鑑定嘱託書写し及び鑑定説明書添付。証一一九冊三二二四二丁。以下、「第二次鑑定書」という)、二六三回証人黒田正典の供述(一四五冊四九七四七丁。以下、「第二次証言」という。)によれば、黒田正典(当時東北福祉大学教授)は、昭和五六年一一月一五日、東京地方検察庁検察官から本件筆跡鑑定(鑑定事項後記)の嘱託を受け、鑑定を行い(「第二次鑑定」という)、昭和五七年四月五日付の鑑定書(第二次鑑定書)を提出したこと、検察官が黒田正典に再度鑑定を嘱託した経緯として、当裁判所は弁護人の請求により第二四一回公判期日(昭和五六年一〇月七日)において増渕に墨筆で荷札用紙及び白紙に土田邸爆弾の荷札(証五二号の表裏)と同じ文字を書かせ、その筆跡(証一四九号及び一五〇号)を検証したが、検察官は、土田邸爆弾の荷札及び包装紙断片の筆跡とこの増渕の墨筆の筆跡との異同につき黒田正典に鑑定を求めたものであることが認められる。
第二節黒田鑑定の要旨
一、第一次鑑定の要旨
第一次鑑定書、その補充説明書及び黒田証人の第一次証言によれば、第一次鑑定の要旨は、つぎのとおりである。
すなわち、検察官の鑑定嘱託は、日石爆弾の荷札四枚(証一六号、二〇号、二一号、二二号。計六面)及び荷札破片(証一二七号。一面)を「鑑定資料1」、土田邸爆弾の荷札一枚(証五二号。表裏二面)及び包装紙破片(証六〇号)を「鑑定資料2」とし、他方、筆跡採取報告書添付の被告人ら九名、松本及び坂本の各筆跡を「対照資料(一)」、日石土田邸事件の被疑者取調状況報告書・メモ作成状況報告書添付の増渕、堀、松村、榎下、中村(隆)、中村(泰)、金本、松本、坂本の各筆跡を「対照資料(二)」、前林の菊井良治あて封書二通を「対照資料(三)」、江口の菊井良治あて封書二通を「対照資料(四)」とするものであるが、その嘱託にかかる鑑定事項及びこれに対する黒田正典の鑑定の結果を併記すると、左のとおりである。
1 日石爆弾について
嘱託事項(一)
鑑定資料1(荷札七面)について、最初に書かれた文字(原始筆跡)は同一人のものか、複数人のものか。
鑑定結果
原始筆跡は同一人の筆跡、及びその同一人の筆跡に基づく手書き複製の文字である。
嘱託事項(二)
対照資料中に、右原始筆跡と同一又は類似するものがあるか。
鑑定結果
右同一人は増渕利行である。
嘱託事項(三)
鑑定資料1(荷札七面)について、後に加えられた筆跡(なぞり書き)は、同一人のものか、複数人のものか。
鑑定結果
なぞり書きをしたと見なされる人物は各対象資料(鑑定資料)及びその表裏について異なり、複数人がなぞり書きをした。
嘱託事項(四)
対照資料中に右なぞり書きと同一又は類似するものがあるか。
鑑定結果
つぎのような類似又はなぞり書きの関係がある。
遺留資料(鑑定資料のこと。以下同じ。)(一)(後藤田正晴あて貼付荷札。証一六号)については、増渕利行自身がなぞり書きをした。
遺留資料(二)(後藤田正晴あて荷札。証二一号の表)に対しては、中村泰章筆跡が類似する。
遺留資料(三)(中央警備保障差出貼付荷札。証二〇号)については、状況が複雑であって、増渕筆跡を手書き複写した者が江口良子、これにさらになぞり書きした者が前林則子又は金本ミネ子と推定される。江口の確度は高いが、後二者は確認までは至らない。
遺留資料(四)(中央警備保障差出荷札。証二一号の裏)については、原始筆跡が増渕、なぞり書きが堀秀夫の手によると推定される。
遺留資料(五)(今井栄文あて荷札。証二二号の表)については、原始筆跡は増渕、わずかのなぞり書きも増渕によるものと判定される。
遺留資料(六)(東京貿易差出荷札。証二二号の裏)については、原始筆跡が増渕、なぞり書きが堀によって書かれたと判定される。
遺留筆跡(七)(今井栄文あて荷札破片。証一二七号)にはなぞり書きはない。筆跡は増渕のものである。
2 土田邸爆弾について
嘱託事項(一)
鑑定資料2の(一)ないし(三)(証五二号の表裏及び証六〇号)の筆跡は同一人のものか、複数人のものか。
鑑定結果
同一のものである。
嘱託事項(二)
対照資料中に、鑑定資料2の筆跡と同一又は類似するものがあるか。
鑑定結果
増渕の筆跡が同一である。
右のとおりである。
そして、このような結論を得た理由の要点は、左のようなものである。
すなわち、鑑定の方法として、計量的方法と質的分析による方法とを併せて用いる。
計量的方法は、種々の観察項目、たとえば字画の大小・傾斜度等について出現頻度をとるものであるが、この観察項目の設定は、鑑定者の質的分析によって行われる。
質的分析として特に重要なものは線質である。線質は字画の黒い部分とその背景の紙の白い部分との境界に生ずる輪廓線である。「ザラザラ」・「にじみ」・「滑らか」などは線質である。また、字画の起筆の形態としても現われる露鋒・蔵鋒・逆筆なども線質であり、いわゆる筆使いの特質の相違を示すものである。「ザラザラ」・「にじみ」などは筆速を、起筆の形態は用筆法を示すが、それらは、要するに書字運動の特質である。線質観察の有利な点として、書字運動は空間の三次元(寸法・角度・筆圧)及び時間の一次元における筆の運動であるが、線質観察によってこれら四次元の変化、特質を見ることができる(計量的方法による分析は寸法・角度等二次元の特質を主とせざるを得ない)。また、字画の形態は偽造されやすいが、線質は偽造者から注意されることは至難であり、この点でも線質観察は有利である。
鑑定の基本的な手順として、まず、鑑定資料の筆跡の線形態及び線質について、その特徴を、対照資料の筆跡とは全く関係なく一般・普通と考えられる筆跡特徴を基準として分析し、これによって鑑定資料につきいくつかの筆跡特徴を得る。つぎに、この筆跡特徴を分析項目として対照資料を分析する。すなわち、この分析項目が対照資料すなわち一一名の筆跡にどのように出現するかを調べる。もしどの分析項目も出現する人がいるならば、その人が鑑定資料筆跡の執筆者である可能性は極めて高く、逆に出現が少ない人はその可能性は低いといい得る。
このような手順に従って、まず、鑑定資料を観察すると、他の一般・普通の筆跡と異なる特徴として、a・縦線のうねり、b・懐(ふところ)の広いこと(懐とは縦画と横画によって四方又は三方が囲まれた範囲をいうが、□及びの形に限り及びの形は採らない)、c・懐の末広がり(懐の縦画二本の成す角度が下方に向かって広がっているような形)、d・扁と旁(つくり)の接触、e・中鋒(筆記具の先端が字画の外縁を通らず字画の内部を通るような運筆法)、f・入念な起筆・簡易な終筆、g・Z化(二本の横画線が実線によってZの形に連結されること)、h・破格筆順、i・破格字形の九点が認められる(もっとも、この九点の特徴は、鑑定資料のすべてについて必ず認められるものではないが、鑑定資料全部にほぼ共通して認められるものである)。
そこで、つぎに、このような特徴が対照資料の中にどのように見出されるかを、鑑定嘱託に際し提供された対照資料の綴りの順序に従って増渕利行の筆跡から調べてみると、増渕の筆跡には右aないしiの九つの特徴がすべて認められ、すなわち、増渕筆跡の鑑定資料との類似度が極めて高いことがわかった。そこで、検討の速度を少し速めて他の一〇名の対照筆跡を個別にでなく一括して調べることにし、右aからfまでの六つの特徴がそれらの対照資料にどのように現われているかを見て行くと、この六つの特徴がすべて認められるような筆跡はなく、すなわち、増渕以外の一〇名の筆跡は、aからfまでの特徴のいずれかを欠如しており(そのうち江口良子の筆跡は最も多くaないしdの四つの特徴を備えているが、eの特徴を欠き、fの特徴の有無は明瞭でないが、用筆法や文字の形態において鑑定資料及びこれに似ている増渕筆跡と明らかに異なる所が認められる)、いずれも鑑定資料の執筆者である可能性はなく、結局、増渕のみが執筆者として残るが、増渕筆跡には、右のように、鑑定資料の九つもの多数項目の筆跡特徴が現われており、増渕は各鑑定資料の執筆者(なぞり書きのある資料については原始筆跡者)であると認められる。
さらに、日石爆弾の鑑定資料には、証一二七号を除いて、原始筆跡の上に加筆すなわちなぞり書きがされているが、加筆部分の運動形態等の特徴が対象資料の筆跡の中に見出されるか等を検討すると、結局、加筆者(証二〇号については増渕筆跡の複写者を含む。)については、前記(鑑定結果)のように認められる。
なお、もし対照資料を一一名以外の多数の筆跡に求めた場合に、増渕より類似度の高いものが現われないかということについて述べると、右のように九つもの多数項目について増渕ほどすべてに該当するという場合の生ずることはほとんど不可能と考えられる。すなわち、鑑定資料の執筆者は増渕であると断定せざるを得ない。
二、第二次鑑定の要旨
第二次鑑定書及び黒田証人の第二次証言によれば、第二次鑑定の要旨は、つぎのとおりである。
すなわち、検察官の鑑定嘱託は、土田邸爆弾の荷札一枚(証五二号。表裏二面)及び包装紙破片(証六〇号)を「鑑定資料1」とし、当裁判所の前記検証における増渕の毛筆筆跡(荷札に書いたもの一六枚、白紙に書いたもの二枚、書き損じた白紙一枚。証一四九号及び一五〇号)を「鑑定資料2」として、「資料1の筆跡と資料2の筆跡の異同、その他参考事項」につき鑑定を求めたものであるが、これに対する第二次鑑定書記載の鑑定の結果は「資料1の筆跡と資料2の筆跡とは、同一人によって書かれたものである。」というものである。
そして、このような結論を得た理由の要点は、つぎのとおりである。
すなわち、まず、鑑定資料2すなわち増渕筆跡の線形態について見ると、第一次鑑定において挙げたその鑑定資料(現場遺留筆跡)の九つの特徴(分析項目)のうち線形態に関するa縦線のうねり、b懐の広さ、c懐の末広がり、d扁と旁の接触、gZ化、i字形破格の存在が確認されるが、h破格筆順の確認は困難である。また、資料2の字形の一部には資料1のそれと異なった箇所があることが認められる。すなわち、資料1と同2との間には線形態の差異はある。しかし、多くの観察項目(a、b、c、d、g、i)において共通性を示しており、共通性をもって優勢と判定するのが正しいと考えられる。また、一般法則として、線形態は、線質に比べて安定性が低く、書く人の時、所による変動や、造形的意図による影響を受けやすい。これらのことを総合すると、資料1、2の線形態の差異は、両者の一致の可能性を妨げるほど有力ではないと結論することができる。問題は、つぎに取り上げる線質の検討の結果がどうなるかにある。
つぎに、線質であるが、今回は線質の観察に一層適している毛筆の筆跡が与えられたので、第一次鑑定よりも詳しく線質について検討することができる。
はじめに、鑑定資料2を全体的に観察すると、共通の字画特徴、すなわち起筆、終筆、折角及び送筆の特徴が極めて多いことに気づく。但し、同じ線質特徴、たとえば資料1の「土」の縦画の起筆の特徴が資料2の「土」の縦画の起筆に出現するとは限らず、むしろ資料2の別の字の縦画の起筆に現われるような場合(引用者注 以下、本章において、これを、「ある字の字画特徴の別の字への出現」という。)も相当に多い。「ある字の字画特徴の別の字への出現」を含めて線質特徴を観察すると、資料1は資料2と共通する部分が極めて多いのである。
そこで、資料2を資料1と比較して、どれほど一致する(等しい)線質特徴を見出し得るか、あるいは一致しない(不等の)線質特徴が出て来るかを検討することにし(等不等の判定基準の説明省略)、まず、両資料を全体的に観察すると、第一に両者に共通する顕著な特徴として、起筆部分における「角」(かど)の存在があるが、これは逆筆的な用筆法を示している。これに反し、鑑定資料2の終筆部分については極力筆を押さえ、又は少なくとも筆を一時停止させていること、すなわちむしろ「入念な終筆」が看取される(字画の末端を押さえるかどうか等は、執筆者の意思が有効に働くものである)。しかし、鑑定資料2の終筆部分には、その起筆部分と異なって、一貫する用筆法は認められず、場合によってまちまちで形の良くないものも多く、「入念な起筆、あいまいな終筆」ということで特徴づけられるが、これは、第一次鑑定書において挙げた「入念な起筆、簡易な終筆」の特徴と深く関係する事実であり、すなわち、執筆者において書法の陶冶は起筆には徹底していたが終筆には及んでいなかったと想定されるのである。また、右に述べたような、資料2に見られる「角」のある起筆は中鋒的な字画と緊密に結合するものであり、第一次鑑定書における中鋒の項目は今回の鑑定資料2についても同様に妥当するものである。
進んで、資料1の各字の字画について、その特徴が資料2の字の字画に現われている状況を、前記「ある字の字画特徴の別の字への出現」の場合をも含めて詳しく調べてみると、合計二二〇項目において等しいか、又は酷似するものを摘出し得る(資料2からの摘出は、資料1の字画特徴一つにつき一箇所としたが、摘出に値する箇所は唯一ではなく複数が存在し、その中で代表的なもののみを摘出したものである)。そして、この二二〇項目は、資料2につき線質の観察可能な全項目と考えられる。そのほとんど全項目が両資料の一致関係を示しているのである。もっとも、この中には、四項目において目で見る輪廓線の等しさの点では多少不満足であるが、それらについても書法におけるいわゆる骨法の共通性は十分に推定される。
以上、全体を通して見ると、資料1及び資料2の一致する程度は極度に高く、他人の偶然の一致の結果として生ずる可能性は、ほとんど零であると考えられる。よって両資料の執筆者は同一人であると結論するものである。
第三節黒田鑑定の検討
そこで、黒田鑑定についての検討に移ることにするが、あらかじめつぎのことを明らかにしておくのが相当だと考えられる。
すなわち、筆跡鑑定は、執筆者の確認されていない筆跡(鑑定資料)を執筆者の確認されている筆跡(対照資料)と比較してその間の執筆者の同一性を鑑別することであるといい得るが、鑑別に際し、鑑定資料の執筆者その人が誰であるかが確認されていないのはもとよりであるとして、その執筆者が特定多数人(二人以上)の中に存在することが前提とされている場合(以下、かりに「限定的鑑定」という。)とそのように前提されていない場合(以下、かりに「無限定的鑑定」という。)とがあるであろう。黒田鑑定は、第一次鑑定及び第二次鑑定ともに、本来無限定的鑑定を意図したものと考えられるので、以下、そのように考えられることを前提に置いて考察する。ただ、黒田鑑定は、実質的には限定的鑑定であると認めざるを得ないことは、後述のとおりである。
一、総論
(一) 筆跡鑑定の証拠価値について
筆跡には書いた人の個性が現われる。そこで、鑑定資料の筆跡に現われた個性と対照資料の筆跡に現われた個性とが同一と判断できれば、両文書の筆者は同一と判断できるようにも思われるが、指紋などと異なり、日本国内に同一の筆跡の個性を有する者が二人といないということが証明されているわけではないから、右のような場合にそれだけで直ちに両文書の筆者が同一人と断定することはできない。また、筆跡の個性を把握することは指紋や血液型などの特徴を把握することに比較すればはるかに困難であり、鑑定人の主観的な判断が入り込み易く、それだけに、筆跡鑑定の証拠価値については十分に慎重な態度が要求される。
もちろん、筆跡の個性が正しく、いいかえれば、客観的(科学的)検証に堪え得るような方法のもとで把握されるならば、鑑定資料と対照資料の筆者の同一性の判断に有力な資料となることはいうまでもない。しかし、現在の段階では、筆跡の個性を客観的(科学的)検証に堪え得る形で把握する方法は、十分に確立されるに至っておらず(その一方法として統計的手法があるが、それも実用化されるには程遠い)、従って、筆跡鑑定、特に無限定的鑑定に限界のあることを認めなければならない。
(二) 黒田鑑定の手法について
右に述べたことは、黒田鑑定についても同様であると認めざるを得ないのであって、客観的(科学的)検証が可能な方法が十分にとられているものとはいい難いのである。たとえば、筆跡における特徴点の選別方法、その稀少性の程度の判定、特徴点相互の間の独立性の有無、程度(一つの特徴点がある場合に、そのことが他の特徴点があることにつながることが全くないといえるか、あるいは両者の出現率に相関関係があるとすればどの程度なのか)等について、本件黒田鑑定の具体的な分析項目に即していえば、たとえば中鋒の書字運動をする者の比率はどの程度なのか、末広がりの字形を書く者の比率はどうか、懐の広い字形を書く者の比率はどうか、さらにこれらの特徴を兼ね備えた字を書く者の比率はどうかなどについて、実証的検討は全くされていないのである(出現率を二分の一とし、特徴点の出現は互いに独立していると仮定し、一〇項目あれば二の十乗分の一、すなわち一〇〇〇分の一を超える精度を有するとすることが根拠を欠くことについては後述のとおりであるが、そもそもそのこと自体実証的な裏付けがない)。もとより以上のような事項の実証的検討は、膨大な基礎的資料とその分析を必要とすることであって、現段階でそのような統計的作業を伴う方法を求めることは困難を強いるものではあるが、だからといってそのような方法がとられていないという事実は否定できないことであり、そのことが、他の筆跡鑑定の手法についてと同様に、黒田鑑定の手法についてもその客観性(科学性)に限界のあるものたらしめているといわざるを得ないのである。従って、黒田鑑定を無限定的鑑定として見る場合には、特に十分慎重にその内容を吟味する必要があるものである。
二、本件鑑定資料及び対照資料の特質
(一) 本件鑑定資料
② 日石爆弾の遺留筆跡
日石爆弾の遺留筆跡は、荷札破片一面を除き、黒ボールペン又は青インキのペン書きのなぞり書きのある筆跡であり、一見して筆跡隠蔽工作がされた跡が歴然としている。従って、遺留筆跡の字画形態についても工作を加えている疑いがあるものと見なければならない。また、これらは一見すると同一人の筆跡のように見えるが、そのことが確かかどうかについては他の証拠によって証明がされているものではなく、遺留筆跡の量も必ずしも豊富なものとはいえない。以上のとおりであり、鳩山茂の鑑定書に述べられているように(後記第四節参照)、鑑定上の対照条件として適正な資料が与えられている場合とはいい難く、増渕らの筆跡対照資料と比較検討し、その異同を鑑別することはかなり難しいものといわざるを得ない。
② 土田邸爆弾の遺留筆跡
土田邸爆弾の遺留筆跡は、毛筆で書かれ、字体も整い、全体として同じ調子で書いたように見受けられ、なぞり書きの跡も見えず、筆跡隠蔽工作がされた跡は窺われない。従って、この点においては鑑定上の対照条件として適正な資料ということができる。ただ、その筆跡の量は必ずしも十分なものとはいえないのであり、筆跡の個性を把握することは容易ではないであろう。
(二) 本件対照資料
① 黒田第一次鑑定においては、増渕の毛筆筆跡は、対照資料として与えられておらず、土田邸爆弾遺留筆跡と増渕筆跡の異同の判定に関しては、対照資料に欠陥があるといわざるを得ない(なお、江口及び榎下の毛筆筆跡も対照資料として与えられていない)。
② その余については、対照資料は、概ね十分与えられているといってよい。
三、第一次鑑定
(1) 分析項目の選別
① 黒田第一次鑑定によれば、鑑定資料から一般、普通の筆跡と異なる特殊性のある特徴を抽出したとして「縦線のうねり」等一〇項目(前記aないしiの各項目のほか「加筆」。但し、「加筆」については後に外す。)を列挙している。そこで、以下、各項目ごとに稀少性のある特徴といえるのかどうか、分析作業の正確さに疑問はないかを検討してみる。
なお、黒田第一次鑑定は、前記証一六号を「A1」、証二〇号を「A1裏」、証二一号の表を「A2」、証二一号の裏を「A2裏」、証二二号の表を「B1」、証二二号の裏を「B1裏」、証一二七号を「B2」、証五二号の表(宛名)を「C1」、証五二号の裏(差出人名)を「C1裏」、証六〇号を「C2」と呼んでいる(黒田第二次鑑定もこれを踏襲している)。
② 「縦線のうねり」について
黒田第一次鑑定は、これをさらに「ウ冠、ワ冠の勾」、「折角」、「縦画」の三つに分けて検討している。なるほど鑑定資料A1(証一六号)の「新宿区」の「宿」のウ冠の勾はS字型にうねっており、稀少性のある特徴を示す可能性がある。そこで、右の点について稀少性のある特徴の有無を調べるには、まず、鑑定資料から「宿」の字全部を抽出し、ウ冠の勾のうねりの出現及びその度合について統計的処理により検討する。その上で一般人について同様にして求めた統計的結果と比較することによって、鑑定資料の「ウ冠の勾のうねり」について稀少性のある特徴の有無を知ることができる。しかし、黒田第一次鑑定では、このような論証は全くされていない。同鑑定によれば、「宿」の字の他に「栄」の第四、五画を「ワ冠」と呼び、これらを併わせて、その勾のうねりの有無を検討している。日石爆弾遺留筆跡をすべて同一筆跡と見て、かつ、「ウ冠、ワ冠」を併せて検討することが正しいとしても、鑑定資料中にこのような「ウ冠、ワ冠」を含む文字は、A1の「宿」、A2(証二一号)の「宿」、B1(証二二号)の「栄」及びB2(証一二七号)の「栄」の四文字のみである。このような少ない字数のものについて、その「ウ冠、ワ冠」のうねりの度合の分布を知ることは容易ではない。鑑定資料を見ても、うねりをはっきり見ることができるのはA1の「宿」のみである。A2の「宿」については、うねりがあるのかどうか判然としない。黒田第一次鑑定によれば、なぞり書きを除去すればうねりが出現し得るようになっているというが、その論拠も十分納得できるものではない。右鑑定においても、「一見しては単なる直線と見えることも事実、うねりの潜在も事実である。筆跡鑑定にはこのような両義性―二つの意味の共存―が伴うことが多い。そのため、一一ページの表も一二ページの表も両義性の強いものは、集計表には採択していない。」とされ(補充説明書二頁以下)、鑑定説明書一一丁においてもA2の「宿」のウ冠の勾はうねりがあるとはされていないのである。また、B1の「栄」は若干のうねりが見られるにとどまり、B2の「栄」はうねりがあるとは見られない。以上要するに、「宿」についてはうねりのある文字が一個、うねりの有無が判然としない文字が一個、「栄」については若干のうねりがある文字が一個、うねりが見られない文字が一個である。このような状況から稀少性のある特徴を見出すことはやや困難なように思われる。黒田第一次鑑定によれば、うねりではない「ウ冠、ワ冠」の勾を明確に示すものは存在しないと結論づけているが、結論自体に疑問があるし、かりにそのように見ることができたとしても、A1の「宿」のような大きなうねりに着目するというならともかく、ウ冠、ワ冠につき若干のうねりを示すことは常識的に考えても一般通常に見られ得ることであり、うねりの程度を問うことなくうねりがあるということのみを直ちに重視するのは疑問である。さらに、黒田第一次鑑定は、「折角」、「縦画」についてうねりの有無、左右各方向への凸の膨みの有無を検討している。しかし、この点についても、うねりの度合や左右各方向への凸の膨みの度合に関する分布を求めているものでもない。鑑定資料を一見してもA1の「宿」のウ冠のような大きなうねりのある文字は見られず、常識的に見ても稀少性のある特徴を見出せるとは思われない。左右各方向への凸の膨みについてもよほど極端なものならばともかく、鑑定資料を見るかぎりそのようなものは見られないのであって、常識的に見ても稀少性のある特徴を見出せるとは思われない。黒田第一次鑑定は「ウ冠、ワ冠の勾」、「折角」、「縦画」につき、うねり、左右各方向への凸の膨みの有無を検討し、鑑定資料にそのようなうねり縦線の出現する文字が多いと結論づけている。うねり縦線かどうかの判定は黒田鑑定人の主観に左右され易く必ずしも客観性が十分であるとはいえないであろう。そもそも日石爆弾遺留筆跡は、前述したように荷札破片一面(B2)を除き、そのほとんどになぞり書きが加えられているのであって、直線的な縦線が少なくなるのはいわば当然のことである。なぞり書きを除去した原筆跡のうねりの有無等を見抜くことは、至難の業というべきである。以上のとおりであり、かりに鑑定資料にうねり縦線が多いという傾向が認められたとしても、その度合は必ずしも判然としないし、少なくとも稀少性のある特徴とはいえず、分析項目として重要性に乏しい。
③ 懐の広さ及び末広がり
黒田第一次鑑定は、縦画と横画によって四方又は三方が囲まれた空間範囲を「懐」と定義づけ、教科書活字体を標準にして懐の大小を判定するとし、鑑定資料は全体として懐が広く末広がりという筆跡特徴を持つと結論づけている。懐の大小の判定の基準として教科書活字体を用いていること、具体的に文字のどの部分を懐として取り上げるかどうかについて明確でない部分があること、懐の大小及び末広がりの具体的な判定(特に末広がりについて、平行の場合も末広がりに含むとするが、必ずしも根拠が十分とは思われない。)も黒田鑑定人の主観に左右され易く必ずしも客観性が十分とはいえないことなどの疑問はあるが、これらの疑問は別論としても、黒田第一次鑑定は、前記結論が稀少性のある特徴であることの客観的論証はしていない。常識的に見ても、鑑定資料に見られる程度の懐の大小や末広がりの有無が稀少性のある特徴を示すとは思われない。ちなみに、大学構内等で目にする政治的宣伝等の立看板に書かれている文字には懐が大きく末広がりのものが多いことは、広く見られるところであろう。
④ 扁と旁の接触について
黒田第一次鑑定は、扁と旁の二点以上の接触に着目するとし、鑑定資料中に右のような接触が三七パーセントの割合で出現すると結論づけている。しかし、右のような判定結果が正しいとしても、これが稀少性のある特徴であることの客観的な論証はされていない。常識的に見ても、必ずしも右のような判定結果が稀少性のある特徴を示すとは思われない。黒田第一次鑑定は、文字をていねい、慎重に書くべく努力するとき、扁と旁の接触の欠如が生じ得るとも考えられるとして(鑑定説明書三九丁)、これを重視していないかのようでもある。
⑤ 線質の特殊性について
黒田第一次鑑定によれば、鑑定資料には線質の特殊性として「入念な起筆・簡易な終筆」及び「中鋒」の特徴が見られるとしている。「入念な起筆・簡易な終筆」というのは、起筆はペンを抑えた形跡があるが終筆は筆を抜き放しになっていることであり、「中鋒」とは、前記のとおり筆の先が字画の輪廓線の外縁でなく内部を通っていることであるというのである。
しかし、ペンを抑えて書き出す人は一般通常人の中にしばしば見られるし、画の終わりの部分で筆を抜く人も少なくないであろう。「入念な起筆・簡易な終筆」という筆跡特徴が稀少性を有するものとは必ずしも思われない。
つぎに「中鋒」については、書道の心得のある者(必ずしもその全部の者ではない。)の毛筆筆跡に現われる特徴と言ってよいであろう。現在では書道の心得のある者は一般通常人の中ではむしろ少ないと思われるから、もし中鋒の特徴が確認されるならば、稀少性のある特徴を示す可能性がある。ところが、黒田第一次鑑定は、日石爆弾遺留筆跡についても中鋒の特徴があるとする。すなわち、「ペン書きでは、中鋒による字画の肌と側筆による字画の肌の差が表われにくい。すなわち滑らかさの違いはほとんど出ない。しかし中鋒と側鋒の差は起筆の形の違いに出てくるものである。逆筆であると、筆跡を拡大した場合、丸味がかった黒点様のものが、万年筆にせよボールペンにせよ、その部分にインキが貯まった形跡を生ずるものである。逆に、ペン書きの起筆において逆筆の特徴がたくさん見出されれば、これを書いた人の毛筆筆跡は滑らかな字肌、輪廓線となるのであろうと推定してよいのである」というのである(鑑定説明書四三丁以下)。黒田鑑定において「逆筆」という用語の意味が必ずしも明らかではないのであるが(鑑定説明書四三丁に説明されている「逆筆」と第二次鑑定説明書一三丁に説明されている「逆筆的」書字運動とはどういう関係にあるのであろうか)、書道において普通に用いられている「逆筆」とは鑑定説明書四三丁で説明されているものを指すと思われる。そこで、以下これを前提として考えるが、一体毛筆による書字に馴れた人であっても、すべて逆筆、中鋒の用筆をするとは限らず、また、逆筆、中鋒の用筆をする人であっても、常にその用筆をするとは限らず、順筆(鑑定説明書二四―二丁の図23に見られるような起筆をいう)、側鋒(筆鋒が字画の輪廓線の縁を通ること。鑑定説明書二四丁参照)の用筆をすることもあると思われるが、そのように毛筆で書字をする場合に逆筆、中鋒の用筆をする人であっても、ボールペンやインクペンのような、筆先が硬質で、しかも細く尖った筆記具で字を書く場合に逆筆、中鋒の用筆をするということは普通あり得ないことではあるまいか。また、そのような筆記具で書かれた文字について順筆か逆筆か、側鋒か中鋒かを識別するというようなことはできないのではなかろうか。インクの溜った形跡というものは逆筆かどうかとは無関係にインクの出過ぎるボールペンなどを使用したり、起筆にやや力を入れるだけでも生ずる性質のものであろう。以上のような問題点についてはほとんど検討することもなく日石爆弾遺留筆跡について中鋒という分析項目を設けたことは、適当ではなかったと考えられるのである。
ところで、日石爆弾遺留筆跡についてはその大部分になぞり書きがある。黒田第一次鑑定は、線質の分析にあたり、なぞり書きのない字画を取り上げようとし、A1に四個、A2裏に五個、B1に二個を見出したとしている。しかし、これらを拡大鏡で観察すると、そのほとんどについてなぞり書きがある疑いがあるのであって、このようなものにつきなぞり書きの疑いを説明することもなく線質の分析をしようとすることは疑問を免れない。黒田第一次鑑定は、字画の判定にあたり、鑑定資料のカラー写真を基礎としているが(鑑定説明書二二丁)、資料そのものを基礎とせず、カラー写真のようなものを基礎として線質を分析しようとすることが適切でないことは明らかであり、このような観察方法が右のような誤りを犯したのではないかと認められる。
また、土田邸爆弾遺留筆跡に中鋒の筆跡特徴があるとする結論自体も、見方の分れるところと考えられ、疑問がある(この点は、第二次鑑定に対する検討においても述べる)。
⑥ Z化について
黒田第一次鑑定は、二本の横画がかなり太い実線で連結され、あたかも独立したZの字のようになっているものをZ化と呼び、鑑定資料中に二八パーセントの割合で出現すると結論づけている。しかし、同鑑定がZ化が認められるとするC1の「豊」及びC1裏の「卓」のいずれも第五画と第六画との関係をZ化と見ることができるのか(すなわち、この両画間の書字運動を鑑定説明書(27)丁図15のように把握することができるのか、さらに、図15の書字運動は同頁図14のそれと同質ということができるのか)は疑問であり、もしこの疑問が正しいとすると、土田邸爆弾遺留資料中には黒田鑑定の指摘するZ化は認められないことになる。かりに黒田第一次鑑定の右のような結論が正しいとしても、これが稀少性のある特徴であることの客観的な論証はされていない。常識的に見ても、右のような判定結果が必ずしも稀少性のある特徴を示すとは思われない。黒田第一次鑑定も、文字をていねい、慎重に書くべく努力するとき、Z化の欠如が生じ得るとも考えられるとしており(鑑定説明書三九頁)、重視していないかのようでもある。
⑦ 破格筆順について
黒田第一次鑑定は、筆順が通例のものと甚だしく異なるものを破格筆順と呼び、四点を指摘している。第一点は、「業務部」の「業」の上部の筆順が左から右へ、、、のように単純な配列になっている点であり、A1裏の「業」及びA2裏の「業」二文字の両方について右の点を指摘できるとする。この点についてはある程度の稀少性を示す特徴といえる可能性もあるが、客観的な論証はされていない。また、右のような筆順も少なからず見受けられるようにも思われないではない。第二点は、A2裏の「保障」の「保」の「ホ」において一、、、又は、一、、の筆順が推理されるとする点である。しかし、A1裏の「保」については判然としない。この点が稀少性を示す特徴になる可能性があるのかどうか、必ずしも明確ではない。なお、右A2裏の「保」については一、、、という筆順の可能性もある。第三点は、A1の「シ」及びA2の「シ」について筆順が正式ではないとする点である。しかし、この点については、黒田第一次鑑定においても若い世代には多いとしているように、稀少性のある特徴を示すものとは思われない。第四点は、A1の「正」及びA2の「正」につき第四画と第五画が連結しているとする点である。この点についてもよく見かけるところであって、必ずしも稀少性のある特徴とはいい難いように思われる。また、稀少性がある旨の客観的な論証もされていない。
⑧ 字形破格について
黒田第一次鑑定は目で見た形の特殊性が著しいものを字形破格と呼ぶとし、「純粋に形態の破格」と「破格筆順に基づくもの」の二種類に分けて検討している。「純粋に形態の破格」として、第一にA1裏の「港」、A2裏の「港」、B1裏の「港」につき、「己」の部分が「Z」の形態になっている点を指摘している。この点は、ある程度の稀少性のある特徴を示す可能性があろう。しかし、客観的な論証はされていないし、一般通常人の中にも時に見受けられるようにも思われる。第二にA1裏の「警」の「言」の部分が「」の形態になっている点を指摘している。この点は、稀少性を示す特徴といえる可能性があるが、A2裏の「警」には右と同じ形態は現われていない。いずれにしてもこの点が稀少性のある特徴を示すことの客観的論証はされていない。第三にB1裏の「東京貿易」の「易」が「」の形態になっている点を指摘している。この点は稀少性のある特徴を示す可能性はあるが、客観的論証はされておらず、また、右のようないわゆる誤字は通常人の中にも時に見受けられよう。第四にC1(証五二号)の「島」及びC2(証六〇号)、の「島」につき、「」の形態になっている点を指摘している。この点は、稀少性のある特徴を示す可能性はあるが、客観的な論証はされていない。第五にA2の「合」が「」の形態となっている点を指摘している。黒田第一次鑑定は右の点につき、「全くの破格とも言い切れないが自然の書字運動ともいえない作為的な造形となっている」としている。なお、A1の「合」については、右の点は判然としない。しかし、A2の「合」についての右のような形態は一般通常人の中にも往々見受けられるものと思われ(前述した立看板などに書かれる文字中によく見受ける)、稀少性のある特徴を示すものかどうか判然としない。つぎに、「破格筆順に基づくもの」として日石遺留筆跡の「新」の文字全部(A1、A1裏、A2、A2裏、B1裏二個の計六個)につき「斤」の部分が「」と「」の形の結合になっている点を指摘している。この点については稀少性のある特徴を示すことの客観的論証はされていないが、そのような特徴を示す可能性が強い。黒田第一次鑑定は、さらにB1の「浜」の「丘」の部分及びB1の「丘」についても同様の形態が見られると指摘しているが、この点も「新」について指摘したのと同様の傾向の現われと見ることができよう。
ところで、字形破格及び破格筆順については、日石爆弾遺留筆跡に関するかぎり、筆跡隠蔽工作によって生じたものではないかとの可能性も考慮する必要がある。なぞり書きの状況(たとえばA1の「」、A2裏の「」、B1裏の「」など)を見ると、右のような疑いも生ずる。黒田第一次鑑定も、字形破格及び破格筆順も作為目的から来る場合があるともいえようとし(鑑定説明書三九丁)、純粋形態破格は筆跡隠蔽目的から来る意識的な造形と見なされるとしている(鑑定説明書四七丁)。
⑨ 加筆については、筆跡隠蔽工作によるものと認められるから分析項目として取り上げないのが適当であり、黒田第一次鑑定も後にこれを分析項目から外している。
⑩ 以上のとおり、本件鑑定資料のうち日石爆弾遺留筆跡には筆跡隠蔽工作が加えられており、右筆跡の個性を把握することは困難で分析項目の選別作業も困難と思われること、及び、黒田鑑定人はこの選別作業に際し本件鑑定資料そのものを基礎とせず、カラー写真を基礎としているが、そのような方法で線質の分析が可能かどうか疑問があり、日石爆弾遺留筆跡についてはなぞり書きの有無の判別に誤りを犯した疑いもあることを指摘できるのであり、また、個々の判定結果も客観性が十分でないところもあり、結局分析項目の選別作業の正確さには疑問がある。
かりに右分析作業が概ね正確であったとしても、黒田第一次鑑定は選別した分析項目のすべてについてこれらが稀少性のある特徴を示すことの客観的な論証はしていないのであり(本件鑑定資料の分量に照らし、そのような客観的論証の困難なものが多いかも知れない)、この点から見ても黒田第一次鑑定がどの程度の確度を持つのか判然としない。また、これらの分析項目の中には、稀少性のある特徴を示す可能性のあるものも含まれているが、多くは常識的に見ても稀少性のある特徴を示すとは思われないか、又はその点が判然としないものであり、分析項目として取り上げること自体不適当なもの(日石爆弾遺留筆跡における中鋒の分析項目)も含まれている。さらに問題なのは、稀少性のある特徴を示す可能性のある点に着目しながら、これを抽象的な項目にまとめてしまっている点である。第一に、「宿」のウ冠のうねりに着目しながら、「縦線のうねり」という抽象的で大きな項目に取り込んでしまうのであるが、このような項目について検討するかぎり、稀少性のある特徴を示す可能性はずっと低くなってしまう。第二に、破格筆順及び字形破格について、各文字ごとに稀少性のある特徴を示す可能性のある点に着目しながら、それぞれ文字の種類や破格の種類を無視して、「破格筆順」及び「字形破格」という抽象的で大きな項目にまとめてしまうのであるが、このような項目について検討するかぎり、右二項目が稀少性のある特徴を示す可能性はほとんどないであろう。誰しも筆順を誤ったり、字形を略し、あるいは誤ったりすることは少なくないからである。
いずれにしても、黒田第一次鑑定は、このようにして分析項目を選別し、「縦線のうねり」、「懐の広さ」、「懐の末広がり」、「扁と旁の接触」、「中鋒」、「入念な起筆・簡易な終筆」、「Z化」、「破格筆順」、「字形破格」、「加筆」の一〇項目を列挙し、第一次総括の一覧表を作成している。しかし、これらの分析項目には以上に述べた疑問があり、黒田第一次鑑定の確度は高いものとは思われないのである。黒田鑑定人は、その証言内容を見ると、右一〇項目について筆跡特徴が一致する者は二の一〇乗人に一人(1/210)と考えているようであるが、そのようにいい得るためには、右各項目が互いに独立して出現するものであることが必要であり、かつ、各項目が二分の一の確率で発生することが論証されなければならないのであり、そのような論証はされていない。右各項目を見ても、「字形破格」の中には「破格筆順」に基づくものもあるとしているのであるから、右両項目が独立したものと見ることはできないであろう。また、「懐の広さ」と「懐の末広がり」、「中鋒」と「入念な起筆」、「Z化」と「字形破格」との相互にも関連があるのではないかと思われるし、その他の項目相互においても関連があるかも知れないのである。黒田鑑定人が増渕の筆跡対照資料の特徴が右一〇項目に一致するから増渕が本件鑑定資料の筆者である確率は約一〇〇〇人に一人(1/210=1/1024)の割合であると考え、本件鑑定の結論を導いたとしたならば、そこには結論に影響を及ぼす基本的な誤りがある。
ただ、黒田第一次鑑定において選別された分析項目は、一部不適当と考えられるもの(「中鋒」)もあるが、それを除いては意味がないわけではなく、必ずしも確度が高い鑑定結果は導かれないであろうというにとどまるのであり、ある限定された範囲で本件鑑定資料の執筆者を特定しようとする場合(限定的鑑定。たとえば、本件鑑定の対照筆跡者である増渕ら一一名のうちの誰かが本件鑑定資料の執筆者であることが認められていて、その誰かを特定するような場合である。)においては有効である可能性を否定するものではない。
(2) 日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡との同一性の判定結果
① 黒田第一次鑑定は、日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡とが同一筆跡であると結論している(鑑定説明書三九丁)。しかし、日石爆弾遺留筆跡がすべて同一筆跡としている点は別論として、日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡が同一筆跡であるとした推論の過程は十分納得できるものではなく、その結論には疑問もある。
② 黒田第一次鑑定は、本件鑑定資料A1、A1裏、A2、A2裏、B1、B1裏、B2、C1、C1裏、C2ごとに前記分析項目の出現の有無を判定し、出現するものをプラス(+)、出現しないものをマイナス(-)、判定困難なものを疑問符(?)として第一次総括の一覧表を作成している(鑑定説明書三三丁)。ここで問題なのは、黒田第一次鑑定が「特徴の頻度を問わず、出現の有無を問題とする。文字数の少ない荷札では一回のみの出現も重要と考えておく。」としている点である。このような考え方によれば、例外的に出現したものも特徴としてしまう危険性が高い。分析項目の選別の際には各荷札ごとに出現頻度を算出しながら、右一覧表の作成の際に出現頻度を無視するのは疑問が残る。たとえば、「扁と旁の接触」はC1において一文字、「Z化」はC1及びC1裏において各一文字出現するのみであり(出現するとの判定結果にも疑問がないではない)、従って、出現頻度を見れば劣勢であるのにプラスとされているのである。
③ 黒田第一次鑑定は、第一次総括の一覧表に検討を加え、第二次総括の一覧表を作成している。しかし、つぎのような問題がある。
第一に、「破格筆順」につき、破格筆順として取り上げた文字は「業」、「シ」が主なものであり、C1、C1裏、C2には「業」、「シ」の文字が存在しないから、C1、C1裏、C2がマイナスだということは積極的にこれらの荷札を書いた人が破格筆順の傾向がないということを表わすことにはならないとしてこれを「-(一)」と表わすことにするとし、さらに、A2裏の「保」に破格筆順があり、C1、C1裏、C2の「保」に破格筆順がないが、A1裏の「保」は破格筆順ではないので(破格筆順かどうか判然としないと見るのが正しいように思われる)、「保」の字の破格筆順の傾向は弱いというべきであり、C1、C1裏、C2における「保」の破格筆順の欠如は日石爆弾資料における傾向と反対傾向を主張するとは積極的にはいえないとして、結局C1、C1裏、C2につき破格筆順の項目を「-(一)」と表わすとしている点である。破格筆順という抽象的な分析項目を設定したこと自体に前述のように疑問があることは別論としても、右に述べられた事態は、要するに、C1、C1裏、C2の執筆者がA1裏、A2裏の「業」と同じ破格筆順の傾向を有しているか、A1、A2の「シ」と同じ破格筆順の傾向を有しているかどうかは判定できないとし、また、C1、C1裏、C2の執筆者が「保」の字につきA2裏の「保」と同じ破格筆順に従うことがあるかどうかは三文字につきいずれも破格筆順に従っていないのでその可能性は低いがないとまではいえないとするのが正確であろう。そうであるから、少なくとも破格筆順は分析項目から外すべきで、「-(一)」と表示して第二次総括の一覧表に意味あるものとして掲記しているのは疑問である。
第二に、「字形破格」について、黒田第一次鑑定は、C1裏のマイナスは「保」を除き字形破格判定の対象になった「港」、「警」、「易」、「合」、「新」、「浜」、「丘」等の文字をC1裏が含んでいないためであり、このマイナスはC1裏の非共通性を積極的に主張するものではないとして、「-(一)」と表わすことにするとしている。このように文字ごとに検討することは正しいが、破格筆順について述べたようにC1裏の執筆者が右「港」等の文字につきA1裏等と同じ字形破格を示すかどうか判定できないとするのが正確である。そして、このことはC1、C2の「島」の字形破格についても同様であり、A1、A1裏、A2、A2裏、B1、B1裏、B2には「島」の文字がないからこれらの荷札の執筆者が「島」の文字につきC1、C2と同じ字形破格を示すかどうかは判定できないとしなければならない。C1裏についてのみ文字ごとの検討を加え、その他については字形破格という大きな項目での検討にとどめるというのは一貫しないように思われる。従って、字形破格についてもこれを分析項目から外すべきであり、第二次総括の一覧表に意味あるものとして掲記しているのは疑問である。黒田第一次鑑定は、以上のようにして(その他「扁と旁の接触」につき異常接近などと呼んでB1裏とB2のマイナスを「+」と修正している)、第一次総括の一覧表のマイナスの部分に修正を加え、「加筆」を別格扱いとして備考とした外は、分析項目を変更することなく第二次総括の一覧表を作成し、純粋に非共通要因はC1裏、C2における扁と旁の接触の欠如、A2、B1裏、B2、C2におけるZ化欠如となると結論しているが、「-(一)」と修正した項目についても、重視しないまでも本件鑑定資料の共通性を裏付ける方向に働くものとして考慮しているように思われ、疑問がある。
④ 黒田第一次鑑定は、右のようにして作成した第二次総括の一覧表につきさらに検討を加え、右に述べた「扁と旁の接触欠如及びZ化欠如は文字をていねい、慎重に書くべく努力するとき、生じうるとも考えられ、これを考慮すると、これら二項目は日石爆弾筆跡と土田爆弾筆跡の非共通性を主張する力に弱く、むしろ同一筆跡の変動内に入る場合もありえよう」とするが、結局重要な項目ではないから日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡とに相違があっても重視すべきではないと述べているに等しいのであり、分析項目の選別の際これらを特殊性のある特徴として取り上げた態度と必ずしも一貫しないように思われる。また、黒田第一次鑑定は、字形破格及び破格筆順も作為目的から来る場合があるともいえようとして、右二項目を重視しないような態度を示しているが、この点についても同様一貫性に欠ける嫌いがある。
⑤ 以上のような第二次総括の一覧表作成経過を見ると、全鑑定資料の共通性に消極的な要因となるものを極力重視しないようにしようとする態度があるのではないかとの疑いを生じさせないではない。
⑥ このようにして、黒田第一次鑑定は、最も重視すべきは「縦線のうねり」、「懐の広さ」、「懐の末広がり」、「中鋒」、「入念な起筆・簡易な終筆」の項目であり、一貫して全筆跡資料の共通性を示唆するから、全鑑定資料の筆跡は同一筆跡であると結論している。しかし、右最も重視すべきであるとされた五項目のうち「中鋒」は不適当な項目であること、その他の項目についても稀少性のある特徴を示すとは思われないことに照らし右結論には疑問があるし、そもそもなぞり書きのあるボールペン、ペン筆跡と毛筆筆跡とを右のような項目で比較検討して筆跡の同一性の判定を下し得るものかどうか基本的な疑問がある。なお、かりに黒田鑑定人の考えに従い、右五項目がすべて二分の一の確率で発生するもので、かつ、それぞれ独立しているものと見ても、右五項目に一致する筆跡は二の五乗分の一、すなわち三二分の一の確率で生ずることになり(「中鋒」を除けば一六分の一)、必ずしも稀なものとはいえないことになるであろう。
⑦ 黒田鑑定人は、最初から日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡とが同一筆跡であると決めてかかった疑いがある。第一に、分析項目の選別に際し日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡を区別することなく一括して扱っていること、第二に、「うねり」、「右方向凸の膨みの縦線」、「左方向凸の膨みの縦線」、「直線的縦線」の出現率を算出する場合に全鑑定資料を一括して計算し(50:39:19:16になるという)、「対照者の筆跡でこのような特徴の出現率に近いものがあればこの対照者が荷札の執筆者である可能性が強くなる」としていること(これは、全鑑定資料が同一筆跡であるとの前提のもとに述べられているのにほかならない)、第三に、「懐大・末広」特徴の集計態度、「扁と旁の接触」及び「Z化」の出現率の算出態度に右第二と同様のことがいえること、第四に、第二次総括の一覧表の作成経過に前述した疑問があることを指摘できるからである。そうだとすると、黒田第一次鑑定の、本件全鑑定資料が同一筆跡であるとの結論には、さらに疑問が加わることになる。なお、鑑定補充説明書によれば、A1裏の「直線的縦線」の字数を二字から三字に修正しているが、前述の出現率にはほとんど変動はない。
(3) 文字特徴の出現率
① 黒田第一次鑑定は、分析項目の選別に際し、出現頻度を調べるとして、本件鑑定資料を一括して出現率というものを算出している。しかし、鑑定資料を日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡とに分け、それぞれについて黒田第一次鑑定の手法に従い出現率を算出してみると、それぞれ異なる傾向を示すように思われるのであり、本件鑑定資料を一括して出現率を算出することには疑問がある。しかも、そもそも本件鑑定資料という量が豊富とはいえない範囲で単純に出現率を算出しても、分析項目によっては偶然の要素が大きく、重要性に乏しいものがある。
② 黒田第一次鑑定は、本件鑑定資料の全部を一括して「うねり」(aとする)、「右方向凸の膨らみの縦線」(bとする)、「左方向凸の膨らみの縦線」(cとする)、「直線的縦線」(dとする)がそれぞれ出現する文字の数を計算し、aは五〇字、bは三九字、cは一九字、dは一六字であるから、出現率(a:b:c:d)は50:39:19:16となり、対照者の筆跡でこのような特徴の出現率に近いものがあれば、この対照者が荷札の執筆者である可能性が強くなるといえると結論している。この結論は、本件鑑定資料がすべて同一筆跡であるとの前提に立ったものである。そこで、右出現文字数を日石爆弾遺留筆跡及び土田邸爆弾遺留筆跡ごとに計算してみると、前者はaが四三字、bが二八字、cが一一字、dが一三字となり、後者はaが七字、bが一一字、cが八字、dが三字となる。以上を分かりやすくするために(a:b:c:d)を百分比で表わすと、全鑑定資料を一括して計算した場合は40:32:15:13で、日石爆弾遺留筆跡について計算すると45:29:12:14となり、土田邸爆弾遺留筆跡について計算すると24:38:28:10となる。日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡とでは出現率にかなりの相違がある。これを見ても両筆跡の同一性に疑問を抱かせないではない。黒田第一次鑑定も、結局右のようにして算出した出現率を対照筆跡について検討することはしていないのである。なお、鑑定補充説明書において若干の修正がされていることは前述したとおりであるが、右に述べたことに影響はない。
③ 黒田第一次鑑定は、本件鑑定資料の各荷札ごとに懐大の字をa、懐小の字をb、一字一懐の字をcとし、懐大の字の出現率としてを算出している。その結果を見ると、A1については五〇パーセント(鑑定補充説明書において五〇パーセント。以下同じ)、A1裏については三八パーセント(五五パーセント)、A2については五〇パーセント(五〇パーセント)、A2裏については七八パーセント(七三パーセント)、B1については八六パーセント(八六パーセント)、B1裏については八三パーセント(七一パーセント)、B2については一〇〇パーセント(一〇〇パーセント)、C1については二三パーセント(二五パーセント)、C1裏については六〇パーセント(六〇パーセント)、C2については五〇パーセント(五六パーセント)の出現率が得られたというのである。これを見ると懐の大きい文字の出現率が高いように見える。しかし、右のような算出方法は、各荷札に懐を含む文字が何文字あるかというような偶然に左右されるものである。B2については一〇〇パーセントとなっているが、懐を含む文字は二文字しかないのであり、出現率一〇〇パーセントという数字を算出しても重要性に乏しい。ここで黒田第一次鑑定の右算出方法に従い、日石爆弾遺留筆跡及び土田邸爆弾遺留筆跡ごとに懐大の字及び懐小の字の出現率を算出してみると、前者については懐大の字が六三パーセント(六四パーセント)で懐小の字が一五パーセント(二二パーセント)、後者については懐大の字が四二パーセント(四二パーセント)で懐小の字が三八パーセント(三八パーセント)という数字を得るのであり、黒田第一次鑑定の手法に従うと、両者に共通性が見られるのかどうか疑問が生ずるのである。
④ 黒田第一次鑑定は、懐大・末広、懐大・末細、懐小・末広、懐小・末細に四分類して文字を集計し、順に四七字、一二字、六字、一二字(一三字の誤り)(鑑定補充説明書では順に四六字、一三字、七字、一六字。以下同じ。)となるとし、鑑定資料は全体としては懐が広く、そして末広がりという筆跡特徴をもつことがわかるのであり、そうでない特徴も混っているけれどもそれらははるかに劣勢であると結論している。なるほど懐大・末広の文字の数が一番多いのでそのようにも見える。しかし、これを日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡に分けて計算してみると、前者は順に三七字、八字、四字、八字(三五字、九字、五字、八字)となり、後者は順に一〇字、四字、二字、五字(一一字、四字、二字、八字)となって、両者の共通性は十分とは思われない。末広と末細の点に着目して見ると、前者は末広が四一字(四〇字)で末細が一六字(一七字)となり、後者は末広が一二字(一三字)で末細が九字(一二字)となるのであって、黒田第一次鑑定の手法に従うと両者に共通性が見られるのかどうか疑問が生ずる。少なくとも後者について見れば「懐が広く、末広がり」でない特徴がはるかに劣勢であるということはできない。
⑤ 黒田第一次鑑定は、扁と旁の接触の有無につき出現率が三七パーセントであるとして、対照資料の検討において項目の重みの程度の判断に役立つとしている。しかし、右出現率を日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡に分けて算出すると、前者では四五パーセント、後者では九パーセントになり、黒田第一次鑑定の手法に従うと両者の共通性に疑問を生じさせる。また、Z化について出現率を算出している点についても同様のことがいえる。
(4) 鑑定資料と増渕の対照資料との比較
① 黒田第一次鑑定は、前述した分析項目につき増渕の対照資料に検討を加えているが、日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡の同一性の検討の際に重視すべき項目とした「入念な起筆・簡易な終筆」については検討がされていない。入念な起筆については中鋒とともに逆筆の特徴の有無ということで検討が加えられたと見ることもできるが、簡易な終筆については検討がない。また、増渕の対照資料を見ても簡易な終筆という特徴があるかどうか判然としない。
② 黒田第一次鑑定は、日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡の同一性の検討の際には重視しなかった「扁と旁の接触」、「Z化」、「破格筆順」、「字形破格」について詳細に検討し、重視しているように思われるが、一貫しない。
③ 以下、各分析項目について個別に検討する。
「縦線のうねり」について
黒田第一次鑑定は、鑑定資料中のA1の「新」、「宿」、「田」に顕著な縦線のうねりが増渕48・3・22筆跡資料入手報の「橋」や増渕48・7・21メモ作成状況報の「か」に見られるとし、また、A1の「宿」のウ冠の勾のうねりが増渕48・3・15供述書の「増」や「害」のうねりに酷似するとしている。しかし、うねりの有無につき鑑定資料と対照資料を異なる文字で比較するのには疑問があるのではなかろうか。ある文字のある部分を書く時にはうねりを示す者も、別の文字を書く時にはうねりを示すこともあれば示さないこともあるからである。黒田第一次鑑定が別の文字を比較の対象にしたのは、同じ文字についてうねりの特徴を見出せなかったからであろう。黒田第一次鑑定がA1の「宿」のうねりと酷似すると指摘する右「増」及び「害」の文字を見ても必ずしも酷似するとまではいえないように思われるし、増渕の対照資料中に見られる多数の「宿」やその他ウ冠を含む文字を見てもうねりを示す文字を探すのに苦労する。黒田第一次鑑定は、増渕の筆跡における縦線はうねりだけでなく、左方向凸、右方向凸、S字型、直線のようにいろいろの形を書いており、鑑定資料も同様であるとする。この点は右鑑定の指摘するとおりであるが、前述したように必ずしも一般通常人に稀なことではないであろう。
「懐の広さ」について
黒田第一次鑑定によれば、懐が広い点は増渕のほとんどあらゆる文字に一貫する特徴であるとする。懐の定義等には疑問もないではないが、鑑定資料と増渕の対照資料が横幅のある文字であるという点で共通性を持つということはいえるし、増渕の対照資料は懐が広いということもいえるかも知れない。しかし、この点も、必ずしも一般通常人に稀なことではないであろう。
「懐の末広がり」について
黒田第一次鑑定は、筆跡対比綴の増渕筆跡では末細が優勢であるが、他の資料では末広が優勢と見るべきであろうとしている。増渕の対照資料を見ても末広が優勢かどうかは判然としない。また、検察官が鑑定資料と同じ文字の増渕の筆跡を集めた筆跡対比綴においては末細が優勢というのであるから、増渕は鑑定資料と同じ文字については末細の特徴を示す可能性があるのかも知れないのである。かりに、「懐の末広がり」という点において鑑定資料と増渕の対照資料が一致したとしても、この点は必ずしも一般通常人に稀な特徴とはいえないから、これを重視するのは相当ではないであろう。
「扁と旁の接触」について
黒田第一次鑑定は、増渕の対照資料においては扁と旁の接触の頻度が高く、どの文書のどのページにも必ず複数個発見できるとしている。しかし、右のとおりだとしても、必ずしも一般通常人に稀なことではなく、重視するのは相当ではないであろう。
「線質」について
増渕の対照資料には毛筆筆跡のものはない。黒田第一次鑑定は「起筆における逆筆特徴」=「中鋒の用筆法」=「滑らかな送筆輪廓線」とし、ペン書きの筆跡についてもインクの溜った跡の有無によって逆筆特徴を判定できるとの前提のもとに増渕の対照資料に検討を加え、増渕筆跡には逆筆特徴が非常に多く、中鋒の性格を持つとする。しかし、右前提自体に疑問があることは、すでに述べたとおりである。
Z化について
黒田第一次鑑定がC1の「豊」及びC1裏の「卓」にZ化が認められるとすることに疑問のあることは、前述のとおりであるが、その点はさておき、同鑑定は、増渕の対照資料にZ化が頻出するとしている。たしかに増渕の対照資料中にはZ化が多く見られる。しかし、この点は必ずしも一般通常人に稀なことではないであろう。しかも、黒田第一次鑑定は、日石爆弾遺留筆跡と土田邸爆弾遺留筆跡との同一性の判定の際にはこの点は重視していないように見えるのである。
破格筆順について
a 黒田第一次鑑定はA1裏、A2裏の「業」の破格筆順が増渕の対照資料の「業」の破格筆順に一致するとしており、この点は右鑑定の指摘するとおりである。この点も必ずしも一般通常人に稀なものとまではいえないように思われるが、日石爆弾遺留筆跡と増渕の筆跡の同一性を判定するのにある程度の意味を持つと思われる。なお、「業」について右と同じ破格筆順は、中村泰章の筆跡にも見られる。
b 黒田第一次鑑定は、A2裏の「保」の破格筆順は増渕の筆跡には見られないが、この破格筆順の傾向は弱く、また、これは、増渕筆跡に見られる「長」、「良」についての破格筆順がたまたま出てしまったとも推定されるとしている。しかし、異なる文字について字画の種類を問わずに破格筆順の有無を比較することがどれほど重要な意味があるのかは明らかでなく、「保」の破格筆順と「良」、「長」の各破格筆順とが類似性を有するかどうかには疑問があろう。また、右鑑定は、A1、A2の「シ」の破格筆順は増渕の筆跡には全く見出せないが、増渕48・7・21メモ報(3・11分)の「当」の字の破格筆順が多少関連があるように思われるとする。しかし、この点についても異なる文字について比較するのは疑問があるし、両者の関連も必ずしも判然としない。
純粋形態破格について
a 黒田第一次鑑定は、増渕48・7・21メモ報(3・11分)の「帰」、「曜」、「頃」、「酒」、「爆」、同48・7・21メモ報(3・22分)の「宿」を挙げ、増渕の筆跡には大胆な省略又は破格の変型の傾向が見られるとし、鑑定資料筆跡における純粋形態破格は筆跡隠蔽目的から来る意識的な造形と見なされるが、隠蔽のための造形では習慣ないし急ぎの心理からの字形がそのモデルとなると考えられるとした上で、A1裏、A2裏、B1裏の「港」の字形破格が増渕の筆跡から由来すると推定することができ、A1裏の「警」についても同様のことがいえるかも知れないとしている。しかし、右鑑定が指摘する増渕筆跡の破格の形態と鑑定資料の「港」及び「警」の破格の形態とは特に類似性は見られないように思われ、前者が後者のモデルになっていると推断することは躊躇される。なお、増渕筆跡の「港」には鑑定資料の「港」と同じ形態の破格はないというのである。
b 黒田第一次鑑定はC1、C2の「島」と同じ字形破格は増渕筆跡の「島」にはないが、右鑑定資料の字形破格は上下癒着であり、増渕の筆跡にも上下癒着の傾向がかなり強いとする。しかし、上下癒着の傾向は必ずしも稀少性のあるものではないであろう。C1、C2の「島」と同じ字形破格は増渕検証筆跡(黒田第二次鑑定の対照資料)中にも見られるが、松村、坂本及び堀の対照資料にも見ることができる。
c 黒田第一次鑑定はA2の「合」と酷似する形態を増渕48・7・21メモ報(4・7分)の「入」に見出せるとするが、異なる文字について比較することには疑問が残る。
破格筆順に基づく字形破格について
黒田第一次鑑定は、鑑定資料の「新」の字形破格は増渕筆跡には一貫して見られないこと及び鑑定資料の「新」の「」の角度に酷似する角度を持つ字が増渕筆跡に発見できることから(「豊」の「豆」の「」の角度などを挙げる)、鑑定資料は一貫した筆跡作為の原理によって書かれていると推定されるとしている。しかし、右のような推論は鑑定資料と増渕の筆跡が同一であることを前提にしなければ成り立ち得ないように思われる。
その他
黒田第一次鑑定は、「業」の破格筆順が草書に典拠があることなどやA1、A2の「正」と同じ字画連結が増渕48・4・1取報の「正」に見られ、右字体は古典的筆跡にも見られることなどを指摘している。「正」の字画連結については、日石爆弾遺留筆跡と増渕の筆跡の同一性を判定するのにある程度の意味を持つかも知れない。但し、同じ字画連結は前林、金本、坂本の筆跡にも見られる。
④ 黒田第一次鑑定は、各分析項目を検討し、増渕筆跡の類似度は極めて高いことがわかったとするが、右鑑定が検討しているところは以上に述べたように疑問が多く、増渕筆跡の類似度が極めて高いとの結論が導かれるとは思われない。懐、Z化、破格筆順、字形破格については一致点を重視し、相違点は筆跡隠蔽工作によるとしているように思われ、その区別に必ずしも根拠があるとも思われない。また、確度の高い鑑定結果を得るためには増渕の対照資料について稀少性のある特徴の有無を検討し、本件鑑定資料と比較検討する作業が必要であるが、そのような作業はされていない。
(5) 鑑定における予断の疑い
黒田鑑定人は、対照資料の一一名が日石土田邸事件の犯人であり、右一一名中に本件鑑定資料の執筆者が存在すると決めてかかっていたふしが窺われる。すなわち、黒田第一次鑑定は、「増渕筆跡から検討を始めたところ、増渕筆跡の類似度がきわめて高いことがわかった」ので「増渕は鑑定資料の執筆者であるという仮説を設定し、この仮説が他の対照者の筆跡の検討によって覆るか、それともますます確実にされるかを見ることにする。」としているのであるが(鑑定説明書五三丁)、これは一一名の中に本件鑑定資料の執筆者が存在することを前提にして初めて成り立つ手法だからである。また、黒田証人が「本件鑑定依頼を受けた際右一一名については犯人であるというか容疑者であるというような気持で受けとめた。右の者らが公判でどのような主張をしているかは聞かなかった。」旨証言し(二三三回公判・一二三冊四四〇二二丁以下)、また右一一名を「同志の皆さん」と表現していること(二三三回公判・一二三冊四四一二七丁)、及び日石爆弾遺留筆跡の加筆者を対照資料中に求めていることも、黒田鑑定人が前述した予断を持っていたことを疑わせるものである。
(6) 増渕以外の者の対照資料との比較検討
黒田第一次鑑定は、増渕以外の者の対照資料を前記分析項目のうち「縦線のうねり」、「懐の広さ」、「懐の末広がり」について検討し、三項目ともプラスの者は増渕、江口、中村泰章の三人であるとし、さらに「扁と旁の接触」、「中鋒」、「入念な起筆・簡易な終筆」について検討し、増渕と江口が残るが、江口の筆跡には鑑定資料と異なる特徴があるので、その可能性は否定されるとしている。これらの検討にも問題はあるが、検察官が従前土田邸爆弾の荷札及び包装紙の字を書いたと主張していた前林については右六項目をいずれもマイナスとし、同じ主張をしていた金本については四項目をマイナスとして、両名の各筆跡との同一性を否定していることが注目される。
(7) 要約
以上に述べたように黒田第一次鑑定には、多くの疑問があり、同鑑定は、実質的には本件対照資料中誰の筆跡が本件鑑定資料に類似するかとの観点からの鑑定(限定的鑑定)をしたものと見ざるを得ないのであって、右鑑定のみを拠り所にして本件鑑定資料の執筆者が増渕であると断定することはできないことである。
四、第二次鑑定
(1) 線形態の観察
黒田第二次鑑定は、a・縦線のうねり、b・懐の広さ、c・懐の末広がり、d・扁と旁の接触、g・Z化、h・破格筆順、i・字形破格につき増渕の対照資料を検討し、hの確認が困難であり、その他線形態に差異があるが、a、b、c、d、g、iという多くの観察項目において土田邸爆弾遺留資料(C1C2)と共通性を示しており、共通性をもって優勢と判定するのが正しいと結論している。
しかし、黒田第二次鑑定の前提とする第一次鑑定について述べたように、C1の「豊」及びC1裏の「卓」にZ化が認められるとする点は疑問であり、これらを除いてC1(及びC1裏)、C2中に両鑑定の指摘するZ化はなく、従って、Z化の共通性が認められるとすることは疑問である(なお、黒田第二次鑑定が増渕対照資料についてZ化が認められるとする箇所を見ると、上下線の間隔が狭過ぎるために上下線の墨が癒着したのではないかとも見られる所が少なくない)。また、黒田第二次鑑定が増渕対照資料につき縦線のうねりが認められるとする箇所を見ると、うねりでなく、たまたま生じた「曲がり」及び単なる「ふるえ」ではないかと認められる所もある。また、黒田第二次鑑定も指摘しているように、C1(及びC1裏)、C2と増渕対照資料との間の線形態の差異もまた少なからず認められる。
しかし、このような疑問点や線形態の相違点はあるが、土田邸爆弾遺留資料と増渕対照資料との間に線形態上の共通点も存することは否定し得ないところであるし、右相違点については増渕が対照資料につき作為を加えている可能性を考慮すべきであるから、右相違点を重視して、直ちに土田邸爆弾遺留筆跡と増渕対照筆跡の同一性を否定する結論を導くのは相当ではないであろう。すなわち、重要なのは黒田鑑定にも述べられているように線質の観察結果がどうなるかである。
(2) 線質の観察
a 黒田第二次鑑定は、土田邸爆弾遺留資料の文字合計三八字(C1一七字、・C1裏一四字、C2七字)の各字につきその起筆、終筆、折角及び送筆(特に前三者)の線質特徴を取り上げ、それらの線質特徴と同じ線質特徴が増渕対照資料の文字合計三一九字の中にどのように認められるかを観察し、前記「ある文字特徴の別の字への出現」の場合をも含めて、少なくとも合計二二〇箇所において一致が認められるとしているものである(同鑑定は二二〇項目というが、正確には二二〇箇所というべきであろう)。
このような判断は、黒田第二次鑑定自身も述べているように、ある字のある字画の線質特徴は、必ずしも同じ字の同じ字画でなければ現われないものではなく、他の字の同種類の字画にも現われることがあるという見解に基づくものと考えられるが、この見解自体は相当であると考えられる。
しかし、土田邸爆弾遺留資料と増渕対照資料とについて黒田第二次鑑定が線質特徴の一致が認められるとする箇所を一つ一つ拡大鏡で観察すると、果たして一致が認められると判定してよいのか疑問のある所がある。それは、黒田第二次鑑定の筆跡鑑定説明書(証一二九冊三二二四七丁以下)の二三丁の番号(遺留資料の文字につけられた番号。以下同じ。)5・6・10、二四丁の番号4・6、二五丁の番号3・4・9、二六丁の番号6、二七丁の番号6、二八丁の番号4・7・10、二九丁の番号4、三〇丁の番号2・4・10、三六丁の番号6、三七丁の番号11、三八丁の番号2・6、三九丁の番号5・6・7・8、四一丁の番号3・6、四二丁の番号2・3・4、四三丁の番号1・2、四四丁の番号3、四五丁の番号5、四六丁の番号2・10・11、四七丁の番号2、四九丁の番号2、五〇丁の番号3、五一丁の番号3・6・7、五二丁の番号8、五四丁の番号4、五五丁の番号1、五八丁の番号2、五九丁の番号2、六〇丁の番号1・4・6である(合計五一箇所。以上の箇所には当該増渕対照資料になぞり、あるいは再度の押さえがあって判定が困難と認められるものを含む)。
また、黒田第二次鑑定が線質特徴の一致が認められるとする他の箇所を右と同様に観察すると、一応類似していると認められても、それぞれ類似程度に差異があり、一致するとまで断ずることができるのかについては見る人の主観によって相違があると思われる所が全体的にかなりあるのである。
さらに、土田邸爆弾遺留資料中のある字のある字画の線質特徴と増渕対照資料中の同じ字の同じ字画の線質特徴とが一致しない箇所も多数見られるところ、黒田第二次鑑定は、前者に対する後者の差異について、前者の執筆者の書字運動の範囲内にあるのかどうか、あるいは後者の執筆者増渕の意思(第二次鑑定説明書二〇丁にいう「裁判の席における特定の意思」)が作用しているのかどうか等について説明するところがない。
しかし、以上のような疑問点や問題点があるが、両資料間の文字について線質特徴の一致がかなりの箇所で認められることは否定し得ないところである。ただ、右にも述べたように、全体的に、一致するかどうかの判断は見る人の主観によって差異を生じることは免れないと認められるのであるし、右線質特徴が稀少性を有するのかどうかの論証は全くされていないのであって、線質特徴の共通性をもって、両資料の執筆者が同一人であると認めることはできないことといわざるを得ない。
(3) その他
なお、付加するのに、黒田第二次鑑定は、ある字画の起筆部分における「角」の存在は、「『逆筆的』ともいうべき」書字運動を示すものであり(第二次鑑定説明書一三丁参照)、かつ、「中鋒的な字画と緊密に結合するもの」であって、第一次鑑定説明書における「中鋒の項目」は第二次鑑定の増渕対照資料についても「同様に妥当する」(第二次鑑定説明書二一丁参照)と述べているが、土田邸爆弾遺留資料及び増渕対照資料中の各文字が中鋒の用筆法であるのかどうかは見方によって分かれるところであろうし(むしろ消極的な見方が多いであろう)、これを「中鋒的」と名づけるのは黒田鑑定人の独特の見解ではあるまいか。
また、黒田第二次鑑定は鑑定資料の特徴が増渕筆跡に全部吸収されてしまうならば両資料筆跡は同一と判定できるとしているが、これは集合論としては誤りではなかろうか。両資料筆跡を同一と判定するには、さらに増渕筆跡の特徴も鑑定資料筆跡に含まれることが必要だからである(そして、その方向からの検討はなされていない)。しかし、これは、本件鑑定資料に前記二二〇項目もの筆跡特徴を見出すことができたので、このような多数の特徴が異なる者の筆跡間で一致することはほとんどあり得ないということを述べようとしたものと見るべきであろう。
さらに黒田第二次鑑定が黒田第一次鑑定の影響を受けることは避けられない点にも注意を払うべきであろう。
五、結論
以上に検討して来た諸点に後記鳩山鑑定の結果をも併せて考えれば、黒田第一次及び第二次各鑑定のみを拠り所にして、日石爆弾遺留筆跡(原始筆跡)及び土田邸爆弾遺留筆跡の執筆者が増渕であると認定すること、並びに日石爆弾遺留筆跡について特定の加筆者を認定することは、いずれもできないことといわなければならない。
しかし、黒田鑑定人は、長年にわたり筆跡鑑定の研究を続けて来たものであって、その観察眼を軽視することはできないところ、黒田第一次及び第二次各鑑定は、本件一一名の対照資料中において本件鑑定資料の執筆者を特定するという限度ではある程度意味のあるものがあるようにも思われる。すなわち、他の証拠によって右一一名中に本件鑑定資料の執筆者が存在すると認められた場合には、右各黒田鑑定がある程度の意味を有するものとも考えられるのである。
六、その他(検察官の主張について)
① 検察官は、黒田鑑定人は増渕に書道の心得があることを見抜いたものであるが、増渕が書道を習ったことは二一四回公判(昭和五五年一二月三日)における証人高橋正一に対する反対尋問中に増渕自身がその旨を述べるまで検察官は知らなかったから、黒田鑑定人に右情報を提供することは不可能であった旨主張する(論告要旨二四一頁・一五六冊二五九一六丁)。
黒田鑑定人は増渕の筆跡(ペン字)を中鋒とした上で書道の心得があるとしたというのであるが、前述のようにペン字の用筆についても中鋒があるという考え方には疑問があり、黒田鑑定人が右の理由で増渕が書道を習ったという結論を得たのは独自の考察による偶然の結果というほかはなく、また、ペン字の用筆についても中鋒があるという考え方自体疑問がある以上、検察官の右主張は、それ自体は意味のあるものではない。なお、増渕はすでに八七回公判(昭和五二年二月一〇日)における証人高橋正一の反対尋問に際し昔習字を習ったことがある旨述べているのであり(三八冊一四三〇五丁)、本件鑑定嘱託前に検察官が知り得る可能性はあった。
② 検察官は増渕が捜査段階において毛筆筆跡の採取を拒否したとし、右は増渕が筆跡隠蔽工作を加えていない土田邸爆弾遺留筆跡と対照され同一性が確定されることを恐れたためである旨主張している(論告要旨二四三頁・一五六冊・五二九一七丁)。
増渕が捜査段階において毛筆筆跡の採取を拒否した態度は、検察官が主張するような疑いを生じさせないではないが、そのような態度に出た理由としては右以外にもいろいろ考えられるのであるから、特にこれを重視して、前記各黒田鑑定の結論を補強するに足りるものとすることはできない。
第四節鳩山鑑定の要旨
最後に、警視庁科学検査所文書鑑定科主事鳩山茂の鑑定要旨を摘記すると、つぎのとおりである。
① 日石爆弾の遺留筆跡について
鳩山茂の48・8・8鑑定書(証七二冊一七八五七丁)及び55・6・28鑑定経過補充説明書(証七二冊一七八七九丁)は、日石爆弾の荷札四枚(証一六号、二〇号、二一号、二二号。計六面)の筆跡(「資料1」)中に増渕ら一一名が記載した手記等の筆跡(「資料2」)と同一又は類似するものがあるか否かとの鑑定事項につき、「筆跡鑑定の方法は対照する二つの筆跡の諸特徴について比較対照し、筆跡の異同の特徴によって鑑定を行う。その諸特徴とは次のようなものである。(イ)配字形態の特徴。記載してある文字の全体的な大きさや、相互の大きさ、配置の間隔や傾斜及び角度、さらに全体的な調和性の状態や文字の形状などの特徴である。(ロ)筆勢ならびに筆圧の特徴。記載どきの紙面上を動く筆記具の速さや筆の勢いの状態ならびに紙面に対する全体的な筆記具の強さの度合い、さらに各字画相互の強さの度合いなどの特徴である。(ハ)書字能力の特徴。記載してある筆跡の調和性から運筆技術の巧拙差や、その巧拙程度から鑑定の対象文字を記載することの可能性の有無などである。(ニ)字画形態の特徴。文字を構成している各字画線について、初筆から終筆部に至る筆の運びや筆の方向および曲折の形態、終筆の撥ね方や止め方ならびに筆順などの特徴である。(ホ)字画構成の特徴。文字を構成している各字画線の長さや交差の状態、間隔や角度および字画相互の関係、さらに扁旁等の大きさや位置ならびに形状などの特徴である。そのほかに誤字や脱字画ならびに当て字等の特徴である。以上のような諸特徴についてそれぞれ比較対照する。さらに鑑定人の経験的な考察などから総合して異同の鑑別を行うものである。」との鑑定方法によって鑑定を行おうとしたが、日石爆弾の荷札六面の筆跡は、いずれも「黒ボールペン又は青インキのペン書きのなぞり書きした筆跡であり」、「鑑定の対照条件として適正な資料でないため、元の文字やなぞり書きした字画線が同一人か、あるいは数人のものが記載したかについては鑑別することができない。このような荷札の筆跡に対して資料2の増渕以下一一名が記載した筆跡と対照し、その異同を鑑別することはきわめてむずかしい。しかしながら、荷札のなぞり書きした個々の文字の字画形態構成の特徴について対照」し、鑑定結果として「資料1の荷札の一部筆跡と資料2の一一名が記載した筆跡とは一部の筆跡はそれぞれ類似の特徴を示した筆跡である。ただしいずれも異同の決定はできない。」としている。
② 土田邸爆弾遺留筆跡について
鳩山茂の48・5・9鑑定書(証七二冊一七八六七丁)及び55・7・2鑑定経過補充説明書(証七二冊一七九〇一丁)は、土田邸爆弾の荷札一枚(証五二号。表裏二面)の筆跡(「資料1」)と金本ミネ子の筆跡(「資料2」)と類似箇所があるかどうかとの鑑定事項につき日石爆弾の筆跡鑑定についての前記鑑定方法と同じ方法により鑑定したうえ、「資料1の二枚(一枚二面のこと)の荷札と資料2の金本記載の筆跡とは総体的に類似した特徴を示している。しかしながら異質の特徴も各文字に認められ、したがって必ずしも同一筆跡であるか否か決定することはできない。」とし、鑑定結果として「資料1の筆跡と資料2の筆跡とは類似特徴を示した筆跡である。ただし異同の決定はできない。」としている。
また、鳩山茂の48・6・29鑑定書(証七二冊一七八七六丁)及び前記55・7・2鑑定経過補充説明書は、土田邸爆弾の包装紙片(証六〇号)及び荷札(証五二号)に記載されている筆跡(「資料1」)は類似のものか否か、並びに資料1の筆跡中に前林則子が記載した手記等の筆跡(「資料2」)と同一又は類似のものがあるか否かとの鑑定事項につき日石爆弾についての前記鑑定方法と同じ方法により鑑定したうえ、「資料1の包装紙片の筆跡と荷札の筆跡とは、文字の特徴にかなり類似した個所が認められる。しかしながら、包装紙片は文字の記載個所がかなり欠如しており、鑑定資料としては適正な資料ではない。したがってこれら両対照筆跡の異同を決定することはできないが、総体的には類似特徴を示した筆跡である。また、荷札及び小紙片の筆跡と前林則子の筆跡とは一部類似した特徴が認められるが、異質の特徴が多くしかも各文字とも顕著である。したがって総体的には異なる特微を示した筆跡であり、類似性は低い。」とし、鑑定結果として「1資料1の包装紙片の筆跡と、同資料の荷札の筆跡とは類似特徴を示した筆跡である。2資料1の包装紙片および荷札の筆跡と資料2の筆跡とは異なる特徴を示した筆跡である。」としている。
なお、二〇六回証人鳩山茂の供述(一〇一冊三七九六五丁)によると、鳩山茂は右に述べた土田邸爆弾の筆跡鑑定を行うに際し、金本及び前林以外の被告人ら九名の各筆跡を集めた資料をも調査していることが認められる(同冊三八〇三七七丁)。
ところで、検察官は、以上の鳩山鑑定について、鳩山茂の「鑑定手法の限界等のため『異同の決定はできない。』との結論になったものであり、同様土田小包爆弾の荷札等の筆跡と金本、前林の筆跡との異同の鑑定には対比照合すべき対象として増渕の筆跡が含まれていないので、その結論が黒田鑑定と異なることは当然であり、何ら黒田鑑定の信用性を損うものではない。」と述べているが(論告要旨二四五頁・一五六冊二五九一八丁)、鳩山鑑定の具体的な方法がいささか大雑把であるとの難点はあるものの、条件の異なる土田邸爆弾遺留筆跡に関する鑑定結果についてはともかく、日石爆弾遺留筆跡に関し結論において明確な判定を下し得なかったということが黒田鑑定の信用性を減殺する方向に働くことは否定できない。
第五章情況証拠
第一節いわゆる六月爆弾事件
進んで、検察官が、被告人らが日石土田邸事件の犯人であることを窺わせる情況証拠と主張するもののうち、まず、増渕らを中心とするグループが昭和四五年において前年から引き続いて爆弾闘争を志向し、トリック式爆弾を製造したとの、いわゆる六月爆弾事件に関する供述証拠(論告要旨二六九頁・一五六冊二五九三〇丁)について検討すると、つぎのとおりである。
佐古幸隆48・3・20検面(証二冊三四六八丁。但し、増渕についてはその(謄)。増渕四冊七五八丁)、佐古48・3・26及び48・3・30各検面(証二冊三五一四丁三五一七丁)、梅津民48・4・6及び48・4・16各検面(証二冊三五八九丁、三六〇三丁。但し、増渕についてはその(謄)。増渕証四冊七三八丁・七五二丁)、村松和行48・3・21及び48・4・9・10各検面(謄)(証一二二冊三〇八四八丁・三〇八九二丁)、六〇回・六二回ないし六四回及び六七回証人佐古幸隆の供述(二四冊八六九五丁・二五冊九〇〇六丁・二六冊九二一九丁・九三四三丁・二八冊一〇〇七八丁)、前林三回証人梅津民の供述(前林一冊二九三丁)、七三回証人梅津民の供述(三一冊一一二三九丁)一六八回・一七一回及び一七二回証人村松和行の供述(七九冊三〇五一五・八一冊三一一七九丁・八二冊三一三七二丁。但し、金本に関しては、証人村松の一六八回公判における供述についてはその全部、一七一回及び一七二回各公判における供述についてはその各一部は、公判調書中の供述記載が証拠となる。)を総合すれば、つぎの事実が認められる。
増渕は、昭和四五年五月ごろ、東京都世田谷区烏山所在の住居(アパート)において「世界革命情報」との題の、爆弾製造方法が書かれた印刷物などにより爆弾の製造方法を研究し、当時同所に同居していた佐古にも研究を促していたこと、
昭和四五年六月ごろのある日に東京都世田谷区《番地省略》梅津民方(以下梅津方という。)において、坂東国男(以下、坂東という)、増渕、江口、村松らが集まって、水銀、薬品類を材料として、江口の指導で雷汞を製造する実験をし、これを製造したこと、
その数日後、梅津方において、坂東、増渕、江口、前林、佐古、村松らが集まって、脱脂綿、硝酸液その他の薬品類を材料として、江口の指導で硝化綿を製造する実験をし、脱脂綿を薬品液に一晩漬けて置き、翌日硝化綿ができたこと、
右硝化綿ができたころ、梅津方において、坂東、増渕、佐古、村松らが集まって、鉛筆のキャップ(短くなった鉛筆をはめて長くして使う、穴のない金属製の柄)、ガスヒーター、電池、ニクロム線、硝化綿、電汞等を材料として、坂東、増渕が中心となり雷管を製造しようとし、発火実験をしたこと、
以上の事実が認められる。
また、前記各証拠によれば、そのころ増渕らが中心となって千葉県興津の海岸において爆弾の爆発実験をした可能性も強い。しかし、前記各証拠のうち最も中心となる佐古の自白は後述のとおり信用性に疑問があり、右自白を基にした取調の結果得られた村松及び梅津の自白の信用性にも不十分な点があって、少なくとも右爆発実験の参加者、実験に使用された爆弾の構造及び実験の態様は判然とせず、また右実験後に増渕らが爆弾を製造したこともあるかも知れないが、少なくとも製造のメンバー及び製造した爆弾の構造については判然としないのであって、結局、増渕らの右爆発実験(それに必要な爆弾の製造を含む。)及びその後の爆弾製造の事実までを認めるに足りる証拠はない。
(一) 佐古自白の疑問点
① 佐古の興津実験及び箱入爆弾の製造に関する自白は、佐古48・3・10メモ(佐古メモ。証二五三号の一部。証八九冊二二〇三二丁はその(写)。以下(写)の冊丁のみを示す。)に初めて若干現われ、佐古48・3・12メモ(証八九冊二二〇三六丁以下)にかなり具体的に述べられているが、その自白の内容等には疑問が多い。
右佐古48・3・10メモには、「ひもを引っ張って。どんな爆弾だったか」との記載があり、円筒が描かれその左隅に「爆弾」との記載があるが、佐古がいわゆる六月爆弾の構造について想像をめぐらしているようにも見えないではない。
右佐古48・3・12メモには起爆装置の図が描かれているが、雷管の構造についての基本的理解を欠いた不自然なものとなっており、右図面の周囲には「推定」、「実物」という言葉が書かれており、また、「どんな爆弾だったか」との言葉の下に長方形の容器にダイナマイトと火薬が半分ずつ詰められているような不自然さの残る図面等が描かれており、同図面の左肩には「推定」という言葉が記載されているのであり、佐古が爆弾の構造について想像をめぐらしているようにも見える。
右メモにはダンボール箱の蓋をあけると何かがひっかかってとれるようなもの(スイッチを窺わせる。)についての記載があり、輪ゴムを使用したスイッチのような図面が描かれているが、輪ゴムのような伸縮自在のものを使用したスイッチはおよそ役に立つとは思われず不自然であり、佐古がスイッチの考案、製造に関与したことにつき疑いを抱かせるものである。
右メモに記載された爆弾の製造状況は具体性に乏しい。
右メモに記載された興津実験の方法は、証八九冊二二〇四〇丁の記載によれば、「爆破実験は何かひものようなものをひっぱって爆破させてみた」というのであり、証八九冊二二〇三九丁の記載によれば「岩壁端に爆弾を置き、コードをひっぱってきて岩のうしろにかくれ、そのコードに電池で電流を流して爆破させたのです」というのであるが、佐古48・3・10メモの記載をも併せて見れば、佐古が当初ひもをひっぱって爆破させたと述べたのに対し、いかにも不合理と考えた捜査官がこれを訂正させたのではないかとの疑いが生ずる。
右メモによれば興津実験に関し「夜月明り程度で、海の方には魚船がライトを照らしていたので、あまり懐中電灯も使わなかったので、破片はあまり見えませんでしたが、少しはわかりました」という記載があるが、漁船がそのライトが明りの助けになるような近くにいる状態で爆弾の爆発実験をするとは考え難く、虚構の疑いが強い。
右メモによると、爆弾製造の日と実験の日との前後関係が訂正されたり、製造された爆弾の個数が判然とせず、実験に使用された爆弾の製造に関する記載がないなど不自然な点がある。特に爆弾製造の日については当初六月一六日ごろと記載されていたのが六月一八日か一九日と訂正され(この訂正を佐古がしたのかどうかも判然としない)、興津実験については当初「六月一七日ごろ、確か土曜日の夜だったと思うが」と記載されていたのが六月一六日と訂正されて「土曜日の夜だったと思う」との部分が抹消され(なお、昭和四五年六月一六日は火曜日である)、爆弾の製造日と興津実験の日との前後関係が逆転しているのであるが(以上、証八九冊二二〇三九丁)、右のような前後関係について記憶違いをするとは考え難い。なお、証八九冊二二〇四〇丁によれば、興津実験の日は六月一七日ごろとの記載のままになっている。
以上のとおり、佐古のいわゆる六月爆弾製造及び興津実験に関する当初の自白は、不自然、不合理な点が多く、佐古がこれらに関与しているのかどうかについて疑いを生じさせるものである。
② 佐古の自白のその後の経過を見ると、つぎのとおりである。
興津実験について
「実験場は近くの人家から五〇メートルくらい分近くであり、少し沖には舟が四、五隻いた」(48・3・15員面)とされていたのが、「現場は人家から一二〇から一三〇メートルくらい離れており、月明りがあるだけであった」となり(舟の有無については記載がない)(48・3・20検面)、さらに、三月一七日の引当たり捜査の結果思い出したとして、「現場は人家から一五〇メートルくらい離れた所で、トンネルを通って行った所である。絶壁にある洞窟を利用して爆発実験をしたが、これは爆音が人家の方ではなく沖の方へ伝わるようにとの配慮からである」とされ(舟の有無については記載がない)(48・3・24員面)、周囲に爆音が聞こえない状況へ次第に供述が修正されて行くのである。しかし、沖に舟がいたとされていたのが後の供述で消える理由について何の説明もないこと、48・3・24員面では現場の状況が大きく変更され、三月一七日の引当たりの結果思い出したとの理由が付されているが、そうであるならば右引当たり後の48・3・20検面においても供述が変更されるはずであるのに、そうではなく右検面には従前と大筋において変わらない供述が録取されていることについての疑問もあり、以上の供述経過を見ると、佐古の当初の自白では周囲に爆音が聞こえて不自然ではないかと考えた捜査官が供述を修正させて行った疑いを否定できない。
起爆装置について
佐古の当初の自白が雷管に対する基本的理解を欠いたものであることは、すでに述べたとおりであるが、48・3・13メモにも同様の不可解な起爆装置の図が描かれ、セロテープか何かでヒーターと雷管が固定されたとの不自然な内容の記載があり(証八九冊二二〇四四丁)、48・3・13員面では「起爆装置はガス器具に使われるような点火ヒーターに薬品を染ませた脱脂綿を巻きその先に工業用雷管を使ったもの」とされ、48・3・14員面にも前同様の不可解な起爆装置の図面が添付されているのであり、佐古が起爆装置を見たことがあるとは考え難いのである。48・3・20検面においてようやく訂正されるが、この時点で佐古が正しい記憶を呼び戻したと見ることには疑問がある。
スイッチについて
スイッチについては、佐古は48・3・12メモ、3・13メモにいろいろな図を描いた挙句、48・3・15員面及び3・20検面において最終的なスイッチの完成図が添付されるに至る。しかし、このスイッチの構造を見ると、絶縁体を引っ張ってはずすのに縫い物用の糸を使用したとするが、この糸を絶縁体やダンボール箱の蓋に取りつける方法について明確にされておらず(48・3・15員面によればダンボール箱の蓋に穴をあけておき糸についた針金で引っ掛けるようにしたとされているが、はずれやすいし、外から見えるので怪しまれやすく不自然であり、48・3・20検面には右のような供述は録取されていない)、右のような糸は切れやすく実用的かどうか疑問があること、絶縁体をはずした際に銅板が復元して接触するのかどうか疑問があること、銅板をホチキスのような針金を使ってダンボール箱の底に固定したとするがそのような作業が可能かどうか疑問があることを指摘でき、実用的なスイッチとは思われないのである。佐古がいろいろ想像をめぐらして供述したものとの疑いを否定できない。
偽装爆弾の製造について
爆弾に使用する空缶三個ぐらいを団地の焼却炉から探して来たとするが疑問であり、爆弾の製造状況についての供述も具体性が十分でなく臨場感に欠けるものである。
完成した爆弾の処分について
完成した爆弾(ダンボール箱に入れたもの二個、爆体だけのもの二個)を梅津方の押入れに保管し、六月二八日ごろ堀宅にこれらを預け、さらに七月中旬ごろ増渕のアパートの近くの神社の近くに埋めたというのであるが、六月下旬に国家公安委員長、警察庁長官、警視総監、佐藤首相に郵送するために爆弾を製造したとしながら、これらの爆弾を使用しなかった理由について納得の行く説明はないし、また、これらの爆弾が発掘、発見されているものでもない。
佐古の供述によれば、当初「六月一四日ごろ点火装置の実験、六月一五日ごろ実験用爆弾の製造、六月一六日ごろ興津実験、六月一七日か一八日ごろ爆弾製造着手、六月二一日ごろ爆弾等を堀方へ運搬」とされ(48・3・13員面)、「六月一〇日ごろ製造器具の入手、六月一一日ごろ製造材料の購入、発火綿の製造、六月一二日ごろからスイッチの考案を始めた」とされ(48・3・14員面)、また、明治公園に行って六・一五闘争を見た翌日興津実験に行ったとの日の特定がされていたのに(48・3・14員面)、48・3・23員面では興津実験が六月二四日ごろとされるなど右一連の経過が約一週間後に訂正され、伊豆方面へドライブした後爆弾製造に着手した記憶であり、六月初旬の土曜、日曜にこのドライブをしたと思っていたところ、増渕の日記に六月一三日及び一四日に伊豆方面にドライブをしたと書いてあるらしいので自分の記憶違いがあったと思うとの理由が付されている。しかし、六・一五闘争を他の闘争(48・3・23員面では六月二三日の明治公園での集会を見に行ったのかも知れないとされる。)と思い違うということには疑問もあり、佐古48・3・22メモによれば興津実験後の六月一八日ごろ興津海岸へあわびを盗みに行ったとされていたのに、48・3・23員面(48・3・22メモ)により供述が変更された後において興津実験とあわびを盗みに行ったことの前後関係についての説明がないことを指摘できるのであり、右のような供述の変更には疑問が残る。
③ 以上のとおりであり、佐古の興津実験及び箱入爆弾の製造に関する自白の信用性には疑問がある。なお、48・3・15員面には実験用爆弾の爆体としてクッキーかカステラのようなものが入るブリキの空缶との記載があるが、日石爆弾がクッキーの空缶とカステラの木箱に爆体を入れて偽装したものであることに奇妙に符合する表現であり、また、同員面には団地の焼却炉から弁当箱大の菓子缶三個くらいを探したとの記載があって日石爆弾の爆体の容器として弁当箱が使用されたことに符合する表現であることを指摘でき、取調官が日石爆弾の構造を念頭に置いて追及したことを窺わせないではない。
④ 右のように佐古の自白の信用性には疑問があるが、前記佐古証言によれば村松から興津の海岸で爆弾の実験をした話を聞いたとか、プランタンでの江口の発言から昭和四五年六月に製造しようとした爆弾が完成したことを知ったというのであり、増渕らが中心となって興津の海岸で爆弾の実験をしたり、爆弾を製造したりしたことはあるかも知れないのである。
(二) 村松の自白について
① 興津実験について
基本的には佐古の自白(引当たり捜査前の自白)と同じであり、実験に使用された爆弾の製造には関与せず、構造については必ずしも判然としないというのであり、実験の状況についても臨場感に欠ける。また、増渕が梅津宅に突然来てドライブに行こうと言って出発した後増渕がこれから爆弾実験に出かけると説明したと述べる点は不自然で信用できない。右のとおりであり、村松のこれらの点に関する自白の信用性は十分ではない。
② 箱入爆弾の製造について
大筋において佐古の自白と同じであり、具体性に乏しく臨場感に欠ける。最も重要なトリックの構造についても明確ではない。結局村松のこの点に関する自白の信用性も十分ではない。
③ 村松の自白によれば、右各出来事は七月上旬のことであり、興津の海岸へあわびを盗みに行った日より後のこととするのであり、七月一二日に自動車窃盗を犯しているのでそのことが日の特定の基準となるとするのであるが、佐古の自白と相違し、村松も佐古も日の特定について具体的根拠を挙げているので、いずれか一方を信用できるとすることには疑問が残る。
④ 以上のとおり、村松の自白の信用性は十分ではなく、少なくとも興津実験の参加者、実験に使用された爆弾の製造、実験の態様、実験後に製造した爆弾の構造及び製造メンバーについては判然としないといわざるを得ない。
なお、村松が興津爆弾実験を含む「六月爆弾」関係について自白するに至ったのは、アメリカ文化センター事件、八・九機事件について、他の者の供述が出た後に自白をし、これらの事件で起訴された後、ピース缶爆弾製造事件の取調と時期を一にして取調を受けていたものであり、すでに判示したように、以上のピース缶爆弾関係の各事件についての自白の信用性に疑いがあることを考えると、六月爆弾関係の核心部分である興津実験等の自白にも、高度の信用性を付与することには慎重にならざるを得ないのである。
(三) 梅津の自白について
梅津の自白によれば、興津実験に同行し自動車の中で待機していたというにとどまり、梅津が待機していたとの点は佐古及び村松の自白と相違するし、全体として臨場感にも欠け興津に行った別の体験を爆弾実験の際同行したことに置き換えて供述するために、このような不自然な供述になっているのではないかとの疑いも払拭できず、梅津の自白の信用性も十分でないといわざるを得ない。
以上のとおりであり、増渕、江口、前林らが昭和四五年六月ごろ爆弾闘争を志向し爆弾を製造しようとしたことは認められるが、少なくとも同爆弾の構造は必ずしも判然としないのであり(トリック式箱爆弾かどうか疑問がある)、また、日石事件より一年以上も前の事実であるから、この事実が増渕らの本件各犯行の関与を肯定する方向に働く情況とはいえるものの、これを重視すべきものとするには至らない。
第二節石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び長倉悟の各供述
つぎに、日石土田邸事件の前後における増渕の言動に関する石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び長倉悟の各供述(その一部につき論告要旨二七六頁・一五六冊二五九三三丁参照)を検討すると、つぎのとおりである。
一、石田茂、森口信隆及び金沢盛雄の各供述
(一) 石田茂48・3・26及び48・4・7各検面(証六四冊一五八七六丁及び一五九〇一丁、但し、増渕、中村(隆)につき48・4・7検面は(謄)。増渕証三冊四四一丁・中村(隆)証三冊四三五丁)によれば、石田茂は、もと東京都世田谷区《番地省略》所在の田辺牛乳店の店員であり、同店の労働争議が機縁で昭和四六年四月ごろ増渕と知り合い、その後増渕は、同区千歳台《番地省略》所在のアパート横山荘の石田茂方居室に同人を訪ねて来るようになったことが認められる。ところで、石田茂48・3・26及び48・4・7各検面には、石田が昭和四六年一〇月ごろ以降増渕から聞いた話として、①増渕が横山荘に読書会の指導等のために来ていた時同人から「自分は爆弾を作ったことがある。革命のためには人を殺してもやむを得ない」と聞かされたこと、②当時各所で発生した爆弾事件について増渕が「よくやった」と言っていたこと、③同年一一月ごろ増渕から焦げ跡のあるカーペットを貰った際この上で爆弾を作ったと聞かされたこと、④増渕から自分には特別のことをやっている秘密のグループがあると聞かされたこと、⑤同年一二月二八日ごろ増渕の依頼で同人と一緒に秋葉原所在の電気器具店に行き同人が電気掃除機一台を購入した際、同人から「これは部屋の掃除にも使うが火薬などをこぼした時に吸い取るのに必要だ」と聞かされたこと、⑥同年九月か一〇月ごろ増渕から「一〇名ぐらいで山に訓練に行った。スカイラインの車輪を溝に落したが通行人に助けてもらった」と聞かされたことが述べられている。以上のうち②、③、⑤について石田は公判廷でも同趣旨の証言をし、③、⑤につき冗談話であるとする(一五七回・七三冊二八一二三丁以下)。また、右①については石田はあまり覚えていない旨証言するにとどまるのであり(堀・江口七回・堀・江口二冊五二一丁)、信用性に疑問を抱かせる事情は見当たらない。従って、右①ないし③及び⑤のようなことはあったと認められるが、増渕の話の中に含まれる爆弾製造に関する話は、前述したいわゆる六月爆弾を意味する可能性や、増渕の思いつきの冗談話である可能性もあり、具体性に乏しく、日石土田邸事件の爆弾の製造を窺わせるものとしては、その証明力は十分ではない。つぎに右④及び⑥のようなこともあったかも知れないが、具体性にも乏しく、日石土田邸事件との関連を窺わせるものとしては、その証明力は十分ではない。なお、石田は「昭和四六年秋ごろ増渕からピースの空缶のようなものを見せられ、これで爆弾を作ったという話を聞かされたが冗談と思った」旨証言するが(堀・江口七回・堀・江口二冊五二三丁以下)、この点についても話の内容自体については、増渕がピース缶爆弾に対する一般的な知識を述べたに過ぎないとの可能性もあり、具体性にも乏しくその証明力は十分ではない。
(二) つぎに、六一回証人森口信隆の供述(二五冊八九二八丁)によれば、①森口信隆は昭和四四年四月に日本大学農獣医学部に入学し、学内で先輩の堀と知り合い、堀が森口の下宿に増渕を連れて来たことから、同年九月ごろ増渕とも知り合ったこと、②増渕は、その後時々森口の下宿に来るようになったが、森口に「今までの運動のやり方では駄目だ。これからは爆弾を使う闘争でなければならない」旨を語り、鉄パイプ爆弾の作り方を話し、その他爆弾の材料の話をしたこともあったこと、③森口は、増渕が爆弾を作る時に役に立つのではないかと思い、大学から実験用の残りの硝酸と苛性ソーダを持ち帰って、硝酸を自己の下宿で増渕に渡したが、その硝酸は五〇〇グラム入りのびんに約三分の一ぐらいが残っていたものであって、渡した時期は、昭和四六年の夏休みの前ごろであったことが認められる。
また、金沢盛雄48・3・26検面(証二冊三五七六丁)、六一回証人金沢盛雄の供述(二五冊八九六四丁)及び榎下九回証人石田茂の供述(榎下三冊五五一丁)によれば、金沢盛雄も、石田茂と同じく前記田辺牛乳店の店員であったが、同店の労働争議が機縁で昭和四六年五月ごろ増渕と知り合ったが、同年一二月ごろ、前記アパー卜横山荘の石田茂方居室に増渕が来て、石田、金沢及び同牛乳店々員中村勉がいる前で、紙袋から硝酸一びんを取り出し、「これを預かってくれ。危険なので取扱いには気をつけてくれ」旨言って中村に渡して預けたこと(同硝酸はその後中村から金沢に渡され、金沢が処分したこと)が認められる。
ところで、以上のような事実は、増渕が昭和四六年当時においても爆弾闘争志向を有していたものであることを窺わせるものである。しかし、そのことは、増渕の日石土田邸事件への関与を肯定する方向に働く一つの情況証拠とはなるが、間接的なものにとどまり重視すべきものとするには至らない。
二、長倉悟の供述
六一回及び六三回証人長倉悟の供述(二五冊八八九三丁及び二六冊九一六四丁)によれば、「自分(長倉)は、千代田区《番地省略》にある出版会社の有精堂に勤務しているが、同会社の斜め前に神田南神保町郵便局がある。自分は、昭和四六年ごろ杉並区上荻二丁目にある百武荘というアパートに住んでいたが、同年一〇月一七日の夜、自分の知合いの増渕が百武荘に泊まったことがある。そのことは、自分の日誌様の備忘録に書いておいたので、それを見てわかるのである。自分は、普通出勤するのに午前八時一〇分か一五分に百武荘を出ていたが、同月一八日の朝もその時刻ごろに出たと思う。自分が出る時、増渕はもうちょっと休んでから帰る旨を言って、あとに残った」というのであり、増渕が昭和四六年一〇月一七日の夜右百武荘に泊まったことが認められ、百武荘は、検察官が日石爆弾搬送の出発点と主張している白山自動車(杉並区上荻《番地省略》所在)と近いのであるが、これをもってその余の証拠とともに日石爆弾搬送の事実を認定するには足りないものである。
また、六一回及び六三回証人長倉悟の供述(前同冊丁)並びに同人の48・3・17検面(証一三二冊三三一一二丁)を総合すると、「昭和四六年八月ごろから同年一一月始めごろまでの間のこと、増渕が百武荘に来た時、自分に荷札(針金のついたもの)を売っている所が近くにないかと尋ねるので、近くの文房具店にあるだろうと答えると、ついでの時に買っておいてくれと頼まれ、自分も承諾したが、その後は買ってくれたかと尋ねられることもなく、自分も忘れてしまった。つぎに、土田邸事件の発生する前の昭和四六年一二月始めごろの午後二時ごろ、自分の勤務先の前記有精堂に増渕から電話があり、同会社の近くに来たので電話をしたということであった。また、昭和四七年一月二三日ごろ増渕が百武荘に来た際、自分が増渕に『土田邸事件の爆弾小包を出したのは自分の会社の前にある郵便局なんだってよ』と言うと、増渕は『うんそうだよ、知らなかったのか』と言った。当然おれが知っているという言い方であった。自分は増渕に『おれは郵便局にアルバイトに行ったことがあるが、小包等の扱いは乱暴だよ。よく途中で爆発しなかったもんだね』と言うと、増渕は『いや精巧にできているからね』と言い、爆弾の構造を知っているような言い方であった。それ以上に土田邸事件のことを話そうとしても、増渕はそれを避けているという態度であった」というのである。しかし、これも、増渕の日石土田邸事件の犯行の関与を肯定する情況証拠としては間接的なものにとどまり、重視すべきものとするには至らないものである。
第六章自白ないし不利益供述
第一節中村(隆)の自白の信用性
一、検察官の主張の要旨
検察官は、中村(隆)の自白は、日石事件の爆弾搬送(以下、「日石搬送」ということがある。)に自己が関与した旨の部分を除いて、信用性が十分であると主張し、大要つぎのように論じている(論告要旨一九一頁・一五六冊五二八九一丁)。
① 中村(隆)は、捜査段階において、日石事件及び土田邸事件に関する重要事実である「日石二高謀議」、「日石爆弾製造についての技術・知識の提供」、「サン謀議」、「日石搬送」、「日石総括」、「土田邸二高謀議」、「土田邸爆弾製造」等の事実を自白し、そのうち「サン謀議」及び「日石搬送」を除くその他の事項については、公判段階に入った後もしばらくの間概ね自白を維持したものであり、鈴木茂の証言とも大筋において一致している。
② 日石搬送については、中村(隆)にアリバイがあり、みずから搬送の一部を行った旨の供述は虚偽であるが、日石搬送の供述についての同人の供述の状況、供述の態度は、他の事項についてのそれと著しく異なっていることにも現われているように、弟の博幸が日石事件に関与している可能性があると考え、弟が逮捕されると困ると思い、みずから搬送に加わった旨虚偽の供述をするに至ったもので、その動機、心理は十分に理解できるのに対し、右以外の事項について虚偽の自白をする動機も必然性もないことからして、日石搬送供述に虚偽が含まれるからといって、そのことが他の事項についての信用性に影響するものではない。
③ 中村(隆)の自白中最も重要でかつ中心を占めている土田邸爆弾製造供述には、つぎの理由により高度の信用性が認められる。
土田邸爆弾製造を自白するに至った経緯については取調官の証言等により明確にされているところであって、信用性に疑いを挾む余地は見当たらない。ことにこの自白に先立って、トリック爆弾に使用するマイクロスイッチについて増渕に教示した事実やそれを購入した事実を供述していることからも、土田邸爆弾製造供述に至る経過は極めて自然である。
製造場所、参加メンバー、各人の役割等の大筋において供述が終始一貫しており、内容も合理的で、遺留証拠物(爆弾破片)とも合致している。
さらに、起訴後約一年を経過した時期の公判における供述、証言でも、製造状況について捜査段階での自白とほぼ同じ内容の供述を繰り返し詳細に行っている。
中村(隆)の右供述中には、犯人でなければ知り得ないようないわゆる秘密の暴露が多く含まれている。すなわち、①赤色塗料をマイクロスイッチ端子に塗布したこと、②その赤印が豆ラッカーによりつけられたこと、③マイクロスイッチの作動線をクランク形に曲げたこと、④種々のマイクロスイッチの形状の中で、証拠物と一致する形状のものを供述していること、⑤マイクロスイッチの購入先が中村(隆)の供述により特定され、その所在位置に同じ型のマイクロスイッチを販売していた店が存在することが後から裏付けられたこと、などの秘密の暴露がある。
二、捜査段階における取調及び供述の特色と信用性検討の順序
はじめに、捜査段階における中村(隆)に対する取調及び同人の供述の特色を述べておくことは、以下における供述の信用性を考察するについて適当ではないかと考えられる。
すなわち、昭和四八年四月一一日以降中村(隆)の取調を担当した坂本重則警部補の取調状況を概観すると、同警部補の取調は甚だ個性的であり、熱意溢れる口調で道理を説き、反省を促し、真実の供述を求めるというやり方であるが、中村(隆)はもともと性格上受動的で感じ易い面を持つ者であり、このような中村(隆)に対する長時間におたる説得、説教の過程で、中村(隆)が供述しているように、同人が増渕らの主犯者と同一に扱われることなく、更生の機会を与え、早期に社会復帰させることも今日の警察の役割であるとの説得がされ、同人において、この説得に従って捜査官の意に沿う供述をすることによる早期の社会復帰への期待を強めるとともに、他方、捜査官の意に沿わなければ主犯者と同一に扱われる危険を負わなければならないとの不安を強め、捜査官の暗黙の誘導、誘引に迎合しようという気持を抱かせるに至る結果となったこともあると認められるのである。実際、中村(隆)には捜査官の期待する態度、言動に自己を合わせて行こうとする姿勢があったことが、供述調書のはしばしに付加して記載された心境や、あるいはメモ書から明らかに認められる。また、捜査官の方で訂正を求めて供述を変更したと認められる場合でも、自己を卑下した表現で、反省の念を表明する趣旨の供述がしばしば録取されている。そのような捜査官と被疑者との関係のもとでは、たとえば供述の誘導なども一層容易になるものと考えられるのである。
また、中村(隆)の捜査段階の供述を通観すると、つぎのような特色が認められる。
① 同人の捜査段階の供述中には、検察官も指摘し認めているものを含め、いくつかの明らかに虚偽と認められる事項が含まれていること、たとえば、
日石搬送供述中の第二搬送者(運転者)を中村(隆)自身とする点につき、同人にアリバイがあり、虚偽であることは検察官も認めていること。
土田邸爆弾製造供述中の前林、金本が二人で小包包装紙及び荷札の宛名を書いたとする点についても、証拠物の筆跡自体(証五二号、六〇号)及び前述の黒田鑑定によって、一人の筆跡であり、かつ、前林又は金本の筆跡ではないと認められることから、虚偽と認めざるを得ないこと(この点について、検察官の論告要旨二四四頁・一五六冊五二九一七丁は、爆弾製造時に一旦これを包装し、前林、金本が宛名書をしたが、その後包装がし直され、増渕が宛名書をしたものであって、従って、中村(隆)のこの点の供述は虚偽でないと主張するもののようであるが、包装と宛名書をし直す必要は特になく、固定のため慎重を期して二重包装をし、かつ荷造りまでしたものを解梱して包装し直すというのは不自然であり、また、包装し直したこと自体を窺わせるような証拠もないのであるから、検察官の右主張は採用し難い)。
② 供述内容が変遷している部分が少なからず見受けられるうえ、その理由が明らかにされておらず、あるいは容易に理解し難い部分が少なくないこと。
③ 他の者の供述と相前後してなされた供述が少なくなく、また供述の変更も他の者の供述と相前後して行われている点も少なくないこと。
④ 厳密な意味で秘密の暴露に当たる供述は、検察官の主張にもかかわらず、存しないこと。
⑤ みずから体験した場合に当然伴うはずの心理的な事実についての供述の録取が少ないこと。
⑥ 中村(隆)は、長期間の参考人としての取調の後に逮捕、勾留されて被疑者として取り調べられるに至ったが、重要な供述は身柄拘束後に得られ、かつ、取調時間も相当長時間に及んでいること(中村(隆)調書決定参照)。
そして、以上の諸点は、中村(隆)の供述の信用性は慎重に検討する必要があることを意味するものである。
そこで、信用性検討の順序として、まず、中村(隆)の供述の中でもとりわけ重要な部分である、日石事件における日石搬送及びサン謀議並びに土田邸事件における爆弾製造に関する供述について検討し、つぎに日石総括、日大二高謀議に関する供述について、最後に公判段階の自白についてそれぞれ検討することにする。
以下、本節においては、証人坂本重則の供述(七九回・八八回ないし九七回・二三九回・三四冊一二四九一丁・三九冊一四五〇五丁及び一四七〇五丁・四〇冊一四九一五丁及び一五〇九一丁・四一冊一五二五九丁及び一五三三九丁・四二冊一五五二三丁及び一五六九七丁・四三冊一五八九九丁及び一六〇九九丁・一二八冊四五三一四丁、松村九回及び一〇回・松村二冊五一一丁・三冊五九二丁)、同市川敬雄の供述(一三四回ないし一三六回・六一冊二三四三一丁・六二冊二三六七一丁及び二三八一二丁)、同辻英男の状況(一一八回・五三冊二〇〇五七丁)、同三沢節夫の供述(二四〇回・二四一回・一二九冊四五六二〇丁・一三〇冊四五七六五丁)、中村(隆)の被告人又は証人としての供述(本節七(1)参照。なお、二四四回及び二四五回供述は増渕については供述記載が証拠となる)、中村(隆)の取報・メモ報・供述書(証七六冊)、中村(隆)の各員面・検面、その他関係証拠により認められる事実に基づき検討する。
三、日石爆弾搬送及びサン謀議の供述の信用性
(1) 供述の要旨
① サン謀議
昭和四六年一〇月一六日ごろの午後七時半ごろ、榎下から呼出しの電話があり、タクシーで榎下の勤務先である荻窪の白山自動車へ行き、そこから、榎下、坂本と三人でその近くにある喫茶店「サン」へ行ったところ、増渕、堀が来ていた。増渕から「爆弾ができたので、地下からの要人テロを一八日にやることになったから、皆も手伝ってくれ」と言われて、リレー搬送の指示があったが、その要点は、増渕と誰かが一八日爆弾を持って白山自動車付近から榎下運転の車に乗り、新宿西口の首都高速道路入口の中央公園前まで行き、そこで自分の運転する車に乗り継ぎ、新橋付近の郵便局から爆弾を発送し、さらに新橋の第一ホテル前まで行き、そこで増渕らはさらに坂本運転の車に乗り継ぎ習志野まで行く、白山自動車付近で榎下車に乗る時刻は午前九時ごろ、新宿で中村(隆)車に乗り換えるのが午前九時半ごろ、第一ホテルで坂本車に乗り換えるのが午前一〇時半ごろである、ということであった。三台の車に乗り継ぐ理由については、増渕からアリバイ工作だとはっきり聞かされたわけではないが、三区間に分けて乗り継ぐことにすれば、それぞれの区間の運転者の運転時間が短く、アリバイが作り易いし、第二区間の運転者の自分は無免許なので、運転したはずがないと言い張れるからアリバイ作りに有利であると思った。自分はその後の一〇月二七日運転免許証の交付を受けるまでは無免許であったが、自動車教習所の過程は終了していたので、当時街の中を走り回ったことはなかったためやや不安ではあったけれども、やってやれないことはないというところであった。相談した時間は午後八時ごろから一時間足らずであった。
② 日石リレー搬送
一〇月一八日予定時刻の午前九時三〇分よりも遅れ、午前九時四〇分ごろ新宿西口の首都高速道路入口の中央公園前に着いたところ、すでに榎下の車が着いており、増渕と、爆弾が入っていると思われる紙袋を持った江口とが榎下の車のそばに立っていて、自分の運転する車の助手席に増渕が乗り込み、後部座席に江口が乗って、増渕の指示に従い、首都高速道路に入り、霞ヶ関ランプを出て虎の門から新橋駅方面に向かい、日石ビルの手前五、六〇メートルの所の歩道橋の付近で増渕の指示により停車すると、前林が歩道上に立っており、三人で日石ビルの方に歩いて行き、途中から増渕だけ引き返し、前林と江口が日石ビルの入口に入って行った。自分は運転席で、増渕はそばの歩道上で二〇分ぐらい待っていると前林と江口が戻り、三人が車に乗り込み、増渕の指示に従い午前一〇時半ごろ第一ホテル前まで行き、坂本の車が停車していたのでその後方に停車し、三人が下車した後、そのまま自宅に向かったが、道に迷い、室町ランプのあたりから高速道路に入り新宿に出て、昼ごろ自宅に戻った。
(2) 日石搬送供述の虚偽性
中村(隆)は、四月一一日坂本警部補の取調に対し、日石事件当日日石搬送の一部を行った旨自白し、その後その内容を変遷させながらも、捜査段階を通じてこれを認める供述をしていたところ、公判に至る前に当日は府中の運転試験場で普通免許の取得のため受験していた旨のアリバイの事実を主張するに至ったが、この事実は、警視庁府中運転免許試験場長作成の「調査方依頼について(回答)」と題する書面(その(写)は中村(隆)証一七冊二四九九丁以下)によりこれを認めることができる。従って、右自白は虚偽であると認められるが、中村(隆)が日石搬送の一部を担当した旨の同様の自白は、榎下が四月一〇日に、増渕が四月一三日に、坂本が四月一五日にそれぞれこれをしているのであって、日石搬送に関係したとされる者のうち否認のままで通した前林、江口を除いた全員が一致して虚偽の事実を認める供述をしているのであり、このことは他の事項についての自白の検討に当たって十分考慮されなければならず、単に他に同旨の供述があるとか、関係者の間で供述が一致しているということから、直ちに供述の信用性を認めることが危険であることを示すものといわざるを得ない。
(3) サン謀議供述に対する疑問
中村(隆)の日石搬送供述が右のとおり虚偽であるとして、それでは遡ってサン謀議供述には疑いはないであろうか。この点を検討しなければならない。
(イ) 自白内容の変遷及びサン謀議の供述が現われる経緯
① 中村(隆)は、四月一〇日から日石搬送について野崎巡査部長らの取調を受けていたが、それは榎下が新宿で中村(隆)らしい男に引き継いだ旨の供述をしたことに基づくものであり、これに対し、中村(隆)は当初否認していたところ、四月一一日夕方から取調官が坂本警部補になり、その夜榎下の自白に沿う形で、新宿で引継ぎを受け、日石本館を経て習志野(当初千葉の方と供述した。)まで搬送した旨の二人リレーを自白するに至ったが、翌日これが坂本を含む三人リレーに変更され、坂本への引継場所は新橋の第一ホテルを出た所であって、調書添付図面によると外濠通りの新橋駅ガード手前であり、また、三人リレーに変更された際に中村(隆)は他の者に先駈けて「サン謀議」の供述をするに至っている。なお、坂本への引継場所は、その後外濠通りと交差する第一ホテル前の細い道路上に変更されている(中村(隆)は当初榎下の供述に沿う形で二人リレーを認めたところ、翌日、榎下の供述も中村(隆)とほぼ時を同じくして坂本を含む三人リレーに変わるのであるが、これは四月一〇日の中村(隆)の取調が榎下の自白に基づいているように、相互の間で自白の要点が伝えられ、それに基づいて取調がされていたことを示すものと推認せざるを得ない。このように、ある被疑者の自白内容が他の被疑者の自白に伝播する例は他にも多数存在しており、榎下の取調官であった石崎警部及び中村(隆)の取調官であった坂本警部補は、いずれも他の被疑者の供述内容を告げられないで取調に当たった旨証言するが、にわかに措信し難い)。
② また、榎下の供述を見ても、最初搬送について供述したのは四月八日であり、堀が単独で行った旨供述していたが、間もなく榎下の単独搬送となり、それが四月一〇日の段階で二人リレーになり、新宿で引き継ぐ者につき二転、三転した後中村(隆)となったもので、それに基づいて中村(隆)が日石搬送の取調を受けるに至ったものである。
③ このように、日石搬送についての榎下及び中村(隆)の自白は大きく変遷するのであるが、右の経過を通観するときは、つぎのような取調の経過が窺われるのである。
すなわち、日石事件については、江口が逮捕後間もなくして、事件当日大阪の学会に出席していた旨アリバイの主張をし、また前林もある程度後になって千葉陸運事務所習志野支所へ自動車の登録に行っていた旨のアリバイを主張した等のために、土田邸事件については起訴されながら、日石事件については被疑者全員処分保留のまま捜査が続けられていたが、捜査当局は、アリバイ工作の疑いを深め、四月八日神崎検事の取調を受けた榎下がアリバイ工作の事実を認めたことが契機となり、白山自動車から新宿、日石本館を経て習志野の陸運事務所までの自動車による搬送の供述をするに至り、榎下はその運転者を最初堀と供述したところ、アリバイがある旨の指摘を受けて、みずから運転した旨供述を変更したが、長時間勤務先をあけることが可能か否かの指摘により分担によるリレー搬送の供述がなされるに至り、その第二搬送者として中村(隆)を供述し、四月一一日中村(隆)が榎下の自白に沿う自白をしたところ、さらに翌日、取調官から疑問が投げかけられて、三人リレーとなり、中村(隆)及び榎下から坂本が最終走者である旨の供述がなされたものであって(増渕・前林七回証人中村(隆)の供述・増渕・前林三冊九五〇丁参照)、以上の一連の供述の変遷状況を見ると、捜査官のアリバイの指摘や長時間勤務先をあけられるか否かの指摘を受けて、その指摘に沿うように供述を変遷させて行き、その中で中村(隆)のようなもともとアリバイのある人物が含まれるという結果となったと見得るものである。そして、三人リレーによる搬送の性質上事前の謀議ないし打合せがあった筈である、との指摘により、サン謀議が供述されるに至ったものと認めるべきである。以上のような各供述の出方から考えるならば、「サン謀議」供述のみに高度の信用性を付与することはできないことである。
(ロ) サン謀議の供述自体に含まれる疑問点
中村(隆)の捜査段階での自白によると、サン謀議でリレー搬送の謀議及び引継場所、時間等の指示がされているにもかかわらず、その時間、場所が、前後の各搬送車のドッキングが容易にできるに足りるだけの緻密さをもって行われたか、いささか疑問に思われる。すなわち、リレー搬送をするに当たっては、いうまでもなく、待ち合わせる時刻と場所が正確に指示され、確実に引継ができないと、計画どおりに実行できなくなるのであるから、このような方法による以上は、これらの点についての指示が詳細になされるはずであり、また、待ち呆けを食ったり、相手の車両を捜し回るような結果にならないような配慮がされるはずであるが、自白の内容からはそのような状況が窺われず、引継場所も新宿西口の首都高速道路に入る手前の中央公園及び新橋の第一ホテル前(いずれもある程度の広がりのある場所)と指示されたにとどまり、また時間も、それぞれ九時半ごろ、一〇時半ごろと指定されたというのである。このような大まかな指定にとどまることについては右のとおりいささか疑問を抱かせられるのである。
のみならず、ドッキングの失敗の危険がかなりあることも否定できず、たとえば道路の混雑による大幅な遅延の虞れや、急な事情のために搬送のメンバーのうちのある者が参加できなくなるといったことも考えられ、これがアリバイ工作の一環となると、その影響するところも大きいのであるから、リレー搬送の方法で行うこと自体合理的といえるかどうかにも問題があると考えられ、少なくともそのような不測の事態に対しどのように対処すべきかについての指示等もあって然るべきであると思われるのに、そのような供述にはなっていないのである(これらの点は、供述調書の取調請求を却下した他の者の供述についてもいい得ることである)。
たしかに、リレー搬送には各運転担当者の犯行関与時間を短くし、関与の事実を隠蔽するのに役立つ面があることは否定し得ないであろうが、他方右のような危険な面も伴うものであるから、各被疑者の供述が信用度の高いものであるためには、少なくとも取調官において右のような問題点について被疑者に問いただして確認すべきものと考えられるが、そのような取調がされた形跡は窺われないのである。
(ハ) 日石搬送担当予定からの脱落の疑問
中村(隆)のサン謀議供述の内容がもし正しいとすると、同人は搬送当日は府中の運転免許試験場に受験に赴いていたというのであるから、同人はサン謀議において一旦搬送関与を引き受けながらその後犯行前にこれを断り、搬送担当の予定から脱落したことになる。しかし、運転免許試験は搬送当日に限らず常時行われているものであるから、中村(隆)が一旦引き受けた搬送を断るということは、犯行関与に尻込みをしたということになるが、そういうことはあり得ないことではないけれども、やすやすと増渕や榎下の了解を得ることは難しいことではないかと思われる。まして、一旦断りの申出をしても、増渕らから身代わりを出すようにいわれて立場に窮し、弟の中村博幸に代役を頼むということは、弟を犠牲にするものであって、中村(隆)がそのようなことをしたとはにわかに合点できないのである。以上のように考えるならば、中村(隆)をリレー搬送の一部の担当者に予定した「サン謀議」というものが果たして存在したのかとの疑問も生じて来るのである。
(4) 検察官が主張する虚偽自白の動機
検察官は、中村(隆)が右の虚偽の自白をした動機として、弟中村博幸が日石事件に関与している可能性があると考え、同人が逮捕されることになれば困ると考えて、搬送したのは自分である旨の虚偽の自白をしたと主張する。そして、そのような事情は、日石搬送に関する自白に限られる事情であって、自白にかかる他の事項とは無関係であるが故に、サン謀議を含む他の自白の信用性に影響を及ぼさないと主張するのである。
中村(隆)の公判供述(たとえば、増渕・前林六回証人中村(隆)の供述・増渕・前林二冊五一二丁)によれば、弟博幸が逮捕されるのではないかとの不安が少なくとも右虚偽自白をするに至った一事情であることを認めることができる。ただ、中村(隆)は、虚偽自白に至った理由として、右の不安のほか、増渕ら四人(前林、堀、江口)が主犯者であって、それ以外の者についてはこの四名と同一に扱うわけにはいかず、救わなければならない旨坂本警部補から告げられたことをも挙げており、むしろ、その点が虚偽自白に至った主たる理由であると考えられるが、このことについては後述するところに譲る。
そこで、とりあえず、検察官の右の主張に即して検討を加えてみると、もしその主張するように、サン謀議が中村(隆)の自白のようにして行われたと仮定するときは、つぎのような疑問を禁じ得ないのである。
① 前記のとおり、搬送当日中村(隆)が府中の運転免許試験場に赴く予定であったとしても、それを理由に搬送に加わることを拒むことは許されないと考えられないか(運転免許の受験は、入学試験等と異なり、その機会を逃すと長期間受験できなくなるものではなく、従って、それを理由に断るのはいささか身勝手な行為と言われることになろう)。
② そうだとすると、検察官が論告で主張するように、中村(隆)は一旦はサン謀議において日石搬送を引き受けながら、実行直前に脱落したとするほかはなくなると思われるが、その場合には、中村(隆)が、自分の代わりにリレー搬送に加わった者が誰であるかを事前にも事後にも知らないままで経過することは、同人と増渕、榎下らとの交際状況等に徴してほとんどあり得ないことと考えられる。ましてや、同居している弟が自己の代わりを務めたとすれば、そのことを知らないで過ごすということはあり得ないことである。従って、もし中村(隆)がサン謀議に加わっているとする以上、自己の代役を務めた者が誰かについては、事前又は事後にこれを伝え聞くなりして当然に知っているはずであるから、弟であるかも知れないなどと考えて、虚偽の供述をするということはおよそあり得ず、弟である可能性に言及することは、自己の代役を弟が現に行った場合にほとんど限られることになり、それを婉曲な言い方で言い表わしたことにならざるを得なくなるのではなかろうか。
しかしそうだとすると、つぎには、搬送に関係したとされる者で自白している他の者が搬送に加わったことを認めるに当たり、第二搬送者の部分に限り、それが中村(隆)である旨一様に虚偽を述べる理由をどのように解したらよいのであろうか。しかも、弟博幸が当時このような重大な役割を果たし得るような関係にあったことを窺わせるような証拠もなく、また、前記のように中村(隆)が自己を守るために弟を犠牲に供し、自分は運転免許の受験に出かけるということが実際にあったとも、いささか考え難いのである。
もっとも、たとえば、中村(隆)が事後に、増渕らの日石搬送関与者に対し将来万一取調を受けるようになっても弟博幸の名前は出してくれるな、あくまで中村(隆)が運転したことにしてくれという趣旨で頼み、口裏合せをしたということも考えられないではないが、このようなことがあったことを窺わせる証拠は全然なく、また、たとえば、榎下の日石リレー搬送の供述経過にも第二搬送者として松本の名前を挙げるなどした後にようやく中村(隆)の名前を挙げたという状況が認められることからして、右のような口裏合せがあったと見ることには疑問があるものである。
③ このように考えると、中村(隆)が日石搬送について虚偽自白をしたことの一事情として弟博幸が関与したのではないかとの不安を挙げている事実は、それが真実であるとすれば、かえって検察官の主張とは逆に、サン謀議が事実ではないことを窺わせる事情にもなるものと考えられるのである。そして、中村(隆)が真実右のような不安を抱いていたことは、四月一一日昼東京地方検察庁内でその日まで中村(隆)の取調に当たっていた野崎巡査部長、あるいは辻巡査部長から、榎下から引き継いで搬送を行った車が中村(隆)宅にあるサニークーペであり、中村(隆)でなければ弟が行ったことになる旨告げられていたこと、及び自己のアリバイが判明した際に弟のアリバイについても弁護人に尋ねたという事情が関係証拠により認められることからも裏付けられるところである。そうだとすれば、中村(隆)が日石リレー搬送の実行には加わっていないが、サン謀議に参加したことは事実である理由として述べるところも、よく検討してみると、かえって、サン謀議の存在に疑問を抱かせる事情になるものといわざるを得ないのである。
(5) 虚偽自白の特徴
ところでこの際、日石搬送についての虚偽自白の特徴について見ておくことは、その余の事項についての中村(隆)の自白の信用性を検討する上で有意義であろう。
① まず、四月一一日に得られた自白はその後大幅な訂正が加えられ、その訂正がいかにも不自然で単なる記憶違いなどでは説明できないものを含んでいる。ここでは、二、三の例を挙げるにとどめる。
搬送の時間について、四月一一日の自白では午後となっているが、事件発生は午前一〇時四〇分を少し過ぎた頃であって、真実運搬に関与した者であればこのような誤りはないと考えられる。訂正の理由について、日石事件に直接関係があると思われたくなかったからであるとするが、坂本警部補が強いて理由をつけさせたものとしか考えられない。
翌一二日の自白では、サン謀議でドッキングの時刻及び場所が指定されたというのであって、右のような誤りをすることは一層不可解である。
アリバイ工作のための搬送であるはずであるのに、当初前林の実家のあたりまで行って同女を下車させたとの自白をしている。
前日一旦二人リレーを供述しながら、翌日坂本を含む三人リレー供述に変わるのは、いかにも唐突に思われる上に、坂本に迷惑をかけたくないことがその理由であると記載されるにとどまっていて、それ以上具体的な理由が記載されていない。
新橋での引継地点が、第一ホテルを出た大通り上から、第一ホテルに通ずる細い道路上に変更になるのも、不自然であり、大通りでは停車して待ち合わせることに支障があるとの捜査官の判断が反映したための変更ではないかとの疑いがある。
そのほか、多くの不合理な内容及び変遷が認められるのであって、その供述変更の理由も不自然なことが指摘でき、このような点から体験を伴わない虚偽の供述であることを窺うことができるといえよう。
② 搬送供述は具体的、詳細であって一見しただけでは、真実を述べているように思われるが、叙述は平板であって、爆弾の搬送をしていることに当然伴う緊張感、臨時感に乏しく、体験の独自性に伴う個性的な事実や感情が織り込まれていないことに気づかれるのである。
なお、右のような供述内容や、その変遷等からすれば、もし中村(隆)に前記のアリバイが発見されなかった場合を想定しても、その供述に虚偽の疑いがあることを認めることができると考えられるのであって、要するに、自白等供述の信用性を判断するに際しては、右のような点にも慎重な検討を加える必要があることを示すものといえよう。
(6) 結論
以上を要するに、中村(隆)の日石搬送供述はアリバイの存在によりその供述はすべて虚偽であるというほかはなく、また、サン謀議に関する供述も信用性に乏しいものといわざるを得ないのである。
四、土田邸爆弾製造の供述の信用性
(1) 供述の要旨
① 昭和四六年一二月五日ごろの午後七時半ごろから、世田谷区給田の増渕のアパート(高橋荘)で土田邸爆弾を製造した。集まった者は増渕、堀、江口、前林、自分、榎下、坂本、松本、金本の九名であり、増渕が、「今から土田に送る爆弾を作る」と言い、任務分担について、増渕は総指揮、堀はその補佐、自分はマイクロスイッチの取付けと配線、榎下は自分の手伝い、江口は爆薬を詰めること、前林と金本は包装や荷札書き、坂本と松本はアパートの外での見張りと指示された。
② 材料、道具等はすべて用意されていた。なお、マイクロスイッチは、自分が一一月二二日か二三日ごろ秋葉原のラジオ会館内の「第二パール無線」で購入した「MLVⅡ」であって、同月末ごろ増渕アパートで増渕に手渡しておいたものである。
③ 任務分担の指示のあと、製造作業に入ったが、その手順は、つぎのとおりである。
まず、マイクロスイッチの三個の接点の中から、作動線が上に上がっている状態で通電した状態になるように、乾電池と豆電球を用いて二つの端子(中央と下)を選定し、結線する端子を間違えないようにするため、赤色豆ラッカーをマッチ棒の先につけて、これを右二個の端子部分に塗りしるしを付けた。
つぎに、その作動線をクランク形にラジオペンチを使って曲げた。カステラか生菓子用の木箱の蓋の深さを測ると約一五ミリあったので、蓋をかぶせた時に電流が切れた状態になるように、その深さに合わせて作動線を曲げたのである。
ビニール被覆線を一〇センチぐらいに二本切り、これを赤印をつけた端子に結びつけた。
榎下が混合したスーパーセメダインを使って、マイクロスイッチを木箱の本体内側上部に接着し、そのままでは固着するのに約一二時間かかるので、黒ビニールテープで固定した。
豆ソケットとバッテリースナップの各脚線を、マイクロスイッチの端子に結びつけた各被覆線に結びつけた。
木箱の底に切出しナイフで直径二センチぐらいの丸い穴をあけ、前記豆ソケットとバッテリースナップのそれぞれ他方の脚線に被覆線を結線し、延長したものをその穴から出し、その末端部には黒ビニールテープを巻いて絶縁した。
豆ソケットに豆電球をつなぎ、底から出した二本の被覆線をつないで、マイクロスイッチの作動線を上下させて正しく配線されたことを確認し、右二本の被覆線をつないだ部分を解き、黒ビニールテープをそれぞれの端に巻いて絶縁し、積層乾電池をバッテリースナップからはずした。以上で自分の担当した配線作業が終わったので、配線した木箱を増渕に渡した。
他方、江口は、土方弁当箱の中にビニール袋やびんに入っていた白っぽい顆粒状のもので、やや湿り気のある薬品を上から一センチぐらい下のところまで詰めていた。
増渕が、豆ソケットから豆電球を取りはずし、ガスヒーターを右豆ソケットにねじ込み取り付けたうえ、右爆薬を詰めた弁当箱の真中ぐらいにガスヒーターが来るような位置に埋め、その上からアルミフォイルを爆薬を覆うように詰めた。ガスヒーターの本体の部分には長さ約五センチぐらいのアルミフォイルの円筒状のものがかぶせてあったが、これは雷管ではないかと思った。
増渕と江口が弁当箱の蓋をし、ガムテープかビニールテープで弁当箱の本体と蓋をぐるぐる巻き、バッテリースナップに乾電池をつないだ。弁当箱、乾電池、バッテリースナップはスーパーセメダインで木箱の底に接着したと思う。
増渕が木箱の蓋をし、榎下がこれを上に持ち上げ、増渕が木箱の底から出ている二本の線の絶縁のテープをはがして結線し、これを穴の中へ押し込んだが、結線の瞬間は緊張した。
この間前林と金本は隣の台所のテーブルの上で荷札に宛名書をしていたと思う。テーブルの上には小筆と山吹色の缶の墨汁があった。
増渕が爆弾を持って台所に行き、前林と金本が包装を始めたが、最初に木箱の蓋があかないよう固定包装をやり、その後本包装をやるという二段階の包装を行った。
包装が終わると、もとの部屋に戻って、前林が小筆と墨汁で包装紙に「土田」という名前を含む宛名書をした。差出人の名前を誰が書いたかはよくわからない。
増渕と前林が「キ」の字型に紐をかけ、金本と江口が荷札を二枚くくりつけた。
以上で製造作業が終了したが、その間坂本と松本は外で見張りを続けていた。製造作業は午後一一時三〇分ごろ終った。
④ それから皆で掃除をし、午前零時ごろ坂本の車で自宅まで送ってもらって帰った。
(2) 「秘密の暴露」の検討
検察官は、前述のとおり、中村(隆)の土田邸爆弾製造供述については秘密の暴露があると述べるので、この点から考えると、検察官が秘密の暴露として指摘する前掲(本節一③)①ないし⑤の事項は、いずれも、真犯人でなければ知り得ない事実ではなく、そのうち①ないし④はあらかじめ捜査当局において証拠物等から覚知し、あるいは推認していた事実であって、いずれも厳密な意味における秘密の暴露に当たらないといわざるを得ない。なぜならば、赤色塗料がマイクロスイッチの端子部分に塗布されていること、マイクロスイッチの形状やその作動線を折り曲げる必要性については、滝沢寛治47・10・2鑑定(謄)(増渕証一一冊二〇六五丁等)に照らし、すでに捜査機関に判明していた事項と考えられ、また、右赤色塗料がラッカー塗料であることについても、その外観自体及びこのような配線作業や模型工作の際などには豆ラッカーがよく使用されていることからして捜査当局でもそのように解していたものと推定される事項であり(捜査当局の関係者がその塗料が何であるかについて検討もしないまま捜査に当たっていたとはいささか考え難い)、さらに、マイクロスイッチを売っている秋葉原電気街の店については、犯人以外の者でも、電気技術者や電気関係の装置の組立て等に関心を有する者ならばこれを知る者も少なくない事項であって、犯人以外の者でも知り得る事項であるからである。
もっとも、右の意味における秘密の暴露に当たらないからといって、直ちに供述の信用性がないことになるものではなく、秘密の暴露ではない事実であっても、特異な事実を供述していることは、それなりに自白の信用性を高めるものであるから、検察官が秘密の暴露に当たるとして主張する事項は、その意味でなお検討を要するものである。
① 直接製造作業に結びつく点としては、マイクロスイッチの作動線をクランク形に曲げたと供述している点である。しかし、マイクロスイッチを箱の本体の内側面の上辺に接する位置に固定することは、蓋をあければ爆発する装置を考案する際に誰でも容易に考えつくことであり、また、マイクロスイッチがMLVⅡ型であることが決まれば、クランク形に曲げるのが一番自然であると考えられ、設計の段階で当然に思いつくことであろう。従って、特に、特異な事実の供述であるということはできない。また、証拠物の作動線は爆発の衝撃で当然ある程度変形している可能性があるから、それがクランク形に近い形であるとしても、そのことから直ちに証拠物と一致する供述として、信憑性が高いということもできないと思われるのみならず、後にマイクロスイッチの作動線であることが判明した針金状のものの押収直後の形状は、むしろクランク形とはいえないカーブの形をしているように見えるものであり((員)46・12・21検証添付写真・増渕証七冊一二七三丁参照)、現在の証拠物(証四五号)の形状も二点において屈曲していることが認められるが、クランク形ではなく富士山形の屈曲のようにも見られるのであって(もっとも長期保管中に変形することもあるので現在の形をもとに甲乙を決め難い)、そもそもマイクロスイッチの作動線がクランク形に折り曲げられていたことについても必ずしも疑いがないものではない。すなわち、クランク形に曲げた旨の供述が証拠物に一致するものと速断することもできない。
② 中村(隆)は、マイクロスイッチの形状につき、現場から発見されたマイクロスイッチの断片から推定されるMLVⅡ型のものを正しく供述し、しかもこの点については他の者に先駈けて供述したものであって、まず48・4・8員面に増渕に対する提案として現われ、その後4・12員面(本文五丁のもの)の添付図面に作動線の位置を別とすれば土田邸爆弾に使われたものに類似した図が描かれているのであるが、このような図まで描いていることからすると、中村(隆)が土田邸爆弾の製造に何らかの関与をしていることは疑いないのではないかとの感じを抱かせられる。
この点については、中村(隆)は辻巡査部長から、MLVⅡというものを知らないか、こんな形のものだと言って簡単に図示されたことがあり、それが念頭にあって、坂本警部補の取調に対しそのような図を描いたと供述するが(三七回公判・一七冊六三〇一丁以下)、辻証人は、そのような事実は全くなく、マイクロスイッチが土田邸爆弾に使われていたことすら知らなかった旨供述している(一一八回公判・五三冊二〇〇八三丁・二〇一九七丁以下参照)。中村(隆)の供述に対する疑問は、辻巡査部長がそのような図示までしていたとしたならば、4・8員面添付図面に増渕に教示したマイクロスイッチの図として平角ノブ式の図を描いた理由はどのように説明すべきかという点である。すなわち、そのようなスイッチを教えられマイクロスイッチについて増渕に教示したことはないかとの追及を受けたのに対し、そのような事実がないのにこれを認めざるを得ない心境に立ち至ったというのであれば、辻巡査部長に図示されたというMLVⅡを増渕に対する説明の際使った旨供述して教示の事実を認めることにするのではないかという疑問である。中村(隆)はこの点につき十分納得の行く説明をしているとは言い難いように思われる。しかし、もし増渕への教示の事実がないのにその程度なら認めるのもやむを得ないという心境になった場合には、認めるのはあくまでもその限度にとどめたいという心理が働く以上、教えられたマイクロスイッチを増渕に対する教示の説明に用いたとして供述する心理にはかえってなりにくいように思われ、むしろこれまでに見たり取り扱ったりしてよく知っているマイクロスイッチを説明に用いたと述べるほうが供述しやすいように思われるし、単に原理を説明するだけであり、また、片開きの蓋の箱に付ける形が頭に浮かんだ状態(4・8員面添付図面参照)で構想する場合には、MLVⅡとして図示されて教えられたものよりも平角ノブ式のものを思い浮かべて、これを説明に用いた旨供述することは決して不自然ではないといえよう(もっとも逆に、かりに中村(隆)が増渕に教示したという前提で考える時は、教示の時点ですでにMLVⅡの使用が決まっていたはずはないと考えられるから、それをマイクロスイッチの原理の教示に用いたと供述したとすればかえって不自然であるとも考えられるのであり、前記4・8員面の供述は、中村(隆)が増渕に教示したことが事実であるとの前提の下でも特に不合理な点はない)。
ところで、本件では、司法警察職員による被疑者取調の方針として、捜査官らには、証拠物についての知識を与えないようにし、かつ、他の共犯者の供述内容を知らせないようにするいわゆる情報遮断の方法がとられたとされており(もっとも、各取調を統括する管理官において、場合に応じて他の被疑者の供述の要点を取調官に伝えて当該被疑者のその点に関する取調を指示したことはあった。これらにつき二一三回証人舟生礼治の供述・一〇六冊三九三六一丁以下、二一四回証人堀内英治の供述・一〇六冊三九五四二丁以下参照)、各取調官もまた異口同音に証拠物についての知識はなかったと証言しているのであるが、証拠調の結果、少なくとも情報漏れがあったり、むしろ秘かにこれを入手していたことがあったのではないかと認められるのであって、辻巡査部長が、本件のマイクロスイッチの形状について全く知らなかったとは断言できないところであり、その形状まではともかく、マイクロスイッチが使用されているという事実すら知らなかった旨証言していることについては、かえって疑問を抱かせられるのである。土田邸爆弾にマイクロスイッチが使用されていたことは、事件後すでに解明されていたのであって(科研主事滝沢寛治47・10・2鑑定(謄)・増渕証一一冊二〇六五丁等参照)、そのことが自然と部内に知られ、どこかから辻巡査部長の耳に入らないとも限らないからである。もとより中村(隆)が自己が増渕へのマイクロスイッチの教示を言い出したことをとりつくろうために、辻巡査部長から教えられたのだと虚偽のことを言っていると見ることもできないではない。しかし、中村(隆)は取調状況につき第三五回ないし第三八回公判、すなわち後の捜査官尋問より前の段階において供述しているところ、そこで取調状況について供述していることは、これまでに信用性について検討して来た結果に照らして見るときは、一応納得できる部分が多いといってよいのであり、その中ですでに辻巡査部長の名を特定して挙げているという事実に留意するときは、マイクロスイッチの図示を受けた状況についての中村(隆)の供述を虚偽と断じて一概に排斥し難いのである。
そして、48・4・12員面に図示されたものは作動線が上部から出ており、横に付いていない点だけが証拠物と異なるに過ぎないともいい切れない。なぜならば、四月一五日付の「想像図」に図示されたマイクロスイッチは48・4・12員面添付図に示されたものと同一のものと解すべきものと思われるが、「想像図」のマイクロスイッチの構造をよく見ると、作動線を押し下げることにより、それがさらに作動線の下側に出ているノブを押すという構造のものであることが明らかであって、土田邸爆弾に使用されたマイクロスイッチと形は似ているが、構造はまるで異なるものと認められるのである。
このように見て来ると、中村(隆)の弁解は一見不合理に思われるものであるが、必ずしもそのように言い切れないものであり、48・4・12員面に類似のマイクロスイッチを図示していることから、直ちに土田邸爆弾製造に何らかの関係がある(たとえば、マイクロスイッチを購入して増渕に届けた)と認めることはいささか早計といわなければならないであろう。中村(隆)は家業の精密工作機械製造業との関係でマイクロスイッチ自体についての知識はかなり豊富であったと考えられ、本件のような爆弾に使用できるスイッチの提案等をなし得る知識を持っていたことは認められるが、逆にその故に、捜査官の図示等から土田邸爆弾に使用されたマイクロスイッチが概略どのようなものであったかについても推測し得る状態にあったことも否定できず、捜査官が事前にスイッチについての知識を得て取り調べていたとすれば(そしてこの可能性は辻巡査部長のみならず坂本警部補についても否定し去ることはできない)、中村(隆)が4・12員面で、土田邸爆弾に用いられたものと外形を同じくするものの図示へと導かれることもあり得ないことではないと考えられるからである。
③ 赤色ラッカーをマイクロスイッチの端子に塗布したとの供述も、中村(隆)以外の者も関与する爆弾製造現場での作業を慎重にするためにはあり得ないことではないが、家業の関係でマイクロスイッチにも詳しい中村(隆)がみずから結線の作業をするのにあらためて赤ラッカーで端子に印をつける必要性があろうかという疑問があり、このような供述があるからといって、必ずしも製造自白の信用性が高いということにならないと考えられる。なお、後述するように、捜査官は証拠物の特異点としてこれを重視していた関係で、中村(隆)を誘導して赤色ラッカーで印を付した旨供述させた疑いもないではないものである。さらに、証拠物によると、端子のみならず、作動線、シャフトの部分にまで赤色のラッカーの付着が認められるのに、中村(隆)は作業の際手にラッカーが付着したためではないかと推測を加えるのみであって(48・4・24検面)、シャフトにまで付着している理由が説明されておらず、この点も必ずしも看過できないのである。
(3) 証拠物から見た供述の疑問点
中村(隆)の供述によると、マイクロスイッチの作動線をクランク形に曲げたうえ、これを爆弾外箱の本体内側の上縁に二液性スーパーセメダインで接着し、かつ、接着を強くするためにビニールテープでとめたもので、接着から爆弾の完成(包装前の段階)までの所要時間も約一、二時間、せいぜい二時間であり、さらに、前林と金本が包装をして宛名書をしたというのである。しかし、この供述には、証拠物と照らし合わせると、色々疑問がある。
① セメダイン株式会社製造の「セメダイン・スーパー」(昭和四八年押一五三六号の五九。説明書の記載のある箱を含む。)の説明書によると、同接着剤は、硬化するまで常温で五、六時間かかるというのである(中村(隆)は、前記(1)③のとおり約一二時間かかると供述していた)。説明書には、加熱すれば硬化は促進されるとあるが、中村(隆)はこのような加熱をしたとの供述はしていない。接着を強化するためビニールテープでとめたといっても完全なものではなく、不安定を免れない。もちろん二時間程度で一応接着することは認められ(昭和五七年六月一一日施行の当裁判所の検証調書・一四九冊五〇九〇一丁参照)、かつ、中村(隆)の右供述のとおりだとしても、箱の蓋をする前に何度も指で押してみるなりして接着の強度を調べたであろうし、また、中村(隆)は二液性スーパーセメダインを使用した経験もあったであろうけれども、万一硬化不十分でマイクロスイッチがずり落ちれば、即時に通電、爆発する重大な危険が伴う作業であるから、説明書に右のような常温での硬化時間が記載されている以上、接着開始後短時間しか経過していないのに蓋をし、結線をすることには極めて大きな危険感があり、通常ならばそのように早く蓋をし、結線をすることはあり得ないと考えられる。しかも、接着した後一、二時間静かに放置したのでなく、ビニールテープで固定した上で、続けて結線その他の一連の作業を行ったというのであるが、十分固定しない段階でマイクロスイッチの作動線に触れたり、マイクロスイッチに結線された被覆線が結線等の際引っ張られたりたわめられたりすると、ビニールテープによる固定力が弱いためにマイクロスイッチがずれたり、はずれたりし易い状態にあり、そのような中でマイクロスイッチに気を使いながら作業を進めなければならなくなるため、作業がしにくく、爆薬の位置に合わせてガスヒーターの位置を決めたり、乾電池の位置に合わせてバッテリースナップの位置を決めたりする作業などでは、マイクロスイッチの結線部分に力が加わるし、また作業途中で手が触れたり、被覆線を引っ張るなどしてマイクロスイッチの位置がずれたり、はずれかけたりすることも考えられるところであり、いずれにせよ作業がしにくいものと推測される。ところが、中村(隆)の供述によると、ただビニールテープでとめて接着を強化したというだけで、その他に特段の説明もなく、また、取調官において特に問いただした形跡も認められないのである(昭和四八年押一五三六号の五二のMLVⅡ現品によれば、プラスチック本体に木ねじ用の穴が二つあり、特に本件爆弾に用いるような場合は、木面に固定するのには木ねじでとめるのがむしろ自然ではないかと考えられるが、中村(隆)の供述中には、この点についても説明もなく、問いただした形跡もない。もっとも、刑事二〇部被告人中村(隆)の供述・中村(隆)六冊一四七三丁は「釘を使った記憶はない」と述べている)。そして、そもそもこのように硬化に長時間を要する接着剤をことさら選んで使用する理由に乏しく、接着剤を使用するにしても、むしろ、接着強度はそれ程でなくても、硬化時間の短いありふれた接着剤を使用する方が安全であると考えられる。これらの事実は、二液性スーパーセメダインでマイクロスイッチを接着したとの供述の信用性に疑問を挾むものである。
② また、二液性スーパーセメダインの接着力は通常の接着剤よりも強く、木材の表面に接着させた状態でこれを剥がそうとした場合木材の一部が付着したまま剥がれ、強い衝撃で破壊された場合でも、マイクロスイッチのプラスチックの接着面に木面が付着した状態で破砕される可能性が非常に強いと考えられるが、検察官の請求により取り調べたマイクロスイッチのプラスチックの断片(証二三八号、二四一号及び二四二号)にはそのような付着は認められず、また現場の綿密な調査からして、もし木面が剥ぎ取られたように付着しているプラスチックの破片、あるいは接着剤の付着している木面の破片が存在したとすれば、発見され、押収された可能性が強いと考えられるが、そのような破片は、検察官から取調の請求がないことに徴して、発見されていないと推認される(検察官は、そのような破片は発見されていない旨釈明している。二八一回公判調書・一五三冊五二〇一四丁参照)。この事実も、右と同様の疑問を提起するものである。
③ 前林、金本が二人で小包の包装紙及び荷札の宛名書をしたとの供述も、前述のとおり証拠物に合致せずその信用性に疑問がある。
④ なお、中村(隆)の供述によると、アルミ箔については、弁当箱内の爆薬の量がやや少なく空間を埋めるために使用されたとなっているが、現場で発見されたアルミ箔はかなり多量であることやその形態に照らして理解し難いところがある。
以上のように、中村(隆)の供述中には、証拠物の状態から見て色々と疑問があるのであって、ことに右①、②、③などは重要な点である。このことは、中村(隆)が土田邸爆弾の製造現場におらず、直接その製造に関与していなかったことを推定させるものであって、これらの点を考慮するだけでも、製造に関する自白は虚偽の自白である蓋然性が高いと考えられるのである。
(4) 誘導による自白である疑い
中村(隆)の土田邸爆弾製造の自白は、昭和四八年四月一六日の坂本警部補の取調においてされ、供述調書が作成されたものであるが、同日の自白は、取調官の誘導によってなされた疑いがある。
① すなわち、中村(隆)は、同年四月一五日の取調において、日石事件に関する日大二高における謀議への関与及び同事件後における日大二高における日石総括を自白し(同日付員面参照)、さらに、「土田事件に使用されたトリック爆弾の想像図」(証七六冊一八八八九丁。以下、「想像図」という。)を作成するに至った。日石二高謀議及び日石総括に関する自白の信用性については後述し、ここでは四月一五日の「想像図」から翌一六日の爆弾製造の自白への供述の推移を見ることにするが、一六日の取調も坂本警部補が取調官となり、三沢節夫巡査部長が立会者となって行われ、さらにこの日に限り電気関係についての知識のある庄司英義巡査部長が上司の指示により取調の途中一時的に立ち会ったものである(48・4・16取報・証七六冊一八八七〇丁、七九回及び九五回証人坂本重則の供述・三四冊一二五八六丁及び四二冊一五七〇〇丁、二一八回証人庄司英義の供述・一〇九冊四〇二九五丁、二四〇回及び二四一回証人三沢節夫の供述・一二九冊四五六二〇丁及び一三〇冊四五七六五丁参照。以上の各証人の供述を、以下「坂本証言」、「庄司証言」、「三沢証言」という)。
ところで、坂本証言によれば、坂本警部補は、中村(隆)が四月一五日に、考えてもいなかった「想像図」なる図面を書いたので、同人は土田邸事件に関与しているのではないかと思い、翌一六日に同人に色々訊いてみたところ、同人は土田邸爆弾の製造に関与したことを認め、「昨日の図面(「想像図」)があれば下さい」というので、「想像図」のコピーを渡し、それに同人が訂正を加えるという形で下調べをして、その後に供述調書を作ったというのである(四二冊一五七〇一丁・一五七二四丁参照)。
これに対し、中村(隆)の供述によれば、「四月一五日に坂本警部補から『君が土田邸爆弾を作るとしたならばどういうものを作るか、想像図を書いてみろ』といわれた。自分は同月五日以降参考人として辻巡査部長から取調を受けたことがあるが、その時に同巡査部長から箱の蓋をあければ爆発する爆弾の構造を教えられ、またマイクロスイッチMLVⅡという名前を挙げて同スイッチが爆弾に使われたことを知らされた。同巡査部長作成の四月八日付員面添付の『私が増渕に説明したマイクロスイッチ』と題する図面(証一〇五冊二五八三二丁)は、同巡査部長から教えられた知識をもとに想像して作成したものである。そして、この図面がイメージとして基本にあって、四月一五日に『想像図』を作成したわけである。翌一六日には坂本警部補にいわれて『想像図』を訂正、変更させられたのである。それが『想像図』のゼロックスコピーに赤ボールペンで訂正、変更を加えた『土田事件に使用された爆弾の図』(証七六冊一八八九〇丁。以下、『訂正図』という。)である。すなわち、同警部補からいわれて、マイクロスイッチのレバー(作動線)の位置、電池の種類の変更、爆弾の容器の変更をさせられたのであり、この『訂正図』ができ上ると、自分がやったのだろうと追及されたものである」というのである(一七冊六三〇〇丁参照。なお、中村(隆)が48・4・8員面添付図面について述べるところは、48・4・12員面添付図面((証一〇五冊二五八六五丁))と取り違えて述べていると思われる)。
② 中村(隆)の右供述中辻巡査部長から土田邸爆弾の構造やマイクロスイッチMLVⅡが使用されたことを教えられたとする部分の一概に排斥し難いことは前述のとおりであるが、かりに同巡査部長から教えられなかったとしても、中村(隆)が家業の関係でマイクロスイッチの知識があることは前述のとおりであるから、土田邸爆弾製造に関与していなくても、何らかの示唆を受けて前記48・4・12員面添付図面や「想像図」を書き得ないとはいえないと考えられる。むしろ「想像図」においては、弁当箱自体が爆弾の外箱となっているのであって(その中に爆薬を入れた容器が納められ、いわば二重構造になっている)、このような図面をもって、中村(隆)が土田邸爆弾の本当の構造(木箱の中に弁当箱を入れた二重構造)を知っており、そこにヒントを得て書いたもので、自白に至る一歩手前の供述であると見ることは困難である。すなわち、もし中村(隆)が爆弾製造の犯人の一人として製造現場で作業を行い、あるいはこれを見ていたとしたら、このような「想像図」を描く心理がほとんど理解できないのである。弁当箱のような金属容器入りの爆弾として想像することは、実物を知っている者がことさら知っていることを隠そうとする場合でも、なかなか思い浮かぶようなものではないであろう。弁当箱を外箱とする爆弾を「想像図」として描いたこと自体、中村(隆)が爆弾自体を見ていなかったことを推測させるものではなかろうか。
③ そこで、爆弾製造に関与した旨の四月一六日の自白について検討すると、さらにつぎのような疑問を拭い得ないのである。
すなわち、まず、自白が「想像図」に訂正、変更の加筆をするという形で行われていることである。坂本証言にあるように、中村(隆)が真実の自白をしようと決意しながら、みずから「昨日の図面(「想像図」)があれば下さい」と申し出て、もはや無用のものとなってしまったはずの重大な相違点を多数含むような想像図のゼロックスコピーを赤ボールペンで訂正するという迂遠な形で自白するということが一体あり得るだろうか。体験した爆弾製造を自白する決意をした以上は、「想像図」にかかずらうことなく、新しい用紙に記憶に基づいて図面を作成するはずであり、その際想像図に記載したものと大幅な違いがある以上は、想像図を訂正するなどというわずらわしい方法はとらないのが供述者の通常の心理であるはずであろう。製造自白に至る過程における異常さが、まずこの点に現われていると考えられる。
しかも、「想像図」から「訂正図」へはつぎのような変更がある。
爆弾の外箱が、弁当箱(金属)から木箱となり弁当箱は爆薬の容器になる。想像図では爆薬の容器については単に容器と記載されているだけである。
マイクロスイッチが弁当箱(金属)にスーパーセメダインで接着されているのが、木箱に同じ接着剤で接着されたものとなっている。
電源となる乾電池が想像図では単二のもの二個となっているのに、訂正図では、一旦単一のもの二個と変わり、さらにそれが抹消されて積層乾電池に変わっている。
マイクロスイッチの作動線の位置(これなどは比較的細かい事項である。)がその上部から横へ変わっている。
発火装置であるガスヒーターがハンダづけで結線されたような形からソケットにねじこむ形に変わっており、またそのガスヒーターのカバーの窓の形(これらも右同様細かい事項である。)が変っている。
訂正の過程で、配線に用いたコードその他の物の色が克明に記載されている。
④ そして、このような変更の状況からすると、つぎのようなことが考えられるのである。
スーパーセメダインは、金属に物を接着させるのによく使われるが、このことから考えると、土田邸爆弾の木箱へのマイクロスイッチの接着にスーパーセメダインが使われたという中村(隆)の自白が得られたのは、同人が当初「想像図」の弁当箱のような爆弾を思い浮かべていたためではないか、と疑われ、そして想像図の訂正の際にもそれが残され、木箱への接着にもそのままスーパーセメダインを使ったものとして自白をしたものではなかろうかとの疑いがあり、このように自白の経過という点でもスーパーセメダインを使ったとする自白には疑問がある。
乾電池の変更の経過も、製造犯人として自白を決意したにしては不可解さがある。単二から単一に変わったのは外箱の大きさが変化したことから、中村(隆)が合理的な推測を加えたことによるものとしか思われず、すなわち、もし犯人として自白を決意したならば直ちに積層乾電池を供述するのが普通であろう。
前記③以下の事項は、なかなか細かな事柄であるのに、注意深く訂正されているが、これはいよいよ製造を自白しようとする者の自白の心理にそぐわないものである。
⑤ 以上に考察した諸点からしても、中村(隆)が製造を自白するに至った過程には不自然なものを感ぜざるを得ない。すなわち、真犯人であれば、右のような「想像図」をもとにした「訂正図」を作成することによって自白をするということは、自白者の心理として不自然であると思われるのであるが、そればかりでなく、もし、このような変化があらかじめ取調官が証拠物を見た上で誘導したことによるものと仮定するときは、すべて了解可能となるのである。
すなわち、中村(隆)は電気関係についての知識もあり、このような比較的単純な構造の爆弾を考案する能力も持ち合わせていたため、ある程度の示唆により「想像図」のような図を描くことは可能であったと考えられるが、それが取調官らが土田邸爆弾について得ている証拠物についての知識と異なっているため、これをこれらの証拠物に合わせるための示唆、誘導を行ったことにより、まず、各部品ごとにいわば細かい訂正が加えられ、それの積み重ねの結果として土田邸爆弾の実物に近い形の構造へと組み立てられて行ったものと考えられ、そのように解するときは、「想像図」をもとに「訂正図」を作成するという過程は、自白に導くためには不可欠といってよい作業になると考えられる。ことに線の色など、爆弾についての証拠物をあらかじめ見てもいないと証言しており、かつ、電気関係の技術面に全く素人である坂本警部補らが注意を払うような事項とはにわかに考えられず、実物を見ているからこそ、それに近づけようとして、コード等の色とか、マイクロスイッチの作動線の位置とか、まだ全体の構造の略図すら描いていないのに、ソケットの有無とか、作動線をクランク形に曲げたこととかを赤ボールペンで訂正するという形態で、「想像図」のゼロックスコピー上に記入させて行ったものとしか考えようがないのである。その過程で坂本警部補らがすべて知識を注入したとまではいえないが、「この点は違うのではないか」などと指摘し、ヒントを与えることによって、中村(隆)が自己の電気に関する知識に基づき考えついたことを供述し、それが証拠物に近いものとなった時赤色ボールペンで記載させていくという過程をたどったことが推認されるのである(三七回被告人中村(隆)の供述・一七冊六三〇五丁以下参照。なお、七九回証人坂本重則の供述・三四冊一二五九〇丁及び一二六〇〇丁参照)。
⑥ つぎに、四月一六日及び翌一七日の取調については立会の三沢巡査部長によって本文が書かれ、これに中村(隆)が署名指印した供述書三通が作成されている。同人の証人尋問時の仮の呼称に従って(一二九冊四五六二二丁参照)、これらの供述書のうち証七六冊一八八八〇丁から一八八八二丁までのもの三枚(四月一六日付)をAグループ、同一八八九六丁から一八八九九丁までの四枚(四月一七日付)をBグループ、同一八九〇〇丁から一八九〇四丁までの五枚(四月一七日付)をCグループと呼ぶことにするが、これらの供述書について、三沢証言によれば、「自分が中村(隆)の取調の立会者としてこのようなメモを書き、中村(隆)に署名指印させたのは四月一六日、一七日の取調の時だけであるが、それは、中村(隆)が四月一六日に土田邸爆弾の製造を自供し、その自供は取調の大きな山場であると思われたところ、中村(隆)は電気などのなかなか専門的な複雑なことを述べているので、これは重要であると自分なりに判断して、坂本警部補が中村(隆)を取り調べている机の隣の机で、同警部補の取調に対し中村(隆)が供述することをメモして行ったものである。最初同警部補の了解をとったわけではないが、同警部補は自分がメモを書いているのを見て、何もいわず黙認した。メモは、同警部補が供述調書を作成するについての参考資料として書いたものである。このメモにあとで中村(隆)に署名指印及び契印(以下、署名等という。)させたのは、中村(隆)に供述したことについて責任を持ってもらい、後日覆すことのないようにするあかしとして念のためにさせたものであり、署名等の前に読み聞かせてある。Aグループは四月一六日の供述をメモし、署名等をさせたが、Bグループの作成は同日と翌一七日とにまたがっており、Bグループの初めの三枚は一六日の供述をメモしたものであるが、完成は一七日に持ち越したものである。AグループとBグループの初めの三枚とでは、むしろBグループの初めの三枚のメモが先に出来その後Aグループのメモが出来たのであるが、Aグループのメモの供述は、まとまっており、かつ、重要なものであるので、それだけまとめて一六日に署名等をさせたものである」というのである。
しかし、これらの供述書についても、つぎのような疑問がある。
これらを中村(隆)48・4・16員面(一五丁のもの)及び4・17員面と対照すると、その作成順序については、(1)一八八九六丁から一八八九八丁まで(Bグループの最初の三枚)、(2)一八八八〇丁から一八八八二丁まで(Aグループ)、(3)一八九〇〇丁から一八九〇四丁まで(Cグループ)(Bグループのうち一八八九九丁はどの段階か必ずしも明らかでない。なお、これと次丁との間には契印としての指印が続いていない。むしろ、一八八九八丁から一八九〇〇丁への指印が継続しているように見える。)の順序で作成されたものと認められる(この点は三沢証言及びメモ自体の製造工程の記載部分に付された番号からもそのように推定される)。しかし作成日付は、一八八八〇丁から一八八八二丁までは四月一六日、一八八九六丁以下は四月一七日となっているが、このうち48・4・16員面に録取されているのは右(1)の部分のみであり(厳密にいうと、(2)の冒頭部分を一部含む)、(2)及び(3)の部分は48・4・17員面に録取されているものである。
中村(隆)はこれらに日付を付して署名しており、供述書としての形になっているが、同人の他のすべての供述書は自筆であるのに、これのみは三沢巡査部長の筆記になるものであり、しかもかなり早い速度で走り書されているうえ、爆弾の製造工程の部分については、一項から八項まで(四月一六日付)、九項から一九項まで(四月一七日付)通し番号が付されており、その内容も48・4・17員面とほとんど同一であって、48・4・17員面は明らかにこの三沢巡査部長が筆記したメモ(供述書と呼ぶよりメモと見た方が適切であるので、以下「三沢メモ」という。)を下敷にして作成されていることが一目瞭然である。従って、坂本警部補は三沢巡査部長が作成したメモに一部みずから加筆修正しただけで、これをほとんどそのままそっくり引き写して調書を作成したものであることに注目しなければならない。このような代筆による中村(隆)の供述書は、取報、メモ報等を通覧しても他には存在しないのである。
有能な取調官として知られていた坂本警部補がなぜ部下の巡査部長の筆記作成したメモをそのまま借用し、調書を作成したのか。三沢証言によれば、坂本警部補から口授はされておらず、坂本警部補と中村(隆)との問答を聞きながらみずから作成したものであるというが、供述内容はきちんと整理されており、供述事項の配列順序も整然と順序よく並べられていて、供述が前後したり、不正確な供述や誤った供述を後で訂正したり付加したりした部分は全くないといってよく、三沢証言を前提とすれば、中村(隆)がこのような整然としたよどみのない供述をしたことにならざるを得ないが、そのようなことは、取調の実態にそぐわないことが明らかであり、さらに調書を作成するのは坂本警部補であるにもかかわらず、同警部補の調書に匹敵するような整然たるメモを三沢巡査部長自ら作成することはにわかに信じ難く、かりに三沢巡査部長がそのようなメモを作成したからといって、矜恃の高い坂本警部補がこれをそっくり引き写すということは同人の心理としてできそうもないことである。従って、これは中村(隆)の取調と前後して、坂本警部補か、他の証拠物に詳しい知識を有する者かが、中村(隆)が製造したとしたならば、このような内容になるのではないかと、江口等の行動についても適当な推測をまじえながら、あらかじめ三沢巡査部長に口授しておき、それをもとに調書を作成したか、少なくとも一部についてはそのようなメモに基づいて中村(隆)を取り調べた疑いが濃いといわざるを得ない。
そのことを物語るものとして、前記(2)のメモの冒頭部分(一八八九六丁)には、明らかに後から記入するためと認められる空欄を設けた状態でメモを作成し、その後記入したことが明確に読み取れる部分がある。
メモの記載は、つぎのとおりである(原文のまま)。
「土田爆弾のマイクロスイッチを取りつけ等の組立てをしております
組立てをしたのは 年 月 日午 時 分ころから 時 分ころまでの間です
場所は増渕の給田アパートです
その場に居た人は(以下二、三行分空欄になっている。)」
当初のメモは右のように記載されていたが、その後、年、月について「昭和四六」、「一二」と補完され、その下の「日」を斜線で抹消してその右側に「初旬午後八時ごろ」からと並行する形で記入され、その他の空欄は補充されないままで終わっていることが認められ、なお、右のとおり補充記載されたことについては、その部分の鉛筆の太さ、濃さ等が異なっていること及びその体裁から明らかである。このような書込みは、三沢証言にもかかわらず、事前にこのメモが作成されており、これに補充する形で調書の下書きにしようと工作したものであることを推定させるものといわなければならない。「 年 月 日午 時 分ころから 時 分ころまでの間です」というメモは、昭和四六年一二月の出来事であることがわかっているにせよいないにせよ、また「午 時 分」と午前、午後の区別すら記載しないのは、製造時刻がわかっているにせよいないにせよ、中村(隆)取調の現場で作るということは、取調立会人の心理としてはあり得ないことであろう。「その場に居た人は」として以下空欄にしているのも、もし供述が得られたのであれば、重要事項であるから、符号でも頭文字でも記載してつぎに進んだはずであるのに、何らの記載がないのは、三沢証言にもかかわらず、これも事前に作ってあったことを示すものとしか見ようがないのである。
そうだとすれば、以下、「まず使った部分を一つ一つ云いますと…」との部分も同様に推定するほかはない。そしてそれを裏付けるかのように、部品をまず全部列挙するのでなく、一つ一つ大きさや特徴を記載しながら列挙しているのであり、弁当箱については縦約一七センチ、横約一一センチ、深さ約六センチでしたと、細かすぎると思われる数字が記載され、この数字が、まさに土田邸爆弾に使用されたと推定されるチドリ印深大角弁当箱と寸法が正確に一致するのもかえって不自然である(右弁当箱が使われたことについて、一五六回証人青田実の供述((七二冊二七六九九丁))、科検主事小林侑47・7・12鑑定(謄)((増渕証一一冊二一六四丁等))参照。また、弁当箱の寸法については、チドリ製品カタログ((証七三号))、(員)古賀照章48・5・10爆弾の構造等に関する捜報(謄)((増渕証一二冊二二二〇丁等))参照)。ビニール被覆線の項には「(約 センチ)」として長さが空欄になったままになっている(ビニール被覆線は製造に使用した分以外に余った部分があるため、その長さは捜査当局が証拠物自体から知り得ない事実であることとも奇妙に一致する)。さらにそれにつづけて、
「木箱、弁当箱、マイクロスイッチ、乾電池、バッテリースナップ、ガスヒーター、豆ソケット、ビニール被覆線の絵を書きましたので参考にして下さい。
○添付(空欄)」
と記載したうえ、これを全部×印を用いて抹消している。
そして、それに続くのが一八八八〇丁以下三枚のメモである。その冒頭には、当初「ビニールテープ巾約一五ミリのものです」、「豆ラッカー赤色のもの」、「豆電球」と記載され、以上で部品の列挙が終わって、縦に一本線を薄く引いて区切り、その後に製造工程が詳細に順に記載されている。一八八八〇丁の冒頭の余白の部分には、
「ガムテープ約巾六センチ肌色の濃いもの、墨汁黄色かん入り、◎アルミ箔、包装紙レンガ色約七〇センチ×約八〇センチ→和紙のような感じで(~繊維の入ったもの、荷札四、五枚、麻ひも」
と部品が追加記入されているが、これは、後の製造工程の記載を終えた後で、四月一七日以降にそこに現われたものを追加記入したものと思われる(これは48・4・16員面((一五丁のもの))及び48・4・18員面の記載と対照してもそのように認めることができる)。
このようなメモの形式や内容に照らして前記の「想像図」を赤色ボールペンで訂正させて行く過程をつぶさに検討するとき、これらのメモは、中村(隆)の取調の際にその供述に従って順次にメモしたものではない疑いが濃いといわなければならない。前記のとおり取調に先立って作成されたとしか考えられない空欄の存在などを考慮すると、少なくとも以上の部分は、おそらく「訂正図」を作成させる前に作成されており、「訂正図」の作成過程にもこのメモが使用されたのではないかとの疑いを禁じ得ないのである。
そこで、右部品の記載部分に続く製造工程に関するメモの作成についてさらに検討する。
三沢証言によれば、同証人は、証言の最初の段階では、坂本警部補の調書作成と自己が筆記した右三沢メモとは同時進行的であったと供述しておきながら、後の段階では、三沢メモは坂本警部補が下調べをした段階における中村(隆)の供述をその場で何の下書もなく録取したものであり、坂本警部補が中村(隆)の48・4・16員面(一五丁のもの)をとり始めたのは午後七時か八時ごろであって、四月一六日付で中村(隆)が署名指印している前記三沢メモ(一八八八〇丁から一八八八二丁まで)はその直前に完成したと供述するに至っている(これは明らかに前後矛盾する証言というほかはない)。
しかし、中村(隆)が土田邸爆弾の製造という極めて重大な自白を始めたのに最後まで供述させず、中途で打ち切って、以後は坂本警部補が中村(隆)の面前で膨大な調書を自筆で書き続け、製造自白の部品の部分まで調書化することで終わったということについては、不自然さを感ぜざるを得ないのである。そのような重大な事項についての自白は中途で止めることなく最後まで一気に自白させてしまうのが捜査官としての通常の取調方法であり、またそのように行動することが要請されているはずである。その重大な供述が出ているのに中途で打ち切り、それほど重要とも思われない点から長文の調書をとるというのは不自然である。まず重大な自白を完結させて、重要な部分から調書化するのが捜査官として当然の任務のはずではなかろうか。
しかも、このような製造工程について、中村(隆)が順序を前後させることなく、また必要な内容を過不足なくすべて織り込み、あいまいな部分もなく整然と供述するということは、まず考え難いことであって、中村(隆)の供述を筆記するにしても、通常の取調官がするように簡単なメモをし、整理しながら調書化するのであればともかく、取調官である坂本警部補がそのまま引き写すことになるようなメモを、供述を聞きながらその場で作った旨の証言が、そのまま事実であるとはいささか考え難い。
三沢証言は、右の二点において措信し難いものである。そのような証言をあえてしているのは、三沢メモの作成に特別の事情があったためであろうと推測される。
結局、坂本警部補の自筆による調書作成と三沢メモの作成とは、三沢証言中の最初の供述のとおり、同時進行的であり、メモが出来た部分から坂本警部補に渡して行ったが、部品のところで夜半に近づき、それ以降の部分は三沢メモの出来た範囲であるいは何らかの理由で配線作業の部分に限って中村(隆)が署名したのではないかと推定される。少なくとも午後七時か八時ごろに四月一六日付の中村(隆)の署名がある部分が完成していたと認めるのは右に見たとおり不合理であると考えられ、そうでないとすれば、それ以後三沢巡査部長は右メモの作成に当たっていたものと考えられる。庄司証言によると、庄司巡査部長は、四月一六日だけ中村(隆)の取調に立ち会ったが、時間は夕刻一時間位であるといい、取調室に入ったらすでに前記「訂正図」が出来ており、坂本警部補が再度その説明をさせ、それをほとんど黙って聞いてその信用性につき感触をとった後退出したというのである。しかし、「想像図」をもとに「訂正図」を作成させることの不自然なことはすでに述べたとおりであり、庄司巡査部長は電気の知識に詳しいことを考慮するとき、右証言はにわかに措信し難いのである。むしろ、証拠物に通暁している同巡査部長を立ち会わせ、「想像図」をもとにして「訂正図」を作成させるに際し、示唆を与えることにより、証拠物と矛盾しない形で自白を引き出そうとしたものと見るべきであろう。そうでなければ、わざわざその段階でのみ庄司巡査部長を立ち会わせる積極的な理由はなく、むしろ翌一七日の製造工程の自白の際に立ち会わせる必要の方が大きかったのではあるまいか。
このように見て来ると、まず爆弾の基本的構造に合うように、「実線図」(四月一六日付、証七六冊一八八八三丁)を作成させ、それをもとに製造手順についてあらかじめ捜査官において推定していた筋書を示唆しながら大要の製造工程の自白を得たうえ、三沢巡査部長が土田邸爆弾の構造について知識を有する者の助力を得るなどして、製造工程に関するメモの作成に入ったが、その夜は八項の部分までしか書き上げられなかったか、あるいは部品に関するところまでしか調書化できなかった関係で配線部分までに限りメモが出来たことにして、その部分まで署名させるに止めたかのいずれかの理由により、製造工程のメモが二分される結果となったものと思われるのである。
このことは翌日の48・4・17員面が、前日の調書の続きから始まらず、全二七丁の本文中一五丁までの前半部分は土田邸事件についての日大二高謀議、マイクロスイッチの購入、増渕へのマイクロスイッチ持参及び配線関係の図解等について録取し、その後に三沢メモに記載されたとほぼ同文の製造工程についての自白を約八丁にわたって一気に記載しているのであるが、この前半部分作成中に三沢メモ九項以下が同時進行的に作成されていたことも考えられるところである。というのは、右前半部分については三沢メモはないが、もし三沢証言のとおり、メモの八項までで前日の午後七時か八時ごろに製造の取調を中断したのであるならば、自白の重要性から考えて、四月一七日はまず真っ先に製造工程の残余の部分の取調を先行させ、その後に日大二高謀議等の取調に入ったものと考えられる。ところが、三沢メモは不思議なことに製造部分に限られており、日石謀議等についてのメモは作成していないが、それは、三沢メモが別のところで作られ、坂本警部補はそのメモが完成するまでの間、謀議等についての調書の作成を行い、製造に関する三沢メモの完成を待ってほぼそのメモのとおり調書に記載して行ったのではないかと考えることは十分可能だからである。
以上によれば、坂本警部補の取調に一時庄司巡査部長が立ち会っていることからして、坂本警部補は、みずから認めるとおり電気の知識に乏しく、技術的な内容の調書の作成をするだけの十分な理解もないため、これまで捜査当局において検討済みの製造工程の知識を有する者と協力して、三沢巡査部長においてメモを作成し、それを坂本警部補が中村(隆)に承認させる形で調書を作成して行ったものと考えるのが最も合理的である(このように考えれば、三沢巡査部長の筆記になるメモであるにもかかわらず、ほとんどそのままこれを引き写した理由が理解できることになる)。そうだとすれば、爆弾の部品を中心に中村(隆)の供述を誘導し、その構造を推定させ、その後製造工程を推定させるとともに誘導して、このような自白を完成させた疑いが濃いというべきである。
なお、付言すれば、三沢メモの末尾の包装についての記載は、「最後の包装は前林、増渕がやりました。前林が包装紙を床の上に広げているところに増渕が○○(二字分消しゴムで消してあるが、「半葉」の二字に読める。)完全(完成の書誤りと認められる。)した爆弾を包装紙の上におき、前林が爆弾をできるだけ動かさないよう包装紙の方を動かし包装しました。…」(後になって、包装は前林と金本がしたと変更になるが、ここではその点には立ち入らない。)となっているが(証七六冊一八九〇四丁)、注意すべきは抹消された「半葉」の二字である。これは、その二字を入れると文意が通じなくなり、何故抹消したところを二字分空欄として残しているか不明であるが、通常は消しゴムで抹消する場合には、抹消した部分から書き継ぐはずであることからして不自然な感じは免れない。しかも、この意味は、「半葉に切断した包装紙」としての意味を含むものと解するほかはなく、丁度証拠物から捜査当局が推定していた包装方法(包装紙を、正確に二分するというものではないが、要するに二つに切断して、これで二重に包装したというもの。本章第三節(2)(ニ)参照。)に合致するものとしての意味が含まれているように思われるのである。この段階で、中村(隆)がこのような言葉を一旦口にしたにもかかわらず撤回したとは考え難い。かりに、半分に切った旨一旦述べたが判然としなくなったため撤回した場合であっても、三沢巡査部長がわざわざ半分消した状態にして空欄にしておくということも考え難いことである。結局のところ、右二字が抹消されながら、その部分をあけて文章が書き継がれた理由は判然としないのであるが、少なくとも捜査官が証拠物から推定された内容を知った状態でこのメモを作成していたことを疑わせる一つの事情であるといえよう。
⑦ さらに赤色ラッカー塗料をマイクロスイッチの端子に塗布した旨の供述についての坂本警部補の不自然な対応について述べると、つぎのとおりである。
前記三沢メモによれば、「豆ラッカー赤色のもの」(前記一八八八〇丁)として、四月一六日に作成されたメモに記載され、しかも同メモ記載の製造工程の第一項に「赤色の豆ラッカーで端子二本に赤く印をつけました」、同三項に「ビニール被覆線を約一〇センチ位に二本切り、マイクロスイッチの赤印をつけた端子二本にそれぞれ結びつけました」とも記載されているほか、同日付員面第一〇項にも右三沢メモの部品を記載した部分とほぼ同様の記載をし、「豆ラッカー赤色」との記載がされている。
ところが、四月一六日の中村(隆)の取調状況を記載した(員)松村勝48・4・16取報(証七六冊一八八七〇丁)には、右三沢メモに対応するような状況の記載はほとんどなく、弁当箱の大きさを一七センチ×一一センチ×六センチと特定した状況について特に言及しているにとどまるのに対し、四月一七日の取調状況を記載した(員)松村勝48・4・17取報(証七六冊一八八九一丁)には、中村(隆)は同日の取調で赤色ラッカーでマイクロスイッチの端子に印をつけたことについての供述をした状況が甚だ印象的に記載されている。
同報告書にはつぎのように記載されている(なお、括弧内の被疑者、取調官の文字は引用の際付加したものである。他は原文のまま)。
「取調官は前回のように精神面について説得すると、被疑者は力んで拳を握りしめると、大声で「ちきしょう」と叫んだので、取調官が「それは、私に対してか。」と尋ねると、「そうじゃないんです。」(取調官)「友達を憎んでもしょうがないのではないか。真実が一番強いのではないか。」(被疑者)「今まで話したことは本当なんだってば。」(取調官)「しかし、君は、一部事実を伏せているとしたら、それが苦しいのではないか。」と言うと、被疑者は、両手を膝に置くと、「坂本さんは、こわい人だ。嘘が言えない。真実だけしか言えない。」(取調官)「それは、私が、君に対し、証拠をつきつけて真実を引き出そうとはしない。私は人間性の追求で一貫して君に接してきた。」(被疑者)「それがこわいんです。」(取調官)「それでは、昨日に続いて、これが真実だと言うことを話してくれるね。」等と問答した後、被疑者は、喫茶店「サン」での日石郵送、爆弾運搬の謀議に続き、土田邸事件について、1土田邸への日大二高での謀議、2増渕のアパートでマイクロスイッチを説明したこと、3爆弾製造に用した材料と道具、4爆弾の構造、包装について、5爆弾製造の状況について等を、説明し、供述を始めたが、被疑者は、爆弾製造に関し、木箱をほぼ正方形の形で図を画いたので、「それは正方形だが、それでいいんだね。」と質問すると、被疑者は、物差しを手にすると、くびを傾しげ乍ら、「いやそうじゃないな。もう少し長いかな。この位でした。」と言って、三〇×二〇×八センチの木箱の図を画いた。更に爆弾の構造図について、被疑者は、「あ、そうだ。マイクロスイッチの端子に印をつけました。」(取調官)「なんでつけたのか。」(被疑者)「選んだ端子を忘れないために豆ラッカーでつけたんです。」等と図を画き供述した。内容は別紙坂本警部補作成の被疑者供述録取書のとおりである。」
坂本警部補は、公判廷で、中村(隆)が赤色塗料をマイクロスイッチに塗布した状況について、この取報の記載と同旨の供述をし、四月一七日付の供述調書を作成した後上司に提出すると、上司から実は証拠物もそのようになっている旨告げられて、初めて本当のことを言ってくれていると確信した旨証言している(七九回・三四冊一二六〇〇丁、九五回・四二冊一五八〇五丁)。しかし、前記三沢証言がかりに事実だとすれば、右豆ラッカーでマイクロスイッチの端子に赤印を付した事実は四月一六日午後七時か八時ごろまでの間に坂本警部補の取調に対し中村(隆)から供述が得られていたことになるはずである(なお、四月一六日折角中村(隆)の署名指印を得た三沢メモはこの日上司に提示し報告していないようであるが、何故であろうか)。また、48・4・16員面で、製造の際の部品として列挙した中に赤色豆ラッカーが録取されているのであるから、坂本警部補は、少なくともその用途を聴いていたはずであろう。にもかかわらず、48・4・17取報で、ことさらこの点を印象づける形で、四月一七日の取調の中での出来事として特記するというのは、事実に沿わない記載と見るほかはない(松村巡査作成の書面であるといっても、自己の取調状況についての上司への報告書面であるから、当然通読しているはずである。なお、木箱の大きさについても四月一六日に作成されたと認められる三沢メモ中に、「たて約三〇センチ、横約二〇センチ、深さ約八センチの長方形のカステラの空箱」と記載されている((証七六冊一八八九六丁))ばかりか、4・16員面にその旨録取され、かつ、図面も作成、添付されているのであるから、事実に沿わない記載と認められる((四月一六日の取調状況を記載した取報は別に作成されているので、四月一六日の取調状況と取り違えて記載したものとは認められない。証七六冊一八八七〇丁参照))。同様の記載は五月六日の取調状況を記載した取報中の、二重包装を思い出した状況について記載した部分にも見られる((証七六冊一九〇一一丁及び中村(隆)48・5・5供述書一二丁・前同冊一九〇〇二丁対比参照)))。むしろ、その文言の調子からすると、坂本警部補が意識しつつ松村巡査に記載させたもののように読むことができるものである。そして、上記のような四月一六日の取調状況とこの48・4・17取報とを併せて考えると、坂本警部補が、マイクロスイッチの端子に付着している赤色塗料を、捜査の上層部が重視していることを何らかのルートで知り、中村(隆)がこの点について自発的に供述するに至ったことを印象づけようと作為を試み、中村(隆)の土田邸爆弾製造自白の信用性を補強しようとしたものとも見られないではないのである。のみならず、たとえば、四月一六日の取調における「想像図」から「訂正図」に至る状況、庄司巡査部長の立会いの状況及び目的等特記すべきことが種々あるのに、これらに一切触れていないことや、また四月一一日夜の取調状況については二通の類似内容の取報が作成されていることなどの点から、果たして、その日その日の取調状況の報告のために作成したものかどうか、それとも、後になってから作成したり、作成し直した分もあるいはあったのではないかといった疑念もないではない。
⑧ 土田邸爆弾製造に関する自白が取調官の誘導によるものとの疑いを抱かせられることは、中村(隆)が日石リレー搬送について虚偽の自白をしていることが前記のとおり明白であり、同人がそのような虚偽自白をするという取調の中に置かれていたという事情によっても補強されるものと考えられる。しかし、それを別にしても、右のような諸事情を考慮すれば、中村(隆)がみずから製造現場で作業をしたとする自白については、証拠物に一致しない点が少なからずあるばかりでなく、自白に至る過程における「想像図」から「訂正図」に至る過程に見られるような不自然さ、三沢メモがこの点にだけ作られ、しかもその内容自体や作成過程に不自然な点が少なからず見受けられること等からすれば、その信用性に疑いを抱かざるを得ないのである。
(5) 供述の信用性に疑問を抱かせるその他の事情
土田邸爆弾製造に関する中村(隆)の自白については、以上のほかにも信用性に疑問を抱かせる事情が認められる。
① 中村(隆)の供述によると、製造に参加した者は、増渕、前林、堀、江口、榎下、金本、中村(隆)のほかに、見張りに立った坂本、松本を含めれば、合計九名にのぼるが、これほどの多人数で、しかも四畳半と三畳程度の狭いアパートの一室で、物音が聞こえ易い夜間に行うものであろうか、さらに、爆弾製造の秘密は厳重に保持される必要がある点からも、また、この程度の爆弾製造に要する人員の点からも、このような多人数で行うことは不必要であり、さらには危険ではないであろうか、という疑問がある。
② 中村(隆)の供述によると、製造の日について、当初一二月一六日ごろと供述していたのに、後には一二月五日の日曜日であると変わるのであるが、他の者らの供述(これらの供述調書は供述経過を立証するために採用したものである。)のほとんどが一二月八日ごろとしていることに照らすときは、中村(隆)の供述する製造日が特異なものと思われないではない。
③ 製造状況の供述にしても、証拠物と一致するような部品や製造工程についての供述を得ることに取調の中心が置かれるのは当然であるが、その場合に製造行為をする者らの心理状態を生き生きと伝えるような付随的状況の供述が記載されていてもよいのに、そのような状況の記載はほとんど見られず、淡々として製造を行ったような印象を受けるのであって、この点も、みずから体験した事実を進んで供述したのではないのではなかろうかとの疑問を抱かせるものである。
④ 中村(隆)の供述は、材料、部品を一か所に集めたうえ、一気に爆弾を完成させ、そのうえ包装、宛名書まで、極めて短時間のうちに完成させた内容のものである。しかし、中村(隆)の供述によれば、爆弾の製造日と発送日との間には結局一〇日以上の間があったものであり(他の者らの供述によっても約九日の間がある)、製造時に発送の日が真近に予期されていたようには認められないところ、発送までの間に何らかの事情で発覚することもあり得ないわけではなく、もし発覚した場合には、宛名書があれば、それから言逃れが不可能となる虞れが多大であるから、真の爆弾犯人であるならば、少なくともそのような宛名書まですることの危険をあえて冒すことはしないのではないか、との疑問も抱かされる。
⑤ 製造犯人であるとすれば、指紋等の付着については、爆発しなかった場合などをも考慮して、細心の注意を払うのではないかと思われるが、中村(隆)の供述によると、その点に関心を抱いていたことが窺われないのは、いささか不自然に思われる。
(6) 爆弾模型の製造実演を録画したビデオテープの信用性
取調済のビデオテープ三巻(証二一二号)は、中村(隆)が、昭和四八年五月一九日、警視庁内において、土田邸爆弾の模型の製造を実演した状況を撮影したもの、同ビデオテープ一巻(証二一三号)は、同月二六日同所における同様の状況を撮影したものであるが(一五七回証人杉山熊治の供述・七三冊二八一七一丁参照。なお、当裁判所は、これらのビデオテープを、中村(隆)については刑訴法三二二条一項により、その余の被告人らについては同法三二八条により取り調べたものである。二六一回公判調書・一四四冊四九五四七丁。なお、二七八回公判調書・一五三冊五一八八五丁参照)、これらのビデオテープによれば、中村(隆)が坂本警部補に供述したところと一致する方法で模型製造の実演をしていることが認められ、その際の同人の表情、動作、言葉等からすれば、一見同人は実際そのような方法で土田邸爆弾を製造したのではないかとの印象を受けることは否定し難い。しかし、その画面によると、スーパーセメダインによるマイクロスイッチの接着は、ビデオ撮りの時間の関係もあって、急いだためとも思われるが、接着力が不十分ではずれて落下した場面も撮影され、そのような方法による接着が安全でないことを示すことにもなっている。また、画面によると、作業が手際良く進められているが、中村(隆)は、自白後約一か月の間における供述調書や供述書の作成の過程を通じて、自白の内容を自ら十分思い返し、記憶を確実ならしめていたことが考えられ、さらに、後述のとおり起訴後もほとんど連日坂本警部補が中村(隆)に面接して自白当時の心理状態が変らないように訓話等をしていたという事情もある。前記証人杉山熊治の証言によると、同人は、上司から、このビデオ撮影は中村(隆)の希望によるもので、同人は「御願書」と題する書面を提出して希望した旨聞いているというのであるが、坂本警部補の右のような中村(隆)に対する接触状況から考えると、後に公判廷の自白ないし不利益供述について述べると同様に、中村(隆)がビデオ撮影を希望したという事情があるからといってビデオテープに十分な信用性を置き難いのである。結局、このビデオテープ三巻は、中村(隆)の爆弾製造に関する前記自白以上に出るものではなく、自白の信用性に関する前記疑問点を解消するには足りるものではない。
(7) 結論
以上のとおり、中村(隆)の土田邸爆弾製造に関する自白も、その供述過程及び内容に種々疑問があって、信用性に乏しいものと認めざるを得ないのである。
五、「日石総括」の供述の信用性
(1) 供述の要旨及び変遷
つぎにいわゆる「日石総括」に関する中村(隆)の自白は、既述の日石爆弾搬送及び土田邸爆弾製造と並んで中村(隆)の自白の中心部分を成しているが、供述の要旨と変遷はつぎのとおりである。
① 供述の要旨
昭和四六年一〇月二三日夜八時ごろから九時ごろまでの間、日大二高の職員室で、増渕、堀、江口、榎下、松村及び自分の六名が集まり、日石事件について総括を行い、その失敗の原因を検討し、いわゆる洗濯ばさみ式の構造の手製スイッチに不備があったこと、包装や紐の締め方が緩かったこと、爆発力が弱かったことが反省され、スイッチの改善と爆発力の強化を図ることになった。
② 供述の変遷
48・4・11員面 (日石事件の)四、五日後、スイッチが失敗だったので、改良し、次の闘争を行う、任務分担は従来どおり、ということになった。
48・4・14検面 何日か後、増渕に「マイクロスイッチの取りつけがまずかったのか」と聞くと、「そうかも知れない」と言い、榎下が「二液性の接着剤でないとだめだったかな」と言っており、自分も「蓋が少し開いただけではスイッチが入らないよう、作動線を曲げればよい」と言った。
48・4・14員面 一〇月二三日ごろのこととしてほぼ同旨の供述。
48・4・15員面 手製スイッチの絶縁体がはずれたことが原因であったことになり、中村(隆)が次回はマイクロスイッチを使うことを提案したことになって、日石爆弾のスイッチが手製スイッチであることがこの段階で初めて供述される。
48・4・19検面 増渕は「銅板二枚の間に固定した絶縁体と浮動する絶縁体を入れて両端を糸で弁当箱の底と蓋に連結した物を使った」と言っており、「もっといいスイッチを考えておいてくれ」と頼まれた。一〇月三一日ごろ集まった際マイクロスイッチを提案した。
48・4・22員面 日石爆弾に使用されたスイッチは洗濯ばさみのようなものだったというので、そのようなものではだめだと答えた。
48・4・24検面 同旨
第二回目総括の一〇月三〇日か三一日ごろ、マイクロスイッチを提案した。
48・4・27検面 日石爆弾のスイッチが粗末であることを聞き、これでは失敗するのは当然だと思った。
48・4・28員面 増渕から洗濯ばさみ式のスイッチを図示されたのでこのようなものではだめだと思った。
48・4・29検面 同旨
48・4・30員面 同旨
(2) 供述の信用性
中村(隆)が日石総括として供述したことは、主に日石爆弾の失敗の原因がスイッチであり、その反省の上に立ってつぎの闘争を行うということが中心となっていることである。しかも、日石爆弾のスイッチとしては、当初マイクロスイッチが使用されたことを前提として総括が行われた旨供述していたが、それが途中から手製スイッチに変わり、その改良のためにマイクロスイッチが後に提案されたという供述に大きく変わって行っている。
右の供述の変遷、特に日石爆弾のスイッチについての供述の変遷状況を見ると、中村(隆)が、もし総括の際日石爆弾のスイッチの構造について聞いていたとしたならば、このような供述の変遷は不自然であり、理解し難いものがある。ことに4・19検面によると、中村(隆)が増渕から聞いたというスイッチは手製スイッチとしても日石爆弾のそれとは材料、形態ともかなり大きく異なっているが、当時の中村(隆)の心理は捜査撹乱などを考えるどころか、捜査官と協調して行こうとしていたものであったことは明らかであり、この点からして、このような供述をすることはにわかに理解することができず、それが48・4・22員面では洗濯ばさみ式のものに変わり、その後アルミ板のスイッチになって、ついには構造について実物に極めて近い図示をするまでに至っているのであって、もし最終的な自白が事実であるとすれば、当時の中村(隆)の心理状態からして早期に供述がされていなければならないはずであろう。このことは、日石爆弾についての総括をした旨の中村(隆)の供述に虚偽ではないかとの疑いを挾ませるものであり、また、右のような供述の変遷は、そこに坂本警部補の誘導があったのではないかとの疑いを起こさせるものである(前述の土田邸爆弾製造自白についての誘導の疑い参照)。
なお、48・4・15員面によれば、その日、中村(隆)が坂本警部補に対し「九月中旬日大二高謀議の折にマイクロスイッチの提案をし、日石爆弾にそれが使われたが、その取付けに使った接着剤がよくなかった旨総括したとして、日石爆弾にマイクロスイッチが使用されたと供述していたのは、意識的にやったことであって、土田邸事件で疑われるのを恐れたためであるが、取調官はこのことを知りながら何もいわなかったので、かえって一晩苦しい思いをした」旨供述して同警部補に謝ったことが記載されているのであるが、中村(隆)は、そもそも土田邸事件につき、増渕にマイクロスイッチを教示したことが同事件の幇助に当たるとして当初逮捕されているのであり、日石事件にも使用されたと述べていることは、土田邸事件での使用を否定する趣旨でなく(48・4・12員面((本文五丁のもの))参照)、増渕に教示したマイクロスイッチが両事件に使用されたことを述べていたことは明白である。従って、土田邸事件で疑われることを恐れていたわけがない以上、右のような弁解を中村(隆)が自発的に供述するとは考え難いのであり、結局、坂本警部補が日石爆弾に手製スイッチが使われていることを知って辻褄を合わせようとして考えついた弁解を中村(隆)に認めさせて調書に記載したとの疑いを否定し得ない。
そして、このように日石総括の内容がほとんどスイッチの点に限られているのにスイッチについての総括が虚偽である疑いがあるということになれば、日石総括自体が虚構のものではなかったかとの疑問を抱かざるを得ない。
さらに、その疑問を強化するのは、日石総括の場に中村(隆)が出席していたならば、総括そのもののほか多くの印象的な話題が出て、その中には当然中村(隆)にも忘れ難いものがあったはずであるのに、そのような事項に関する供述がほとんど見られないということである(これは、供述経過を明らかにするために取り調べた他の者らの供述調書中日石総括の供述にも共通することである)。ことに日石事件は、郵便局内で、小包爆弾を差し出した直後にそれが爆発していることでもあり、郵便局員によって犯人の女性二名が局員に顔を見られており、それも当初一人の女性だけが局員の前に姿を見せれば済んだことであったのが、何らかの事情から二人の女性が姿を見せることになったものでもあり、一旦差し出した小包を取り戻そうとするなどの特殊な行動に及んでいることも加わり、二人の女性の顔、姿等の特徴を詳しく記憶されている虞れが高く、しかも証拠物も残るなど、全く失敗に終わった事件であり、その総括をする以上は、その場に集まった者らの予想外の結果になったことについての驚きを伴った発言なり態度などが強く印象に残ったはずであり、また、予想される捜査への対策や(「アリバイ工作をしてあるから大丈夫だ」という程度で安心していられるか疑問である)、各人に対する指示、注意等がなされたはずである。ことに郵便局内で爆弾小包が郵袋に入れられただけで爆発していることから、製造、搬送に当たった者としても誤爆による死傷の危険があったことを知ったはずであるし、あるいは運が悪ければ郵便局で爆発の巻添えを食ったり、一歩誤れば現行犯人として逮捕されていたかも知れないのであって、こうしたことは、日石総括の場でも何らかの形で話題になり、印象深く記憶され、真実体験に基づくものであることが理解されるような具体的な自白となって現われて来るはずだと思われる。ところが、日石総括の自白にはこのような部分がほとんど全く見られないのであって、この点は理解に苦しむところである。さらに日石爆弾の差出状況等は、共犯者であれば当然知りたく思う事柄であろうし、自然に話題になっているはずであって、総括の機会を離れてもその状況等について知る機会があったと思われるのに、そのような供述も見られないのである。このように、大きな失敗に終わった事件の総括についての自白としては、その内容からも、果たして真実の供述であろうかとの疑問を抱かざるを得ないのである。
以上のとおり、「日石総括」に関する供述の信用性も疑問があるものである。
六、日石二高謀議及び土田邸二高謀議の供述の信用性
すでに検討したように、中村(隆)の自白の中心部分を成す、日石爆弾搬送、土田邸爆弾製造、日石総括についての供述の信用性にいずれも疑問のある以上、これらと密接に関連する各謀議についての供述の信用性にも疑問があることにならざるを得ないと思われるが、この点について検討すると、つぎのとおりである。
(1) 供述の要旨
① 日石二高謀議
昭和四六年九月一八日土曜日の夜八時ごろから一〇時ごろまでの間、日大二高の職員室で、増渕、堀、松村、榎下、江口、自分が集まった際、雑談をするように、増渕から地下から爆弾を要人に送り社会不安を作り出し、革命を成功させる必要がある旨の話があり、爆弾による要人テロの実行について協力するよう要請、説得され、任務分担として、増渕は総指揮、堀はその補佐と日大二高グループの連絡、江口は爆弾の製造、榎下は車の調達と運転、松村は謀議場所の提供、自分は起爆装置の技術提供と決められた。増渕は要人テロの時期や相手方は、自分たち、すなわち増渕、堀、江口らで決めると言っていた。自分は、この計画の一員となることを承知した。増渕から金属ケースに爆薬を入れ、ケースの蓋をあけると通電して爆発させる装置について尋ねられ、市販の金属ケース(電気用具のシャーシー)の蓋は四隅をねじで留める構造のものであることを説明すると、それでは使えないということになり、弁当箱を使うことに決まり、またスイッチについては二枚の銅板の間に絶縁体を入れ、電池による回路を作り、底と蓋にそれぞれを固定し、蓋をあけると絶縁体が抜けて通電し、起爆薬の中にたとえば豆電球を割ったものを入れることにより、爆発させる構造について図示しながら説明した。榎下はその際豆電球よりもガスヒーターがよいと話していた。増渕は小包郵便で郵送するとまでは言わなかったが、小包の送り方や、これに貼る切手の料金のことを聞いていたので、小包爆弾の方法によることがわかった。最後に「今日のことは親、兄弟にも話すな」と口止めした。なお、その後右任務分担の趣旨に従い、翌一九日給田の増渕のアパートで、増渕に配線図を描くなどしてさらに詳しく説明したほか、同月二二、三日ごろ、銅板(五ないし六センチ角ぐらいで厚さ〇・一ミリぐらいのもの)一枚を渡し、さらにその後同月二七、八日ごろアルミ板(長さ二五センチぐらい、幅四センチぐらい、厚さ一ミリぐらい)一枚を同人に渡したことがあり、一〇月初めごろ榎下から手製スイッチの製法を聞かれたのでこれを教示した。しかし、教示したものは、日石総括の際増渕から教えられた、本件証拠物と合致するいわゆる洗濯ばさみ式の手製スイッチとは構造が異なるものであった。
② 土田邸二高謀議の供述要旨
日石総括のあと、一〇月三一日ごろの夜八時から一〇時ごろまでの間、増渕、堀、松村、榎下、江口、自分が日大二高に集まり、昭和四五年一二月一八日に志村警察署上赤塚派出所で警察官がピストルを発射して一名が死亡した事件について、これを警察官の正当防衛だとした土田国保警視庁警務部長に対する批判がされ、増渕が同人をテロの目標として挙げ、その旨決定され、任務分担として、ほぼ前と同様に決められ、自分はマイクロスイッチの研究と配線関係を行うことになった。
(2) 供述の信用性
① 日石二高謀議の供述
日大二高で爆弾闘争の相談があったとの供述が最初に出たのは、昭和四八年四月三日の段階で榎下からである(但し、増渕からの一方的な依頼にとどまるものとして供述されている)。この供述は、同年三月二七日からの石崎警部の取調の中で得られたものであるが、これをもとに松村が取調を受け、松村は四月五日の段階で増渕ら主犯とされている四名に対する日大二高の放送室貸与は認めたが、爆弾闘争についての相談は否定していたところ、四月七日になってこれも認めるに至り、その日を宿直日誌等に基づいて九月一八日と特定したものの、相談を受けたが断ったと供述した。それに先立ち中村(隆)は、野崎、辻両巡査部長の取調に対し、四月五日、「八月か九月上旬ごろの夜増渕らとソフトボールをやり、そのあとビールを飲みながら革命についての話を聞いた際、増渕から金属ケースを作ってくれないかといわれたけれども、秋葉原へ行けば買えると話して断ったが、今考えると、爆弾に使うつもりであったことが想像されるのであり、ただ、自分がその時話したことがヒントになって弁当箱が使われたかも知れない」旨の供述をした。中村(隆)は、その後四月八日になって、日大二高で増渕から政府要人に対し小包爆弾を送るので協力してほしいと頼まれ、金属ケースの製作の依頼を受けたほか、蓋をあければ爆発する装置についても聞かれ、マイクロスイッチを使えば簡単である旨教え、その購入方をも頼まれたが、いずれも断ったとの趣旨の供述をした。その結果中村(隆)は土田邸事件幇助により翌九日逮捕され、さらに翌一〇日、金属ケース、マイクロスイッチを提案したことを認めたが、自分が提案したとおりの物が日石、土田邸両事件に使われたとは断言できないので、自分には関係ないことである旨被疑事実を否認し、翌一一日の市川検事の取調に対しては右四月八日の供述内容とほぼ同旨の供述を、より詳細にしたが、これまでの段階では、あくまでも金属ケースやスイッチについて助言したにとどまるものとして供述をしていたところ、一一日の夜坂本警部補の取調を受けて、日石搬送を認めるとともに、右の日大二高における出来事を、任務分担の割当を伴う謀議として供述するに至った。それに先立ち、榎下は四月八日、松村は四月九日に謀議として認め、他方増渕も四月八日にオルグとして、四月一三日に謀議として認めた。
右のような供述経過から明らかなとおり、日大二高でのオルグないし謀議の供述の発端は榎下であるが、当初はオルグとして述べていたところ、その後四月八日になって、まず榎下が、他の種々の重要な自白をするとともに、日大二高謀議として任務分担を承認する形で認めるに至ったものである(なお、以上の供述のうち中村(隆)を除くその他の者らの供述調書は、いずれも供述の経過を明らかにする趣旨で取り調べたものである)。
ところで、これらの供述が得られた取調状況については、各調書決定で詳述したところであって再言しないけれども、榎下は三月一九日から、松村は三月三〇日から、逮捕、勾留されて取り調べられており、わずかに中村(隆)のみは四月八日までは在宅で取り調べられていたものの、三月一五日からほとんど連日任意出頭を続けていたものである。そして、これらの三名はいずれも連日相当長時間の取調を受け、ことに増渕、堀らを日石土田邸事件の犯人と前提した上で、同人らから事件につき何か聞いたり、知らないうちに手伝わされたり、口止めなどされたりしているはずであるとの見地から執拗な取調を受けていたのであって、関係者の中から日石土田邸事件に関連する事実が述べられるや、直ちに他の者に対してもその事実の有無につき追及するという形で取調が続けられていた状況にあったことが認められる。
そして、その結果、アリバイ工作としての日石リレー搬送の自白、さらに日石総括の自白を経て土田邸爆弾製造の自白へと発展して行った(なお、榎下らの日石爆弾製造供述にも発展して行った)ものであるが、その中で中村(隆)の自白のみについていえば、すでに明らかにしたとおり、一見した限り信用性があるかのように見える中村(隆)の自白にも種々の疑問があって信用性に疑いのあるものであることが判明するに至っているのである。
以上のような事情からすると、日石二高謀議に先立つ二高での増渕からの協力依頼の供述が比較的早期に出ているからといって、これを含む日石二高謀議の供述全体について信用性が高いものであるとは認め難いものである。
② 土田邸二高謀議の供述
日大二高における土田邸事件の謀議についての供述を見ると、まずその時期につき、中村(隆)は昭和四六年一〇月三〇日か三一日又は一一月上旬と述べるのに対し、増渕及び榎下は一一月下旬、松村は一一月一三日と述べており、共犯者間における供述の齟齬が大きいが、製造年月日が一二月八日ごろ(中村(隆)によれば五日ごろ)とすることとの関係で、少なくとも中村(隆)の供述は間隔があり過ぎる点に疑問がある。しかも、一〇月二四日には二高近くの四面道交番の爆破事件があり、そのころから当分の間日大二高正門前付近にある天沼派出所の警戒も厳重になり、正門付近の植込みに警察官が隠れて同派出所近辺の見張りをしていた事実もあったことが認められること(刑事六部一六六回証人松村弘一の供述・証一二八冊三二一九九丁以下参照)に照らしても、このころに日大二高で増渕ら指名手配中の者をも含む謀議を行うことが心理的に可能であったかという問題がある。
また、中村(隆)の土田邸二高謀議の供述には、秘密の暴露に当たる事実やそれに類する特異な事実の供述は含まれず、さらに、この段階で土田国保氏を爆弾郵送の対象とすることを明らかにすることも、尚早の印象を免れない。
中村(隆)の供述によると、同人はスイッチ及び配線関係を担当するということが任務として決められたというのであるが、製造当日に至るまでの同人の行動についての供述を見ると、マイクロスイッチを購入してこれを増渕アパートに届けたというだけであって、それ以上にさらに材料の準備をするとか、打合せをするといった行動についての供述はなく、このような行動もないままいきなり一二月五日の製造の供述になっている点は、余りに間延びしている印象を免れない。
中村(隆)の土田邸二高謀議の供述には、右のような疑問ないし不自然な点があり、信用性に疑問があるといわざるを得ないのである。
七、公判供述の信用性
(1) 供述をした公判の一覧
中村(隆)は、併合前の中村(隆)に対する当庁刑事第二〇部の公判において被告人として、坂本に対する同刑事第三部の公判において証人として、また、併合前の増渕及び前林に対する当部公判において証人として、さらに併合後の当部公判において被告人としてそれぞれ供述しているが、これを供述した時期の順に一覧表にして示すと、つぎのとおりである。
供述をした公判
公判の年月日
第二〇部第 一回
昭和四八年 七月 七日
同 第 二回
同年 八月 三日
同 第 三回
同年 九月二六日
第三部 第 三回
同年一一月一九日
第二〇部第 五回
同月二二日
第九部 第 六回
昭和四九年 三月 七日
同 第 七回
同年 三月 八日
同 第 八回
同月一四日
第二〇部第 一一回
同年 五月 七日
同 第 一三回
同年 七月二二日
同 第 一四回
同月二四日
同 第 一五回
同年一一月二六日
第九部 第 三五回
昭和五〇年 四月一五日
同 第 三六回
同月一六日
同 第 三七回
同年 五月 六日
同 第 三八回
同年 六月 三日
同 第 五三回
同年一二月 九日
同 第二四〇回
昭和五六年 九月一七日
同 第二四三回
同年一〇月二七日
同 第二四四回
同年一一月 四日
同 第二四五回
同月 五日
なお、中村(隆)は起訴後昭和四九年三月四日東京拘置所に移監されるまで、警視庁三田警察署に留置され、昭和五二年四月二五日保釈により釈放された。勾留中の接見禁止は、昭和四八年五月一〇日父母についてのみ解除、同年一〇月八日弟博幸についても解除、昭和四九年七月一九日全面解除となっている。
(2) 供述の要旨
右の各公判における供述の内容には変遷があるが、その要旨を示すと、つぎのとおりである(検察官の主張に沿う内容のものを主として示す)。
(イ) 刑事第二〇部第一回ないし第三回及び第五回各公判における供述
中村(隆)は刑事第二〇部第一回公判において、被告事件に対する陳述として、つぎの旨を供述している(中村(隆)一回・一冊二五丁)。
「一、昭和四八年四月三〇日付起訴状記載の土田邸の事件に関する事実は、そのとおり間違いない。二、同年五月五日付起訴状記載の日石郵便局事件の事実に関しては、爆発物を郵便局に運搬したことは否認する。また、喫茶店『サン』には増渕や榎下らと何度か行っていたので、昭和四六年一〇月一五日ごろの夜も同店に行ったかも知れないが、よくわからない。とくに坂本が一緒にいたかどうかは覚えていない。同店で爆発物の謀議をしたことはない。そのほかの点はいずれもそのとおり間違いない。」(なお、以上の陳述は、起訴状の公訴事実のほか、検察官が同公判で釈明した事実関係をも前提としている。)
中村(隆)は、刑事第二〇部第二回及び第三回各公判において、検察官、弁護人、裁判長の問に応じて図面、写真、証拠物について説明している(中村(隆)二回及び三回・一冊四〇丁及び八一丁)。
中村(隆)は、刑事第二〇部第五回公判において、「起訴状とか冒頭陳述書では各謀議とか集会の日がはっきりと特定されているが、私の記憶ではそれを特定する材料がない。事件の起きた日は間違いないが、それ以外はその日の前後であろうと思う」旨供述している(中村(隆)二冊三八〇丁)。
(ロ) 刑事第三部第三回公判における証言
中村(隆)の刑事第三部第三回公判における証言(証一〇七冊二六四二四丁以下)の要旨は、つぎのとおりである。
① 昭和四六年九月ごろ日大二高に増渕らと集まった時に増渕から爆弾による要人テロをやるということは聞いた。
② 日石事件の爆弾の作り方の中で起爆装置のスイッチの作り方について増渕や榎下に教えたことがある。
③ 日石事件の後、一週間ぐらいして(何日ごろであったか、はっきりした記憶はないが)、夜日大二高に増渕、堀、榎下、自分、松村が集まったことがある。(その時も含めて)日石事件後日大二高には大体三回集まっている。その時、日石事件は郵便局で爆発してしまって失敗であったが、いろいろ改良してもう一回やるという話があった。自分は金属ケースが作れないか、良いスイッチはないか、ということを尋ねられた。
④ 昭和四六年の時期ははっきりしないが、日石事件よりも前に喫茶店「サン」に集まった時に、自分は、増渕から運転免許を持っているのかと尋ねられたことがある。
⑤ 増渕らの話というのは、要人テロである爆弾闘争の話とか、革命に関する話であった。
(ハ) 当部第六回ないし第八回公判における証言
中村(隆)の当部第六回ないし第八回公判における証言の要旨は、つぎのとおりである(増渕・前林・二冊三九三丁以下及び三冊)。
① 昭和四六年の夏ごろ、松村が宿直をしている時に日大二高に行き、増渕、堀と会い、日が暮れてから、職員室でビールを飲みながら話をした。話題はとりとめのないものであったと思うが、当時自分が読んでいた週刊誌のプレイボーイに出ていた赤軍のヴィップテロの記事の話をして、それが話題になった。もっとも、自分がこの記事の話をしたのは、その時でなかったかも知れない。
② 昭和四六年の夏ごろか、もう少しあとであったかはっきりしないが、日大二高で増渕から金属ケースを作ってくれないかと頼まれたことがある。そのケースは無線機に使うということであった。自分は、作るよりも、秋葉原に行ってシャーシーを買った方が安上りじゃないかと言った。また、それに蓋がつけられるかとか、スイッチのいいのはないか等についても聞かれたので説明した。
③ 昭和四七年のことのようにも、また昭和四六年九月ごろのようにも思うが(いずれにしても蟹を食べた日である)、増渕のアパートで、増渕から蓋をあけたらという表現を使ったかどうかはっきりしないが、トリックによって爆発させるにはどういう構造があるかを尋ねられたことがある。自分はトリックの部分のスイッチ、配線を図に書いて説明した。着火装置のヒーターについても、豆電球のガラスを割ってフィラメントを使ったらいいんじゃないかと説明したら、榎下であったと思うが、ガスヒーターが使えるのではないかと言った。そこでは雷汞とか硝化綿の話は出なかった。
④ 昭和四六年の夏の初めごろではなかったかと思うが、自分の家で榎下に銅板を一枚渡したことがある。榎下が何のためにもらいに来たのかを、自分は知っていたかも知れないが、今ははっきりわからない。それから一週間以上はあったと思うが、榎下にアルミ板を渡したことがある。何のために使うのかは聞いていない。
⑤ 右の銅板とアルミ板を榎下に渡した後に、榎下の勤め先の白山自動車に行った時、簡単なスイッチの作り方はないかということを聞かれた。当時それが何のスイッチか見当がつかなった。自分は、榎下に、短冊形に切った二枚の金属片の間に絶縁体を挾む構造のスイッチを説明した。
⑥ 昭和四六年一〇月一八日の日石事件後日大二高で松村の宿直の夜、増渕、堀、榎下と会ったことがある。女性はいなかったと思う。その時日石事件のことが話題になった記憶はない。
⑦ その後一〇月の末か一一月に入って、日大二高で増渕や堀と一緒になったかどうかの記憶は、ちょっとはっきりしない。
⑧ 自分は、増渕にマイクロスイッチの話をしたことがある。それは、自分が増渕から金属ケースについて聞かれた時(参照)、付随してスイッチについても聞かれたのに対し、シーメンスキースイッチとかロータリースイッチがあると説明したが、増渕がもう少し簡単なものはないかと言ったので、マイクロスイッチというものがあると説明したのではないかと思う。
⑨ その後同年一一月一六日に新宿のバー「コックテール」で会った時、榎下からマイクロスイッチについて尋ねられた。自分は榎下にマイクロスイッチは作動する部分がどの位置についているかによって種類が決まるという点などを説明した。そして榎下からマイクロスイッチの購入を頼まれた。そこで自分は、秋葉原の電気街に行き、ある店(その後捜査の際警察官を案内した店)でマイクロスイッチ二つを買い、榎下と一緒に増渕のアパートに行き、マイクロスイッチ二つを増渕に届けたことがある。どうして増渕に届けたのか、はっきりわからない。届けたのは同年一一月下旬ではなかったと思う。その時前林もいたと思う。自分は増渕にそのマイクロスイッチの使い方について説明したと思う。
⑩ その後、爆発物であったとは言い切れないが、同年一二月上旬ではないかと思うが、増渕のアパートでマイクロスイッチを使って配線をしたことがある。一緒にいたのは増渕、自分、榎下、堀、前林、ほかに何人かいたような気がするが、誰であったか、ちょっとわからない。
⑪ 前述のバー「コックテール」で榎下と会った前後に自分の家にあったラジコン用のマイクロスイッチを榎下に見せたことがある。それを榎下に渡し、その後返してもらったということがあるかも知れないが、はっきりしない。
⑫ 前述の増渕のアパートで増渕にマイクロスイッチの使い方を説明した時は、端子のつなぎ方などを紙に書いて説明したと思う。
⑬ (増渕のアパートでマイクロスイッチを使って配線をした時の話を続けると)榎下からあらかじめ連絡を受けており、自分は午後六時ごろ白山自動車に行き、榎下の車で増渕のアパートに行った。坂本と一緒に行ったかどうか、はっきりした記憶はない。そこには堀、前林がいた。金本がいたのかどうか、はっきり答えられない。江口が果たしてそこにいたか、ちょっと疑問で、はっきり答えられない。松本がいたかどうかもはっきりわからない。自分は、増渕のアパートの奥の部屋の炬燵の上でマイクロスイッチを木箱のようなものに取りつけた。配線に黄色のビニール線を使った印象が強い。材料としてマイクロスイッチのほかに、積層乾電池で、色はグリーンと黄色であったという記憶である(赤と白のナショナル製であったという気はしない)。さらに、黄色のビニール線、豆電球と豆ソケット、ラジオペンチ、ビニールテープ(黒色ではなかったかと思う。)があり、薬品類ははっきりしないが、ビニール袋か黄色の紙袋のものがあったように思う。木箱は長さ二五〇(ミリ)の一五〇ぐらい、深さ七〇から八〇ぐらいで、カステラの箱のような箱であった。
⑭ 自分はマイクロスイッチの端子の選定から作業を始めたが、作動線が上がっている時にオン(通電)になるよう選定した。そして、バッテリースナップと豆ソケットの脚線を用いて配線をした。今までの調書によると、マイクロスイッチの端子を選定した時、選定した端子に豆ラッカーでしるしをつけたと述べたが、今から考えると、非常に不自然だと思う。自分の裁判の際に(証拠物の端子を)見ると、赤のマジックみたいなしるしがついている。自分が配線をする場合、なぜしるしをつけなければいけないのか、非常に疑問である。自分がやる場合、そんなに間違えることはない。実物にしるしがついているので、つけたんじゃないかという気がするが、今になってみるとはっきりしない。
⑮ それから、ラジオペンチでビニール線を四本ぐらい切って配線した。マイクロスイッチの作動線をクランク形に曲げたと(調書上は)なっているが、それはあくまであとの状況から判断して多分曲げたであろうとしかいいようがない。最後の結線のために箱の蓋に穴をあけておかねばならないが、あけてあったのか、自分があけたのか、はっきり思い出せない。その穴からビニール線の端を出すことは、必然的にそれをしたと思う。
⑯ つぎにマイクロスイッチを木箱の内側の上端につけた。つけたのは自分だと思う。つけた材料は、自分の記憶ではスーパーセメダインである。スーパーセメダインには一液性と二液性とがある。(その時使用したのはどちらの方かの問に対し)「今から考えてみれば、自分からちょっと疑問なんですけれども、二液性のやつですね。固まる時間が非常にかかるわけなんです。ですからマイクロスイッチをつけてそれから作業時間内に果たして固まっているかという疑問が残るんですよ。それに対して私は結局ビニールテープで固定したと言っているんですけれども、でき上るものは性質上果たしてそういうもので安心していられるかなと、ちょっと最近疑問に思っているんですけれども。自分の記憶ではスーパーセメダイン二液性のものを使ったと記憶しています」(調書原文のまま)。一液性のものではないと思う。接着能力から考えたらどうしても二液性を選ばざるを得ない。二液のねり合せは榎下に頼んだという気がする。上からビニールテープで固定したと記憶しているが、果たしてそれで確実なものかどうか疑問である。
⑰ その他の状況として、自分の作業が終わったあと、前林が中腰になって炬燵の上で何かを書いていた情景が浮かぶ。爆弾の宛先を書いたのだろうと(従来調書上)なって来たわけであるが、自分の記憶だけではそういうふうに言い切れない。
⑱ 自分の作業は四五分から一時間ぐらいかかったのではないかと思う。自分が作業している間他の人が何をしていたか、わからない。その後に他の人がどんな作業をしたのかもわからない。弁当箱に何かを詰めている情景は思い浮かばない。増渕がアルミホイル(幅三〇センチぐらい)を約四〇センチぐらい引き出して破いているような情景を憶えているが、それをどういうように使ったかはわからない。弁当箱があったことは否定できないが、「あったかも知れないし、なかったかも知れないしということで記憶がないんです」(調書原文のまま)。自分が配線する過程でヒーターが弁当箱の真中に来るように長さを調節するように言われたかも知れないが、はっきりしない。木箱の真中には爆薬が入るというふうに聞いていたかも知れない。爆薬を入れたケースがあったという記憶はないとしかいいようがない。誰が木箱に蓋をしたのかもちょっとわからない。最後の結線を自分がしたのか、ちょっと記憶がない。榎下が箱を持ち上げて増渕が結線をしたという記憶はない。(調書では)そういうふうになっているが、それは半分推測みたいなのがあったということである。
⑲ その時に、茶色の包装紙を見たような記憶はある。見たのは隣の台所のほうであった。荷札、紐、墨汁、筆を見たかどうか、わからない。包装は、今から言うと、無責任かも知れないが、前林と金本の二人がやったのではないかと思っている。包装の済んだもの、あるいは紐をかけているところを見たかどうか、わからない。
⑳ 当日坂本と松本も来ていて外で見張をしていたということを捜査官に述べたが、今から考えるとあまりはっきりとした記憶がないので、来ていたともいなかったともいえない。
弁当箱に薬品を詰める作業をしていたのは江口良子であるという供述も、捜査官にしたかも知れないが、現在はちょっと記憶がない。
帰りに、榎下が自分を送って行ったのか、坂本に乗せて行ってもらったのか、はっきりしない。
土田邸事件後(昭和四六年一二月二二日より前)堀と榎下と一緒に新宿のステーションビルに買物に行った時、国電の中で、自分が堀に「土田邸事件は中核派の犯行ではないか」旨尋ねると、普段はそういう質問に対してはっきり答えてくれる堀がそっぽを向いて何も言ってくれなかった。また、榎下も黙って下を向いて何も言ってくれなかった。ちょっとその雰囲気に非常におかしなものを感じたので、じゃあ、この間自分が作業したものがもしかしたら使われたんじゃないかなあというイメージを持った。
(ニ) 刑事第二〇部第一一回公判における供述
中村(隆)の刑事第二〇部第一一回公判における供述(中村(隆)六冊一三三〇丁以下)の要旨は、つぎのとおりである。
① 昭和四六年の夏の盛りごろ日大二高で、村松の宿直か日直の時、榎下とともに増渕、堀と会った。暗くなってから職員室で話をした。その時、増渕から金属の箱を作ってもらえないかとの話が出たが、その箱はトランシーバー(無線機)に使いたいということであった。自分は秋葉原に行けば売っていると言った。その時、無線機の受信送信を切り替えるスイッチの話が出た。榎下は、増渕から車の調達を頼まれていた。金属箱について大きさとか蓋ができるかどうか等について話をした。
② その席で、要人に爆弾を送る話が出たかどうか、はっきり記憶がない。今の記憶ではその話はなかったと思う。爆弾とかテロとかを話題にしたかどうかはっきり覚えていない。増渕から爆弾を小包にして送るという話はなかった。小包の大きさとか切手とか、小包の出し方について聞かれた記憶がある。自分はそういうものは知らないので何も言わなかったと思う。自分は、当時ある友人に何かを送る用があったので、あるいは自分の方から小包の出し方について皆に質問したのであったかも知れない。革命の進め方などについての話などはなかった。
③ 自分が増渕のアパートに初めて行った時が以前から述べているように昭和四六年であるか、あるいは昭和四七年のことであったかは、はっきり特定はできないが、今の記憶では昭和四七年である。その初めて行った時に、増渕から、トリック爆弾の装置を聞かれてスイッチを含む電気系統の簡単な配線図を書いて説明したことはある。
④ 増渕のアパートに初めて行った時には、榎下の車で行った。その席で当時爆弾が頻繁に使われており、日石土田邸事件の爆弾も含めて、そういう爆弾が簡単にできるのかという話題が出て、自分は図面を書いて説明した。その時スイッチについて金属板を合わせて接触させるか、させないかという程度の説明はしたと思う。電池、ヒーターについても説明をした。自分の説明ではスイッチの部分がトリックになる。つまり、蓋をあけるとか包紙をほどくとかの二次的動作によってスイッチが入ればいいわけで、その部分がトリックになる。しかし、その席ではトリックの内容までは具体的に話題にならなかった。
⑤ 前述①の日大二高で金属ケースの話が出たあとのような気がするが(九月下旬という特定はできないが、夏の初めではないことは確かである)、榎下に頼まれて自分の所にあった銅板一枚(三〇ミリ×五〇ミリ×((厚み))コンマ二か三)を渡した。何に使うのか、榎下はいわなかったし、自分も聞かなかった。そのあと(九月の末から一〇月初めという特定はできないが)夏の終りごろになるんじゃないかと思うが、榎下から堀が使うらしいからアルミ板をくれないかと頼まれて三〇ミリ×三〇〇ミリ×(厚み)一ミリのアルミ板一枚を渡した。
⑥ また、榎下から簡単なスイッチの作り方について尋ねられたことがある。その時が昭和四六年一〇月ごろという特定はでき兼ねるし、右に述べた銅板とアルミ板を渡したこととの関連性も記憶にない。榎下の勤め先の白山自動車に寄った時に尋ねられ、二枚の金属板を重ねてその間に何か絶縁体を入れてというような感じで説明したと思う。
⑦ 白山自動車と荻窪駅の中間にあるサンという喫茶店には何回か行っている。昭和四六年一〇月中旬ごろ増渕、堀、榎下、自分がサンに集まった時、坂本は来ていなかったと思うが、増渕から運転免許を持っているかと尋ねられたことがある。まだ持っていないと返事をしたと思う。その時、自分や榎下が増渕から新橋まで自動車を運転してもらいたいという趣旨の話が出た記憶はない。
⑧ 日石事件後に増渕、堀、榎下らと日大二高で会い、マイクロスイッチの話をしたという記憶はない。前述①の日大二高で金属ケースの話をした際に、自分はスイッチの一つの原形としてマイクロスイッチという言葉を使ってそういうスイッチが存在するということだけ説明したことはある。
⑨ マイクロスイッチを買って来てくれということを榎下から頼まれたことがある。その時期は、警視庁で示された資料によると、一一月下旬じゃないかという気がする。そのころ榎下と新宿のバー「コクテール」に行った時に自動車のワイパーに使われているスイッチが話題になり、それにマイクロスイッチが使われている話をしたが、その時か、あるいはその後自分の持っていたマイクロスイッチを榎下に見せたことがあるが、その時であったか区別できないが、榎下からマイクロスイッチを買って来てくれと頼まれた。何に使うのか、理由は述べなかったと思う。そこで自分は秋葉原に行って買ったが、買った個数は一個もしくは二個で、一個だったという記憶が強い。作動線(レバー)が大きくて、上についているものを買ったという記憶である。買って来たものを、榎下と一緒に増渕の所に届けたような記憶がある。それは、警視庁で示された資料からすると一一月下旬ごろという形になる。増渕に届けた理由は自分で説明がつき兼ねる。榎下に言われたということである。自分は増渕にそのマイクロスイッチについて端子の選定の仕方を説明したと思う。
⑩ その後、そのマイクロスイッチを使って配線、電気関係のセットをしたという記憶がある。マイクロスイッチを渡してからどのくらいあとか、その期間はちょっとはっきりわからない。まあ、あとのような気もするが、セットをした場所は増渕のアパートで、夜だったと思う。榎下と一緒に午後六時か七時ごろ行った。増渕、前林、堀がいた。他に何人かいたのか、はっきりした記憶はない。
⑪ セットをしたのは自分が秋葉原で買ったマイクロスイッチではないかと思う。違うものという意識はない。マイクロスイッチを取りつけたのは木箱であったという気もする。一緒にセットしたものは、マイクロスイッチのほかに、豆ソケット、乾電池などである。セットの前にマイクロスイッチの端子の選定をしたと思う。電池は積層乾電池〇〇六Pの九ボルト一個である。そのメーカーについては記憶はなく、外装が緑と黄色であったような記憶である。そのほか、豆電球、バッテリースナップ、ビニールコードがあった。自分が使った物は、以上の程度である。絶縁線の色は黄色であったと思う。黒いビニールテープ(幅一五ミリから二〇ミリぐらい)もあった。接着剤のスーパーセメダイン二液性があった。道具としてラジオペンチ、ボンナイフ、切出しがあった。従来弁当箱があったと供述していたが、(現在は)弁当箱が用意されていたという記憶はない。木箱は長さ二五〇ミリ、幅一五〇ミリ、深さ八〇ミリぐらいのものであったと記憶している。カステラの箱のようであった。そのほか薬品類と限定できるかどうかわからないが、何かビニール袋に入ったものがあった。袋に背の高さ一五〇ミリぐらいの程度で、中に入っているのは粉末のように見えたが、実際どうなのかわからない。色は従来白っぽいと表現していたが、現在ははっきり認識はない。増渕がアルミホイルを引き出しているという記憶がある。茶色の紙を見た記憶はあるが、それが包装紙かどうかはわからない。それは台所の方にあったという記憶である。
⑫ 部屋に炬燵みたいなものがあったように思うが、それを使ったかどうかはわからないが、台の上で作業をしたという記憶である。自分は一番最初にマイクロスイッチの端子の選定をしてコードをつなぐ作業をして、マイクロスイッチを、作動線が上に上っている時にオンになるように、箱の(内部の)側面の上端に、蓋をする作動線を下へ下げることになるように取りつけた。曲げた形は常識的に考えてクランク形になると思う。この前法廷で証拠物の作動線を見せられたが、形はクランク形になっていなかった。自分の作業の時作動線を曲げるについてはペンチを使っただろうと思う。
⑬ 従来マイクロスイッチの端子の選定について、マッチの棒を使って赤の豆ラッカーで端子にしるしをつけたと供述しているが、実際そのようにしるしをつけたのか、別のものにつけているのと勘違いしているのか、わからない。自分の家の作業でインデックスという工具があるが、それにしるしをつけるときにほとんど赤いラッカーでつけるので、そういう作業と少し混同しているのではないかという懸念もある。証拠物の端子(に赤いしるしのついているの)を見たが、自分がつけた記憶があるのはその位置でなく、端子のもっとはじっこのほうである。
⑭ マイクロスイッチを取りつける時は、二液性スーパーセメダインを使った。釘を使った記憶はない。二液を混ぜ合わせるのは榎下がやったように思う。黒のビニールテープは接続部分を絶縁するのに使ったほか、スーパーセメダインが乾くのに時間がかかるので、マイクロスイッチを固定するために使ったような記憶もある。豆ソケットは大体箱の真中に来るようにした。そこには何が来るのか、ちょっと見当がつき兼ねるが、前後考え合わせると爆薬が来るのではないかという推測になる。そういう前提で自分が作業をしたのかどうか、そこのところはちょっとわからない。そのほか、箱の底に穴をあけたような記憶もある。あけるとしたら、自分がしたのではないかと思う。底のはじっこの方にあけたという気がする。それは工作上一番最後に蓋をして結線をするためである。穴は二センチから三センチぐらいの大きさで、切出しであけたように思う。そして、その穴から絶縁線を外に出しておくという形の作業をしたと思う。その絶縁線の接続はよじってするものであり、穴から出した線の先端にはビニールテープを巻いて絶縁したと思う。(自分の作業の最後に)豆ソケットに豆電球をつけたままテストをしたという記憶がある。
⑮ 自分は、その場でガスヒーター、雷管、あるいは筒状の物は見ておらず、自分の作業後に増渕が豆ソケットに筒状の物をねじ込んだのを見たという記憶はない。自分が作業している間にほかの人たちが何をしていたかの記憶はない。「弁当箱に薬品を詰める作業を見たという記憶はあるか」旨の問に「そういう記憶、ちょっとわかりませんね」(調書原文のまま)。その場に江口良子がいたという記憶はない。前林以外には女性はいなかったと思う。自分の作業後、前林が中腰で、自分が作業をした台の上で何かを書いている動作の記憶はあるが、具体的に何をやっていたかはいえない。
⑯ 自分がセットをしたものが何に使われるかは、自分はわかっていたんじゃないかと思う。自分が初めて増渕のアパートに行ったのが昭和四七年の四月か五月ごろだったという話と矛盾して来るが、爆弾の配線図を説明し、そういうものを作っているということから、「それが爆弾じゃなかったんじゃないかという、知っていたんじゃないかというふうに思うんです」(調書原文のまま)。
⑰ セットをした時期は。警視庁で見せられたバーコクテールに行った日に関する資料からすると昭和四六年の一一月から一二月にかけてのことになるが、その資料の「範囲外になって来る可能性も出て来る」(調書原文のまま)。
⑱ 場所と時間を問わず、増渕、堀、自分らの間で土田某に爆弾を送るということを話題にしたことはない。
⑲ 昭和四六年の一二月二〇日か二一日ごろ堀、榎下と新宿へ買物に行った時、途中、自分が土田邸事件について何でああいうことをやるのか、やる意味があるのかと尋ねたが、彼らは何も答えてくれなかったという印象がある。
(ホ) 刑事第二〇部第一三ないし第一五回各公判における供述
刑事第二〇部における中村(隆)に対する被告人質問は、右第一一回公判より後にも続行することが予定されていたが、第一二回公判において中村(隆)の供述態度が変わり、同公判の被告人質問は延期され、第一三回ないし第一五回公判に続行されたが、その供述内容は、第一一回公判におけるそれとは全く異なっており、ほぼつぎの(ヘ)記載の内容になっている。
(ヘ) 当部第三五回ないし第三八回各公判における供述
中村(隆)の当部第三五回ないし第三八回各公判における供述(一六冊五九〇九丁以下及び六〇三七丁以下・一七冊六二一九丁以下及び六三七三丁以下)の要旨は、つぎのとおりである。
① 昭和四六年夏日大二高で増渕に会ったことはあるが、爆弾闘争の話をしたことはない。
② 増渕から、金属ケースを作れるかとの話をされたことがあるが、それは車でドライブする際に使うトランシーバーのケースが、作れるかという話だったと思う。その話に付随してスイッチの話になったが、マイクロスイッチの説明はしていない。
③ 昭和四六年夏に会った後、秋に増渕らと日大二高で会ったことはない。
④ 蓋をあけると爆発する配線図を書いて増渕に説明したことはあるが、日石土田邸事件後のことである。
⑤ 昭和四六年夏の終りごろ、榎下に銅板を渡したことがあり、また秋ごろアルミ板を渡したことがある。榎下にスイッチの作り方を教えたことはあるが、用途が何であったかわからない。
⑥ コクテールで榎下にマイクロスイッチの話をしたことがあるが、時期は特定できず、その内容も車のワイパーに使われているのではないかというものであった。榎下からマイクロスイッチの購入を頼まれたことはない。
⑦ 秋葉原にマイクロスイッチを探しに行ったことはあるが、工場の旋盤についていたものが壊れたので買いに行ったものである。
⑧ 増渕のアパートにマイクロスイッチを持って行ったことも、同所で配線作業をしたこともない。
(ト) 当部第二四〇回公判以降の供述
当部第二四〇回公判以降の供述は、第三五回ないし第三八回公判におけるものとほぼ同旨である。要するに、全面否認であり、以前の供述について類似した体験を取り違えてあたかも事件に関係するもののように思い込んで供述した旨述べている。
(3) 検討
中村(隆)の公判供述は、右のように変遷を示し(但し、否認に転じた後の供述の摘記は骨子だけにとどめてある)、捜査段階におけるほとんど全面的な自白と対比すれば、徐々に、かつ最も核心となる部分を中心にして後退して行ったものであり、中村(隆)がこのような供述の変更の理由として述べるところ自体は必ずしも全部的に納得し得るものではなく、要するに、このような供述の変化自体は、中村(隆)の自己防衛の気持がさせたものと見ることもできないことではない。そして、中村(隆)は、これらの公判供述の当時自己の弁護人の弁護を受け、十分に打合せの機会を持っていたのであって、この点からすれば、公判当初に明瞭に否認した日石爆弾搬送及びそれに先立つサン謀議を除いて、これと対照的に当初明白に起訴事実を認めた土田邸事件に関する自白その他の不利益事実の供述は、それ自体を見る限り、次第に後退を示したとはいえ、基本的に十分信用し得るものとも見えるのである。
しかし、これらの自白ないし不利益事実の供述に果たして高い信用性を認めてよいかと考えると、つぎのような理由から、捜査段階における自白と同様に、やはり躊躇を覚えるのである。
すなわち、第一に、公判廷の自白ないし不利益供述では、日石二高謀議、日石二高総括、土田邸二高謀議に関する供述は曖昧なものとなっており、土田邸爆弾製造に関する供述が中心をなしているが、この供述においても、捜査段階における自白について述べたような重要な疑問のある、マイクロスイッチを二液性スーパーセメダインで木箱に接着したとの点は改められているものではなく、むしろ中村(隆)は当部第六回ないし第八回各公判供述において右接着剤で接着することについてみずから疑問を挾むようなことを述べており、また、前林が宛名書をしたかのように述べる点にも、黒田鑑定に徴すると重要な疑問があるものであって、要するに、捜査段階における自白の内容に関する重要な疑問が解消されてはいないのである。
また、第二に、昭和四八年五月六日以降に作成された中村(隆)に関する被告人取調状況報告書、上申書作成状況報告書等の書類(証七六冊一九〇一〇丁ないし一九一〇五丁)、三八回被告人中村(隆)の供述(一七冊六四〇七丁以下)、七九回・九一回・九二回・九三回証人坂本重則の供述(三四冊一二六〇九丁以下・四〇冊一五二一六丁以下・四一冊一五二五九丁以下及び一五三三九丁以下)、中村(隆)についての留置人出入簿(抄)(証七冊四五七一丁以下)によれば、中村(隆)は昭和四八年五月五日の日石事件起訴の後も同月末ごろまで取調を続けて受けたが、その後も引き続いて三田警察署に留置され、昭和四九年三月四日東京拘置所に移監されるまでの約一〇か月の間ほとんど連日警視庁本部に押送され、取調室で坂本警部補が中村(隆)に面接を続けていたことである。すなわち、その際、同警部補は、相当長時間にわたって雑談したり、訓話めいた話をしたり、時には中村(隆)の家族の面会その他の便宜を図るなどして、いわゆる「面倒見」をしていたものであって、留置人出入簿の記載によれば、右のような措置がとれなかった日は、日曜日以外にはほとんどないことが認められ、いいかえれば平日は週末も含めほぼ毎日警視庁本部で坂本警部補が面接を続けていたことになる。もとより東京拘置所に移監されるより三田署に留置され毎日警視庁に押送された方が面会に便利であるといった家族の希望もあったではあろうが、起訴後は移監されるのが原則であるのに、あえてこのような措置が行われたのは中村(隆)に対し捜査段階で形成された心理状態を維持させ、法廷で否認する心理になるのを防止することを意図したものとしか言いようがないものである。ことに坂本警部補は当時警察部内で手腕を評価されていた者と考えられるが、その坂本警部補が他の仕事を犠牲にしてこのように長期にわたって面倒見を続けたことからも、右のような意図があったことを窺い得るのである(難航が予想される公判に備えて捜査官がこのような措置をとった気持は理解し得ないではないが、刑訴法の趣旨に沿わないものであることは否定し難い)。そして、このような措置をとっていたことが、中村(隆)が公判段階において自白を維持し続けていたことに大きく寄与していると見られても致し方ないものである。現に、東京拘置所に移監されてしばらく経過した時期から、大幅な自白の後退が始まり、全面否認に転じて行くのであるから、起訴後一〇か月にわたりこのような異常な措置をとっていたことが、取調官の意思に逆らい難い心情を醸成させ、任意性に影響するものとは到底言い難いにせよ、明白なアリバイが現われた事実以外についての供述を変更することを心情的に困難ならしめていたことは、否定し難いものと考えられるのである。
むしろ、長期間にわたり右のような措置がとられたにもかかわらず、東京拘置所へ移監されてそれほど間がない時期に、曖昧なニュアンスを多く含む後退した供述をするに至った事実に注目すべきではないかと考えられるのであって、たとえば、土田邸爆弾製造の供述中に見られる赤色ラッカー塗布についてみずから提起している疑問、スーパーセメダインを用いてマイクロスイッチを接着したことの危険性についての自問、忘れ難い事実であるべき作業についての記憶が断片的になっていると述べていること、謀議の事実について時に暖昧な供述になっていることなど、重要な供述になるほど大幅な後退が見られることは、右に述べたことを裏書するものと考えてよいであろう。
右のような異例な措置が長期にわたってとられたことから考えると、捜査段階の供述から後退が見られない自白であるからといって、これを真実と認めることには躊躇せざるを得ない。中村(隆)が供述の変遷の理由として述べるところに納得し難い部分もあることは前述のとおりであるが、右のような長期の異例な措置の下では、その間に集積された影響が供述変遷についての理由づけにまで及んでいないとは断定でき兼ねるからである。
すなわち、右のような措置が中村(隆)をして、公判における態度として、アリバイの証拠がはっきりした日石爆弾搬送及びその前提のサン謀議については否認するが、土田邸事件については増渕ら主犯者とされている者らと同一に取り扱われることなく寛大な処分を強く希望して自白を維持させ、その後の東京拘置所移監後もニュアンスにおいてかなり後退し、断片的な内容となりながらもしばらくの間基本的には事実を認める態度をとり続けさせたのではないかとの疑いを否定することができないのである。中村(隆)は、たしかに自己の公判では弁護人の弁護を受けた上で供述をし、また、自己の弁護人の弁護を受けている時期に他の者の公判で証言をしたものであるが、以上のような、起訴後の措置や同人の易感的受動的な性格等をも併せて考えると、公判における自白ないし不利益事実の供述であるからといって確実に信用性があるとはいい難いのである。
以上のとおり、中村(隆)の公判における自白ないし不利益事実の供述は、その中心をなす土田邸爆弾製造供述について重要な疑問点がなお存するものであり、また、捜査段階の自白(その信用性はさきに検討したとおりである。)をした心理状態を維持させるために起訴後も異例な措置がとられたこと等の理由から、そこで供述された事実が真実といい得るに足りるほどの高度の信用性を認めることには躊躇せざるを得ないものである。
第二節告人中村(泰)の自白の信用性
中村(泰)の員面、検面、供述書に記載されているその自白ないし不利益事実の供述は、内容的に、①八王子保健所における土田邸爆弾の保管、②筆跡採取及び宛名書の練習、③日石爆弾小包の宛名書(今井栄文宛)、④増渕らの爆弾闘争の話及び昭和四六年九月ごろの共同謀議、⑤女性の事務服についての会話(日石事件と関連)、⑥日石爆弾の包装に関する事項を含むものである(なお、中村(泰)は公判では当初から全面的に否認している)。以下において、これらの事項を内容とする中村(泰)の供述の信用性について、まず全体的な検討をし、つぎに供述事項ごとに個別的な検討をすることにする。
以下、本項においては、中村(泰)の取調を担当した古賀時雄警部の証言(一二四回及び一二六回ないし一二八回公判・五六冊二一三七六丁・五七冊二一七八四丁・五八冊二一九九九丁・同二二二一七丁。以下(古賀証言という)、神崎武法検事の証言(一三八回・一四一回・一四三回ないし一四六回各公判・六三冊二四〇二五丁・六四冊二四五五九丁・六五冊二四九二五丁・六六冊二五一八六丁・同二五三五九丁・六七冊二五五八六丁。但し、松村、金本及び中村(泰)については、一部、供述記載が証拠となる。)、増渕・前林一九回・二〇回証人中村(泰)の供述(増渕・前林九冊三〇六〇丁及び三一五九丁)、三三回・三四回・二四七回・二四九回・二五一回・二五二回被告人中村(泰)の供述(一五冊五四七七丁及び五六八〇丁・一三四冊四七〇三七丁・一三六冊四七四五一丁・一三七冊四七八九〇丁・同四七九四五丁。但し、二四七回及び二五二回供述は、増渕については供述記載が証拠となる)、中村(泰)の取報・メモ報・供述書(証七七冊一九二九二丁)、中村(泰)の各員面・検面、その他関係証拠により認められる事実に基づき検討する。
一、全体的検討
右証拠を総合すると、中村(泰)の取調の経過、中村(泰)の供述の特徴等として、つぎの諸点が認められる。
① 中村(泰)の取調経過(詳しくは中村(泰)調書決定参照)の特色として、中村(泰)は、当初増渕らと交際があった人物として同人らから日石土田邸事件に関連する情報をかなり聞知しているのではないかとの疑いの下に任意出頭による取調を受けていたところ、日石土田邸事件の現場遺留物の筆跡と対照するため筆跡の採取を受け、その結果遺留筆跡との類似性も見られたことなどが加わり、増渕らとの間の物の授受、筆跡に関する事項、爆弾闘争の話、オルグ、任務分担など、捜査官として特に関心の深い事項について、中村(泰)に対し執拗な追及が行われ、その中でこれらの事項についての供述が得られたものであって、取調官の追及しない事項について中村(泰)がみずから自白し、ないしは不利益な事実を供述をしたことはなかった。
② 中村(泰)の供述中にも秘密の暴露に当たるような事実についての供述は見られず、かえって不自然な印象を受ける供述が散見される。たとえば、爆弾を預けられた際や、返還した際の会話などは、作り話ではないかと疑わざるを得ないものである。ある場面(状況)、についての供述がその場面で交わされた会話をも内容とすることによって、その供述の真実らしさを増すという観点から、取調官が中村(泰)に「君の供述には会話がない」、「その際会話があったはずである」などと言って追及した結果、作り話ではないかと疑われる不自然な会話が供述されたのではないかと思われる。そのような例を二、三挙げると、つぎのとおりである。
増渕、堀が八王子保健所に物(供述では後に爆弾とされる物)を預けに来た際の会話(4・10員面。なお、4・11検面にも、同旨の会話の録取がある。)
私(中村(泰))「これは爆弾みたいな物ではないか」
増渕・堀(ほとんど同時に)「まあ、そんなものだ」
増渕「君には関係ない。ただ預かってくれればいいんだ」
堀がこれを受け取りに来て返還した際の会話(4・2員面。なお、4・28検面にも同旨の会話の録取がある。)
私(中村(泰))「このごろ交番の上とか、いろいろなところで爆弾の破裂があるけれども、もしこの保健所とかこの付近で爆弾をやるんだったら、どんなところをやるの」
堀「こんな保健所に爆弾をやってもしかたない」
私「じゃ、ここの所長室なんかどうなの」
堀「こんなところじゃだめだ」
私「じゃ駅前に交番があるけど、そういうところにでもやるの」
堀「あんなところもしょうがない」
私「じゃ、どういうところをやらなきゃいけないの」
堀「警察署なんかでもしょうがない。結局下のをやってもしょうがないんだよ」
私「じゃ上の方をやるの」
堀「そうだよ」
爆弾を預かった当日、それに先立ち増渕、堀が八王子保健所を午後二時ごろ訪れて、その近くの郵便局の前で中村(泰)と交わしたという会話(5・1員面。爆弾を預かることがわかったという理由づけとして供述しているもの)
私(歩道の敷石がぐらぐらしていたのを見て)「この敷石は投石用に使えるね」
増渕「今はそんな時代じゃない」
私「じゃやっぱり爆弾でも投げるのか」
増渕「大きな声で言うな」
増渕「爆弾は英語で何と言う」
私「BOMB、ボンと言うんだ」
(しばらく後)
増渕「さっきの話のもの預かってくれ」
以上のような会話は、その内容からしていかにも不自然であろう。本当にそのような会話が交されたとは思われないものである。
③ 中村(泰)の供述を読むと、全体的に、供述にかかる場面々々の情景描写がぎこちなく、現実感、臨場感に乏しいものとなっている。体験についての供述にしても、叙述が平板であって、当然に述べられてよいと思われる自己自身の心理状態などについての供述が全体として乏しいのである。
④ また、中村(泰)の供述には、否認と自白との繰返しが見られる。すなわち、四月九日逮捕の際、すでに認めた事実を否認し、また重要な自白が出尽した後である四月一四日に、弁護人の接見後に事件に無関係である旨否認に転じ、種々説得の結果再び自白に戻ったが、四月二〇日再び「自分は認識がないうちにこれらの事件に巻き込まれたもので、これらの事件には関係がないと思う」旨述べて一旦否認に転じ、間もなく説得により自白に戻っている。
⑤ 右のような否認、自白の動揺の後にも、明らかに虚偽と思われる日石爆弾包装の供述がされている(4・24員面)。日石爆弾は、二個とも、包装紙を解いた際手製スイッチの金属板二枚の間に挿入されている絶縁体(一つは黄色布地、一つは裁縫用のメジャー片)が引っ張られてはずれることによりスイッチが入る仕掛けになっているが(前記第二章第一節二参照)、中村(泰)が日石爆弾の包装をしたと供述する内容は単に物を包むだけのものであり、証拠物の仕掛け(複雑で、慎重な作業になっていることが遺留包装紙の折返し、ガムテープによる固定状況等から明らかである。)についての言及が全くないことから、虚偽であるといわざるを得ないものである(中村(泰)の供述によると、四月二五日ごろ舟生管理官から右自白について「嘘を言っているのではないか」と質問されたというのであるが((三四回・一五冊五七八九丁参照))、中村(泰)は右自白を撤回していない)。
⑥ 供述事項の中に時期等の関係で不合理なものが見られる。すなわち、中村(泰)の供述の中で筆跡集めや宛名書の練習、今井栄文宛の荷札書についての日時、書いた文字を見ると、まず一〇月八日に八王子保健所で、今井栄文宛の荷札書をしたこと(もっとも、中村(泰)は、これは実際に使用されたものとは異なる旨供述する)、つぎに、一〇月一一日から一五日の間、増渕のアパートで筆やサインペン等で宛名書の練習をしたこと(主として土田邸事件の宛名に出て来る文字のほかに、目白パークマンションなど日石爆弾の宛先の文字をも同時に書いている)、さらに、その二、三日後、中村(泰)のアパートでC子(中村(泰)の友人)とともに「警備保障KK(業務部)」という日石爆弾の小包差出人に当たる字を万年筆で書いたことの順になるが、このように日石事件の前であるのに土田邸事件の筆跡集めをしていたり、一度で済むことをわざわざ三度にわたって、しかも近接した時期に別々の場所で行ったことについて合理的な理由を述べることもない。
⑦ 中村(泰)の捜査段階における供述には、最終段階の調書、供述書(4・23検面、4・27供述書、4・28員面)に見られるように、事項的には、一旦供述された事項がそのまま最終的な調書にも記載されて維持され、一貫した供述としてその面では信用性が高いようにも見られるが、しかし、それぞれの事項の中では、かなり大きな内容の変化が見られる(保管した爆弾の包装の状況やこれを預かった日に中村(泰)が増渕らに会った回数、宛名書の練習、筆跡集め等の状況や、書かれた文字等)。そして、このような変遷について、理由の説明がないか、不合理な説明にとどまっている。
⑧ 中村(泰)は、同人の調書決定に判示したとおり、三月一五日からほぼ連日任意出頭を続け、長時間の取調を受けた後、別件逮捕され、その勾留請求却下後も連日出頭を続けて同様に長時間の取調を受け、四月九日逮捕後、預かった物が爆弾であることを認識していたことを初めとして重要な自白を重ねるに至ったが、この間も連日(四月一五日のみ否認に転じたため在房した。)長時間の取調を受け、その際執拗な追及を受けたものであって、このような取調状況は、供述の任意性に疑いを生じさせるものとまでは認められないが、その信用性の判断には消極的な要素とならざるを得ないものである。
右①ないし⑧のような諸点は、中村(泰)の供述の信用性の判断に当たって十分に留意しなければならないところである。以下、事項ごとに検討する。
二、土田邸爆弾の保管に関する供述の信用性
(1) 供述の要旨
昭和四六年一二月一一日午後二時ごろ、八王子保健所の付近に来た増渕と堀に呼び出されて会い、増渕から、ボーナスをもらったら靴を買ってくれと前から言われていたため、近くの坂口商店に三人で行ったが、自分は買ってやらなかったので、そのまま店を出た。その日の午後八時ごろ、同保健所の宿直室で宿直勤務中に、増渕と堀が再び現われ、増渕は左脇に紙に包んだ箱型の品物を抱えており、堀が自分に「一寸預かってもらいたい物があるけど、ロッカーにでも入れておいてくれ」と頼むので引き受け、両名を案内し、自分のロッカーをあけながら、「何を預かるんだ」と聞くと、堀は、「お前は知らなくていいんだ」と言い、増渕が、「貴重品だから大事にしてくれ」と言っていた。渡された品物は幅二〇センチぐらい、長さ二五センチぐらい、厚さ五センチから一〇センチぐらいの箱を包装紙で包んだもので、内容の箱は木箱か厚紙のものと感じられ、それ程重いもののようには感じなかったが、これをロッカー内の靴箱の上に置き、洗濯物をその上に置いた。その際、増渕と堀がこそこそ話し合っていていつもと様子が違うし、二人とも注意深く品物を扱っていたし、また、以前から国家権力の上層部に爆弾を郵送する話をしていたことを考え合わせ、そのための爆弾であると直感したので、「爆弾みたいな物じゃないか」と聞くと、増渕と堀は、「まあ、そんな物だ」と言ったので、爆弾であることがわかった。それから宿直室で増渕と将棋をさし、堀はテレビを見ていたが、午前零時過ぎに二人は帰って行った。
一二月一五日午後七時か八時ごろ、同保健所の事務室で残業中堀が入って来て、「例の荷物を出してくれ」と言ったので、一緒に自分のロッカーまで行き、中から預かっていた爆弾一個を堀に返した。預かってから返すまでの間爆弾に手を触れていない。その後、堀とともに事務室に戻ったが、堀は金本の机の上に爆弾を置き、同女の椅子にかけたうえ、同女宛のラブレターを書いてその机の引出しの中に入れるなどし、今度は自分の机の引出しの中から自分の名前の入ったマジックインキを取り出し、これを自分が交際していたC子の机の引出しの中に入れていた。堀は三〇分か一時間いて帰ったが、帰り際に、「何か袋はないか」と言うので、東京都の名入りの大きな茶封筒三、四枚を渡すと、そのうちの一枚の中に爆弾を入れていた。そして、事務室出入口付近で、前記(一②)の会話を交わした。
(2) 供述に至る過程についての疑問
被告人らの取報、メモ報、被告人らを取り調べた者らの証言等によれば、三月下旬ごろからは、爆弾自体の保管やその製造に用いた材料、部品等の授受に連らなる「物の授受」、搬送、下見その他に連らなる「車の運転」、オルグ、共謀等に連らなる「集まった際の会話」、増渕らの犯行について「聞いた話」等、増渕らの犯行を前提とし、これを裏付ける供述をその周辺の者から取得するための捜査が続けられたことが認められるが、右のような諸点を重点的に取り調べる場合に、取調を受ける者にとってはありふれた事実であっても、捜査官としては爆弾事件に関連する事実ではないかとの視点から追及し勝ちになる傾向のあることは、避けられないことであろう。
ところで、爆弾の保管に関する中村(泰)の供述は、四月二日の取調で、物を一時預かったことがある旨の供述をしたことが発端となっているが、このような供述が得られるまでには、かなり誘導的といわざるを得ないような取調がされていることが古賀証言及び中村(泰)公判供述及び中村(泰)の取報により認められる。すなわち、中村(泰)に対し、勾留請求が却下された翌日である四月一日の取調では、公務員としての職務専念義務にもかかわらず革命を志向する増渕らと交際したことにつき公務員としての良心、道義心に欠けていたとして非難を加えながら説得するとともに、土田邸事件は増渕らの犯行である旨断定し、これを前提に犯罪の残忍性を説き、土田民子夫人の被害現場の写真を示すなどして取調を行い、翌二日には、このような事件を行った増渕らと交際している以上は、同人らから知らない間に利用されていることがあるに違いないとの見地から増渕らとの間での「物の授受」について追及し、その際、「親しい交際をしていた以上は、歳暮や誕生祝い等の授受はないか」、「物をもらったり贈り物をしたり、預かったりしたことはないか」などと告げて尋ねていることが認められる。このような質問を根気よく繰り返されると、問われていることが日常よくあり得ることであるから、なかなか全面的に否定し通すことは困難であるとも考えられ、中村(泰)が公判で述べているように(三四回公判・一五冊五七二四丁等)、自分の知らない間に増渕らに利用されたのではないか、自分の知らない間に利用されたのであれば罪にならないであろうという考えから、あやふやな気持の中で物の授受を認めてしまうということも、あり得ないことではないであろう。友人であれば何らかの物を預かったことがあるのが通常であり、その友人が爆弾事件の犯人ということになれば、知らず知らずのうちに一度や二度は利用されていたのではないかと思うことは常識に反するものとはいえず、取調官がとった取調方法はまさにこのような心理に陥り易い点を巧みに衝いたものと評することもできるのであり、従ってこのような取調方法は誘導的なものというべきであって、その中で右のような供述が得られたという経過は、その信用性判断にあたり、十分考慮に入れる必要がある。
(3) 当初の供述の不自然な内容
中村(泰)の4・2員面添付の同人作成のメモによると、まず、一二月中の宿直の日が七日、一一日、一五日、三〇日と記載されていて、その宿直の日に受け取り、別の宿直の日に返還したとの筋書で追及を受けたことが窺われる。右メモによれば、「一一日の宿直の日に(増渕、堀の)二人が来たように思う。荷物はあまり大きくなく、たいして重いものではなかったようだ。堀から預かったような記憶がある。一五日の宿直の日に堀が一人で来た。七、八時頃私が事務室で残業をしていた時にそこに入って来た。その時、私は前に預かった物をロッカーから出して堀に渡したように思う。それから堀は私の席の後の金本さんの机の上でラブレターを書き引出しの中へそれを入れ、また、私の名前の入ったマジックをC子さんの机の引出しの中に入れるなどしてふざけていた。九時頃堀が帰る際玄関を出たところでつぎの会話をした」として、これに続けて、保健所―警察―上層部という前記の会話が記載されている。そして、4・2員面には、このメモの内容がメモのような曖昧な表現ではなく、断定的な表現で記載されている。
しかし、堀の性格には剽軽な一面があるにしても、ラブレターを書いたり、ふざけて楽しんだりするような情景と、爆弾の持帰りという緊張を伴うはずの行為とは何かそぐわないという感じを抱かせられるし、その際の会話は、すでに述べたとおり作り話と思われるような不自然さを感じさせる内容のもので、冗談話として考えてみても同様に不自然な印象を免れず、このような会話により堀らがいわゆる権力の上層部を狙った爆弾闘争を行おうとしている意図を知ったというのは、まさに知らず知らずのうちに犯人に利用されたとして追及する捜査官に迎合したための供述ではないかとの疑いを強めさせる要素になっているというべきである。
(4) 保管した物についての供述の曖昧さ
ところで、中村(泰)が預かったとする物についての同人の供述内容は、かなり曖昧である。まず四月二日初めて保管を認める供述をした際には、「単に紙に包んだ荷物」としか述べておらず、その大きさとか、包装紙の色とか、紐のかけ具合とか、荷物についての具体的な供述は全くない。翌三日になると、大きさについての供述はされるが、包装紙については「茶色の紙のような気もするし、青っぽい感じの化粧品の包紙であったような記憶もある」と述べ、また、「紐でゆわえてあったが、テープでとめてあったかはっきりしない」と述べるにとどまっている。ところが、金本はそれより前の四月一日に、「堀にドイツ製の水色地に白のまじった包装紙を渡した」旨の供述をしており(金本48・4・1員面)、中村(泰)の「青っぽい感じの化粧品の包紙」との供述は、この金本の供述に合わせて引き出されたのではないかとの疑いがある。この「茶色の紙か青っぽい感じの化粧品の包紙で包んだ品物」という表現は、四月九日の取調でも維持され、四月二三日の検面でも「紙に包んだ物」となっているだけで包装紙の色は特定されていないが、四月二八日の員面で「茶色か青っぽい化粧品の包装紙のような紙」と一旦記載された後「か青っぽい化粧品」を抹消し、ここで茶色の包装紙として特定した供述になるのであるが、この点は、他の共犯者の供述により、預けられた爆弾は完成したものであることが時期的にも確定されたことから、中村(泰)に、その包装紙の色に合わせた供述をさせたのではないかとの疑いを抱かせる。このように包装紙の色について見る限りにおいても、供述が曖昧であるばかりか、また、取調官の誘導の疑いもないではないものである。
そのうえ、包装について述べられているのは、他に包みの大きさ、重さ等の点にとどまり、それ以上特に具体的な供述がないのであるが、これは不自然だといわざるを得ないであろう。もし中村(泰)が爆弾である旨認識し、あるいは未必的に認識して預かったのであれば、預かった物に対し強い関心が示されるはずであるから、当然その物についての何らかの印象的な事実が必ず付加されて供述されるはずであろう。ところが、そのような供述がないのは、このような物を預かった事実自体を疑わせ、あるいは特に強い印象を伴う出来事ではなかったものとして爆弾であることの認識を疑わせるものである。
(5) 爆発物を預けるについての警告の欠如
さらに、増渕らが中村(泰)に爆弾、あるいはその未完成品を預けたとすれば、事故の発生を防止するために、預ける際に、中村(泰)に対し保管上注意すべき事項を警告するはずであると考えられるのに、中村(泰)の供述では、「貴重品だ」とか「まあ爆弾のようなものだ」とか言われたのにとどまり、絶対に落下させたり、衝撃を加えたりするなとか、勝手に移動させるなとかの注意を受けたことが全然窺われないのであって、この点も不自然であるといわなければならないであろう。
(6) 保管場所自体についての疑問
八王子保健所内の中村(泰)のロッカーが土田邸爆弾の一時保管場所として適当であるか否かは、爆弾郵送という重大な犯罪を行おうとする犯人として事前によく考えたことと思われるが、果たして適当な保管場所であったであろうか。まずかりに増渕のアパート(世田谷区内)で製造が行われたとした場合に、発送郵便局が都内神田神保町であるのに、なぜわざわざ八王子まで危険を冒して移動させなければならないのかという疑問がある。さらに保健所が公務所であるからといっても人の出入りは自由であり、まして中村(泰)のロッカーは平素鍵もかけず、同僚などの接近も自由な所であって、保管場所としては発覚や誤爆の不安感を抱かせられる所であると考えられ、増渕らがそのような必ずしも安心できない場所を特に選ぶ心理はいささか理解し難いのである(あえて「裏をかいた」とまで断じ得る理由はない)。犯人としてより適当な保管場所を他にいくらでも考えつくはずであろう。
もっとも、あるいは爆弾製造に直接関与していない中村(泰)に一時爆弾の保管をさせることが、従来行動を共にして来た同人をして増渕らとの紐帯感を強めさせ、口を封じることとなり、すなわち、同人からの発覚の危険をなくそうと意図したものと考えることもできないではなく、そうだとすれば保管場所としての適否は問題ではないであろう。しかし、それにしても、共犯としての紐帯感を強化するのに適当な方法は他にも種々考えられるのであり、あえて右のような危険を伴う八王子保健所での保管依頼という方法を選ぶことはむしろ避けるのではないかとの疑問が残るのである(なお、右のような意図から爆弾を預けた旨の供述をしている者は全くない)。
(7) 預かった日及び返還した日が宿直日とされていることの疑問
弾爆の授受の日が宿直の日であることは、人目に触れないようにするためには意味のあることには違いないが、爆弾発送までの一連の行動計画が、中村(泰)の宿直という偶然の出来事により左右される結果にもなり兼ねず、考えてみれば奇妙なことのようにも思われないではない。外観上一見して爆弾であることがわかったり、強烈な印象を残すものであるならば格別、そのようなものでないのであれば、保健所内でこれを授受しなければならない理由はそれほどなく、また、中村(泰)の供述によると、増渕と堀は預ける日には午後二時ごろ一旦中村(泰)を保健所外に呼び出したことがあるというのであるが、その際に受渡しをせず、夜わざわざ八王子保健所内に届けるという迂遠な行為をとる理由がどこにあったのか、いささか理解に苦しむのである。その点で、四月二日に授受に関する供述をした際、宿直の日を他の資料により特定し、それを前提として授受の日を特定するに至ったという供述経過自体にも疑問がないわけではないと思われる。
(8) 爆弾の認識についての供述の不自然さ
さらに、預かった物が爆弾であることを知っていた旨の中村(泰)の状況にも種々の疑問がある。
① 古賀警部は、この点に重点を置いて中村(泰)を取り調べているが、中村(泰)は認識があった理由を種々の角度から述べているものの、その内容は不自然な印象を与えるものばかりである。たとえば、増渕、堀との会話などによりわかったというのであるが、すでに触れたもの(前記一②及び参照。)のほか、預かった際、増渕と堀が何事かをこそこそ話していたり、「保健所に将棋盤くらいあるだろう」と怒鳴って殺気立っていたことからも爆弾とわかった旨の供述(4・17員面、4・29員面)、右のこそこそ話が「夜の大通り」をパッと思い出させ、それが茶封筒を大事そうに持って車に乗っている増渕のイメージになり爆弾を連想させる旨の供述(4・29員面)などは、理由づけに困った挙句に思い付きを述べたものと思われる。
もともと増渕らが中村(泰)に危険の大きい爆弾を預ける以上、爆弾であることを告げないはずはないと考えられるが、かりに中村(泰)がかねて増渕らの爆弾闘争の意図を知っていて、増渕らから爆弾であることを明言されなくても、直ちに暗に爆弾であることを察知し得るものであったとしても、その場合でも、最小限度の注意事項は告げられるはずのものであろう(前記(5)参照)。もっとも、中村(泰)は、増渕らからこのようなことを告げられていながらこれを隠して右のような不自然なことを述べているものとも解されないではないが、前述の、保管した物についての供述の曖昧さ(前記(4))等からすると、そのようには考え難いのである。
② また、中村(泰)は、当初爆弾の認識を否定し、四月九日の逮捕の翌日ごろからこれを認めるようになったが、そのころ認識の点について執拗に問いただす取調べが行われていたことが窺われるのであって、そのような取調方法がとられていたことも信用性に疑問を抱かせる一要素となるものである。
(9) 結論
以上の諸点を総合すれば、八王子保健所において増渕および堀から土田邸爆弾を預かり、これを同所で保管した旨の中村(泰)の供述は、信用性に乏しいといわざるを得ないのである。
三、荷札書及び筆跡採取に関する供述の信用性
(1) 供述の要旨
① 昭和四六年一〇月八日夜宿直中、堀が八王子保健所に来て、開いた手帳と荷札一枚を出し、「こういうふうに書いてくれ」と言って、堀から今井栄文の住所氏名を示され、同人宛の荷札を事務机の中にあった付けペンと黒インクを用いて書いた。証拠物の荷札の写真の字は、自分の筆跡に非常によく似ていると思うが、直接書いたものではないように思う。
② 一〇月一一日から一五日までの間に、増渕のアパートで、増渕、前林、堀、松本と自分の五人で、毛筆等で宛名書の練習をした。帰りの車内で、堀は、「写し字を知っているか」と言って、その方法を教えてくれたので、郵送の際、いろいろな者の字を混ぜて写し、筆跡をわからなくするためのものとわかった。
③ その二、三日後、国立市内の中村(泰)のアパートで、堀に、「警備保障KK業務部」という部分を含む会社名とその所在地が記載された手帳を見せられるとともに手帳のメモ用の紙を渡されて、それに右所在地及び会社名を書くよう頼まれ、その際居合わせたC子とともに、各一枚ずつサインペンを用いて書いた。堀に「また写し字をするのか」と聞くと、「そうだ」と答え、堀はこれらを持ち帰った。
(2) 供述の信用性
日石爆弾の荷札四枚(包装紙に貼付されたものを含む。証一六号、二〇号、二一号、二二号)及び荷札破片(包装紙に貼付されたもの。証一二七号)を見ると、後藤田正晴宛の宛先の住居表示が一丁目四番一八号であるのに、「一ノ四一八」となっていること(証一六号、二一号)、名前の「正晴」を「正明」と書き損じ、その「明」の旁の「月」を「青」に直していること(証二一号)、今井栄文宛の包装紙に貼付した荷札の宛先を当初「神奈川県緑区」と書き、その後に右横に「横浜市」を挿入していること(証一二七号)、紐に結んだ荷札の宛先には「緑区」を書き忘れていること(証二二号)、その裏面の差出人が新幸ビル内の貿易会社としては「東京細田貿易」になるはずのところを「東京貿易」と誤記していること(証二二号。これは昭和四五、四六各年版職業別電話帳の東京細田貿易の一つ上に東京貿易とあったことから書き違えたか、「細田」の二字をうっかり落したのではないかと推測される。右電話帳の写し・証一一三冊二八四六八丁及び二八四七一丁参照。)など、荷札の記載に関する誤りないし訂正がいくつか存在するのである。特に右の「横浜市」の捜入は、荷札書をした際余分の荷札を持ち合わせていなかったために、書き直しができずやむなく挿入による訂正を行ったものではないかと推察されるし、「正晴」の名の書き誤りをしたにもかかわらずこれをそのまま用いたのも、同様の事情によるのではないかと思われ、そのほかにも右のとおり誤りが多く存することは、これらが、発送直前などに急いで書かれた可能性もないではないと考えられる。このような荷札書の字体、形態等から判断すると、これらの荷札を書く際に他人の筆跡を下敷にして(窓ガラスにあてるなどして)写す、いわゆる「写し字」の方法がとられたとは到底考え難い(写し字をしたとすれば、あとで「横浜市」を挿入したり、「緑区」が脱落したり、「正晴」を「正明」と誤記するようなことは考えられないことである)。もっとも、だからといって、直ちに筆跡集めがなかったことになるものではなく、堀らは筆跡集めをしたが、日石爆弾の荷札には写し字の方法をとらなかっただけのことであるかも知れない。しかし、筆跡隠しを考えて筆跡集めまでした上での用意周到な犯行であれば、犯人はそれを利用して犯行に及ぶのがむしろ普通であろうし、ましてそれをすっかり忘れたかのように誤りの多い宛名書をすることは考え難いことであって、このことは、筆跡集めを行ったこと自体について疑問を抱かせるのである。
しかも、中村(泰)の自白によると、荷札自体に宛名を書いたとするのは、一〇月八日八王子保健所で、今井栄文の宛名を書いたことしかないが、同荷札の文字の字体については、似ている字は多いが自分が直接書いたものではない旨の供述になっており、また一部は自分の字と似ているが、一部は似ておらず全く書いた記憶がないなどとも述べているのであって、またさらに黒田鑑定にも照らせば、中村(泰)が字を書いたと供述する荷札が日石爆弾に用いられていないことは明らかである。その他の二回にわたる筆跡採取は、荷札ではなくメモ用紙等に書いたというものであり、増渕のアパートでは、筆とサインペンを用い、中村(泰)のアパートでは、サインペンを用いたというのであって、いずれも「写し字」にでも使わない限り特に意味があるとは思えないものばかりであり、またすでに述べたとおり、わずか一週間位の間に三度にわたり、三か所で、しかも日石事件の前であるにもかかわらず土田邸事件の宛名を含めて筆跡採取をしたというのであって、その必要性、態様、回数等の点に照らして、不自然な供述という印象を免れない。
もっとも中村(泰)の筆跡は、当部第二〇回公判調書速記録末尾添付の筆跡(九冊三三四〇丁)を含め、字形の点でも日石爆弾の筆跡との類似性が高い印象を受けるのであり、古賀警部がこの点を追及したこと自体はよく理解できるところである。そして中村(泰)自身4・4員面以来、少なくとも一部の字については極めてよく似ていることを認めているものであり、それが右の自白に連なって行くのであって、見方によっては、まさにすべてを自白するには至らないが、いわゆる「半割れ」の供述ではないか、そしてさらには荷札等をみずから書いたことを隠すために、右のような奇異な供述をことさらするに至ったのではないかとの疑問がないとはいい切れない。しかし、黒田鑑定、鳩山鑑定のいずれによってもこれを中村(泰)の筆跡とするには至っていないものであり、また、類似の字形を書く者も一般に少なからずあると思われることからすれば、右の類似性は偶然のことと認めるほかはないであろう。
そして、これが偶然の類似であるとすれば、中村(泰)の取調において、この点が取調官及び中村(泰)の双方の心理に影響を及ぼしたことは考えられることであって、虚偽の供述へ導く要因として作用し得たことは否めないところではなかろうか。
いずれにせよ、証拠物を基礎にして検討をするとともに、中村(泰)の供述内容自体に内在する不自然さを考え合わせるときは、荷札書や筆跡採取の供述の信用性も、疑問を免れないのである。
四、増渕らの爆弾闘争についての話及び昭和四六年九月ごろの共同謀議に関する供述の信用性
(1) 供述の要旨
昭和四六年初めごろ、増渕や堀から、「革命のための暴力は火炎びんやゲバ棒では駄目であり、今は爆弾の時代である」と話されたことがあり、同年六月ごろにも増渕のアパートで松本もいた時に爆弾闘争の必要性を説かれたことがある。九月初旬か中旬ごろ、同様増渕のアパートで、増渕、前林、堀及び自分が集まった際、堀が、「国家の上層部に爆弾を送り込んでぶっ飛ばさなければいけない」と主張し、増渕も警視総監や某総裁などの名を何名か挙げ、「爆弾は俺が作る。堀は郵送をやってくれ」と言い、さらに自分に対し、堀の手助けをするよう指示され、堀と顔を見合わせてこれを承知した。
(2) 供述の信用性
これらの供述がされる経緯を見ると、増渕、堀から物を預かったとの中村(泰)の供述をもとに追及された堀が中村(泰)の供述に合う供述をし、それが爆弾であったと供述したことから(堀4・5員面)、中村(泰)は、取調官から爆弾であると知って保管したはずであるとの観点からの追及を受け、その認識があったことを裏付ける周辺事情ともなるところから、爆弾であることを知って預かったのであれば、オルグを受け、また任務分担等の取決めもされているはずであるとして追及され、これらを認める供述をするに至ったものであることが窺われる。そうすると、爆弾の認識についての供述に疑問のあることは、さきに詳述したとおりであるから、革命の必要性とかテロ活動についての一般的な話がされたことは窺われるにしても、具体的な爆弾闘争への参加を促すような内容の話や、任務分担(もっとも、堀の手助けをせよという程度のもので、任務分担といってよいものか疑わしいものともいえる。)の話などが具体的に行われたかどうかの点についての供述には、高い信用性を認めることは難しいといわざるを得ないのである。
さらに供述の経過について見ると、当初は、堀がプロレタリア革命の必要性を話し、増渕も同様の話をしたという程度にとどまる供述であったが(4・8供述書)、その後、増渕が堀に「社会を変えるには爆弾を国の上層部に送って殺すしかない」などと話し、爆弾を郵送する相手として警視総監などの名前を挙げ、堀がそれに対し「そうだそうだ」と言って賛同の言葉を発していた旨の供述となり(4・11検面)、さらに、この話は昭和四六年六月ごろにもあり、また八月末か九月ごろには、増渕が「爆弾はおれが作る。堀は郵送のことをやってくれ」という話もあった旨の供述になり(4・17員面)、最後にその際小包爆弾製造発送についての任務分担も決め、中村(泰)は「堀の(郵送の)手助けをしろ」といわれて、堀と互いに顔を見合わせて増渕から言われた発送という任務分担を確認し合った旨の供述になっている(4・21員面、4・23検面、4・28員面等)。
右の変遷過程は、一方で供述を渋る者が徐々に真相を述べて行ったもののようにも見えるが、他方で爆弾闘争の話を事前に聞いているはずであるとか、さらには事前謀議があったはずであり任務分担も決められたはずであるとの趣旨の厳しい追及の結果このような変遷をたどったのではないかとも思われるのである。すなわち、すでに述べたとおり、中村(泰)は、四月一四日から一六日の間一旦否認をし、また四月二〇日には再度否認をしているが、任務分担に関する供述は、否認から自白に転じた際に出現し、あるいは内容が一歩進められているのは必ずしも偶然とは言い切れないように思われ、現に四月二〇日の否認から自白に転じた後には、前述のとおり虚偽と認められる日石爆弾包装の自白もされているなどの状況をも併せて考えると、否認から自白に転ずる際に取調官に迎合してなされたものであるとの疑いを否定することができない。なお、中村(泰)の述べるような任務分担を含む謀議又はこれに類する相談について述べる者は他に存在しないことも、疑問を強めさせる一事情となろう。そして、中村(泰)のこの点についての供述内容も、いわば骨のみで肉付けに乏しく、不自然な印象を免れないものであって、この点も誘導と迎合によって生まれたものではないかとの疑いを深めさせるものである。
以上の点を考え合わせれば、これらの供述の信用性には、疑問があるといわざるを得ない。
五、日石事件の事務服についての会話に関する供述の信用性
(1) 供述の要旨
① 昭和四六年一〇月一日から七日までの間の夜に堀と二人で金本のアパートを訪れた際、堀が金本に八王子保健所の事務服について尋ね、それを見せてほしいと言っていた。
② 自分のアパートで堀から頼まれて警備保障会社の所在地と会社名を手帳の切端に書いた時、堀はC子に八王子保健所で着用している服について尋ねていたが、C子は保健婦だから事務服はない旨答えていた。
(2) 供述の信用性
事務服については、日石事件の差出人の女性二名がこれを着用していたことから、前林及び江口がその犯人であるとすれば、これをどのようにして入手し着用したかを解明する必要があり、その観点から中村(泰)に対しても郵送担当の堀が女性用の事務服の入手に関する話を金本やC子に対してしていないかなどと尋ね、その結果これらの供述が得られたものと考えられる。これらの供述がされる時期には、前述のように信用性に欠ける爆弾保管等に関する供述もなされており、中村(泰)が迎合的な供述をしている疑いのある状況も認められることからして、十分な信用性を認めることは難しいのである。ちなみに堀が事務服を調達した事実を証明するに足りる証拠はないところである。
六、日石爆弾包装の供述の信用性
中村(泰)の供述の要旨は、昭和四六年一〇月一〇日又は一六日の夜、八王子保健所で宿直勤務中に、堀が訪れて来て、同人から、白い紙に包んだ爆弾のような木箱か段ボール箱と茶色の包装紙と紐を出されて、包んでくれと頼まれ、ひっくり返さぬようにしてくれなどと言われ、できるだけ動かさないよう、包紙を箱にかぶせるようにして包装し、十文字に縛った。堀は、包み方が上手であるといって感心していた。堀はこれをバックの中にそっと入れ、一、二時間いて帰った、というものである。
この点はすでに触れたところであるが(一⑤参照)、日石爆弾はその包装を解くことによりスイッチの間に挾まれた絶縁体が引っ張られてはずれる仕組のトリック装置を持つ構造になっており、その包装紙に絶縁体を固定する作業や、遺留包装紙に見られる複雑な折返しや接着テープによる固定方法などの特徴点についての供述を全く含まないものであり、その点から虚偽の供述であるといわざるを得ないものである。
七、中村(泰)の証拠隠滅工作に関する検察官の主張
検察官は、中村(泰)が種々の証拠隠滅工作に及んだ点を指摘するが(補充意見書その七・一〇八頁・一一八冊四二七七六丁)、それらは日石土田邸事件が被告人らの犯行であることの情況証拠としては余りにも間接的なもので、もとより犯行を裏付けるには到底足りないものである。
八、結論
以上の諸点を総合して考察すると、日石土田邸事件が被告人らの犯行であることを示す中村(泰)の捜査段階における供述には十分な信用性を認めることはできないといわざるを得ないものである。
第三節被告人金本の自白の信用性(土田邸爆弾包装に関する被告人中村(隆)の自白の信用性を含む。)
一、金本自白の要点
金本自白の要点は、昭和四六年一二月初めの夜増渕のアパートで増渕、前林、堀、江口、榎下、名前を知らない男二人らと爆弾を製造した際、前林と一緒に爆弾を包装したり荷札書などをしたりしたというのである。検察官は、金本が右爆弾の包装状況について自白するところが秘密の暴露にあたり、その信用性は極めて高い旨主張するので(論告要旨二二一頁以下・一五六冊二五九〇六丁)、まずこの点からその信用性を検討する。
二、推定される土田邸爆弾の包装状況
科検技術吏員菊地幸江及び同下瀬文雄47・3・11鑑定(謄)(中村(泰)証二冊一九一丁等)、中村(泰)七回証人菊地幸江及び同下瀬文雄の各供述(中村(泰)二冊三八七丁以下及び四二〇丁以下)、(員)古賀照章48・5・10爆弾の構造等に関する捜報(謄)(増渕証一二冊二二二〇丁等。但し、堀、江口、中村(泰)、金本及び榎下に関する立証趣旨については一四九冊五〇八六三丁、一五三冊五一八七七丁・五一九二五丁参照)、金本四回証人古賀照章の供述(金本一冊一六七丁以下)、堀・江口・松村一四回及び一五回証人古賀照章の供述(堀・江口・松村四冊一三六六丁以下)、中村(泰)三回証人古賀照章の供述(中村(泰)一冊七六丁以下)、松本・榎下九回及び一〇回証人古賀照章の供述(松本・榎下三冊五〇八丁以下及び六二七丁以下)、金本五回証人川崎勝美の供述(金本一冊二三五丁以下)、(員)川崎勝美外三名の包装実験結果(五月八日施行)を記載した書面(写)(証一三二冊三三〇七七丁)、高島三郎の員面(謄)(証一三二冊三三〇六九丁)、菅公工業株式会社作成の当裁判所宛回答書(写)(証一三二冊三三一一〇丁)、押収してあるガムテープ片若干(証五一号)、麻紐若干(証五四号)、紙片三二片(証六〇号)、小包封緘シール破片(証二七九号及び二八〇号)、郵便小包包装セット(証二六七号)、小包封緘シール一枚(証二七一号)、弁当箱一箱(深大角。昭和四九年押四六六号の六〇)を総合して考察すると、土田邸爆弾小包の包装は、菅公工業株式会社製郵便小包包装セット中の赤茶色包装紙(八七センチメートル×一〇七センチメートルの大きさで、包装紙の長辺に平行に縞が流れているもの。包装紙は同会社がカクケイ工業株式会社に製造させたものである。)を使用し、左記手順で包装したものと推定される。
なお、爆弾木箱の大きさは、前記押収してある麻紐若干の長さから底の長辺が約三〇センチメートル、同短辺が約一七センチメートル、高さが約九センチメートルと推定されるが(前記金本四回証人古賀照章の供述参照)、誤差を見込んで底の長辺の長さを約二八・五センチメートル(押収してある文明堂カステラ木箱((昭和四八年押一五三六号の六二。以下、木箱Aという。))を参考にする。同木箱の底の長辺の長さは約二八・七センチメートルである)、底の短辺の長さを約一七センチメートル(木箱Aの底の短辺は約一七・三センチメートルである)、高さを約七センチメートル(木箱Aの高さは約七センチメートルであり、蓋を閉じた場合の内部の高さは約六・三センチメートルである。ちなみに、本件木箱には蓋をした高さ約五・六センチメートルの弁当箱にテープを巻くなどしたものを収納できなければならない。)とする。このように木箱を小さめに見積ったのは検察官に有利となる反面被告人には不利となるが、万全を期するためである。
① 右包装紙から内包装(固定包装)用に二八・五センチメートル×一〇七センチメートルの大きさの包装紙を縞の方向に平行に切り取る(後記図3包装紙切断図参照)。前記押収してあるガムテープ片若干によれば、右ガムテープには包装紙が付着しており、同包装紙は内包装に使用されたものと推定されるが、同包装紙の縞の方向がガムテープに垂直である状況が認められるので、内包装に使用された包装紙はその長辺に平行に縞が流れていたものと推定できる(図1参照)。
② 右切り取った包装紙(後記図3包装紙切断図Bの部分)を裏を上に向けて広げ、その上に爆弾の木箱を置き、巻くようにして包装し、包装紙の先端部分を木箱の底の長辺に接触するように長さを調節し、包装紙の先端部分(包装紙表面)と木箱の底に敷いてある包装紙の部分(包装紙裏面)とをガムテープで貼り固定する(後記図3(1)及び(2)参照)。前記押収してあるガムテープ片若干に包装紙の表面部分と裏面部分が各独立にかつ同時に付着している状況が認められることから以上のように推定できる。
また、右ガムテープ片若干は約一五センチメートルの長さのもので、ガムテープ片が破断されているのは内部包装を解いた後の爆発によって生じた可能性が高いと考えられるところ、一方の端の一部は人手による切断の跡と推定されるが、他方の端はその形状から見て爆発により破断されたものと推定されるので、爆発前においてはより長いものであったことが推認され、また前述のように木箱の底の長辺の長さは約二八・五センチメートルと推定されるので、内包装の際最初の固定のために使用されたガムテープは比較的長いもの一本だけであると推定できる。
③ 前記②のようにガムテープにより固定した後、包装紙の末端部分を持って再び巻くように包装紙を折り返して包装し、余分な部分を切り取り、ガムテープにより固定する(後記図3(2)及び(3)参照)。前記押収してあるガムテープ片に付着している包装紙の裏面部分は右ガムテープの幅より長いこと及び固定の状態をより確実にする必要があることから、以上のように推定できる。
なお、右のように内包装した場合、必要な包装紙の長さは約七九センチメートル(木箱の底の短辺の長さの三倍に木箱の高さの四倍を加える。約17cm×3+約7cm×4=約79cm)であり、包装紙の長さは約一〇七センチメートルであるので、余分な部分を切り取ることになる。
④ 包装紙の残余の部分(後記図3包装紙切断図Aの部分)を使用し、外包装をする(後記木箱を図3包装紙上に置いた状況図及び図3(4)ないし(9)参照)。最終の固定は前記郵便小包包装セット在中の封緘シールを使用したものと認められる。前記押収してある紙片三二片によれば、包装紙の縞が小包表面上部から右下方へ流れている状況が認められるので、以上のように推定できる(図2参照)。
三、土田邸爆弾の包装に関する自白の信用性 その一 二重包装の自白の信用性
土田邸事件の爆弾小包の包装は、右のような二重包装であると推定されるが、この点は、土田邸爆弾の重要な特徴点であると認められる。
ところで、この点に関しては、金本が右特徴に一見合致する詳細な自白をしている(金本48・5・5員面及び48・5・6検面参照)ほか、中村(隆)が具体性においてやや劣るが同様に二重包装である旨の自白をしている(中村(隆)48・5・6員面参照)ので、金本の自白のほか中村(隆)の自白をも検討する必要がある。
結論的にいうならば、金本及び中村(隆)の各自白の内容には前記包装の状況及び手順として推定した結果と一致しない点も見られるばかりでなく、これらの自白は捜査官が前記特徴点について様々なヒントを与えて誘導した結果得られたものではないかとの疑いが残るのがあり、これらの自白の信用性には疑問が残るのである。
(1) 二重包装の自白内容の検討
(イ) 金本の自白の疑問点
① 金本の自白の包装手順は、前記推定の結果と一致しない。
a 金本の自白によれば、まず包装紙を二分の一に切断したというのであるが、金本48・5・5員面及び同48・5・6検面に添付された図面をも総合して見れば、金本の自白は、包装紙をその短辺に平行に二分の一に切断したという趣旨に理解するのが自然である(なお、二七八回金本の供述・一五三冊五一九五一丁以下参照)。しかし、そうだとすると、内包装用に切り取る包装紙の長さは最大約五三・五センチメートルとなり(前述したように、内包装用の包装紙はその長辺に平行に縞が流れていると認められるので縞の方向に平行に切り取る必要がある。後記図A参照)、前記推定の結果(約七九センチメートルが必要)に大きく足りないこととなる。なお、折返し包装をしなければ、内包装用の包装紙の長さは約五三・五センチメートルで足りるかどうか微妙なところであるが(前記古賀証言に従って木箱の大きさを求めれば明らかに不足する)、固定をより確実にする必要があること及び前記押収してあるがガムテープ片若干に付着している包装紙裏面部分はガムテープの側辺に沿って切り取られることなく、右側辺からさらに一センチメートルの長さに突き出している状況(その先端は爆発により破断した形跡が認められ、右包装紙はさらに長いものであったと推定される。)から、折返し包装がされたものと推定されるのである。また、金本の自白によっても折返し包装をしたことになっているのであって、折返し包装をしないとすれば右自白にも反することになる(折返し包装をしないとした場合、包装紙の長さは、木箱の底の短辺の長さ((約一七センチメートル))の二倍と高さの長さ((約七センチメートル))の二倍を加えたものに前記ガムテープ片若干に付着した包装紙裏面部分の長さ((約五・四センチメートル))を加算したもの以上となるので、約五三・四センチメートル以上となる。なお、木箱Aと同一寸法のものが使用されたとすると約五四・〇センチメートルとなる)。
b かりに金本の自白は包装紙の長辺に平行に二分の一に切断したという趣旨であると理解すると、内包装用に十分な長さの包装紙を得ることができる(後記図(B)参照)。しかし、右のような切断の方法は包装紙を二分の一に切断する方法としては不自然であるばかりでなく、二分の一に切断された包装紙の短辺の長さが約四三・五センチメートルしかなく本件爆弾の木箱の外包装をするのは非常に困難である。
c 金本の記憶の混同の可能性を考慮に入れ、まず内包装に使用する包装紙を包装紙の長辺に平行に切り取り、その後残余の包装紙をその短辺に平行に二分の一に切断し、その一方を外包装に使用したものと仮定して見る(後記図(C)参照)。そうだとすると、前述のように内包装用紙からも余分の部分を切り取ることになるので、結局包装紙全体の約五八パーセントが包装のため使用されたことになるが、土田邸事件現場から採取された包装紙の面積は、右包装紙全体の約七〇パーセントに達しており(金本五回証人川崎勝美の供述・金本一冊二四〇丁参照)、この採取量に足りないことになる。
d 以上の点を考え合わせると、犯人はまず内包装に使用する包装紙を木箱の底の長辺の長さに合わせて切り取ったのであって、包装紙の切断にははっきりした目的があったのであり、包装紙を二分の一に切断することは包装手順のどの段階でもされなかったと認められるのであるから、金本の自白と前記包装手順の推定の結果との不一致を記憶の混同とすることには疑問が残る。
② 内包装の段階における最初のガムテープによる固定状況について、金本の自白と前記推定の結果とは一致しない。
金本の自白によれば、二本の短いガムテープにより固定したというのであるが、前述のとおり、実物は比較的長い一本のガムテープにより固定したものと推定されるのであって一致しない。この点は記憶の混同の可能性が十分考えられるが、右①に述べた金本の自白の信用性についての疑問が右の点にも現われていると見る余地がある。
以上のとおり、金本の自白内容自体についても、その信用性には疑問がある。
(ロ) 中村(隆)の自白の疑問点
中村(隆)が内包装に使用した包装紙の形状について述べるところは、前記推定の結果と大きく異なる。
a 中村(隆)の自白によれば、内包装に使用した包装紙の形状は縦八〇センチメートルぐらい、横七〇センチメートルぐらいというのであって、前記推定の結果(約二八・五センチメートル×約一〇七センチメートル)と大きく異なるばかりでなく、同人の述べる大きさの包装紙を内包装用に切り取ると残余の包装紙で外包装することは不可能となる。
b 中村(隆)の自白によれば、外包装には内包装に使用したものより少々大き目の包装紙(同じレンガ色)を使ったというのであるから、そうだとすれば前記菅公工業株式会社製包装紙二枚(包装セット二組)が必要となるが、前述のように包装紙は一枚で十分包装可能であるので疑問である。
以上のとおりであって、これを記憶の混同あるいは知覚の不正確さに起因するものと見ることには疑問がある。
(2) 二重包装の自白が得られた経過の検討
(一) 土田邸爆弾小包の包装に関する自白の経過は、つぎのとおりである。
① 榎下48・4・8員面
堀から金本が土田邸爆弾を包装した旨聞いた。
② 榎下48・4・11員面
堀から金本が日石爆弾と土田邸爆弾の包装を担当した旨聞いた。
③ 榎下48・4・14員面
二回にわたりビックリ爆弾を製造した。二回とも同じメンバーであった。一回目に製造した際金本と堀が爆弾を包装した。
④ 中村(隆)48・4・16員面
金本は土田邸爆弾包装の任務を割り当てられた(同調書添付の図面には金本と前林が包装をした趣旨の記載がある)。
⑤ 中村(隆)48・4・17員面
前林と増渕が土田邸爆弾を包装した(一重包装)。
⑥ 増渕48・4・17員面
堀は金本に爆弾の包装を手伝わせているのではないかと思う(爆弾の製造及び包装現場には立ち会っていない)。
⑦ 榎下48・4・18員面
金本は爆弾製造の際は二回とも包装をやったりしていた。
⑧ 榎下48・4・19員面
金本が中心となり、前林及び江口が手伝って爆弾を包装した。
⑨ 金本48・4・20員面
自分が手製爆弾を包装した。
⑩ 中村(隆)48・4・20員面
包装紙について前林と金本が関係しているので二人によく聞いて下さい。
⑪ 中村(隆)48・4・26員面添付の供述書
包装は前林、金本、江口及び増渕がやったように記憶している。
⑫ 堀48・4・27検面
金本を連れて行ったので同人が包装する役割になっていたと思うが、同人が包装していたのを見たということが思い出せない。
なお、堀の四月二六日の取調状況を記載した取報(証七五冊一八七二三丁)によれば、堀が、金本が部屋の真中あたりで何か包んでいたと述べた旨の記載がある。
⑬ 金本48・4・27員面
自分と前林が市販の茶色っぽい包装紙で爆弾を包装した。増渕から動かすと危険だと言われひっくり返さずに包んだ。包装紙は箱に比較すると大き過ぎたので多少切ったようにも思うがはっきりしない。約四、五センチメートルの茶色っぽいガムテープを使いながら要所々々をとめた。
⑭ 増渕48・4・28員面
(製造現場に同席したと述べ)堀、前林及び榎下が包装の手伝いをした。金本がいたかどうかはっきりしない。爆弾を紙で包装し、糊かテープで貼りつけた。四、五日後これを中村(泰)に預けたが、その際同行した堀に包装をしっかりして宛名書をして持って来いと指示した。昭和四八年一二月一五日か一六日ごろ堀と金本が出来たと言って持ってきた。茶色っぽい包装紙に包まれ十文字に紐がかけられていた。
⑮ 堀48・4・29員面
金本が包装した。
⑯ 中村(隆)48・5・3員面
ただ、包装の点で思い出したことがありますのでこの際申し添えます。前に前林が最後の包装をしたと申しましたが、その前に金本が前に申した包装紙で木箱の爆弾の本体を上から包むようにした状況もありましたので参考にして下さい。この詳しい点につきましては明日よく整理して申し上げます(以上原文のまま)。
⑰ 金本の五月四日の取調状況を記載した取報(但し、中村(隆)の取調官である坂本警部補が特に金本を取り調べた状況に関するもの。証七七冊一九五〇二丁)
金本が「自分と前林が爆弾の木箱を包装した。二重包装である。最初は上から包むようにし、そのあとはデパートで包装するように全体的に包んだ」と述べた旨の記載がある。
しかし、金本は五月四日に右のような供述をしたことはない旨述べるのであり(二四七回・一三四冊四六九二一丁以下)、同人が五月四日に右二重包装の供述をしたかどうかについては疑問が残ることは後に述べるとおりである。
⑱ 金本48・5・5員面
二重包装の状況について詳細に供述。
⑲ 中村(隆)48・5・5供述書(証七六冊一九〇〇二丁)
前林及び金本の役割として、爆弾製造後、爆弾の固定包装と本包装をしたとの記載がある。
⑳ 金本48・5・6検面
⑱と同旨。
中村(隆)48・5・6員面
二重包装の状況を具体的に供述。細部についてはわからないとするも大筋において⑱に同旨。
(二) 捜査当局は、中村(隆)及び金本の自白より前に土田邸爆弾が二重包装であることなど前述した同爆弾の包装の具体的特徴を把握していたのであり、両名の自白によって初めて同特徴が明らかになったというもの(いわゆる秘密の暴露に準ずるもの)ではない。
すなわち、証人古賀照章の証言(金本四回・金本一冊一六七丁以下、二三九回・一二八冊四五二四一丁以下)によれば、「土田邸事件の爆弾の包装が二重包装らしいということは三月中ごろ以前に警視庁目白警察署の捜査本部で捜査結果として得ており、三月中ごろ日石事件と合同の捜査本部になって以後捜査を詰め、四月中ごろには二重包装であると推定していた。事件現場から押収された包装紙(破片)の量、包装紙の表裏が付着したガムテープ(包装紙の縞の方向がガムテープに垂直になっているもの)の存在、宛名の書かれた包装紙の縞の方向が宛名に対して斜めになっていることなどから推定した」というのである。
また古賀警部の部下であった川崎勝美警部補も同旨の証言をしている(金本五回・金本一冊、二五四丁以下)。
(三) 金本の取調官である平塚健治警部補は、金本の自白より前に土田邸爆弾の包装が二重包装と推定されることなどその特徴を知っていた疑いが濃い。
① 証人古賀照章の証言(金本四回・金本一冊一八七丁以下。以下これを「前回証言」という。)によれば、「(昭和四八年の)四月の終りか五月の初めごろと思うが、私の部屋に舟生管理官と平塚警部補が来て土田邸の包装紙について検討しているかという質問があったので、検討の結果(二重包装の推定)を説明した。この時平塚警部補の取調がどの段階であったかは知らなかった」というのであり、平塚警部補及び舟生管理官が金本の自白より前に古賀警部から二重包装の推定について説明を受けた可能性が高い。なぜならば、金本の自白より後のことであれば、平塚警部補、あるいは舟生管理官から古賀警部に対し金本が二重包装を自白したこと及び自白の内容について説明がされるはずであって、古賀警部が平塚警部補の取調がどの段階であったか知らなかったということはないと思われるからである。また、右古賀証言によれば、「平塚警部補及び舟生管理官に二重包装の推定について説明したのは四月の終りか五月の初めごろと思う。五月一〇日付報告書をまとめる前のことである」というのであり、かつ、「金本の自白と証拠物から推定した包装の方法とが一致するかどうかの検討を指示されたことがあるが、それは五月中旬ごろである。五月一〇日付報告書を完成した後と記憶している」というのであって、古賀警部は舟生管理官及び平塚警部補に二重包装の推定について説明した後、ある程度の日数(半月程度)が経過した後に、金本の自白内容を示されて証拠物との関係の検討を指示された趣旨を述べるところ、古賀警部に金本の自白内容の検討が指示されたのは実際は五月八日のことであり(金本五回証人川崎勝美の供述・金本一冊二三八丁、二三九回証人古賀照章の供述・一二八冊四五二六六丁・四五二八二丁以下)、従って、古賀警部が舟生管理官及び平塚警部補に二重包装の推定について説明したのも五月六日よりある程度の期間前の四月中のことであった可能性が高く、少なくとも金本の自白後である五月六日、七日のような、同月八日に接近した日のことではない可能性が極めて高い。
② 証人平塚健治、同江藤勝夫及び同舟生礼治は、いずれも土田邸爆弾の包装についての前記特徴点を全く知らされておらず、金本の自白を得た後、古賀警部の係の者に確認をとって初めて知った旨証言し、古賀警部も二三九回公判において前回証言の内容を変更し、証人平塚らの各証言に沿う旨を述べるが、いずれも措信できない。
まず、右各証言内容を摘記すれば、つぎのとおりである。
証人平塚健治の証言(一三一回及び一三九回・六〇冊二二九六三丁以下及び六三冊二四三八九丁以下)
五月五日午後、三〇分ないし四〇分間ぐらい金本に包装の実演をさせたところ二重に包装した。同人は内包装の段階で何か思い出したようにここで増渕からぴったりとめなければならないと叱られガムテープでとめたと述べたが、とめた位置に疑問を持ったので、実演を中断させて江藤警部に報告したところ、江藤警部がどこかへ確認に行って戻り、それでいいと言うので取調室へ戻ったということがあった。実演の途中で坂本警部補が取調室に入って来た。
証人江藤勝夫の証言(一三一回・六〇冊二二八七九丁以下)
五月五日の昼近く平塚警部補が包装の実演をさせたいと言って来たので、木箱などを持たせた。しばらくして同警部補が報告に来て金本が内包装にガムテープを使ったと述べているが状況がおかしいから相談に来たと言うので、古賀警部の係の者(川崎警部補)にその話を持ち込み確認したところ、その係の者が証拠物であるガムテープが貼りついた包装紙の紙片と照合し、断定はできないが金本の供述どおりにやればおそらく証拠物と合致すると言うので、平塚警部補に大丈夫だと話した。
証人舟生礼治の証言(二一三回公判・一〇六冊三九四〇六丁以下)
土田邸爆弾が二重包装であることは当初は全く知らなかった。五月初めごろ取調の途中かどうかまでは覚えていないが、平塚警部補が報告に来て金本が二重に包装したこと、内包装の段階でガムテープを使って特徴的な固定をしたことを供述しているが、大事な問題であるので証拠物との関係を知りたいとの申出があった。江藤警部が証拠物の関係について捜査を担当していた者の所へ行って聞いて来たのか、その担当者が来て説明を受けたのかはっきりしないが、金本の供述のとおりでいいという話であった。その翌日あたりに古賀警部が来て、昨日こういう話があったでしょう、あれは当たりだ、あれはどこへも誰にも言ってない話だけど本当の話だ、あの話は絶対に間違いがないと小躍りせんばかりの様子であった。非常に印象的であった。
証人古賀照章の証言(二三九回・一二八冊四五二四二丁以下。以下これを「今回証言」という。)
五月の初めごろ川崎警部補から、江藤警部が来て同警部から二重包装のことを聞かれたので説明したとの報告を受けた。金本が自白しているという話があったことを聞いたような記憶があるがはっきりしない。川崎警部補の報告を受けた後、舟生管理官に対し川崎警部補にどういうことをお尋ねですかと聞いたうえ、二重包装は証拠物と合致すること及び二重包装の具体的内容を説明した。舟生管理官は二重包装の技術的なことはよくわからないようであったため説明した。舟生管理官と話したのは舟生管理官の部屋か自分の部屋か覚えていない。その際平塚警部補が同席していたかどうかはっきりしない。またその際金本が自白しているということが話に出たかどうかはっきりしない。川崎警部補から報告を受け、舟生管理官に話をしたのは五月五日より後のことである。
以上の各証言は概ね合致するが、以下に検討する疑問があり措信できない。
(ⅰ) 証人古賀の今回証言は、前回証言の内容を基本的に変更するもので、以下に指摘する疑問がある。
a 舟生管理官らに二重包装の推定について説明する前に金本の自白が得られたというのであるならば、取調官に知らせていない事実でかつ犯人でなければ知り得ないと思われる事実について自白が得られたということであるから、古賀警部にとっても極めて印象深い体験であると考えられる。
b 証人古賀の前回証言は舟生管理官らに二重包装の推定について説明をしたという出来事から約五か月経過したに過ぎない昭和四八年九月二〇日にされたもので、記憶もかなり新鮮であったと考えられる。
c 従って、二重包装の自白が得られた後に初めて二重包装の推定について舟生管理官らに説明したということがあったならば、証人古賀は前回証言において証言する際にこの趣旨を述べるはずである。ところが、証人古賀は前回証言においてむしろ反対の趣旨を述べている。
d 証人古賀の二三九回公判における供述(一二八冊四五二六四丁及び四五二六六丁)によれば、舟生管理官らに二重包装の推定について説明したことにつき「前回証言においては包装紙というよりも包装そのものについて聞かれ、つけたりで包装紙のことを聞かれた。包装紙について聞かれるということはあまり予想していなかったため十分記憶の整理ができておらず不正確な証言をした」というのであるが、右a及びbに述べたことに照らし納得し難いばかりでなく、前回証言は検察官の主尋問に対する供述であって尋問内容に照らしても古賀証人が尋問を受けることを予想していなかったものとは考え難い。
e 証人古賀の前回証言後今回証言(昭和五六年九月二日)に至るまで約八年が経過しているが、同証人は今回証言において初めて正しい記憶を喚起したものと認めるに足りる合理的かつ具体的な理由を何ら述べるところがない。
f 今回証言においては、川崎警部補から報告を受けた際及び舟生管理官に二重包装の推定について説明した際に金本の自白が話題に出たかどうか、舟生管理官に説明をした際平塚警部補が同席したのかどうか、並びに証人古賀が舟生管理官のもとに赴いて説明をしたのかそれとも舟生管理官が古賀の部屋を訪れたのかなどの重要な点について記憶がはっきりしないなどという曖昧な証言内容になっている。
なお、前回証言は、平塚警部補に包装の状況について話したことがあるかとの検察官の質問に対しこれを肯定したものである。
以上のとおりであり、証人古賀の今回証言には多くの疑問点があって措信することができない。
(ⅱ) 証人平塚、同江藤及び同舟生の前記各証言は、証人古賀の前回証言に照らしその信用性に疑いを生ずるのであるが、さらに以下指摘する疑問点があり、措信できない。
a 証人平塚の前記証言によれば、包装実演の途中で上司に報告に行ったというのであるが、包装実演に立ち会った坂本警部補は「五月五日金本の包装実演に立ち会った。内包装の段階でガムテープによる固定についての供述があった。しかし、その時に平塚警部補が包装の実演を中断させて取調室を出て行ったようなことはない」旨証言し(二三九回・一二八冊四五三六六丁以下)、両証言は相反する。
b 坂本警部補が取調室退出後に前記の平塚証言のような出来事があったことの可能性について検討すると、坂本警部補は、前記のとおり五月三日に中村(隆)を取り調べて二重包装を窺わせる供述を得、五月四日には金本を取り調べたばかりでなく五月五日に同人の包装実演に立ち会い、しかも同日夕刻に包装の実演の状況について江藤警部に報告したというのであるから、もし前記の平塚証言のような出来事があったならば、同日そのことが江藤警部から伝えられるはずであるのに、証人坂本は「同日夕刻江藤警部のもとに赴き、包装の実演に立ち会ったが本当にああいう包装ですかねということを報告かたがた話した。その際証拠物と合致するというような話は聞いていない」旨証言する(二三九回・一二八冊四五三三〇丁以下・四五三七〇以下)のであって不自然である。
c 証人川崎勝美の証言(金本五回・金本一冊二四九丁以下)によれば、「五月五日と思うが、私のところに江藤警部が来て本件爆発物が二重包装というのはあり得るのかと質問するので、おそらく二重の包装をしたと考えられると説明した」というのであり、一見前記証人平塚、同江藤及び同舟生の各証言に合致するかのように思われる。しかし、前記証人江藤の証言内容と比較検討してみると、以下に指摘する重要な相違点が認められる。
前記江藤証言によれば、金本の自白内容を川崎警部補に告げて証拠物と合致するかどうかの確認を求めたというのであるが、川崎証言によれば、二重包装というのはあり得るのかと質問されたというのであって、金本の自白内容を告げられたというのではない。
前記江藤証言によれば、内包装の段階でのガムテープの固定方法に重点を置いて川崎警部補に確認を求めたというのであるが、川崎証言によれば、むしろ一般的に二重包装ということがあり得るのかと質問を受けたというのである。
前記江藤証言によれば、川崎警部補がガムテープを貼りつけた包装紙の紙片と照合し、断定はできないが、金本の自白どおりにやれば、おそらく証拠物と一致すると言ったというのであって、あたかも江藤警部が川崎警部補に確認を求めた時初めて内包装の段階における固定方法が判明したかのごとくであるが、川崎証言によればそのような状況は述べられず、すでに判明していた二重包装の推定について説明したと述べるにとどまる。
以上のとおりであるが、かりに前記江藤証言のとおりの状況であったとすれば、川崎警部補にとっても極めて印象深い状況というべきであるから、両者の証言内容に以上のような相違が生ずるとは考え難く、川崎証言は意を尽していないとか記憶違いとかということでは説明し難い。思うに、江藤警部は五月五日より前に坂本警部補から中村(隆)が二重包装を窺わせる供述をしたとの報告を受けたか、あるいは他から二重包装の推定について聞知するなどして、五月五日に川崎警部補のもとに赴き二重包装の推定について具体的な説明を求めたものに過ぎないと疑う余地があるというべきである。
(四) 坂本警部補は、二重包装の推定についてある程度の知識を得たうえ、五月三日に中村(隆)を取り調べ、二重包装を窺わせる供述を誘導し、同月六日には二重包装の具体的状況を誘導した疑いがある。
① 爆弾包装の現場に立ち会っている者ならば、二重包装ということは、特徴的なことであったというだけでなく、誤爆を防ぐために緊張感をもってされたであろうという点からも忘れ難いものであると考えられる。
② 中村(隆)は、四月一六日以降土田邸爆弾の製造状況について全面的に自白し、金本らが爆弾を包装した旨供述しながら二重包装については述べず(中村(隆)48・4・17員面では包装の状況を相当具体的に供述しているが、一重包装である)、五月三日になって突然二重包装を窺わせる供述をしたものである。
③ 中村(隆)が五月三日まで二重包装を隠さなければならない理由は見当たらない。
④ 中村(隆)が二重包装を失念していたということは考え難いが、かりにそうだとしても五月三日になって突然記憶を喚起するに至るだけの契機が見当たらない。事件に関係した者の個人別の行動を整理して行く段階で気付いたということ(中村(隆)48・5・6員面参照)だけでは記憶喚起の理由として納得し難い。
⑤ 中村(隆)の五月三日の二重包装を窺わせる供述はやや抽象的であり、同人が五月三日に記憶を喚起して供述したというのであればもう少し具体的な供述がなされるはずである。
⑥ かりに五月三日にはさしあたり簡単に供述したにとどまるというのであるならば(中村(隆)48・5・3員面には「この詳しい点につきましては明日よく整理して申し上げます」との記載がある)、同月四日、あるいは同月五日には具体的な供述がされるはずであるのに、両日には具体的な供述はされず、金本が二重包装について詳細な自白をした翌日の同月六日になって具体的な供述が録取されるに至っている。
なお、同月三日は中村(隆)は警視庁三田警察署留置場に午後六時三五分に帰房しているので(同人の留置人出入簿抄本・証七冊四七二五丁。取調場所は警視庁本部)、取調時間が特に不足して簡単な供述の録取にとどまったものとは考えられない。
⑦ 坂本警部補は、二重包装を窺わせる供述を五月三日に中村(隆)から得たこと自体は重視していなかった疑いがある。
坂本警部補は五月三日に中村(隆)から二重包装を窺わせる供述を得たが、同供述を重視したのであるならばさらに取調をして具体的な供述を得ようとするのが自然であるのに同月四日及び五日も二重包装に重点を置いた取調をしていない(二三九回証人坂本の供述・一二八冊四五三三二丁以下、四五三四四丁以下、四五三七八丁以下)。
坂本警部補は五月四日午後二時ごろ中村(隆)の取調途中で江藤警部に金本の取調をしたい旨申し出て了解を得、同日の中村(隆)の取調を早目に切り上げたうえ金本の取調をし、同月五日には同人の包装実演に立ち会っている(二三九回証人坂本の供述・一二八冊四五三四二丁、四五三三〇丁以下、四五三二八丁。八八回・九五回及び九七回証人坂本の供述・三九冊一四六〇八丁以下、四二冊一五八七四丁以下及び四三冊一六一七四丁以下)(中村(隆)の帰房時刻は午後二時二五分である。前記留置人出入簿抄本参照)。
⑧ 坂本警部補が五月四日に金本を取り調べたのは、中村(隆)が同月三日にした二重包装を窺わせる供述の信用性について金本から感触を取ろうとしたというものではなく否認を続ける金本を説得して自白に転じさせ、証拠物と合致する二重包装の供述を得ることに主眼があったのではないかと思われる。
他の被疑者から感触を取るためにはまず中村(隆)からより具体的な供述を得る必要があると思われるが、そのような取調をしていない。
金本は当時否認を続けており、否認を続ける被疑者からある個別的な事項について感触を取るために取調をするということはやや考え難い。
金本の担当取調官は平塚警部補であり、担当外の坂本警部補が特に同人を取り調べるのは異例のこととも見ることができるのであって、同人から感触を取る程度の目的であれば右のような措置をとるまでの必要はないと思われる。
五月四日は、平塚警部補が取調を休んだため、四月一九日から同月二七日まで主任取調官であった千葉巡査部長が金本の取調に当たっていたが(二三九回及び二四〇回証人千葉の供述・一二八冊四五四〇八丁以下及び一二九冊四五四八二丁以下)、同巡査部長の取調を中断させてまで坂本警部補に金本の取調をさせる必要はないと思われる。
坂本警部補は「落としの名人」と呼ばれており(一三四回証人市川敬雄の供述・六一冊二三四七〇丁参照)、五月四日までに取調を担当した松村及び中村(隆)から詳細な自白を得ていたのであって、その力量は上司からも高く評価されていたことが窺われる。
⑨ 坂本警部補は、警視庁目白警察署の土田邸事件捜査本部に所属したりして証拠物について知識を有していた者らと接触する機会がなかったとはいえない。
以上に述べた諸事情並びに前記(二)及び(三)で検討した事情をも考慮すると、坂本警部補は何らかの経路で二重包装の推定についてある程度の知識を得、中村(隆)にヒントを与えて五月三日に二重包装を窺わせる供述を誘導し、同月四日に金本を取り調べ、同月五日に同人の包装実演に立会って二重包装の具体的内容について詳細な知識を得たうえ、同月六日に中村(隆)に対し二重包装の具体的状況について供述を誘導したとの疑いがある。
(五) 平塚警部補及び坂本警部補は五月五日に金本に包装の実演をさせ、ヒントを与えるなどして二重包装の供述を誘導した疑いがある。
① 平塚警部補が古賀警部から事前に二重包装の推定について説明を受けていた疑いがあること及び坂本警部補が経路は判然としないが二重包装の推定についてある程度の知識を得ていた疑いがあることは、すでに述べたとおりである。
② 五月五日の金本の包装実演には二時間以上を要した疑いが強く、作業内容に照らし所要時間が余りにも長すぎる。
包装実演の作業内容は、包装紙一枚を半分に切り、そのうちの一枚を箱の長辺に合わせて切り、その包装紙によって箱を帯状に内包装し(ガムテープで固定する部分を口頭で指摘するが実際にガムテープによる固定作業はしない)、さらにその余の包装紙で外包装するというもので(一三一回証人平塚の供述・六〇冊二二九六九丁以下、二四七回金本の供述・一三四冊四六九三六丁以下参照。なお、増渕については公判調書中の金本の供述記載が証拠となる)、細部の記憶喚起に要する時間を見込んでも短時間で終了するものである。
包装の実演は、遅くとも五月五日午後一時ごろ開始された可能性が強い。すなわち、証人江藤の証言(一三一回・六〇冊二二八七九丁以下)によれば「昼近く平塚警部補が来て金本に包装の実演をさせてみたいと言うので木箱などを持たせた」というのであり、証人平塚の証言(一三一回及び一三九回・六〇冊二二九六七丁以下及び六三冊二四三九五丁以下)によれば「午後になって包装の実演をさせた。木箱などの準備に一五分ないし二〇分間ぐらい要した」というのであって、かつ、同日午後の取調は午後零時三五分から開始されている(金本の五月五日の取調状況を記載した取報・証七七冊一九五一〇丁参照)。
包装の実演は早くとも午後三時五分ごろ終了した可能性が高い。すなわち、右取報によれば、五月五日午後三時五分から午後三時二〇分まで休憩したとの記載があり、また、証人千葉の証言(二四〇回・一二九冊四五四七三丁以下)によれば、「五月五日午後三時三〇分ごろか午後四時ごろ出勤して取調室に入ると包装の実演が終ったということで、部屋全体がほっとしたというような感じだった。その後図面の作成が始まった」というのである。
証人平塚は「包装の実演は午後二時ごろから始め、三〇分間ないし四〇分間で終了した。図面の作成後午後三時か四時ごろから供述調書の作成を始めた」旨証言するが(一三九回・六三冊二四三九二丁以下)、右①ないし③に述べたことに照らし疑問があるばかりか、以下に述べる疑問がある。
すなわち、証人平塚は当初包装の実演を始めたのは午後一時ごろである旨証言しながら、その後において午後二時ぐらいからではないかと思う旨証言を変更したものである(一三九回・六三冊二四三九五丁以下)。
また、証人千葉の証言(二四〇回・一二九冊四五四七四丁、四五五〇二丁以下及び四五五九九丁以下)によれば、五月五日供述調書の作成が始まったのは夕食後であるというのであり、前記取報によれば同日午後七時に夕食、休憩が終了したものと認められるところ、供述調書の内容、丁数(本文八丁のもの)、同日は午後一〇時四五分まで取調がされていること(前記取報参照)に照らして証人千葉の証言は概ね措信できるのであり、前記平塚証言は、包装実演の所要時間が短いものであることを理由づけようとして、ことさら供述調書作成の開始時刻をさかのぼらせて供述した疑いがある。
③ 金本は、五月五日に平塚警部補及び坂本警部補から二重包装の供述を誘導された旨弁解するが、この弁解は具体的であり、必ずしも不合理とは言えない。
すなわち、金本は、「包装紙二枚と木箱二つを渡されそのうちの一つずつを選ばされて包装させられた。包装紙が木箱に比較してあまりに大きすぎたのでまず包装紙を半分に切った。つぎに包装紙の中心に木箱を置いて左右の紙を折り両側をとめるという方法やデパートで包装するような方法で包装したりしたところ、警察官から爆弾をたった一枚の紙で包んだのでは雨が降ったりいろいろな人の手に渡ったりして角などが切れたりすれば危険ではないか、一枚では不十分ではないかと言われた。そこで二重にするのかと思い、一回包んだ上にさらに包装紙で包装した。木箱を包装紙のどの部分に置いたのかと言われていたので、一重目はポリグラフ検査の際見た包装の仕方を参考に木箱を包装紙の真中に置いて包装し、二重目はデパートで包装するように木箱を包装紙の隅に置いて包装した。すると警察官がこんなにぼこぼこしていたのでは不思議に思われないかと言うので、それではどうしたらいいのかといろいろ考えさせられた。そのうちに警察官が箱の蓋の固定はどうしたのかと言うので、なるほどと思ったけれども、どうしたらよいのかわからないので黙っていた。さらに警察官が一番外の包装紙を開いたとき箱の一部が見える状態ではなかったかと言うので、それでは全体をくるむのではなくて蓋を固定するために帯のようにくるんだのかなと思いそのように包むと立ち会っていた坂本警部補が中村(中村(隆))もそう言っているとうなずいた。それまで何回も包み直しをやった。あとで箱の一部が見えるようにと帯状に包むのに用いた包装紙を、箱に合わせて切った。帯状に包装すると警察官からそれだけではすぐ紙がゆるむ、ガムテープを貼ったか、黒いテープを貼ってとめたのかなどと言われポリグラフ検査の際見た箱にガムテープが貼ってあったのでガムテープを貼ったと答えた。帯状の包装紙が長いため先端を箱の底の下に入れて包装したが、それでもまだ余分が出た。警察官が箱をガタガタさせては危険ではないか、箱の底を動かさないように固定しろと言うので、包装紙の先端を箱の底の下へ入れないで箱の側面の下辺にとめてガムテープで固定したことになった。ガムテープを貼る位置などについても指摘を受けた。その後さらに帯状にくるむと包装紙の最後の部分が余ったので、その部分を箱の底に入れなくてもよいように切断し、箱の反対側の側面でガムテープで固定した。最後にデパートで包装するように包装した」旨述べるのである(二四七回公判における金本の供述・一三四冊四六九三七丁以下。なお、増渕については公判調書中の金本の供述記載が証拠となる。増渕・前林二二回証人金本の供述・増渕・前林一〇冊三五六八丁以下をも参照)。
なお、検察官は、二重包装の内側の内部包装のガムテープの止め方については、金本がいかに強弁しようとも、ポリグラフ検査の際示されたのは包装してある箱の外見だけであって、これからはヒントを得ることさえできないのであり、金本の弁解が全く根拠のないことは明白である旨主張するが(論告要旨二二三頁・一五六冊二五九〇七丁)、証人根本宗彦の証言(一一三回・五一冊一九四〇八丁以下等)等に照らしても、ポリグラフ検査の際金本に示された複数の箱の中には包装紙の辺に平行に箱を置いて包装したうえガムテープで止めてあったものがあったということは十分あり得ることと考えられ(金本は内部包装の特徴的なガムテープの貼り方までをポリグラフ検査の際に知った旨弁解しているものではない)、検察官の右主張は採用するに至らない。なお、ポリグラフ検査を施行した証人小杉常雄の証言によれば、金本に示した箱のうちガムテープを貼ってあったものはない旨証言するが(二五五回・一四〇冊四八四二九丁以下)、約九年も前のこのような細部の事項について同証人が記憶を喚起できるとは考え難く、また同証人が記憶喚起の手がかりにしたメモも詳しいものではなく模擬爆弾の内容等(宛名の有無、紐がかけてあったことの有無)もメモに残されていないというのであり、小杉証言には疑問がある。また、そもそも小杉証人は、ポリグラフ検査の際金本に示した模擬爆弾等の形状については相当記憶が曖昧であるにもかかわらず、推測で証言しているのではないかとの疑いがある。すなわち、小杉証言によれば捜査本部から取り寄せ金本に示した模擬爆弾は海老茶色の包装紙で包装してあるもので、紐もかけてなく、宛名等も書いてなく、荷札もついていなかったというのであるが(二五五回・一四〇冊四八四二八丁)、前記メモにこの点についての記載があるものでもなく、証人根本宗彦の証言によれば、当時捜査本部にあった爆弾の模型で梱包してあるものであるというのであって(一一五回・五二冊一九六〇五丁。金本の弁解に一致する)、これと反するし、また、検察官の主張とも反し(補充意見書六六頁・一〇七冊三九九二〇丁によれば、ポリグラフ検査において金本に示したものは二重包装を施し、宛名も書き入れて完成させた模型品であるとする)、ポリグラフ検査の質問表に「土田邸に送った小包の現物提示」との記載があることにもそぐわないのであり、右小杉証言の信用性には疑問がある。
また、金本の弁解中には逮捕状にガムテープが記載してあったとの客観的事実に合致しないもの(二一回・一〇冊三四二〇丁)も含まれるが、金本の記憶違いと見る余地がある。
④ 金本は五月五日に至るまで長期間にわたり、厳しい取調を受けて来たのであって、五月五日の取調においても「否認をしていても自分は助からない。捜査官の追及に合わせた供述をすることもやむを得ない」との心境に陥ったとしても不自然ではない。
金本は、三月一五日から同月一八日までの間及び同月二四日犯人隠避の容疑で警視庁本部等に出頭して取調を受け、同月二九日に同容疑で逮捕されたが、同月三一日勾留請求が却下されて釈放され、翌四月一日以降同月一三日まで警視庁本部に出頭して取調を受けたが、この間の取調は実質的には日石土田邸事件に関するものであった。また、同人は同月一九日土田邸事件により逮捕され、同月二一日勾留された後勾留期間が延長されて取調を受けて来たものである。
金本は、四月二〇日に爆弾小包の包装等を自白するが数日後否認的な態度に転じ、同月二七日再自白するが、数日後否認に転じ、五月五日に再度自白したものである。また、同人は同月七日ごろ以後再び否認に転じた。
四月一九日以後五月四日までの出房時間及び帰房時刻(金本の勾留場所は警視庁本部留置場であり、取調場所も警視庁本部である。)を見ると、出房時間が一〇時間を超える日が八日間あり、帰房時刻が午後一〇時以後に及ぶ日が九日間あって、取調は長時間深夜に及ぶことが多かった。
四月一九日以後常時三人ないし四人の警察官が取調室に在室して取調をし、土田民子夫人の爆死体写真を示すなどしているのであり、厳しい追及的な取調や、認めれば情状面で有利になるなどと申し向ける同情的な取調がなされた疑いがある。また、担当取調官ではない江藤警部や坂本警部補が金本の説得を試みている(以上、金本調書決定・一四二冊四九一一七丁以下参照)。
⑤ 証人坂本の証言(二三九回・一二八冊四五三二四丁以下)によれば、五月四日に金本を取り調べて二重包装の供述を得たというのであり、同日の坂本警部補の取報(証七七冊一九五〇二丁)にも同旨の記載があるが、すでに述べてきたことに照らしこれらの信用性には疑問があるばかりでなく、以下に述べる疑問がある。
五月四日に金本が二重包装を供述したというのであるならば、細部にわたる供述はされなくともある程度具体的な供述がされるはずであるが、右取報の記載によればかなり抽象的な供述内容にとどまっているばかりでなく、中村(隆)の48・5・3員面に録取された二重包装を窺わせる供述内容と酷似しており不自然である。
五月四日は千葉巡査部長及び若杉秀康巡査部長らが午前一〇時三〇分から午後六時五五分まで金本を取り調べ(今村八弘巡査48・5・4取報・証七七冊一九五〇七丁以下)、坂本警部補がこの取調を中断させて午後四時三〇分から午後六時まで同人を取り調べたものであるが(前記坂本警部補の取報参照)、坂本警部補が取調に入るまで金本は否認を続けていたのであって、坂本警部補の取調において二重包装を供述したというのであるならば、その後の千葉巡査部長の取調においても否認の態度を改め自白に転ずるはずである。ところが、千葉巡査部長の取調状況を記載した報告書には、「被疑事実については、私は当時何をやったのかわからないんですと言うのみで進展がなく、説得したことについて良く考えて自分の気持を整理してみるよう促し、わかりました今晩考えますと申し立てたので取調べを打ち切った」との記載があるのであって自白に転じたことは窺われず、極めて不自然である。
なお、証人千葉の証言(二三九回及び二四〇回・一二八冊四五四一一丁以下及び一二九冊四五四九六丁以下)によれば、「坂本警部補の取調後交替して取調室に入った。金本に夕食をさせた。同人は私やっぱりやっていると言っていたがその日は取調はしなかった。坂本警部補の取調内容については同警部補から聞いていない。また、今村巡査作成の取報は坂本警部補の取調との関係等の点では正確ではない」というのであるが、金本が真実「私やっぱりやっている」と述べたというのであるならば、千葉巡査部長は具体的供述を求めて取調を続行するはずであるのに、反対に取調を打ち切っているのであって不自然であるばかりでなく、今村巡査作成の前記取報の記載に照らし必ずしも措信できない。
坂本警部補の取調において金本が自白に転じたのであれば、簡単にであっても千葉巡査部長にその旨が伝えられるはずであるのに証人千葉は右で述べたように伝えられていないというのであり、坂本警部補も千葉巡査部長に告げていない旨証言するのであって(二三九回・一二八冊四五三二七丁)、不自然である。
もっとも、坂本警部補は、「取調中に若杉巡査部長が同席したり千葉巡査部長であったかどうか知らないがちょいちょい顔を出したりしたことはあった」旨証言するが(九七回・四三冊一六一七八丁以下)、そうであるならば千葉巡査部長らは坂本警部補の取調における金本の供述態度を知り得たのではないかとも思われるが、証人千葉の前記の証言はこれと異なる趣旨である。
金本が坂本警部補の取調において自白に転じたというのであれば、四月一九日以来継続的に同人の取調官であった千葉巡査部長に対し、坂本警部補の取調において自白に転じたこと及び供述した事項程度のことは申し述べるはずであると思われるのに、そのようなことはなかったというのであって不自然である。
四、土田邸爆弾の包装に関する自白の信用性 その二 包装に関する自白全体の信用性
前項で検討した結果によれば、金本及び中村(隆)の土田邸爆弾小包の包装についての自白全体の信用性に疑いが生ずると言うべきであるが、さらに以下に述べる疑問があって、その信用性に対する疑いは否定できない。
(一) 金本の最初の自白は極めて曖昧であり、供述の変遷も見られる。
① 金本48・4・20員面によれば、一重包装にとどまるばかりでなく、缶か木箱に入った手製爆弾を包装したというのであって、包装した物の形状という重要な部分についての供述が曖昧であり、記憶の混乱とか記憶の不正確に基因するものと見ることはできない(逮捕状には菓子箱との記載があるにとどまり、缶か木箱か特定されておらず、そのため金本が特定できなかったものと見る余地がある。なお、四月二〇日の金本の自白は全体として曖昧であり、後記のとおり中村(泰)を参加メンバーとして挙げる等の疑問もある)。検察官は、金本48・4・22取報(証七七冊一九四四三丁)に依拠しつつ、金本は四月二〇日夕食時に出された目玉焼を見て涙を流し、その後の取調において「私は目玉焼が好きで、捕まるまで仕事から帰ると母が焼いて用意してくれていた。さっき夕食の目玉焼を見た時、母のその味を思い出し、母の立場を考えて泣いたのです」と打ち明け、取調官が娘を持つ母親の心情等を金本に説き聞かせたところ、同人は顔を伏せて泣き続け、やがて意を決して自白したものであり、金本は心中の葛藤を克服し、母親の立場を思いつつ、なお真実を述べる途を選び自白したものである旨主張する(補充意見書二九頁以下、一〇七冊三九九〇二丁)。
しかし、検察官が右に主張するとおりであるならば、金本の自白はより迫真力に富み、臨場感のある内容のものになるのではなかろうか。少なくとも、自己の責任に影響しないと思われる手製爆弾の入った容器の種類について特定しない態度をとったり、二重包装を隠したりする理由はないであろう。金本が夕食時に目玉焼を見て泣いて、その後に自白したようなことはあったかも知れない。しかし、金本は身に覚えのない嫌疑で身柄を拘束され、他の者が皆お前が包装した旨認めているなどと厳しい取調を受け、自分は否認しても助からないとの絶望的な気持に陥り、目玉焼を見て自分の身を案じている母親を思い涙を流し、ついに不本意な自白をするに至ったのではないかとの疑いを否定できない(金本調書決定四六頁以下・一四二冊四九一四一丁以下参照)。
② 供述の変遷
金本48・4・20員面では金本一人で包装をした旨述べているが、48・4・27員面では前林と一緒に包装したと変更される。中村(隆)及び榎下の供述の変遷に照応するものである(前記三(2)(一)参照)。
供述を変更した具体的理由は付されていない。
(二) 中村(隆)の自白内容には変遷がある。
① 48・4・16員面(一六丁のもの)
金本が包装の任務分担を割り当てられた(同調書添付図面には同人及び前林が包装した趣旨の記載がある)。
② 48・4・17員面
前林及び増渕が包装。
③ 48・4・19検面(本文二三丁のもの)
右同
④ 48・4・20員面
包装紙はそのままだったかそれとも途中を切ったかははっきりしない。前林及び金本が関係しているのでよく聞いてほしい。
⑤ 48・4・23員面添付の供述書
前林らが包装。
⑥ 48・4・26員面(本文三丁のもの)添付の供述書
包装は前林、金本、江口ら女性と増渕がやったように記憶している。
⑦ 48・5・3員面
前林が最後の包装をしたと述べたが、その前に金本が木箱を上から包むようにした状況もあった。
⑧ 48・5・5供述書(証七六冊一九〇〇二丁以下)
前林及び金本の役割として、爆弾製造後、爆弾の固定包装と本包装をしたとの記憶がある。
⑨ 48・5・6員面
増渕、前林及び金本が二重包装をした。
以上のとおりであり、供述の変更につき特に具体的な理由は付されていない(二重包装を供述したことにつき付されている理由が納得し難いことは前述のとおりである)。
(三) 捜査当局は、三月中に金本が土田邸爆弾小包の包装などを担当した可能性があるとの考えを抱くに至り、四月中ごろには一層その嫌疑を強めていた。
① 増渕は三月一三日「事件は江口及び堀と自分の三人でやった。江口が爆弾製造を、堀が爆弾郵送を担当した。江口及び堀のグループの者が手伝っているかも知れない」旨供述した(同日付員面)
② 捜査当局は、金本が堀と親密な関係にあったことを把握し、三月一五日から金本の取調を開始している。同人が堀を手伝って小包爆弾の郵送に関与している可能性もあると考えたものと推認される。
③ 堀は三月二七日今になってみれば土田邸事件の爆弾ではないかと思われる小包の郵送を金本に依頼したことがある旨供述し(同日付員面)、同月二八日増渕のアパートで金本か前林と思われる女の人が小包と思われる物に宛名を書いているのを見た旨供述した(同日付員面)。
④ 金本は三月二九日犯人隠避の容疑で逮捕され、以後ほとんどもっぱら土田邸爆弾の郵送関係を追及されるとともに堀に包装紙を渡したことや包装の方法を説明したことについて供述している(金本48・3・30員面、48・4・1員面、48・4・1検面、増渕・前林二二回証人金本の供述・増渕・前林一〇冊三五一四丁以下。なお、金本調書決定二六頁・一四二冊四九一三一丁参照)。
⑤ 後記(五)に述べるとおり四月一日金本は雑誌「服装」を捜査官に任意提出したが、同雑誌を検討した捜査当局は、同雑誌に掲載されたクリスマスプレゼントの包装についての記事に示された包装方法の一つが土田邸爆弾の外包装の方法に一致すると考えたものと認められる。古賀警部の係は、四月一三日ごろ上司の指示で右記事と土田邸爆弾の外包装の方法との比較検討を指示されている(金本五回証人川崎勝美の供述・一冊二四六丁以下、証五八号雑誌「服装」)。
(四) 土田邸爆弾の包装に関する最初の具体的な供述は、榎下48・4・8員面である(前記三(2)(一)参照)。そこで、同供述の経緯及び信用性について検討する。
① 右員面作成の経緯について榎下が述べるところによれば、「四月二日に神崎武法検事の取調を受け、その際同検事から金本という女性を知っているのではないか、包装や何かをやっているのではないか、堀から話を聞いているのではないかなどと言われ、このことがかなり印象に残った。その後警察官の取調において日大二高での話合いや薬品の運搬などを認めさせられ、まだ知っているはずだとの追及があり、四月八日午後八時ごろ留置場から出され、取調官の石崎誠一警部から警察で述べていないことを検察官に供述したといってものすごい勢いで叱られ、まだ知っているだろうと厳しい追及を受けた時、神崎検事から言われたことを参考にして金本という人が包装をやっているかも知れないと答えたところ、知っているのだろうと言われ堀から聞いたということにされた」というのである(二五〇回榎下の供述・一三六冊四七六八六丁以下。なお、増渕については二五〇回公判並びに公判準備手続調書中の榎下の供述記載が証拠となる)。
② 榎下は四月八日神崎検事の取調を受け、午後七時二〇分に一旦帰房するが、午後七時五五分再び出房し午後一一時四五分に帰房するまでの間石崎警部の取調を受けている(留置人出入簿抄本証八冊四八九九丁以下、一四三冊証人神崎の供述・六五冊二五〇五〇丁、一〇一回証人石崎の供述・四五冊一六六四六丁以下)。榎下は右神崎検事の取調において日石事件のアリバイ工作等の極めて重要な事項に関する供述をし(榎下48・4・8検面)、石崎警部は柴田参事官からその連絡を受け同夜榎下を取り調べたものであり、日石事件について知っているのなら土田邸事件についても知っているのではないかと考え発問したというのである(右石崎証言)。ところで、石崎警部の心情には検察官に先を越されたことに対する腹立ちがあったであろうことは推測に難くなく、午後八時近くから榎下を出房させて取調をしたものであり、その取調において腹立ちを榎下にぶつけたこともまた十分あり得ることであろう。そして、同警部は、榎下から同日の神崎検事の取調における供述内容以上のものを引き出そうと全力を傾けたものと思われ、榎下が弁解するように極めて厳しい取調がされたものと疑われるのである。
③ 神崎検事は、四月一日に金本を取り調べ、堀にドイツ製の包装紙を渡した旨、同人から包装が上手かと尋ねられたが下手だと答え、「服装」を見せた旨等の供述を録取しているから(金本48・4・1検面)、同検事においても金本が爆弾の包装をしている可能性もあると考えていたことが窺われ、従って同検事が翌四月二日に榎下を取り調べた際金本が爆弾を包装した可能性について言及することもあり得ることである。同検事は、「四月二日に榎下を取り調べた際金本を知っているかと発問したところ知らないという返事であった。包装のことについて発問していない」旨証言するが(一三八回公判・六三冊二四〇四三丁以下)、同検事が榎下に対し金本の爆弾の包装の可能性について言及しながらそれを失念して右証言に及んだということもあり得よう。
④ 榎下48・4・8員面の内容をより詳細に見ると、「昭和四六年一二月一八日夜堀と給田に行く途中堀から『ビックリ爆弾の製造は江口のアパートで江口が中心になり、増渕が手伝って出来上ったものを金本という保健所の女の人が包装してそれを前林が持って松本が運転して神保町の郵便局まで行き、前林が差し出した』と聞かされた。荷札などを誰が書いたかは聞いていない。爆薬については聞いたが忘れた」というのであり、爆弾の製造場所及び製造状況(榎下の関与の有無を含む。)など後に大きく変更される供述である。
以上に述べたところを総合すれば、榎下の前記弁解は排斥し難いのである。
(五) 金本は、捜査段階において、同人が土田邸事件の犯人であり爆弾小包の包装をしたとするならば不自然ではないかと思われる行動をとっている。
① 金本は三月二九日に犯人隠避の容疑で逮捕され、土田邸爆弾の包装などに関して取調を受けたが、土田邸事件への関与は否定しつつも自分のアパートに堀が出入りした日の特定に役立つとして昭和四六年当時の基礎体温表を提出し、堀に荷札を渡したことがあるとか、その際同人から小包紐がないかと尋ねられたことがある旨供述するなど捜査に協力的である(金本48・3・30員面、一一四回証人根本宗彦の供述・五一冊一九三八八丁以下)。
② 金本は、三月三一日勾留請求が却下され釈放されると、自分のアパートの自室を探してドイツ製の包装紙がなくなっていることに気づき、翌日検察官及び警察官の求めに応じて東京地方検察庁及び警視庁本部に出頭し、堀にドイツ製の包装紙を渡したことがある旨供述したばかりでなく、クリスマスプレゼントの包装の方法の記事が掲載された雑誌「服装」を持参して堀に包装が上手かと尋ねられ右記事を見せたことがある旨供述しているのであって、捜査に協力的な態度をとっている(金本48・4・1検面及び48・4・1員面、一一四回証人根本宗彦の供述・五一冊一九三九九丁以下、増渕・前林二二回証人金本の供述・増渕・前林一〇冊三五二三丁以下及び証五八号雑誌「服装」)。
確かに土田邸爆弾の外包装の方法と右「服装」の記事中の一つの包装方法とが合致すると認められるが(もっとも、この包装方法は、一般に最も広く行われているもので、特別なものではないと認められる)、金本が同記事を参考にするなどして土田邸爆弾の包装をやっているとすれば、進んで右雑誌を持参するとは考え難い。
③ 金本は、四月一日以降同月一三日までの間警視庁本部に出頭して取調を受けたが、取調官に対し身に覚えがないが信用してもらうためにはどうしたらよいかと申し出て、根本警部補の勧めに従って同月一三日ポリグラフ検査を受検している(一一四回証人根本の供述・五一冊一九四〇五丁以下、増渕・前林二二回証人金本の供述・増渕・前林一〇冊三五二九丁以下、二五五回証人小杉常雄の供述・一四〇冊四八四二四丁以下、科検所長48・4・18鑑定結果回答・証一〇五冊二五七一〇丁以下)。なお、この鑑定所見は、「適切な内容の質問が少ないため明確な判定ができない」というのであるが、包装及び宛名書に関する質問に対する金本の反応を見ても、異常は見られない。
以上のとおりであって、金本及び中村(隆)の土田邸爆弾の包装に関する自白の信用性には疑問がある。
五、土田邸爆弾小包の宛名書に関する金本の自白の信用性
金本48・5・5員面には、「自分が爆弾小包の包装後毛筆で宛先を書いた。あるいは前林が書いたのかも知れない。包装の前に堀の指示で前林とともに毛筆で荷札を書いた」旨の供述が録取されている。
また、金本48・5・6検面には、「包装後小筆で宛名書をした。前林は差出人の住所、氏名を書いたのではないかと思う」旨の供述が録取されている。
ところで、すでに述べたように(本章第一節二①参照)、土田邸爆弾小包荷札(証五二号)及び包装紙断片(証六〇号)中の宛名及び差出人の文字はすべて同一人の筆跡と認められるので、金本が前林とともに書いたとの右供述は虚偽であるというほかはない。
つぎに、すでに述べたように黒田正典作成の筆跡鑑定書二通によれば、同一人の筆跡は増渕のものであって金本のものではないというのであり、その信用性については前述のとおりであるが、金本の右供述の信用性に疑いを抱かせるには足りるものである。
以上のとおり、金本の宛名書に関する自白は信用できない(なお、この点に関する検察官の主張の採用し得ないことについても本章第一節二①参照)。
六、土田邸爆弾製造に関する金本の自白のその他の疑問点
① 土田邸爆弾の製造に関する金本の自白は具体性が十分でなく、臨場感に欠ける。犯人が最も緊張した瞬間だったと思われる最終結線の状況についても、具体的に述べられていない。
② 爆弾製造(あるいは包装)現場に居合わせたメンバーに関する金本の自白には、不自然な変遷がある。
金本は、当初中村(泰)が参加した旨述べるが(金本48・4・20員面、48・4・21検面)、48・4・27員面以後撤回する。48・4・29員面によれば、堀、中村(泰)とよく増渕のアパートに行ったことがあったので思い違いをしたというのであるが、納得し難い。金本は捜査官から「増渕のアパートで爆弾を製造(包装)したのではないか。参加メンバーは誰か」との追及を受け、金本が実際に堀、中村(泰)と一緒に増渕のアパートに行ったことがあったため、その記憶に基づき参加メンバーとして中村(泰)の名前を挙げたものの、中村(泰)等の取調によって同人が爆弾製造に関与していないとの心証を得た捜査官から、中村(泰)の参加について疑問を投げかけられたためこれを撤回するに至ったのではないかとの疑いが残る(二九回被告人金本の供述・一三冊四七二〇丁以下)。
金本の供述によれば、次第に爆弾製造のメンバーが追加されて行く。すなわち、48・4・20員面によれば金本、堀、中村(泰)、増渕、前林(他にいたかどうか思い出せない。)とされていたが、48・4・27員面で中村(泰)が撤回されて榎下が追加され、他に玄関を出入りしていた者が何人かいたようだが思い出せないとされ、48・4・29員面で江口及び中村(隆)(写真により特定)が追加されている。48・5・6検面では見張りを担当した者として坂本を写真によって特定している。しかし、右のような供述の変遷を金本が次第に記憶に喚起して行く過程と見ることは困難である。金本が右のように後に追加した者を庇う理由も見当たらず、右供述の変遷は捜査官の誘導による結果ではないかとの疑いが残る。
③ 金本48・4・20員面によれば爆弾小包に麻縄を十字にかけたというのであるが、土田邸爆弾小包にはキの字に紐がかけられていたものと推定されるのであり一致しない。金本48・5・7取報(証七七冊一九五一〇丁)によれば金本が小包にかけられた紐はキの字の形であった旨の供述をしたとの記載がある。しかし、48・4・20員面では金本が荷造りをしたとの供述であるが、48・4・27員面では増渕及び堀が荷造りをしたと変更され、48・5・6検面では増渕及び堀、あるいは前林が荷造りをしたというのであり、自分が荷造りをした旨述べていた時の荷造方法が客観的事実と一致せず、他の者が荷造りをした旨供述を変更した後に正しい荷造方法を述べるというのも不自然である。
④ 検察官は、金本がポリグラフ検査の際示された模型爆弾の蓋がずれていて中が見え、爆弾の構造について知識を得た旨弁解する点が虚偽であるとして金本の弁解を基本的に信用できないものと主張しているので(補充意見書五二頁以下・一〇七冊三九九一三丁以下)、この点について検討する。
証人根本宗彦の証言によれば、模型爆弾は梱包してあるもので蓋のはずれるものではないというのであること(一一五回・五二冊一九六〇五丁、一九六四二丁)及び金本の弁解は弁当箱及び円柱型の電池が見えた旨の、土田邸爆弾とは異なる構造(土田邸爆弾は電池が角型である。)の内容のものとなっていることに照らすと、金本の右弁解を鵜呑みにすることはできないであろう。しかし、金本は捜査段階において爆弾の構造について自白し、その後否認に転じた際にもポリグラフ検査の際弁当箱が見えた旨弁解していたものと認められ(金本48・5・2、48・5・5各取報・証七七冊一九四八九丁、一九四八九三丁)、金本が言逃れをするにしても、右のような取調官が捜査関係者に問い合わせることによって容易に虚偽であることが露見し、逆に追及の材料とされるような下手な弁解をするということには心理的な抵抗があるのではないかとの若干の疑問もないではないこと、金本の右弁解は具体的であること、金本の弁解は、根本証言のような小包のほかに、控室に置いてあった裸の木箱の蓋がずれていて内部が見えたというのであって、木箱自体をポリグラフ検査の際示されたのかどうかわからないというものであり(二四六回金本の供述・一三三冊四六六六七丁以下、二四七回金本の供述・一三四冊四六九六八丁以下、四七〇二三丁以下)、場合によってはポリグラフ検査の実施上は金本に示されなかった日石爆弾の模型が控室に持ち込まれていたというような可能性も完全に否定し去ることもできないことに照らすと、金本の右弁解を虚偽と断ずることも躊躇されるのであり、また、かりに金本の右弁解が虚偽だとしても、金本がポリグラフ検査の際示された爆弾模型等から何らかのヒントを得たということは事実あったため、金本が取調において、また法廷において弁解するに際し弁解の信用性を高めようとして修飾を加えたものと見る余地もあり、金本の弁解を根本から排斥しなければならないほど不自然なものということはできない。
以上のとおり、金本の土田邸爆弾製造に関する自白の信用性には疑問がある。
七、金本のその他の供述の信用性
(一) 金本の手帳に描かれた図について
金本48・5・17検面には、金本の手帳に描かれた図(証五七号)は昭和四六年九月下旬ごろ自分のアパートに堀が来て爆弾闘争の話をした際に堀が描いた爆弾の図であるとの供述が録取されている。
そこで検討すると、右手帳の図は疑って見れば爆弾の図と見られないこともないが、曖昧なものであり、右図自体からはこれが何を表わすものか判然としない。
ところで、右供述は、金本が土田邸爆弾の製造に関し全面否認に転じた後に検察官に対してしたものであることからすればこれを信用してもよいように思われる。しかし、金本は検察官から「君は爆弾のことを知らないと言っているが実際に図(48・4・27員面添付図面)を描いているのではないか」と追及され仕方なしに堀に手帳に爆弾の図解をしてもらったと供述したのであり、右手帳の図は何を表わすのか思い出せない旨弁解するところ(二九回被告人金本の供述・一三冊四七四九丁以下、七五回被告人金本の供述・三二冊一一八四〇丁以下)、右手帳を押収した捜査官は手帳に記載された図を爆弾の図と疑い、金本を追及したと認められること(増渕・前林二一回証人金本の供述・増渕・前林一〇冊三三七九丁以下、一一三回証人根本宗彦の供述・五一冊一九四一三丁、一三四回証人江藤勝夫の供述・六一冊二三五九三丁以下、一三一回証人平塚健治の供述・六〇冊二二九八〇丁以下)、前記金本48・4・27員面添付の爆弾の図は右手帳の図に酷似し、捜査官の追及のもとに右手帳の図を参考にして作成されたものと疑われること、金本は昭和四八年五月七日に従前の自白を撤回し、土田邸爆弾の製造に関し全面的に否認に転じ、同月一〇日に土田邸事件により起訴された後も連日取調を受けていたものであり、土田邸事件の製造に関し否認を維持するのが精一杯であったとの見方もあり得ること、金本は右手帳が捜査官に押収される前に右手帳の一部を破棄しているが(金本は、破棄した部分は堀に対する感情を記載した部分及びNHKのロシア革命についての講座の内容を記載した部分である旨述べる。増渕・前林二二回証人金本の供述・増渕・前林一〇冊三五八五丁以下。二九回被告人金本の供述・一三冊四五八〇丁以下参照)、右手帳の図が爆弾の図であれば金本がこれを破棄しないのはいささか不自然とも見られることに照らすときは、前記金本の弁解を排斥し去ることはできない。
(二) 金本48・4・1検面には、金本が堀にドイツ製包装紙を渡し、その時堀から包装が上手かと尋ねられ、「服装」という雑誌の包装についての記事を見せたとの供述が録取されているが、そのようなことは事実あったかも知れないけれども、堀の土田邸事件への関与に直ちに結びつくものとはいえず、これを情況証拠として重視することはできない。
第四節坂本の刑事第三部第一回公判における自白
一、坂本の自白の内容
坂本の自白の内容は、「昭和四六年一〇月一五日ごろ、東京都杉並区上荻所在喫茶店『サン』において、増渕、堀、中村(隆)、榎下及び坂本が集まった際、増渕及び堀から榎下及び中村(隆)とともに同都港区新橋所在の日石本館内郵便局に爆弾小包を差し出すについて自動車の運転をしてほしい旨依頼されてこれを承諾し、同月一八日約束の時刻に新橋に行き、中村(隆)の車から増渕及び前林を引き継ぎ、習志野陸運事務所まで運転して行った」というのである(中村(隆)証一七冊二五一五丁以下参照)。これは坂本の捜査段階における自白に概ね一致するものである。坂本はその後否認に転じている。
二、坂本の弁解
坂本の弁解は、要するに、「捜査段階で厳しい取調を受けて不本意な供述をさせられた。第一回公判で認めたのは、早く出て仕事ができる状態にしたいと考え、また、皆が認めているなら自分だけ否認しても無駄と考えたためである。その後否認に転じたのは、中村(隆)が本当のことを述べ、同人にアリバイが発見されたこと、他の人も否認したこと、自分だけすんなり執行猶予で出ても他の人に迷惑をかけると考えたことから弁護人と話し合い、本当にやっていないなら否認して行くべきだということになったためである」というのである(二五〇回証人坂本の供述・一三六冊四七六五一丁参照)。
三、捜査段階における自白の信用性
すでに坂本調書決定において判示したように、坂本の捜査段階における自白は榎下及び中村(隆)の自白に基づく捜査官の厳しい取調の結果得られたものであって、任意性に疑いがあるのであり、従って、その信用性にも疑いを生じさせるのであるが、さらに自白内容及び供述経過等に照らし見ても、信用性には疑問がある。
① 中村(隆)から引き継いだとの供述の虚偽性
坂本は新橋において中村(隆)から増渕及び前林を引き継いだというのであるが、前述のとおり中村(隆)にはアリバイが発見されており、坂本が中村(隆)から引き継いだと述べる点は虚偽である。検察官は、坂本48・4・15検面(本文一三丁のもの)には「中村のサニー」が後に停車したと述べられている点及び栗田検事の証言(一三七回公判・六二冊二三九九四丁)等に依拠して、坂本は日石爆弾の搬送を自白しながらも決して正面から中村(隆)本人から引き継いだと認めたことは全くなく、あくまでも注意深い態度で中村(隆)の車から引き継いだと供述しているのであり、これは坂本が車こそは中村(隆)の自動車であったものの、運転していた第二搬送者は実際には中村(隆)ではないことを承知していたからであるとし、48・4・21員面に中村(隆)本人から引き継いだ旨の供述が録取され、48・4・23検面に中村(隆)の車が自分の車の右側を通り過ぎて行く時、中村(隆)がちょっと手を挙げたような感じで「ヤア」という身振りをした旨の供述が録取されているのは、他の者を庇って虚偽の自白をしている中村(隆)の心情に同情し、中村(隆)本人から引き継いだ旨に歪曲しながら日石搬送を再自白したものと認められる旨主張している(補充意見書((その八))九頁以下及び一四七頁以下・一二二冊四三六七三丁以下及び四三七四二丁以下)。
しかし、坂本の自白を全体として見ると、検察官が主張するように当初の自白内容と再自白の内容とにおいて趣旨に相違があると見ることには疑問がある。すなわち、48・4・15員面(五丁のもの)によれば中村(隆)が新宿方面から走って来て私のセリカの後に停まった旨の供述が録取されており(検察官は根本警部補の証言((一一四回公判・五一冊一九四三二丁以下))に依拠して坂本の真意はあくまでも中村(隆)の車から引き継いだ事実のみを認めようとしたにとどまり、根本警部補は検察官に送致する時刻が迫っていたため簡略な表現で坂本供述を録取したものである旨主張するが((前記補充意見書一〇頁以下・一二二冊四三六七四丁)、右根本証言は、「中村君の青いサニーがとまったからということで、中村君から引き継いだと、こういう説明です」というのであって、必ずしも検察官の主張のように解するのが相当とは思われないし、検察官の主張どおりであれば少なくとも「中村のサニー」が停車したとの表現で供述の録取がされるのが自然と思われ、検察官の右主張は採用し難い)、48・4・15検面(本文一三丁のもの)に録取された供述も、「約束の場所に車をとめていたら見覚えのある中村さんのサニーが後の方からやって来て私の車の後にとまりました。中村さんは別に降りて来ないで増渕さんの奥さんのカアチャンが降りて来ました。(中略)(問)中村が来ることは聞かされていたのですか。(答)多分そうだったと思います」というのであり、48・4・15員面(本文一五丁のもの)でも、「サンで指示された役割は中村(隆)が乗せて来たトウチャンやカアチャンを私が引き継ぐという内容だったと思う。(中略)一〇月一八日見覚えのある中村のサニーが来て後方に停車した。『私が新橋のガード付近に駐車した場所と中村がサニーを停めた場所を略図にしましたから申し上げます。』中村は車から降りず、降りたのはカアチャンだった」との供述が録取されているのであって、坂本の供述は中村(隆)から引き継いだことを当然の前提にしているものと見るのが自然である。48・4・21員面では「一〇月一八日午前一〇時ごろ新橋の第一ホテルの前のガード付近で中村(隆)からトーチャンこと増渕とカーチャンこと前林を乗せて自分の赤色セリカを運転して習志野の陸運事務所へ行ったことは間違いありません」とされているが、これを当初の自白の内容と相違するものと見ることは相当でない。48・4・23検面(本文一六丁のもの)に録取された供述は従前の供述と異なるが、栗田検事が中村(隆)の供述(48・4・12員面)を基に取り調べ、坂本がこれに合わせた供述をしたものと思われる。また、検察官が主張するように、坂本が再自白後中村(隆)の心情に同情したというのならば、当初の自白の時点ではどうであったというのであろうか。坂本は当初の自白においても中村(隆)以外の者から引き継いだ旨述べているものではないのであり、検察官の主張を前提にしても、坂本は当初の自白においても他の者を庇う中村(隆)の心情に同情していたと見ざるを得ないのである。そのような坂本が、当初の自白において検察官の主張するような注意深い言い回しをするというのは不自然である。以上のとおりであり、検察官の前記主張は採用できない。
② 当初の自白の曖昧さ
坂本の当初の自白は曖昧な点が多く、いわゆる半割れの状態と見るにしても、不自然さが残る。
坂本が昭和四八年四月一四日の江藤警部の取調において作成したメモ(証七九冊一九七七八丁参照)を見ると、「昭和四六年一〇月一八日だと思います。車で新橋に行った気がします(新橋の近くです)。この時乗った人ははっきりわかりませんが、三人位いたと思います。東京駅か千葉かはっきり思いだしませんが千葉の駅の方だと思います。私が運転した車は赤色のセリカです。乗せた三人は、一人は増渕だと思いますが、もう一人は名前はわかりませんが女の人です(女の人は一人だったかもしれません)。昼近くだと思いますが、後で思いだします。この事はサンというキッサ店だと思いますが、一〇月一六日の夜だと思いますが、堀、榎下、中村、私、増渕がいたと思います。これは増渕が言ったと思います。私には車の運転をしてくれとの事でした。一〇月一八日の昼近く(後で思いだします)新橋の近くの所に(後で思いだします)来てくれとの事でした。目的は人を送って行く目的でした。これはたぶんアリバイの為だと思います。これはバクダンの荷物をゆうびん局に持って行ったのでこの為のアリバイだと思います。この事はくはしく思い出して明朝お話し致します」(原文のまま)との記載となっており、増渕らを乗せた場所及び時刻の詳細、乗せた人数、行先などの実際に体験した者であれば記憶が希薄化するとは考え難い事項について曖昧な供述にとどまっており、不自然さが残る(なお、坂本調書決定四〇頁以下・一四四冊四九六六七丁以下参照)。
③ 自白の不自然な変遷
坂本の自白には不自然な変遷がある。
サン謀議の日時
坂本48・4・14メモによれば昭和四六年一〇月一六日夜、48・4・15員面(五丁のもの)によれば昭和四六年一〇月初め、48・4・15検面(本文一三丁のもの)によれば昭和四六年一〇月一八日の二、三日前の日で午後八時ごろ、48・4・15員面(本文一五丁のもの)によれば昭和四六年一〇月一一日ごろの午後七時三〇分か八時ごろ、48・4・22員面によれば昭和四六年一〇月一六日か一七日ごろ、48・4・23検面(本文一六丁のもの)によれば昭和四六年一〇月一八日の二、三日前ごろというのであり、特に昭和四八年四月一五日の取調においては二転三転している。右のような重要な事項につき、犯行日の数日前であったのか、それよりもさらに前であったのかについて坂本の記憶が希薄化するとは考え難く(検察官の主張((前記補充意見書九二頁以下・一二二冊四三七一四丁以下))は採用し難い)、不自然といわざるを得ない。
サン謀議に増渕が参加したことの有無
坂本48・4・14メモによればサン謀議に増渕が参加し、増渕から車の運転を依頼された、48・4・15員面(五丁のもの)によれば増渕は不参加で堀から指示を受けた、48・4・15検面(本文一三丁のもの)によれば増渕も参加したと思うが堀から指示を受けた、48・4・15員面(本文一五丁のもの)によれば増渕が参加したかどうか断言できないが堀から指示を受けた、48・4・22員面によれば増渕も参加し、増渕及び堀から指示を受けた、というのである。しかし、このような事項について坂本の記憶が希薄化するとは考え難い。坂本48・4・14メモで一旦増渕の名前が挙げられているのであるから、その時点で坂本の記憶の喚起がなお不十分であったと見ることには疑問がある(検察官の主張((前記補充意見書八四頁以下・一二二冊四三七一〇丁以下))は採用し難い)。坂本48・4・14メモは厳しい取調のもとに作成されたものであったため、坂本はその内容を細部まで覚えていることができず、翌日の取調においてサン謀議の参加者としてあまり交際のなかった増渕の名前を挙げなかったのではないかと疑われる。
坂本が榎下からサンに来るように言われたが拒否したことがあるということと坂本がサン謀議に参加したこととの前後関係
坂本48・4・15検面(本文一三丁のもの)によれば、サン謀議に参加した一、二日後再び榎下からサンに来てくれと言われたが拒否したとされていたが、48・4・22員面において昭和四六年一〇月初め榎下からサンに来るように言われ拒否したが同月一六日か一七日サン謀議に参加した旨供述が変更されている。この供述の変更を坂本の記憶の喚起によるものと見ることには疑問があるし、坂本が右のような前後関係についてことさら虚偽を述べる理由も見当たらない。検察官は、後の供述が虚偽であり、これは坂本が他の者を庇う中村(隆)の心情に同情する態度をとるに至ったことと軌を一にするものである旨主張するが(前記補充意見書九三頁以下・一二二冊四三七一五丁以下)、前記に述べたところに照らし採用し難い。検察官の右主張によれば、坂本48・4・15検面(本文一三丁のもの)に録取された供述は、日石搬送から中村(隆)が離脱したことに伴い打合せがされた事実を裏付けるものであるというのであるが、坂本が搬送者に変更があったことを秘匿しつつ、その発覚の端緒となる供述を自ら進んでするというのも疑問がある。坂本が弁解するように、坂本は捜査官から何回もサンに行ったことがあるのではないかと追及されて48・4・15検面(本文一三丁のもの)のような供述をするに至ったものではないかと疑われる(検察官は坂本が警察官から右追及を受けた旨弁解する点を虚偽を捏造したものであると主張するが、坂本が警察官から右のような発問を受け、それが頭に残り、検察官の取調において供述するということもあり得ようし、坂本が検察官の取調と警察官の取調を混同することもあり得るのであって、検察官の主張を直ちに採用することはできない)。また、48・4・22員面において供述が変更されたのは、捜査官が、サン謀議後に再びサンに来るように言われた坂本がこれを拒否するというのは不自然ではないかと考え、坂本に問いただし、坂本がこれに合わせたことによるのではないかとの疑いを否定できない。
新橋で待ち合わせた場所
待合せ場所は、リレー搬送の成否にかかわる重要な事項であるから、十分確認がされるはずであり、記憶が希薄化するとは考え難い。ところが、坂本48・4・14メモによれば新橋の近くという極めて曖昧な内容であり、48・4・15員面(五丁のもの)によれば新橋のガード近く、48・4・15検面(本文一三丁のもの)によれば待機場所はよく思い出せないが新橋のガード近くというのであって図面を作成してもなお曖昧であり、48・4・21員面において新橋第一ホテル前ガード付近とし、48・4・23メモ(証七九冊一九八二二丁参照)及び48・4・23検面(本文一六丁のもの)において第一ホテル前と変更されるのであり、不自然である。以上は中村(隆)の自白と相互に関連するものである(坂本調書決定六七頁以下・一四四冊四九六八一丁以下)。
新橋で待ち合わせた時刻
待ち合わせた時刻も、待合せ場所と同様重要な事項であり、記憶が希薄化するとは考え難い。ところが、坂本48・4・14メモによれば昼近くだと思うというのであって極めて曖昧な内容であり、48・4・15員面(五丁のもの)によれば午前一一時一五分ごろとされるが、日石本館内郵便局に爆弾小包が差し出されたのが午前一〇時三〇分過ぎごろ、同小包が爆発したのが午前一〇時四〇分ごろで、その約二〇秒ぐらい前に犯人の女性が立ち去っているところ、日石本館と待合せ場所との距離から見て、待合せ時刻が午前一一時一五分ごろというのは、明らかに遅過ぎて客観的事実と相違し、48・4・15検面(本文一三丁のもの)によれば時刻ははっきり思い出せないが午前一〇時から一一時の間であるというのであって再び曖昧となり、48・4・15員面(本文一五丁のもの)によれば待機場所に午前一〇時一〇分か二〇分ごろ到着し、一〇分か一五分後中村(隆)の車が来たというのであってなお曖昧さが残り(この時刻ではやや早過ぎる)、48・4・23検面(本文一六丁のもの)によれば約束の時刻の五分ぐらい前に待機場所に到着し、五分ぐらい後に中村(隆)のサニーが来たというのであるが、約束の時刻については48・4・15検面(本文一三丁のもの)と同旨であり、48・4・25検面において約束の時刻は午前一〇時二〇分過ぎと思うとされるに至るのであって(引継現場で待機すべき時刻は明確に、かつ、ある程度の余裕を見込んだ時刻が指定されるはずである)、右のような供述経過には疑問が残る。
坂本が乗せた者
自分の車に誰を乗せたかも重要な事項であるところ、坂本48・4・14メモによれば増渕及び女二人(あるいは女一人)を乗せたとあるのが、48・4・15員面(五丁のもの)によれば女(前林)を乗せたとなり、48・4・15検面(本文一三丁のもの)によれば増渕及び前林を乗せた旨再び変更されるが、不自然である。検察官は、坂本は、四月一五日朝、根本警部補の説得を受け覚悟を新たにして真実を述べようとした段階でも、なお、自己の刑責をできるだけ軽くしようと考え、警察官の関心が専ら同乗の女性に置かれていることに乗じ、とっさの判断で首謀者である増渕と自己との関係ないし接触をできるだけ縮小して供述しようとして、増渕の同乗を秘匿し、犯行における自己の従属的な立場を一層印象づけようとしたものであり、同日栗田検事が軽い気持で「かあちゃん一人か。とうちゃんはいなかったか」と尋ねたのに対し、坂本は真実を見抜かれていると思い、あるいはいずれ真実が判明すると観念して直ぐこれを認めたものである旨主張するが(前記補充意見書一二七頁以下・一二二冊四三七三二丁以下)、坂本が増渕の同乗を秘匿したからといって坂本の責任に大きな差異が生ずるとは思われず、かりに坂本が検察官の主張するような判断のもとに増渕の同乗を秘匿したとするならば、栗田検事の取調において追及らしい追及を受けることもなくあっさりと坂本が増渕の同乗を認めるというのは(栗田証言一三七回公判・六二冊二三九九二丁以下及び一三九回公判・六三冊二四三二一丁以下)、不自然さが残るように思われ、前記検察官の主張は採用し難い。
④ 下見をしたとの虚偽供述
検察官は、坂本は四月一五日に根本警部補の取調において郵便局を下見した旨虚偽の自白をしているが、これは坂本が堀及び榎下と新橋を回ったり半蔵門に行った事実があったため、警察官の発問に迎合して、あえて推測ではありながらも下見と認めたものと理解されるのであり、その後右自白は撤回されているのであって、他の自白の信用性に影響を及ぼすものではない旨主張する(前記補充意見書四二頁以下・一二二冊四三六八九丁以下)。しかし、なぜ坂本が迎合して右虚偽を述べたかについて検察官は何ら説明するところがないのであり、前述した四月一五日の坂本の供述内容が重要な点においてその日だけで二転、三転している状況とともに、坂本が厳しい取調によって不本意な自白をさせられ無気力な状態に陥って捜査官のその時々の発問に合わせる供述態度をとっていたものであることを疑わせる状況と見ることができよう。
⑤ 48・4・16メモと同日の否認の状況
坂本は昭和四八年四月一四日に自白後同月一六日の取調においてメモを作成しているうちに否認に転じたものであるが、同メモの内容は客観的事実に合致しない疑いがあり、また否認に転じた状況は迫真力に富む。
坂本は取調官から車に乗せた増渕と前林の会話の内容をメモに記載するようにと言われて次のようなメモを作成した。すなわち、「二人の会話です。うまくいくだろうきっと。ここまではうまくいったのだから大丈夫だよ。まだまだ安心は出来ないよ。昨日(明日の誤記)はどうなるかな。もういそがなくてもいいんだから事故のない様に行ってくれよ。帰りは大丈夫だろうな。今日の件はだまっていろよ」(原文のまま)というのである。しかし、坂本の右メモのようなぎこちない会話を真犯人が交わすとは考えられないのであり、右メモの内容は虚偽の疑いが強い。
坂本の四月一六日の取調状況を記載した報告書(証七九冊一九七九六丁以下)によれば、「(坂本が前記メモを作成中)被疑者はここまで書いて鉛筆をすすめようとしないので、調官が『どうした。これで終りか』と言うと、被疑者は下を向き目をとじて何も答えようとしなかった。さらに調官が『思い出せないならそれでいいよ。今度はサンで堀らと会ったときの話を詳しく思い出して書いてみなさい』と言うと、被疑者は頭を下げてうなずいていたが、それから二、三分して急に顔を上げ、調官の顔を見てまた下を向いてから『私の一人言を話していいですか』と言ったので、調官が『ああ、いいよ』と言うと、被疑者は急に両手を机に置き顔を伏せて『本当は私は何もやっていないんですよ』と言いながら声を出して泣き出した。しばらくワーワー泣いたあと、被疑者は『本当に申し訳ありませんでした。本当は私は何も頼まれていませんし、習志野なんかにも行っておりません。何回も嘘をついたので信用してもらえないかも知れませんが私は何もやっていないのです。昨日話したことは新聞で読んだことや刑事さんの話をつないで話したのです。ですから嘘に嘘を重ねてしまったので今聞かれたような話の内容はわからないのです。調べがあまりきつかったのでやったと嘘をついていった方がよいと思って昨日話したのですが、これ以上嘘を話すことはできません。本当に申し訳ないことをしたと思っております。これからは、本当のことを話しますから勘弁して下さい』と言っていた」との記載があるが、坂本の真情を窺わせるものと見ることが可能である。
⑥ 再自白についての疑問
坂本は、四月一六日否認に転じた後、同月二一日再び自白するに至っているが、その際検察官においても虚偽と主張している土田リレー搬送を併せて供述している。しかし、坂本が真実反省して再び自白するに至ったとするならば同時に右のような虚偽の自白をするということは理解し難い。この点について、検察官は、坂本に一時的に自暴自棄的な気持が生じ『どうでもいいや、早く調べを終えてくれ」との気分になって右のような虚偽の自白をするに至ったものであるとし、坂本が右のような心理状態に陥ったのは、坂本が土田邸爆弾製造の見張りに関与しており、土田邸事件にも責任がある旨自覚していたこと及び勾留事実について否認を続けて来たが取調官らの説得追及によりついに包み隠しできなくなったという追い詰められた心境や自分の将来への悲観が重なり合ったためである旨主張するが(補充意見書その八・一二二冊四三六八七丁)、坂本がさらに自分を不利に追い込むような虚偽自白をするに至るほどの自暴自棄的気持に陥る理由として検察官が主張するところはいささか根拠薄弱といわざるを得ず、むしろ坂本は厳しい取調によって身の覚えのない日石搬送を再び自白させられ、絶望的な心境から自暴自棄になってさらに新たな虚偽自白をしたのではないかと見る方が自然なように思われ、検察官の右主張は採用し難いのである(なお、坂本調書決定九三頁以下・一四四冊四九六九四丁以下参照)。
⑦ 坂本の真情の一面
根本警部補の証言(一一六回公判、五二冊一九八四五丁以下等)によれば、起訴後坂本は同警部補が優しく接すると否認することがあったこと、坂本が習志野には行っていない旨否認し、中村(隆)に事実について聞いてほしい旨申し出たので、根本警部補が中村(隆)に特に面会したことがあったことが認められ、不本意な自白によって起訴された坂本の真情を窺わせるものと見ることが可能である(なお、坂本調書決定一一四頁以下・一四四冊四九七〇四丁以下参照)。
⑧ 習志野陸運事務所に関する供述
検察官は、坂本の習志野陸運事務所の状況に関する自白は同事務所の外観、位置、駐車場の位置等主要な点ですべて客観的状況に合致しており、しかも、これは坂本が四月二四日に実況見分のために同事務所に赴く前に供述されていたものであるから、その証拠価値は高い旨主張する(前記補充意見書一八八頁以下・一二二冊四三七六三丁以下)。また、検察官は、坂本が都内の陸運事務所の状況を参考にして想像で供述した旨弁解するところは習志野陸運事務所と都内の陸運事務所とは状況において顕著な相違があること等に照らし信用できない旨主張する(同意見書一九〇頁以下・一二二冊四三七六三丁以下)。
そこで検討するに、なるほど坂本の自白と習志野陸運事務所の客観的状況との一致度は比較的高いが、坂本の当初の自白を見ると左図のとおりであり、一番最初は道路の突当りに位置する図を作成してその後訂正したことが認められ、一番最初の図は習志野陸運事務所の客観的状況と大きく相違するものである。捜査当局はすでに右事務所の客観的状況を把握していたものと認められ、右図面の訂正には取調官のヒントなどが介在した疑いがある(三〇回公判証人坂本の供述・一三冊四九一五丁以下)。
(坂本48・4・15員面添付略図)
(習志野陸軍事務所略図)
また、坂本の自白によれば同事務所の建物は古い木造、あるいはプレハブ造りであるというのであるが客観的事実と合致しない(昭和四二年に業務を開始したものでモルタル造りの建物のようである。(員)48・4・28実見(謄)・増渕証三冊五二二丁以下、坂本48・4・24員面参照)。
つぎに、坂本のこの点の弁解についてであるが、たしかに習志野陸運事務所の客観的状況は都内の陸運事務所のそれとかなり相違するけれども、庭が広い点や検査上屋が細長い建物となっていることが多い点など共通部分もあり((員)49・4・17写撮(謄)・証八三冊二〇七六一丁以下)、坂本がこれらの点にヒントを得たということはあり得ることであって、坂本の弁解を虚偽と断じ得るには至らない。
右のとおりであり、坂本の右自白の信用性にも疑問を挾む余地がある。
以上のとおり、坂本の捜査段階における自白の信用性には疑問がある。
四、坂本の第一回公判における自白の信用性
坂本が第一回公判において起訴事実を認めた理由及びその後否認に転じた理由について弁解するところ(前記二参照)は、それ自体特に不自然、不合理な点もなく理解し得るところであり、前述したように坂本の捜査段階における自白の信用性に疑いがある以上、これと同旨の坂本の第一回公判における自白の信用性にも疑いがあるといわなければならない。
検察官は、坂本は第一回公判で弁護人の質問に答え「いけないことという感じがあったが、郵送の後の人の送りだからということで承諾した。サンで増渕が榎下、中村(隆)に対し『ばれたら死刑だ。だからやらなきゃだめだ』というように命令していた」と従来捜査段階においてさえ述べていなかったことまで供述している旨主張するが(論告要旨二二九頁・一五六冊二五九一〇丁)、これは、弁護人が坂本から情状面において有利な供述を引き出そうとの配慮から誘導質問をし、坂本がこれに応じたものであって真実性に乏しい。また、検察官は、坂本は弁護人からサンで行動の割当てを受けたことは間違いないかと再三念を押され、最後に良心に恥じないで断言できるかと質問されてもそれを肯定している点を指摘するが(論告要旨前同頁)、坂本が前記弁解のような考えから第一回公判において基本的に起訴事実を認める態度をとっている以上、弁護人の右のような質問に対してもこれを肯定することにならざるを得ないと考えられ、検察官が右に指摘する点を重視するのは相当でない。
第五節被告人松村の刑事第四部第一回公判における供述
松村は、併合前の刑事第四部第一回公判の冒頭手続において、公訴事実(増渕らが土田邸事件の犯行を行うことの情を知りながら、昭和四六年一〇月二三日ごろから一一月中旬ごろまでの間数回にわたり自己の勤務先である日大二高の職員室等を連絡・謀議の場所として提供して幇助したというもの)に対し、「増渕らの殺害の目的は、聞いていなかったので知らなかった。その他の事実は起訴状記載のとおりで間違いなく、その結果警務部長の奥さんが亡くなり、また息子が怪我をして申し訳ないと思っている」旨供述した。
そこで、松村の右供述の信用性について検討すると、松村の右供述は、もとより第一回公判に臨むに先立ち弁護人と打合せをし、その助言をも受けた上でしたものと思われ、その信用性はその限りにおいては高いもののように思われる。
しかし、右供述は、公訴事実に対する認否であり、その内容は包括的で、具体性も十分でなく、松村は、(第二回公判が延期された後)第三回公判で否認に転じ、以後否認を続けているものであるところ、すでに判示した、日大二高における日石事件謀議、日石事件総括、土田邸事件謀議に関する中村(隆)の供述の信用性には疑問があるとの検討結果をも考慮するときは、右のような公判廷における供述であるとしても同様信用性に疑問があるといわざるを得ないばかりでなく、それに先行する捜査段階における松村に対する取調及び供述の状況等を考察しても、そのように認められるのである。
すなわち、松村の取調に当たった坂本重則警部補の証言(松村九回及び一〇回・松村二冊五一一丁以下及び三冊五九二丁以下、七九回・三四冊一二四九一丁以下、九六回・四三冊一五九七〇丁以下等)、及び平塚健治警部補の証言(一三一回・六〇冊二二八九八丁以下、一三二回・六〇冊二三〇九二丁以下、一三八回・六〇冊二四一四九丁以下等)、松村の取報及びメモ報(証七七冊一九一〇六丁以下)、松村の員面、検面及び供述書を総合して検討すると、まず、松村の捜査段階の供述には、他の共犯者の自白と同様、秘密の暴露又はそれに類する事実が含まれていないうえ、日大二高の当直日誌、用務員日誌に記載された松村の宿直の日及びその際の来客の人数等を基にして謀議があったとすればこの日ではないかとの捜査官の見込みの下で取調が行われ、その見込みによる誘導と、それに対する迎合とが相俟って供述が積み重ねられて行った疑いを否定できない(なお、このような日の特定の仕方の好例としては、増渕、堀が電話帳を持ち出した日について、日大二高の当直日誌の九月一五日の欄に「OB二名」と記載されていることを基にして特定させていたところ、その「OB二名」が用務員日誌により堀と榎下であることが判明し、根拠を欠くことが明らかになったことを挙げることができる((松村48・4・6員面48・4・30員面参照))。坂本警部補の証言によれば、電話帳持出しの日の特定については松村が「その日の当直日誌にはOB二名と書いてある」と言ったので、その当直日誌を示したところ特定されたというのであるが((七九回・三四冊一二五一七丁以下及び九五回・四二冊一五八三五丁以下)、松村がそのようなことまで記憶しているとは考えられないのであって、同警部補が供述の信用性があるように装うために適当な理由を作為したことを示すものであり、この点につき同証人が述べるところが措信できないことは明らかである。かえって、坂本警部補があらかじめ当直日誌を見ており、「OB二名」とあることを知った上で、日の特定を誘導したものと認められる)。松村は四月四日から同月一一日まで坂本警部補の取調を受けたものであるが、同警部補は、前述のようにその後中村(隆)の取調を担当したもので、中村(隆)に対する取調について前述したのと同様に、松村に対しても独特の説諭、訓戒等を含む取調方法を用いて取調をし、松村の自白を得るに至っているが、取調に対する松村の対応は、前述の中村(隆)の対応と甚だ類似していることが、同警部補の取調の下で作成された員面調書、取調状況報告書や松村作成のメモから認められるのであり、従って、中村(隆)の場合と同様に、松村の場合についても、松村が主犯者とされている増渕らとは別異に取り扱われて寛大な処分を受けたいと考え、そのために同警部補に反省の態度を見てもらおうとして、虚偽のことを自白している疑いなしとしないのである。しかも、他の者の供述内容の変遷につれて松村の供述も変遷している部分も見受けられるところから、同警部補が他の者の供述内容を知った上で誘導的な取調を行った疑いがあることも、中村(隆)の場合と同様である。
そのような中で小包爆弾を作りこれを郵送することについての二高謀議の供述を他に先駈けてするに至っているが(48・4・7員面、本文一〇丁のもの)、この点についても、榎下からもすでに日大二高で増渕、堀らから爆弾闘争の相談を持ち掛けられたことがある旨の供述がされており(榎下48・4・3員面)、この供述を基に松村を追及した結果、これに迎合する形で供述をした疑いを否定し去ることはできない。その供述中には、爆弾郵送の対象についての増渕の発言として、「警察庁長官、警視総監、特に柴野同志を虫けらのように虐殺した土田は血祭りにしなければならない」と述べたというのであるが、翌48・4・8員面(八丁のもの)により、土田の名はその際爆弾郵送の対象として出ていなかった旨変更されており、その理由として記載されているところを見ても、日石二高謀議の段階で「土田」の名が出るのはおかしいとの捜査官の見込みに基づく指摘により変更されているのは明らかであろう。また、増渕、堀、江口、前林四名に日大二高の放送室を使用させたとの点についてもそのころ供述されているが、日石総括は48・4・9員面にようやく現われ、土田邸二高謀議についてはいまだ供述されないままであって、日石総括の会合の点も、捜査官が当時のいわゆる過激派の行動パターンに基づく見込みや榎下の供述(48・4・8員面)による誘導の結果ではないかとの疑いを容れる余地があり、また、これらの供述内容についても、秘密の暴露等を含まず、むしろ当時の捜査官が他の者の供述内容等を基に立てた見込みの反映ではないかとの疑いを抱かせるものである。
四月一一日夕方から坂本警部補に代わって平塚健治警部補が松村の取調官となったが、四月一二日には日石総括の際の状況として、松村の任務分担につき増渕から指示された内容として小包用包装紙、麻紐、荷札、セロテープの購入が加えられ、それを日大二高の正門の向かい側の文房具店で購入して一〇月三一日に堀に渡した旨の自白をするに至り(48・4・12員面)、さらに日石事件でも買っていないかとの追及を受けるうちに、お茶の水の明大前の文房具店と御徒町の松坂屋の近くの文房具店で小包セットを買った旨供述し(明大前の購入については日石総括後の購入としてメモが作成されている)、そして、その状況をさらに詳しく供述するように求められるうちに、供述に窮したことが原因となって、一旦謀議等を含め全面否認に転じていること、そしてその後上司の江藤警部が取調室に来室して説得すると再び全面的に認め、同人が退室してしばらくして、文房具店からの購入を否認したり、認めたりする動揺を繰り返し(四月一三日の取調に関する取報・証七七冊一九一七〇丁等参照)、翌日文房具の購入についても従前の供述調書の記載のとおりである旨認めたが、さらに、一日おいて一六日弁護人と接見した直後から、再び謀議を含め全面否認となり(大晦日の二高口止めも含む)、その後被疑事実をそれまでの犯人隠避罪から爆発物取締罰則違反、殺人、同未遂罪に切り替えられてその逮捕状の執行を受け、一八日夜まで否認を続けたが(但し、昭和四六年九月二六日の宿直室使用、一〇月三一日の放送室貸与の点は認めていた)、取調官の説得により、再び全面自白に転じ、ただ詳細な説明を求められてもそれができない旨述べる状態が続いた(この点については、四月二〇日及び二一日の取調に関する取報・証七七冊一九二一四丁ないし一九二二四丁参照)。その後四月二二日になり、土田邸二高謀議(一一月一三日とする)につき供述したことにより、日大二高における謀議の自白がようやく出揃うに至った。
ところで、平塚警部補の取調の特色としては、特定の事項について被疑者になるべく具体的かつ詳細に供述させることに意が注がれており(金本の取調にもこの傾向が見られる)、そのような取調方法自体は、供述内容の真偽を明らかにする上で役立つものということができるが、松村は、他の者が供述していない事項等につき詳細を供述するように求められたのに対し、虚偽の事実であるが故に供述に窮した結果、これまでの迎合的態度を続けられなくなり、全面的否認に戻ったとの疑いがあることを否定することができない(特に四月一六日の取調に関する取報の記載・証七七冊一九一九六丁以下参照)。また、平塚警部補は、松村に対しても、従前の供述が虚偽であるならば、何故そのような虚偽を述べたかについて理由を尋ね、かつ種々の説得を繰り返すことによって、同人を再び自白に引き戻すとともに、さらに、同人に土田邸二高謀議という新たな自白を付加させるに至っており、この点において、榎下、坂本、中村(泰)の場合と同様の経過をたどっていることが認められるのである。右のような供述経過をたどり新たな自白が付加される場合には、しばしば明らかに虚偽と認められる内容の自白がされることがあり、榎下、坂本の各土田邸爆弾リレー搬送の供述、中村(泰)の日石爆弾包装の供述などはそのような例として挙げることができるが、このような供述は否認をしたことに対する悪い心証を拭い去ろうとする一種の迎合的心理によりなされることも十分考えられるところであるといわなければならず、松村の土田邸二高謀議の自白については取調官の追及に対する迎合的心理によりなされた疑いがあることを否定できないと思われる。
以上のように、松村の供述態度には、坂本警部補の取調中に形成された迎合的態度が、その後の取調においても、時には中断されることはあっても、基本的には維持されて継続し、そのような状況の中で自白が積み重ねられて行った面があることを否定し難いといわなければならない。そして、その後「私の今の心境」と題する五月四日付の手記(証七七冊一九二七四丁以下)や、同月一五日付の裁判官宛の嘆願書(証七七冊一九二八九丁以下)が書かれているのも、中村(隆)らの取調の場合と類似しており、松村の場合も公判で否認に転ずることがないようにそのような方法を捜査官が意識的にとらせていた疑いがあるといわなければならず、そのような中で、松村が自己の第一回公判で前記の陳述をするに至ったものと認められるのであって、第一回公判に至る以上の取調経過及び供述内容等に照らして考察すれば、第一回公判における松村の供述につき、公判における供述であるからといって高い信用性があると見ることはできないものである。
なお、日石総括の際、松村が小包用包装紙、荷札等を購入するよう指示されて、これを日大二高付近の文房具店で購入した旨の松村の供述は、日石総括に関する他の共犯者の供述と符合しない独自の供述であり、検察官も、この点について榎下の母が経営する雑貨店にあった物を使用した旨の榎下の供述を採用しており、また松村の右購入の裏付けとなる他の証拠もないもので、信用性に乏しいものといわざるを得ないものである。
また、九月二六日の増渕らに対する宿直室貸与の点も、検察官が採用しない事実であることとのほか、同日松村が宿直を行ったことは前記日大二高の宿直日誌からも明らかであるものの、その日は増渕が旅行中であるとされている日であって、中村(隆)の供述中増渕のアパートで配線図などを描いて説明した日も当初九月二六日とされていたのが九月一九日に供述が変更されていることや、他に宿直室使用について供述する者がないことなどに照らし、同様信用性に乏しい供述といわざるを得ないものである。
さらに、一〇月三一日増渕ら四名に放送室を使用させたとの点も、右宿直室貸与とともに四月七日ごろ坂本警部補に対し供述されていた事項であり、これに符合する供述もなく(なお、中村(隆)はこの日を土田邸二高謀議として供述しているのであるが、その状況は松村の供述するところと符合しない)、これのみを措信できるものとする理由に乏しい。
このように見ると、松村が四月一八日否認に転じた間に一部認めていた日大二高を増渕らに使用させたとの点についても、他の事実は否認しながらこれを認めていたことを理由として信用性が高いものとすることはできない。
以上の諸点を総合すれば、松村が捜査段階で再び自白し、第一回公判で起訴事実を認めたのは、それらが虚偽であるにもかかわらず、これを認めて反省の態度を示すことにより、主犯者とされている増渕らと同一に取り扱われることなく、刑の執行猶予等の寛大な処分を得たいとの期待から出たものとの疑いがあるのであって、結局、松村の第一回公判における供述の信用性は疑わしいものと認められる。
第六節「二高口止め」に関する坂本の供述
一、「二高口止め」の供述
昭和四七年一二月三一日の日大二高における口止めについては、坂本が他の者に先駈けて「昭和四七年一二月三一日、日大二高で堀から藁半紙に署名させられ、増渕らが目白事件に関与したことを口外しないようにと口止めをされた。帰りに中村(隆)のところに寄った」旨供述している(坂本48・3・29員面)。
しかし、この供述内容を具体的に検討してみると、以下のような疑問がある。
二、坂本の供述内容の検討
① 坂本の供述によれば、「堀から俺達は目白の事件に関係しているんだ。今父ちゃんが調べられているが、事件のことをしゃべったらしい(あるいは事件のことはしゃべらないだろう)と言われた」(48・4・1検面)、「堀からいま父ちゃんが捕まり、目白の爆弾事件のことで大分調べられていると言われた」(48・4・2員面、4・3検面)というのであるが、昭和四七年一二月三一日の時点では増渕は身柄を拘束されておらず、また土田邸事件について取調を受けていることもなかったのであり、客観的事実と相違する。検察官は、この点につき、同年九月一〇日の増渕逮捕後当時の増渕の弁護人が救対と連絡をとらず、また増渕自身も保釈後救対と連絡をとらなかったため、堀らが増渕の身柄状況ないし取調状況を十分把握できなかったのであり、堀が同年一〇月の増渕の再逮捕の被疑事実を誤解して前記のような客観的事実と相違する発言をしても不自然ではない旨主張する(論告要旨二六六頁以下・一五六冊二五九二八丁)。しかし、増渕、堀らが土田邸事件の共犯者であるならば、少なくとも増渕は保釈後堀らにその旨を連絡し、取調の概要程度(土田邸事件に関連する取調の有無及び供述状況)は伝えるものと思われ、検察官の右主張は採用し難い(なお、中村(隆)48・3・31員面によれば、「昭和四七年一一月ごろ堀から『オトウちゃんから職場に電話があった。一時釈放されたが、玄関を出ていくらもたたないうちに再逮捕されたのだ』との話を聞いた」旨の供述が録取されている)。
② 坂本の供述によれば、堀から「目白の事件」、「目白の爆弾事件」と言われたというのであるが、土田邸は豊島区雑司が谷に所在し、目白の近くではあるが目白に所在するものではないから、必ずしも同事件の犯人が土田邸事件を目白の事件と呼称するとは思われない。土田邸事件の所轄署は警視庁目白警察署で、同署に右事件の捜査本部が設置されたことに照らすと、目白の事件という呼称は捜査当局の部内におけるものと見るのが自然なように思われ、右捜査本部の一員であった石島巡査部長が坂本の取調に際し「目白の事件」という呼称を使用していたため、これが坂本の供述内容に反映した疑いが強い。また、坂本の供述によれば、堀から「目白の事件」と言われた時には何のことかわからず、昭和四八年に入って土田邸事件を指すことがわかったというのであるが、口止めの際どのような事件について口止めされたのかわからないというのはいかにも不自然であるし、坂本が自分から「目白の事件」という言葉を出して口止めをされたことを述べようとするのであれば、今さら「目白の事件」がどんな事件かわからないとして事実の一部を隠そうとする態度をとるということも考え難いのである。以上述べたところに照らすと、坂本は石島巡査部長から「目白の事件」について堀から口止めをされたのではないかと追及され、これを認めたものの、実際に土田邸事件が「目白の事件」と呼称されていることを知らなかったため、前記のような不自然な供述内容になったとの疑いを否定できない。
③ 坂本は、理由がわからないまま、堀から藁半紙に署名、指印を求められ、その後生徒会室に行って堀から口止めをされて署名、指印の趣旨の説明を受けたというのであるが、順序としてはまず口止めがされ誓約の趣旨が明らかにされて後に誓約書に署名指印を求められるというのが通常と思われ、坂本の右供述には不自然さが残る。また、坂本の供述によれば、藁半紙に何が書いてあるかを見ようとしたところ、堀から見なくていいと注意されたというのであるが(48・3・29、3・30員面)、誓約書に署名指印をするのに誓約文言を見せられないというのはいかにも不自然である。48・4・1検面では、署名指印をした紙には何か文章が書かれていたが紙が折れていてよくわからなかったと変更される。しかし、紙が折れていたとしても署名、指印をしようとする者であるならば紙を伸ばして誓約文言を読もうとするのが自然であり、そのような行動をとることなく単に署名指印をするというのは不自然である。坂本が署名、指印をした紙にどのような文言が記載されていたのか述べ得ず、その点につき捜査官の追及に応じて適当な理由を付している光景が思い浮かぶ。なお、坂本は署名し、左手人差指で指印をしたというのであるが、(48・3・29員面)、供述調書の作成後の指印の方式と一致し、奇妙である。
④ 坂本の供述によれば、松村の署名の隣に自分が署名をしたというのであるが、榎下が署名をした形跡は見えない。堀が口止めのため誓約書に署名を求めるならば、榎下が除外されるというのは不自然である。
⑤ 坂本の供述においては、堀が坂本に対し口止めをする必要性が十分説明されていない。坂本の供述によれば、堀は自分が榎下を通じて堀の行動を詳しく知っていると思ったのではないかと思うというのであるが、そうであるならば、堀は坂本に対し口止めをする前に榎下に坂本の知識の程度を確認するはずであり、そうすれば坂本に対し口止めをしないことにするか、口止めをするにしても土田邸事件に直接触れない方法を選ぶことになるのではないかと思われる。坂本が増渕、堀らが土田邸事件の犯人であることを窺わせる事情について知識があるのにこれを捜査官に対して隠しているとの可能性については、口止めをされたことまで供述しようというのであるならば、口止めをされるに至った理由も併せて供述すると見るのが自然であり、口止めをされるに至った理由だけを隠すというのは疑問が残るところである。坂本の供述によれば、堀は坂本に口止めをすることによって土田邸事件の犯行を告白した結果になっており不自然である。
⑥ 坂本の供述によれば、土田邸事件について口止めをされたにとどまり、日石事件について口止めがされていないのであるが、増渕、堀らが日石土田邸両事件の犯人であるとすれば、土田邸事件についてのみ口止めがされるというのは不自然である。検察官は、日石事件と土田邸事件とは一連の事件であるところ、その事案の重大さにおいて著しい差があるところから、一連の事件の口止めをするについて、代表的な土田邸事件の名のみを挙げ、あえて日石事件の名を出さなかったとしても決して不自然なこととはいえないと主張する(論告要旨二六七頁以下・一五六冊二五九二九丁)。しかし、日石事件も土田邸事件に比較すれば重大さにおいて劣るとしてもやはり重大な事案であり、しかも一連の事件であるというのならば犯人は日石事件が発覚すれば土田邸事件も発覚するのではないかとの虞れを抱くものと思われるから、口止めをするに際してはより重大な土田邸事件の名前を挙げておけば足りるというのではなく同時に両事件について口止めをして念を押すというのが自然な心理状態と見られ、検察官の右主張は採用し難い。増渕、堀らが土田邸事件のみの犯人であるとすれば、右の不自然さは解消される。しかし、坂本の供述に右のような不自然さが生じたのは、石島巡査部長が目白署の土田邸事件の捜査本部の一員であったことから、坂本の取調の当初においては同事件について関心があり、同事件に重点を置いて坂本を取り調べた結果によるものと見るのが正しいように思われる(石島証人も「土田邸事件を主に聞いた。日石事件についてはあまり聞いた記憶がない」旨証言している。一一三回公判・五一冊一九二四五丁)。
⑦ 坂本は、当初は日大二高で堀から口止めをされた後中村(隆)のもとに寄った旨述べながら、中村(隆)とはスキーの話をしたとのみ述べていたにとどまっていたところ、中村(隆)が榎下らが自分のところに寄って二高口止めのことを供述した旨述べるや(中村(隆)48・4・1員面)、その直後これに沿う供述をしたものであるが(坂本48・4・2員面)、坂本が中村(隆)のもとに寄って二高口止めの話をしたことを隠す理由は見当たらず、かりに隠そうとするのであれば中村(隆)のもとに寄ったこと自体を隠そうとするはずであると思われ、右のような坂本の供述の変遷には疑問が残る。
⑧ 検察官は、二高口止めに関する関係者の供述の中には、あたかも榎下らが土田邸事件に無関係であるかのような印象を与える記載があるなど一部にその後明らかになった事実と矛盾するかのように見えるものもあるが、これらは、自己又は友人が土田邸事件に関与していることを否定し、秘匿しようとしていたのであるから、二高における口止め及び誓約書作成の各事実は供述しつつも、その場面等における堀ら関係者の具体的言動については、右供述の線に沿って修飾を加え、事実を歪曲しようとするのは当然のことである旨主張する(論告要旨二六五頁以下・一五六冊二五九二八丁以下)。
しかし、検察官が右のような主張をする前提としては、昭和四七年一二月三一日に日大二高にこれらの関係者(堀、榎下、松村、坂本)が集まり、捜査対策として事件について口外しないことを互いに約束し合うことを含む打合せをしたのが真相であるのに、その後主犯者四名が逮捕、勾留され、彼らが犯人であることが発覚してしまった段階に至って、そのほかの者は、「堀らが犯人であることについての口止めがされた」というようにすり替えることによって自己の責任を免れようとし、坂本がまずその旨供述し、他の者もこれに追随して同旨の供述をしたものであるということにならざるを得ないであろうが、右関係者らは、一人として、日大二高での会合が真実は右のような内容の捜査対策のための打合せであった旨の供述をするに至った者はなく、他にこれに沿う証拠もないのであるから、検査官の右主張は結局前提を欠き、採用できないものである。
⑨ 坂本は、参考人としての取調において他の者に先駈けて二高口止めについて供述したのであるが、坂本は参考人とはいっても三月二六日には坂本のアパート及び月島自動車の捜索がされ、同日の取調において指紋、足紋及び筆跡の採取がされて、主として土田邸事件につき重要な知識を有しているのではないか、場合によっては同事件に関与しているのではないかとの観点からの取調がされたものであり(一一三回証人石島の供述・五一冊一九二二一丁以下、一四回証人坂本の供述・六冊一九六五丁)、坂本に対する精神的な圧力は通常の参考人の取調とは異なるものがあったと認められる。そして、坂本は増渕、堀らが日石土田邸事件の犯人として逮捕されたことを報道により知っており、石島巡査部長も増渕、堀らが両事件の犯人(主として土田邸事件)であることを前提に取調をしたと認められるから(三〇回証人坂本の供述・一三冊四八五九丁)、坂本は増渕、堀らが右事件の犯人であると思い込み、両名に不利な供述をすることに対してもさほど心理的抵抗を感じない状態に陥り、かつ、自分が土田邸事件に関与した旨述べるのではないから自分に不利になっても大したことではないとの気持になるということは考えられる。
三、坂本の供述と榎下、松村及び中村(隆)の各供述との相違点
① 署名、指印の状況
坂本の供述によれば、松村の署名の隣に自分が署名、指印をしたというのであり、榎下が署名をしたとは述べないが、榎下の供述によれば堀、松村、榎下、坂本の順で署名、指印をしたというのであり(榎下48・3・31員面、48・3・31検面)、松村の供述によれば榎下、坂本とともに誓約書に署名、指印をしたというのであって(松村48・4・9検面)、三者三様である。誓約書に署名、指印をした場所についても、坂本及び榎下の供述及び榎下の供述によれば職員室というのであり、松村の供述によれば生徒会室というのであって相違する。
② 誓約書の処分
坂本の供述によれば誓約書は榎下が中村(隆)の所へ持って行ったというのであるが、榎下及び松村の供述によれば堀が持ち帰ったというのであり、中村(隆)の供述によれば誓約書については述べられておらず、相違する。
③ 口止めの状況
坂本の供述によれば、職員室で誓約書に署名した後堀に自治会室(生徒会室)に連れて行かれ榎下と一緒に同室に入り口止めをされたというのであるが、榎下の供述によれば、「誓約書に署名したこととの前後関係ははっきりしないが、堀から放送室で警察から自分らのことを聞かれても黙っていてほしいと頼まれた。続いて松村、坂本が入って来て、堀から目白事件について口止めがされた」(榎下48・3・31員面)、「堀から職員室で松村、坂本とともに目白事件について口止めをされ、その後誓約書に署名させられた」(榎下48・3・31検面)というのであり、松村の供述によれば、生徒会室で榎下、坂本とともに誓約書に署名をさせられたというのであって、三者三様である。榎下については同じ日に作成された員面と検面とで供述内容に大きな相違がある。
④ 以上のように、坂本、榎下、松村及び中村(隆)の供述を具体的に検討してみると、重要な点で相互に食い違うのであり、二高口止めは約三か月前の出来事であるから、右のような相違が記憶の混同によるものとは思われず、榎下らがことさら供述の食い違いを狙ったものとする証拠もない。
四、坂本以外の供述者の供述時の取調状況
榎下及び松村は、当時犯人隠避事件で逮捕、勾留されて取調を受けていたものであるが、実質的には日石土田邸事件につき重要な知識を有しているのではないか、あるいは両事件に何らかの関与をしているのではないかとの観点からの取調を受けていたものであり、中村(隆)も参考人として取調を受けていたものの右と同様の観点から取調を受けていたものであって(榎下調書決定及び松村調書決定参照)、これらの三名が取調において受けた精神的圧力はかなりのものがあったと認められる。また、右三名は、増渕、堀らが日石土田邸事件の犯人として逮捕されたことを報道によって知り、しかも増渕、堀らが両事件の犯人であるとの前提で取調を受け、これを間違いないものと思い込んで行ったものと思われる。そして、右三名に対し坂本の二高口止めに関する供述に基づいた取調がされたことは容易に推認でき、右三名の者に「他の者が二高口止めの供述をしているならばやむを得ない。増渕や堀は土田邸事件の犯人であるから、自分が虚偽の口止めを認めても特に増渕らに不利になるわけではないし、また自分が犯人であると述べるわけではないから自分に不利になるといっても大したことではない」との考えが起こることもあり得よう。
五、結論
以上に述べたところを総合すると、日大二高口止めに関する坂本の供述の信用性を十分なものと見ることには疑問が残るのである。
第七節被告人前林の日誌様のノートの記載
前林の「1973年、N.M」と表紙に書かれた日誌様のノート(証二一五号)の五丁裏に「私は市民社会の仮面を被ったおばけ。誰もそのことには気づいていない。私をごくあたり前の人間として扱ってくれる。だけど私はおばけ」との記載がある。
右記載につき前林が弁解するところ(二六一回公判・一四四冊四九五七九丁)には疑問もあるが全面的に排斥すべきものとするには至らず、また、検察官が論告で主張する見方が成立するものとして見ても(論告要旨二七九頁・一五六冊二五九三五丁)、本件各犯行との関係ではいかにも間接的であって、前林の本件各犯行の関与を肯定するの方向の資料として重視すべきほどのものではない。
第七章その他の供述証拠の信用性
第一節佐古幸隆の供述
まず、佐古の、喫茶店プランタンにおいて江口が日石土田邸事件の真犯人であることを認める旨の発言をしたとの供述の信用性について検討する。
佐古48・3・5検面(証二冊三四二八丁)によれば、「昭和四六年一月五日に東京都渋谷区所在の喫茶店プランタンで増渕及び江口と話し合った際、江口が増渕らの捜査官に対する供述態度を非難しながら昭和四五年六月に爆弾を製造したことが出て来れば日石土田邸事件も出て来て私たちは助からない旨発言したので驚いた」というのである(なお、佐古48・2・14、48・2・18、48・2・23、48・3・4各員面参照。証三冊三六二九丁・三六三六丁・三六五〇丁・三七一〇丁)。
佐古が増渕及び江口に対し特に恨みを持っていたとは認められず、佐古に増渕らをことさら罪に陥れなければならないような動機は特に見当らないので、その面から見れば佐古の右供述の信用性は高いようにも思われないではない。
しかし、前述のように佐古は右供述の当時ピース缶爆弾事件についても自白をしているが、この自白には重要な点において明白な虚偽や不自然な内容のものが多く含まれ、かつ、供述内容の変遷も多く、信用性に疑問があるのであって、このことは、佐古の右日石土田邸事件に関する供述の信用性にも影響を及ぼさざるを得ないと考えられるところ、佐古の右供述自体についても、以下に述べる不自然な点や疑問点があり、最終的には他の証拠との総合評価にかかるものであるにしても、その信用性は、むしろ乏しいものと言わざるを得ないのである。
① 佐古が日石土田邸事件に関与したことを窺わせる証拠は全く存しないところ、このような重大事件の真犯人が、同事件に関与しておらず、また江口において十分に信頼できるとは考えていなかったと思われる佐古の面前において、いかに興奮していたからといって、単に不用意に一言口走るというのではなく、かなりの時間にわたりかつ具体的な内容に触れつつ犯行を認める旨の発言をするというのは不自然とも見られないではない。
なお、佐古は昭和四五年一〇月ごろ大阪府の自宅に帰って活動から離れていたものであり、昭和四七年一一月三日法大図書窃盗事件で逮捕される直前江口から逮捕されたら黙秘し救対と連絡をとるようにと働きかけられたにもかかわらず、同事件で逮捕され取調を受けた際には救対との接触を拒否し、同事件及び窃盗の余罪その他昭和四四年及び四五年の活動状況から逮捕前に江口から働きかけがあったことまで広く供述したばかりか、アメリカ文化センター事件についても自白をし、江口もそのことを知っていたのであるから、江口において佐古が秘密を口外しないという点につき十分信頼できるとは考えていなかったことは容易に推認できるところである(佐古48・3・2、48・3・3各検面・証二冊三三九四丁・三四一九丁、六〇回証人佐古の供述・二四冊八六九九丁以下参照)。
② 佐古の供述(前記48・3・5検面)によれば、「江口が、日石事件の爆弾小包の宛名書を前林がした旨の発言をした」というのであるが、左記の疑問があり、信用できない。
前述のように、黒田鑑定によれば、日石事件の爆弾小包の宛名等の筆跡は、なぞり書等の筆跡隠しの工作がしてあるものの基本的には増渕の筆跡であるとし、前林のそれとは異なるというのであり、黒田鑑定を十分に信用することはできないにしても、佐古の右供述の信用性に疑いを抱かせるには足りるものである。
佐古は、右供述をするに至った理由として「日石土田邸事件につき、小包爆弾の宛名等が筆字であることについて追及を受けたが、土田邸事件の爆弾は完全に爆発したものと思っていたので筆跡が残っているのは日石事件だろうと思った。取調官から女が書いたのだと言われ、江口か前林のどちらにしようかと思ったが、書道をやるのは活動家タイプではない前林が似つかわしいと考え、適当に前林が書いたということにして供述した」旨述べるが(二七六回及び二七八回証人佐古の供述・一五二冊五一七三八丁以下及び一五三冊五一九三七丁以下、六三回及び六四回証人佐古の供述・二六冊九三〇三丁及び九四一四丁)、(員)好永幾雄48・7・23メモ報(佐古が昭和四八年二月一四日に作成したとされるメモ二枚添付。証二五三号。なお、右メモ報(写)につき証八九冊二一九八六丁参照)添付のメモによれば、「メガネ、毛筆、前林、江口の態度」との走り書と見られる記載があり、(員)好永幾雄48・7・23メモ報(佐古が同年二月一六日に作成したとされるメモ五枚添付。証二五三号。なお同メモ報(写)は、前同冊二一九九二丁参照。)添付のメモによれば、「当時から毛筆を書くということは知らなかったと思いますが、文字が良い感じで書くことは、増渕からも言われていて、私の文字が大きかったり小さかったりするが前林さんが書くと、同じような大きさでもって見て読みやすいような、上手に書くのです」との記載があるのであって、前林が毛筆を使うことの有無について取調がされたことが認められ、また、佐古の前記各供述調書の内容と併せて見れば、佐古は日石事件の爆弾小包の宛名を前林が毛筆で書いたものとして供述していたことが窺われるのであり(右二月一四日付メモにも、江口が、前林が日石事件の爆弾小包の宛名書をした旨発言したとの記載がある。証八九冊二一九八五丁参照)、以上の事実及び佐古の前記弁解の内容自体にも照らせば、佐古の弁解は必ずしも不合理なものとして排斥することはできない。
もっとも真実は、江口が喫茶店プランタンにおいて日石土田邸事件に言及はしたが小包爆弾の筆跡については述べなかったのに、佐古において捜査官に対する迎合的な気持から推測を付加して供述したとの可能性もあるが、これを裏付ける証拠はない。
③ 佐古の供述(前記48・2・18員面)によれば、「江口が警察は包装紙や紐の出所はわかっていないだろうねと言っていた」というのであるが、土田邸事件においては菅公工業株式会社の市販の郵便小包包装セットが使用され、日石事件においても同様市販の小包包装セットが使用されたものと推認されるのであって、いずれも特殊なものではなく、江口がそのようなものの出所についての捜査を気にするというのは不自然である。
④ 佐古が供述する江口の発言内容中にはいわゆる秘密の暴露はなく、また真実体験した者でなければ述べ難いような内容のものもない。
⑤ 二〇〇回証人好永幾雄の供述(九七冊三六七八九丁以下)によれば、「二月一四日にピース缶爆弾の製造メンバーについて取調をした。女性について順次名前を挙げて行き、江口について尋ねたところ佐古は急に黙ってしまった。アメリカ文化センター事件についても、一旦は江口のアパートから爆弾を持って仕掛けに出発したと述べていたのを、中野ブロードウェイ前路上で村松らが爆弾を持って車に乗り込んだ旨に変更したということもあったので、一連のピース缶爆弾事件につき江口に関して何か隠しているのではないかと思った。そこで取調の方針を変え、一月五日に喫茶店プランタンで話し合ったことについて質問し、この話合いに関し、増渕のことについてはよく供述しているのに、江口のことについては少ししか供述していないのはなぜかと強く問いただし、もう少し思い出してくれと説得した。佐古の顔色が青くなったので、何か大きなことを隠しているのではないかなどと詰めて聞くと、佐古はわたしは絶対からんでいないと言うので、何だと質問したところ、佐古は江口が日石事件のことをごちゃごちゃ言っていたが、江口と約束があるから言えないと答えた。そこで説得したところ佐古は供述を始め、メモを作成した」というのである。
しかし、佐古は、ピース缶爆弾製造については前日の二月一三日に詳細に自白したものであるが、もし一四日の取調状況が、好永証言のとおり女性の参加メンバーについて順次名前を挙げて質問して行き、江口について尋ねたところ佐古は急に黙り込んでしまったというものであるとすれば、江口が参加していなければこれを端的に否定すればよいのであるから、佐古がこのような態度を示したことの理由として最も可能性が高いと思われるのは、江口をかばって口をつぐんだということである。しかし、そうだとすれば、江口をかばうという心理にありながら、江口がピース缶爆弾製造とは比較にならないほど重大な日石土田邸事件の犯人の一人であることを明かすことになるのであり、佐古の心理は理解し難いものになる。このことは、佐古がプランタン会談の供述に至る取調経過についての右好永証言が事実に即したものではないのではないかとの疑いを抱かせるように思われる。
以上のとおりであり、佐古が二月一四日に日石土田邸事件に関する供述をした経過について証人好永が右に述べるところは、疑問を容れる余地がある。
⑥ 佐古は、前記供述をするに至った理由として「取調官から、増渕及び江口らが日石土田邸事件の犯人であり、これらの者を自白させるための材料が必要だ。心証を良くするほど早く出られるなどと言われ、取調官の追及をもとに自分の想像を織り混ぜて供述した」旨弁解する(六〇回証人佐古の供述・二四冊八七五三丁以下)。
佐古の右弁解は、不自然な点も含み、必ずしもそのまま措信することはできないが、すでに検討して来た所に照らし、佐古が取調官から増渕らが日石土田邸事件に関与しているとの見込みを告げられ、取調官の言うとおりかも知れないと思い込み、増渕らから日石土田邸事件について何か聞いていないか、一月五日に喫茶店プランタンで増渕及び江口と話し合った際日石土田邸事件の話題が出なかったかなどといった取調を受け、取調官に対する迎合的な気持から取調官の追及に自分の想像を織り混ぜるなどして供述するに至ったとの疑いを否定し去ることはできない。
第二節檜谷啓二の供述
つぎにまた、検察官は、増渕が土田邸事件に関与していることを窺い得る証拠の一つとして、檜谷啓二の供述を挙げるので(論告要旨二六〇頁・一五六冊二五九二五丁)、同供述の信用性について検討すると、つぎのとおりである。
一、供述の要旨
檜谷啓二48・3・12検面(証二冊三五三三丁)及び同人の48・3・26検面(同冊三五五六丁)の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四八年二月一二日以降窃盗、詐欺事件により逮捕、勾留され、警視庁麹町警察署に留置されたものであるが、当時同署に留置されていた増渕と同房になり、話を交わすうちに増渕と自分は東海大学(中退)の先輩後輩の関係にあることがわかり、気が合って色々話をするようになった。
「増渕は、佐古などの共犯者らの名前を挙げてそれらの者が各警察署に留置されていること、中でも久松警察署に留置されている堀は最も信用できることなどを話し、自分はたまたま同年二月一五日の勾留尋問の時に同署の公安事件の被疑者らしい人と一緒だったので、その人相、体格等を話したところ、増渕の語る堀のそれと一致したことがあったことから、同月二七日に増渕から、翌二八日の自分の地検への押送の際に堀と一緒になったならば、堀の逮捕罪名、取調の状況等をできるだけ詳しく聞いて来ることなどを頼まれたが、二八日に地検で堀に会うことはなかった。しかし、同日地検の同行室で公安事件の被疑者らしい人を見かけ、話しかけると前原和夫であることがわかり、前原から『佐古、菊井のほうから話が出ていると思って間違いない』、『堀からはあまり話が出ていないようだ』旨伝えてくれその他の伝言を頼まれ、その晩増渕にこれを伝えたことがあった。増渕は、『菊井、前原もしゃべったか』と言っていたが、それほど心配している様子はなかったようであり、『堀からさえ出ていなければおれは大丈夫だ』と言って、堀のことを心配して気にかけている様子であった。
「同年二月二五、六日ごろのことであったと思う。夜就寝前ごろと思うが、増渕から革命理論のような話があり、『これからは爆弾によるテロしかない。自分らは爆弾闘争のはしりだ』という話があって、爆弾の歴史、爆弾の種類や製造方法の話を聞かされた。最初はダイナマイトで作っていたが、だんだん作り方も巧妙になって弁当箱やピース缶を使った爆弾から時限装置付爆弾や触れれば爆発するような爆弾を作れるようになって来たという話であった。増渕は、薬品の名前を挙げながら作り方を話してくれた。薬品等の名前として一般的な名前であるニトログリセリン、濃硫酸、硝酸、黒色火薬、雷管などは記憶しているが、その他は覚えていない。
「その時の増渕の話では、触れれば爆発する爆弾の作り方の説明が一番長かったと思う。彼の話によると、爆弾を入れてある箱の蓋を開けるか、それを包んである紙を解いた時爆発する仕掛けの爆弾を作れるということであった。そしてスイッチ装置から点火装置、起爆装置などについて順を追って説明してくれたが、スイッチの話では、タイムスイッチとたしかマイクロスイッチと言ったように思うが、この二つの方法があること等を話し、スイッチの接続方法について手真似で詳しく説明してくれた。
「つぎに、増渕は、点火装置について話してくれたが、ガスコンロの点火器(ガスコンロに装置されたものでなく、それとは別のもの)の先端部の発熱装置の部分を利用することなどを話してくれた。その時銀紙を使う話が出たので、自分はなぜ銀紙なんか使うのだろうかとわけを訊いたところ、増渕は使う部分の説明をしてくれたが、現在は忘れてしまった。その時自分が煙草の銀紙でもいいのかと訊くと、増渕は、『ガス台に使うだろう。あれだ』等の説明をした。その時増渕はその品物の名前を言ったと思うが、記憶していない。増渕はその銀紙で何かを包むようなことを言っていたが、覚えていない。
「その後自分と増渕は別々の房に入れられたが、同年三月一〇日午前一一時ごろ留置人の運動が終わって自分がバケツに入った煙草の吸殻を捨てに行った時に、増渕がそばに来て『調べられているんだろう。土田のことはいうな。頑張ってくれ』と言った。自分は突然『土田のこと』と言われて何のことかわからないので『知らないよ』と答えた。自分がバケツを洗っている時にまた増渕がそばに来て、看守に聞こえないような小さな声で『死活問題だから頑張ってくれよな』と言った。自分の房に帰ってから増渕の言った『土田のこと』について考えてみたところ、以前新聞で見た土田警務部長の奥さんが爆弾で殺された記事を思い出し、あのことを言っているものと思った。しかし、自分は増渕から直接その話を聞いた覚えもなく、おかしいなと思った。自分は増渕と同房だった時寝ながら話をしていた際に彼から『君の覚えている爆弾事件を挙げてみろ』と言われ、自分はツリー爆弾事件、明治公園の爆弾事件の二つを挙げたところ、増渕は『もっと大きな事件があるが覚えていないか』と言っていたが、土田邸事件のことは思い出さなかったので同事件のことは言っていない。また、自分は増渕と同房であった時、目白付近の地理の話をしたことがあるが、土田さんの家が目白にあったのにその話が出なかったはずである。であるのに、何で増渕が『土田のことはいうな』と自分に口止めしたのかわからない。自分は増渕からそのように言われ、房に帰ってから土田事件のことを思い出した時、増渕がこの事件に関係しているのかも知れないと直感した。
「増渕とまだ同房であった時のことであるが、同人は、三月に入って調べがきつくなったのか、『今日は持たないかも知れない』等と話し、口数も少なくなって来て、考え込むことが多くなった。三月に入った直後ごろと思うが、彼は房内で自分に肩車をさせ、天井の電線の配管に手を伸ばし『これなら大丈夫だ』と言っていた。彼は肩車をする前に自分に『ここの留置場で首を吊って死ねる所が一房だけある。天井の配管に布切れを通し首を吊れば死ねる』などと言っていた。自分は冗談だと思ったが、肩車をする時は彼は真剣であり、本当に自殺でもする気かなと思った。
「二月二七日前後ごろと思うが、増渕と寝ながら話をしている時、彼は『目白付近の地理を知っているか』と訊くので、自分は以前の女友達が目白の日本女子大生であったので、ある程度知っていたから『知っている』と答えたところ、彼は目白駅付近の地理やカテドラル教会と雑司が谷墓地の所在などについて自分に質問をし、自分の答に対して色々話をした。増渕は、その辺の地理にかなり詳しい様子であった。」
「それより以前のことであるが、自分と増渕との話の中で第八機動隊付近の地理やアメリカ文化センターの建物のことが話題になったことがある。自分は、第八機動隊付近の地理や増渕のいうその辺のアジト付近の地理をたまたま知っており、また、アメリカ文化センターのある山王グランドビルの二階に所在するある会社で以前アルバイトをしたことがあったのでたまたま同建物の内部の状況等も知っていた。そういうことから増渕は自分を疑ったらしく『公安のスパイではないか』と言っていた。そしてなおも問詰するように、今度は目白の方の話をして来たのである。自分はそこも偶然知っていたので、彼はますます疑い『お前は公安のスパイだろう』と言って自分の腕をねじ上げた。その時は、彼は本当に自分をスパイだと思っていたようであった。従って、目白付近の地理を話す時は、彼がその辺の地理を説明してくれるというよりも、目ぼしい建物や施設を挙げて自分が知っているかどうか、疑い深い質問を向けて来たのである。八機やアメリカ文化センターについては増渕から事件の内容を聞いて知っていたから、自分がその辺の地理を知っていたためスパイと疑われていたのかも知れない。しかし、自分が目白付近の地理を知っていたからといってなぜ増渕が自分をスパイだろうと言って怒ったのか、その時はわからなかったが、今になって考えると、あるいは目白の土田邸事件に関係があってあの時怒ったのではないかと思うようになった。
以上のとおりである。
また、六〇回・六一回証人檜谷啓二の供述(二四冊八六六〇丁、二五冊八七八七丁)によれば、同証人は、「麹町警察署の留置場で増渕と同房となり、色々話をした。その後房が別になったが、朝の洗面時間であるとか、午前中の運動の時間とかに増渕から話しかけられたことがあった。その時、増渕から『警察から調べられているのか』と訊かれたことがあり、朝の洗面の時だったと思うが、『土田のことは黙っていてくれ』というようなことを聞いたことがある」旨供述し(二四冊八六八六丁、二五冊八八七五丁)、その他、増渕と同房であった時に、増渕から堀への伝言を頼まれたが堀には会えず前原と会って話をしたこと(二四冊八六七一丁)、増渕から爆弾に関する話を聞いたこと(二四冊八六七九丁)、その時増渕の口から『表の梅内、裏の増渕』とか、『おれは爆弾闘争のはしりだ』とかの言葉が出たこと(二四冊八六八三丁)、増渕と目白付近の地理について話をしたことがあり、同人は目白付近の地理について知識があったように思ったこと(二四冊八六八三丁)等を供述している(もっとも、いずれの点についても檜谷の前掲検面調書二通ほどに詳しいものではない)。
二、供述の信用性
そこで、以下、檜谷の供述の信用性について検討する。
① 昭和四八年三月初めごろの増渕に対する捜査状況並びに檜谷の人物及び立場
檜谷に対する取調は昭和四八年三月六日から始まっているが、増渕に対し三月七日から日石土田邸事件の犯人と極めつけて厳しい取調が始められたのとほぼ軌を一にしている。増渕のそれまでのピース缶爆弾事件に関する供述は取調官にとって満足の行くものでなく、三月七日以後の日石土田邸事件に関する取調もはかばかしい進捗状況ではなかった。増渕の取調官は、特に日石土田邸事件について増渕を自白させるための材料の入手を強く望んでいたものと思われる。
檜谷は、同年二月一二日詐欺及び窃盗の被疑事実で逮捕、勾留され、麹町署の留置場において増渕と同房であったものである。しかも、同月二八日増渕のために東京地検の同行室で前原と連絡をとっていたことが発覚している。檜谷は、初めて逮捕勾留されたもので、いわゆる活動家でもなく精神的に不安定な状態にあったであろうし、前原と連絡をとっていたことが発覚し、この連絡行為につき司法警察員により被疑者に準ずる立場で取調を受け、48・3・6、48・3・7、48・3・10、48・3・11各員面が作成され(証三冊三九二〇丁以下。これらの各員面は、いずれも被疑者調書の形式がとられており、48・3・7員面のほぼ末尾には「私はそうした爆弾など大それた事件で捕っている人と知りながら共犯の人に通謀の橋渡しをして本当に心から悪いことをしたと思っております。今後は決してこのようなことは致しませんから何卒ご寛大なる御取計いの程をお願い致します」との記載がある)、精神的な動揺にはかなりのものがあったと思われる(なお、前掲檜谷の検面二通はいずれも参考人調書である)。
以上のような事情を総合すると、増渕の取調官(補助者)であった伊藤巡査部長及び岩城巡査部長が、檜谷の取調において増渕が凶悪な日石土田邸事件の犯人である旨告げて同房中の増渕の言動等につき情報を提供するように協力を求め、あるいは追及し、檜谷がこれに迎合するという可能性が全くないとはいえないのであり、檜谷の供述内容の検討にあたっては右の点も考慮の範囲に入れておく必要がある。
② 檜谷の供述内容について
檜谷の供述内容は、(1)前原と連絡をとったこと、(2)増渕から爆弾の製造方法についての話を聞かされたこと、(3)増渕から土田邸事件について口止めされたこと、(4)増渕が自殺を窺わせる言動を示したこと、(5)増渕と目白付近及び八・九機付近の地理並びにアメリカ文化センターの内部の様子等について話をしたことに大別される。そこで、以下、右内容ごとに検討する。
前原と連絡をとったこと
檜谷が前原と連絡をとった事実は認められる。但し、檜谷が前原から聞いた話の内容については疑問があることはすでに述べたとおりである(第二部第四章第二節三(3)参照)。また、檜谷が草野という男に堀への伝言を依頼したこともあるであろう。しかし、右のようなことは、増渕の本件各犯行への関与を肯定する方向に働く情況となる可能性は否定できないが、重視することはできないものである。
増渕から爆弾製造方法についての話を聞かされたこと
a 右の点に関する檜谷の供述は取調を追うごとに具体的かつ豊富になって行く。すなわち、檜谷48・3・6員面によれば、「その他同房の時に、薬品の名称を言って爆弾の造り方を説明したり、電池を使った時限装置の説明をしましたが、私にこれらの知識がないためよく判らず、具体的にどんな話であったか思い出せませんが、この事もよく考えておきます」とされていたのが、48・3・7員面では、「増渕は爆弾の製造方法を五、六種類説明してくれた。ピースの空缶、石けん箱、タイムスイッチ付き、ニッケル爆弾などを覚えている。詳しく説明されたので増渕は爆弾について詳しいと思った」、48・3・11員面では、「電池を利用してガスに点火する装置の話、弁当箱に薬品で作った火薬を入れる爆弾の話、銀紙、ガスマットの話、スイッチの上を何かで覆い、それをはがすと爆発する装置の話、起爆装置とスイッチを接続する方法の話(これは忘れたとする)、ニクロム線や雷管の話、電気器具の中で電気釜か何かの部品が使えるといった話、脱脂綿、いろいろな薬品の調合方法の話を聞かされたとなり、48・3・12検面ではさらに増渕は実際に製作を経験したような話し振りで、弁当箱を包む時はこの薬品が危険だから慎重にしなければならないとか、貼るテープが現在はもっと良いのが出来ていると話していたこと及び増渕が爆弾を実験した時の威力について話していたことが付加され、48・3・26検面では爆弾の歴史、爆薬の原料、手を触れると爆発する爆弾、すなわち、爆弾を入れてある箱の蓋をあけるかそれを包んである紙を解いた時爆発する仕掛けの爆弾の話(この話が一番長かったとする)、スイッチ(タイムスイッチ、マイクロスイッチ)、スイッチの接続方法、点火装置(ガスコンロの点火装置)、起爆装置(銀紙、ガスマット)などについて増渕から説明を受けたとされているのである。檜谷の右のような供述経過を、檜谷が次第に記憶を喚起していく経過と見ることには疑問がある。なぜならば、第一に、檜谷は二月一二日から三月初旬にかけて増渕と同房であった際の話につきその直後に取調を受けたものであって、檜谷の記憶はまだ新鮮で、48・3・26検面等に録取されたような豊富な内容の話を増渕から聞いていたとすれば、話の内容が爆弾に関することであるだけに記憶に残り易いと考えられるのであるが、檜谷の当初の供述はそれにしては内容が乏し過ぎると思われるのであり、第二に檜谷は増渕から最も多くの説明を受けたというのは手を触れると爆発する爆弾であると述べるのであるが、そうだとすれば一番記憶に残り易いと思われるのに檜谷は当初は右爆弾について全く述べるところがないからである。つぎに檜谷が当初は増渕を庇って爆弾製造方法について詳しい供述をしなかったとの可能性については、檜谷の後の供述調書では爆弾の製造方法等の話について思い出したことがあると述べているにとどまること、檜谷の当初の供述内容全体を見ても檜谷が増渕を庇おうとしている様子が必ずしも窺われないこと、及び檜谷48・3・7員面には四種類の爆弾が挙げられているが手を触れると爆発する爆弾は含まれていないところ、檜谷が同爆弾が増渕にとり特に不利なものと認識していたことは窺われず、その他檜谷が同爆弾を挙げない理由が見当たらないことに照らせば、檜谷が増渕を庇って供述を小出しにしたと見ることにも疑問がある。
b 供述内容が具体化して行く様子にも不自然な面がある。第一にスイッチについて見ると、48・3・6員面では電池を使った時限装置、48・3・7員面ではタイムスイッチとなっていたのが、48・3・11員面では「スイッチの上に何かで覆いそれをはがすと爆発する装置」となり、48・3・12検面では「タイムスイッチを使って爆弾を包んでおきそれをはがした時爆発する仕掛け」となり、48・3・26検面では「爆弾を入れてある箱の蓋をあけるか、それを包んである紙を解いた時爆発する仕掛け。タイムスイッチとマイクロスイッチの二つの方法」となる。右は当初は誰でも思い付きそうなタイムスイッチと述べられていたのが3・11員面及び3・12検面の曖昧で不自然な供述を経て、3・26検面では土田邸爆弾と日石爆弾の二種類のトリックを正確に述べ、マイクロスイッチの名前まで挙げているのである。第二に、爆弾の容器について見ると48・3・6員面では何も述べられていないが、48・3・7員面では「ピースの空缶、石けん箱、ニッケル爆弾」が挙げられ、48・3・11員面、48・3・12検面では弁当箱が挙げられるに至る(3・12検面においてニッケル爆弾はニップル爆弾かも知れないと訂正される)。これも、あとになって日石土田邸爆弾に使用された弁当箱を挙げるに至っているのである。第三に、点火装置及び起爆装置についても48・3・6、48・3・7各員面では何も述べられていないのに48・3・11員面においてガスの点火装置や銀紙、ガスマットについて述べられるに至っている。前者は日石土田邸爆弾の点火装置であり、後者は土田邸爆弾の手製雷管に結びつくものである。第四に、これらの供述事項に関し、さらに中間段階の不自然な内容の供述の存在が疑われる。すなわち、48・3・11員面によれば、「先日ガスレンジのスイッチを利用すると話していますが、この話をよく思い出して見たら、電池を利用してガスに火をつける点火装置のことを話していました」、「先日手を触れたら爆発する爆弾について話をしましたが、その話を聞いた時銀紙の話も出ております」との供述が録取されているが、48・3・6、48・3・7、48・3・10各員面を見ても右に関連する供述は全く録取されておらず、他に員面調書(あるいは調書に録取するに至らない供述)があるのではないかと疑われ、同調書(同供述)の内容は訂正を要する不自然なものではないかとの疑いを否定し去ることができない(48・3・11員面の作成者である伊藤巡査部長は、檜谷の述べるままに録取したもので、檜谷の勘違いと思う旨証言するが((二一二回公判・一〇五冊三九二四一丁以下))、にわかに措信し難い)。以上のとおりであり、檜谷の供述は訂正や追加がされて、次第に日石土田邸爆弾の特徴に符合する内容に近づいて行く様子が見られる。
c 増渕が同房者に過ぎない檜谷に日石土田邸爆弾の特徴を含め爆弾について右のように詳しい話をするということ自体も、密告される危険を伴うのであり、不自然さがないではない。
d 檜谷48・3・10員面によれば、「三月九日の朝洗面所で増渕から頑張れと言われ、口止めをされたものと受け止めたが、私は日頃増渕が自分は知らないのだと事件に余り関係ないようなことを言っていながら私に口止めをするほど重要なことを話していたのかなと心の中で考えた」というのであり、檜谷が増渕から重要な話を打ち明けられたものとは意識していなかった様子が窺われる。増渕が爆弾を作ったことがある口振りで檜谷に話をしていたというならば、檜谷も口止めをされた理由について容易に思い当たるはずである。
e 檜谷の証言によれば、増渕が爆弾の話をしたのは檜谷に対してではなく、当時麹町署の別の房に留置されていた公安関係の被疑者の鈴木という者に対してであり、看守にも聞こえるような声で話していたのを自分が聞いていたというのであるが(六二回公判・二五冊八八六二丁以下)、そうであるとすれば、増渕が爆弾に関する話をしたとしても一般的な話にとどまるのではないかと思われる。また、檜谷の右証言は、檜谷の捜査段階における供述内容を変更するものであるが、変更の理由が判然としない。
f 以上の諸点を総合すれば、檜谷の捜査段階における供述は、取調官の誘導と檜谷の迎合により次第に供述内容が膨らみ、日石土田邸爆弾の特徴に符合する内容に近づけられて行ったもので、檜谷の証言も基本的には右の延長上にあるのではないかとの疑いを否定できない。すなわち、増渕が檜谷や前記鈴木との会話の中で爆弾に触れる話をしたことはあるのではないかと思われるが、果たしてその内容がどのようなものであったかについては、檜谷の供述をどこまで信用してよいのか判然としないと言わざるを得ないのである。
増渕から土田邸事件について口止めをされたこと
a 檜谷は、三月一〇日午前一一時ごろ煙草の吸殻を捨てる際に増渕から「土田のことは言うな。死活問題がかかっている」旨口止めされたというのであり、48・3・11員面に初めて右供述が録取され、48・3・26検面にも同旨の供述が録取されている。また、檜谷の証言においても、日時ははっきりしないとしながらも朝(午前七時三〇分ごろ)の洗面の際増渕から土田のことは黙っていてくれと言われた旨述べられている。
b そこで検討するに、まず、檜谷は増渕から口止めを受けたという三月一〇日はその後午後になってから岩城巡査部長の取調を受けているのであるが、同巡査部長に対しては、前日の三月九日午前一一時ごろ煙草の吸殻を捨てる際に増渕から「頑張れ」と言われたことについては供述しているけれども、三月一〇日の「土田のことは言うな、死活問題だ」という、直前に行われた口止めについては全く述べていないのであり、不自然である。檜谷として、三月一〇日(午前)に増渕から口止めとして言われた言葉があまりに生々しいものであったので、その直後の同日午後の取調の際には、増渕に対するためらいの気持から供述しそびれてしまったということは一応考えられるが、3・10員面の記載によると、檜谷は増渕との会話について逐一岩城巡査部長に供述している態度が窺われるのであって、右の点を供述しそびれたと見ることには疑問もあり、檜谷も3・11員面等でそのように述べているものでもなく、やはり三月九日及び一〇日の二回にわたって口止めされたのであれば、その双方をまとめて述べるのが自然であり、しかも口止めの内容及び重要性からすれば、三月一〇日午前の口止めをまず述べるはずであり、少なくともこれを述べないでおく理由はないと考えられ、これのみを翌一一日になって別に供述するのは不自然に思われる。もっとも、三月一一日に檜谷を取り調べた伊藤巡査部長は、「三月一一日は檜谷を取り調べる予定はなかった。麹町署に増渕を連れに行ったところ檜谷が刑事の大部屋に出ていたので、三月六日に檜谷の取調をした時には檜谷が思い出せないという事項があったことから何か思い出したことはないかと質問した。すると、檜谷が増渕から土田邸事件の口止めをされたと答えたので、重大なことであるから取調をしようということになり、麹町署の取調室が空いていなかったので警視庁本部で取調をした。檜谷は増渕から口止めをされた時は何のことかわからなかったが房へ帰って考えたら思い当たったと説明した。看守がいるのにそのような口止めができるのかと質問したら、檜谷は「短い会話で小さな声で言えばわかりませんよと答えていた」旨証言する(二一二回公判・一〇五冊三九二三六丁以下)。伊藤巡査部長は、檜谷は三月一〇日の岩城巡査部長の取調の後に土田邸事件について思い当たったと説明した旨証言しているように思われる。しかし、かりにそうだとしても、檜谷は取調官に対し増渕との会話について逐一報告している様子が見られるのであり、三月一〇日の岩城巡査部長の取調においても、たとえば「何のことかよくわかりませんが、今朝増渕から土田のことは言うなと言われました」旨供述するのが自然なように思われる。しかも、48・3・11員面の記載を見るかぎり「増渕から土田のことは言うなと言われたが何の意味かわからなかった。それから直ちに自分の房に帰り、土田という意味を考えたら土田邸事件のことを思い出した」となっており、檜谷は三月一〇日午後の岩城巡査部長の取調より前の時点で土田邸事件について思い当たった旨述べているものと見ざるを得ないのである。
c つぎに、三月一一日に檜谷の取調がされるに至った経緯についての前記伊藤証言にも疑問がないではない。第一に、檜谷が出房して刑事の部屋にいた理由が判然としない。麹町署の取調室が空いていなかったというのならば、檜谷が同人自身の被疑事実に関する取調のため出房していたものではないのであろう。第二に、3・11員面は「先日に引続き増渕さんから聞いた話を申し上げます。先日までに大体のことは想い出して話しましたが、その他本年二月二七日ころ彼から聞いた話をします」(原文のまま)との書き出しで始まり、まず釈放された場合の連絡依頼の件について供述が録取され、つぎに増渕から聞いた爆弾の種類等についての供述が録取され、その後に土田邸事件の口止めについての供述が録取されるに至っているのであり、右員面の記載からは同日の取調の経緯が前記伊藤証言のようなものであったことは窺われない。第三に、前記伊藤証言のように三月一一日檜谷の方から土田邸事件の口止めについて報告するような態度をとったというのであるならば、翌三月一二日の検察官の取調においても右の点について供述がされるのではないかと思われるが、同日付の検面調書には右の点に関する供述は録取されていないのである。以上の諸点及び前記bに述べたことを総合すると、三月一一日檜谷を取り調べるに至った経緯についての前記伊藤証言にも疑問がないではなく、伊藤巡査部長は三月一一日当初から檜谷を取り調べる目的で麹町署へ赴いたのではないかと疑われる。
d 檜谷の供述に従っても、増渕が檜谷に対し土田邸事件の犯行を打ち明けたようなことはないというのであるから、増渕が檜谷に対し土田邸事件について口止めをするというのも不自然さが残る。檜谷の供述によれば増渕と目白付近の地理について話したことがあり、あえて推測すればそのことが口止めされた理由ではないかと思うというのであるが(48・3・11員面)、増渕が土田という名前を挙げて口止めをする理由としてはいささか薄弱である。
e 檜谷48・3・10員面に録取された三月九日の口止めと、48・3・11員面及び48・3・26検面に録取された三月一〇日の口止めとは、口止めの内容が異なるものの、その他の状況は全く同じである。すなわち、いずれも午前一一時ごろのことで、戸外運動の際檜谷が煙草の吸殻の入ったバケツを持って洗面所へ行ったところ増渕が同様別のバケツを持ってついて来て口止めをしたというのである(48・3・10員面及び3・26検面参照。なお、48・3・11員面は午前一一時ごろ私が煙草の吸殻をかたづけていた時増渕が近くに来て口止めをしたというのであり、やや具体性に欠けるが、吸殻をかたづけるというのは吸殻の入ったバケツを洗面所で捨てるという意味であるから、48・3・26検面と異なる状況を述べたものとは見られない)。しかし、二日間連続して全く同じ状況のもとで口止めがされるというのも若干の不自然さがないではなく、48・3・26検面には三月一〇日の口止めについて供述が録取されているにとどまり、三月九日の口止めとの関係については説明がないのであり、しかも三月一〇日の口止めについても「増渕が私に『調べられているんだろう。土田のことは言うな。頑張ってくれ』と言った」というのであって、三月一〇日に初めて口止めがされたことを窺わせないではない表現ともなっているのであり、疑問を生じさせる。なお、檜谷証言によれば、増渕から口止めをされたのは東京拘置所に移監される前、朝の午前七時半ごろの洗面の際に一度あるだけであるというのであって(六〇回公判・二四冊八六八七丁以下)、時刻、状況、回数の点で異なる供述をしている。
f 以上の諸点を総合すると、三月一一日伊藤巡査部長は前日檜谷が岩城巡査部長に増渕から口止めをされたことを供述したことを知り、檜谷はさらに詳しい話を増渕から聞いているのではないかと考えて檜谷を取り調べ、同巡査部長の追及と檜谷の迎合により三月九日の口止めに関する供述が三月一〇日の土田邸事件の口止めに関する供述に移り変わったのではないかとの疑いを否定できないのであり、檜谷の証言もこの延長上にあるものと疑われる。なお、三月九日ごろに増渕が檜谷に頑張ってくれと申し向けたことはあるかも知れず、増渕の本件各犯行への関与を肯定する方向に働く情況になる可能性はあるが、これを重視することはできない。
増渕が自殺を窺わせる言動を示したこと
この点は、檜谷の供述内容にもあるように冗談かも知れないし、厳しい取調によるものかも知れないのであって、増渕の本件各犯行の関与を肯定する方向に働く情況として重視することはできない。
増渕と目白付近及び八・九機付近の地理並びにアメリカ文化センターの内部の状況等について話をしたこと
檜谷の捜査段階における供述(48・3・26検面)によれば、増渕が檜谷を公安のスパイではないかと疑って目白付近の地理を知っているかどうかためして来たかのような内容になっているが、檜谷の証言によれば日本女子大の学生と同棲していたことがあって目白付近の喫茶店のことなどが話題になったというのであり、捜査段階の供述とは異なる。また、右検面に録取された内容も増渕が檜谷に目白付近の地理を詳しく説明したというのであり、檜谷を公安のスパイと疑ってためすような状況としては不自然さがないではない。いずれにしても一連の檜谷の供述の中で右の点のみ迎合した部分がないと断ずることはできないであろう。増渕は檜谷と目白付近の地理を話題にしたことはあるのであろうが、その内容について檜谷の供述をどこまで信用してよいのか判然としないと言わざるを得ない。また、檜谷が八・九機付近やアメリカ文化センター内部の様子を知っていたため増渕が檜谷を公安のスパイと疑うことは、増渕が当時これらの事件で起訴され、あるいは取調を受けていたのであるからあり得ることであるが、増渕がこれらの犯行に関与したことを肯定する方向に働く情況として重視すべきものではない。なお、アメリカ文化センターの内部の様子等の話について触れると、檜谷48・3・26検面によれば、「増渕から質問されてアメリカ文化センターの内部の様子等について説明した。増渕はエレベーターの数を正確に知っていたのである程度様子を知っているものと思った」というのであるが、48・3・6員面には檜谷が増渕にアメリカ文化センターの内部等の様子を説明したと述べられているが増渕が内部の様子を知っていたとの供述はない。檜谷はアメリカ文化センターがあるビル内でアルバイトをしていたことがあり、昭和四八年の逮捕される直前にも同ビルに出入りしたことがあるというのであるから(六一回証人檜谷の供述・二五冊八八三七丁以下)、同ビル内のエレベーターの数について増渕の記憶のほうが檜谷の記憶より正確であるとは考え難い。
③ 以上述べて来たように、檜谷の供述は、検察官の援用する主要部分について同人の捜査官に対する迎合によるものではないかとの疑いを払拭できないのであり、増渕が留置場内で爆弾等に関する話をしたようなこともあると思われるが、檜谷の供述をどこまで信用してよいのか判然とせず、結局これを増渕の本件各犯行への関与を肯定する証拠として有力なものとすることはできないのである。
第三節石田茂の供述
さらに、石田茂の昭和四六年一〇月ごろ増渕から手提紙袋に入った危険なものを預かったとの供述について考察する。
① 石田48・4・7検面(謄)(増渕証三冊四四一丁、証六四冊一五九〇一丁)の要旨は、昭和四六年一〇月上旬から中旬にかけてのころ、増渕が手提げの紙袋を提げて石田の居室に来て、石田に「これを置いておいてくれ」と言って同居室の押入れの襖を自分であけてその手提袋を入れ、なお石田に『ちょっとやばいものだ。絶対にさわるんじゃないぞ』と言い、数分して帰って行ったが、一、二日後石田の右居室に来て石田に『預けた物を持って行く』旨言うので、石田は押入れの中から右手提袋を取って(石田は意外に重いもので、二、三キログラムぐらいあるように感じた)、増渕に渡すと、増渕はこれを受け取って帰って行ったというのである。
ところが、石田茂の証言によれば、右のような事実は全くないというのであり、捜査官から「増渕が石田に爆弾の入った紙袋を預けたと述べて謝っている。認めなければ何度でも呼び出すし、家族に迷惑をかけてもいいのか。爆弾と知らずに預かった場合は罪にならない」と言われ、自分が今後どうなるのだろうかとの不安や日石土田邸事件の新聞報道に自分の名前が出て親の心痛が著しかったことからこれ以上呼出しを受けるようなことはないようにしようと考え、不本意な供述をしたというのである(一五七回公判・七三冊二八一三八丁以下、堀・江口七回及び八回各公判・堀・江口二冊五九二丁以下及び六一九丁以下)。
石田の前記供述は、増渕の石田に爆弾を預けた旨の自白(48・4・4検面、4・8員面)を裏付けるものである。増渕の右自白の証拠能力が認められないことは増渕調書決定のとおりであるが、検察官の主張を裏付ける情況証拠として数少ない第三者の供述の一つであるから、その信用性の有無を検討する必要があるものである。
② 石田48・4・7検面が作成されるまでの経過
増渕48・4・4検面に「江口から受け取った爆弾二個を堀に渡したと思うが、もしかすると二、三日祖師ヶ谷の横山荘の石田茂方の押入れに預けておいた後に渡したのかも知れない」旨の供述が録取されており、これを受け、警視庁では四月五日に石田の上京を求めて右の点について取調をし、翌六日員面調書を作成し、翌七日検察官の取調がされて検面調書が作成されたものである。七六回証人津村節蔵の供述・三三冊一一九二五丁以下、榎下一五回証人小林正宏の供述・榎下六冊一二五一丁以下参照。なお、右小林証言によると四月三日夜に石田の取調の指示を受けたというのであるが、増渕が右供述をしたのは四月四日の津村検事の取調が最初であり、小林巡査部長の記憶違いの可能性がある。
③ 石田の取調状況
右小林証言によれば、「四月五日石田の上京を出迎えて一緒に喫茶店でお茶を飲み、麻布警察署で取調後石田と一緒に大衆酒場で飲食し、同夜石田を芝パークホテルに宿泊させるように手配済みであったので同ホテルまで石田を送って行った。翌六日右ホテルへ石田を迎えに行き麻布警察署で取調をして員面調書を作成後石田と一緒に中華料理店で飲食をして同人を前記ホテルまで送って行った。翌七日石田を前記ホテルへ迎えに行き、麻布警察署で取調をし、員面調書を作成し、午後東京地検に石田を送って行き、検事調べの後石田を東京駅に見送った。前記飲食代金等は自分が支払ったが、四月七日石田に支払う旅費、日当から差し引いて精算した」というのであり、小林証言に従ってもいわゆる行き過ぎた面倒見がされており、石田に対し取調官に抗し難い心理的な影響を与えた疑いを否定できないものである。また、最初の取調をした四月五日には員面調書が作成されず翌日員面調書が作成されるに至った経過を見ても、四月五日には取調官の見込みどおりの供述が得られなかったことが窺われる。
小林巡査部長は石田の取調に当たって事前に増渕の前記供述内容を知っていたものであり(前記小林証言・榎下六冊一三二一丁以下)、前記石田証言に照らせば小林巡査部長は石田に増渕が前記内容の供述をしていることを告げた可能性が強い(なお、右小林証言・榎下六冊一二五五丁以下参照)。右のようなことを告げられれば、石田に増渕自身が述べているのなら構わないという安易な気持が生ずることもあり得るであろう。また、自分が預かったものが何であるか知らないということで供述するならば、罪に問われることもないとの安心感も生ずるであろう。
石田は、昭和四七年に火薬庫に侵入して火薬を盗もうとしたことで逮捕、勾留され小林巡査部長の取調を受け、昭和四八年二月には奈良在住の同人のもとに警察官が訪れて取調があり、同年三月には上京を求められて取調を受け、その後同年四月五日再び上京を求められて取調を受けたものであり、石田が何度呼出しを受けて取調を受ければ済むのだろうかとの不安を抱いたことはあるであろう。また、石田の親が日石土田邸事件の犯人として報道されている増渕に関連して石田が取調を受けることを心配していたことも、親としては当然であろう。
石田は、昭和四七年の取調においては増渕との関係を進んで供述し、前記(第五章第二節一)カーペットをもらった際の増渕の話や電気掃除機を買いに行った際の増渕の話等を述べていたというにもかかわらず(前記小林証言参照)、増渕から手提紙袋に入った危険なものを預かったということについては昭和四八年四月五日以降の取調に至るまで供述していなかったものである。
④ 石田の供述内容の検討
なお、石田の供述内容についても、増渕が石田に預けたものが爆弾だとすれば、増渕が石田に爆弾の保管を依頼する十分な理由が見当たらず、むしろ秘密が露見する危険を高めるような行為と思われ、不自然さが残ること、また、増渕は何の予告もなく石田方を訪れており、爆弾の保管を依頼するにしては周到さに欠けることなどの疑問がある。
⑤ 以上を総合すれば、石田が増渕から手提紙袋に入った危険なものを預かったとの供述をしたことについての前記石田の弁解には排斥し難いものがあり、石田の右供述の信用性には疑いがある。
⑥ なお、石田の取調の端緒となった増渕の自白を見ておくと、増渕の自白は、増渕調書決定において認定したように任意性を疑わせる状況下での取調の結果得られたもので、その供述の信用性には疑いを抱かざるを得ないが、その点は別論としても、同供述は増渕が江口と堀との間の爆弾の受渡しの仲介をしたという不自然な供述と一連のものであるばかりでなく、当初は爆弾を江口から受け取りすぐ堀に渡したと述べ、堀の供述等と必ずしも合致しないことから取調官から疑問を呈されるや、一旦佐藤安雄に預けたようにも思う旨述べ、さらに取調官から佐藤に預けることの疑問を指摘されると石田に預けた旨供述を変更しているのであって(前記津村証言参照)、増渕は取調官の追及に沿う方向に思いつきで供述しているのではないかとの感がある。
第四節鈴木茂の供述
一、供述の要旨
二二八回・二二九回証人鈴木茂の供述(一一九冊四二九一三丁及び一二〇冊四三一一七丁)の要旨は、つぎのとおりである。
すなわち、鈴木茂(以下、鈴木という。)の供述によれば、鈴木は、昭和三九年五月から昭和五〇年四月まで東京都の職員をしており、共産主義者同盟マルクス主義戦線派に属し、昭和四三年から昭和四六年にかけて千代田反戦行動委員会を舞台として活動を行い、また赤軍派のシンパ的立場にあったものであるが、赤軍派の神田京子の紹介で都立衛生研究所の職員であった江口と知り合い、都職労の組合活動等を通じて交際を重ね、昭和四六年一〇月ごろ、千葉県鴨川市太海海岸の旅館で江口から増渕を紹介されて知り合った。増渕はその時「笹川」という偽名を用いていた。また、その時は藤田和雄(「橘」という偽名を用いていた。)も江口、増渕と一緒に来ており、江口から紹介された(以下、鈴木の供述を摘記する)。
「自分(鈴木)は、太海では『海光苑』という旅館に二泊した。その時増渕から左翼運動全般について話を聞いたが、当時盛んであった爆弾事件も話題になった。増渕の爆弾闘争に対する考え方がすごくクールというか、肯定的というか、そういう感じを受けた。つまり爆弾闘争も必要な場合もあるんだという話も出た。その闘争も大勢の組織でするのでなく、ゲリラ的、アナーキー的にやる考え方を持っているのではないかという感じがした。
「二回目に増渕と会ったのは、昭和四六年一一月末か一二月の初めの土曜と日曜で、つまり暦によると一一月二七、二八日か、一二月四、五日であるが、伊豆の妻良の民宿に増渕、江口と一緒に一泊した。そこに行くについては、江口から『増渕が会いたがっている』との連絡を受け、江口の案内で出かけることになり、土曜の午後東京駅で江口と待ち合わせて一緒に行ったのであった。増渕は別に来ていた。民宿の名前は覚えていない。
「妻良の民宿では、最初当時頻発していた爆弾事件一般が話題になり、その話の中で郵便局で小包爆弾が爆発した事件(日石事件を指す。)のことが出て、自分が『なんであんな所(郵便局を指す。)で爆発が起きたんだろう』と疑問を投げかけると、増渕が『あれは失敗だった』と言い、江口が増渕に対し『(あれは)あなたがミスをしたからいけないのよ』と言い、増渕が苦笑する表情を見せた。
「自分が増渕に爆弾の作り方や材料の入手方法を尋ねると、増渕は『小包を開けば爆発する爆弾を作ることは技術的に可能である』と言った。爆薬に用いる薬品の名前なども聞いた。専門的な言葉は覚えていないが、砂糖がどうのこうのとか、セルロイドとか、そんなようなことも聞いた。増渕は『ダイナマイトは捜したが手に入らなかった』と言っていた。増渕はあけると爆発する装置の説明をしてくれたが、その中で『スイッチ』という言葉を聞いたような覚えがある。
「自分が、開くと爆発する小包爆弾を郵送しても、開かれなければ意味がないんじゃないかと質問すると、増渕は、『小包の中身を、送り先の人の興味をそそるような物に仮装したり、差出人の名前に送り先の人と深い関係を持つ人の名前を使ったりすれば、あけられる可能性は極めて強い。その場合、差出人と送り先の人との関係を事前に調査しなければならない』旨言っていた(この妻良で会った時の前であったか後であったかは忘れたが、自分は江口から都庁にある、或る名簿を貸してくれと言われたが、断ったことがある)。
「さらに妻良で聞いたこととして、江口が『自分は学会(会議)に出席するために、自動車で新橋方面から東京駅へ向かったが、途中、日比谷から数寄屋橋にかけて車が混んでいたので、予定していた下り列車に乗り遅れそうになった』と言うので、自分は江口に『そごう』の前から東京都庁の方を通ればすいているよと言ったのを覚えている。そして、増渕が江口に『アリバイがあるから大丈夫だ』と言っていた。この『アリバイがある』ということは、具体的には聞いていないが、多分江口が東京駅から西の方に行くという話のことではないかと思う。
「増渕と江口のアリバイ関係の話の中で、誰かが習志野の陸運事務所に行き、公的な記録に日付けを残すということも聞いた。また、増渕と江口の話では、増渕と江口はその当日新橋まで自動車で来たが、運転した人(及び車)は仕事の都合で通し運転ができず、新橋で他の人(及び車)と運転を交代した。また、他の一人の人物が山手線で新橋まで来たが、その人が新橋から自動車に乗り込んだ、ということであり、話の様子ではその乗り込んだ人は前林というイメージであった。そして、東京駅で江口が降りた後、その車は習志野に行ったということであった。さらに、江口の学会行きの話、また、習志野の陸運事務所の話のほかに、車に乗っていた人というか、運転を交代した人を含めて、それぞれ何らかの形でアリバイを作ったということも聞いた。
「増渕や江口の友人の話を聞いた。挙げられた個人の名前は覚えていないが、日大二高、八王子の保健所、牛乳店の労組、それに月島自動車に友人がいるということを聞いた。
「妻良での話全体を通じて増渕は爆弾闘争について肯定的であり、自身でも爆弾闘争をやろうという気を持っているという感じを受けた。
「妻良の話の最後に、増渕から『今度何かあったら連絡するから』ということをいわれたが、その時自分は今後たとえば爆弾闘争を一緒にやろうと声がかかって来る可能性があると考えた。妻良から帰る時点で妻良での増渕らとの会談は、爆弾闘争についての自分に対するオルグであったと思った(ところが、その後増渕や江口から自分に対する連絡はなかった。昭和四六年の一二月ある集会の際に江口から前林を紹介されたことがあるが、さらにその後土田邸事件発生後であったと思うが、江口から『前林はあなたのことをおっちょこちょいだと言っている』ということを聞かされ、ああそれで自分にお呼びが来なかったのかと思った)。
「妻良で江口からだったと思うが、八王子保健所の者が頼りにならないので手伝ってくれというような話があった。
「また、妻良では、増渕は爆弾作りの技術は自分のほうが梅内より上であると言っていた。
「自分は、妻良で以上のような話を聞いて、郵便局の事件(日石事件)は多分増渕達がやったのではないかと思った。
「その後昭和四六年一二月一八日に土田邸事件が発生したが、自分は郵便物を開くと爆発したという点で妻良で聞いた話とよく似ているので、もしかしたら増渕らがやったのではないかと思った。そこで、その後、まだその年の内であったが、都内で江口と会った時単刀直入に江口に『土田邸の事件はあんたらがやったのか』と質問した。これに対し、江口は否定も肯定もせず、『それはあとでいいから』と言っていた。
「自分は増渕に会って土田邸事件のことを確かめ、また増渕が笹川という偽名を使っていたことも問いただしたかったので、江口を通じて面会を申し込んだ結果、昭和四七年一月二八日から千葉県海上郡飯岡町の国民宿舎飯岡荘に増渕、江口と二泊して話をした。増渕は本名を隠していたことを詑びていた。自分は増渕に『何で一警察官個人なんかに爆弾を送ったんだ』と尋ねたところ、増渕はやったとかやらないとかの返事はしなかったが、『東京は我々の闘争の主たる中心地である。我々の闘争を押えつけようとするのが警視庁である。だから警視庁の警備関係の幹部に対し個人テロを行うことは無意味ではない』旨言った。その時の自分の気持としては、土田邸事件は九〇パーセントぐらい増渕らがやったと思っており、その前提で話を始めたし、増渕も自分らがやったということを前提として話をしているように感じた。増渕との間で土田邸事件の位置づけとか個人テロの位置づけについて話をしたが、増渕は警察官個人に対するテロの話の中で『過剰防衛』という言葉を使ったのを覚えている。
「その後昭和四七年の二、三月ごろ都内で江口と会った時、江口は土田邸事件に関し『物的証拠がないから大丈夫だ』と言ったのを覚えている。
「自分は、昭和四八年三月に警察官、検察官の取調を受けた。その時は、増渕、江口と太海、妻良、飯岡で会ったこと等を話したが、爆弾事件に関する話が出たことは話さなかった。その後、自分は昭和五〇年四月に公務員(東京都職員)をやめ、職業が変わった。いわば地べたにはいつくばってでも生きて行くためには主義とか主張を乗り越えた、経済的なことでなければあした生きて行けないという立場にある。それに何よりも一〇年もの時の流れがあり、爆弾闘争といった現実から自分が遠のいてしまった。そういうことで自分の心境も変った。現在でも法廷で証言することは心情的には躊躇する。それには自分自身に対する気持もあり、昔の友人の増渕、江口に対する気持もある。しかし、今日では、事実について尋ねられれば、(江口、増渕から)聞いて覚えていることは聞いたと話し、覚えていないことは覚えていないと話すという気持となっており、またそれだけのことである。なお、昭和五五年一二月から昭和五六年三月にかけて検察官からあらためて当時の事情を聴取され、今度の法廷証言と同じようなことを話したことがある。」
二、供述の信用性
そこで、以下鈴木の供述の信用性について検討する。
(1) 供述の内容
① 鈴木の供述中には、一部を除き客観的事実と明らかに相違するものや、いかにも不合理かつ不自然と思われるものはなく、また、著しい変遷を示すものもない。しかし、全く疑問がないわけではなく、また、秘密の暴露や従前の捜査で未解明の事実が解明されたとかいうこともなく、体験した者でなければ述べ得ないような内容に富むとまでいうこともできないのである。
② 鈴木証言中最も重要なものは妻良での増渕、江口との会話であるが、つぎの疑問点がある。
鈴木を爆弾テロに勧誘する一手段として自分らがそれまでに敢行した事件を語り、実行力を誇示することは往々にしてあることであろうが(論告要旨二五四頁・一五六冊二五九二二丁)、第三者である鈴木の面前で日石事件のような重大な爆弾事件の犯行を自認するような話をすることは秘密が露見する危険性の高い行為であるから、そのような危険を冒すだけの必要性と鈴木に対する期待及び信頼がなければならないであろう。したがって、増渕らが日石事件の犯行を自認するような話をするにしてもまず鈴木の爆弾テロに対する考え方や爆弾テロに参加する意思があるかどうかを確認するのが自然であろう。ところで、鈴木証言によれば、爆弾テロは革命運動の主流にはなり得ないが、そのようなことをする者がいてもおかしくないという考え方であったというのであって(爆弾テロを自ら実行しようとの考えはなかったようである。二二八回・一一九冊四二九四一丁及び四三〇一四丁以下)、このような鈴木の考え方が江口と鈴木の交際や太海での話合いを通じてどの程度増渕らに伝わっていたのか明確でないにしても、増渕らに鈴木に対し日石事件の犯行を明ち明ける結果となるような危険を冒すほどの期待を抱かせるに十分なものがあったようには思われない。そうだとすれば、妻良における話合いでも増渕ら(特に増渕が鈴木に会ったのはこの時がわずか二度目である。)は慎重を期して、まず鈴木が爆弾テロの意義を積極的に評価する考えがあるのかどうか、テロの対象について意見が一致するかどうか、テロの実行に参加する見込みがあるかどうかについて感触を取ろうとするのが通常のように思われる。ところが、鈴木証言によれば昭和四六年当時各所で発生していた爆弾事件が話題になり、自分が野次馬的に、郵便局で爆弾が爆発した事件について、そのような場所で爆発したことについての疑問を呈したところ、江口と増渕が同事件の犯行を自認するような話を始めたというのであって、増渕らが鈴木の爆弾テロに対する考えなどについて感触を取ろうとした様子は窺われず、右に述べたところに照らし疑問がないではない。
なお、検察官の主張によれば、昭和四六年一〇月末ないし一一月上旬ごろ日大二高に増渕、堀、江口、中村(隆)、榎下、松村らが集まって土田邸事件の謀議が成立し、大まかな各自の任務分担が決定され、準備が進められて行ったというのであり(論告要旨一八三頁・一五六冊二五八八七丁)、同年一一月末か一二月初めごろの時点で新たに特別の技術を有しているわけでもない鈴木を勧誘しなければならない理由は見当たらないし、鈴木証言に現われた八王子保健所の者(中村(泰)や金本ということになろう。)は右謀議にも参加せず、重要な任務を割り当てられたことも窺われないのであって、検察官の右主張と鈴木証言とは十分合致するとは言い難いのである。
鈴木証言によれば、増渕らは日石事件の犯行状況につき具体的かつ詳細に、たとえば新橋まで自動車を運転して来た者についてまで話して聞かせていることになるが、オルグの一手段として行動力を誇示するにしても不必要なほど詳細であり、疑問がないではない。
鈴木証言によれば、増渕らは日石事件の犯行状況につき鈴木の面前で相当具体的かつ詳細に話して聞かせたというのであるから、そうであるならその話の中には従前の捜査では未解明の事実を解く鍵が含まれていても良さそうである。たとえば、日石事件については爆弾を郵便局の窓口に差し出した際の状況について全く自白が得られておらず、特に一旦差し出した小包爆弾を取り戻そうとした理由については全く未解明である。しかし、鈴木証言によれば、正確ではないが出した小包につき郵便局員から注意を受けたみたいな話を聞いたとしながら、それだけにとどまり、右未解明の点はなお明らかにされていないのである。右郵便局員から注意を受けたみたいな話というのは、犯人が一旦差し出した小包を取り戻そうとして郵便局員に拒否されたことがこれに当たると思われるが、そのような話が出たとすればなぜ小包を取り戻そうとしたのかということにまで話が及ぶのではないかとも思われ、そのような話は特異なことであるから鈴木の記憶に残りやすいのではないかと思われるのである。なお、鈴木は、郵便局員から注意を受けたというのは出した郵便物が規程に合っていなかったということらしく、荷札が一枚足りなかったとか、包装紙が破けていたとか、宛名が梱包の縄で見えなかったとかいうことと思うと証言するが(二二八回・一一九冊四三〇三〇丁)、客観的事実と相違する。
鈴木の日石事件に関する証言内容を見ると、いわゆるリレー搬送、江口及び前林のアリバイ工作に関する事項については、鈴木が右事項を述べるに際し当初妻良で聞いた話かどうかはっきりしないとか、事件にかかわりがあるかないかわからないなどといった曖昧な証言態度が見られること(二二八回・一一九冊四二九八一丁以下)、鈴木は、これらの事項については他の事項と異なり比較的細部まで覚えているように見受けられること(たとえば、中野とか「中」のつく方面から車で新橋に向かったとか、前林が山手線で新橋まで来て車に乗り込んだとか、習志野の陸運事務所に行った者がいたなど)を指摘できるところ、これらの事項は、リレー搬送者の一人とされていた中村(隆)にアリバイが発見され、また弁護人らが江口及び前林のアリバイを主張して強く争っている攻防の中心とも見られる事項であることに照らすと、鈴木の証言が右のような公判の推移に何らかの影響を受けたものではないかとの見方を排斥し去ることには慎重でなければならないであろう。
③ 鈴木証言によれば、妻良で聞いたのかどうかはっきりしないが、江口から日大二高、八王子の方の保健所、月島自動車に仲間がいると聞いたというのであり、これらの者が増渕の爆弾テロの仲間であることを窺わせる証言内容であるが、江口が爆弾テロの仲間としての意思の確認をしていない鈴木に対し、他の仲間の特定につながることを話すというのはいかにも軽率であるし、また、そのような話がされたとしても九年以上も前の会話であり、右のような細かな固有名詞をいちいち鈴木が覚えているということには不自然さが残る。
④ 鈴木証言によれば、飯岡で増渕らと会ったのは主として土田邸事件の犯人が増渕かどうかを確認する目的であったというのであるから、そうだとすると、妻良で鈴木が増渕らに日石事件に関しいろいろ質問するなどしている態度から見れば、鈴木は飯岡でも増渕らに対し土田邸事件について突っ込んだ質問をするのではないかとも思われるが、鈴木は飯岡では一警察官に爆弾を送ったのはなぜかとの質問をしただけで、それ以上はかかわり合いになりたくなかったので聞かなかったというのであり、いささか一貫しない態度のように思われる。
(2) 証言の動機
鈴木が証言をするに至った動機として述べるところは、前記のとおりであるが、説得力が十分あるとはいえない。鈴木は昭和四八年三月に警察官の取調を受けた当時とは心境の変化を来したと述べるが、爆弾闘争に対する考え方は当時とさほど変わっていないと述べ、主義としても左寄りのところが残っているというのであり(二二八回・一一九冊四三〇四〇丁、二二九回・一二〇冊四三三二八丁以下)、具体的にどのような心境の変化を来たしたのか判然としない。なお、鈴木は検面調書の作成に際しても現実の住居を記載しないように検察官に依頼し、証人として出廷するに際しても現実の住居を被告人、弁護人らに知られることを恐れた様子が窺われるのであって、今回証言するに際しても心理的抵抗は大きいものがあったと思われるが、そのような心理的抵抗を超えて証言するに至ったことについて納得の行く説明がされていない。要するに鈴木が約八年を経てその態度を変え、真実を証言するに至った動機としては釈然としないものが残るのである。
なお、鈴木はその職歴、経歴に照らすと十分信用の置ける人物とは言い難い。
以上を総合すると、鈴木証言は真実を述べているのではないかとの感があるものの、同証言にはなお釈然としないものが残り、直ちに右証言に依拠して増渕及び江口の本件各犯行への関与を肯認することはできないのである。
第八章アリバイの検討
第一節日石事件に関する被告人前林のアリバイ
検察官は、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時四〇分ごろ日石本館内郵便局で爆発した二個の小包爆弾の差出しに関与した女性二名は前林及び江口であり、両名のアリバイは認められない旨主張し(論告要旨二八〇頁以下・一五六冊二五九三五丁以下)、これに対し、弁護人は、両名にはアリバイがある旨主張するところ(弁論要旨・一六二冊五三八九三丁、五三八九七丁)、前記(第七章第四節)のとおり、右検察官の主張に沿う証人鈴木茂の証言は採用し難いものであって、結局検察官の右主張事実は証明がないのであるが、なお、この際、弁護人の右アリバイの主張について判断を示しておくことにし、本節においては、まず前林のアリバイの主張について判断する。
一、前林の供述の要旨
中村(隆)一〇回証人前林則子の供述(中村(隆)五冊一二五一丁)及び七四回被告人前林の供述(三二冊一一四四五丁)中の、昭和四六年一〇月一八日の自己の行動に関する供述の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四六年一〇月一八日は、そのころ購入した自動車(ホンダN三六〇)の名義変更のために、午前九時ちょっと過ぎごろ千葉県松戸市常盤平の実家(両親宅)を出て、まず、歩いて一〇分ぐらいの所にある松戸市役所常盤平支所に行った。同支所に着いたのは午前九時一五分か二〇分ぐらいであったと思う。同支所で住民票一通を交付してもらったが、それに二〇分ぐらいはかかったと思う。それから歩いて新京成電鉄の常盤平駅に行った。同駅に着いたのは午前一〇時少し前であったと思う。一五分か二〇分ぐらい待たされて、午前一〇時過ぎの電車に乗り、隣の五香駅で車両交換があったので、新津田沼駅に着いたのは午前一一時ごろであったと思う。国鉄津田沼駅前のバス発車所まで一〇分ぐらい歩き、同所で二〇分ぐらい待たされた後、バスで習志野の車検場に行った。そこに着いたのは正午少し前ごろであったと思う。所内の代書屋で名義変更の申請書を書いてもらったが、丁度昼休みで、午後一時まで受付けを待たされた。所内では待っている間に中学時代の同級生であった平山という男の人を見かけた。午後一時になってすぐに受け付けてもらった。事務手続きには一時間ぐらいかかった。それからバスで国鉄津田沼駅に戻った。」
以上のとおりである。
二、検討
そこで検討すると、押収にかかる「住民票閲覧・交付申請書兼台帳」綴一冊(昭和四八年押第二一〇七号の六七)及び前林の前記各供述の一部に徴すれば、前林は、昭和四六年一〇月一八日松戸市役所常盤平支所に出頭し、住民票抄本一通の交付を申請し、その交付を受けたことが認められる。
また、一五八回証人平山弘志の供述(七四冊二八三六五丁)、一五九回証人前林藤松の供述(七四冊二八五七二丁)の一部及び前林の前記各供述の一部に徴すれば、平山弘志は松戸市第二中学校の卒業生で、前林と同級生であったものであるが、その所有自動車の廃車手続きをするために、昭和四六年一〇月一八日午後零時過ぎごろ千葉県陸運事務所習志野支所に出頭したところ、昼休みのため午後一時ごろまで同所内で時間待ちをしたこと、また、前林も、自動車(ホンダN三六〇)の名義変更手続をするために同日午後一時ごろ前までには同支所に出頭していて、平山の姿を見かけたことが認められる。すなわち、以上の各事実は、前林のアリバイ主張の中で証明のある事実であるということができる。
しかし、まず、前記証人前林藤松の供述の一部によれば、昭和四六年一〇月一八日当時松戸市役所常盤平支所における住民票抄本交付申請及び交付の事務は午前八時三〇分から開始されたものであることが認められる。
なお、(員)坂本昭人外三名49・2・13実査(証八一冊二〇一〇〇丁)及び二二一回証人坂本昭人の供述(一一二冊四一〇五二丁)によると、松戸市常盤平二の一八前林藤松(前林の父親)方から同所三の二七松戸市役所常盤平支所まで普通に歩いて一一分程度かかることが認められる。
そして、二二一回証人伊藤時彦の供述(一一二冊四一〇八四丁)、(員)伊藤時彦48・4・9時間測定捜報(証八一冊二〇〇九六丁)、並びに常磐線、山手線及び京浜東北線各列車ダイヤ(写)(証八三冊二〇七八〇丁以下)によれば、
① 松戸市役所常盤平支所から新京成電鉄常盤平駅のホームまで司法警察員伊藤時彦(身長一七八センチメートル)が普通に歩いて約八分かかること、
② 同じ歩測で、松戸駅において新京成電鉄のホームから国鉄常磐線(上り)ホームまで約一分かかり、国鉄日暮里駅において常磐線(上り)ホームから山手線(外回り)ホームまで約二分かかること、
③ 国鉄新橋駅ホームから日石本館内郵便局まで、同じ歩測で約七分かかること、
④ 昭和四六年一〇月一八日当時、午前八時三〇分以後松戸市役所常盤平支所で住民票抄本交付申請をして交付を受け、新京成電鉄常盤平駅まで歩き、同駅から電車に乗り、松戸駅で国鉄常磐線に乗り換え、さらに日暮里駅で国鉄山手線又は京浜東北線に乗り換え、新橋駅で降り、徒歩で午前一〇時三〇分までに日石本館内郵便局に着くには、当時の列車でダイヤによれば、
常盤平発午前八時五一分(松戸着午前九時二分)
同 午前八時五七分( 同 午前九時八分)
同 午前九時一一分( 同 午前九時二一分)
同 午前九時一九分( 同 午前九時二九分)
のいずれかに乗れば間に合ったこと(最後の常盤平発午前九時一九分に乗った場合でも、午前九時二九分松戸着、常磐線に乗り換え午前九時四二分松戸発、午前一〇時一分日暮里着、京浜東北線に乗り換え午前一〇時六分日暮里発、午前一〇時二二分新橋着となる)、
が認められる。
さらに、(員)河野三郎外一名48・4・23実査(謄)(証八一冊二〇三一三丁)及び二二五回証人河野三郎の供述(一一六冊四二〇四九丁)によれば、司法警察員河野三郎外一名が昭和四八年四月二三日普通乗用車を使用して実査したところ、午前一〇時四〇分日石本館前を出発し、高速道路七号線銀座入路より同道路に入り、途中混雑のため徐行運転をする箇所もあったが、高速道路(京葉)武石出路より同道路を出て午前一一時五一分千葉県陸運事務所習志野支所に到着したこと(この間の走行距離四一・六キロメートル、所要時間一時間一一分であった。)が認められ、これによれば、日石事件当時、日石本館内郵便局で爆弾が爆発した午前一〇時四〇分ごろに同本館前を自動車で出発すれば、午前中又は午後零時過ぎごろまで(遅くとも午後一時前ごろまで)に千葉県陸運事務所習志野支所に到着することは可能であったと認められる。
右のとおりであって、前林の前記アリバイの供述中、前記証明がある事実の範囲外の部分は、直ちにこれを信用するわけには行かないところである。
なお、前林のみの関係で取り調べた証拠と関連して付言すると、同人は、前林48・4・22員面(証九五冊二三四一六丁)及び前林48・5・4検面(同二三四八二丁)においては、アリバイに関する事項中津田沼駅前から乗車したバスについて「午前一一時二〇分ごろのバスに乗った。乗り場は五つぐらい並んだ中の真ん中辺であった。バスには男の車掌がいて、バスに乗ってから切符を買った」旨甚だ具体的に供述している。しかし、かりに前林がこの供述のとおりバスに乗車したとすると、(員)斎藤勲外一名48・4・27捜報(証五八冊一四七一六丁)に徴すれば、前林が乗車したというバスには午前一一時二三分発船尾車庫行きの京成バスが該当すると認められるが、同バスは車掌の乗っていないワンマンバスであって、前林の供述はこの点で事実と符合しないものである。前林は、公判廷では「自分の乗車したバスに車掌がいたかどうか、はっきりしない」と述べているが(七四回供述・三二冊一一四四五丁)、前記員面及び検面中の供述と対比するとき、たやすく措信することができない。
以上のとおりであって、前林がその供述する前記の理由によって日石本館内郵便局事件の犯行時に同郵便局内ないしその付近にはいなかった旨のアリバイがあることは、結局これを認めることができないのである。
第二節日石事件に関する被告人江口のアリバイ
前節冒頭に述べたように、弁護人は江口には日石事件のアリバイがあると主張するので、これについて判断する。
一、江口の供述の要旨
江口のこの点の供述には変遷があるので、以下これを列挙する。
① 検面中の供述の要旨
まず、江口48・3・15検面、同48・4・3検面、同48・4・19検面、同48・5・4検面(証九六冊二三九三九丁・二三九六四丁・二四〇六三丁及び二四〇八二丁。以上は、いずれも江口のみについての証拠である。)並びに「第八回全国衛生化学技術協議会総会講演要旨」(証二三七号。以下、「講演要旨」又は「パンフレット」という。)によれば、江口の右各検面のこのアリバイに関する供述の要旨はつぎのとおりである。
なお、以下の江口の供述に出て来る大阪市の「なにわ会館」とは、大阪市天王寺区石ヶ辻三八番一号所在の公立学校共済組合大阪宿泊所、通称「なにわ会館」のことである((員)硲憲一55・10・16実見・証八三冊二〇七二二丁参照)。
「自分は、当時東京都立衛生研究所に勤務していた。昭和四六年一〇月一八日及び一九日に大阪市の『なにわ会館』で第八回全国衛生化学技術協議会総会が開催されたが、自分は、同年五月ごろに勤務先の上司から同会議に出席するようにいわれていた。開催日の一週間ぐらい前に『講演要旨』が送られて来たが、自分は、上司から、それに記載されている第二分科会(食品関係)に出席し、最初に予定されている国立衛生試験所田辺氏の『マイコトキシンの試験方法について』と題する講演を聴き、『講演要旨』中に出ている『セネキオアルカロイド類』、『サイカシン』についてどういうことか質問して聞いて来てくれといわれた。
「自分は、昭和四六年一〇月一六日は休暇をとり、横浜市の国鉄関内駅近くの料理店で行われた友人の結婚式に出席し、帰途同駅で翌々一八日の大阪行の新幹線の切符を買った。自分は、新大阪駅に午後二時に着けば第二分科会に出席できると考えていたので、駅員に尋ねた上で午前一一時ごろ東京駅発の切符を買った。
「自分は、一〇月一六日と翌一七日は埼玉県鳩ヶ谷市《番地省略》にある自分の実家に泊まったように思う。同月一八日は、午前九時過ぎごろ実家を出て徒歩約五分のところにあるバス停から赤羽か西川口行のバスに乗ったと思うが、あるいはタクシーを利用したかも知れない。赤羽駅又は西川口駅から国鉄京浜東北線で東京駅に行き発車間近の『ひかり』に乗って新大阪駅まで行った。途中、車中から友人の梁本哲周に電話をかけたことがある。
「新大阪駅から国電で大阪駅に行き、そこから地下鉄でなんば駅に出て、そこで地下鉄を乗り換え谷町九丁目駅で降りて、あとは徒歩で会場まで行ったが、交通がスムースに行ったので、新大阪駅から三〇分ぐらいで会場についた気持がしている。タクシーを利用したことはない。
(以下、谷町九丁目駅を降りてからなんば会館に到着し、第二分科会が始まる頃までの経過については、検面ごとに供述の要旨を併記する。)
「なにわ会館に入ってから一階のレストランで同僚の男の人三人ぐらいとお茶を飲んで、それから学会の会場に行っている。学会の始まる時から出席している。なにわ会館に入る一〇〇メートルぐらい手前で職場の安田さんに会っているし、その前にも女の人に会っている(以上、48・3・15検面)。
「なにわ会館の手前約一〇〇メートルの所で同じ職場の安田さんとその連れ一名と一緒になったので連れ立って会場に入った。まっすぐ二階受付に行き到着のチェックを受けた時、すでに六〇パーセントぐらいの人が受付を終えているのを見たように思う。分科会の始まるのが遅れて時間があったので、自分は一階食堂でジュースかアイスミルクを飲んだように思う。この時誰か連れがいたように記憶しているが、誰であったか思い出せない。とにかく自分がなにわ会館に着いたのは当初予定したとおり午後二時半ごろであり、それから分科会が始まるまで三〇分前後余裕があった。この日はなにわ会館に泊まった(以上、48・4・3検面)。
「谷町九丁目で降りてなにわ会館の見えるあたりまで来た時衛研の安田さんともう一人の男の人に会い『なにわ会館はどこかしら』というようなことを言ったところ、安田さんかもう一人の人から『すぐそこだ』と言われたような気がする。安田の連れが誰であったか記憶にない。衛研の冠さんがその連れであったという記憶はない。安田さんに会う前に会場までの間にどこかで衛研の女の人と一緒になったような気もしているが、それが誰であったか全く記憶にない。私の友達ではなく、思い出せない。あるいは会っていないのかも知れない。ただ何となく会ったのではないだろうかという程度の気がするので述べただけである(以上、48・4・19検面)」。
以上のとおりである。
② 増渕・前林二三回・二四回証人江口の供述の要旨
つぎに、増渕・前林二三回・二四回(昭和四九年九月一二日及び同月一三日)証人江口良子の供述(一一冊三七四〇丁)中の、このアリバイに関する供述の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四六年一〇月一六日は横浜市内で行われた友人の結婚式に出席し、その帰途関内駅で同月一八日の大阪行新幹線の切符を買った。大阪への出張旅費は同月一四日か一五日にはもらっていた。同月一七日(日曜日)はずっと鳩ヶ谷市の自宅にいて翌日の旅行の用意をした。一八日は大体九時ごろに自宅を出た。その朝は大したことはないが雨が降っていた。くすんだ薄いピンク色のレインコートを着て出かけた。バスの停留所に行く途中、記憶でははっきりはしないが、バスの停留所の近くで自宅の近くに住む高森という婦人と会った。一応挨拶をした。バスに乗って、国電の駅に出た。どこの駅かはっきりしないが習慣的には赤羽駅である。バス停から赤羽駅まで通常三〇分ぐらいかかるが、その時もその前後の時間で行ったと思う。赤羽駅から東京駅までは国電で二〇分か二五分だと思う。
「(検察官の、新幹線はひかりですか、こだまですかとの問に対し)ひかりです。(何時のひかりですかとの問に対し)多分、一〇時半だったと思うんですけれども。(一一時ではないんですかとの問に対し)いや、そんな遅くではありません。
「東京駅で新幹線に乗るまでにそんなに長い時間待っていないし、飛び乗るようなこともしていない。
「新大阪駅からは国電か何か知らないが、表を走っている電車で梅田(国鉄大阪駅の所在地名)まで行った。
「梅田では宿泊のことで時間を少し使った。(すなわち)学会は一八、一九の二日間あるのだが、一八日の宿泊しか決めてなかった。自分はもう少し大阪にいたかったので、梅田の駅の近くから電話で一九日の宿泊場所を大野屋旅館というところに決めた。もっとも、一八日になにわ会館に着いてから一九日も同会館に泊まることに予定を変更して、大野屋旅館をキャンセルした。
「梅田から地下鉄で途中何回か乗り換えて谷町九丁目まで行った。同駅からなにわ会館まで歩いて五分ぐらいで着いたような気がする。
「谷町九丁目の駅からなにわ会館まで行く途中で、同じ職場の女の人と会ったと思う。名前はちょっとはっきり思い出せないが、私自身頭にはあるのだが決め兼ねるということである。それからあと、なにわ会館の近くで、多分五〇メートルか一〇〇メートルぐらい前のところで、やはり同じ職場の人と会っている。その人は安田という男性である。
「なにわ会館には何時に着いたか記憶していないが、講演会(会科会)が始まる時刻が確か午後二時半か二時四〇分だったと思うが、それに十分間に合う時刻に着いた。分科会には最初から出ている。その前に時間的な余裕があったから多分一階の喫茶室で何人かの人たちと一緒にジュースなどを飲んで時間を少しつぶした。(その一緒に何か飲んだ人たちとして)安田さんたちも一緒にいたような気がするけれども、はっきりわからない。全部で五、六人いたと思う。同じ(職場の)食品部の人がかなり多かったような気がする。
「(なにわ会館に着いてからすぐ受付に行かないのか旨の弁護人の問に対し)しました。二階の分科会を行う部屋の入口のところで受け付けていたのでそこでした。
「自分の出た分科会のテーマは、主に農薬とかあの当時から問題にされ始めたかび毒というものであった。あといわゆる自然毒というものがあった。一八日はなにわ会館に泊まり、一九日も分科会に出席した。」
以上のとおりである。
③ 刑事六部一六六回証人江口の供述の要旨
さらに、刑事六部一六六回公判(昭和五七年三月一六日)証人江口の供述(証一二六冊三一六八六丁)及び前記「講演要旨」(証二三七号)によれば、同公判における証人江口のこのアリバイに関する供述の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四六年一〇月一八日は、大阪のなにわ会館で開かれた会議の第二分科会に出席した。第二分科会は、国立衛生試験所の田辺という人の講演から始まる講演会であり、自分はその最初から出席した。
「この会議の一週間ぐらい前に『講演要旨』(パンフレット)が送られて来た。『講演要旨』は、自分の逮捕後捜査当局に押収されていたが、自分の弁護人の要求により漸く数か月前に検察官からその開示を受けた。それが証二三七号である。
「自分が捜査官から取調を受けている段階で『講演要旨』のコピーを示されたことがあるが、示されたのは、『講演要旨』の末尾の方に出ている新大阪駅からなにわ会館までの道順が記載されている図面の部分である。
「自分は、『講演要旨』に書込みをしている。一二頁と一三頁に田辺氏の講演要旨が掲載されているが、一二頁の左側の書込みの『文献』という字は、講演を聴きに行くについて職場の同じ部屋の上司から田辺氏の講演要旨に出ている『セネキオアルカロイド類』と『サイカシン』についてどういう物質なのか聴いて来てほしい、行く前に図書館で文献でこれについて調べてくれということをいわれたが、その時にその上司の人が書いた字てはないかと思う。自分の字ではない。その行とその上二行に付けられているアンダーラインは、その人が引いたものであるかどうかはわからない。自分が引いたものかも知れない。『サイカシン』という印刷文字の上の『ソテツ』という書込みは、自分がボールペンで書いた字である。
「一二頁の下に鉛筆の書込みがあるが、これは自分の字である。全体的に字が書きなぐりみたいな字だからおそらく講演の時に書いたのだろうと思う。セネキオアルカロイドとサイカシンについていろいろ調べたことを別のノートにもっと詳しくメモしてあったと思うので、前もって書いたのでなく講演の時かなという気もするが、ちょっとはっきりしない。
「一三頁のメモは自分の字である。まず、同頁の下の鉛筆書きの化学式は、一二頁の下のメモと同様に講演の時に書いたのかその前に書いたのかわからない。多分講演の時ではないかなという気がするが。一三頁の鉛筆書きでないメモは自分が講演の時に書いたものである。その一番上のメモと二番目のメモは、多分田辺さんの講演の最初の段階で書いたものと思う。
「自分は、『セネキオアルカロイド類』、『サイカシン』について講演者の田辺さんに質問をしなかった。それは、田辺さんの講演の中で説明があったか、又は他の人が質問したために、理解できたからだと思う。一三頁の下の方に書いてある『セネシック酸』というのはセネキオアルカロイドの一つであるが、講演の中で自分の知識でも説明が理解できたものと思う。
「一四頁、一五頁等にある書込みも講演を聴きながらメモしたものである。」
以上のとおりである。
④ 二八三回被告人江口の供述の要旨
また、二八三回(昭和五七年一〇月一日)被告人江口の供述(一五四冊五二二二〇丁)中このアリバイに関する部分の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四六年一〇月一八日は新幹線ひかり号で大阪に行った。新大阪からは国電であったと思うが、電車で大阪駅に行き、下車して駅前の陸橋を渡り(陸橋を渡った記憶がすごくはっきりしている)、新阪急ホテルかなんか、大きなホテルのロビーで翌一九日泊まれるかどうか聞いたり、あともう一軒聞いたが、泊まれないということであったので、もう一軒大野屋旅館かなんかに電話をして宿泊を決めた。それから地下鉄に乗ってなにわ会館に行った。大阪市内を通るのははじめてであった。行く時には、『講演要旨』のほかにそれと一緒に送られて来たものと思うが、大阪市内の交通案内図を持っていたが、その図面のとおりには行かず、地下鉄梅田駅に貼り出してある路線図を見て行った。谷町九丁目駅に着くまでに途中一、二回は乗り換えており、乗換なしで行ったということはない。途中の駅として『なんば』という名前が記憶にあるが、そこで一旦降りたのか通過したのかは覚えていない。天王寺駅で乗り換えたかどうかも今はわからない。
「新大阪からなにわ会館までの時間の点であるが、電車だけに乗っていた時間は一時間かからないと思うが、途中新阪急ホテルであったかホテルのロビーで二、三十分はウロウロしているので、新大阪からなにわ会館までは一時間以上はかかっている。
「東京駅で何時の新幹線に乗ったかという点であるが、自分は保釈後交通博物館に行って当時の列車時刻表で、ひかり号の発車時刻を調べたところ、たしか午前一〇時二〇分、同四〇分、午前一一時であったと思うが、新阪急ホテルのロビーでウロウロした時間や、なにわ会館に着いた時の時間帯の記憶と照らし合わせてみると、午前一〇時二〇分発に乗ったという感じがする。
「(切符はどこで買ったのかとの問に対し)東京駅で買った。(問い直されて)ああ間違った、横浜の関内駅で前の土曜日に買っている。(どうして間違ったかとの問に対し)先日(昭和五七年九月二日)の菊井良治証人の尋問で岡山に行く切符を買った時のことと取り違えた。
「(江口の検面によると、東京駅午前一一時ごろ発の切符を買ったと述べているがどうかとの問に対し)自分の検面調書で午前一一時ごろ発の切符を買ったとなっているのは、一つには、自分が大阪に行った当日新阪急ホテルのロビーでウロウロした時間を全く思い出せなかったことと、もう一つには、親崎検事の取調の時に検察官の方からなにわ会館での学会は午後二時に始まったんだろうといわれ、また、新幹線は三時間一〇分かかるといわれて、逆算したら東京駅発午前一一時になるかなということで、そうなったのである。学会が午後二時ごろに始まるということは、警察でもいわれた。
「(午後二時の開会ならば、午前一一時東京駅発では間に合わないではないかとの問に対し)ああそうか。(中略)自分は、初めは東京駅午前一〇時半発のに乗ったと言ったんじゃないかという気がする。そうしたら警察の方で、お前そんなに早く行っていないぞと大分強くいわれて、自分にはっきりした記憶がないのに自分の言うことが間違いだったら信用してもらえなくなっちゃうんじゃないかというので、じゃあ午前一一時でしょうということで調書になったのである。」
以上のとおりである。
二、検討
① 当日午前九時ごろ鳩ヶ谷市の家を出発して東京駅に赴いた旨の江口の供述の信用性
まず、当日午前九時ごろ鳩ヶ谷市の家を出発して東京駅に赴いた旨の江口の供述の信用性について検討する。
この点について、二四二回証人高森キクの供述(一三一冊四五九一三丁)の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、鳩ヶ谷市《番地省略》に住んでおり、江口の家とは一軒おいた隣になる。昭和四三年ごろ、当時中学三年生であった娘の勉強を江口に見てもらったことがある。
「自分は、昭和四六年一〇月一八日は午前九時過ぎごろ家を出て近所に買物に出かけたが、その途中自宅から一〇〇メートルぐらい行った所で、後方から来た江口が自分を追い越していったことがある。その日が昭和四六年一〇月一八日であったということは、当時自分の夫は一二指腸潰瘍で、勤務先の明治薬品株式会社を休み、自宅で療養していたが、一〇月一五日に亡父の法事があり、その翌日(土曜日)に夫が国立ガンセンターに検査を受けに行ったことははっきりしており、そのつぎの月曜日であったという記憶があるからである。自分もその日のことなど覚えてはいなかったが、江口の母親から『江口があなたと会ったのだけれど』と言われて順々に考えて行って思い出したのである。自分は、昭和五〇年三月一七日に東京地裁の法廷で証言をしたが、江口の母親から言われて思い出したのはその証言の前であったと思う(「東京地裁の法廷で証言をした」とは、坂本勝治に対する被告事件の公判で証言をしたことを指す。以下、「前の証言」という)。
「自分が江口と会ったその時は雨が降っていた。雨は前日の夕方からか夜からだったかはわからないが、多分前の日から降っていた。その日の朝すごく降っていた。ぱらぱら降っているという程度でなく、傘がないと歩けない状態であった。自分はレインコートを着て傘をさして出かけた。その時に雨がかなり激しく降っていたという記憶は間違いない。自宅を出て一〇〇メートルぐらい行った所で後方から歩いて来た江口に追い越されたが、その時『お早うございます』と言ったような気がする。江口も傘をさし、レインコートを着ていたが、そのレインコートの色がピンクであったことを覚えている。江口はバスの停留所の方へ歩いて行ったものと思う。停留所は自宅から歩いて五、六分の所にある。自分はその朝鳩ヶ谷市内で買物をし、午前一一時過ぎごろ帰宅したが、そのころはもう雨はやんでいた。自分の近所に矢作という人がいて日記をつけているというので、自分はその人に会って昭和四六年一〇月一八日に雨が降ったのかどうか確かめたことがある。矢作さんは同月一七日と一八日の日記を読んでくれたが、一八日は雨が降ったということであった。
「自分は、前の証言の際に、自分が江口と会ったその日は、当時浦和市の岸中学校に在学していた長男は登校していて自宅にいなかった旨述べたあとで、検察官から昭和四六年一〇月一七日は父親参観日であり、翌一八日はその代休日で、学校は休みだったのではないかと質問されたが、自分はその日は長男は登校していた旨の証言を維持した。その日は長男は学校に行っていたと思っていたし、そういう記憶が残っている。」
以上のとおりである。
しかし、証人高森の供述には疑問があるといわざるを得ない。すなわち、川口消防署作成の川口市気象日報(証一八一号。その作成関係につき証九九冊二四五六〇丁・二四五六一丁参照)によれば、昭和四六年一〇月一七日は降雨の記録はなく、降雨量は零であり、同月一八日は午前三時から午前八時までの時間帯に降雨の記録はあるがその他はなく、同日の測定し得た降雨量は午前三時から午前四時までが〇・八ミリメートル、午前四時から午前五時までが一・〇ミリメートルであるに過ぎず、その他は零であること、また、川口市立グリーンセンター作成の気象観測簿(証一八〇号。その作成関係につき証九九冊二四五六二丁・二四五六三丁参照)によれば、同月一七日は降雨量は零、同月一八日は午前は曇であって、同日の降雨量は二・五ミリメートルであることが認められるが、これらの記録に徴すれば、隣接する鳩ヶ谷市(桜町)において、同月一七日夜から一八日朝にかけて、高森証人の供述するように夜来の降雨があり、一八日午前九時ごろには、「すごく降っていた」とか「かなり激しく降っていた」というような状況であったものとは到底認めることができない。また、かりに高森証人の前の証言の時点に立って考えるとしても、同証人が三年五か月もの前の日常的な出来事についてあまりにも詳しく記憶を喚起していることは、不可解といわなければならない。さらに、同証人は、当日長男の中学校が休校日であるのに自分が江口と会ったその朝は登校していた記憶があるという点も同様である。以上のとおりであり、その他同証人と江口ないし江口の家族との親近性等の事情を考慮すれば、同証人の前記供述には疑いを挾まざるを得ないのである。
さらに、江口自身の前記供述について見ても、この供述をした増渕・前林二三回・二四回公判から約三年も前の日常的な出来事の記憶を喚起し得るかとの疑問はしばらく別としても、一〇月一八日当日の午前九時ごろ「大したことはないが雨が降っていた」との点は、前記各気象観測記録に徴してこのような降雨があったこと自体疑わしいばかりでなく、降雨の状況についても証人高森の前記のような供述と相違があるといわざるを得ないし、また、江口はバスの停留所の近くで高森と会ったと述べるのに対し、証人高森は自宅から一〇〇メートルぐらいの所で江口と会ったと述べており、ここにも差異があるものである。
そして、証人高森の供述のほかに江口の供述を裏づけるものはなく、結局、当日午前九時ごろ鳩ヶ谷市の家を出発して東京駅に赴いた旨の江口の供述は、にわかに信用することができないものである。
② 当日午前一〇時二〇分東京駅発の新幹線ひかり号に乗った旨、及び第二分科会にはその開会当初から出席した旨の江口の供述の信用性
昭和四六年一〇月一八日当日の東京駅での乗車時刻及び大阪到着後の行動についての江口の供述は、前記のように変遷があるが、最終的には、要するに当日午前一〇時二〇分発の東京駅発の新幹線ひかり号に乗車し、新大阪駅からは国電と思われる電車で大阪駅に着き、近くの新阪急ホテルと思われるホテルのロビーで翌日の宿泊場所の選定のことで二、三〇分時間を費やした後、地下鉄で途中一、二回乗り換えて谷町九丁目駅で下車し、歩いてなにわ会館に行く途中、都立衛生研究所の職員の女の人(名前は思い出せない。)と会い、また、その先で同じ職員の安田という男の人と会い、第二分科会が始まる時刻が午後二時三〇分か四〇分だったと思うがそれに十分間に合う時刻になにわ会館に着き、都立衛生研究所の人たちと一緒に一階の喫茶室でジュースか何かを飲んで時間を費やした後、第二分科会にその開会当初から出席したというのである。
しかし、証拠によれば、江口が当日第二分科会に開会後に出席したとの事実は認められるが、その余の事実は認め得ないものである。
すなわち、まず二三五回証人安田和男、同冠政光及び同広門雅子の各供述(一二四冊四四三九一丁以下)並びに広門雅子の検面(証九九冊二四五四九丁)によれば、これらの者は、いずれも都立衛生研究所の職員で、当時江口と顔馴染のものであり、昭和四六年一〇月一八日になにわ会館に赴き、いずれも第二分科会の開会前に会場に入り、開会当初から同分科会に出席していたものであるところ、いずれも地下鉄谷町九丁目駅から歩いてなにわ会館に向かう途中に江口と会ったことはなく、また、なにわ会館に着いてから第二分科会の会場に入るまでの間に江口を見かけたこともなく、さらに安田和男と広門雅子は、第二分科会の開会直前ごろ会場を見渡した時に数名の都立衛生研究所の職員を見かけたが、江口を見かけたことはなく、ようやく広門雅子が第二分科会の終了直後ごろ会場外の廊下で江口と会ったことが認められる。なお、前記講演要旨(証二三七号)の記載によれば、第二分科会の開会予定時刻は午後二時四五分となっているところ、右証人三名の各供述に徴すれば、開会が特に遅れたとの事実は窺われず、また、前記各証言等によれば、当日出席した都立衛生研究所で安田姓の者は安田和男のほかにはいなかったことが認められる。
つぎに、江口は、検察官の取調においては午前一一時ごろ東京駅発の新幹線ひかり号に乗った旨供述していたところ、併合前の増渕及び前林に対する公判における証人としてはじめて午前一〇時三〇分ごろ東京駅発のひかり号に乗ったこと、及び大阪駅の近くで翌日の宿泊所を選定するために時間を費やしたことを供述するに至ったものである。そして、江口は、このように供述を改めた理由について、検察官の取調の際には大阪駅の近くで時間を費やしたことを忘れていたこと、また、警察の取調では午前一〇時半ごろ発のに乗ったと言った気がするが、警察からお前そんなに早く行っていないぞと強くいわれて、はっきりした記憶がないまま午前一一時発のに乗ったということで調書が作られたことを挙げている。しかし、江口の前記各検面自体から窺われる、新幹線ひかり号の切符を買い、当日これに乗って大阪に行き、なにわ会館に到着するまでの間の経緯に関する供述状況等に徴すれば、その供述の際に、午前一〇時三〇分ごろ発のひかり号に乗ったとの記憶であるのに警察官からいわれるままに午前一一時ごろ発のひかり号に乗ったと供述してしまったとか、途中大阪駅近くのホテルに寄り翌日の宿泊場所を決めたことを忘れたとかは、容易に信用し得ないところである。
そして、このように検討すると、江口の、昭和四六年一〇月一八日は午前一〇時二〇分東京駅発の新幹線ひかり号に乗った旨、及び、地下鉄谷町九丁目駅からなにわ会館に赴く途中で安田和男らの都立衛生研究所の職員と会ったことがあり、同会館到着後第二分科会の開会まで時間的余裕が十分にあり、同分科会にその開会当初から出席していた旨の供述は、信用し難いものといわなければならない。
なお、前記「講演要旨」一二頁及び一三頁(第二分科会の最初の講演の要旨記載の箇所)に江口の書込みがあるが、このことをもって、右認定に反して江口の右供述の裏づけとするには足りないものである。
以上のとおりであって、江口が昭和四六年一〇月一八日午前一〇時二〇分ごろに東京駅からひかり号に乗車して大阪に赴き、なにわ会館における第二分科会にはその開会時から出席していたとの点は、結局これを認めることができないものである。
第三節日石事件に関する坂本のアリバイ
弁護人は、坂本は、昭和四六年一〇月一八日午前八時三〇分ごろから午後六時過ぎごろまで、終日、勤務先の東京都中央区所在「月島自動車」において自動車整備等の作業に従事していたのであって、同日の作業状況からして、長時間職場を抜け出し千葉県陸運事務所習志野支所に赴く余裕などはなかった旨主張する(弁論要旨・一六二冊五三九〇六丁)。(員)河野三郎外一名48・4・23実査(謄)(証八一冊二〇三一三丁)によれば、日石本館前から習志野支所まで自動車で一時間一一分(四一・六キロメートル)を要したというのであるから、坂本が日石リレー搬送に関与するためには、月島自動車から新橋第一ホテル前までの所要時間及び同所での待機時間等を含め、午前一〇時過ぎごろから少なくとも二時間三〇分は勤務先を抜け出す必要がある。そこで、坂本が日石事件当日右程度の時間勤務先を抜け出すだけの余裕があったかどうかを検討する。
① 弁護人の主張によれば、坂本の日石事件当日の月島自動車における仕事内容はつぎのとおりであるという。
午前九時ごろから同二〇分ごろにかけて、佃運輸から依頼されたエルフ車四四あ八〇二号のタコメーター等の修理をした。
その後、同日午前中に月島自動車に持ち込まれた協栄運送のダイハツ車四う一五四号のミッション等の脱着作業を高田と共同で行い、これに二、三時間を要した。
その後、同月一六日夕刻月島自動車に持ち込まれた協栄運送のセドリック車四う一四二九号の板金塗装等の作業を午後六時過ぎごろまで行い、同日中に完了した。
② 右作業のうち重要なものはであるが、二二六回及び二二七回公判における証人斎藤武吉の供述(一一七冊四二四一九丁以下・一一八冊四二八八七丁以下)によれば、二六年間の経験を有する同人が作業をするとした場合六、七時間を要するというのであるから、板金塗装の技術を有しているとはいってもその習熟の度合において不十分な坂本が右作業を行うとすれば右以上の時間を要するものと思われる(当時月島自動車において板金塗装の技術を有していたのは坂本のみである((刑事三部七回証人辻道雄の供述・証九九冊二四六一五丁、増渕・前林一四回証人坂本の供述・増渕・前林六冊二〇二〇丁以下)))。そうだとすれば、右作業だけでもほぼ終日を要するものと思われ(増渕・前林一四回証人坂本の供述・増渕・前林六冊二〇一六丁以下。なお、坂本が昭和四八年四月一三日逮捕当夜作成したとされるメモ((証七九冊一九七六五丁))にも、協栄運送のセドリックの板金塗装、ブレーキ調整、クラッチ調整、エンジン調整は一日一杯の仕事であるとの記載がある)、坂本が右作業の合間に抜け出して日石リレー搬送に加わるのは困難なように思われる。
③ ところで、検察官は右セドリックが修理のために月島自動車に運び込まれたのは一〇月一五日夜か遅くとも同月一六日の朝であり、同日中に右セドリックの修理が相当程度進捗していた(同月一七日は日曜日で休日)旨主張する(論告要旨二九三頁以下・一五六冊二五九四二丁)。二二四回公判における証人小峰八郎の供述(一一五冊四一九〇九丁以下)等によれば右セドリックが損傷したのが一〇月一五日であることは認められるが、右小峰証言によれば結局同日には右セドリックを修理に出していないと思うというのであり(一一五冊四一九三六丁)、また、故障車を長く放置することはなかったと思うので翌日朝か午前中に修理に出したと思うが、自分が車を持って行ったかどうか覚えていないというのであって(一一五冊四一九二四丁・四一九三三丁以下・四一九三五丁以下)、推測に基づくものであり、検察官の主張を十分裏付けるに足りるものではない。月島自動車の作業伝票(写)(証八二冊二〇三八二丁)には右セドリックについては同月一六日受付、同月一八日完成との記載があるので、右セドリックが月島自動車に持ち込まれたのが同月一六日である可能性が高いが、持ち込まれた時刻を知ることはできない。刑事三部七回証人辻道雄の供述(証九九冊二四六一五丁以下)によれば右セドリックが持ち込まれたのは同月一六日の夕方じゃなかったかと思うというのであり、検察官の主張に反する。辻証人は坂本の同僚であって坂本に有利な証言をする可能性を考慮すべきであるので、直ちに右辻証言を採用するのは相当ではない。しかし、他に右セドリックが同月一六日のいつごろ月島自動車に持ち込まれたのかを認めるに足りる十分な証拠は提出されていないのであり、右辻証言及び右セドリックの修理は同月一八日に着手した旨の坂本の弁解も不合理であるとすることはできないので、結局右セドリックが同月一六日夕刻に月島自動車に持ち込まれ、同月一八日に坂本が修理に着手したとの疑いが残る。すなわち、坂本は同月一八日ほぼ終日右セドリックの修理等の作業に従事し(その他の若干の作業にも従事しているかもしれないが必ずしも判然としない)、その合間に約二時間三〇分にわたり勤務先を抜け出すような余裕はなかったのではないかとの疑いが残るのであり、坂本のアリバイ主張は成立する余地がないとはいえない。しかし、これを決め手とすることはできない。
第四節土田邸爆弾の寄蔵に関する被告人中村(泰)のアリバイ
検察官は、中村(泰)は昭和四六年一二月一一日東京都八王子保健所における宿直勤務時に増渕及び堀から爆弾一個の保管を依頼されて預かったものであり、中村(泰)のアリバイは認められない旨主張し(論告要旨二九六頁・一五六冊五二九四三丁)、これに対し、弁護人は、中村(泰)にはアリバイがある旨主張するところ(弁論要旨・一六二冊五三九二四丁)、すでに判示したように、検察官の右主張事実に沿う中村(泰)の各検面及び員面の信用性には疑問があり、結局検察官の右主張事実は証明がないのであるが、なお、この際、弁護人の右アリバイの主張について判断を示しておくことにする。
一、中村(泰)の供述の要旨
中村(泰)がこのアリバイを供述するに至ったのは、漸く二四九回公判(昭和五六年一二月一五日)においてである。すなわち、二四九回・二五一回・二五二回中村(泰)の供述の要旨は、つぎのとおりである。
「自分は、昭和四六年一二月一一日は八王子保健所で宿直していない。当時自分にはC子という恋人がいたが、同女の妹で東京農工大学学生であったD子(当時C姓)が昭和四六年一二月一一日午後六時から東京都府中市立福祉会館児童ホールで開催された同大学竹桐会(琴と尺八の同好会)の定期演奏会に出演するので、自分はC子と一緒に同演奏会に出かけたものであり、同日はその後も八王子保健所には行っていない。八王子保健所における同日の宿直者には約一か月前に一応庶務係長中橋辰右衛門が予定されたが、自分はその予定がされた直後ごろ同人から頼まれて同日の代直を承諾し、代直命令簿(その(写)は九九冊二四五三八丁以下)に自分で認印して代直命令を受けた。その後C子から右竹桐会の演奏会に一緒に行くかどうかを確かめられ、その日と代直の日とが重なっていることがわかったので、同日の前日だったと思うが、中橋に対し代直をことわったところ、『自分(中橋)が何とかするから代直命令簿はそのまま君の名前にしておいてくれ』といわれた。中橋は庶務係長であったので、このくらいのことは裁量でできるのだと思った。一一日に実際誰が宿直したのかは今でも知らない。翌々日の一三日(月曜日)の朝中橋に呼ばれ、宿日直日誌(証一七九号)の一二月一一日の欄に記入するようにいわれ、同人のいうとおりの事項を記入し、署名捺印したものである。右演奏会では入場者にアンケート用紙が配られ、記入後回収されたが、自分もC子と一緒に演奏終了後同用紙に記入して提出した。記入済みアンケート六九枚(証一九五号)の中の『③』の質問項目につき『ポピュラー、ジャズ、ロック』にそれぞれ丸がつけられ、『④』の質問項目につき『トランペット、ホラ(?)』にそれぞれ丸がつけられ、かつ、『その他』の欄に『サキソホーン、エレクトーン』と記入され、末尾に『ゴクロウサマ』と記入されている一枚(以下、かりに『アンケート甲』という。)がそれであり、自分が自分の万年筆で書いたものである。もっとも、末尾の『ゴクロウサマ』とあるのはC子が書いた。また、『③』の質問項目につき『ポピュラー』に丸がつけられ、かつ、『その他』の欄に『フォーク』と記入され、『④』の質問項目につき『ギター、ホラ(?)』にそれぞれ丸がつけられ、かつ、『その他』の欄に『オルガン』と記入され、『⑧』の質問項目につき『アンケートがイカッタ』と記入されている一枚(以下、かりに『アンケート乙』という。)はC子が自分(中村(泰))から右万年筆を借りて書いたものである。自分は、このように昭和四六年一二月一一日の晩は竹桐会の演奏会に行っており、八王子保健所にはいなかったが、昭和四八年の捜査段階で本件につき取調を受けた時にはこのことを忘れており、第一回公判(同年六月二九日)後の夏ごろに思い出したが、今までこのことを法廷で供述しなかったのは、弁護人の指示によるものである。」
以上のとおりである。
二、検討
そこで検討すると、中村(泰)の右供述に沿う証拠として、まず、二五三回証人C子の供述(一三八冊四八一一〇丁)は、「自分は、昭和四六年一二月一一日の晩は、中村(泰)と一緒に竹桐会の演奏会を聴きに行き、演奏が終わった後会場で同人と一緒にアンケート用紙に記入した。アンケート甲は同人が書いたものであるが、末尾の『ゴクロウサマ』の文字は自分が書いた。アンケート乙は自分が書いた。その後昭和四八年の中村(泰)の第一回公判の前ごろだったと思うが、中村(泰)の弁護人の木川恵章弁護士から『昭和四六年一二月一一日について何か記憶に残っていることはないか』旨尋ねられ、家で母に話すと、母はその頃の家計簿を見て『中村さんとお琴の会に行ったのじゃないか』と言うので、自分の部屋に残っていたその演奏会の案内とプログラムを手に取って見たところ、演奏会の日が昭和四六年一二月一一日であることがわかるとともに、当日中村(泰)と一緒にアンケートを書いて提出したことを思い出した。そこで、妹のD子に頼んで竹桐会の人から同会に残されていたアンケートを借りてもらった。合計六九枚あったが、その中にアンケート甲と同乙もあったので、そのコピー(証二〇五号)を作り、自分の手紙(証二〇六号)を添えて封筒(証二〇七号)に入れて木川弁護士宛に送付した。その後アンケート六九枚を同弁護士に渡した。なお、アンケート乙は当日中村(泰)から万年筆かなんか借りて書いたと思う。右一二月一一日は演奏会のあと午後一一時ごろ帰宅したが、中村(泰)は家まで送って来てくれた。昭和四八年四月ごろ警察の取調を受けた時、昭和四六年一二月一一日は土曜日だから自分は中村(泰)とデイトしているはずだと述べたが、警察官は記憶違いだろうといって取り上げなかった。その後本件について裁判所で証言する機会はあったが、右一二月一一日に中村(泰)と竹桐会の演奏会に行ったということは、特に質問を受けなかったので、述べなかった」というものである。
つぎに、二五三回・二五四回証人D子の供述(一三八冊四八〇四二丁、一三九冊四八二四五丁)は、「自分は東京農工大学の学生で竹桐会の会員であったが、昭和四七年に竹桐会の会員をやめた。その後昭和四八年四月以降一二月までの間であったと思うが、姉のC子から『昭和四六年一二月一一日の竹桐会定期演奏会のアンケートが残っていたならば借り出してもらいたい』旨頼まれて、会員の小林英逸に頼んで、同人からアンケートを借り出し、そのままC子に渡した」、というものであり、二五七回証人小林英逸の供述(一四一冊四八八五八丁)は、「昭和四八年ごろと思うが、D子から頼まれて、竹桐会の部室から、昭和四六年の定期演奏会のアンケートを持ち出して同女に渡した」というものである。
さらに、二五六回証人木川恵章の供述(一四一冊四八六七五丁)は、「自分は昭和四八年八月末か九月初めごろ、C子からアンケート甲及び乙のコピーを同封した手紙をもらい、その後同女からアンケート六九枚を渡された。それが中村(泰)のアリバイの証拠であることはわかっていたが、裁判所に対しこのアリバイを主張すると同人の保釈が許されなくなるのではないかと考えて直ちに主張することはせず、また、本件の弁護団会議で弁護の方針として、アリバイの主張は、すでに主張されているものを除いて、検察官側の立証が済んでから行うことと決められたためにその後も主張しないで来たものである」というものである。
しかし、その他の証拠に徴して検討すると、中村(泰)の右アリバイの供述及びこれに沿う証人C子の供述は、いずれも措信することができない。
すなわち、中村(泰)の前記供述中、「自分は、当時の勤務先八王子保健所において、昭和四六年一二月一一日の代直命令を断り、同日は代直しなかった」旨の部分は、同保健所の当時の庶務係長であった二五六回証人中橋辰右衛門の供述(一四一冊四八七四四丁)、及び当時同保健所に勤務していて昭和四六年一二月一二日の日直をした二五六回証人世良美代子の供述(一四一冊四八八〇三丁)、並びに前記代直令令簿(写)及び宿日直日誌に照らして信用することができず、中村(泰)は右一二月一一日は代直をしたものと認められるのである。
また、前記証人小林英逸の供述、二五七回証人中田勝久の供述(一四一冊四八八九六丁)及び二五九回証人亀下英次郎の供述(一四二冊四九二〇七丁)並びに前記アンケート六九枚によれば、小林英逸が昭和四八年にD子から頼まれ竹桐会の部屋からアンケートを持ち出した当時、同アンケートはダンボール箱の中に未記入のアンケート用紙と一緒によく整理されないで入れられていたもので、かつ、小林は、一枚一枚を点検することも、枚数を数えることもなく持ち出してそのままD子に渡したものであって、その中に未記入の用紙も混じっていた可能性があること、昭和四六年一二月一一日の竹桐会定期演奏会の数日後、当時竹桐会の部員であった小林英逸、中田勝久、亀下英次郎ら数名は、部室においてアンケートの集計をしたこと、アンケート(証一九五号)の中の一枚に、いずれも鉛筆で、質問事項「①」の「男」の文字の上に「38」、「女」の文字の横に「30」、「都区内」の文字の下に「21」、「三多摩」文字の下に「36」、「その他」の文字の下に「11」、裏面に「男38、女30」と記載され(以下、かりにアンケート「丙」という。)、また、他の一枚の裏面に鉛筆で「女38、男30」と記載されたもの(以下、かりにアンケート「丁」という。)があるのは、右集計の結果をメモ書きしたものであり、当日集計の対象となったアンケートは合計六八枚であったこと、もっとも、右アンケート丁の上の方に鉛筆で薄く「」と記載されているが、これは、アンケート記入者合計六八名から三多摩地区居住者三六名及びその他一一名合計四七名を差し引こうとして、本来「二一」となるべきところを誤って「一九」と記載したものであること、アンケート甲の質問事項①には「男」、「三多摩」の項に、同乙の質問事項①には「女」、「三多摩」の項にそれぞれ丸がつけられていること、本件公判で弁護人の請求により取り調べて領置してあるアンケート(証一九五号)は合計六九枚であること、この六九枚につき質問事項①の男女別の記入を集計すると、男三〇枚、女三九枚、三多摩三七枚となること(前記アンケート丙の裏面に「男三八、女二〇」と記載されているのは「男三〇、女三八」の誤記であること)がそれぞれ認められる。
そして前記証人中橋辰右衛門及び世良美代子の各供述並びに代直命命簿(写)及び宿日直日誌の各記載に照らして中村(泰)は右一二月一一日八王子保健所で代直をしたものと認められることをも考慮しつつ、右のようなアンケートの集計状況及びアンケートが小林英逸により竹桐会部室から持ち出されてD子に渡された時の状況を検討すれば、中村(泰)及び証人C子の前記各供述中、中村(泰)が昭和四六年一二月一一日の竹桐会定期演奏会の会場でアンケート甲に記入をした(その末尾の「ゴクロウサマ」の文字はC子が書いた)旨の部分は、いずれも信用することができないのである(なお、小林英逸らによる右アンケートの集計後に加えられた作為がアンケート甲の混入だけであるとしてであるが、アンケート甲を除くその余の六八枚を現在集計してみると「男」二九枚、「女」三九枚となり、小林らの集計後のメモ書きと一致しないが、その理由は明らかでない)。
また中村(泰)は、竹桐会演奏会の出演者の服装は和服であった旨述べているが(一三七冊四七九一二丁以下)、その演奏状況のスライド写真四枚(証一九八号ないし二〇一号)によると洋服であったことが明らかであり(前記のとおり、中村(泰)は昭和四八年の第一回公判後ごろにはアリバイに気づいていたというのであるから、右服装の点に関する供述がその後の年月の経過に伴う思い違いであるとは考え難い)、その他、演奏会の状況に関する中村(泰)の供述には不自然なところが見受けられる。
さらに、中村(泰)は、第二四九回公判に到るまでの間に右アリバイを主張しようと思えば、いつでも容易に主張することができ、また当然これを主張するはずであったと考えられるのに、同人は、証人又は被告人として供述するに際し、昭和四六年一二月一一日が八王子保健所における宿直日であったことを尋問者(質問者)から指摘されながら何らこれを否定することがなかったものであり(増渕・前林一九回証人供述・増渕・前林九冊三一二〇丁、三三回被告人供述・一五冊五五〇五丁参照)このことも前記アリバイの供述の信用性を疑わせるものといわざるを得ないものである。
以上のとおりであって、中村(泰)の前記アリバイは、これを認めることができない。
第五節土田邸爆弾寄蔵に関する被告人増渕及び同堀のアリバイ
弁護人は、堀及び増渕は昭和四六年一二月一一日か一二日夜は横浜市所在の堀の実姉であるE子方へ石油ストーブ一台を取りに行っており、これが同月一一日夜のことだとすれば八王子保健所において堀及び増渕が中村(泰)に爆弾の保管を依頼することはあり得ない事実であったことになる旨主張する(弁論要旨・一六二冊五三九三四丁以下)。しかし、そもそも右はアリバイとなる可能性があるというにとどまる主張であり、この主張に沿う証拠としては堀及び増渕の公判廷における供述のほか、一九〇回公判における証人F子及び同E子の各供述(九一冊三四四八八丁以下・三四五九七丁)があるが、両証人はいずれも堀の実姉であってことさら堀に有利な証言をする可能性があり、また、証言内容に不自然な点もあり、さらに堀及び増渕は日を特定した供述をしているものではないのであって、結局一二月一一日夜の増渕、堀両名についてのアリバイが成立するものとすることはできない。
第六節土田邸事件に関する被告人前林のアリバイ
当裁判所は、南神保町郵便局における前林の土田邸爆弾差出しについて述べる増渕及び松本の供述調書の取調請求をいずれも却下しており、前林の土田邸爆弾差出しに関する証拠は存しないこととなったので、この点に関するアリバイ主張について判断を示すことは実益がないが、重要な争点の一つであったもので、論告及び弁論においても右アリバイ主張に言及されているので、簡単に当裁判所の判断を示しておくことにする。
弁護人は、「前林は、昭和四六年一二月一七日は、午前八時五一分に勤務先の東京都武蔵野市吉祥寺所在岡田香料株式会社に出社し、午後六時二四分に同社を退社したもので、その間、午後五時ごろまで上司と共にアルページュ香料調合の仕事をし、その後上司とボーナス査定の問題について話合いをしていた。また、昼休みである午前一二時少し過ぎごろ富士銀行吉祥寺支店において自己名義の普通預金口座より六、〇〇〇円の払戻し手続をした。従って、前林は同日午前一一時三〇分ごろ阿佐ヶ谷駅で増渕及び松本と落ち合い、自動車で駿河台下交差点に赴き南神保町郵便局で土田邸爆弾を差し出すということは不可能である」旨主張する(弁論要旨・一六二冊五三九〇九丁以下)。
検察官は、右主張に対し、岡田香料株式会社は社長以下一四名の小規模な会社で勤務管理が厳格でなく、前林の仕事は簡単な助手的な仕事等で外出もかなり自由であり、前林において適宜口実を設けるなどして外出することは容易であった旨、また、普通預金払戻手続については第三者に代行させることが可能であり、本件払戻請求書の記載は署名欄と日付、金額欄の文字が異なっているという疑点があることに照らせば、前林自身が当日前記富士銀行吉祥寺支店に赴いたとすることは到底できない旨反論している(論告要旨三〇九頁以下・一五六冊二五九五〇丁以下)。
そこで検討するに、まず、一六〇回証人岡田啓及び同橋本義二の各供述(七五冊二八六九一丁以下・二八八一八丁以下)、二四三回証人堂垣省三及び同矢萩節の各供述(一三一冊四六一〇三丁以下・四六二一三丁以下)、前林の出勤表四枚(証二四九号)、預金払戻請求書一枚(証二一〇七号の六九)によれば、弁護人の右主張のうち、検察官の反論する部分以外の事実はこれを認めることができる。つぎに、検察官の反論について検討すると、岡田証言及び橋本証言を総合すれば、前林が長時間(約三時間余)私用で外出することが容易である状況は窺われず、むしろ、当時はアルページュ香料調合の仕事で忙しい時期であり、前林が私用で長時間外出することはしにくい状況にあったことが窺われる。また、当日午後五時ごろから前林と同僚の沼山迪がボーナスの査定につき岡田専務らに抗議をしているが、ボーナスは一二月一一日ごろ支給済みであり、前林が同月一七日の昼間私用で長時間外出しながらその日に右のような抗議をするということも心理的に抵抗があろうし、当日の出社がアリバイ工作の意味を持っているのならば、長時間私用で外出しているではないかとの反論を受け、当日の外出を上司に印象づける虞れがあるような行動を取ることもいささか不自然なように思われ、しかも、石岡田証言及び橋本証言によれば前林らからボーナス査定について抗議を受けたが、その際前林の外出が話題に出た記憶はないというのであり、この点も前林が当日長時間外出していたとすれば不自然さが残るところである。普通預金の払戻手続については、本件払戻請求書の署名欄の記載と日付、金額欄の記載とでインクの濃淡に差異が認められ(筆跡が異なるかどうかについては判然としない)、その作成の経過については疑念がないではないが、反面これをアリバイ工作と見た場合、やや周到さに欠け不自然なようにも思われる。また、前林は捜査段階においてこの払戻手続をしたとの主張を全くしていないこと、前林の富士銀行吉祥寺支店の預金関係についての弁護人の調査が開始されたのは昭和四九年一二月という比較的遅い時期であること(東京弁護士会会長50・2・5「照会の回答書交付等証明書」・証九九冊二四五七六丁)、本件払戻請求手続の時刻が特定されたのは請求書に押捺された印からこれを処理したのが昼休みに臨時に窓口業務を担当した行員であることが判明し、また、メインセイバー(オンラインコンピューター端末機)である二号セイバーで処理され、その進行番号から右処理がされたおおよその時刻を見ることができたという幸運によるものであること、松本の自白の経過を見ると、当初前林の欠勤を前提とし、かつ、土田邸爆弾差出しの時刻につき右払戻手続と両立し得る時刻を述べていることなど、右払戻手続を前林についてのアリバイ工作と見るには不自然な点がある。以上のとおりであり、弁護人の前記主張は成立する可能性がある。
第七節土田邸事件に関する松本のアリバイ
弁護人は、松本は昭和四六年一二月一七日植木の仕入のため東京都練馬区所在の日観東京西部植物市場に出向いており、土田邸爆弾小包を南神保町郵便局付近まで自動車で搬送することに関与することは不可能であった旨主張する(弁論要旨・一六二冊五三九一七丁以下)。
この点についても前林の土田邸爆弾差出しに関するアリバイ主張について述べた(前節参照)のと同様の理由により判断を示すことの実益はないが、簡単に当裁判所の判断を述べると、つぎのとおりである。
弁護人の右主張に沿うものとしては松本の公判廷における供述のほかには、二一九回証人の滝口修男の供述(一一〇冊四〇六三五丁以下)及び二二〇回証人峰岸哲の供述(一一一冊四〇八四六丁以下)二二二回証人松本みさほの供述(一一三冊四一二四六丁以下)がある。しかし、滝口証人は、本件当時松本の両親が経営する松本商店にアルバイトとして働いていた者で同商店でアルバイトをしていた女性と知り合って後に結婚したという経緯もあり、松本商店との関係が途絶えることはなかったものであり、証人峰岸は本件当時松本商店の従業員でその後松本の姉と結婚するに至った者、証人松本みさほは松本の実母である。右各証人の立場を考えるときは、これらの者はことさら松本に有利な証言をする可能性があり、右各証言に直ちに信を措くことは相当でないというべきである。また、何年も前の過去の特定のある日に松本が前記市場に出向いているかどうかについてこれらの者が記憶を喚起できるかどうかについては疑問もあり、記憶喚起の根拠について述べられているところも必ずしも説得力が十分であるとはいえない。記憶喚起の一根拠として松本商店では同月一五日二トン車を新たに購入し、それを初めて業務に使用したのが同月一七日であったことが述べられているが、右二トン車を初めて使用したのが同月一七日であることを十分裏付けるに足る証拠があるとはいえない、以上に述べたところからすれば、これらの証言等に依拠して直ちに松本の前記アリバイ主張が成立するものとすることはできない。
第九章結語
本件証拠調の結果によると、増渕、前林、堀、江口が日石土田邸事件の犯人であるとの疑いがあるが、犯罪の証明があるということはできず、また、榎下、中村(隆)、松村、中村(泰)、金本については、それぞれ証拠関係に差異はあるが、概していえば、それぞれ起訴された事件の犯行に関与しているのではないかとの疑いは残るものの、犯罪の証明があるということはできず、従って、これらの被告人ら九名に対しては、刑訴法三三六条により日石土田邸事件の当該公訴事実につきいずれも無罪の言渡をすべきものである。
思うに、本件の捜査を見るのに、捜査当局は、昭和四八年一月二二日増渕をアメリカ文化センター事件により逮捕し、以後同人を麹町警察署に留置し、一日の休みもなく警視庁取調室に連行して同事件及び八・九機事件につき連日相当長時間にわたり取調をし、同年三月六日八・九機事件の起訴をもって一応その取調を終わったが、当時日石土田邸事件が増渕らの犯行であることを直接に窺わせる証拠は既述のプランタン会談に関する佐古の供述程度の不十分なものであったけれども、引き続いて、起訴後の勾留を利用し、増渕を三月七日以後もそれ以前と同様連日警視庁取調室に連行して夜間遅くまで土田邸事件について追及したものである。そして、その追及状況は、司法警察員作成の三月七日取調状況の報告書によれば、当初から増渕を土田邸事件の犯人と断定し、弁解を聴こうとするのではなく「清算」すなわち自白をせよと強く迫ったものであったことが認められる。そして、増渕から日石土田邸事件の自白を得るや、直ちに同人、堀、江口、前林を同事件で逮捕、勾留して厳しく追及し、併せて側面からの解明を意図し、あるいは増渕らから見るべき供述が得られず捜査の進展がはかばかしくないのに焦慮して、増渕、堀と交友関係のあった榎下、松本、金本、中村(泰)、松村を軽微な別件の犯人隠避事件で逮捕、勾留し(もっとも、金本、中村(泰)は勾留請求が却下された)、日石土田邸事件につき厳しく取り調べ、さらにこれらの者の供述から浮かび上った中村(隆)、坂本を逮捕、勾留して厳しく取り調べたものである(詳細は各調書採否決定参照)。このような捜査はいかにも性急に過ぎて無理があったといわざるを得ない。捜査当局は起訴後も捜査を続け、検察官は起訴後六年余にして黒田正典の鑑定書、証人鈴木茂等の新証拠の取調を請求し、当裁判所もこれを取り調べたが、その結果副産物として従来の証拠との重要な食い違いも生ずることになった。日石土田邸事件が極めて兇悪な犯罪であって、捜査当局が一日も早い犯人の検挙、事件の究明を目指していたことは十分に理解することができるが、今日捜査の過程を振り返って見るのに、より徹底した物証の検討、被疑者に対する取調開始に先立ってのより多くの証拠の収集や、令状主義の原則等への十分な考慮、取調に当たっての被疑者の供述態度ないし供述内容の細心の吟味等々、慎重な各般の配慮のもとに捜査に臨んでいたならば、あるいは事件の真相を解明することができたのではないかとも思われるのである。
よって主文のとおり判決する。
検察官親崎定雄、同今岡一容、同遠薬寛公判出席。
(裁判長裁判官 大久保太郎 裁判官小出錞一及び同小川正持は、転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 大久保太郎)
<以下省略>